うみもり香水瓶コレクション27   香水瓶の花鳥表現

《セント・ボトル》イギリス、チェルシー、1758年頃、軟質磁器、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1758, Soft paste porcelain, gilt metal, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 歌川広重 《牡丹に蝶》横大判、天保3-4年 (1832-33)頃、丸屋甚八、海の見える杜美術館 

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画 」と題した、当館が所蔵する近世から近代にかけての花鳥版画を集めた展覧会を開催しています。それに合わせて、香水瓶展示室でも花鳥表現による香水瓶を展示しています。

 例えば、企画展出品作の歌川広重《牡丹に蝶》にならって、「チューリップに蝶」と称したくなる上の画像の作品。こちらは、18世紀半ばのイギリス、チェルシー磁器工房による作品です。ヨーロッパでは、こうした花に誘われた蝶の表現が、香りの優雅さを造形で伝えるために使われました。たしかに本作品も、磁器の鮮やかな色調もあいまって、気品ある瑞々しい花の香りが漂ってくるかのような作品です。

 ところで、抽象表現、具象表現、細密表現等々、世には様々な表現がありますが、この「花鳥表現」に私は、理屈抜きでとても惹かれます。静かな展示室でその表現に行き合うと、動植物のかすかな息遣いをふいに耳にした気がして、立ち止まらずにはいられません。そしてしばし作品を見つめていると、自分自身の呼吸も穏やかに整っていくのを感じます。それゆえ、私にとっては平穏さをもっとも味わえる表現の一つです。

 そのため、この度、香水瓶と花鳥版画を組み合わせることを(香水瓶展示室のある1階と企画展示室の2-3階と、展示室自体は離れていますが)、個人的に非常に楽しんでいます! とりわけ当館は、浮世絵における花鳥画のジャンルを確立した歌川広重の国内最大規模の花鳥版画コレクションを有します。ですので、いわば傑作ぞろいの展示室となっているため、好奇心が刺激され、日欧の花鳥表現をあれこれ比較してみたくなるのです。

 冒頭の「チューリップに蝶」に限らず、もともと自然に基づくテーマを好むイギリスでは、香水瓶にも多くの花鳥表現が見られます。とくに18世紀は、動植物をかたどった繊細な色調の磁器製香水瓶が、盛んに製造されました。

 こちらの作品は、桜の木の上でサクランボをついばむ鳥を表現したチェルシー磁器工房のセント・ボトルです。

《セント・ボトル》イギリス、チェルシー、1755-58年、軟質磁器、金、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, 1755-58, Soft paste porcelain, gold, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 しかしながら、どうしても気になってしまうのは、この鳥の種類です。オウムに似た色鮮やかな尾長の鳥で、南国を思わせますね。体長もかなりありそうです。一体、どのような鳥なのでしょう?

 多くの国民が春の風物詩として桜を愛するこの日本では、町でも野でも山でも、至る所で桜を目にする機会に恵まれます。当館の庭にも、全国から移植された10種類以上の桜の木があり、日ごろから馴染み深い樹木といえばやはり桜が真っ先に浮かびます。これほど桜に親しみながらも、私はいまだかつて、桜の木にこのような南国風の大きな鳥が憩っているのを目にしたことはありません。本作品の制作地イギリスも、日本より北に位置しますので、同様と思います。つまり、改めてじっくりと見てみると、桜と鳥のこの組み合わせは、とても奇異なのです! そして、ここにこそ、日本の花鳥版画における表現との違いがあるといえるでしょう。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima  思いのほか、食いしん坊です(笑)。

 江戸時代中期以降の日本の花鳥版画は、八代将軍徳川吉宗が推奨した本草学や、博物学の成果を取り入れながら発展しました。ゆえに、丹念な自然観察に基づく表現が多く見られます。それに対し、ヨーロッパの18世紀の磁器の花鳥表現には、写生を逸脱した、幻想的な表現がしばしば登場します。もちろん、イギリスが属するヨーロッパには、古代ギリシャに始まる博物学の伝統がありますので、その正確な自然観察が、とくにルネサンス以降の芸樹作品に大いに活かされてきました。しかし、こと磁器の図柄、とりわけ18世紀のものとなると、そこにあえて幻想的なアレンジをすることが好まれたのです。以前このブログで取り上げたマイセン磁器の図柄に、なんとも奇想天外な想像上の生き物が描かれていたことと同じですね。現実世界ではお目にかかれない動植物やその組み合わせによって、異国情緒あふれる想像上の楽園が表現されているのです。従って本作品は、そのような当時の人々の夢見た世界を今に伝える《セント・ボトル》です。

 では最後に、現代の花鳥表現をご紹介いたします。今回出品したのは、ラリック社の2003年の限定エディションの香水瓶です。

ラリック社、香水瓶《バタフライ》2003年限定エディション、2003年、透明クリスタル、海の見える杜美術館 LALIQUE, BUTTERFLY FLACON, France, 2003,Transparent crystal , Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 本作品では、2匹の蝶が、ダリアの花の蜜を吸う様子がかたどられています。本作品が見事なのは、本体のクリスタルの透明部分と半透明部分を交差させることで、ダリアの花のボリューム感や立体感を強調している点です。しかも本作品では、クリスタルから透ける香水が、あたかも蝶が懸命に吸う芳醇な密そのもののように見える機知に富んだデザインとなっています。

 ぜひ企画展と合わせて、香水瓶の様々な花鳥表現もお楽しみくださいませ。

 ところで本展示に先立って、新たに収蔵された香水瓶の写真撮影を行いました。撮影をご担当下さったのは、前回同様、東京のエス・アンド・ティ・フォト S&T PHOTOの大塚敏幸氏と尾見重治氏です。

 香水瓶は立体物ですので、ちょっとした角度やライティングで作品の表情が一変します。多種多様な道具を駆使しながら、作品の質がもっともよく表れた瞬間を絶妙に捉えて、次々と写真に収めていかれる様に、ひたすら感服いたしました!

両氏による写真に支えられて、今後も香水瓶の魅力をお伝えしていきたいと思います。

岡村嘉子(特任学芸員)

展覧会情報: 百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画 

[会期]2024年6月1日(土)〜2024年7月15日(月・祝) [開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで) [休館日]月曜日(ただし7月15日(月・祝)は開館)

うみもり香水瓶コレクション26 ブシュロン社の香水瓶

こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」と題した、近代京都画壇を代表する日本画家、竹内栖鳳の回顧展を開催しています。そこで香水瓶展示室でも、企画展関連作品を展示しています。こちらの作品です👇

ブシュロン社《香水瓶》フランス、1890-1900年、ダイヤモンド、金、エナメル、海の見える杜美術館 BOUCHERON, PERFUME FLACON, France, C.1890-1900, Diamonds, gold, enamel, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

当館の香水瓶コレクションの内容が、西洋と古代オリエントの容器を中心としたものであることをご存知の方々には、日本画壇の巨匠と当館の香水瓶の関連に首を傾げられる方もおいでになるかもしれません。しかし、栖鳳の画業の軌跡を既にお知りの方は、「ああ、あの体験が」とピンとひらめくものがあるのではないでしょうか。

それは栖鳳の名が、師の幸野楳嶺より与えられた号である「棲鳳」から「栖鳳」へと改められた時期の、あの西欧体験のことです。

ときは1900年、パリ。そこでは、過去の万国博覧会の入場者数を上回る4800万人を記録するほど、人気を博した万博が行われていました。この万博時には、各国パヴィリオン等のある万博会場に加えて、動く歩道や地下鉄など、当時の最先端の技術が会場の内外に登場しました。それは1900年という19世紀最後の年として過去100年を回顧しつつ新たな世紀を展望するという、まさに世紀転換期に相応しい大博覧会であったのです。そのため、その様子をひと目見ようと、ロンドン留学の途上にあった夏目漱石や、スペインのピカソがパリへ見物に訪れていたことも知られています。彼らの日記を調査したピカソの研究者によると、なんでもこの二人は同日に会場を訪れていたとか。ごった返す観客のなか、二人はすれ違っていたのかもしれませんね。

さて、竹内栖鳳のような日本人画家にとっても、1900年パリ万博は非常に大きな出来事でした。なぜなら、それまでの万博とは異なり、彼らの作品が美術館を舞台として、諸外国の美術とともに、純正美術として展示されたからです。それ以前は、たとえ絵画や彫刻が万博に出品された場合にも、磁器や漆器等の工芸品ともに陳列されたために、工芸品の一部として理解されてしまうこともありました。そのことは、19世紀半ば以降――とりわけフランスの場合は1890年代からようやく――装飾美術の地位を見直す動きが起きたとはいえ、17世紀の美術アカデミーの創設以来、「大芸術」とみなされた絵画、彫刻、建築に対し、「小芸術」と位置付けられた装飾美術という序列が歴然と存在してきた西洋と対峙するには、いささか不名誉なことでもあったのです。こうした状況を打開しようと、日本側は1900年パリ万博の事務官長を務めた林忠正や、帝室博物館が中心となって、万博での美術作品展示や日本美術史に関する書籍の出版等を1900年万博に際して行いました。彼らは日本にも西洋の美術史に匹敵する美術史が存在することを世界に知らしめることに尽力したのです。

日本の美術界にとって記念すべきこの万博に合わせて、栖鳳も現地を視察しています。栖鳳は万博会場のあるパリはもちろん、8か国の主要都市を巡り精力的に西洋の画風を研究、吸収しました。この約半年余りの欧州視察旅行の体験が、その後の制作に与えた影響については、今回の「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」展において、豊富な資料とともに詳しく紹介されています。とりわけ、彼が展覧会に出品した唯一の油彩画《スエズ景色》(前期展示)や、ローマの遺跡を題材とした《羅馬之馬》(前期展示)は、この機会にぜひご覧頂きたい作品です。

香水瓶展示室でも、栖鳳に転機をもたらしたこの欧州体験に焦点を当てて、同時期のフランスの香水瓶を関連作品として選びました。そのようなわけで、冒頭のブシュロン社の香水瓶なのです。

さて19世紀を通じフランスでは、香水メーカーから購入した香りを、持ち主が思い思いの容器に詰め替えるのが習わしでした。そのため、持ち主の要望に応えようと、宝石細工師や金銀細工師や高級宝飾師は、煌びやかな容器を競うようにして作り出しました。フランスの高級宝飾メーカー、ブシュロン社が手掛けた本作品も、そうした時代を今に伝えるひとつです。今日のブシュロン社は、パリのヴァンドーム広場に居並ぶ5大ジュエラー、いわゆる「グラン・サンク」のひとつとして、またグラン・サンクのうち最も早い時期の1893年にこの広場に店を構えたことで知られています。本作品は、まさに同社がパレ・ロワイヤルからヴァンドーム広場26番地へ店舗を移転させた時代に制作されたものです。

本作品で使われた技法を見てみましょう。ここでは、非常に手間のかかるエナメル細工「プリカジュール」による赤と青の幾何学模様が、瓶全体に施されています。

このエナメル細工の素晴らしさを、最も実感できるのは、香水瓶の蓋を開けたときです。下の画像をぜひご覧ください👇 

 ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

このように蓋を大きく開けますと、まるでステンドグラスのような装飾が現れます。そのため私は、本作品に触れる度に息を呑まずにはいられません。プリカジュールは、裏から光を当てたときにこそ、美しさが最も際立つのです。かつての持ち主は、馥郁とした香りを放たせる直前に、目からも優雅さを堪能していたのですね。

さらにここでは、壮麗さを高めるかのように、ローズカットのダイヤモンドが瓶の開閉部にあしらわれています。この透き通るような輝きの帯も、19世紀後半に目覚ましい発展を遂げたブシュロン社らしいデザインですね。フレデリック・ブシュロン(1830-1902)が1848年に設立した同社は、1867年のパリ万博で銅賞を受賞した後、1878年のパリ万博にはダイヤモンドとサファイアのネックレスで金賞を、1889年パリ万博には、留め金を使わない斬新なデザインのダイヤモンドのネックレスをはじめ高い技術でグランプリを受賞しました。こうした経歴が物語る通り、同社の見事なジュエリーは発表毎に国内外の多くの人々を虜にしていました。

またダイヤモンド自体に関して言えば、19世紀後半のパリの宝飾品を特徴づけるものでもあります。それには、1871年に南アフリカのケープタウンでダイヤモンド鉱山が発見されたことにより、価格が下落してパリの市場に出回るようになり、ダイヤモンドを配した数多くの宝飾品が制作されるようになったという背景があるのです。

ところで、本作品の制作時期には、フレデリック・ブシュロンが手掛けた見逃せない事業がありました。彼は、それ以前にもブシュロンの工房にて多くの創作デザイナーを育て活躍の場を提供してきましたが、1893年には私財を投じて有望な創作デザイナーに留学奨学金を授与する奨励協会をも設立しました。本作品のように、プリカジュールを効果的に用いて、蓋を開けると小さなステンドグラスのバラ窓がお目見えするという心憎いデザインが生み出された裏には、創業者による教育への尽力があったのですね。

さてブシュロン社ですが、1988年からは香水そのものも取り扱っています。そのなかには本年2024年に誕生20周年となった同社を代表するジュエリー・シリーズ「キャトル」の名を冠した香水もあります。

2015年春に発売された香水「キャトル」は、爽やかさとほんの少しの甘さを兼ね備えた軽やかな香りが気に入って私もすぐに使い始めたところ、パリの町中で3回ほど、それぞれ見知らぬマダム二人とムッシューひとりに「この香りは、あなたにとってもお似合い!」「この新しい香りは、一体どちらのかしら? とても素敵!」と唐突にご感想をお聞かせ頂きました(フランスだと、こうした唐突なご感想によく遭遇します)。それ以来、すっかり気を良くしまして(笑)、もう何年も春夏に愛用しています。

空き瓶も保管しています。期間限定コフレのボックスの図柄はヴァンドーム広場の鳥瞰図。

キャトルをつけた私にお声がけ下さった方々の物腰や、そのときのあたりの喧騒や乾いた空気、そして晴れた日の陽気な雰囲気等々がキャトルをひと吹きすると脳裏に浮かぶように、香りは様々な記憶――時とともにぼやけたり、忘却の彼方に消えたりしたはずの記憶――を、瞬時に鮮やかに蘇らせてくれます。新緑のなか、花々が咲き誇るこれからの季節に、いつの日かタイムスリップに誘ってくれる香りを存分に感じつつ、心楽しい時間を数多く過ごしていきたいものです。

岡村嘉子(特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション 25  古代エジプトの開口の儀式セット

こんにちは。各地から桜の開花の便りが届き始めた今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

海の見える杜美術館の香水瓶展示室は、いつご来館頂いても香りの歴史が俯瞰できるように、古代エジプトから現代までの様々な香りの容器を多数、年代順に陳列しています。

香水瓶展示室の古代エジプト時代のケース

この春、当館所蔵の最古の作品を収めた古代エジプト時代のケースに、新収蔵品の《開口の儀式セット》が加わりましたので、この機会にご紹介いたします!

こちらの作品です👇

《開口の儀式セット》エジプト、古王国時代(第5-6王朝、紀元前2500-2200年)石灰岩、アラバスター、珪岩アルトン・エドワード・ミルズ(1882-1970)旧蔵、海の見える杜美術館蔵。RITUAL SET for the Opening of the Mouth, Egypt, OLD KINGDOM, 5TH-6TH DYNASTY, C. 2500-2200 B.C. Alabaster, limestone, quartzite, Provenance: Alton Edward MILLS collection, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 石灰岩のプレートの上に、儀式で用いられる道具が整然と収められています。それにしても、このタイトル。「開口の儀式」のセットとは、なにやら謎めいていませんか。この儀式は、口に対してだけではなく、目にも行われたために、しばしば「開口・開眼の儀式」と呼ばれています。では一体、誰もしくは何の目や口を開ける儀式だったのでしょうか?――それは死者であり、より詳しく言うとミイラにされた死者、またときに死者を模した彫像でした。つまり開口の儀式とは、死者の埋葬前に行われる葬祭にまつわる儀式のひとつだったのですね。そのなかでもとくに重視された儀式であったと言われています。そのようなわけで、本作品も古王国時代第5―6王朝と推定される墓から発見されたものです。

 興味深いことに、古代エジプトでは、適切な手順を踏んでこの儀式を行えば、たとえ死後であっても現世と同様に食事をし、話し、見て聞くことができると考えられていました。要は、閉じていた口や目がぱっちり開いて、耳や鼻も機能し、命の再生が可能となるとされたのです。ですので、誰かが亡くなるとその子孫は、それを実現させようと、死者に対して「開口の儀式」を神官たちとともに行いました。

この儀式の始まりは古く、かつ長く行われたものでした。少なくとも先王朝時代のナガダ期(紀元前3800-3100年頃)には既に行われ、プトレマイオス朝時代(紀元前332-30年頃)まで続けられたと推測されています。その間、ゆうに約3000年間も行われた可能性があるのですね。このことからも、いかにエジプト人にとって、欠くべからざる儀式であったかがわかります! ナガダ期の文書がのこされていないために、詳細は不明であるものの、先端が魚の尻尾の形をした当時の儀式用ナイフが、儀式の痕跡としてあります。

本作品の制作時期は、先王朝時代に次ぐ古王国時代。この時代には文書において儀式についての言及が見られます。第4王朝のクフ王の時代の文書『開口についての小冊子』には、ミイラではなく死者の彫像に対して行われたと書かれていますし、第5王朝に建造された最古のピラミッドとして名高い、かのサッカラのウナス王のピラミッド(第5王朝)にも、玄室の壁面に書かれたピラミッド・テキストにこの儀式が言及されています。ただ残念なのは、当時の言及は、続く中王国時代のコフィン・テキストにおける言及と同様に、いずれも部分的であるため、儀式の全体像を把握することが困難です。そのため、本作品の制作時期における開口の儀式について知ろうとしても、後世の研究者たちが、新王国時代の文書と図像をもとに推測したものの域を出ないのが現状です。

 さて、香りの歴史を考える上で、この儀式が見逃せないのは、様々な香りが用いられた儀式であったからです。以前のブログ(第18回 香水散歩)で、ミイラづくりには香りが不可欠であったとご紹介しましたが、香りの使用に長けたエジプト人は、完成したミイラや、死者の彫像、さらにはそれに捧げる供物に対しても香りを使っていました。

開口の儀式は、清めや、生贄や開口・開眼の道具の提示、そして献酒をはじめとする全75の段階で構成されています。その各段階をひとつずつ丁寧に辿っていきますと、要所要所で香りが重要な役割を担っていたことがわかります。

例えば、死者の彫像やミイラを開口する下準備としてなされる清めでは、様々な種類の水で清められた後に、セム神官〔葬祭を司る神官〕が玉状にしたテレバントの樹液を持ち、彫像やミイラの周りを4周します。ここではテレバントの香りを彫像やミイラに提示することが、さらなる清めとなったのです。また下準備の仕上げには別の香りが焚かれて、彫像やミイラに香り付けがなされました。

 儀式の各段階には、上エジプトと下エジプトそれぞれに向けた儀式がありました。そのうち下エジプトのための儀式では、甘い香りの樹脂を燻蒸した煙が使われました。それは、香煙で頭部を包むとエネルギーが得られると考えられていたからです。

 またミイラや彫像に香りを直接塗ることも重視されました。セム神官は香油や香膏の塗布を行いました。この儀式の最中には、セム神官とは別の神官たちが、セム神官の行為の効果を高めるための朗誦を行っていたと考えられています。面白いことにその朗唱の文句には、眼や顔に美顔料が塗られたという言及もあります。命の再生を願う開口の儀式であるだけに、目や口、鼻、耳など感覚が集中する顔への働きかけが大切だったのですね。

ちなみに、ここで使われた香料は、現在判明しているだけでも、古王国時代には7種類、新王国時代以降には10種類もあったとされています。ただし各成分の詳細は判明していません。というのも、たとえ同じ香りの成分であっても、当時は儀式に応じて名称を変化させていたために、今日では使用香料の特定が難しいのです。しかもこの段階に関する画像も存在しておらず、いまだ謎に包まれた部分も多くあります。

 儀式では他にも、アムシールという長い柄のついた香炉を手に、ミイラや死者の彫像の周りを巡りながら香をくゆらせたり、供物等に香りを付けたりと、命を再生させるために、香りが様々に用いられました。発掘調査と考古学研究が進んで、いつの日か、この儀式で使用された香りがより詳しく判明することを願わずにはいられません。

 さて本作品に話を戻しますと、サイズは23×15.8㎝と意外と小さいものです。いわばミニチュアサイズですね。ミイラや彫像の口や目を開くために使われた儀式用ナイフも全長約14㎝で、思いのほか細いものです。

この儀式用ナイフですが、下の画像でわかる通り、魚の尻尾の形をした先端が、全く鋭利ではありません👇。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

それは、ナイフとはいえ、この儀式においては実際に刃で口や目に切り込みを入れていたわけではなかったからです。余談ですが、私はこの事実を知って、非常に安堵しました! というのも、ミイラとなった死者の開口や開眼に使われたナイフと聞いて、外科手術でメスが使われる場面を即座に想像し、恐怖で震えていたもので(笑)。儀式では、この魚の尻尾の形のナイフ〔ペシュ=ケシュ・ナイフ〕の他にも手斧なども使われましたが、もちろん血が滴るようなことは行われず、単にそれらをミイラや彫像に提示したり、それらでミイラの目や口に触れたり――きっと優しく撫でる感じでしょう……そうであって欲しいです!!――していたようです。

最後にナイフの両脇に置かれた清めと塗布の容器をよく見てみますと、あらあら不思議。容器は、単に容器の形をしているだけで、水や香膏を入れる穴がほとんどありません! この画像のような、上部にごく浅いくぼみがあるだけです。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

これは、これらの道具が開口の儀式の象徴的役割を果たしているにすぎなかったからです。実際には別途用意された水差しや香炉やカップ等で、清めや香油等の塗布がなされたと考えられています。このミニチュアサイズの開口の儀式セットと形状が酷似したものは、ニューヨークのメトロポリタン美術館(古王国時代第5-6王朝のもの)やロンドンの大英博物館(第6王朝のもの)にも所蔵されています。ですので、当館所蔵の作品との比較なども今後行っていきたいと思っています。

さて、当館の《開口の儀式セット》は、スイスで暮らしたイギリス人で、著名なエジプト美術コレクターのアルトン・エドワード・ミルズ氏(1882-1970)の旧蔵品です。彼は20代のときに木綿会社の仕事をきっかけにエジプトに移住して以来、エジプト学に魅せられ、エジプト美術の一大コレクションを築いた人物でした。

当館の庭いっぱいに桜が咲き誇り、自然の旺盛な生命力を実感できるこの季節、ぜひ香水瓶展示室にて、命の再生への願いを香りに込めた古代エジプト人に思いを馳せて頂けたら幸いです。

岡村嘉子(特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション 24 イギリスの巡礼用水筒型セント・ボトル

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」と題した、旅をテーマとする前近代から近代にかけての日本絵画の展覧会を開催しています。

 この展覧会にちなんで、香水瓶展示室では、旅に関する香水瓶を数点ご紹介しています。例えば、こちらの17世紀イギリスの銀製のセント・ボトルです👇

《セント・ボトル》イギリス、1660-70 年頃、銀、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1660-70 , silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 皆様は、この器形をご覧になられて何をご連想なさるでしょうか? 一見したところでは、今が旬の洋ナシのようですね。たしかに洋ナシ型は、17世紀、18世紀に数多く使われた器形でもあります。ですが、より厳密にいうと、本作品の器形は、巡礼者が聖地へ赴く際に携えた水筒という、比較的珍しい形をしています。そして、この形と図柄の調和こそが、本作品の価値を高める重要な要素なのです。ですので、この機会に詳しくご紹介いたします!

 瓶を覆う唐草模様にしばし目を凝らしていると、思いがけないところから、二つの像が浮かび上がってまいります。ひとつは、ギリシャ神話の風神の主、アイオロスです。こちらの部分ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 風を自在に操るこの神は、ここでも目を見開き、頬を膨らませて、お得意の風を力強く吹かせているのがわかります。なにしろアイオロスは、西風のゼピュロスや北風のボレアース等の風の神々の頂点に君臨する風神の主です。アイオロスをして吹き飛ばせないものなどありません。

 そしてもうひとつの像は、このアイオロスに比べると、打って変わってほんわか、のほほ~んとした印象なのですが……👇。宗教画などに登場する愛らしい小さな天使です。アンディ・ウォーホルが商業デザイナー時代に描いた気ままな天使たちを彷彿させる線描ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 唐草模様の間に、あまり目立たない形で刻まれたこの2つの像には、どのような意味が込められているのでしょうか。それには、時代背景が深く関係していると先行研究において指摘されています。

 この香水瓶の制作時期と重なる1665年のイギリスでは、ロンドンで腺ペストが猛威をふるっていました。いわゆる「ロンドンの大疫病」の名で知られる、イギリス最後の腺ペストの流行です。それは住民の2割以上の死者を出し、一時は多くの王侯貴族や市民たちがロンドンから避難するほどの規模でした。

 この疫病流行に際し1665年のロンドンに流布した広告は、香りの歴史からすると、とても興味深いものです。というのもそこでは、腺ペストから身を守る方法として、芳香酢の蒸気やローズ水やその他の香料の噴出が推奨されているのです。実際に、この広告以外の資料においても、感染拡大の結果として、大量の芳香酢で体をマッサージしたり、室内に漂わせたり、街路に撒かれたりしたことがわかっています。

 以前、フランスの例として、18世紀のガラス製携帯用香水瓶においても見ましたが、当時のヨーロッパでは、迫りくるペストの瘴気から身を守るために、香料がいかに必要とされていたかがわかりますね。

 以上のような時代背景を踏まえて、本作品を再度見てみますと、アイオロスの姿には、勢いのある神聖な風で瘴気を遠ざけたいとの願いがうかがえます。また葉叢に戯れる無邪気な天使の姿は、香りに満ちた自然が人間にもたらす恩恵を謳うかのようではないでしょうか。そして、巡礼時の水筒を模した器形には、ペストが様々に変異しながら周期的に流行するイギリスから、遠く離れた聖地への思いが込められているように思えるのです。

 感染症流行下に、かつて誰かが胸に描いた、追憶の、もしくは想像上の巡礼の旅。コロナ前に本作品を見ていたときには真に感知しえなかったその切実さを、今になって感じています。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima I学芸員撮影。

 本作品は、現在の展示ケースの中で、同時代のドイツやオランダのポマンダーやヴェネツィアのラッティモ・ガラスの香水瓶、フランスのルイ14世の弟のオルレアン公フィリップ1世お抱えのガラスの名匠、ベルナール・ペロ作の人面をかたどった香水瓶という海杜コレクションきっての傑作とともに公開されています。ぜひ17世紀のヨーロッパ各国が誇った高い技術と、地方色豊かなデザインや素材をお楽しみくださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

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企画展示室情報:芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー

[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)

[休館日]月曜日(ただし9月18日(祝)、10月9日(祝)は開館)、9月19日(火)、10月10日(火)

[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料

*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

[タクシー来館特典]タクシーでご来館の方、タクシー1台につき1名入館無料

*当館ご入場の際に当日のタクシー領収書を受付にご提示ください。

[主催]海の見える杜美術館

[後援]広島県教育委員会、廿日市市教育委員会

第20回香水散歩 パリ装飾美術館 エルザ・スキャパレリ展

スキャパレリ展へと導く階段。岡村嘉子撮影、2022年。

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。今回は久々に海を越えた香水散歩をいたしました。日本からパリへの夜間飛行は、ロシア上空を避けてタジキスタンあたりを通過していくと思いきや、飛行中にふと目覚めて現在地を確認すると、なんとグリーンランド上空。思いもよらぬ東回りの航路の果てに辿り着いた約1年ぶりのパリで、真っ先に足を運んだのは、パリ装飾美術館でのエルザ・スキャパレリ(1890-1973)の大回顧展「ショッキング! エルザ・スキャパレリの超現実主義世界」です。

一時はシャネルと人気を二分した、ファッション・デザイナーのスキャパレリは、香水においても画期的な作品を生み出しました。その代表作の多くが海杜にも所蔵されているため、既にブログで度々ご紹介してまいりましたが、それでもなお、再びスキャパレリをテーマに取り上げなくてはならないほどに、パリ装飾美術館での展覧会は素晴らしいものでした。

この展覧会では、彼女を象徴する色のショッキング・ピンクのように、遊び心に溢れ、エネルギッシュで大胆な彼女のデザインが、所狭しと展示されていました。その数、約520点! それには服はもちろんのこと、小物類やデザイン画、室内装飾、香水瓶と彼女の偉業を語るには欠かせない作品が詰まっています。しかも、ドレスひとつをとっても、小さなボタンにまで、彼女の革新的精神が込められているので、大変見応えのある展覧会だったのです。

 展覧会は8つのテーマで構成されていましたが、今回はそのうち、特に印象深かった3つのテーマについて取り上げたいと思います。

 ひとつ目は、コレクションのデザイン画をテーマにした展示です。床から天井までの壁だけでは足らずに、床にまでびっしりと埋め尽くされた、デザイン画の複製展示です。こちらです👇

目を凝らしていくと、複製の中に、オリジナルのデザイン画も含まれていまので、宝探しのような気分を味わえるのですが、この展示で最も忘れがたい展示は、何よりもこちらの手袋の展示です!!☟

スリラー映画よろしく、壁から手袋を着けた腕がニョキニョキ、ぬうっ、だらーんっと突き出ているのです。しかも画像の通り、手先の動きがやけに表情豊かです。

横から見ると、このような感じです☟

さらに、展示されている手袋も、スキャパレリのデザインを特徴づける、奇抜さ満載!「ガオー!!」👇

かつて手袋は香りを沁み込まして使用されていたので、香水史において手袋は重要な存在です(それについては、このブログ〔第7回香水散歩〕でも以前、ご紹介しましたね!)。そのようなわけで、これまでにも数々の手袋の展示を各地で私は見て参りましたが、今回のような、つい顔が綻びてしまうほど、面白い展示は初めてです!

紳士からの視線を意識して、か弱いふりをしたり、はたまた取り澄ましたりするだけの女性ではもはやない、狂乱の時代1920年代を経験した新たな時代のおおらかでユーモア溢れる女性像が、小物においても表現されているのですね。スキャパレリの主な顧客であった上流階級の女性たちが率先して、優雅さの質を変えていったことがよく伝わる展示でした。

 印象に残る2番目のテーマは、「綺羅星のごとく居並ぶ前衛芸術家たち」です。展示室全体で、最も広い空間を占めていたのがこのテーマでした。例えば、うみもり香水瓶コレクションで取り上げた《太陽王》〔うみもり香水瓶コレクション21〕をデザインした、サルヴァドール・ダリにあてられた大きな展示室は、共同制作の服飾やオブジェだけでなく、写真をはじめ二人の深い信頼関係を伝える数多くの資料が展示されていて、見応えがありました。《太陽王》とはこちらの左の画像ですね👇

左:スキャパレリ社《太陽王》1946年頃透明クリスタル、金、エナメル デザイン:サルヴァドール・ダリ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, LE ROY SOLEIL – 1946, Design by Salvator DALI, Made by Baccarat ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

右:スキャパレリ社 、香水瓶《ショッキング》デザイン:レオノール・フィニおよびピエール・カマン、1937年、透明ガラス、彩色ガラス、海の見える杜美術館SCHIAPARELLI, SHOCKING FLACON Design by Leonor FINI and Pierre CAMIN  -1937, Transparent glass , color glass, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima

他にも上の右の画像の香水瓶《ショッキング》〔うみもり香水瓶コレクション13〕をデザインしたレオノール・フィニによる絵画や、ジャン・コクトーのデッサンを転写した上着や、彫刻家アルベルト・ジャコメッティによるデザインのボタンが使用されたシックなツーピース等、スキャパレリとのコラボの事実が既によく知られている芸術家から、さほど知られていない芸術家まで、様々な顔ぶれが登場するので、歩を進める度に胸が躍らずにはいられませんでした。さすが20年ぶりの大回顧展だけあって、前回の展覧会では紹介されていなかった新たな事実が、数多く提示されています!

印象深い3つ目のテーマである「パリ・ヴァンドーム広場のブティック」も、同時代の芸術家たちに関します。1935年にオープンしたヴァンドーム広場のブティックの内装の再現展示では、ジャン=ミシェル・フランクやジャコメッティ、ラウル・デュフィなど多くの芸術家の仕事を見出すことができました。

ところでジャン=ミシェル・フランク(1895-1941)は、アール・デコ期に高級素材を用いたシンプルな家具を制作し、上流階級の間で人気を博しながら、20世紀前半を生きたユダヤ人ゆえに(彼はあのアンネ・フランクのいとこに当たります)時代に翻弄され、活動期間が短く終わってしまったため、同時代の他のデザイナーに比べると、あいにくいまだ知名度に劣るかもしれません。しかし彼の名は、ジャコメッティ研究(ちなみに私の修論のテーマはジャコメッティでした)のなかでは、度々登場する名でもあります。二人の接点は、ジャコメッティがシュルレアリスム・グループから離れて、戦後のいわゆるジャコメッティ・スタイルを生み出すための独自の探究をしている期間に生じました。ジャコメッティは生活のために、家具デザイナーだった弟ディエゴとともにフランクに協力して、室内装飾のデザイン・制作を手掛けていたのです。今回のスキャパレリ展では、まさにジャコメッティの探究期間の仕事を見る貴重な機会であったことも、真っ先にこの展覧会へ足を運んだ理由のひとつでした。

この展覧会では、フランクがブティックの地階に設けた、「鳥かご」ならぬ巨大な「香水かご」も再現されていました。

当時、金彩された竹と金属でできた「香水かご」のなかに収められたのは、香水と化粧品。記録写真によると、香水かごの片側は、広場に面した大きな窓の側に設けられているので、ショウ・ウィンドウの機能も備えていたことがわかります。再現展示では残念なことに、かごの上部が省略されていますが、実際は、鳥かごを模して、吊り下げ用の把手がついていたので、当時はさらに魅力的であったと想像されます。

香水かごを背後にして据えられた展示台の上には、ドーム型のケースに入った色とりどりの香水瓶がずらりと陳列されています。とくにこの展示台の周囲は、来館者が途切れることはありませんでした👇

それはきっと一つ一つの香水瓶の形の楽しさが、人を惹きつけるからでしょう。なにしろスキャパレリの香水瓶といえば、このようなデザインが目白押しなのですから。👇

左:スキャパレリ社《スリーピング》1938年透明クリスタル、赤色クリスタル、金 デザイン:フェルナン・ゲリ=コラ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, SLEEPING– 1938, Design by Fernand GUERY- COLAS, Made by Baccarat ©Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 
右:スキャパレリ社《スポーツ》1952年、緑色ガラス、金、エナメル  製造:サン=ゴバン・デジョンケール社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, SPORT – 1952, Made by Saint-Gobain Desjonquère © Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 スキャパレリ以後の香水瓶の変遷を見ても、スキャパレリほどの奇抜なアイデアに溢れ、それと一体化した機知に富む香水名を持ち、それでいながら高級素材によって上質さや優雅さを保っている香水瓶は、なかなか見当たりません。そのような意味で、スキャパレリ自身が、香水史において燦然と輝く大きな星の一つであったことを、この展覧会で改めて認識させられます。彼女の活動拠点であったパリならではの充実した回顧展を見て、香水散歩の楽しさを再確認いたしました。

岡村嘉子

うみもり香水瓶コレクション15 ランバン社《モリス広告塔》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の香水瓶展示室では、企画展示室で開催中の、明治・大正・昭和時代のちらしを紹介する「引札-新年を寿ぐ吉祥のちらし―」展に合わせて、フランスの広告塔をかたどったランバン社《モリス広告塔》を展示しています。

「モリス広告塔」という名だけでは、いかなるものか想像しづらいものですが、画像を見れば一目瞭然、パリの街角でおなじみの、あの広告塔のことです!

こちらです👇

画像1

ランバン社、香水瓶《モリス広告塔》デザイン:ギョーム・ジレ、1950年頃(?)、陶器、紙、 海の見える杜美術館LANVIN, COLONNE MORRIS FLACON Design by Guillaume Gillet -C.1950? Earthenware,Paper, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

この「モリス広告塔」は、1868年に登場して以来、パリのあちらこちらの街頭に普及した、ポスターを掲示するための特別な円柱です。コンサートや演劇等の催しを道行く人に知らせるこの広告塔は、今日に至るまでパリジャンに愛され、この都市を象徴するオブジェのひとつとなっています。また異国から訪問する私のような者でも、パリの空港から市内に入り目的地へと着くまでのあいだ、車の窓からいくつもの広告塔を見るとはなしに見ていると、活気ある愛しのパリに再びやってきたのだという実感が次第にこみ上げてくるものです。モリス広告塔は、文化イベントの最新情報を提供する以上に、唯一無二のパリのエッセンスそのものを見る者に伝えてくれるのかもしれません。

ただ、あまりに町のあちこちにありすぎて、ついありがたみが薄れてしまい(モリス広告塔よ、ごめんなさい!)広告塔だけを撮影したことはないのですが、この度、実際の様子をお伝えしようと、過去の画像データから写真を探していると、偶然小さく写り込んだものを見つけました!こちらです👇

画像2岡村嘉子撮影、2009年

見つけるのは名作絵本『ウォーリーをさがせ!』並みに難易度が高いですが、おわかりになりましたか? 地下鉄入り口の美しい欄干とモザイクを撮影していたので、右奥にモリス広告塔があったとは我ながら気付かなかったのですが、奥へと延びる狭い通りの入り口右側に、しっかりとあるではないですか! 広告塔の拡大写真と、ランバン社の香水瓶を並べてみると……、

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

その類似がよくわかりますね!

ランバン社の本作品は、終戦後まもなくファッションデザイナー、ジャンヌ・ランバンによって発表されました。柱の表面には、「アルページュ」や「マイ・シン(私の罪)」など、2021年7月のブログでも取り上げた、戦前の明るい時代を彩った、ランバン社歴代の香水のポスターが貼られています。ジャンヌ・ランバン母子が描かれたランバン社のマークのポスターも中央にありますね。

ポスターの雨除けの役目を果たす上部のはりだし部分には、香水瓶に収められた男性用香水「オー・ド・ランバン」の文字が刻まれています。この香水もまた、1933年からあるものですが、香水瓶のデザインをパリの街角の象徴に一新することで、ユーモアに満ち活気あふれる戦後のパリを広く印象づけることとなったのです。

さて、この大胆なデザインの改変を行ったのは、後年、フランスの近代建築を代表する建築家として名を馳せたギョーム・ジレです。

私は、香水瓶をデザインするまでのジレの人生を思うと、この香水瓶が放つ、平穏で明るいパリの雰囲気にことのほか圧倒されます。というのも、そこにはパリからも親しい人々からも、そしてそれらが放つ香りからも遠く離れた地で、捕虜として過ごした暗い年月のなか、再会を強く夢見たものが投影されているように思えるからです。

ジレは、パリ近郊、フォンテーヌ=シャアリのジャックマール=アンドレ美術館の学芸員の父と、アカデミー・フランセーズ会員を代々輩出した家系出身の母のもと、常に芸術が身近にある家庭環境のなかで育ちました。そのため、長じた彼が芸術の道へ進んだのは当然のことであったでしょう。彼は国立エコール・デ・ボザールで絵画を学び、その一方で1937年、国家試験合格の建築家となると、同年に開催されたパリ万国博覧会でブラジルとウルグアイをはじめとするパヴィリオンの建設に参加します。このように若き芸術家として順風満帆に歩み始めるのですが、時代は刻一刻と避けがたい戦争の影が色濃くなっていく頃のこと。活躍の矢先の1939年に彼は動員され、翌1940年にはナンシーで捕らえられて、ドイツ軍の捕虜となってしまうのです。こうして1945年に解放されるまでの約5年間、彼はドイツで捕虜生活を送りました。

ジレは収容所での日々の中、画家・装飾家として自分の出来得る限りのことをしています。例えば、現在も収容所のあった地に残る、学生時代からの友人ルネ・クーロンとともに手掛けた、いわゆる「フランス人の礼拝堂」です。それは、収容所の質素な屋根裏の壁に「キリストの受難」や「ピエタ」等のキリスト教主題のフレスコ画を描いたものでした。同礼拝堂の壁には、クーロンによるフランスの聖人たちが描かれたフランスの地図もありました。明るい色合いで描かれた天使や聖人が見守るこのささやかな祈りの空間が、どれほど多くの捕虜たちの心を慰め、また故郷への思いを募らせたことでしょう。

そのような苦難の日々を経て、ようやく戻ったパリおよび、次いで滞在したローマにて、ジレはかつての日常を取り戻し、解放後の自由を謳歌します。

そのなかで、彼はジャンヌ・ランバンの娘であるポリニャック伯爵夫人と親しくなり、戦後のランバン社の香水の広告をいくつも手掛けています。そのいずれもがこの香水瓶同様、明るく楽しい雰囲気に満ちているのです。例えばこちらです👇

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ランバン社 広告《ランバンの香水》デザイン:ギョーム・ジレ、1950年、印刷、 海の見える杜美術館 LANVIN, ADVERTISEMENT Design by Guillaume Gillet -C.1950 Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ランバン社の戦前のアール・デコ・デザインを知る者としては、香水名すら正面に明記されていない、1925年を代表する黒と金のシンプルかつ優美な球形香水瓶からの、サーカスの愉快な面々が体現する香水へのデザインの変化に驚きつつも、その大胆なユーモアについ笑みが浮かんでしまいます。なんといっても、名香「アルページュ」の名は、陽気なお猿さんが手にする日傘の柄として描かれていますし、これまた一時代を築いた「マイ・シン(私の罪)」は、なんとヒョウ柄パンツ姿にスキンヘッドのいかついレスラーの胸板に直接記されているのです!

左:ランバン社《球形香水瓶、マイ・シン(私の罪)》 デザイン:アルマン・ラトー(本体)ポール・イリーブ(イラスト部分)1925年、黒色ガラス、金、海の見える杜美術館LANVIN, BOULE FLACON, Design by Armand Rateau, Paul Iribe -1925, Black glass, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima右:ランバン社 広告《ランバンの香水》部分、 LANVIN, ADVERTISEMENT  ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

戦争の苦難の年月の反動のように、そこかしこで笑みが生まれるこの雰囲気こそ、ジレに限らず彼と同時代の多くの人々の様々な思いや願いを代弁するものではないでしょうか。1950年前後のランバン社の香水瓶と広告は、心身に多くの傷を負いながらも、平穏な世界を目指して前へ進もうとする無数の人々の存在を克明に伝えてくれるものであると私には思えるのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

画像7

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

「アルページュ」の日傘を持つお猿さんの顔にも笑みが!

 

うみもり香水瓶コレクション13 スキャパレリ社《ショッキング》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。金木犀が香り、すっかり秋らしくなってまいりましたね。皆様いかがお過ごしでしょうか。

現在、海の見える杜美術館では企画展「美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―」が行われています。明治以降の日本の画家たちが表現した様々な女性美を紹介する展覧会です。会場の出品作品は4つのテーマに分けられていますが、そのうちの一つ「第3章 女の装い プラス・マイナス」では、下の画像のような女性が身繕いをしている姿やそれを解いた姿をとらえた作品が展示されています。岡本神草が描いた女性のこの表情は全体の優しい色合いと黒髪に引き立てられて、はっとする美しさですね。

岡本神草《梳髪の女》後期

岡本神草《梳髪の女》大正15年(1926年)頃、©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※『美人画ラプソディ・アンコール』展の展示期間後期(10月5日~)出品作品

そこで今回は、「女の装い プラス・マイナス番外編 フランス」として、ヨーロッパの香水瓶において同テーマに該当する作品をご紹介したいと思います。

まず一つ目は、服飾デザイナーのエルザ・スキャパレリが1937年に発表した《ショッキング》です。こちらです👇

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スキャパレリ社 、香水瓶《ショッキング》デザイン:レオノール・フィニおよびピエール・カマン、1937年、透明ガラス、彩色ガラス、海の見える杜美術館SCHIAPARELLI, SHOCKING FLACON Design by Leonor FINI and Pierre CAMIN  -1937, Transparent glass , color glass, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

美人画展に合わせたと申しながら、いきなり顔のない人体を登場させて驚かせてしまいますが、どうかお許しください! 目の覚めるように鮮やかなピンク「ショッキング・ピンク」の生みの親であり、「モード界のシュルレアリスト」「奇想天外志願者」とも称されたスキャパレリの香水瓶ですので、一筋縄ではいかないことをご諒承くださいませ。

しかし、顔のない人体とはいえ、肩にはなにやら可愛らしいお花もたくさんついていますし、決して不気味な印象は受けませんよね!? よく見ると、首には巻き尺が掛けられ、首の上には金色のヘッドキャップがついています。そう、こちらは洋装の仕立て用ボディ(トルソー、裁縫用マネキンともいいます)をかたどった香水瓶なのです。肩のお花は、お遊びのように添えられた装飾ですね。言葉通り、エレガントに華を添えています。

この香水瓶は、瓶本体だけでは完結しません。瓶に加えて、あたかも貴重品のように、ガラスのドームで覆う仕様になっています。ドームの縁には、花嫁が頂く伝統的な冠のレース模様が施されています。

画像2

それらを収めるケースも、まるでダイヤのブレスレットあたりが入っていそうなジュエリー・ケースを思わせるデザインです。もちろんこちらにも繊細なレース模様が転写されています。

この香水瓶のデザインを完成させたのは、シュルレアリスムの影響を受けた女性画家レオノール・フィニとガラス工芸作家のピエール・カマンです。夜の闇の中に浮かぶような、フィニの幻想的な絵画に比べると意外なほど、明るく華やいで開放的な印象を受けますが、それはデザインの注文主であるスキャパレリ自身の最初の構想を尊重したものであるからでしょう。

ジュエリーのような高級感とユーモアに満ちたこの香水瓶に入れられたのは、常識を打ち破る香水を誕生させたいというスキャパレリの希望通りに調合された、奇抜かつセンシュアルな独特な香り。当然のことながら、発表当時から、多くの人々をあっと驚かせ、斬新な香りに魅せられる人々が続出し、大成功をおさめました。

さて、ときには顧客を奪いあうほどに、同時代に活躍したシャネルとは長年のライバル関係にあったエルザ・スキャパレリですが、前者が男性的で直線的なシルエットによってミニマリズムを追求したことに対し、後者のスキャパレリは女性的な曲線を多用し、装飾を積極的に用いたという大きな違いがあります。

また、スキャパレリの特徴として特筆すべきなのは、同時代の芸術家たち、とりわけダダイストやシュルレアリストといった前衛芸術家たちと親しく交わり、しばしば彼らとコラボレーションをしながら、ドレスや靴や帽子が、そのまま芸術作品となるようなファッションを提案したことです。つまり、彼女はファッションに芸術を持ち込んだのです。

それは、リンチェイ・アカデミー図書館長を務める東洋学者の父を筆頭に、著名な天文学者やエジプト学者を輩出した学者一族と、ルネサンスの大パトロンであるメディチ家の末裔を母にして、現在はローマの国立古典絵画館となっているコルシーニ宮で生を受けたときから既に運命づけられていたのかもしれません。彼女の家庭環境は、第一級の学問と芸術が常に身近なところにあり、日々の装いとはそれらと分かちがたく結ばれていたのでしょう。

しかも1890年生まれの彼女が青年時代を迎える1900年代から1920年代にかけては、欧米各地で、前衛芸術が生まれた時期に当たります。スキャパレリは、イタリアを出て、結婚、出産、離婚を経験しながら、イギリス、ニューヨーク、パリで暮らすなかで、各地の最新のファッションと芸術家たちと知り合っていきました。なかでもサルヴァドール・ダリとは、その型破りな独創性を持つ個性同士で、気が合ったのでしょう。1935年にパリのヴァンドーム広場に新たなブティックに開店させた年に、同広場に面したホテル・ムーリスに住むダリと知り合うと、彼の絵画やデッサンを基にしたドレスや帽子を次々と作り、長きにわたって協力関係を築きました。例えば、逆さまにしたハイヒールの形の帽子や、前身ごろに引き出し型のポケットを多数つけて、チェストに見立てたジャケットなど、現在も語り草となるような、かつて誰も見たことのなかったデザインを生み出しています。

ところで、マドンナが監督をした映画『ウォリスとエドワード』においても、エドワード8世と結婚しウィンザー公爵夫人となるウォリス・シンプソンが、会食にてスキャパレリのドレスを話題にする場面がありましたが、スキャパレリのドレスは、洗練された上流階級の女性たちの間で人気を博し、とりわけ社交の折には欠かせないものとなっていました。それらに加えてマレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、アルレッティといった名だたる女優たちも、スクリーンの中だけでなく日常着として、スキャパレリの服を纏ったため、映画が全盛の時代において、無数の女性たちの憧れとなっていったのです。

実は、香水瓶《ショッキング》の仕立て用ボディも、スキャパレリの顧客であったアメリカの女優、メイ・ウェストの体型を再現したものと言われています。なんでも、ドレスの寸法のために来店する時間を惜しんだメイ・ウェストが、正確な寸法のボディを送ってよこしたものを模したとのこと。道理で、香水瓶のシルエットがグラマラスなはずですね!

それにしても、この仕立て用ボディからは、これから一体どのようなドレスが生まれるのでしょう? 本作品を見ていると、女性が新たな一着に出合うときの、期待に胸を膨らませた華やいだ気持ちまでも伝わってきます。

女性の美を最も輝かせるのは、ひょっとしたら流行のファッションそのものではなく、このような、一歩先の未来を夢見る、無邪気で明るい心なのかもしれませんね。スキャパレリの遊び心に満ちた香水瓶がもたらす心の作用をひしひしと感じつつ、今一度「美人画ラプソディ・アンコール」の展示作品とじっくりと見比べたいと思います。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

うみもり香水瓶コレクション12 ルネ・ラリック《アンフィトリート》とラリック社《オンディーヌ》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館で開催中の企画展「アート魚ッチング 描かれた海の仲間たち」では、様々な水中動物を描いた、江戸時代から昭和時代までの絵画や版画を展示しています。

それに関連して香水瓶展示室でも、従来の常設展示に加え、夏期限定にて海の仲間たちをかたどった香水瓶2作品を、8月22日まで展示しています。

ひとつめは、1920年にルネ・ラリックがデザインした貝殻の形をした香水瓶《アンフィトリート》です。

画像1

ルネ・ラリック、香水瓶《アンフィトリート》デザイン:ルネ・ラリック、1920年、透明ガラス、茶色パチネ、海の見える杜美術館RENE LALIQUE, AMPHYTRITE FLACON, Design by René Lalique -1920, Transparent glass , brown patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

本作品の貝殻は、写実的な表現ではなく、全体を正円に近い形とし、細部も簡略化しているのがわかります。この形に、1920年というアール・デコ・デザインが興隆した時代が色濃く反映されていますね。

栓には、アムピトリーテーという、ギリシャ神話の海神ポセイドンの妃である海の女神の姿がかたどられています。彼女は、ラファエロがローマのファルネーゼ宮に描いた、かの有名な美しき《ガラテイア》の姉妹です。香水瓶名の「アンフィトリート」とは、アムピトリーテーのフランス語名です。

ところで彼女の姿勢は、一体何をしているところなのでしょう? 片膝をつき、その上にひじをついています。あまり見かけることのない姿勢ですね。その疑問を解くカギが、本作品の6年前にルネ・ラリックがデザインをした、よく似た形の香水瓶《ル・シュクセ》(今期は展示していません)から探ることができます。こちらです。画像2

ルネ・ラリック、ドルセー社香水瓶《ル・シュクセ》デザイン:ルネ・ラリック、1914年、透明ガラス、茶色パチネ、海の見える杜美術館RENE LALIQUE, D’ORSAY, FLACON LE SUCCES, Design by René Lalique -1914, Transparent glass , brown patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

いかがでしょう? 《アンフィトリート》に、酷似していると思われませんか? 2つの作品を並べてみると、全体のサイズがほぼ同じであり、高さにいたっては9.5㎝で一致していることがわかります。

画像3

両作品はともに貝殻を模した円形の香水瓶ですが、右の《ル・シュクセ》では貝殻の表面の渦巻に沿って、真珠のフリーズがあしらわれている一方、左の《アンフィトリート》ではそれが取り払われ、よりシンプルになっています。

そして、問題のアムピトリーテーの不可解な姿勢ですが、右《ル・シュクセ》は、膝を抱えてうずくまった姿勢であることに対し、左の《アンフィトリート》は、そこから、いざ立ち上がろうとしている姿勢であると、先行研究では考えられているのです。

アムピトリーテーが描かれる際には、海の仲間たちから讃えられる勝利の姿が、ニコラ・プッサンを始め多くの画家の筆により繰り返し表現されてまいりましたが、本作品では眠りから覚めて、新たな世界へと踏み出そうとする姿となっているために、より人間らしさ(女神とはいえ、「あの」ギリシャの神様ですから!)や親しみを感じられるものとなっています。

さて、二つ目の作品は、ゲルマン神話の四大精霊のひとつ、水の精であるオンディーヌ(ドイツ語名 ウンディーネ)をテーマにした香水瓶です。

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ラリック社、香水瓶《オンディーヌ》デザイン:ラリック・フランス社、1998年、透明クリスタル、限定エディション、海の見える杜美術館LALIQUE, ONDINE FLACON, Design by Lalique France -1998, Transparent crystal, Limited edition, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

オンディーヌは、本来は性別のない存在でしたが、19世紀初頭のドイツのロマン主義の作家フーケの小説によって、美しき乙女の姿の精霊として描かれて以来、広く親しまれることとなりました。フーケのオンディーヌ像は、多くの芸術家にインスピレーションを与え、この美しき精霊を主題とした音楽や演劇、美術や文学が、世界各地で次々と生み出されます。なかでもチャイコフスキーのオペラや、ラヴェルやドビュッシーのピアノ曲はよく知られていますので、すぐにその旋律が浮かぶ方も少なくないのではないでしょうか。

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本作品では、オンディーヌの切なげな表情としなやかな肢体、そして手足のひれが、いくつもの真珠を重ねたような髪と水しぶきと一体化しています。それゆえに、水中の一瞬の動きが美しく情感の溢れるものとして表現されていますね。私はこの作品を見ると、その幻想的な雰囲気にはっと息をのんで、夏の暑さを瞬時に忘れてしまいます。

古来、日本人は夏の暑さを忘れるために、秋の草花や幽霊画(!)等、様々な図像を好んで見てまいりましたが、今夏は、宮島のさわやかな海風を感じつつ、西洋の水辺の神々をかたどった、ラリックの涼し気なガラス作品で涼を味わいたいと思います。

 

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

うみもり香水瓶コレクション7 蔵出しポマンダー

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。前回は、17世紀前半のドイツの《ポマンダー》をご紹介いたしましたが、当館は他にも多くのポマンダーを所蔵しています。

クリスマスのデコレーションにも使われる、オレンジにグローヴ等を刺した植物のポマンダーもそうであるように、香水瓶のポマンダーといえば、球形が広く知られていますね。たしかにポマンダーが使われ始めた当初は球形が主流でしたが、時代が下るにつれて、様々な形が登場しました。この機会にその多様性をお目に掛けたく、海杜蔵出しコレクションとして、今回は、とりわけちょっと面白い形のポマンダーをいくつかご紹介いたします!

1 洋ナシ型ポマンダー

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 海の見える杜美術館

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館

《ポマンダー》 ドイツ、アウグスブルグ、1700-1720年頃、銀、銀に金メッキ、七宝、海の見える杜美術館所蔵 Pomander, Germany, C.1700-1720, Silver, gilt silver, enamel, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

まず一つ目は、洋ナシ型ポマンダーです。前回ご紹介した同国のポマンダーと同様、香料が収められた内部には、まぶしいほどの金色が塗られています。

こちらです👇

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館

開いてわかる、この光! 疫病が流行するなかにあって、人間の健康を守る役割を担った香料の容器としては、十分な心理的効果(もう、見ただけで効きそう!)を与えてくれるように思います。

よく見ると、掌に収まる7センチ弱の洋ナシ型ポマンダーの両脇には、さらに小さな二つの洋ナシがぶら下がっています。これらは単なる装飾ではなく、本体同様、開閉可能で、小さなスポンジを収納するためのものであったと考えられています。

2 振り香炉型ポマンダー

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館

《ポマンダー》 ドイツ、アウグスブルグ、1700-1720年頃、銀、銀に金メッキ、七宝、海の見える杜美術館所蔵 Pomander, Germany, C.1700-1720, Silver, gilt silver, enamel, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

さて、お次にご紹介するのは、振り香炉型です。キリスト教の聖堂での礼拝時に、祈りが天まで届くよう願って振られる香炉の形状は、疫病を遠ざけるために持ち歩かれるポマンダーに相応しい形ともいえますね。

表面の美しい編み目は、ヤナギの素材感を銀で表現したものです。17世紀と18世紀のドイツでは、このようなヤナギの籠編みを模した装飾が好まれました。この細工から、バスケット型とも命名したくもなります。しかも本作品は、ふっくらとした編み目はもちろん、鎖をつなぐ留め具部分にもヤナギの枝が精緻に表現されているため、当時の銀細工職人の技術の高さがうかがえます。

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館

本体の蓋部分を取り外すと、画像のように、円盤状の中蓋がさらに付いているのがわかります。二重の蓋でしっかり閉じられた中には、液体香料が入れられていました。実はこのことからも、ポマンダーが持つ歴史の一端を知ることができるのです。というのも、ポマンダーにおさめられる香料は、当初は固形、しかもアンバーグリスやムスクなどの気化しない香料でしたが、その後、香料を密閉できる容器が作られるようになったため揮発性の香料になり、やがては、液体まで入れられるようになったからです。つまり、容器の形状とその中身から、制作された時代がある程度わかるのですね。

台座部分も取り外せる仕組みになっており、何らかの小物――やはりスポンジでしょうか――をおさめることができます。

3 ひょうたんとバロック真珠の間型ポマンダー

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館

《ポマンダー》 オランダ、1690年頃、銀、七宝、海の見える杜美術館所蔵 Pomander, Netherlands, C.1690, Silver, enamel,Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ドイツのポマンダーが続きましたので、最後はオランダのポマンダーを。この形を表現するのに、適当な語が見つからないのですが、あえていえば、くびれのないひょうたんと、制作当時の時代である「バロック」という名称の由来となった、歪んだ真珠を合わせたような形と言えるでしょうか。

本作品でご注目頂きたいのは、形よりもむしろ、表面に大きく描かれたチューリップの図柄です。

16世紀後半に、オスマン帝国からヨーロッパにもたらされたチューリップは、たちまちヨーロッパ各地の王侯貴族の富の象徴となりました(前回のドイツのポマンダーも、チューリップが彫られていましたね!)。その高まる人気に応えようと、チューリップ栽培に適した広大な砂地を有するオランダは、球根栽培や品種改良に励みます。17世紀には、チューリップが国の主要な輸出品のひとつにまでなりました。現在でもオランダといえば、風車とチューリップが真っ先に思い浮かびますが、それは17世紀以来、人々に共有され続けたイメージだったのですね。

さて、当時のオランダといえば、鎖国中の日本とすら貿易を行う、世界一の海運国家、しかも主権が市民にある共和国でした。市民が比較的裕福な暮らしをしていたため、小口投資家も数多くいたのですが、彼らが財を投じたのが、なんとこのチューリップ。それは実物の取引ではなく、あくまでも書類上の先物取引の対象でした。なかでも最も高値が付けられたのが、はなびらに縦縞のような斑が入る「ブレイク」と呼ばれる品種です。そう、まさに、このポマンダーに描かれたチューリップなのです。

不動産バブル等、行き過ぎた投機は、やがて悲劇的な終わりを迎えるのが世の常とも言えますが、チューリップもやはり1637年に突然、暴落します。しかしながら、それらの世情とは無関係にして、チューリップという春を告げる可憐な花を愛好する者たちの心は変わらなかったことを、チューリップ・バブル崩壊の約50年後に制作された、このポマンダーは教えてくれます。

最後に、ポマンダー内部もぜひご覧ください☟

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館

ポマンダーを開けると、七宝のつやつやとした鮮やかなブルーが目に飛び込んでまいります。それは、チューリップの故郷オスマン・トルコの文物や、オランダ東インド会社が活躍した数々の海を彷彿とさせ、当時のオランダに暮らす人々の航海や遠い国々へのひとかたならぬ思いをも伝えてくれるものなのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

うみもり香水瓶コレクション5
18世紀と20世紀のハトの口づけ香水瓶

こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。窓越しから眺める庭の木々の葉がすっかり舞い落ちると、これまで清らかな声はすれども姿は見えずといった、葉かげの鳥たちがその姿を現わすようになります。光射し込む冬の済んだ空気の中を、枝から枝へと自由に飛び回る彼らを見るのが、パソコンに向かって疲れた目を休めるのに格好のひとときとなっています。

そこで、今月のうみもり香水瓶コレクションは、数多存在する鳥の中でも、人間の暮らしにとって常に身近にあったハトをかたどった香水瓶を取り上げたいと思います。

西洋の香水瓶でハトが題材となる場合、ある決まった型がよく用いられます。それは、二羽のハトが仲睦まじく嘴(くちばし)を寄せ合う「ハトの口づけ」です。とてもロマンティックなモチーフですが、時代を追っていくつもの香水瓶を見てまいりますと、それぞれがときの価値観を反映して、表現が異なっているのがわかります。今回はその代表的な例として貴族社会が繁栄していた18世紀中葉の作品と、第二次世界大戦を経験した直後の20世紀中葉の作品をご紹介したいと思います。

まず、18世紀のこちらの香水瓶から。👇

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《双口セント・ボトル》 イギリス、セント・ジェイムズ、1755年頃、軟質磁器、金、海の見える杜美術館所蔵 DOUBLE SCENT BOTTLE, England- SAINT JAMES, C.1755, Soft paste porcelain, gold, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

18世紀の装飾芸術において、愛は重要なテーマのひとつでした。本作品の中央に配された二羽のハトを囲む咲き誇るバラの花は、言わずと知れた愛を象徴する花。その馥郁たる香りが漂うなか、二羽は口づけを交わしています。二羽の側に配された香水瓶の蓋部分には、愛の結晶たる三羽の雛鳥もいます。そのうちの二羽は親鳥を真似て口づけをしているのがほほえましいところ。ハトは古今東西の様々な象徴となってまいりましたが、ここではとりわけギリシャ神話に由来する子孫繁栄や豊穣の象徴として親しまれていたことを思い出させてくれます。

そして、香水瓶の表面に施された色鮮やかな薔薇色や緑のグラデーションが、二羽の親ハトが生み出す明るく甘美な世界を、一層印象深いものとしています。この繊細な色調は、イギリスの軟質磁器ならではのもの。幾世紀ものあいだ、はるか遠い中国や日本の伊万里から輸入しないかぎり入手できなかった貴重な磁器が、開発の末にようやくヨーロッパの地でも製造が可能となったのは、18世紀初頭のことでした。以後、ヨーロッパ各地で、磁器製造が盛んとなりますが、イギリスはドイツ、フランスに遅れて18世紀半ばにその製造に成功しました。したがって本作品は、イギリス磁器の黎明期(れいめいき)を語る貴重な作品のひとつともなっています。

次にご紹介するのは、こちらの香水瓶です。👇

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ニナ・リッチ社 香水瓶《2羽のハト》 デザイン:マルク・ラリック、1951年、透明クリスタル、海の見える杜美術館所蔵 COLOMBES FLACON, Nina Ricci, L’AIR DU TEMPS 1948, Designs by Marc LALIQUE – 1951, Transparent crystal, Umi-Mori Art Museum, Hirosima

ニナ・リッチ社を代表する香水「レール・デュ・タン」は、1951年にその装いを新たにした香水瓶を発表しました。新デザインを担当したのは、ガラス工芸家ルネ・ラリックの息子、マルク・ラリック。彼はそこで18世紀に流行した「ハトの口づけ」のモチーフを再解釈します。18世紀に花咲ける園で愛を確かめ睦び合っていた二羽のハトは、20世紀中葉には、翼を広げてともに世界の空へと羽ばたいていくことになったのです。

透明クリスタルの煌きが、どこまでも澄み渡る大空や大気、そして二羽のハトの心を物語るかのようです。第二次世界大戦を経て、傷ついた心を抱えながら、それでも新たな世界への希望を持ち続けようとする祈りにも似た時代の空気をここに感じるのは私だけでしょうか。この香水瓶を眺めていると、白いハトがキリスト教美術では、常に純潔や聖霊、平和の象徴であったことや、日本においては神の使いとして神聖視されていたこと等が思い出され、師走を迎えつい慌ただしくなりがちなこの季節に、清らかなものに触れてほっと一息、心が解き放たれる気がするのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)