芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー、開催中です

現在、海の見える杜美術館では「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展を開催しています。

本展は、古来より芸術家たちのインスピレーションの源であった「旅」に注目します。彼らは各地の名所旧跡を旅して様々な風物に接し、旅先での体験を自身の作品制作に活かしてきました。その様相を当館のコレクションでたどっていきます。

今回は江戸時代の巻子作品、与謝蕪村の《奥の細道画巻》をご紹介します。

俳聖・松尾芭蕉(1644~1694)の名著、俳諧紀行文『おくのほそ道』を、絵師であり俳諧師でもある与謝蕪村(1716~1784)が全文を巻子に書き写し、いくつかの場面に絵をつけるという趣向の作品です。

蕪村といえば、京都を代表する絵師の一人であり、また俳諧の宗匠としてもよく知られた存在です。絵と俳諧の両方を極めて、両者を融合させた「俳画芸術」を完成させたことが知られています。

本作が作られたのは安永7年(1778)頃ですが、この時期(18世紀後半頃)は、俳句を詠む俳諧師たちの間で、芭蕉の俳諧芸術を復興させようという運動が大いに盛り上がっている時期でした。蕪村も俳諧宗匠として蕉風復興運動を積極的に盛り上げていて、奥の細道をテーマにした制作もその一環といえます。

当館所蔵作品の他に、京都国立博物館に2点、逸翁美術館に1点、同様の巻子が現存しており、山形県美術館には屏風形式の作品も伝わっています。蕪村自身が「是等は最早愚老生涯の大業」と自負しており、芭蕉を顕彰する大仕事だという意欲がうかがえます。


与謝蕪村《奥の細道画巻》(部分・那須野)
1巻 江戸時代、安永7年(1778)(会期中巻替あり・前期)

さて、こちらは巻子の前半部分、江戸を出発した芭蕉と曾良が、那須野(現在の栃木県北部)にある黒羽というところを訪れた場面です。二人がある村で馬を借りたところ、村の幼い子供たちが二人、馬のあとをついてきたそうです。

なんとも愛らしい様子の二人は兄妹のように見えます。
何かの遊びの途中だったのか、棒きれを持った少年と、その後ろを一生懸命追いかける少女。
少女は「かさね」という名前でした。
名前までもが可憐な彼女の様子を感慨深く思い、曾良が有名な句を詠んでいます。

かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名(な)成(なる)べし 
(かさねとはとても可愛らしい名前だが、花に例えるなら花びらを八重に重ねた八重撫子だろう)

蕪村は本作の制作にあたり、このエピソードを『おくのほそ道』に取り上げた芭蕉の感動を最大限に汲み取って、幼い子供たちの可愛らしい無邪気な様子を丁寧に描いています。芭蕉が残した名文学を、いかに解釈して、詩と書と画で表現するか。俳画芸術の完成者として知られた蕪村の力量が光ります。

《奥の細道画巻》は全長18メートルを超える長大な巻子で、残念ながら当館展示室のケース内では全てを一度に展示することができません。(一番長いケースで14メートルはあるのですが、それでも足りません)
そのため、会期中に巻替えを行い、9月24日(日)までは画巻の前半部分、9月26日(火)からは後半部分をご覧いただけます。

ぜひ巻頭から巻末までお見逃しなくご覧ください。

うみもり香水瓶コレクション21 スキャパレリ社《太陽王》

こんにちは。今回のうみもり香水瓶コレクションは、ただいま香水瓶展示室に広告とともに出品しているスキャパレリ社の《太陽王》です。
スキャパレリ社創設者のファッション・デザイナー、エルザ・スキャパレリ(1880-1973)については、以前、このブログで同社の《ショッキング》をご紹介したときにも触れましたが、彼女は学識豊かな家庭環境で育ち、その深い教養に裏打ちされた奇想天外な発想で、当時の上流階級の女性たちがこぞって求めた、新しい女性像を提示するドレスやオブジェを作り出しました。
ファッション界で燦然と輝いたスキャパレリと、似たような個性を持つ芸術家の名を挙げるならば、それは今回の香水瓶をデザインしたサルヴァドール・ダリ(1904-1989)ではないでしょうか。彼もまたヨーロッパ伝統の教養深さを身に着けた上で、斬新奇抜な作品を次々と生み出し、時代の寵児となりました。

スキャパレリ社《太陽王》1946年頃、透明クリスタル、金、エナメル デザイン:サルヴァドール・ダリ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, LE ROY SOLEIL – 1946, Design by Salvator DALI, Made by Baccarat ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 そのダリとスキャパレリの共同制作ですから、平凡であるはずがありません。ルイ14世をテーマとしたこの香水瓶は、ギリシャ神話に登場する芸術の神アポロンに自らをなぞった王にちなんで太陽王が表現されています。香水瓶の栓がその顔になっているのですが、拡大してよく見てみると……!

顔のパーツがすべて飛翔する鳥で構成されています! ダブルイメージを自在に操ったダリの絵画を思わせる表現ですね。
しかもこうして出来上がった表情は、威厳と自信に満ちた王の表情というよりも、なんだかどことなく困惑したような……といいますか、ちょっと情けないくらいのもの(正直に言ってしまって、ごめんなさい!)になっているように見えるのは私だけでしょうか。ともにパリで才能を開花させたイタリア人のスキャパレリと、スペイン人のダリは、絶対王政の頂点に君臨した過去のフランス王に対して、ピリッと辛辣なユーモアを込めて表現しているのかもしれませんね。

さて、本作品に先立つ1937年にも二人の共同制作が行われ、そこで奇妙奇天烈な帽子やドレスが生まれたことは、以前ご紹介いたしました通りです。今回の作品は、いわばその続編なのですが、この10年足らずの間に、戦争という大きな出来事がダリの制作に影を落としたことは、香水瓶の意義を考える上で重要と思えます。
まず1939年、ダリは妻ガラとともに戦況の激しくなったパリを離れ、翌年、アメリカへ移住しました。ほどなくして1941年にニューヨーク近代美術館で同じスペイン出身の画家ジョアン・ミロとともに回顧展が催され評価をされたものの、時代はあくまでも第二次世界大戦中です。加えてアメリカでは、彼らのようなシュルレアリスムの作品を理解する人々はごく一部に限られていました。そのためダリは、望むような生活を続けるのに、経済的な問題を抱えることになります。そしてひとつの解決策として、自らもその一員であった社交界の人々から注文された肖像画を、この時期は数多く描きました。
また戦争は、ダリにとっては何よりも精神的な負担が大きく、彼の絵画はその影響が色濃く出ることとなりました。例えば、この時代の代表作である、荒野に苦し気な巨大な顔が出現する《戦争の顔》(1940-41年、ボイマンス=ヒューニンゲンゲン美術館、ロッテルダム)や《夜のメカラグモ……希望!》(1940年、サルヴァドール・ダリ美術館、セント・ピーターズバーグ)を見ていると、それはダリ一人が感じた不安ではなく、同時代に生きた無数の人々が感じていた行き場のない不安が、画布から一気に押し寄せてくるように感じられます。幼少期から感受性が人一倍強かったダリが、実際の戦火から遠く離れたニューヨークの社交界にあっても、どれほどの精神的負担を感じていたかが、うかがい知れるのです。

スキャパレリ社《太陽王》と同じ頃、ダリはあのアルフレッド・ヒッチコック監督とも共同制作を行っています。映画『白い恐怖』のなかで、グレゴリー・ペック演じる記憶を失った男性主人公の夢のシーンのイメージ画を制作しています。そしてこれがまた、非常に恐ろしい場面なのです。否、全編を通じて、ヒッチコックらしい手に汗握る恐怖を充分味わわされる映画なのですが、この映画でのそれは、戦時中のダリの絵画と共通する、抑圧された環境下での不安が引き起こす恐怖なのです。その上、グレゴリー・ペックが、『ローマの休日』の快活な新聞記者とは全くの別人となって、苦悩の末の諦念に達した『渚にて』における原子力潜水艦の艦長のときのように、ここでも重く苦しい胸の内を見事に演じているおかげで、ダリが作り出した夢の場面に私はすっかり釘づけになってしまいました。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima
現在の香水瓶展示室。ダリのデザイン画をもとに、マルセル・ヴェルテスが制作したポスターとともに12月25日まで展示しています。写真はI学芸員撮影。

さて以上のような、スキャパレリとの前回の共同制作から今回の《太陽王》までのダリの作品を踏まえて、本作品を改めて見てみると、意外なほどの明るさに驚かされます。香水瓶の胴体部分は、そのまま太陽王の胴体となっていますが、バカラ社製クリスタルの透き通った表面には、打ち寄せる無数の波形が刻まれています。これは、波間から現れるまばゆい太陽の光が表現されているのです。しかし、この清々しいまでの明るさは一体何を意味するのでしょうか?
本作品は、前述のようにルイ14世の治世へのオマージュとして制作されたと、これまでの香水瓶研究やスキャパレリ研究では解釈されているのですが、ダリ研究においては、第二次世界大戦におけるフランス解放を記念して制作されたとする説もあります。私としては、後者の説にも頷くところが多く、看過できません。
移住を余儀なくされるほど、身の置き場のない不安に苛まれる戦時を経て、ようやく迎えた終戦。このような環境の変化が、ダリの繊細な心にもたらした作用を、この香水瓶は雄弁に語っているように思えるのです。ダリが再びヨーロッパに帰国するのは、この2年後の1948年のことです。

岡村嘉子

「大坂屋清兵衛(大清)」の引札

羽前米沢粡町の大坂屋清兵衛の引札があります。
商っている商品は小間物と書籍のようです。

2021-003-16「萬小間物書肆舗(丸に太)羽前米澤粡町 大坂屋清兵衛」

明治時代の羽前米澤粡町(あらまち)は、現在の山形県米沢市中央3・4・5丁目の間の粡町通りを中心とした地域です。

中村清治編『粡町史』(粡町協和会 1942)には、粡町には1000年を超える歴史があり、米沢のなかで最も繁栄した商家町であったことが記されています。また、その町史には大坂屋清兵衛についての記述もあり、まず文化8年(1811)の地図の粡町上通り西側の清兵衛の表記、そして弘化3年(1847)、明治12年(1879)、昭和16年 (1931)の地図において、小間物屋の大坂屋清兵衛(中村清兵衛)から始まり、金物商 大清 中村清兵衛として同地で発展しながら敷地を拡大していることがわかります。また、明治11年(1878)に洋灯(ランプ)を始めて米沢に移入して販売した人物としても紹介されています。そのランプを一目見ようと近隣からたくさんの人たちが大坂屋清兵衛の店に集まったそうです。(同書114頁)

ここまでこの引札に記された「大坂屋清兵衛」のことを追ってまいりましたが、調べて見ましたら、山形県米沢市でNo1の配管資材、建設資材のプロショップとして現在も同地で株式会社 大清として営業されていることがわかりました。元禄元年(1688)創業以来、今年で実に333年になる老舗中の老舗です。

この引札は、今からおよそ140年前、小間物屋から次第に事業を拡大し、洋灯(ランプ)の販売を誰よりも先駆けて米沢で販売を始めたころ、年の瀬に配布して店の宣伝に努めたものです。その後も事業を伸張させ、現代まで続いていることに思いをいたすと、とても感慨深いものがあります。

恐れながら14代目当主 中村友彦氏にご連絡差し上げ、この引札が間違いなく同社配布のものであることをご確認いただき、また諸事ご教示いただきますとともに、諸資料のご提供と使用許可をいただきました。

現在は同地に大きなビルが建ち、中には資料室も設けられています。現社屋 資料室1 資料室2 資料室店舗復元1 明治史料1明治史料2

この引札は、今日から開催する以下の展覧会に出品いたします。
株式会社 大清の140年前のチラシをぜひ直接ご覧ください。

【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

 

 

ちなみに、この引札の1年違いの見本が残されています 。明治15年の略暦と見本番号と代金「ヌ印 壱円七十銭」が添えられているので、少し考えてみますと、明治15年の貨幣価値は、白米10キロ82銭 、日雇い労働者の日当22銭 ですから、仮に1円を現在の貨幣価値5,000~10,000円ぐらいとするなら、ここに記された価格は100枚当たりの金額なので1枚当たりおよそ85~170円ということになります。大阪屋清兵衛はこの引札の見本を見て、購入を決め、空欄に自分の店の名前を印刷してなじみのお客様に配布したのです。

引札明治15年

 

青木隆幸

美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―、好評開催中です

現在海の見える杜美術館では現在、「美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―」展を開催しております。

本展は、2020年春に開催した「美人画ラプソディ―近代の女性表現―妖しく・愛しく・美しく」のアンコール展です。昨年は、他館の所蔵品もお借りしての充実した展示だったのですが、新型コロナウィルス感染拡大防止のため会期のほとんどが休館となりました。今回は、昨年お借りした作品がない代わりに、当館の所蔵品を新たに加えての展示になっています。

 

その新たに加わった作品のひとつが、北野以悦(きたの・いえつ)の作品《舞妓》。

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北野以悦《舞妓》(前期展示)

乱れなく結い上げた髪と白いうなじのコントラストが美しい舞妓の姿です。第四章「少女と美人画」でご紹介しております。

 

描いたのは北野以悦(1902-1971)。北野、という苗字でピンとくる方もいらっしゃるかもしれませんが、大阪の美人画の名手・北野恒富の息子にあたる画家です。

幼い頃は北野恒富に絵画の基礎を習い、恒富の塾展・白耀社展にも出品。京都市立絵画専門学校別科を卒業したのち、竹内栖鳳の弟子で京都の画家である西山翠嶂に師事、帝展や新文展を舞台に活躍しました。当館の2018年の西山翠嶂展でも、門人の一人としてこの作品も展示したので、その時にご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。

 

こうしたプロフィールから、大阪や京都を中心に活動していた画家だと思っていたのですが、実は、晩年は広島・尾道に住んでいたとのことです。1952年頃、同じ翠嶂門下の画家で親友の川上拙以の紹介で尾道に転居、生口島の耕三寺の仏像などの彩色、寺の門の修復、襖絵や扉絵などを手掛けました。尾道に住居兼アトリエを借り、そこが終の棲家となりました。耕三寺博物館は今でも、《琉歌》(第11回帝展)などをはじめ、以悦の作品や画稿をご所蔵とのことです(「特別展北野以悦・北野恒富・島成園―一族が描く美しき日本画―」展覧会図録、朝日町立ふるさと美術館発行、2017年)。

 

以悦が描いた作品の一点、《舞妓》は前期10月3日(日)までの展示となります。

 

10月5日からはそのほかにも展示の一部が入れ替えとなります。

後期の作品も、後日ご紹介させていただきます。

 

 

森下麻衣子

 

「田川五三郎(たがわ龍泉閣)」の引札(続々)

田川旅館提供 明治28年-2
1.たがわ龍泉閣蔵

田川旅館提供 明治40年代-3
2.たがわ龍泉閣蔵

引札 鉱泉御宿 田川五三郎 海の見える杜美術館
3.海の見える杜美術館蔵

今回は、田川五三郎の引札を3枚並べて、特に文字の部分を比較して、語ってみたいと思います。

それではまず、以下に1.2.3番それぞれの引札の文字情報を書き出してみます。

添付情報
1. 明治28年略暦
2. 辰口鉱泉効能書
3. 辰口鉱泉効能書

住所・店名
1. 石川県能美郡辰口鉱泉所 御定宿(屋号紋-地紙にタ)田川五三郎
2. 石川県能美郡辰ノ口鉱泉所 鉱泉御宿(屋号紋-地紙にタ)田川五三郎
3. 石川県能美郡辰ノ口鉱泉所 鉱泉御宿(屋号紋-地紙にタ)田川五三郎

挨拶文(/は改行)
1. 恭奉賀新年/併而閣台之萬福を禱る/布説旧年中は毎々御愛顧を/蒙り奉源謝候尚本年も倍旧の/御引立を以て御入湯之節は不相替/御投宿之程伏て奉希上候 敬白
2.恭賀新年/併而御尊台之祈萬福/旧年中はご愛顧を蒙り難有奉源/謝候当本年も御入浴の節は不相替/御来宿之程奉希上候 敬白
3.恭賀新年/併而御尊台之祈萬福/旧年中はご愛顧を蒙り難有奉源/謝候当本年も御入浴の節は不相替/御来宿之程奉希上候 敬白

絵はそれぞれに異なるのですが、3点とも文章はとても似通っています。そして2と3は、文言、書体や行間、それから字の並び具合までまったく同じです。

田川旅館提供 明治40年代-部分2017-002-11部分
             2              3

ここで考えなければならないのは、このふたつは同じ版木を使用したものなのか、それともそっくりに彫りなおした版木を使用しているのか。ということです。これがはっきりすれば、引札の制作順序がわかります。

よく観察してみると、どちらも恭の字の4画目の右側が欠けています。新しく彫りなおすのならきちんと修正するでしょう。また、下の写真を見ればわかる通り、文字を彫るときに、文字の周りをしっかり深く彫るべきところを、浅く彫ってしまったために文字の周りに黒い色がついてしまっています。この黒色がほとんど同じ場所についています。これらから考えると、2,3ふたつの引札の文字は、彫りなおした版木ではなく、まったく同じ版木を使ったものといえるでしょう。そして、それぞれの版木の傷み具合を考えると、3の方が痛みが激しいので、3の方が2よりも1年後あるいは何年も後の引札の印刷に使われたと考えるのが妥当でしょう。

田川旅館提供 明治40年代-部分22017-002-11部分2
         2           3

それではこの3枚の引札から、田川五三郎の引札の使用の歴史について考えてみます。

宿屋の田川五三郎は、明治28年の正月には大切なお客様へ年始の御挨拶に引札を使っていました。

明治28年頃は暦(カレンダー)付の引札を配りましたが、いつの頃からかその添える情報は暦から別の物に替わり、明治40年頃には辰口鉱泉効能書を添付するようになりました。

絵柄は毎年新しいデザインに替えたようですが、宿屋の名前や住所、そして新年のご挨拶文が彫られた版木は何年も同じ物を使っていて、ひどく傷んだ時に新しく彫りなおし、同時に文章を当世風に改めたようです。

このような引札を用いた新年の御挨拶は、飛行船や飛行機が流行していた明治45年頃までは続けていたことが確認できます。

この後のことは判然としません。現たがわ龍泉閣様に確認しますと、古い資料はあまり残っていないそうです。

ただ言えることは、明治時代、新年を迎えるごとに引札をお得意様に配っていた鉱泉宿の田川五三郎は、幾つもの困難を乗り越えて1400年の歴史ある辰口鉱泉の源泉を守り継ぎ、今はたがわ龍泉閣として隆盛を極めているということです。

画像は使用許可期限のため削除いたしました。
北陸中日新聞社編『老舗のおかみ 金沢・加賀・能登』中日新聞社 2003北陸中日新聞提供
たがわ龍泉閣様ご提供

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

おめでたい魚たちの絵

海の見える杜美術館では、8月22日(日)まで「アート魚ッチング ―描かれた水の仲間たち―」を開催しています。

 

本展の第2章では、「福よコイ! めでたいお魚大集合」としておめでたい意味を持つ魚の絵画を紹介しています。

 

こちらは伝狩野休真の《滝登鯉》。

 

伝狩野休真《滝登鯉》 海の見える杜美術館

伝狩野休真《滝登鯉》 嘉永7年(1854)

 

一匹の鯉が今まさに急流の滝を登ろうとしている場面を描いています。この作品は、「黄河の上流にある龍門という急流を登り切った鯉は、竜に変じる」という中国の「登竜門」の故事にもとづいています。

 

現在でも成功や出世につながる難しい試験やコンテストのことを「登竜門」と言いますよね。日本で5月5日の端午の節句にあげる鯉のぼりもこの「登竜門」の故事にルーツがあるとされています。

 

江戸時代には、この絵のような立身出世への願いを込められた「鯉の滝登り」の図がよく作られました。

 

こちらは金太郎(坂田金時)が巨鯉を捕まえたという逸話をもとにした引札です。

 

《金太郎と鯉》

《金太郎と鯉》 大正時代

 

丈夫で健康な男児の象徴である金太郎もおめでたい図柄として好まれ、この鯉と金太郎の図も身体堅固、立身出世を願ってよく作られました。

 

日本でおめでたい魚として有名なものに鯛がいます。

 

鯛は、名前の響きが「めでたい」に通じることや身体の赤色が邪気を払うとされたこと、また七福神の恵比寿の持物であったことなどからおめでたい魚とされていました。

 

お正月に店の広告として配られる引札には、商売繁盛の神である恵比寿とともに鯛がよく登場します。

 

《恵比寿と大黒》 《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》

上:《恵比寿と大黒》 明治35年(1902)頃

下:《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》 明治40年(1907)頃

 

引札の恵比寿と鯛の図柄は、バリエーションに富んでおり見ていて飽きないです。

 

第2章の最後では、魚を題材にした中国のおめでたい現代年画も紹介しています。

 

こちらはその内、「金魚満堂」という図。

 

《金魚満堂》

《金魚満堂》 中国・1984年頃

 

金魚鉢の中を泳ぐ金魚を描いた作品です。

 

金魚は金玉(きんぎょく、黄金や玉(翡翠のこと)などの財宝)に通じ、それが部屋に満ちている(満堂)ことから、財力や経済的な豊かさを象徴したおめでたい絵となっています。

 

このように魚たちには様々なおめでたい意味がこめられ、絵画化されました。

 

今回の展示では、ブログで紹介している以外にもおめでたい魚たちの絵を紹介しています。会期も残り3週間を切りましたが、最後まで「アート魚ッチング」展をよろしくお願いいたします。

 

大内直輝

「田川五三郎(たがわ龍泉閣)」の引札

引札 鉱泉御宿 田川五三郎 海の見える杜美術館

日の出の富士を背景にして、七福神が飛行を楽しんでいます。富士山と太陽の場所そして遠方に見える岩肌からすると、ここは湘南の海岸なのだろうかと想像が膨らんできます。

気球・飛行船・プロペラ機が飛んでいます。恵比寿が操縦している飛行機はブレリオをベースにしているようにも見えますね。詳しくは5月18日投稿の「引札 空を飛ぶ七福神」を参考にしていただきたいのですが、1910(明治43)年12月、日本人による動力付き飛行機でのフライトが成功し、翌1911(明治44)年には海外から多くの飛行家がやってきて全国各地で⾶⾏会が開催され、志賀直哉や石川啄木らが飛行機を題材にした文章や詩をつくるなど、この頃日本では飛行機のブームが起きました。この引札には制作年代が記されていないのですが、引札には流行の風俗が描かれたことを思えば、1911-12(明治44-45)年頃に作られたものなのかもしれません。

この引札は、おめでたい図柄で満ちています。日の出・富士・鶴・旺盛な交易を暗示する各種の船・空高く飛ぶ飛行機・七福神、もう少し詳しく見てみると、恵比寿が操縦している飛行機は、胴体が算盤・翼は百億円札・尾翼は江戸時代のお金にまつわる分銅金の形をしています。また、翼の紙幣の上部には「日本帝国万歳号」、四方に「福」の字が記され、中央の数字「百億円」の下には朱印で「寿」、紙幣の番号は753(いろいろな伝承がある吉祥の数字)、そして透かしには大黒の顔が入っていて、どこまでも商売繁盛と幸せを寿ぐ機体となっています。
引札 田川五三郎 恵比寿の飛行機

また、この引札には辰口鉱泉の効能書が、添付されています。いろいろな病気が治りそうですね。当時の人々はこのような表記を参考にして療養に訪れたのかもしれません。
辰口温泉効能書

この引札をお得意様に配ったのは、「石川県能美郡辰ノ口鉱泉所 鉱泉御宿 田川五三郎」。明治32年10月30日の北国新聞の番付(※1)には、加越能三州(※2)の宿屋の前頭として堂々の最上段に名前が記されています。また辰口という地域では筆頭の宿屋とわかります。

北國新聞番付

この引札は、その大人気の宿屋「田川五三郎」が年の瀬あるいは新年に、お得意様に配ったものです。

引札の挨拶文にはこのように記されています。(/は改行)
「恭賀新年/併而御尊台之祈萬福/旧年中はご愛顧を蒙り難有奉源/謝候当本年も御入浴の節は不相替/御来宿之程奉希上候 敬白」
簡単に訳してみると
「恭賀新年 あわせてあなたの万福をお祈りいたします。旧年中はご愛顧いただきまして誠にありがとうございました。本年もご入浴の節は変わらず当宿へお越しくださいますよう切に願っております。 敬白」
という感じでしょうか。

なお、「鉱泉御宿 田川五三郎」は、辰口温泉「たがわ龍泉閣」として現在も営業がつづいています。

辰口温泉は開湯1400年の歴史ある名湯で、現在のたがわ龍泉閣には田んぼの真ん中から湧き出た源泉を利用している北陸最大級の混浴露天”田んぼの湯”ほかいくつもの湯があるうえ、温泉には今も昔と変わらない効能があるようです。(以下たがわ龍泉閣HPより)
温泉:辰口温泉
泉質:塩化物泉
効能:神経痛リュウマチ/外傷骨折火傷/痔/婦人病/病後回復ストレス解消/運動機能障害/関節痛/筋肉痛/五十肩/消化器/神経痛/創傷/打ち身/動脈硬化/冷え性など

この引札をいただいたお客様の気分になって、訪ねてみてはいかがでしょうか。体調が回復し、日頃のストレスも発散して爽快な気分になることは間違いないと思います。

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

※1. 「たがわ龍泉閣」様よりご提供いただきました。
※2. 加賀(石川県南部)、越中(富山県)、能登(石川県北部)3国にまたがる前田氏の旧所領

青木隆幸

「日の又」の引札

日の又商店引札 海の見える杜美術館蔵-4

旭日 金雲 金箔散らしを背景に、中央に鼓・扇・そして正月など特別な時に演じられる祝福をもたらす『翁』に使用する肉色尉の面が重なり、面と鼓の間には菊の花が添えられています。右上の重ね色紙には、新年を寿ぐ句が認められ、新春の家を飾るにふさわしい おめでたい引札となっています。

引札の文字情報を下に記します。

右上 重ね色紙:
御代之春 尾上の松を かざりけり 若葉

引札本文:
数百年前の創業にして製作の経験最多し
伏見は材料手間賃安く運搬最も便利
薄利多売
各國産漆器卸小賣
たんす 長持 嫁入道具 製作販賣
伏見大坂町御ひいきのたんすや
日の又

右下隅 引札 落款:
白文方印 弌舟

左端 印刷年月日と印刷所名:
明治四十二年七月十日印刷仝年八月卅日発行
印刷兼發行者
大阪市東区京橋壱丁目廿九番地
平民古島徳次郎

以上の絵の内容と文字情報から、この引札は、大阪伏見のタンス屋「日の又」が、明治42年の年末に、ひいきの顧客に配布したものとわかります。

「日の又」は、現在の 「株式会社 日の又商店 (家具ステージ日の又)」です。同社は室町時代末期の永禄年間(1558-70)に創業し、安土桃山時代には伏見城に漆器調度品を製造納入しお抱えとなって以来 伏見の地で営業をつづけ、現在は当主17代目となり、総合インテリア家具販売店として盛業です。

この引札が配られていたころの「日の又」です。

日の又店舗

明治の終わり13代目当主のころの店舗で、店先は床机を持ち上げると中に収納できるようになっています。店の奥に並んでいる鏡が見えます。

株式会社 日の又商店蔵

こちらは江戸時代初期から日の又に伝来する漆を調合する大きなお椀です。直径90㎝もあります。引札に書かれた「数百年前の創業にして製作の経験最多し」「各國産漆器卸小賣」といった文を裏付ける品です。椀の底には「野の虫も ちからくらぶる 浮世かな」の句に添えてカマキリとバッタと思しき虫が描かれています。

本稿を作成するにあたり、株式会社 日の又商店 代表取締役 日の又 第17代当主の辻貞好様には、本引札が株式会社 日の又商店の物であることをご確認いただくとともに、ここに掲示しました明治時代の店の写真や江戸時代から伝来する漆を調合する椀の写真など貴重な資料をご提供いただきました。謹んで感謝申し上げます。

 

追記
引札右下隅の印章の弌舟は、浅田一舟のことと思われますが、断定するにはもう少し検証が必要です。しかし浅田一舟については浮世絵関係の事典にも、近年の研究書でも生没年等を含めほとんど記述がない(※1)ので、検証するためにはまだ情報が不足しています。

ところで、管見の限り浅田一舟研究に下の参照が見あたらないため、抜粋してここに紹介いたします。

岩本一成「浅田一舟君」
「浅田一舟君は明治5年、大阪市南区大宝寺町に生まれ、師匠は鈴木雷斎と武内桂舟に学んで風俗画家として特技をもっておられた。(中略)私の知っているのは大阪の特産物として相当の生産高を持っていた引札、団扇の意匠図案に長じ、版下に麗妙なる筆致とその彩色に至っては第一人者であった。(中略)
日露戦争後(中略)世間より別途に取り扱われていた挿絵画家といわれし人々、尾竹国一、北野恒富、金森観陽および小生等発起人となり研究団体として春秋会を組織しまして(中略)研究方法の協議、展覧会開催等の目標に毎日(ママ)2・3回集合し、仮装写生会、古実研究、講演会等を催し破壊に建設に活動したものです。これが画壇覚醒の先鋒となり今日の大阪画壇の基礎となったもので、会員30余名を有し第1回展覧会を大阪書籍俱楽部事務所楼上で開きました。島成園君が当時わずか14歳で観山ばりの小野小町を出品したことを覚えております。
門下生に島一水(中略)、その他上田海舟(紫水と改む)等々あり(中略)
大正9年10月18日49歳で没し、墓所は天王寺区椎寺町天瑞寺にあります。」
(※2)

このほかこの絵を描いたのと同じ年の明治42年に出版された『日本書画評価表』(石塚猪男 1909)(※3) では一舟の一幅の掛け軸の価格が20円と評価されています。なお参考までに申しますと、明治40年の公務員の初任給は50円です(※4)。

 

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

※1. 山田奈々子 増補改訂『木版口絵総覧』(文生書院 2016)はメジャーではない画家が多数網羅された貴重な書籍なのでたびたび参考にさせていただいているのですが、浅田一舟については「生没年不詳 舟がつく画家は竹内桂舟の弟子と見てよいと思う。」という表記にとどまっている。

※2. 『上方』138号 上方郷土研究会 1942 253頁 (適宜現代仮名遣い、当用漢字に改めた。)

※3. 東京文化財研究所 HOME>明治大正期書画家番付データベース>日本書画評価表_807006 URL :https://www.tobunken.go.jp/materials/banduke/807006.html
所蔵:神奈川県立近代美術館(青木文庫)

※4. 『続・値段の 明治 大正 昭和風俗史』朝日新聞社1981 159頁

青木隆幸

「高橋盛大堂」の引札

「高橋盛大堂」の引札を2点、海の見える杜美術館は所蔵しています。

引札 高橋盛大堂1 海の見える杜美術館

①の引札の上部左右には松と梅が繁っています。松梅(ショウバイ)が盛んに繁る様子は、商売繁盛を表す吉祥性があります。その中央には「専用権特許 高橋盛大堂」と記された兎の商標、その商標の左右には、お得意様を祝賀する言葉「花客万歳」(※1)の文字、その下の赤いリボンには「本舗 大阪堂嶋しゞみ橋南詰 盛大堂高橋卯之輔」と記されています。中央の段、右には盛大堂主人肖像 中央には売り出し中の薬の名前、左には「盛大堂薬剤摸形」として、薬剤の包材と取次所一覧が描かれています。下段には店舗の繁栄の様子とそれを取り囲む花々が描かれています。

引札 高橋盛大堂2 海の見える杜美術館

②の引札も①と同じくお客様を祝賀する言葉「華客祝万歳」が上部に大きく記され、中央には薬箱や包材、店の名前と住所が記され、背景に店の繁盛の様子が描かれています。

①・②、いずれも店の製造薬品と繁栄の様子にお客様を祝賀する言葉が添えられ、高橋盛大堂とお客様の互いのより一層の繁栄を祝しています。どうやら年の瀬に高橋盛大堂から顧客の薬店や小売店に配布した引札のようです。

ところで今現在、大阪市西淀川区で営業している盛大堂製薬に確認したところ、盛大堂製薬は高橋盛大堂の流れを汲んでいる会社で、引札に掲載されている商品もかつて製造していたものに間違いないとのことでした。ただ明治時代の詳しい資料は残っていないそうです。

盛大堂製薬の歴史はHPの記載によれば、安政5年(1858)、大阪堂島にて高橋安兵衛により創業。明治8年(1875)、高橋卯之輔に継承。明治16年(1883)、盛大堂の称号を定める。とされています。

これら引札の制作年代について、以下箇条書きで考えてみます。

・製作年代は引札に明記されていないので正確にはわかりません。
・HPのとおり盛大堂の称号が明治16年に定められたとすれば、盛大堂の名が記されたこれらの引札はそれ以降の制作ということになります。
・いずれの引札も高橋盛大堂本店の横には親柱に「しじみばし」と記された橋が描かれ、住所には「しじみ橋南詰」「蜆橋南詰」と表記されていることから、これらは蜆橋があったときの引札と思われます。

引札 高橋盛大堂1 海の見える杜美術館 しじみはし引札 高橋盛大堂2 海の見える杜美術館 しじみばし

・蜆橋は、明治42年(1909)のいわゆる「北の大火」のときに瓦礫の廃棄場所として曽根崎川(蜆川)の上流が埋められたときになくなったので、これらの引札が描かれたのは明治42年(1909)より前ということになります。(※2)
・②の引札には応需基春と落款があり、林基春(1858-1903)の作画とわかるので没年の明治36年(1903)より前の引札ということになります。
・これら2つの引札に描かれた登録商標は兔ですが、明治36年(1903)には犬の顔で商標登録が行われ(※3)、以降の宣伝には犬の顔が登場するようになるので、このことからもいずれも明治36年(1903)より前の引札ということになります。
・引札には電話番号を記すのが一般的なのですが①には電話番号が記されていません。①は電話加入以前の制作と考えることが妥当で、②は電話加入以降の制作になります。なお、大阪に初めて電話が開設されたのは明治26年(1893)(※4)です。

以上のことから、引札の制作年代について、①は明治16年(1883)に盛大堂の称号を定めた後、電話が引かれた可能性のある明治26年(1893)頃までの間、②は電話をひいた可能性のある明治26年(1893)頃以降、林基春の没する明治36年(1903)までの間としておこうと思います。高橋盛大堂が電話交換に加入した年が判明したら更新します。(※)

※『大阪神戸電話交換加入者名簿』(明治27年2月) 18頁に高橋盛大堂・高橋盛大堂分店の電話番号が記載されていることを確認しました。明治26年の名簿は未確認です。(20210720)

備考として
②には分店が描かれているので、分店の設立時期が分かればもう少し制作年を絞ることができます。②には「人不壮は国家不健」と書かれています。人が弱ければ国も弱くなるということでしょうか。このように国のことが引札に記されるのは戦時中が多いので、日中戦争の明治27年、あるいは 日露戦争への戦意の高まり始めた明治36年ごろに制作された可能性も高まります。また、両引札に描かれた人々のファッションや風俗が近いことから、制作年代が大きく離れない可能性があります。

店に掲げられた看板に記された薬の名前、描かれた都市風俗、そのほか興味は尽きませんが、いずれ詳しい方々の目に触れて引札や産業・社会・風俗の研究が進むことを願ってやみません。

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

最後になりましたが、盛大堂製薬様にはご多用の折、本引札をご確認そして当時の資料の捜索などご協力いただき、HPへのリンクもご快諾いただきました。厚く御礼申し上げます。

 

※1. 花客(かかく)(「華客」とも書く)お得意の客。顧客 (「日本国語大辞典」 第二版 小学館 2000~2002)

※2. 店主の高橋氏はこの蜆橋にはよほどの愛着があったのか、大正13年に曽根崎川の下流も埋められてしまった後、昭和2年に高橋盛大堂の壁面に蜆橋のレリーフを掲げました。そのレリーフは紆余曲折を経て、今は曽根崎川跡碑のすぐそばにあり、そこには「盛大堂主高橋氏」と名前が刻まれています。なお、その紆余曲折については高木伸夫「「しじみ橋」のレリーフ碑」『大阪春秋』36号(大阪春秋社 1983)100-101頁に詳しい。

※3. 登録商標第19095号 登録明治36年4月2日 ジャパンアーカイブズ 薬店のトレードマーク(高橋盛大堂、現・盛大堂製薬)

※4.  NTT西日本HP 企業情報 データブックNTT西日本 電信電話の歩み 1830~1964年

 

「織尾堂」の引札

赤地に桜・菊・牡丹・水仙の花が散らされ、それらの花の間に色紙・扇紙が並んでいます。上の色紙には一行書「書画筆墨硯司」の掛け軸・緋毛氈に大福茶・飾り棚、中央の色紙には筆始の寿老人に長寿を寿ぐ句、下の扇紙には 丸に山形に一つ引き紋 の入った風呂敷を背負う人物・年始の挨拶・店の名前「織尾堂」とその住所が記されています。

20210627引札織尾堂

いずれにも正月にまつわる風景が描かれていて、そしてそれぞれの内容はこの引札を配った店に関係していると考えることが出来そうです。上の色紙の掛け軸「書画筆墨硯司」は営業内容、中の色紙では寿老人が店の商品の命毛といわれる筆の穂先を丁寧にさわりながら「命も長し筆始」と詠んで長寿を寿ぎ、下の色紙は年の初めにお得意様を廻り、挨拶を述べている店の主人と思しき男性、その前には一年の愛顧を願う口上文、そして最後にお店の住所・名前が認められています。
この引札は、書画筆墨硯司「織尾堂」(大阪南区難波新地4番丁1番地)が年の瀬に得意先に配布した引札のようです。

「織尾堂」の引札は、早稲田大学図書館にも1点所蔵が確認できます。同図書館のウェブのDBに公開されています(請求記号:文庫10 08020 0039 タイトル:和漢筆墨商)ので是非ご覧ください。その引札には大福茶・筆を担ぐ寿老人、それを見守る恵比寿天・大黒天・布袋尊・弁才天、そして群鶴と蓑亀が描かれていて、当館の引札同様に正月の芽出度さあふれる内容となっています。そして画面中央に寿老人が大書した字は「和漢筆墨商 大阪府南区難波新地四番町壹番地 安田織尾堂」。当館の引札と店の名前は少し違いますが、営業内容も住所も同じなので「織尾堂」=「安田織尾堂」と考えてよいでしょう。

現在「安田織尾堂」という名前で営業しておられる筆関係のお店が1軒ありました。住所は異なりますが、その大阪府堺市にある「株式会社 安田織尾堂」の御主人にお話をお伺いしたところ、「店に関する資料はまったく残っていないので詳しいことはわからないのですが、父の叔父が織尾太夫を名乗った義太夫で、このままでは食べていけないと考えて御堂筋の歌舞伎座の裏で書画筆などを売り始めたと聞いています。」とのことでした。「御堂筋にある歌舞伎座」とは2009年に閉館した新歌舞伎座(大阪市中央区難波四丁目3番25号)のことでしょうから、明治時代の地図の難波新地四番丁壱番地と照合しましたら、その場所はぴったり重なったので、現安田織尾堂の御主人の記憶と相違ないことがわかりました。また、「書画筆などを売り始めた」というご記憶と引札の「書画筆墨硯司」、そして現在の営業内容が同様ということを考え併せますと、引札の「織尾堂」「安田織尾堂」は、現「株式会社 安田織尾堂」の前身と考えてよいと思われます。

「織尾太夫を名乗った義太夫」については、「浄瑠璃大系図」(※1)に竹本綱太夫(6代目)の門弟として「竹本織尾太夫」の名前が記されていました。また、『近代歌舞伎年表京都篇1』(国立劇場近代歌舞伎年表編纂室1995)には以下の記録があります。

明治5年10月吉日~ 道場芝居 仮名手本忠臣蔵 【太夫】鶴ヶ岡のだん 竹本織尾太夫
明治7年2月吉日~ 南側実伝演劇 八陣守護錠 【太夫】淀城のだん 竹本織尾太夫
明治7年9月中旬~ 和泉式部演劇 伊賀越乗掛合羽 靫負やしきノ段 竹本織尾太夫
明治8年3月吉日~ 南側演劇 菅原伝授手習鑑 【太夫】伝授之だん 跡竹本織尾太夫
明治8年3月吉日~ 本朝廿四孝 【太夫】義晴館の段 中竹本織尾太夫

以上のように「織尾太夫を名乗った義太夫」が明治8年まで関西で活動していたことが確認できたので、ご主人のお話の通り「織尾堂」は義太夫の「織尾太夫」が始めたお店と考えることは可能ということになります。

早稲田大学図書館の引札(以下早稲田版という)も海の見える杜美術館の引札(以下海杜版という)も制作年代が不明ですが、早稲田版は先に絵だけ大量に印刷し、その図柄を購入した商店が後から商店の名前を印刷する、いわゆる「所判」あるいは「名入れ判」と呼ばれる様式のように見受けられますので、その印刷技法が広まった明治27年以降のものと思われます。海杜版は、絵に明治中期以降の風俗が描かれていませんし、絵のスタイルも明治の前期ごろのものです。そして絵から店名まで一貫してデザインして木版で刷っているので、引札の印刷手法も明治前期頃として差し支えありません。また、口上文には店の繁栄はお得意様のおかげと記されているので、店にある程度のお客様が付き、店オリジナルの引札を配るほどに店が繁盛した後に制作した引札と考えるのが妥当と思われます。ですので、明治8年以降に織尾太夫が引退してのち、店を立ち上げてしばらくたったころから、明治27年頃に「所判」あるいは「名入れ判」が大流行し始めるまでの間、大雑把には明治15-25年頃に制作された引札と推定されます。

海杜版の引札は、太夫では食べていけないと考えた竹本織尾太夫が明治8年以降、南区難波新地4丁目1番地に「書画筆墨硯司」として「織尾堂」の店を構えてしばらくたった、明治15-25年頃の年の瀬に、「織尾堂」がお得意様に配った引札と考えることが出来そうです。

なお、明治45年1月16日に、南区難波新地(現中央区難波四丁目付近)が火元で、東西1.4km、南北400mに及ぶ大火事、いわゆる「南の大火」が発生しました。当時の写真を見てみると完全に焼け野原になっています(※2)。「織尾堂」移転の時期は不詳ですが、店が「南の大火」の火元近くにあって、店舗が完全に消失してしまったことは店舗移転の一つのきっかけになったかもしれません。

海の見える杜美術館では以下の通り「引札」の展覧会を開催しますので、ぜひお越しください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)
※1 音曲叢書 第1編 演芸珍書刊行会編 演芸珍書刊行会 1914-154
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/948801

※2 大阪歴史博物館ホーム>展示・イベント>常設展示>常設展示更新>過去年度の展示更新>南の大火と千日前
http://www.mus-his.city.osaka.jp/news/2011/tenjigae/120116.html 参照

青木隆幸