竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い 1

竹内栖鳳展示室では、「EDO↔TOKYO 版画江戸百景」の期間中(6/20 – 8/23)、
「竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い」という企画展を行っています。

当館が所蔵する竹内栖鳳の作品や栖鳳が収集した写真資料を通じて、作画における栖鳳の写真の利用の用い方について探るとともに、福田平八郎や川端龍子をはじめ多くの画家に作画の参考となる写真を提供した写真家、岡本東洋の活動の一端を紹介するものです。

ブログでは、この企画展を「竹内栖鳳と写真」と「画家が参考にした岡本東洋の写真」の大きく2回に分けて紹介いたします。

今回は「竹内栖鳳と写真」についてです。

竹内栖鳳(1864-1942)は、岡本東洋と出会う前、画家として活動を始めた当初から、写真を積極的に用いていました。栖鳳が残した写真帳には、実作品の参考にしたことが一目でわかる写真や、写真の上に直接筆で描き足して作画の構想を練っているもの、あるいは動くモデルを撮影して一瞬の動きを写真に捉えたものなどがあります。また、鳥、滝、鹿などテーマ別に広範囲に独自の写真資料集を作成しています。

 

それでは本題に入る前に、日本における写真の伝来と、写真と画家の出会いについて、簡単にさらっておきましょう。

写真は、1839年のダゲレオタイプ(※1)の写真術の公表によって実用化が進み、日本にはその後新しく発明されたコロジオン湿板(※2)の技術とともに、1860年(万延元)頃から本格的に伝来しました。

画家と写真の関わりは写真技術の伝来とほぼ同時に始まりました。最初期の写真家の下岡蓮杖(1823-1914)や清水東谷(1841-1907)は元狩野派の絵師、島霞谷(1827-1870)は椿椿山の画塾 琢華堂の出身といわれています。明治時代になり写真に関わる人が会を結成し始めると、そこには画家も参加しました。また、写真展が行われるようになると、画家が審査員を行うことも少なからずありました。例えば明治34年に創立した財界・実業界のアマチュアが集う「東洋写真会」の展覧会では審査員として橋本雅邦、川端玉章、黒田清輝、和田英作といった画家の名前が挙がっています。

画家が作品制作のために写真を利用した形跡については、古くは島霞谷の《薔薇を持つ女》(油彩画1860年代)など、写真と同じ構図を持つ油絵作品が残されています。西洋画家として活躍していた浅井忠(1856-1907)は市販の写真を参考にして《春畝》(油彩画 1888年(明治21)、重要文化財 東京国立博物館蔵)などを制作したことがわかっています。

また、画家や彫刻家の資料に供することを目的とした写真集も明治時代には発行されていて、川井写真館の『動物写真帖』『植物写真帖』(1897~)、『美術資料』(1899~)などがあります。

これらの事例を見ると、画家は日本に写真が伝来した直後から写真と関わりを持ち、これまで手本や資料として珍重してきた粉本だけにこだわらず、写真を新たな絵画制作のための資料として柔軟に利用していたと考えられるのではないでしょうか。

※1 ダゲレオタイプ・・・フランスのダゲールが発明した最初の実用的な写真術と言われている。露光時間に30分ほどかかる。ポジ画像が1枚できるだけで複製できない。

※2 コロジオン湿板・・・1851年にイギリスのアーチャーが発表。ネガを作り、それからポジを複製できる。露光時間も10秒前後に短縮した。

 

それでは本題の、竹内栖鳳の写真利用について、このたびの展示作品から見ていきましょう。なお、ここに紹介する写真や写真帳はすべて竹内栖鳳家に伝来したものです。また、所蔵者名が記されていないものは海の見える杜美術館の所蔵品です。

 

次にご覧いただく《撮影帖》は、狩野 四条 浮世絵 諸派の作品のほか、彫刻 建造物 風景 風俗等の写真、そして栖鳳自身の作品《猫児負暄(みょうじふけん)》(明治25年(1892) 4月京都市美術工芸品展出品)とその作画の参考にした猫の写真が収められています。《猫児負暄》は若き栖鳳がさまざまな流派の筆法を取り入れて作成したことで、鵺派と呼ばれるきっかけともなった作品です。様々な流派の筆法にとどまらず、栖鳳は画家として活動を始めた最初期から写真も活用していたことがわかります。

撮影帖 海の見える杜美術館

 

 

 

 

 

出品番号1 《撮影帖》 竹内栖鳳旧蔵   1892年(明治25)頃

1985-045-04-32-01-07

 

 

 

 

《撮影帖》に綴じられた猫の写真

猫児負暄 海の見える杜美術館

 

 

 

 

 

 

《撮影帖》に綴じられた《猫児負暄》の写真

 

次にご覧いただく写真集には、名所 器物のほか、風俗 人物 古画等の写真、そして栖鳳自身の作品《涼蔭放牧》(明治30年(1897)4月、第一回全国絵画共進会)の写真や、《観花》(明治31年(1898))制作の際に参考にした骨格標本の写真が収められています。《観花》制作のために栖鳳は本物の骸骨標本を特別な許可をもらって写生したことが知られていますが、本写真集によって写真も収集していたことがわかります。

写真集  海の見える杜美術館

 

 

 

 

出品番号2 《写真集》 竹内栖鳳旧蔵 1897年(明治30)頃

 

写真集  海の見える杜美術館

 

 

 

 

 

 

《写真集》に綴じられた骨格標本の写真

 

竹内栖鳳 観花 

 

 

 

 

 

 

《観花》 竹内栖鳳 1898年(明治31)
(展示会場では作品保護のため複製を展示しています)

 

次にご覧いただく写真集には、コロタイプ印刷の切り抜きも多く含まれています。名所 風景 風俗 古画などの写真が収められていますが、「浅草」「日光」といった地域や「滝」など特定のテーマを持つ群もあり、海外風景のナイアガラの滝の写真も6枚含まれています。

その中の1枚、水辺の貯木場の写真の右側を注意深く見ると、墨で鳥が描かれ、鳥が止まる材木には影がつけられています。写真を直接利用して絵としての構図を考えたのでしょうか。

絵画及写真集 海の見える杜美術館

 

 

 

 

 

 

出品番号3 《絵画及写真集》   竹内栖鳳旧蔵 1897年(明治30)頃

1985-045-04-32-15-25

 

 

 

 

 

《絵画及写真集》より1枚

絵画及写真集より 海の見える杜美術館

 

 

 

 

上の写真の右側部分のアップ

鳥は写真の上に描き加えられている

 

栖鳳は日本画を学び始めた当初から国内外の「滝」の写真を収集し、生涯に多くの作品を生み出しました。ここでは栖鳳の写真資料収集の例の一つとして「滝」を取り上げますが、栖鳳はこのほか「名所」「波」「鹿」「鷺」「葦」「人物」ほか様々なテーマで徹底した写真収集を行い作画に役立てています。

《栖鳳写真資料》滝 (1)

《栖鳳写真資料》滝 (2)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

《栖鳳写真資料》滝 (3)

 

 

 

 

 

 

 

《栖鳳写真資料》滝 (4)

 

 

 

 

 

 

出品番号4 《栖鳳写真資料》竹内栖鳳旧蔵 明治時代

滝

 

 

 

 

 

 

出品番号5 《滝》竹内栖鳳 絹本着色  1882年明治15年(初公開)

 

 

 

 

 

 

出品番号6 《瀑布》竹内栖鳳 絹本着色 1930年(昭和15)頃

 

「竹内栖鳳と写真」(前編)はこれで終わりです。。

栖鳳もこれらの写真を見ながら作画の検討をしたのだと思うと、実感もひとしおです。

ぜひ実物の写真をご覧にいらしてください。

皆様のご来館をお待ちいたしております。

青木隆幸

 

木々に咲く小さな花々

6月20日から「EDO ↔ TOKYO ―版画首都百景―」展が始まりました。

駐車場から美術館までの道すがら、

今の季節は、多くの木々が小さなかわいらしい花を咲かせています。

ここにご紹介する花々は、いずれも江戸時代の日本でも見ることができました。

展覧会と合わせて、ぜひお楽しみください。

追伸 春先に花が咲いて、今は実を生らせている木もあります。

ネズミモチ(鼠黐)の花

ネズミモチ(鼠黐)の花

 

 

 

 

 

 

 

ナンテン(南天)の花

ナンテン(南天)の花

 

ムラサキシキブ(紫式部)の花

ムラサキシキブ(紫式部)の花

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ナツメ(棗)の花

そして

ヤマモモ(山桃)の実

ヤマモモ(山桃)の実

 

 

 

 

 

 

 

もりひこ

第18回 香水散歩 特別展 ミイラ「永遠の命」を求めて展

IMG_5899縮小

国立科学博物館、東京・上野

こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。ようやく緊急事態宣言が全国的に解除となり、各地の美術館も再開し始めましたね。今年はこれから、どのような展覧会鑑賞のご予定がおありでしょうか?なかにはおそらく、約1年半をかけて全国を巡回する話題の展覧会「ミイラ――永遠の命を求めて展」がそのご予定におありの方もおいでのことでしょう。そこで、いち早く国立科学博物館での東京展に足を運びましたので、今回はこの展覧会を取り上げたいと思います。

IMG_5864

ところで、ミイラ……実は香水の歴史に深い関心を抱くようになるまでは、率直に申しまして苦手でした。思い起こせば今から四半世紀前、実物との最初の遭遇は、期せずしてやってまいりました。

フランス・ノルマンディ地方の古都ルーアンを訪れたときのこと、この町を特徴づける半木骨造の建物で囲まれた、美しい中庭に行き当たりました。現在、美術学校となっているその場所は、その昔、ペストがこの町を襲った際に病院と納骨堂となったところです。1348年の大流行時には、なんと住民の4分の3もの人々が命を落としたといわれています。その歴史を雄弁に語るかのように、建物の柱には髑髏の彫刻が施され、ペスト患者や彼らの治療に懸命にあたった人々が心の慰めとしたような木立が中庭の中央にありました。

木々の葉を優しく震わす風のそよぎと鳥の歌声だけが響く、静寂に包まれた中庭に立って、建物をじっくり眺めていると、壁になにやら、茶色っぽいしわの寄った塊が埋め込まれています。「あら、これは何かしら?」と至近距離まで寄って見てはっと致しました。「こ、こ、これはきっと……ミイラァァッ!!」とわかるや否や、声にならない悲鳴を上げて、その場を一目散に立ち去ったのはいうまでもありません。

後で調べてみると、それはまさしく猫のミイラでした。当時、黒い猫は、悪魔の化身と考えられていたため、あの猫はペストをもたらす悪魔退散のための生贄であったといわれています。

なぜあのとき、ミイラは私に恐怖をもたらしたのでしょうか? 今にして思えば、それはミイラについて知識が乏しかったからだと思います。黒ずんで骨と皮になったり、しわくちゃになったりしている姿だけでも衝撃的ですのに、その上、生前の実体がまだ残っており、単なる物体になったわけではないかのようで――つまり、生とも死ともいえない状態を目の当たりにしたかのように思えて、ひたすら恐ろしかったのです。

その後、とりたててミイラを求めたわけでは決してないのですが(むしろ全く望んでいなかった)、様々な時代や地域のミイラを見る機会が多々ありました。ただし、それらはすべて博物館内の「ミイラ」展示室や「古代」展示室等でしたので、最初の遭遇とは異なり、心の準備をした上での対面でした。しかも、そこでの解説が、未知なるものへの私の恐怖を少しずつ取り去ってくれました。

香りに興味を持つようになると、むしろミイラが興味の対象へと変わるまでになりました。というのも、香りの歴史を紐解けば、古代では香りがミイラづくりに欠かせないものであったからです。例えば、エジプトのミイラといえば包帯でぐるぐる巻きにされた姿を思い浮かべる方もいらっしゃると思いますが、あの麻の布は、遺体に巻かれる前に、殺菌や防腐の効果がある芳香性の樹脂に浸したものであったので、よい香りがしたといわれています。また、遺体は放置しておくと、体内の水分によって腐敗が進み、ミイラにはなりません。そこでエジプト人たちは、内臓などを取り出しましたが、その空になった部分にも、樹液のしみ込んだ麻布を何枚も入れましたし、体腔にはハーブの入った袋を詰めました。さらに身体の皮膚にも香りの付いた軟膏などを塗ったといわれています。推論も含めて様々な研究結果を知るにつけ、では一体、エジプトのミイラにはどのような香りが使われたのかしら、ローリエかしら、ユーカリかしら、ユリかしら……、あるいはそもそもどうしてその香りが必要だったのかしら等々、興味が次々と湧いてくるのです。

そのような古代エジプトのミイラへの興味に応えてくれるだけではなく、世界のミイラへの関心をも大いに喚起してくれるのが、今回の「ミイラ」展です。個人的には「大ミイラ展」あるいは「深淵なるミイラの世界展」と呼びたいほど、最新の研究結果とともに、世界各地のミイラ43体が一堂に集められた大規模な展覧会です。

ミイラとひとことで言っても、時代や地域によってその様相や作られた背景が随分と異なります。なんといっても、ミイラにするつもりなど微塵もなかったにもかかわらず、乾燥や泥炭等といった自然環境のもたらす作用で心ならずもミイラになってしまった自然ミイラがある一方、古代エジプトのように複雑な手順を経てミイラとなった人工ミイラがあるのです。その多種多様なことといったら! もちろん私たちにとって馴染み深い(?)、日本のミイラも出品されています。

展覧会は、世界の地域ごとに「南北アメリカのミイラ」「古代エジプトのミイラ」「ヨーロッパのミイラ」「オセアニアと東アジアのミイラ」という4つのセクションから構成されています。

「南北アメリカ」は、世界最古の自然ミイラ(約1万年前、アメリカ合衆国ネバダ州)と人工ミイラ(約7000年前、チリ北部の都市アリカ近辺)を有する地域です。

展示室には、人工ミイラの創始者がエジプト人であるという通説を覆した、南米チリ北部のチンチョーロ族の人工ミイラより、紀元前3200年頃のミイラが展示されていました。顔の部分には目と口がくりぬかれたマスクが付けられているのですが、そのマスクが意外にも、なんとも可愛らしい! いうなれば日本の土面や埴輪を想起させるマスクです。見慣れるようになったエジプトのミイラだけではなく、世界各地の未知なるミイラ展ともなれば、再び恐ろしいミイラに遭遇してしまうのでは……!?という心によぎる一抹の不安を払拭してくれました。ちなみに身体は、内臓や筋肉を取り除いた後に、木材や葦の紐などで形を整え、灰のペーストで肉付けされてるのですが、その仕上がりが、これまた意外にもふっくらしていて、素朴なお人形のようです。表面が黒ずんでいるのも、誰かがこのお人形と遊び過ぎて、すっかり汚してしまったようでさえあります。おかげで、かなり安心させて頂きました。

そのほか、同セクションには、顔部分に刺繍のある袋状になったミイラ「ミイラ包み」(その刺繍も愛嬌たっぷりです!)など、豊かなミイラ文化を伝える品々が展示されています。

ミイラ包みはその愛くるしさゆえ、写真のようなぬいぐるみになってミュージアムショップに並んでいました。↓

IMG_5882ポーチもミイラファンには味わい深いものが……。こちらです ↓IMG_5883

さて、「古代エジプト」では、ミイラや棺はもちろん、小さなお守り類やミイラに添えられた装飾品、ヒエログリフの書かれた麻布などが出品されています。それらは、エジプトのミイラづくりが、エジプトの神話を基にして行われたことを伝えてくれます。エジプトを守る神が不滅であるように、その神の役割を引き継ぐ王、ファラオをはじめとするエジプトの人々が死してなお、生が永続するようにと願ったことが、展示品を通じてより身近に感じられることでしょう。

この展示室には、ミイラづくりに用いられた物質であるサフランや没薬(ミルラ)、瀝青、ナトロン等も出品されています。没薬(ミルラ)は、イエス・キリストが誕生した際に、東方三博士が献上した3つの品のひとつです。ミルラという香りが、異なる宗教において、聖なる存在に捧げられているのは、非常に興味深いですね。

「ミイラ展」は他にも、自然ミイラの一種の湿地遺体や、カナリア諸島原住民の人工ミイラや、聖人の遺体を聖遺物として珍重したキリスト教の信仰を伝える頭骨にユリ十字やバラなどの装飾を施したものや(以上すべて「ヨーロッパのミイラ」)、仏教思想に基づいて瞑想しながら死してミイラとなった日本の即身仏(「オセアニアと東アジアのミイラ」)などが詳しく紹介されています。

なかでももっとも驚かされたのは、江戸時代後期の本草学者が自らの研究成果を確かめるために、自らミイラとなったものでした。彼は後世、自分を掘り出すよう言葉を遺しました。そして約120年以上の時を経て掘り出されると、彼の研究が大成功したことが確認されたのです。展示室では、見事なミイラになったこの本草学者も展示されていますので、どうぞお見逃しなく! まさに探究心とチャレンジ精神の勝利ですね。

ところで、この展覧会を訪れたのは、新型コロナウィルスの流行が起こる前でした。それもあって、会場内はまさに密状態。いずれの展示室もケースの前には幾重にも列ができ、鑑賞者で埋め尽くされていました。そのお一人お一人が、それぞれ異なる関心から鑑賞なさっていたと思いますが、私にとっての展覧会の魅力は、フランスのリヨンにあるコンフリュアンス美術館の展示もしかり、またミイラというテーマもしかり、「死んだらどうなるのかな?」という誰しもが抱くであろう素朴な疑問に、真正面から向きあう先人について知ることができることです。その向き合い方は、科学的見地から探ったものや、宗教的課題としてそれを探究したものなど、実に様々。そのおかげで、あたかも知の殿堂のただなかに身を置いているかのような気分を味わいました。

機会に恵まれたら、これから行われる他の都市でも再度見てみたいと思っています。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

◇ 今月の香水瓶 ◇

こちらは古代エジプトにおいて死から再生へと導く儀式に用いられたとされるパレットです。7つあるくぼみの上部に書かれたヒエログリフは、それぞれ香り豊かな7つの聖油を表しています。文字とともにあることで、香りが永遠に存在し続けると当時は考えられていました。肉体も香りも束の間のものとはせずに、いかに永遠のものにするか――古代エジプト人たちの発想にはいつも驚かされます。

《7つの聖油パレット》エジプト、古王国時代(第6王朝、前2320-2150年)、アラバスター、海の見える杜美術館所蔵

《7つの聖油パレット》エジプト、古王国時代(第6王朝、前2320-2150年)、アラバスター、海の見える杜美術館所蔵