宇品探訪記

かねてから気になっていた宇品にあるアンティークドールサロンに行ってきました。

こちらがアンティークドールサロンです。
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かわいらしい建物です。

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建物の半分はレンガ造りです。被爆建物とお聞きしました。

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中に入ると素敵な椅子に座ったお人形さんたちがお出迎えしてくれます。なるほど、こういうお部屋ならアンティークドールがしっくりくるわけですね…!
お人形はもちろんたくさんいて、一人一人表情や纏っている雰囲気が違いました。きっとそういうところがアンティークの持つ魅力ですね。

こちらで教えていただいたのですが、このような陶器でできたフランスやドイツのお人形(ビスク・ドール)は、はじめ愛玩用というよりはファッションを宣伝・伝達する役割を担っていて、大人の女性の姿のものばかりで少女や子供の姿のお人形はなかったのだそうです。1855年のパリ万博に出品された日本の市松人形に影響され、子供の姿をした人形が作られ始めたとのこと。知りませんでした…驚きです。

アンティークドールサロンではお人形やその服などの販売のほか、病院、つまり修理もされるそうです。見るだけでももちろんOKとのことでした。是非宇品に行かれる際にはお立ち寄りを!

アンティークドールサロンHPはこちら↓
http://antique-ds.com/index.html

宇品といえば港、そして海ですので、外国の客船も入ってくる立派な港や、海の見えるおしゃれなカフェにも行きました!新しいものと、戦前からある建物やアンティークドールなどの古いものが混在している、ディープな宇品の魅力を味わいました。また探索に行きたいです。

ちなみに大学時代にお世話になった先生が、以前広島で働いておられ、当時は宇品にお住まいだったのだそうです。宇品がいかに面白い場所であるか、普段淡々とした先生が珍しく少し饒舌に話してらっしゃったことを覚えています。私の反応がいまいちだったのか(私が広島出身であるにも関わらず)、そこまで話は発展しませんでした。
でも、今なら先生と少しは話が続けられる気がします。先生が宇品の街で潜水服が売られているのを見つけた話、今度はもっと興味を持って聞こうと思います。

また、広島県の方にも他県の方にも是非知っていただきたいのがこちら。広島の海の玄関・広島港ターミナルは、広島や近隣県の観光のチラシがとても充実しています。各地の名所や美術館はもちろん、伝統芸能などの情報もこちらで入手できます。
当館のチラシもおいてくださっています!見つけられますか?

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またどこかに遊びに行ったらブログでお知らせさせていただきます。
でもたまには学芸員らしく作品の解説をしようかなとも思います。私もきちんと竹内栖鳳展の準備をしていますので!

 

森下麻衣子

かなたからの手紙

展覧会のチラシが届きました。

20140704-1

北海道北見市、北網圏北見文化センターから…。

もしかすると、当館に届く中で一番遠い展覧会のチラシかもしれません。

後輩が北見で学芸員として頑張っていて、たまに案内を送ってくれるのです。「ご来館、お待ちしています」と書いた手紙とともに。その文面の軽さに、広島県廿日市市と北海道北見市の距離がどれだけあるか、忘れそうになります。あれ、結構簡単に行けるかも…?

後輩曰く、このデジタルアートの「天空のキャンバス KAGAYA星空アート」展、絵だけでなくプロジェクションマッピングあり、衣装を着て絵の世界に入りこんでのなりきり写真コーナーあり、併設のプラネタリウムでの作品上映ありの、かなり「ラグジュアリー」な展覧会なのだそうです。

北網圏北見文化センターへのリンクはこちら↓
http://business4.plala.or.jp/bunsen21/

面白そうです。私も行けたら行きたいです。行けたら…。

ちなみに当館では、各館からのお知らせのチラシ・ポスターは1Fエレベーター前のコーナーにおいてあります。

20140704-2

スペースに限りがあってなかなか難しいのですが、コーナーの担当者が展覧会の時期などを見てこまめに手入れをしながら、いただいたお知らせは全て(!)出しています。
先ほど述べた北網圏北見文化センターのチラシもこちらにお出ししておきますね。

ご来館の際には、是非こちらのコーナーで全国の美術館・博物館のチラシもお持ち帰りくださいませ。色々な展覧会に行きたくなることと思います!

 

森下麻衣子

虹・リベンジ!

6月14日のブログで、虹が出たところを写真に撮ったけれど、肝心の虹がほとんど写っていないとダメ出しされた旨をご報告いたしました。 しかし梅雨のこの時季、チャンスはまた巡ってくるもので…。

20140624「虹・リベンジ」1

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タマムシ発見

美術館に行く途中、「杜の遊歩道」の道の上でタマムシを発見しました。
この時期ということは、成虫になったばかりでしょうか。
20140620コガネムシ発見
なにかと戦って、疲れ果てた様子でした。背中が少しへこんでいます。
すくいあげて道から山中へ離すと、わずかに飛んで地面に着地しました。
がんばれタマムシ。

もりひこ

ナツメの花

美術館の入り口でいつもあいさつを交わすナツメの木。

20140620ナツメの花 (2)

近寄って見ると、葉っぱの付け根にたくさんの花を咲かせていました。

20140620ナツメの花 (1)
20140620ナツメの花

そういえばこんな歌がありましたね。

・あの子はだあれ だれでしょね なんなんなつめの 花の下
お人形さんと 遊んでる かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか

(作詞 細川雄太朗  作曲 海沼実  「あの子はたあれ」 1番の歌詞)

 

美術館入り口のナツメの木には被爆という戦争体験がありますが、この歌は戦時下という状況によって詩が変えられたという戦争経験があります。

“キングレコードでレコード化の際に、ディレクターの柳井尭夫が「戦時下に『泣く子』とはけしからん。『あの子』にしては?」と改作を申し出、そのほかの部分に至るまで、大幅な改作が行なわれました。” この改作のいきさつは、海沼実(實の孫)著『童謡 心に残る歌とその時代』(NHK出版、平成15年発行)に紹介してあります。さらに、柳井は以前に『仲よし小道』(三苫やすし作詞・河村光陽作曲)をヒットさせていたことから、縁起を担いで、原詩第一節の「ミーちゃん」(原詩の表記はミーチャン)を「みよちゃん」に変えました。第二節の「ユーちゃん」(原詩の表記はユーチャン)も、海沼と柳井にとって共通の友人で戦死した「内田憲二=けんちゃん」に変えます。<ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』による>

 

もりひこ

鹿を追いかけて

先日、お休みを利用して宮島に行ってきました。
晴れた日の宮島で食べるかき氷が好きです。

フェリー乗り場を出てすぐの場所で、
生え変わり途中の角を生やした鹿が闊歩していました。

当館の所蔵する竹内栖鳳筆《薫風遊鹿図》を思い出し、
実際にあのポーズを写真に撮ることを試してみました。

OLYMPUS DIGITAL CAMERA 20140610「鹿を追いかけて」2
栖鳳筆《薫風遊鹿図》  宮島の鹿

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ウツギ

この時季、あちらこちらで見る木です。生命力が旺盛で、下刈りの時にきられても、また力強く芽を出して花をいっぱい咲かせます。
20140602ウツギ (1)
20140602ウツギ (2)

木の材質は固く、腐れにくく、昔から釘の材料として使われてきました。美術館では掛軸や巻物を入れる箱に使われているのでおなじみです。
20140602ウツギ (4)
20140602ウツギ (3)木釘の場所を丸で囲みました。

この軸箱はちょうど100年ぐらいたったものです。長二が作った箱のように、継ぎ目はピクリともゆるんでいません。

三遊亭圓朝作 名人長二 より
「・・・幾ら使っても百年も二百年も毀(こわ)れずに元のまんまで居るというのァ仕事に精神(たましい)を入れてするからの事だ、精神を入れるというのは外じゃァねえ、釘の削り塩梅(あんばい)から板の拵(あつら)え工合と釘の打ち様にあるんだ、それだから釘一本他人に削らせちゃァ自分の精神が入らねえ・・・」

底本「圓朝全集 巻の九」近代文芸資料複刻叢書、世界文庫
1964(昭和39)年2月10日発行 青空文庫より転載

 

 

もりひこ

ツバメの巣ができました

現在当館は、6月7日から始まる「信仰と美術Ⅱ 仏と神のすがた」展に向けて展示替え作業を行っています。

その一方で、美術館のある場所でツバメの夫婦がせっせと巣作りをしており、こちらのほうはもう数日前に完成しました。
20140601「ツバメの巣ができました」
↑巣から頭だけ出しているツバメ。お疲れ様でした!
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大野村⇔宮内村

海の見える杜美術館から広島方面に向かう途中に村境の石柱がありました。

20140528大野村⇔宮内村  (1)大野 宮内 村境

当館は旧大野村にあるのですが、大野村が宮内村と境を接していたのはこの場所であったのだと、静かに教えてくれました。

この石柱がある道は大昔からの由緒があり、江戸時代には五街道のひとつ西国街道として重要な役割を果たしていました。その時に定められた二間半(約4.5m)の道幅そのままに現在に至っています。そしてこの石柱の立つ場所は、紀元600年ごろの伝説がある大野四郎由来の四郎峠にあります。現在「エコセンターはつかいち」がある場所です。

日ごろ通いなれた道でしたが、この石柱にいざなわれて、清盛が、秀吉が、そして幕末維新の志士たちが駆けたであろう光景が日常の風景に重なってみえたような気がしました。

20140528大野村⇔宮内村  (2)

いつの時代に建てられたのか気になりますが、この石柱には日付の記述がありません。下限ははっきりしていて、大野村が大野町になる1950年(昭和25年)4月1日より前です。上限は両村の呼び名が江戸よりずっと前からあったのではっきりしませんが、風化の度合いなどからみて、明治22年の市町村施行時に村境を確定のために設けられたものでしょうか。皆さんはどうお考えになりますか。

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もりひこ