「百花百鳥」展、開催中です!

蒸し暑い日々が続き、梅雨明けを待ち遠しく思っている毎日です。

海の見える杜美術館で開催中の「百花百鳥」展は、会期が残すところあと5日となりました。

美術館1Fのおすすめフォトスポットです

本展では、江戸時代から明治、大正時代にかけて制作されたさまざまな花鳥版画作品を展示しています。ここでは、歌川広重、幸野楳嶺、小原古邨の作品の展示風景を少しだけご紹介します。

第2章 広重花鳥版画の世界 より

浮世絵における花鳥版画のジャンルは、江戸時代の天保年間(1830~1844)初期に浮世絵師の歌川広重の活躍によって確立しました。

広重の花鳥版画は、四季の草花や樹木にさまざまな鳥を組み合わせ、漢詩などの詩文を書き添えた格調高いもので、膨大な数の作品が制作されています。

四季の情緒を日々の生活にもたらす広重の花鳥版画は大小さまざまな判型でつくられ、当時の人々に広く愛されていたようです。

第3章 幸野楳嶺が残したもの より

明治の京都画壇を代表する幸野楳嶺は、鳥を描くのを得意とした画家です。

本展では楳嶺が描いた数多くの画譜や、一枚摺りの多色木版画《楳嶺花鳥画譜》(明治16年)に加え、今回の出品作中唯一の肉筆画作品である《百鳥図》(明治22年)も展示しています。

《百鳥図》は画面中央のツルをはじめ全55種類の鳥が一幅に所狭しと描かれた面白い作品です。どのような鳥が、どのように描かれているのか、展示室内のパネルと共にぜひチェックしてみてください。

第5章 小原古邨の花鳥版画 より

小原古邨は、明治30年代から大正・昭和期にかけて詩情豊かな花鳥版画を制作しました。当時から海外市場を念頭において制作・販売されたため、専ら欧米諸国で愛されてきました。

近年は国内でも研究が進み、展覧会等でも徐々に紹介されるようになってきた画家です。

伝統的な彫摺技術を用いながらも、海外の顧客を意識して制作された古邨の作品は、繊細な色調の濃淡で巧みに花鳥が表現されています。

木版技術の粋を集めた古邨の花鳥版画作品をぜひご堪能ください。

また、当館の竹内栖鳳コレクションをご紹介する「栖鳳展示室」では、「栖鳳が描く花と鳥」をテーマに併設展示を行っています。 涼やかな青柳にとまる白鷺を描いた《柳鷺図》や、風雨に翻弄されながら飛ぶ烏を描いた六曲一双屛風の《白雨烏》など、栖鳳が描いた花と鳥の作品をご覧いただけます。

竹内栖鳳《柳鷺図》1917年 海の見える杜美術館蔵

「百花百鳥」展は7月15日(月・祝)までです。

13日(土)13時半からは、本展最後の展示解説も実施します。この機会にぜひ、海の見える杜美術館が誇るうるわしき花鳥版画の世界をお楽しみください。

うみもり香水瓶コレクション27   香水瓶の花鳥表現

《セント・ボトル》イギリス、チェルシー、1758年頃、軟質磁器、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1758, Soft paste porcelain, gilt metal, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 歌川広重 《牡丹に蝶》横大判、天保3-4年 (1832-33)頃、丸屋甚八、海の見える杜美術館 

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画 」と題した、当館が所蔵する近世から近代にかけての花鳥版画を集めた展覧会を開催しています。それに合わせて、香水瓶展示室でも花鳥表現による香水瓶を展示しています。

 例えば、企画展出品作の歌川広重《牡丹に蝶》にならって、「チューリップに蝶」と称したくなる上の画像の作品。こちらは、18世紀半ばのイギリス、チェルシー磁器工房による作品です。ヨーロッパでは、こうした花に誘われた蝶の表現が、香りの優雅さを造形で伝えるために使われました。たしかに本作品も、磁器の鮮やかな色調もあいまって、気品ある瑞々しい花の香りが漂ってくるかのような作品です。

 ところで、抽象表現、具象表現、細密表現等々、世には様々な表現がありますが、この「花鳥表現」に私は、理屈抜きでとても惹かれます。静かな展示室でその表現に行き合うと、動植物のかすかな息遣いをふいに耳にした気がして、立ち止まらずにはいられません。そしてしばし作品を見つめていると、自分自身の呼吸も穏やかに整っていくのを感じます。それゆえ、私にとっては平穏さをもっとも味わえる表現の一つです。

 そのため、この度、香水瓶と花鳥版画を組み合わせることを(香水瓶展示室のある1階と企画展示室の2-3階と、展示室自体は離れていますが)、個人的に非常に楽しんでいます! とりわけ当館は、浮世絵における花鳥画のジャンルを確立した歌川広重の国内最大規模の花鳥版画コレクションを有します。ですので、いわば傑作ぞろいの展示室となっているため、好奇心が刺激され、日欧の花鳥表現をあれこれ比較してみたくなるのです。

 冒頭の「チューリップに蝶」に限らず、もともと自然に基づくテーマを好むイギリスでは、香水瓶にも多くの花鳥表現が見られます。とくに18世紀は、動植物をかたどった繊細な色調の磁器製香水瓶が、盛んに製造されました。

 こちらの作品は、桜の木の上でサクランボをついばむ鳥を表現したチェルシー磁器工房のセント・ボトルです。

《セント・ボトル》イギリス、チェルシー、1755-58年、軟質磁器、金、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, 1755-58, Soft paste porcelain, gold, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 しかしながら、どうしても気になってしまうのは、この鳥の種類です。オウムに似た色鮮やかな尾長の鳥で、南国を思わせますね。体長もかなりありそうです。一体、どのような鳥なのでしょう?

 多くの国民が春の風物詩として桜を愛するこの日本では、町でも野でも山でも、至る所で桜を目にする機会に恵まれます。当館の庭にも、全国から移植された10種類以上の桜の木があり、日ごろから馴染み深い樹木といえばやはり桜が真っ先に浮かびます。これほど桜に親しみながらも、私はいまだかつて、桜の木にこのような南国風の大きな鳥が憩っているのを目にしたことはありません。本作品の制作地イギリスも、日本より北に位置しますので、同様と思います。つまり、改めてじっくりと見てみると、桜と鳥のこの組み合わせは、とても奇異なのです! そして、ここにこそ、日本の花鳥版画における表現との違いがあるといえるでしょう。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima  思いのほか、食いしん坊です(笑)。

 江戸時代中期以降の日本の花鳥版画は、八代将軍徳川吉宗が推奨した本草学や、博物学の成果を取り入れながら発展しました。ゆえに、丹念な自然観察に基づく表現が多く見られます。それに対し、ヨーロッパの18世紀の磁器の花鳥表現には、写生を逸脱した、幻想的な表現がしばしば登場します。もちろん、イギリスが属するヨーロッパには、古代ギリシャに始まる博物学の伝統がありますので、その正確な自然観察が、とくにルネサンス以降の芸樹作品に大いに活かされてきました。しかし、こと磁器の図柄、とりわけ18世紀のものとなると、そこにあえて幻想的なアレンジをすることが好まれたのです。以前このブログで取り上げたマイセン磁器の図柄に、なんとも奇想天外な想像上の生き物が描かれていたことと同じですね。現実世界ではお目にかかれない動植物やその組み合わせによって、異国情緒あふれる想像上の楽園が表現されているのです。従って本作品は、そのような当時の人々の夢見た世界を今に伝える《セント・ボトル》です。

 では最後に、現代の花鳥表現をご紹介いたします。今回出品したのは、ラリック社の2003年の限定エディションの香水瓶です。

ラリック社、香水瓶《バタフライ》2003年限定エディション、2003年、透明クリスタル、海の見える杜美術館 LALIQUE, BUTTERFLY FLACON, France, 2003,Transparent crystal , Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 本作品では、2匹の蝶が、ダリアの花の蜜を吸う様子がかたどられています。本作品が見事なのは、本体のクリスタルの透明部分と半透明部分を交差させることで、ダリアの花のボリューム感や立体感を強調している点です。しかも本作品では、クリスタルから透ける香水が、あたかも蝶が懸命に吸う芳醇な密そのもののように見える機知に富んだデザインとなっています。

 ぜひ企画展と合わせて、香水瓶の様々な花鳥表現もお楽しみくださいませ。

 ところで本展示に先立って、新たに収蔵された香水瓶の写真撮影を行いました。撮影をご担当下さったのは、前回同様、東京のエス・アンド・ティ・フォト S&T PHOTOの大塚敏幸氏と尾見重治氏です。

 香水瓶は立体物ですので、ちょっとした角度やライティングで作品の表情が一変します。多種多様な道具を駆使しながら、作品の質がもっともよく表れた瞬間を絶妙に捉えて、次々と写真に収めていかれる様に、ひたすら感服いたしました!

両氏による写真に支えられて、今後も香水瓶の魅力をお伝えしていきたいと思います。

岡村嘉子(特任学芸員)

展覧会情報: 百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画 

[会期]2024年6月1日(土)〜2024年7月15日(月・祝) [開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで) [休館日]月曜日(ただし7月15日(月・祝)は開館)

「百花百鳥」展が開幕しました!

深緑のさわやかな初夏の気候となり、美術館事務所の軒先に巣をつくっているツバメも忙しそうに飛び回っています。

先日、海の見える杜美術館では、緑の美しいみずみずしい季節にご覧いただくのにぴったりの「百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画」展を開幕しました。

近世に誕生した浮世絵はもともと美人画や役者絵などが主な画題でしたが、19世紀中頃になると、四季の草花に鳥や虫、魚などを合わせて描く花鳥画をテーマにした花鳥版画が成立し、大きく展開していきます。
本展では、歌川広重の花鳥版画や、幸野楳嶺の花鳥画譜、小原古邨の近代花鳥版画、そして各時代のさまざまな画譜などを、海の見える杜美術館が所蔵するうみもりコレクションの中からご紹介します。四季の情趣にあふれたうるわしき花鳥版画の世界をご堪能ください。

展覧会図録(税込み1,650円)には展示作品全点を掲載
テラスで自由にご利用いただける展覧会仕様の紙コップや、かわいいミュージアムグッズもご用意しています

展覧会は7月15日(月・祝)までです。遊歩道の木々の緑も徐々に色濃くなってきました。ぜひ展覧会とあわせてお楽しみください。

竹内栖鳳展 引き続き好評開催中です

展示替えも終わり、《羅馬之図》にかわり《獅子図》(1901~02年、東京富士美術館蔵)が展示中です。栖鳳が、1900年の渡欧の際にヨーロッパの動物園で実物のライオンを初めて

目にし熱心に観察した、という話はよく知られるところです。こちらの作品もゆったりと歩むライオンを驚くべき迫真性で描き出しています。この絵の前に立つと、描いた栖鳳の気持ちもさることながら、当時これらを見た日本の人々はどんなリアクションをしたのだろう…考えてしまいます。

そして、5月から展示している《絵になる最初》(1913年、京都市美術館 重要文化財)も是非この機会にゆっくりとご覧ください。人体をリアルに表現するためにヌードモデルを用いて写生をしていたにも関わらず、結果的に人体をほぼ隠した作品を描いたというところに栖鳳の潔さ、天才的なセンスを感じます。

今回の展覧会はどの章も担当から見てもそれぞれにいい作品、興味深い作品が展示していると思っていますが、担当として思い入れがあるのが最後の展示室の第6章「栖鳳余録」で、下絵などの資料、栖鳳が集めた写真、絵葉書、師である幸野楳嶺から受け継いだ絵画のお手本など、様々なものを詰め込んでいます。これらは、竹内栖鳳が旧蔵していたものが当館に入り、以降、保管、整理、公開してきたものです。

今回は、栖鳳が若い頃に受賞した賞状やメダルなども少しだけ展示しました。結構な数が残っており、若い頃の賞状をずっと持っていたんだな、と少し意外な気がしました。ご来館の方からも「こんなのあったの?」というお声をいただいております。

栖鳳が長く愛用していたという硯もここに展示。このちいさな硯から数々の名品が生まれたと思うと感慨深いですね。

また今回は芸艸堂から出版された《栖鳳逸品集》の一部を展示しています。

これは1937年4月から翌年12月までの第1期と、1940年1月から1942年6月までの第2期とわかれて頒布された、大変豪華な版画集でした。この画集は、芸艸堂が出してきた画集と比較しても桁違いの質・量・価格だったとのことです。絵柄によって木版印刷、コロタイプ印刷+木版印刷、原色版印刷、と印刷方法を変えて作られました。芸艸堂の高い印刷技術と、栖鳳の晩年においてもなお旺盛な創作意欲が見て取れる作品です。

図録には、芸艸堂様のご厚意で、全66枚の版画を掲載することができました。是非手にとって見ていただきたいと思います。

こちらも同じく芸艸堂から明治時代に出版された『棲鳳画譜』、『栖鳳画譜』です。当館の収蔵品が掲載されています。

天才画家・栖鳳の歩み、そして知られざる一面を作品と資料でご紹介するんだ、といきまいていた担当者ですが、「知らないことたくさんあるな…」と思わされる竹内栖鳳の世界です。展覧会もあと数日ですが、私ももう一度ゆっくり展示を見てみようと思っています。

                                 森下麻衣子

うみもり香水瓶コレクション26 ブシュロン社の香水瓶

こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」と題した、近代京都画壇を代表する日本画家、竹内栖鳳の回顧展を開催しています。そこで香水瓶展示室でも、企画展関連作品を展示しています。こちらの作品です👇

ブシュロン社《香水瓶》フランス、1890-1900年、ダイヤモンド、金、エナメル、海の見える杜美術館 BOUCHERON, PERFUME FLACON, France, C.1890-1900, Diamonds, gold, enamel, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

当館の香水瓶コレクションの内容が、西洋と古代オリエントの容器を中心としたものであることをご存知の方々には、日本画壇の巨匠と当館の香水瓶の関連に首を傾げられる方もおいでになるかもしれません。しかし、栖鳳の画業の軌跡を既にお知りの方は、「ああ、あの体験が」とピンとひらめくものがあるのではないでしょうか。

それは栖鳳の名が、師の幸野楳嶺より与えられた号である「棲鳳」から「栖鳳」へと改められた時期の、あの西欧体験のことです。

ときは1900年、パリ。そこでは、過去の万国博覧会の入場者数を上回る4800万人を記録するほど、人気を博した万博が行われていました。この万博時には、各国パヴィリオン等のある万博会場に加えて、動く歩道や地下鉄など、当時の最先端の技術が会場の内外に登場しました。それは1900年という19世紀最後の年として過去100年を回顧しつつ新たな世紀を展望するという、まさに世紀転換期に相応しい大博覧会であったのです。そのため、その様子をひと目見ようと、ロンドン留学の途上にあった夏目漱石や、スペインのピカソがパリへ見物に訪れていたことも知られています。彼らの日記を調査したピカソの研究者によると、なんでもこの二人は同日に会場を訪れていたとか。ごった返す観客のなか、二人はすれ違っていたのかもしれませんね。

さて、竹内栖鳳のような日本人画家にとっても、1900年パリ万博は非常に大きな出来事でした。なぜなら、それまでの万博とは異なり、彼らの作品が美術館を舞台として、諸外国の美術とともに、純正美術として展示されたからです。それ以前は、たとえ絵画や彫刻が万博に出品された場合にも、磁器や漆器等の工芸品ともに陳列されたために、工芸品の一部として理解されてしまうこともありました。そのことは、19世紀半ば以降――とりわけフランスの場合は1890年代からようやく――装飾美術の地位を見直す動きが起きたとはいえ、17世紀の美術アカデミーの創設以来、「大芸術」とみなされた絵画、彫刻、建築に対し、「小芸術」と位置付けられた装飾美術という序列が歴然と存在してきた西洋と対峙するには、いささか不名誉なことでもあったのです。こうした状況を打開しようと、日本側は1900年パリ万博の事務官長を務めた林忠正や、帝室博物館が中心となって、万博での美術作品展示や日本美術史に関する書籍の出版等を1900年万博に際して行いました。彼らは日本にも西洋の美術史に匹敵する美術史が存在することを世界に知らしめることに尽力したのです。

日本の美術界にとって記念すべきこの万博に合わせて、栖鳳も現地を視察しています。栖鳳は万博会場のあるパリはもちろん、8か国の主要都市を巡り精力的に西洋の画風を研究、吸収しました。この約半年余りの欧州視察旅行の体験が、その後の制作に与えた影響については、今回の「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」展において、豊富な資料とともに詳しく紹介されています。とりわけ、彼が展覧会に出品した唯一の油彩画《スエズ景色》(前期展示)や、ローマの遺跡を題材とした《羅馬之馬》(前期展示)は、この機会にぜひご覧頂きたい作品です。

香水瓶展示室でも、栖鳳に転機をもたらしたこの欧州体験に焦点を当てて、同時期のフランスの香水瓶を関連作品として選びました。そのようなわけで、冒頭のブシュロン社の香水瓶なのです。

さて19世紀を通じフランスでは、香水メーカーから購入した香りを、持ち主が思い思いの容器に詰め替えるのが習わしでした。そのため、持ち主の要望に応えようと、宝石細工師や金銀細工師や高級宝飾師は、煌びやかな容器を競うようにして作り出しました。フランスの高級宝飾メーカー、ブシュロン社が手掛けた本作品も、そうした時代を今に伝えるひとつです。今日のブシュロン社は、パリのヴァンドーム広場に居並ぶ5大ジュエラー、いわゆる「グラン・サンク」のひとつとして、またグラン・サンクのうち最も早い時期の1893年にこの広場に店を構えたことで知られています。本作品は、まさに同社がパレ・ロワイヤルからヴァンドーム広場26番地へ店舗を移転させた時代に制作されたものです。

本作品で使われた技法を見てみましょう。ここでは、非常に手間のかかるエナメル細工「プリカジュール」による赤と青の幾何学模様が、瓶全体に施されています。

このエナメル細工の素晴らしさを、最も実感できるのは、香水瓶の蓋を開けたときです。下の画像をぜひご覧ください👇 

 ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

このように蓋を大きく開けますと、まるでステンドグラスのような装飾が現れます。そのため私は、本作品に触れる度に息を呑まずにはいられません。プリカジュールは、裏から光を当てたときにこそ、美しさが最も際立つのです。かつての持ち主は、馥郁とした香りを放たせる直前に、目からも優雅さを堪能していたのですね。

さらにここでは、壮麗さを高めるかのように、ローズカットのダイヤモンドが瓶の開閉部にあしらわれています。この透き通るような輝きの帯も、19世紀後半に目覚ましい発展を遂げたブシュロン社らしいデザインですね。フレデリック・ブシュロン(1830-1902)が1848年に設立した同社は、1867年のパリ万博で銅賞を受賞した後、1878年のパリ万博にはダイヤモンドとサファイアのネックレスで金賞を、1889年パリ万博には、留め金を使わない斬新なデザインのダイヤモンドのネックレスをはじめ高い技術でグランプリを受賞しました。こうした経歴が物語る通り、同社の見事なジュエリーは発表毎に国内外の多くの人々を虜にしていました。

またダイヤモンド自体に関して言えば、19世紀後半のパリの宝飾品を特徴づけるものでもあります。それには、1871年に南アフリカのケープタウンでダイヤモンド鉱山が発見されたことにより、価格が下落してパリの市場に出回るようになり、ダイヤモンドを配した数多くの宝飾品が制作されるようになったという背景があるのです。

ところで、本作品の制作時期には、フレデリック・ブシュロンが手掛けた見逃せない事業がありました。彼は、それ以前にもブシュロンの工房にて多くの創作デザイナーを育て活躍の場を提供してきましたが、1893年には私財を投じて有望な創作デザイナーに留学奨学金を授与する奨励協会をも設立しました。本作品のように、プリカジュールを効果的に用いて、蓋を開けると小さなステンドグラスのバラ窓がお目見えするという心憎いデザインが生み出された裏には、創業者による教育への尽力があったのですね。

さてブシュロン社ですが、1988年からは香水そのものも取り扱っています。そのなかには本年2024年に誕生20周年となった同社を代表するジュエリー・シリーズ「キャトル」の名を冠した香水もあります。

2015年春に発売された香水「キャトル」は、爽やかさとほんの少しの甘さを兼ね備えた軽やかな香りが気に入って私もすぐに使い始めたところ、パリの町中で3回ほど、それぞれ見知らぬマダム二人とムッシューひとりに「この香りは、あなたにとってもお似合い!」「この新しい香りは、一体どちらのかしら? とても素敵!」と唐突にご感想をお聞かせ頂きました(フランスだと、こうした唐突なご感想によく遭遇します)。それ以来、すっかり気を良くしまして(笑)、もう何年も春夏に愛用しています。

空き瓶も保管しています。期間限定コフレのボックスの図柄はヴァンドーム広場の鳥瞰図。

キャトルをつけた私にお声がけ下さった方々の物腰や、そのときのあたりの喧騒や乾いた空気、そして晴れた日の陽気な雰囲気等々がキャトルをひと吹きすると脳裏に浮かぶように、香りは様々な記憶――時とともにぼやけたり、忘却の彼方に消えたりしたはずの記憶――を、瞬時に鮮やかに蘇らせてくれます。新緑のなか、花々が咲き誇るこれからの季節に、いつの日かタイムスリップに誘ってくれる香りを存分に感じつつ、心楽しい時間を数多く過ごしていきたいものです。

岡村嘉子(特任学芸員)

栖鳳展、開催中です!

海の見える杜美術館では、2024年3月16日(土)から、「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」展を開催しています。近代京都画壇の巨匠・竹内栖鳳の、若い頃から晩年に至るまでの作品をご覧いただく企画となっております。

2014年に竹内栖鳳展を開催して以来、約10年ぶりの竹内栖鳳の特別展です。当館の主要な竹内栖鳳コレクションはもちろんのこと、他館からも栖鳳を代表する名品をお借りしての展示です。

この展覧会の見どころを、会期中に出来ればあと何回かブログでご紹介していきたいなと思っておりますが、とりあえず今回は、動物を得意とした栖鳳の猫を描いた作品《小春》(1927年)を特に見ていただきたい作品として挙げておきます。近くから見られるように展示していますので、ふわふわの毛並みの表現を確かめてみていただけばと思っております

竹内栖鳳《小春》 1927年(昭和2)

耳を伏せていて、猫の全然なついていない感じが描かれていて大変すばらしいです。

そしてこの展覧会に合わせてこの《小春》の猫が大変かわいいぬいぐるみになりまして、ショップで絶賛販売中です。ちなみに私は展覧会担当学芸としてちゃんと購入しました。

遊歩道でぬいぐるみ撮影。

《小春》は秋から冬にかけての暖かい日を意味していますので、作品では秋らしく小さな青い菊の花が添えられていますが、春の花も似合いますね。

当館の栖鳳の名品《羅馬之図》(1906年)も4月14日(日)まで展示しております。是非ご覧くださいませ。展示室内、一部作品を除いて撮影も可能です。

森下麻衣子

うみもり香水瓶コレクション 25  古代エジプトの開口の儀式セット

こんにちは。各地から桜の開花の便りが届き始めた今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

海の見える杜美術館の香水瓶展示室は、いつご来館頂いても香りの歴史が俯瞰できるように、古代エジプトから現代までの様々な香りの容器を多数、年代順に陳列しています。

香水瓶展示室の古代エジプト時代のケース

この春、当館所蔵の最古の作品を収めた古代エジプト時代のケースに、新収蔵品の《開口の儀式セット》が加わりましたので、この機会にご紹介いたします!

こちらの作品です👇

《開口の儀式セット》エジプト、古王国時代(第5-6王朝、紀元前2500-2200年)石灰岩、アラバスター、珪岩アルトン・エドワード・ミルズ(1882-1970)旧蔵、海の見える杜美術館蔵。RITUAL SET for the Opening of the Mouth, Egypt, OLD KINGDOM, 5TH-6TH DYNASTY, C. 2500-2200 B.C. Alabaster, limestone, quartzite, Provenance: Alton Edward MILLS collection, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 石灰岩のプレートの上に、儀式で用いられる道具が整然と収められています。それにしても、このタイトル。「開口の儀式」のセットとは、なにやら謎めいていませんか。この儀式は、口に対してだけではなく、目にも行われたために、しばしば「開口・開眼の儀式」と呼ばれています。では一体、誰もしくは何の目や口を開ける儀式だったのでしょうか?――それは死者であり、より詳しく言うとミイラにされた死者、またときに死者を模した彫像でした。つまり開口の儀式とは、死者の埋葬前に行われる葬祭にまつわる儀式のひとつだったのですね。そのなかでもとくに重視された儀式であったと言われています。そのようなわけで、本作品も古王国時代第5―6王朝と推定される墓から発見されたものです。

 興味深いことに、古代エジプトでは、適切な手順を踏んでこの儀式を行えば、たとえ死後であっても現世と同様に食事をし、話し、見て聞くことができると考えられていました。要は、閉じていた口や目がぱっちり開いて、耳や鼻も機能し、命の再生が可能となるとされたのです。ですので、誰かが亡くなるとその子孫は、それを実現させようと、死者に対して「開口の儀式」を神官たちとともに行いました。

この儀式の始まりは古く、かつ長く行われたものでした。少なくとも先王朝時代のナガダ期(紀元前3800-3100年頃)には既に行われ、プトレマイオス朝時代(紀元前332-30年頃)まで続けられたと推測されています。その間、ゆうに約3000年間も行われた可能性があるのですね。このことからも、いかにエジプト人にとって、欠くべからざる儀式であったかがわかります! ナガダ期の文書がのこされていないために、詳細は不明であるものの、先端が魚の尻尾の形をした当時の儀式用ナイフが、儀式の痕跡としてあります。

本作品の制作時期は、先王朝時代に次ぐ古王国時代。この時代には文書において儀式についての言及が見られます。第4王朝のクフ王の時代の文書『開口についての小冊子』には、ミイラではなく死者の彫像に対して行われたと書かれていますし、第5王朝に建造された最古のピラミッドとして名高い、かのサッカラのウナス王のピラミッド(第5王朝)にも、玄室の壁面に書かれたピラミッド・テキストにこの儀式が言及されています。ただ残念なのは、当時の言及は、続く中王国時代のコフィン・テキストにおける言及と同様に、いずれも部分的であるため、儀式の全体像を把握することが困難です。そのため、本作品の制作時期における開口の儀式について知ろうとしても、後世の研究者たちが、新王国時代の文書と図像をもとに推測したものの域を出ないのが現状です。

 さて、香りの歴史を考える上で、この儀式が見逃せないのは、様々な香りが用いられた儀式であったからです。以前のブログ(第18回 香水散歩)で、ミイラづくりには香りが不可欠であったとご紹介しましたが、香りの使用に長けたエジプト人は、完成したミイラや、死者の彫像、さらにはそれに捧げる供物に対しても香りを使っていました。

開口の儀式は、清めや、生贄や開口・開眼の道具の提示、そして献酒をはじめとする全75の段階で構成されています。その各段階をひとつずつ丁寧に辿っていきますと、要所要所で香りが重要な役割を担っていたことがわかります。

例えば、死者の彫像やミイラを開口する下準備としてなされる清めでは、様々な種類の水で清められた後に、セム神官〔葬祭を司る神官〕が玉状にしたテレバントの樹液を持ち、彫像やミイラの周りを4周します。ここではテレバントの香りを彫像やミイラに提示することが、さらなる清めとなったのです。また下準備の仕上げには別の香りが焚かれて、彫像やミイラに香り付けがなされました。

 儀式の各段階には、上エジプトと下エジプトそれぞれに向けた儀式がありました。そのうち下エジプトのための儀式では、甘い香りの樹脂を燻蒸した煙が使われました。それは、香煙で頭部を包むとエネルギーが得られると考えられていたからです。

 またミイラや彫像に香りを直接塗ることも重視されました。セム神官は香油や香膏の塗布を行いました。この儀式の最中には、セム神官とは別の神官たちが、セム神官の行為の効果を高めるための朗誦を行っていたと考えられています。面白いことにその朗唱の文句には、眼や顔に美顔料が塗られたという言及もあります。命の再生を願う開口の儀式であるだけに、目や口、鼻、耳など感覚が集中する顔への働きかけが大切だったのですね。

ちなみに、ここで使われた香料は、現在判明しているだけでも、古王国時代には7種類、新王国時代以降には10種類もあったとされています。ただし各成分の詳細は判明していません。というのも、たとえ同じ香りの成分であっても、当時は儀式に応じて名称を変化させていたために、今日では使用香料の特定が難しいのです。しかもこの段階に関する画像も存在しておらず、いまだ謎に包まれた部分も多くあります。

 儀式では他にも、アムシールという長い柄のついた香炉を手に、ミイラや死者の彫像の周りを巡りながら香をくゆらせたり、供物等に香りを付けたりと、命を再生させるために、香りが様々に用いられました。発掘調査と考古学研究が進んで、いつの日か、この儀式で使用された香りがより詳しく判明することを願わずにはいられません。

 さて本作品に話を戻しますと、サイズは23×15.8㎝と意外と小さいものです。いわばミニチュアサイズですね。ミイラや彫像の口や目を開くために使われた儀式用ナイフも全長約14㎝で、思いのほか細いものです。

この儀式用ナイフですが、下の画像でわかる通り、魚の尻尾の形をした先端が、全く鋭利ではありません👇。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

それは、ナイフとはいえ、この儀式においては実際に刃で口や目に切り込みを入れていたわけではなかったからです。余談ですが、私はこの事実を知って、非常に安堵しました! というのも、ミイラとなった死者の開口や開眼に使われたナイフと聞いて、外科手術でメスが使われる場面を即座に想像し、恐怖で震えていたもので(笑)。儀式では、この魚の尻尾の形のナイフ〔ペシュ=ケシュ・ナイフ〕の他にも手斧なども使われましたが、もちろん血が滴るようなことは行われず、単にそれらをミイラや彫像に提示したり、それらでミイラの目や口に触れたり――きっと優しく撫でる感じでしょう……そうであって欲しいです!!――していたようです。

最後にナイフの両脇に置かれた清めと塗布の容器をよく見てみますと、あらあら不思議。容器は、単に容器の形をしているだけで、水や香膏を入れる穴がほとんどありません! この画像のような、上部にごく浅いくぼみがあるだけです。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

これは、これらの道具が開口の儀式の象徴的役割を果たしているにすぎなかったからです。実際には別途用意された水差しや香炉やカップ等で、清めや香油等の塗布がなされたと考えられています。このミニチュアサイズの開口の儀式セットと形状が酷似したものは、ニューヨークのメトロポリタン美術館(古王国時代第5-6王朝のもの)やロンドンの大英博物館(第6王朝のもの)にも所蔵されています。ですので、当館所蔵の作品との比較なども今後行っていきたいと思っています。

さて、当館の《開口の儀式セット》は、スイスで暮らしたイギリス人で、著名なエジプト美術コレクターのアルトン・エドワード・ミルズ氏(1882-1970)の旧蔵品です。彼は20代のときに木綿会社の仕事をきっかけにエジプトに移住して以来、エジプト学に魅せられ、エジプト美術の一大コレクションを築いた人物でした。

当館の庭いっぱいに桜が咲き誇り、自然の旺盛な生命力を実感できるこの季節、ぜひ香水瓶展示室にて、命の再生への願いを香りに込めた古代エジプト人に思いを馳せて頂けたら幸いです。

岡村嘉子(特任学芸員)

松永商舗

当館は2000点を超える引札を収蔵し、2021年には展覧会引札 新年を寿ぐ吉祥のちらしを開催いたしました。引札を配布された会社の中には現在も続く老舗があり、開催時にはその関係の方々から貴重なお話をいただき、展覧会やブログの記事に反映いたしました。

このたび、当館所蔵の松永商鋪様の引札のブログ記事をご覧になられた松永家のお身内の方からご連絡いただき、いろいろなことをご教示いただきました。展覧会後ではありますが、あまりにもそのお話が興味深かったため不躾にも原稿をお願いし、ご快諾いただきましたので、ここに松永商鋪様の記録を掲載させていただきます。

ご関係の方しか知りえない貴重なお話が記されていますので、ぜひご一読ください。

青木隆幸

「松永商鋪について」

猿橋敏雄

引札を発行していた京都の松永商鋪は家内の実家です。
店は20年前程に廃業し、現在は蔵を除き家屋は残っていません。
そのため家内が祖母や母親、叔母などから聞いていた話をもとに現存していたときの店の概要と店を取り巻く周りの状況について書き留めてみました。

(店の概要)
店は京都市下京区松原通麩屋町東入る石不動之町にあり松原通に南面していました。

松原通は平安京の五条通にあたり、東にまっすぐ行くと清水寺にいたります。
その途中、鴨川にかかる松原橋が弁慶と牛若丸が戦ったという伝説のある五条の橋になります。

創業は文化元年(1804年)頃で主に太物を扱う呉服商を営んでいました。
最盛期には奉公人が20人ほどいてそれなりの店だったようで何人かの奉公人に暖簾分けもしたようです。
奉公人の食事は質素なもので、朝はお粥と漬物、夜はそれに船場汁(サバなどの魚と大根などの野菜を煮たもの)などが出た程度のものでした。  

(大丸と新選組)
幕末期、家内の店の東隣り、松原通御幸町東入には大丸呉服店(今の大丸デパート)がありました。
家内の店は屋号を西丸と称して大丸と張り合っていました。
明治になって下京で電話を引いたのも自分の店が1番早いと自慢していたそうです。

また、この松原通は新選組や見廻り組の巡回路でした。
新選組は大丸松原店であのダンダラ模様の制服を作ったようで、そのためか家内の先祖は新選組を壬生浪と呼び嫌っていたようです。

(家のつくり)
家のつくりは典型的な京町家、いわゆる鰻の寝床と呼ばれる間口が狭く、南北に細長い二階建ての家で店を構えていた本宅と普通の町家の別宅が二軒並んで建っていました。

もともとは表に面する店と奥の住居用の建物が別棟で、玄関棟でつながるいわゆる表屋造の建物のようでした。
その一部が幕末の蛤御門の変で起きたどんどん焼きで焼けたため、焼けた家を本宅に改築し、焼け残った家を別宅としたようです。
現在、それを裏付けるものは何も残っていないのですが、奉公人が20人も同じ家の二階に暮らしていたとのことですのでその可能性は高いのではと思っています。
残念ながら今はどちらも残っておらず、蔵だけが現存しております。 

参考までに当時の間取りを私どもの記憶を頼りに再現してみました。

本宅は、入口側から店の間、台所の間、奥の間、奥庭、奥庭の奥に蔵と続き、奥の間から伸びる細長い廊下の横には五右衛門風呂、廁があり、踏石があって奥庭に出れるようになっていました。

部屋の横には通り庭と呼ばれる細長い土間が入口から奥まで通り抜けられるように作られ、その途中におくどさん(かまど)と炊事場があり、その上部には火袋が設けられて吹抜けになっていました。
そのため暑い京都の夏でも風がとおり涼しかったことを覚えています。

また庭には、井戸があり庭木の水やりなどに使っていました。庭木は、槙、ナンテン、センリョウ、マンリョウ、ダイダイなど縁起の良いものが植えれ、灯籠、手水鉢、踏石などが配置されていました。

別宅は、表は店の作りではありませんでしたが坪庭のある典型的な京町家の作りで本宅に比べ小振りなものとなっていました。
本宅と別宅は店の間から行き来できるようになっていました。

(氏子区域について)
店の前の松原通は、祇園さん(八坂神社)と稲荷さん(伏見稲荷大社)の氏子の境になり、北側が祇園さん、南側が稲荷さんの氏子区域でした。
店は北側にありましたので松永家は祇園さんの氏子でした。

(祇園祭と稲荷祭)
祇園さんの祭礼の祇園祭は日本三大祭に数えられ山鉾巡行が有名ですが、かって山鉾は松原通を東から西に巡行していました。
あの狭い松原通を大きな山鉾が巡行するので鉾の屋根に乗る人が町家の屋根や瓦を鉾がぶつからないよう足でけっていたらしく、そのため町家の屋根や瓦に度々被害が及んだようです。
それでも祭のときは店に幕を張り、家宝を店前に飾るなどしていました。
幼い家内は店の二階から山鉾巡行を見物し、厄除けの粽を直接鉾に乗った人から手渡してもらったことを今でも覚えています。

また、稲荷祭のときは山鉾巡行とは逆に神輿が西から東へと練り歩きましたが、左右に振れる荒々しい神輿でよく家屋の一部を壊されたそうです。しかし神事のため誰も文句は言わなかったようです。

(季節ごとの営み)
[お正月]
座敷を正月用にしつらえ、家族全員で新年のあいさつを交わしお祝膳をいただきました。
お雑煮は丸餅に頭芋、大根を入れ白味噌仕立てにしたもので、頭芋は小分けにして正月三が日で食べきるようにしていました。
おくどさん(かまど)にも正月飾りをし、鏡餅をお供えしました。

[桃の節句]
桃の節句には、江戸期から伝えられていた古い雛人形が飾られていましたが、京都では向かって左手にお雛様、右手にお内裏様が飾られていました。

[夏の建具替え]
6月になると、障子や襖を取り払い、葦戸をかけ、網代を敷き詰め少しでも涼しくなるように工夫していました。

[地蔵盆]
8月の終わりには、近所の明王院不動寺(松原不動)で子供たちが楽しみにしていた地蔵盆が行われ、お菓子をいただいたり数珠回しなどをしたりしていました。

[秋の建具替え]
10月には、雪見障子や襖を入れ、段通を敷き詰めて底冷えのする冬に備えました。

[大晦日のをけら詣り]
をけら詣りは、祇園さんの大晦日の風物詩で除夜祭の後、「をけら灯籠」に灯された「をけら火」を火縄(吉兆縄)に点し、火を消さないように縄をくるくると回しながら店に持ち帰り、無病息災を祈願して神前の灯明や正月の雑煮を炊く火種としていました。燃え残った火縄は火伏せ(火難除け)のお守りとして台所に祀っていました。

以上

うみもり香水瓶コレクション 24 イギリスの巡礼用水筒型セント・ボトル

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」と題した、旅をテーマとする前近代から近代にかけての日本絵画の展覧会を開催しています。

 この展覧会にちなんで、香水瓶展示室では、旅に関する香水瓶を数点ご紹介しています。例えば、こちらの17世紀イギリスの銀製のセント・ボトルです👇

《セント・ボトル》イギリス、1660-70 年頃、銀、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1660-70 , silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 皆様は、この器形をご覧になられて何をご連想なさるでしょうか? 一見したところでは、今が旬の洋ナシのようですね。たしかに洋ナシ型は、17世紀、18世紀に数多く使われた器形でもあります。ですが、より厳密にいうと、本作品の器形は、巡礼者が聖地へ赴く際に携えた水筒という、比較的珍しい形をしています。そして、この形と図柄の調和こそが、本作品の価値を高める重要な要素なのです。ですので、この機会に詳しくご紹介いたします!

 瓶を覆う唐草模様にしばし目を凝らしていると、思いがけないところから、二つの像が浮かび上がってまいります。ひとつは、ギリシャ神話の風神の主、アイオロスです。こちらの部分ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 風を自在に操るこの神は、ここでも目を見開き、頬を膨らませて、お得意の風を力強く吹かせているのがわかります。なにしろアイオロスは、西風のゼピュロスや北風のボレアース等の風の神々の頂点に君臨する風神の主です。アイオロスをして吹き飛ばせないものなどありません。

 そしてもうひとつの像は、このアイオロスに比べると、打って変わってほんわか、のほほ~んとした印象なのですが……👇。宗教画などに登場する愛らしい小さな天使です。アンディ・ウォーホルが商業デザイナー時代に描いた気ままな天使たちを彷彿させる線描ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 唐草模様の間に、あまり目立たない形で刻まれたこの2つの像には、どのような意味が込められているのでしょうか。それには、時代背景が深く関係していると先行研究において指摘されています。

 この香水瓶の制作時期と重なる1665年のイギリスでは、ロンドンで腺ペストが猛威をふるっていました。いわゆる「ロンドンの大疫病」の名で知られる、イギリス最後の腺ペストの流行です。それは住民の2割以上の死者を出し、一時は多くの王侯貴族や市民たちがロンドンから避難するほどの規模でした。

 この疫病流行に際し1665年のロンドンに流布した広告は、香りの歴史からすると、とても興味深いものです。というのもそこでは、腺ペストから身を守る方法として、芳香酢の蒸気やローズ水やその他の香料の噴出が推奨されているのです。実際に、この広告以外の資料においても、感染拡大の結果として、大量の芳香酢で体をマッサージしたり、室内に漂わせたり、街路に撒かれたりしたことがわかっています。

 以前、フランスの例として、18世紀のガラス製携帯用香水瓶においても見ましたが、当時のヨーロッパでは、迫りくるペストの瘴気から身を守るために、香料がいかに必要とされていたかがわかりますね。

 以上のような時代背景を踏まえて、本作品を再度見てみますと、アイオロスの姿には、勢いのある神聖な風で瘴気を遠ざけたいとの願いがうかがえます。また葉叢に戯れる無邪気な天使の姿は、香りに満ちた自然が人間にもたらす恩恵を謳うかのようではないでしょうか。そして、巡礼時の水筒を模した器形には、ペストが様々に変異しながら周期的に流行するイギリスから、遠く離れた聖地への思いが込められているように思えるのです。

 感染症流行下に、かつて誰かが胸に描いた、追憶の、もしくは想像上の巡礼の旅。コロナ前に本作品を見ていたときには真に感知しえなかったその切実さを、今になって感じています。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima I学芸員撮影。

 本作品は、現在の展示ケースの中で、同時代のドイツやオランダのポマンダーやヴェネツィアのラッティモ・ガラスの香水瓶、フランスのルイ14世の弟のオルレアン公フィリップ1世お抱えのガラスの名匠、ベルナール・ペロ作の人面をかたどった香水瓶という海杜コレクションきっての傑作とともに公開されています。ぜひ17世紀のヨーロッパ各国が誇った高い技術と、地方色豊かなデザインや素材をお楽しみくださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

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企画展示室情報:芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー

[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)

[休館日]月曜日(ただし9月18日(祝)、10月9日(祝)は開館)、9月19日(火)、10月10日(火)

[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料

*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

[タクシー来館特典]タクシーでご来館の方、タクシー1台につき1名入館無料

*当館ご入場の際に当日のタクシー領収書を受付にご提示ください。

[主催]海の見える杜美術館

[後援]広島県教育委員会、廿日市市教育委員会

「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展、後期展示開催中です

10月に入ってようやく涼しくなり、杜の遊歩道の木々も少しずつ色づいてきました。

秋といえば行楽のシーズン、紅葉狩りや秋の味覚を味わいにお出かけになる方も多いのではないでしょうか。

今年のように猛暑が続くとなかなか四季を感じることが難しくなってしまいますが、四季のある日本では、古来より、季節や時の移ろいが多くの芸術作品で表現されてきました。絵画作品にも、春といえば梅や桜、夏は涼が感じられる滝や川の流れ、秋は鮮やかに色づいた紅葉、冬は雪を頂いた山といった季節を表すモチーフが数多く見うけられます。

現在開催中の「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展でも、秋を感じられる作品がいくつか展示されています。

今回はその中でも、本展覧会が初公開となる《西行物語絵巻》をご紹介します。

《西行物語絵巻》は平安時代末期の著名な歌人、西行(1118-1190)の和歌やエピソードをまとめた『西行物語』(13世紀中頃成立)を絵巻に仕立てたものです。《西行物語絵巻》は3系統に大別できますが、本作品は明応9年(1500)に原本が制作されたとされる采女本(うねめぼん)の系統に連なる江戸時代の作品です。

采女本には各地の名所歌枕の景色とそれらを連想させる景物が主として描かれており、西行の行状だけでなく、古来より詠み継がれてきた歌枕への関心が見てとれます。

西行に関する物語は謡曲『西行桜』『遊行桜』『江口』の題材にもなり、江戸時代には多くの采女本系《西行物語絵巻》が作られました。

各地の名所歌枕に西行にまつわるエピソードが残っていることからも、旅に出かけることが困難であった時代に歌枕を訪ね歩く西行は、歌詠みたちだけでなく多くの人々の憧れだったことがうかがえます。

《西行物語絵巻》(部分・猿沢池)2巻のうち巻下、江戸時代

こちらは、奈良の興福寺に参詣した西行が猿沢池のほとりで、この池にかつて身を投げた采女(うねめ、奈良時代の天皇に仕えた女官)の悲恋を思い出し和歌を詠んだ場面です。

水辺には笠を被った旅姿の西行が風に吹かれながらたたずんでいます。

画面手前には鮮やかに色づいた紅葉の木、向こう側にはきょろりとした目元が愛らしい鹿が5頭描かれています。

鹿の毛並みは丁寧に描かれ、紅葉の葉はその色づきの移ろいを朱線の濃淡や色の塗り方をかえて表現されており、絵師の細やかな気配りが感じられます。

実は、詞書にも、西行がこの場面で詠んだ歌にも、鹿や紅葉という文言はありません。

藤原氏の氏神である春日神の使いである鹿は、神仏習合思想のもと、同じく藤原氏の氏寺である興福寺、そして奈良を表すモチーフとして本作品には描かれています。

また、繁殖期の秋に鳴く牡鹿は、恋しい人を想う恋心とともに万葉集の時代から歌に詠まれ、秋を示すモチーフとして表現されてきました。当初は萩などの秋草とともに歌に詠まれることが多かった鹿は、時代が下がるにつれて、同じく秋を示す紅葉との取り合わせが定着し、本作品でも紅葉が描き添えられているのではないかと考えられます。

本作品の実直な筆遣いによる薄墨の線や、さっと刷かれた淡い色彩による空間や山水の表現には、平明ながらも西行の和歌が持つもの悲しさがよく表れており、しみじみとした味わいがあります。

西行の和歌とともにご鑑賞いただければと思います。

《西行物語絵巻》(部分・伊勢)2巻のうち巻下、江戸時代

この他にも、小松均《石廊崎》や池田遙邨《佐夜中山之富嶽》《深耶馬渓》《ぐるりとまはって枯山》など、秋の訪れを感じさせてくれる作品をご覧いただけます。

「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展は10月22日(日)までです。

うみもりテラスからの日本三景・安芸の宮島の眺めとともに、美術館での紅葉狩りをぜひお楽しみください。