うみもり香水瓶コレクション20  18世紀のガラスの香水瓶

 こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、日本絵画に描かれた、古今の楽しい集いの様子を展覧する「賑わい語り戯れる」展が開催中です。お祭りや参詣など、ハレの日を祝う町のざわめきが聞こえてくる屏風や、宴席や行楽の楽しさが伝わる絵巻、ごく限られた親しい者同士で心置きなく過ごすひとときが刻まれた歌麿の肉筆画、さらには、集いの余韻を味わわせてくれる宴席での寄せ書きなど、集いの機会がもたらす至福のひとときが、展示室いっぱいに紹介されています。

 私も、コロナ禍において人との接触が制限されたときに、もっとも恋しくなったのは、懐かしい人々の顔と、まさにこの展示室に漂う集いの雰囲気でした。そこで、香水瓶展示室でも、企画展のテーマに沿う関連作品をいくつか出品しました。

 例えば、社交にいそしむ18世紀のフランス貴族に愛用された、こちらの3色のガラスの香水瓶です!

左手前から中央奥へ:《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃すべて海の見える杜美術館蔵。写真はI学芸員撮影。©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 ヴェルサイユ宮殿を現在の絢爛豪華な姿へと変えたルイ14世の治世末期に始まり、フランス革命によりブルボン王朝の栄華が終焉を迎えるルイ16世の治世に終わる、貴族文化がもっとも爛熟した18世紀。当時は、貴族たちが着飾って集い憩う様々な催しが頻繁に行われていました。

 そのなかにあって、ヨーロッパ中から「よき香りのする宮廷」と呼ばれたのは、ルイ15世の宮廷です。ちなみに、先王のルイ14世も香水を愛しましたが、その強い愛ゆえに使いすぎてしまい、彼の晩年にあたる18世紀初頭には、天然の花以外の香りは、体が受け付けなくなってしまったと伝えられています。彼の時代の香りはムスクやアンバーなど動物成分の入ったものでしたので、彼のように四六時中、いたるところで漂わせていたならば、しかもそこに集う皆が香りを纏い、それらが交じり合っていたならば……、おお、さもありなん、と思わずにはいられません。

 ルイ15世の宮廷に話を戻しますと、彼と宮廷人もルイ14世と同様に、香水をこよなく愛していたので、空間に香が立ち込める燻蒸やポプリを使い、香りのなかで生活しました。そして、これまたルイ14世と同じく、ルイ15世は日々の身繕いや装いにも香りをふんだんに使いました。彼は芳香水や芳香酢などで体をマッサージし、香料を入れて入浴し、肌着や衣服、ハンカチや手袋、扇子などの小物類に至るまで、香りをしたためました。ただし、この時代には香りの主流が、軽めのフローラル・ノートへと変わっていたおかげもあったでしょう。ルイ15世は先王とは異なって、晩年まで香りに囲まれて暮らすことができたのです。

 ところで、彼らがこれほどまでに香りに執心していたのは、なにも、単なる趣味の問題だけではありませんでした。というのも、当時の香りは、新型コロナウィルス蔓延を経験した私たちであれば他人事とは思えない、ある伝染病が生んだ衛生観念と深く結びついていたからです。そう、それはペストです。この伝染病の流行は、16世紀の蔓延以来、この18世紀半ばまで断続的に各地で生じては人々を苦しめていました。発生当初は要因がわからなかったものの、医学の発展によって、この時代になると、吸い込んだ空気と、風呂と身繕いに使われる水がペストを引き起こすと考えられるようになりました。特に空気は、悪臭が瘴気を運ぶとみなされたため、兎にも角にも香りのよい空気を吸うことが、解決策とされたのです。このように、良い香りを嗅ぎさえすれば、体内バランスが良好に保たれると広く考えられていたからこそ、王侯貴族がこぞって香りを求めていたのですね。

 今日であれば、「どうかその前に換気を……」とひとこと言いたくなりますが、空気を一変させるためには、換気よりも、良い香りの空気で空間を満たすことが当時は推奨されていたのです。

 さて、いつでもどこでも香りとともにありたいと願う王侯貴族に応えたのが、今回ご紹介する香水瓶です。これは、外出時に使う香水瓶として、流行したものでした。王侯貴族の狩猟は、社交上の大切なレジャーですが、そのような集いの場面にも使われたとされています。香りは、社会的地位の高さを表すものでもあったので、自分が何者かであるかを語らずとも他者に理解させるためにも、重要であったのです。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃ルビーガラス、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1740, Ruby glass, gilt metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 香水瓶のフォルムを見ると、胴体部分が平たく、装飾もあっさりとしています。これはポケットに忍ばせられるように、過度な装飾が廃されているのです。まさに機能美が追求されているのですね。

 しかし時代の趣味の信条はあくまでも、華美であること✨。そこで、単なる簡素な香水瓶にならぬよう、豪華さがガラスの色合いにて追求されました。上の画像の作品には、なかでも最高級とされたルビー・レッドが使われています。この色は、金粉を含むことでようやく生み出される色であり、最も希少価値のあるものでした。

 では、他の色はいかがだったのでしょう? 例えば、こちらの青色です。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃、青色ガラス、金、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1730, blue glass, gold, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 青色も、重要視された色の一つです。これは、青という色が、神から王権を授けられたフランス王を象徴する特別な色であったからです。そういえば、数々の絵画に描かれた、大聖堂での戴冠式で王が纏うのも、青い衣ですね!

 ではこちらの作品のような緑色はいかがでしょう?

《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃、緑色ガラス、銀、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Germany C.1730, green glass, silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

  この緑色は、酸化ウランと銅を加えることで生まれた色です。この色は、前述の2色に比べると豪華さが劣ります。

しかし、本作品の価値は、色よりもその彫金の見事さにあるのです。その部分を拡大してみると、、、👇

 香水瓶の口部分に施された、この非常に繊細な彫りは、本作品を手がけた金銀細工工房の卓越した技術を十分に伝えるものです。しかも、栓のモチーフとなっているのは、なんと仏陀! おりしも当時は、中国趣味が流行していたことを考えますと、この持ち主の部屋には、美しい東洋磁器も多数飾られていたのかしらと、持ち主のインテリアまで、あれこれ想像が掻き立てられます。

 約60年ぶりに生じた1720年のマルセイユの大ペストや1722年の再拡大のように、忘れた頃に断続的に到来する感染症。色とりどりのガラスの香水瓶は、感染症の脅威を経験したからこそ、予防効果を期待して香りを用い、美しく装って、人々との交流を大切にした昔日の人々の存在を教えてくれます。それは、約300年後にパンデミックを経験した私たちにとって、尊い遺産のひとつではないでしょうか。

岡村嘉子 (特任学芸員)

おめでたい魚たちの絵

海の見える杜美術館では、8月22日(日)まで「アート魚ッチング ―描かれた水の仲間たち―」を開催しています。

 

本展の第2章では、「福よコイ! めでたいお魚大集合」としておめでたい意味を持つ魚の絵画を紹介しています。

 

こちらは伝狩野休真の《滝登鯉》。

 

伝狩野休真《滝登鯉》 海の見える杜美術館

伝狩野休真《滝登鯉》 嘉永7年(1854)

 

一匹の鯉が今まさに急流の滝を登ろうとしている場面を描いています。この作品は、「黄河の上流にある龍門という急流を登り切った鯉は、竜に変じる」という中国の「登竜門」の故事にもとづいています。

 

現在でも成功や出世につながる難しい試験やコンテストのことを「登竜門」と言いますよね。日本で5月5日の端午の節句にあげる鯉のぼりもこの「登竜門」の故事にルーツがあるとされています。

 

江戸時代には、この絵のような立身出世への願いを込められた「鯉の滝登り」の図がよく作られました。

 

こちらは金太郎(坂田金時)が巨鯉を捕まえたという逸話をもとにした引札です。

 

《金太郎と鯉》

《金太郎と鯉》 大正時代

 

丈夫で健康な男児の象徴である金太郎もおめでたい図柄として好まれ、この鯉と金太郎の図も身体堅固、立身出世を願ってよく作られました。

 

日本でおめでたい魚として有名なものに鯛がいます。

 

鯛は、名前の響きが「めでたい」に通じることや身体の赤色が邪気を払うとされたこと、また七福神の恵比寿の持物であったことなどからおめでたい魚とされていました。

 

お正月に店の広告として配られる引札には、商売繁盛の神である恵比寿とともに鯛がよく登場します。

 

《恵比寿と大黒》 《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》

上:《恵比寿と大黒》 明治35年(1902)頃

下:《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》 明治40年(1907)頃

 

引札の恵比寿と鯛の図柄は、バリエーションに富んでおり見ていて飽きないです。

 

第2章の最後では、魚を題材にした中国のおめでたい現代年画も紹介しています。

 

こちらはその内、「金魚満堂」という図。

 

《金魚満堂》

《金魚満堂》 中国・1984年頃

 

金魚鉢の中を泳ぐ金魚を描いた作品です。

 

金魚は金玉(きんぎょく、黄金や玉(翡翠のこと)などの財宝)に通じ、それが部屋に満ちている(満堂)ことから、財力や経済的な豊かさを象徴したおめでたい絵となっています。

 

このように魚たちには様々なおめでたい意味がこめられ、絵画化されました。

 

今回の展示では、ブログで紹介している以外にもおめでたい魚たちの絵を紹介しています。会期も残り3週間を切りましたが、最後まで「アート魚ッチング」展をよろしくお願いいたします。

 

大内直輝

展覧会ブログ① 大野麥風の『大日本魚類画集』

海の見える杜美術館では、5月29日(土)から8月22日(日)まで「アート魚ッチング ―描かれた水の仲間たち―」展を開催しています(会期中展示替あり)。

 

この展覧会は、海の見える杜美術館が所蔵する、水の生き物を題材にした江戸時代から昭和時代までの絵画を展示し、美術の中で描かれてきた水の生き物を紹介する展覧会です。

 

今回の出品作品の中で目玉の一つは、展覧会の最後に紹介する『大日本魚類画集』です。

大野麥風『大日本魚類画集』「鯛」

大野麥風『大日本魚類画集』「鯛」 第1輯第1回 昭和12年(1937)8月

海中を悠々と泳ぐ3匹の鯛が、色鮮やかに活き活きと表現されています。まるで筆で描かれたようなこの作品、実は版画です。

 

この『大日本魚類画集』は、昭和12年(1937)~昭和19年(1944)にかけて全6輯(しゅう)72点が制作・出版された魚の版画集です。原画を担当したのは、「魚の画家」といわれた大野麥風で、彫師・摺師も当時一級の腕を持った人物が携わりました。

大野麥風『大日本魚類画集』「テナガエビ」解説

『大日本魚類画集』「テナガエビ」解説表紙

 

また、魚の版画以外にも「近代魚類分類学の父」と言われた東京帝国大学教授・田中茂穂と著名な釣り研究家・上田尚による魚の解説が付属していました。

大野麥風『大日本魚類画集』「カツオ」

大野麥風『大日本魚類画集』「カツオ」 第3輯第9回 昭和15年(1940)5月頃

 

この魚類画集は、「本邦初の魚類生態画」という謳い文句の通り、魚たちの泳ぐ姿やその生活環境までも丁寧に描写した作品です。麥風は、泳ぐ魚の姿を見るために、戦前はまだ珍しかった水族館に足を運びました。また、より正確な魚の色彩と生活環境を知るために潜水艦に乗り込み、実際に海の中を泳いでいる姿を観察したそうです。そのような熱意と努力のもとにうまれた本作は、まさしく「本邦初の魚類生態画」の名にふさわしいものとなっています。

大野麥風『大日本魚類画集』「フグ」

大野麥風『大日本魚類画集』「フグ」 第3輯第5回 昭和15年(1940)1月

 

こちらは可愛らしい「フグ」。本展のため製作したブックレットの表紙にもなっている作品です。

 

色彩のグラデーションも細かく丁寧につけられています。また、色の濃淡によって手前にいるフグと奥にいるフグを区別しています。

本物の魚に近い色鮮やかさや緻密さを実現するために、何度も摺りを重ね、麥風本人も彫師や摺師に対する注文を摺り見本に細かく書いたそうです。

実際に会場で目にすると、その色鮮やかさや緻密さがより伝わってきます。

 

今回の展覧会では、全6輯72点の内、当館で所蔵する1~4輯までの47点(3輯の1点欠)を紹介しています。当館で本作をま とめて公開する機会は、今回が初めてです。魚類をテーマにした版画の傑作、『大日本魚類画集』の魅力を味わっていただければと思います。

 

大内直輝

 

「Edo⇔Tokyo」展紹介ブログ③ 江戸の桜の名所

海の見える杜美術館では、8月23日(日)まで「Edo⇔Tokyo ―版画首都百景―」を開催しています。

展覧会の紹介と過去のブログは、

https://www.umam.jp/blog/?p=9873

https://www.umam.jp/blog/?p=10128

に掲載してあります。

今回は、江戸の桜の名所について、出品作品を見ながら紹介します。

現代と同じく、江戸時代でも桜の花見は庶民の娯楽の一つであり、浮世絵にも花見の名所はよく描かれました。桜は江戸各地で楽しめましたが、まとまった状態で見られる花見の名所は限られていました。

江戸で最初に花見の名所が出来たのは、3代将軍徳川家光(1604-1651)の治世の頃になります。家光の命で上野寛永寺(現在の台東区)の初代住職・天海(1536?-1643)が吉野山の桜を境内に植樹し、娯楽の少なかった江戸庶民のために花見の場を作ったのがはじまりです。

歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)
歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)

満開の桜が咲き誇っています。

その後4代将軍家綱(1641-1680)の時代、寛文年間(1661-1673)頃から御殿山(現在の品川区)にも桜の植樹が始まります。8代将軍吉宗(1684-1751)の時代には、600本の桜が植樹されました。御殿山の桜は高台にあり、江戸湾を望みながら桜を楽しむことができる場所でした。

歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)

江戸湾が一望できます。宴会を楽しむ人の姿も見えます。

しかし、江戸の市中から御殿山までは2里(約8km)ほどあり、庶民が気軽に花見を楽しめる場所ではありませんでした。そのため、吉宗の治世まで庶民が気軽に桜を楽しめる場所は、寛永寺ぐらいで花見の時期には風紀が乱れるほどの人が集まりました。

吉宗の時代には、享保の改革の一環として、庶民の娯楽の場を増やすために、さらに2つの桜の名所が整備されます。

1つは隅田川の土手です。4代将軍家綱の時代に、常陸国(現在の茨城県)の桜川から桜を移植したのが、隅田川の桜の始まりとされています。その後、享保2年(1717)、100本の桜が、享保11年(1726)植樹され、花見の場として本格的に整備されます。特に隅田川を上流から見て左側(墨田区側)は「墨堤」と呼ばれ、江戸屈指の花見の名所として定着していきました。

歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)

三囲神社の鳥居越しに隅田川沿いの桜を眺めます。

もう一つは王子の飛鳥山(現在の北区)です。王子の地名は、紀州熊野の熊野権現(若一熊野神社)を勧進したことが由来とされ、紀州藩出身の吉宗はこの地に目を付け、整備を試みました。飛鳥山には元文2年(1737)に1270本ものソメイヨシノの苗木が植えられ、吉宗自ら当地に赴き宴会の席を催し、新たな花見の場としてアピールしたといわれています。当時主要な桜の名所であった寛永寺は、規制が厳しく、宴会や夜桜は禁止されていたため、江戸庶民は飛鳥山に集うようになったといいます。

歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)

たくさんの桜の花が咲き誇り奥には富士山の姿も見えます。左に描かれる石碑は「飛鳥山碑」と呼ばれ、元文2年(1737)に建てられました。飛鳥山の由来や桜が植えられた経緯が書かれています。

最後に少し変わった桜の名所・吉原を紹介します。

江戸幕府公認の遊郭として元和3年(1617)に誕生した吉原は、明暦3年(1657)の明暦の大火を機に、葦屋町(現在の日本橋)から浅草寺裏の日本堤に移転します。以後、江戸庶民のあこがれ、そして文化の発信地として繁栄します。

その吉原にも花見の季節になると満開の桜が咲き誇りました。しかし、この桜は元々植えられていたものではなく、毎年三月朔日になると他の場所から桜樹を運んできて植えたものです。その数は千本にも及んだそうです。

歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)
歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)

色とりどりに着飾った花魁と夜桜がとてもきれいな一枚。

そして、花が散ると桜の樹は抜かれ、また桜の季節になると植えられました。

以上が江戸の代表的な桜の名所です。海を一望しながら桜を楽しめた御殿山は黒船来航後、台場を築くため崩され埋め立てられてしまったため、現在では見ることができません。しかし、御殿山と吉原を除いた寛永寺、墨堤、飛鳥山は今でも花見の名所として健在で、桜の季節になると多くの人が集まります。

今年の桜の季節は過ぎてしまいましたが、また花見の時期になったら、江戸に思いをはせながら、桜を愛でてはいかがでしょうか?

大内直輝

江戸から明治にかけての首都の風景の変化 ①「日本橋」

現在、海の見える杜美術館では、6月20日(土)より始まる、「Edo⇔Tokyo –版画首都百景–」展の準備中です。本展では、当館の所蔵品の中から、江戸時代後期に風景画の名手とうたわれた初代広重、明治初期に開化絵を多く手がけた三代広重(1842-1894)、師・清親が始めた光線画を引継ぎ明治初期の東京の姿を情緒的に描いた井上安治(1864-1889)などの作品を紹介し、当時の絵師が捉えた、江戸から明治にかけて変化していく街の様相を見ていきます。

今回からシリーズとして、出品作品の中から、江戸・東京の名所風景を一部紹介し、江戸から明治にかけて首都の風景がどのように変化したのかについて見ていきたいと思います。

1回目は、東京を代表する名所である「日本橋」を紹介します。

江戸幕府が開かれた慶長八年(1603)に初めて架けられた日本橋は、五街道の起点として発展しました。橋の周辺には魚市場が形成され、江戸の人々の食を支えていました。経済の中心であった日本橋は、江戸でも一番の賑わいを見せていました。

日本橋

上は現在の日本橋です。1911年(明治44)に架けられた石造アーチ橋で国の重要文化財に指定されています。日本橋は、焼失などで過去19回も改架されており、石造となった今の橋は20代目になります。残念ながら、橋の上には首都高速道路が走っており、往時のような存在感は薄れてしまっていますが、橋の周辺には、日本でも有数のビジネス街が形成されており経済の中心地としての面子は保ち続けています。

では、江戸時代の日本橋がどうようなものであったのか、当時の浮世絵を見ていきましょう。

日本橋魚市の図

歌川広重「日本橋魚市之図」(《東都名所》のうち)

天保3年(1832)頃の日本橋の様子です。中央には日本橋が描かれ、画面手前には店舗が建ち並びます。橋の上や通りは人であふれかえり、活気に溢れています。日本橋をよく見ると、橋が弓なりになっていることが分かります。江戸時代の日本橋はこの絵のように中央が高く盛り上がった反橋でした。

続いて明治時代初期の日本橋を見ていきましょう。

日本橋《東京真画名所図解》

「日本橋」(《東京真画名所図解》のうち)

明治前期(1881年~89年頃)の日本橋の夕景です。画面の左側には赤レンガの倉庫が建ち並び、川には渡し舟の他に大型の荷舟が描かれます。日本橋に目を移すとそれまでの反橋ではなく、平らな橋に変わっていることがわかります。この橋は、1872年(明治5)、最後に木造で架けられた19代目で、橋から平らな橋に変わった理由は、急速に普及してきた人力車や馬車などの通行に対応するためといわれています。

このように江戸を代表する名所であった日本橋も、文明開化の影響を強く受け、大きくその風景が様変わりしていたことが分かります。

「Edo⇔Tokyo」展では、これら江戸から明治にかけての首都の風景を写した版画を展示します。本ブログでも出品作品のもとに展覧会の紹介を今後もしていく予定です。どうぞお楽しみください。

大内直輝

ツバメのヒナ

皆様こんにちは。

今年も、軒先に巣を作っていたツバメのヒナがすくすくと成長しています。

20190704 ツバメ2この光景も、ここ数年はすっかり毎年恒例になりつつあります。

(昨年の記事「軒先のツバメ」はこちら)

 

20190704 ツバメ1親ツバメを待つ間の顔が、なんとも愛らしいです。

 

 

さて、現在開催中の菅井汲展も、早いもので後半期へと入りました。

今展に合わせて作成したブックレットは、

A5のコンパクトサイズに菅井の版画作品の魅力を

ギュッと凝縮した一冊となっています。

菅井汲1

いつでもどこでも菅井の作品を眺めることが出来ますので、

ご来館の際には、是非お手に取ってみていただければと存じます。

展示スペースの都合上、陳列をしていない作品も本ブックレットには掲載しておりますので、そちらも併せてお楽しみください。

また、ご来館のお客様より、展覧会をご覧になった後に

「力強さを感じた」「まとまった作品を見たのは初めてだったので良かった」

等のお声を頂いており、受付・総務としても一スタッフとしても嬉しい限りです。

今後とも、作品の魅力を最大限にお伝えできるよう、スタッフ一同精進してまいります。

菅井汲展は今月21日(日)まで開催しています。

A.N

季刊誌「Promenade Vol.29」情報

厳しい寒さが感じられる毎日ですが、今年はまだ暖かい方だということを知り、

広島の冬を初めて体験する私としましては、来年以降の冬を私は耐えられるのかと

若干うなだれそうになっております。

皆様はいかがお過ごしでしょうか?

先日は寒さの中にも日の光が暖かく、ぽかぽか陽気にひなたぼっこをしたくなりました。

立春が過ぎてからは、明るい時間がよりいっそう長くなったように感じます。

気がつけば杜の遊歩道の梅の花がぽつぽつと咲き始めました。

例年より暖かい気候のせいか、一部の木では見頃を迎えています。

~杜の遊歩道梅林より~ 2月10日撮影

20190210 梅林2

20190210 梅林1

これから徐々にまだ固いつぼみも開いていくことでしょう。

20190210 梅林3

 

下の写真は昨年の見ごろを迎えた梅の写真です。

20180311梅の花

2018年3月11日ブログ「梅の花が見ごろを迎えました」より

 

また、当館発行の季刊誌「Promenade Vol.29」春号が完成いたしました。

こちらも梅の花のように一足早い春のお知らせになれば幸いです。

PromenadeVol.29-1

PromenadeVol.29

3月2日(土)より開催する春期特別展

「幸若舞曲と絵画 武将が愛した英雄(ヒーロー)たち 」の開幕に先駆けて、

幸若展の見どころはもちろん、香水瓶展示室や竹内栖鳳展示室、

次回展覧会予告などなど、様々な内容をご紹介しております。

「幸若舞曲って何?」と疑問に思う方も、

Promenadeの中でたくさんの絵と共に解説されていますので、

ぜひお手にとってみてください。

 

さて、そんな春期特別展も開幕まであと一ヶ月を切りました。

展示室はというと、

20190209

20190206-1

試行錯誤をしながら、着々と開館に向けて準備をしております。

果たして間に合うのか…。

A.N

長期休館に入りました。

ご無沙汰しております。

昨年の10月27日(土)から開催しておりました

「西山翠嶂-知られざる京都画壇の巨匠-」が

先日1月14日(月)を持ちまして、無事に閉幕いたしました。

期間中は、多くのお客様にご来館いただき

誠にありがとうございました。

西山翠嶂1

 

 

\また逢う日まで/

西山翠嶂3

 

さて、当館は1月15日(火)より長期休館に入り、

現在は3月2日(土)より開催の春期特別展、

「幸若舞曲と絵画 武将が愛した英雄(ヒーロー)たち」

に向けて、着々と展示替えを進めております。

また、先日ポスターとチラシが出来上がりました!

幸若舞曲1

今までとは一味違ったデザインとなっており、スタッフ一同満足の仕上がりになっております。

今後は、展示替え期間中の内部をご紹介いたしますので、

引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

A.N

次回展 「西山翠嶂」展に向けて

かんかん照りだった8月も残り1日となりました。

風もどこか秋の匂いを感じます。

そんな中、美術館の受付・総務を務める私たちは

次回の展覧会

「西山翠嶂-知られざる京都画壇の巨匠-」

に向けてチラシ発送の準備を進めております。

皆様のお手元に届くのは9月に入ってからになりますが、

どうぞ楽しみにお待ちくださいませ。

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「西山翠嶂」展

2018年10月27日(土) から開催です。

A.N

香水瓶の至宝展53 《香水瓶》 イギリス セント・ジェイムズ 1760年頃

リニューアルオープン記念特別展「香水瓶の至宝 ~祈りとメッセージ~」開催中

海の見える杜美術館の香水瓶コレクションから、選りすぐりの名品を展観いたします。香りと人類の歩んできた重厚かつきらびやかな歴史をご覧ください。

この香水瓶の、高さは7.6cm。素材は軟質磁器、金属に金メッキです。

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うみひこ