松永商舗

当館は2000点を超える引札を収蔵し、2021年には展覧会引札 新年を寿ぐ吉祥のちらしを開催いたしました。引札を配布された会社の中には現在も続く老舗があり、開催時にはその関係の方々から貴重なお話をいただき、展覧会やブログの記事に反映いたしました。

このたび、当館所蔵の松永商鋪様の引札のブログ記事をご覧になられた松永家のお身内の方からご連絡いただき、いろいろなことをご教示いただきました。展覧会後ではありますが、あまりにもそのお話が興味深かったため不躾にも原稿をお願いし、ご快諾いただきましたので、ここに松永商鋪様の記録を掲載させていただきます。

ご関係の方しか知りえない貴重なお話が記されていますので、ぜひご一読ください。

青木隆幸

「松永商鋪について」

猿橋敏雄

引札を発行していた京都の松永商鋪は家内の実家です。
店は20年前程に廃業し、現在は蔵を除き家屋は残っていません。
そのため家内が祖母や母親、叔母などから聞いていた話をもとに現存していたときの店の概要と店を取り巻く周りの状況について書き留めてみました。

(店の概要)
店は京都市下京区松原通麩屋町東入る石不動之町にあり松原通に南面していました。

松原通は平安京の五条通にあたり、東にまっすぐ行くと清水寺にいたります。
その途中、鴨川にかかる松原橋が弁慶と牛若丸が戦ったという伝説のある五条の橋になります。

創業は文化元年(1804年)頃で主に太物を扱う呉服商を営んでいました。
最盛期には奉公人が20人ほどいてそれなりの店だったようで何人かの奉公人に暖簾分けもしたようです。
奉公人の食事は質素なもので、朝はお粥と漬物、夜はそれに船場汁(サバなどの魚と大根などの野菜を煮たもの)などが出た程度のものでした。  

(大丸と新選組)
幕末期、家内の店の東隣り、松原通御幸町東入には大丸呉服店(今の大丸デパート)がありました。
家内の店は屋号を西丸と称して大丸と張り合っていました。
明治になって下京で電話を引いたのも自分の店が1番早いと自慢していたそうです。

また、この松原通は新選組や見廻り組の巡回路でした。
新選組は大丸松原店であのダンダラ模様の制服を作ったようで、そのためか家内の先祖は新選組を壬生浪と呼び嫌っていたようです。

(家のつくり)
家のつくりは典型的な京町家、いわゆる鰻の寝床と呼ばれる間口が狭く、南北に細長い二階建ての家で店を構えていた本宅と普通の町家の別宅が二軒並んで建っていました。

もともとは表に面する店と奥の住居用の建物が別棟で、玄関棟でつながるいわゆる表屋造の建物のようでした。
その一部が幕末の蛤御門の変で起きたどんどん焼きで焼けたため、焼けた家を本宅に改築し、焼け残った家を別宅としたようです。
現在、それを裏付けるものは何も残っていないのですが、奉公人が20人も同じ家の二階に暮らしていたとのことですのでその可能性は高いのではと思っています。
残念ながら今はどちらも残っておらず、蔵だけが現存しております。 

参考までに当時の間取りを私どもの記憶を頼りに再現してみました。

本宅は、入口側から店の間、台所の間、奥の間、奥庭、奥庭の奥に蔵と続き、奥の間から伸びる細長い廊下の横には五右衛門風呂、廁があり、踏石があって奥庭に出れるようになっていました。

部屋の横には通り庭と呼ばれる細長い土間が入口から奥まで通り抜けられるように作られ、その途中におくどさん(かまど)と炊事場があり、その上部には火袋が設けられて吹抜けになっていました。
そのため暑い京都の夏でも風がとおり涼しかったことを覚えています。

また庭には、井戸があり庭木の水やりなどに使っていました。庭木は、槙、ナンテン、センリョウ、マンリョウ、ダイダイなど縁起の良いものが植えれ、灯籠、手水鉢、踏石などが配置されていました。

別宅は、表は店の作りではありませんでしたが坪庭のある典型的な京町家の作りで本宅に比べ小振りなものとなっていました。
本宅と別宅は店の間から行き来できるようになっていました。

(氏子区域について)
店の前の松原通は、祇園さん(八坂神社)と稲荷さん(伏見稲荷大社)の氏子の境になり、北側が祇園さん、南側が稲荷さんの氏子区域でした。
店は北側にありましたので松永家は祇園さんの氏子でした。

(祇園祭と稲荷祭)
祇園さんの祭礼の祇園祭は日本三大祭に数えられ山鉾巡行が有名ですが、かって山鉾は松原通を東から西に巡行していました。
あの狭い松原通を大きな山鉾が巡行するので鉾の屋根に乗る人が町家の屋根や瓦を鉾がぶつからないよう足でけっていたらしく、そのため町家の屋根や瓦に度々被害が及んだようです。
それでも祭のときは店に幕を張り、家宝を店前に飾るなどしていました。
幼い家内は店の二階から山鉾巡行を見物し、厄除けの粽を直接鉾に乗った人から手渡してもらったことを今でも覚えています。

また、稲荷祭のときは山鉾巡行とは逆に神輿が西から東へと練り歩きましたが、左右に振れる荒々しい神輿でよく家屋の一部を壊されたそうです。しかし神事のため誰も文句は言わなかったようです。

(季節ごとの営み)
[お正月]
座敷を正月用にしつらえ、家族全員で新年のあいさつを交わしお祝膳をいただきました。
お雑煮は丸餅に頭芋、大根を入れ白味噌仕立てにしたもので、頭芋は小分けにして正月三が日で食べきるようにしていました。
おくどさん(かまど)にも正月飾りをし、鏡餅をお供えしました。

[桃の節句]
桃の節句には、江戸期から伝えられていた古い雛人形が飾られていましたが、京都では向かって左手にお雛様、右手にお内裏様が飾られていました。

[夏の建具替え]
6月になると、障子や襖を取り払い、葦戸をかけ、網代を敷き詰め少しでも涼しくなるように工夫していました。

[地蔵盆]
8月の終わりには、近所の明王院不動寺(松原不動)で子供たちが楽しみにしていた地蔵盆が行われ、お菓子をいただいたり数珠回しなどをしたりしていました。

[秋の建具替え]
10月には、雪見障子や襖を入れ、段通を敷き詰めて底冷えのする冬に備えました。

[大晦日のをけら詣り]
をけら詣りは、祇園さんの大晦日の風物詩で除夜祭の後、「をけら灯籠」に灯された「をけら火」を火縄(吉兆縄)に点し、火を消さないように縄をくるくると回しながら店に持ち帰り、無病息災を祈願して神前の灯明や正月の雑煮を炊く火種としていました。燃え残った火縄は火伏せ(火難除け)のお守りとして台所に祀っていました。

以上

引札―新年を寿ぐ吉祥のちらし―Part Ⅱ 開催中です

ご無沙汰しております。この間、学生時代の後輩に会った際、「最近あまりブログを書いていないのではないか?」と指摘されました。反省しきりです。

11月3日より、展覧会「引札―新年を寿ぐ吉祥のちらし―PartⅡ」が開催中です。当館の引札は昨年の展覧会でもご紹介したのですが、まだまだご紹介しきれなかった作品もあり、今年も開催となりました。

引札は、明治から大正にかけて隆盛した、広告のための印刷物で、商店が年末年始にお得意様に配布したものを、特に「正月用引札」と言っています。年末年始にふさわしく、おめでたいモチーフが画面に描かれています。当時の幸せを呼び込むと考えられたもの、あるいは人々の幸せのありかたがそこにあると言えるでしょう。

前回同様、今回も「かわいい」「おもしろい」という声を来館の皆様からいただいておりますが、意外な作品が好評で、担当としても驚いております。

田口 年信《大黒 家族 お金 床の間》1899年(明治32)頃

掛け軸に描かれた大黒が持つ打出の小槌から、お金がどんどん湧いてきています。真ん中の男性はそれを三方で受け、右側のお嬢さんはこぼれたお金をかき集めています。

ここに表されているのは、「お金があったらいいな~」という素直な気持ちではないでしょうか。

美術館では多くの場合、画家の誰かが作った立派な芸術を鑑賞して、なにを表現しているのかを読み取る、というなかなか大変な作業をしてしまいがちですが(それは私に限ったことではないでしょう)これら引札を見てまず受け取るのは、「長寿!富!商売繁盛!家庭円満最高!」という、非常に簡単なメッセ―ジです。

こうした絵画は共感できる部分も多いですし、この率直さがいっそ気持ちよいということで、美術に親しんだ人にとっても新鮮に思えて好評なのかもしれませんね。

《七福神 飛行機 気球 富士》明治時代末~大正時代初期

宝船に乗ってやってくる姿が定番の七福神も、引札の世界ではお札の羽の飛行機でやってきます。率直に、神様が富(それも紙幣というかたちで)をもたらしてくれることを願っている絵です。

ちなみに今回、すべての作品に解説がついているわけではありませんが、作品の情報を書いたキャプションにちょっとした一言を添えています。何かを解説していると思いきや、私の感想がほとんどです。ぜひ見てみてくださいね。

《瓶酒 グラス 恵比寿 大黒》1907年(明治40)頃

全部こんなギラギラした欲望を描いた絵画なの、疲れるわと思われるかもしれませんが、こんなチルい絵画も展示しております。こちらはスタッフに好評の作品です。恵比寿さんたちがお酒を手にしながら談笑しています。こんな時間を明治の人たちも持っていたんでしょうか。

展覧会は12月25日までです。引札の世界をぜひのぞいていただければ幸いです。

森下麻衣子