うみもり香水瓶コレクション 24 イギリスの巡礼用水筒型セント・ボトル

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」と題した、旅をテーマとする前近代から近代にかけての日本絵画の展覧会を開催しています。

 この展覧会にちなんで、香水瓶展示室では、旅に関する香水瓶を数点ご紹介しています。例えば、こちらの17世紀イギリスの銀製のセント・ボトルです👇

《セント・ボトル》イギリス、1660-70 年頃、銀、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1660-70 , silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 皆様は、この器形をご覧になられて何をご連想なさるでしょうか? 一見したところでは、今が旬の洋ナシのようですね。たしかに洋ナシ型は、17世紀、18世紀に数多く使われた器形でもあります。ですが、より厳密にいうと、本作品の器形は、巡礼者が聖地へ赴く際に携えた水筒という、比較的珍しい形をしています。そして、この形と図柄の調和こそが、本作品の価値を高める重要な要素なのです。ですので、この機会に詳しくご紹介いたします!

 瓶を覆う唐草模様にしばし目を凝らしていると、思いがけないところから、二つの像が浮かび上がってまいります。ひとつは、ギリシャ神話の風神の主、アイオロスです。こちらの部分ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 風を自在に操るこの神は、ここでも目を見開き、頬を膨らませて、お得意の風を力強く吹かせているのがわかります。なにしろアイオロスは、西風のゼピュロスや北風のボレアース等の風の神々の頂点に君臨する風神の主です。アイオロスをして吹き飛ばせないものなどありません。

 そしてもうひとつの像は、このアイオロスに比べると、打って変わってほんわか、のほほ~んとした印象なのですが……👇。宗教画などに登場する愛らしい小さな天使です。アンディ・ウォーホルが商業デザイナー時代に描いた気ままな天使たちを彷彿させる線描ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 唐草模様の間に、あまり目立たない形で刻まれたこの2つの像には、どのような意味が込められているのでしょうか。それには、時代背景が深く関係していると先行研究において指摘されています。

 この香水瓶の制作時期と重なる1665年のイギリスでは、ロンドンで腺ペストが猛威をふるっていました。いわゆる「ロンドンの大疫病」の名で知られる、イギリス最後の腺ペストの流行です。それは住民の2割以上の死者を出し、一時は多くの王侯貴族や市民たちがロンドンから避難するほどの規模でした。

 この疫病流行に際し1665年のロンドンに流布した広告は、香りの歴史からすると、とても興味深いものです。というのもそこでは、腺ペストから身を守る方法として、芳香酢の蒸気やローズ水やその他の香料の噴出が推奨されているのです。実際に、この広告以外の資料においても、感染拡大の結果として、大量の芳香酢で体をマッサージしたり、室内に漂わせたり、街路に撒かれたりしたことがわかっています。

 以前、フランスの例として、18世紀のガラス製携帯用香水瓶においても見ましたが、当時のヨーロッパでは、迫りくるペストの瘴気から身を守るために、香料がいかに必要とされていたかがわかりますね。

 以上のような時代背景を踏まえて、本作品を再度見てみますと、アイオロスの姿には、勢いのある神聖な風で瘴気を遠ざけたいとの願いがうかがえます。また葉叢に戯れる無邪気な天使の姿は、香りに満ちた自然が人間にもたらす恩恵を謳うかのようではないでしょうか。そして、巡礼時の水筒を模した器形には、ペストが様々に変異しながら周期的に流行するイギリスから、遠く離れた聖地への思いが込められているように思えるのです。

 感染症流行下に、かつて誰かが胸に描いた、追憶の、もしくは想像上の巡礼の旅。コロナ前に本作品を見ていたときには真に感知しえなかったその切実さを、今になって感じています。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima I学芸員撮影。

 本作品は、現在の展示ケースの中で、同時代のドイツやオランダのポマンダーやヴェネツィアのラッティモ・ガラスの香水瓶、フランスのルイ14世の弟のオルレアン公フィリップ1世お抱えのガラスの名匠、ベルナール・ペロ作の人面をかたどった香水瓶という海杜コレクションきっての傑作とともに公開されています。ぜひ17世紀のヨーロッパ各国が誇った高い技術と、地方色豊かなデザインや素材をお楽しみくださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

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企画展示室情報:芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー

[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)

[休館日]月曜日(ただし9月18日(祝)、10月9日(祝)は開館)、9月19日(火)、10月10日(火)

[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料

*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

[タクシー来館特典]タクシーでご来館の方、タクシー1台につき1名入館無料

*当館ご入場の際に当日のタクシー領収書を受付にご提示ください。

[主催]海の見える杜美術館

[後援]広島県教育委員会、廿日市市教育委員会

うみもり香水瓶コレクション23  マイセン製の香水瓶 2

 こんにちは。今回の「うみもり香水瓶コレクション」は、前回に引き続き、当館企画展示室の「蘇州版画の光芒 ―国際都市に華ひらいた民衆芸術ー」展に合わせて、マイセン磁器工房の香水瓶を取り上げます。本作品は、香水瓶展示室にて8月13日まで展示しています。こちらの作品です👇

《香水瓶》ドイツ、マイセン1725-28年硬質磁器、銀に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUME FLACON, Germany Meissen, 1725-1728, Hard paste porcelain, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 一見すると、前回ご紹介した作品と見分けがつかないかもしれません。2点を並べてみると……👇

《香水瓶》ドイツ、マイセン1725-28年硬質磁器、銀に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUME FLACON, Germany Meissen, 1725-1728, Hard paste porcelain, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 ほう、やはり似ていますね。この2点は、ともに天才絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトが手掛けた時期にあたる作品です。それゆえ、両作品では、彼が編みだした色鮮やかな絵付けの技術がいかんなく発揮されていて、それが見る者の目に真っ先に飛び込んでくるため、どうしても印象が似てしまいます。さらに、側面の怪人面の有無といった多少の差異はあるものの、全体の器形や、金属部分の使い方、図柄の余白となる白磁の効果的な見せ方もよく似ています。サイズ(高さ)も1㎝しか違いません。

 では一体、何がもっとも異なるのでしょう?

 それは、図柄の内容です。前回の香水瓶が、ヘンテコな生き物が空に舞う、幻想的な東洋風景であったのに対して、今回の香水瓶は、現実的な西洋の風景が描かれているのです。

 図柄を拡大して見ると……

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 晴れ晴れとした空の下に繰り広げられる、とある港の活気あふれる岸壁の光景が活写されています。

 水上の幾隻もの船の往来、そしてそれを見守る紳士たち――彼らの後ろ姿からは、船の到着を今か今かと待ち構える様子がよく伝わってきます。その傍らでは、顔見知りにでも行合ったのか、朗らかに言葉を交わす人々が見受けられます。そのまた傍らでは、荷を一心に運ぶ人夫も瓶の右端にいますね。

 反対の面も見てみると……

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 こちらの様子は、なにやら忙しそうです! 岸壁に置かれた荷の数も増えていますし、悠長に遠い水上を眺める人の姿も、もはやありません。きっと船が接岸したのでしょう。そのため、荷物をせっせと運ぶ人々やそれを指示する人、さらに荷の確認を終えて談笑する人々の姿が見られます。つぶさに見ていると、あたかも当時の記録映像でも見ているかのようです。あともう少し耳を澄ませば、運搬人の掛け声や貿易商人たちの話し声、汽笛や波の音まで聞こえてきそうなほど。私はこのようなときにこそ、ヘロルトの卓越した描画技術を実感いたします。10㎝にも満たない小瓶に、あまりにもリアルに描かれた港の様子。これは幻想的な東洋風景を見るのとは一味違った知的好奇心を満たしてくれるのではないでしょうか。

 港の風景は、初期の磁器製の香水瓶にしばしば描かれた図柄でした。この図柄が瓶の全面に配された本作品は、磁器が、何世紀もの間、はるか中国や日本からの希少な輸入品であった歴史的事実を思い起こさせてくれるものです。つまり、図柄が幻想的であろうとも、また現実的であろうとも、初期の磁器には常に東洋の存在がどこかにあるのですね。

 面白いことに、企画展示室の「蘇州版画展」には、本作品とほぼ同時代に制作された、東洋の港町の姿を伝える作品が複数出品されています。例えば、18世紀の中国最大の経済都市であった蘇州の都市景観図《姑蘇閶門図》と《三百六十行図》です。《姑蘇閶門図》は、展覧会チラシにも使われている作品ですね。これらの作品には、市中を水路が巡り、船が行き交うこの町の、大運河に接する城門付近の様子が描かれています。

左:《姑蘇閶門図》清時代、雍正12年/1734年、紙本、木版、濃淡墨摺筆彩、海の見える杜美術館。The Changmen Gate of Suzhou,1732, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima. 右:《三百六十行図》清時代、雍正12年/1734年、紙本、木版、濃淡墨摺筆彩、海の見える杜美術館。All Walks of Life, 1732, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima.

 この東洋の港湾都市も、とても賑わっていますね。さきほどの西洋の港の風景とは違って、こちらは町を一望するように俯瞰した視点で描かれているので、岸壁やその周囲の様子がなおさら克明に伝わってきます。ここで用いられている線遠近法や陰影法については、キリスト教宣教師を介して伝えられた西洋画の影響が、先行研究にて指摘されています。前回ご紹介した当館で5月に催した記念講演会においても、そのことについての最新の研究結果が、当館の青木学芸員をはじめ、複数の研究者により発表されておりましたので、私はいずれも興味深く拝聴いたしました。

 なんといっても、1730年前後に制作された西洋の磁器には東洋の、そして東洋の版画においては西洋の存在が感じられるのは、とても面白いことですね。交易や布教活動による人の往来が、文化へもたらす影響の大きさがよくわかります。

 ところで、マイセン磁器工房の香水瓶は、香水瓶の歴史も塗りかえることになりました。それ以前の、鉱物や陶器、金属、ガラスといった素材から、マイセン磁器の誕生以後は、磁器が各地で相次いで用いられるようになったのです。その伝播力は甚大で、しまいには18世紀の香水瓶を象徴する素材となりました。

 以上、2回に渡って、マイセン磁器工房の香水瓶を取り上げました。その歴史的価値や魅力の一端をお伝えできましたら幸いです。絵付けの素晴らしさに限っては、どれほど言葉を尽くしても表しづらいものです。ぜひこの機会に実物を展示室にてご覧くださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

◇企画展示室情報:蘇州版画の光芒―国際都市に華ひらいた民衆芸術― – 広島 海の見える杜美術館 (umam.jp)

[会期](前期)2023年3月11日(土)〜2023年5月6日(土)
    (後期)2023年6月 3日(土)~2023年8月13日(日)
     ※前期と後期でメイン会場の作品はすべて入れ替わります
[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)
[休館日]月曜日(但し7/ 13(月)は祝日開館)、 7/14(火)
[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料
*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

うみもり香水瓶コレクション22  マイセン製の香水瓶 1

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、当館所蔵の約3000点の中国版画の中から厳選された約300点を公開する「蘇州版画の光芒 ―国際都市に華ひらいた民衆芸術ー」展が開催中です。17世紀から18世紀に、中国の港町、蘇州でつくられた版画の魅力をたっぷりとご紹介しています。

 この展覧会にちなんで、香水瓶展示室では、蘇州版画と同時代にヨーロッパの王侯貴族が夢見た東洋として、マイセン磁器工房の香水瓶2点を展示しています。今回はそのうち1点をご紹介いたします。

こちらです👇

《香水瓶》ドイツ、マイセン1725-28年硬質磁器、銀に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUME FLACON, Germany Meissen, 1725-1728, Hard paste porcelain, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

セーヴルやロイヤル・ウースター、ロイヤル・クラウン・ダービー、KPMベルリン等、ヨーロッパの名だたる磁器工房のなかでも、マイセンが特別な地位を誇る理由をご存知でしょうか? それは、このマイセンこそが、ヨーロッパの地では不可能とされてきた磁器の製造を初めて成功させたからです。

 マイセンで磁器が誕生するまで、磁器は何世紀にもわたり、遠い東洋からもたらされる舶来品でした。なにしろヨーロッパでは、純白で艶があり、薄く硬い性質を持つ磁器の製法が解明されていなかったので、輸入品を待つばかりだったのです。とはいえ、ひとたび異国の希少で美しい産物を知れば、それを自国で真似して作ってみようと人は思うもの。そのようなわけで、輸入に頼る一方で、東洋磁器と同じく硬質の磁器を作る試みは、常に続けられていました。

 例えば、極東貿易を通じて他のヨーロッパ人に先駆けて、東洋磁器を知ったヴェネツィア人です。彼らは早くも16世紀には製造に挑んでいます。その他にも、フィレンツェの大公フランチェスコ・ディ・メディチが同様の試みをしていました。17世紀半ばには、イギリスのロンドンや、フランスのルーアンやサン・クルー、オランダのデルフトで、やはり探究が続けられていたのです。

 ところで、今も西洋の城館を訪れると、東洋磁器の飾られた部屋である「磁器の間」にしばしば遭遇します。磁器が壁一面にところ狭しと飾られたり、天井高のある部屋の上方まで備え付けてあったりするのを目にする度に、「地震が滅多に生じない国々はいいなぁ……」とつい真っ先に思ってしまうのですが、活断層上に生きる極東人としてのこうした極めて個人的な感想はひとまず脇に置いておきましょう。というのも、見る者を凌駕するかのような、圧倒的な陳列法から感ずべきことといえば、東洋磁器がかつて流行した趣味であったことと同時に、権力や富の象徴でもあったということだからです。

 実際、東洋の白磁は「白い黄金」と呼ばれるほど、非常に高価なものでした。それにもかかわらず、王侯貴族たちは、上記の理由もあって中国磁器や日本の古伊万里をこぞって求めたのです。なかでも、国の財政が傾くほど、東洋磁器に夢中になったのがザクセン選帝侯国のアウグスト強王です。その総数は、なんと約25000点!といわれています。ただし彼は、収集と陳列に終始する人物ではありませんでした。彼は、収集した磁器をもとに、錬金術師らに製法の開発に取り組ませます。そして5年もの歳月を費やした試行錯誤の末、1709年にとうとう磁器製造を実現させたのです。

 では、そのような苦心の末の奇跡の磁器を、とくとご覧くださいませ。本作品の図柄部分を拡大してみると……。

 長衣をゆったりとまとった人物が、東洋風の日傘をかざす御付きと、苦力(クーりー)〔中国の下層の人夫〕の麦藁帽子を被った人物に伴われて、のんびりと散策をしていますね。

 裏面を見てみると……👇

 こちらでは同じ人物が席について、お茶を味わっています。その傍らには、香が焚かれています。とても優雅なひとときが両面に描かれていますね。

 本作品のような中国趣味の図柄は、初期のマイセン磁器の特徴です。これは極東文化を愛したアウグスト強王の好みを反映したものでもありますが、それと同時に、当時のヨーロッパの上流階級における中国趣味の流行を物語るものです。まさに蘇州版画が、ヨーロッパに普及していたのもこの時代です。興味深いことに蘇州版画も、前述の「磁器の間」のように、壁一面を彩る室内装飾として使われていたことがわかっています。そのことについては、当館で5月に2日間にわたって開催された世界4か国、11名の中国版画研究者による3か国語の記念講演会においても、蘇州版画を室内装飾に使ったオーストリアの宮殿についての調査が詳しく紹介されていました。それは香水瓶の歴史を考える上で示唆に富むものでしたので、私は講演にすっかり釘づけになってしまいました。

 さて本作品に話を戻しましょう。この色鮮やかな図柄にご注目ください! 東洋の私たちにすれば、白地の磁器に繊細かつ色鮮やかな図柄が描かれていることには、何の不思議も感じませんが、当時の西洋にしてみれば、非常に画期的なことでした。なにぶんにも、磁器の製造まではようやく至ったものの、その先にある磁器用絵具がまだ十分になかった時代です。その状況を見事に解決したのが、マイセンを牽引した天才絵付師として歴史に名を残したヨハン・グレゴリウス・ヘロルトです。彼の天才のほどがうかがえるのが、本作品で使われているような、磁器専用の絵の具を開発したことです。

 実は、当時のヨーロッパにおいて、東洋の磁器のなかで最も洗練されており、高価であったのは、中国磁器よりも、日本の柿右衛門であったと考えられています。膨大な柿右衛門のコレクションがご自慢であったアウグスト強王は、柿右衛門の磁器が有するくっきりと鮮やかな色の再現を、ヘロルトに求めました。そこでヘロルトは、マイセンの前任者たちの試行錯誤を引き継ぎ、実験に実験を重ね、16色もの絵の具を作り出しました。驚くことに、このとき開発された絵具が、今日に至るまで、大きな改良もなくマイセンで秘伝として存在しています。

 ヘロルトの類まれな才能のもう一つは、絵付けです。彼は、千種類以上の中国趣味の図案を考案し、それを磁器の上で緻密に描き出しました。施された金彩から、ヘロルトが手掛けた時期のものと考えられる本作品からも、彼が得意とした描写や色の素晴らしさが十分に伺えます。

 最後に、本作品で私が以前から気になっている表現をご紹介いたします。

 人物像のはるか頭上、香水瓶の蓋付近に描かれた、こちらの表現です👇

大きさからいえば鳥のはずですが、描写からすると、どのように見ても虫しか思い浮かびません……。このヘンテコな生き物こそ、ヘロルトの絵付けの特徴でもあります。東洋の風景が主題とはいっても、それはあくまでも想像上の風景です。そのようなわけで、このような奇妙で、空想豊かな生き物や植物が、図柄には頻繁に登場するのです。

 この一風変わった風景を見ていると、まだ東洋と西洋の間に大きな隔たりがあった時代に、小さな磁器や一枚の版画を介して、未知の国への憧れを募らせていた人々のことが、思い浮かびます。いまやZoom等によって世界各地の研究者と一つの講演会を催せる時代になりましたが、そこでもお互いを結んでいるのは、やはり一枚の版画であり、一つの磁器である――このように思い至るとき、私は美術作品の持つ力を実感するのです。

岡村嘉子

■企画展示情報:蘇州版画の光芒―国際都市に華ひらいた民衆芸術― – 広島 海の見える杜美術館 (umam.jp)

[会期](前期)2023年3月11日(土)〜2023年5月6日(土)
    (後期)2023年6月 3日(土)~2023年8月13日(日)
     ※前期と後期でメイン会場の作品はすべて入れ替わります
[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)
[休館日]月曜日(但し7/ 13(月)は祝日開館)、 7/14(火)
[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料
*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

うみもり香水瓶コレクション21 スキャパレリ社《太陽王》

こんにちは。今回のうみもり香水瓶コレクションは、ただいま香水瓶展示室に広告とともに出品しているスキャパレリ社の《太陽王》です。
スキャパレリ社創設者のファッション・デザイナー、エルザ・スキャパレリ(1880-1973)については、以前、このブログで同社の《ショッキング》をご紹介したときにも触れましたが、彼女は学識豊かな家庭環境で育ち、その深い教養に裏打ちされた奇想天外な発想で、当時の上流階級の女性たちがこぞって求めた、新しい女性像を提示するドレスやオブジェを作り出しました。
ファッション界で燦然と輝いたスキャパレリと、似たような個性を持つ芸術家の名を挙げるならば、それは今回の香水瓶をデザインしたサルヴァドール・ダリ(1904-1989)ではないでしょうか。彼もまたヨーロッパ伝統の教養深さを身に着けた上で、斬新奇抜な作品を次々と生み出し、時代の寵児となりました。

スキャパレリ社《太陽王》1946年頃、透明クリスタル、金、エナメル デザイン:サルヴァドール・ダリ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, LE ROY SOLEIL – 1946, Design by Salvator DALI, Made by Baccarat ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 そのダリとスキャパレリの共同制作ですから、平凡であるはずがありません。ルイ14世をテーマとしたこの香水瓶は、ギリシャ神話に登場する芸術の神アポロンに自らをなぞった王にちなんで太陽王が表現されています。香水瓶の栓がその顔になっているのですが、拡大してよく見てみると……!

顔のパーツがすべて飛翔する鳥で構成されています! ダブルイメージを自在に操ったダリの絵画を思わせる表現ですね。
しかもこうして出来上がった表情は、威厳と自信に満ちた王の表情というよりも、なんだかどことなく困惑したような……といいますか、ちょっと情けないくらいのもの(正直に言ってしまって、ごめんなさい!)になっているように見えるのは私だけでしょうか。ともにパリで才能を開花させたイタリア人のスキャパレリと、スペイン人のダリは、絶対王政の頂点に君臨した過去のフランス王に対して、ピリッと辛辣なユーモアを込めて表現しているのかもしれませんね。

さて、本作品に先立つ1937年にも二人の共同制作が行われ、そこで奇妙奇天烈な帽子やドレスが生まれたことは、以前ご紹介いたしました通りです。今回の作品は、いわばその続編なのですが、この10年足らずの間に、戦争という大きな出来事がダリの制作に影を落としたことは、香水瓶の意義を考える上で重要と思えます。
まず1939年、ダリは妻ガラとともに戦況の激しくなったパリを離れ、翌年、アメリカへ移住しました。ほどなくして1941年にニューヨーク近代美術館で同じスペイン出身の画家ジョアン・ミロとともに回顧展が催され評価をされたものの、時代はあくまでも第二次世界大戦中です。加えてアメリカでは、彼らのようなシュルレアリスムの作品を理解する人々はごく一部に限られていました。そのためダリは、望むような生活を続けるのに、経済的な問題を抱えることになります。そしてひとつの解決策として、自らもその一員であった社交界の人々から注文された肖像画を、この時期は数多く描きました。
また戦争は、ダリにとっては何よりも精神的な負担が大きく、彼の絵画はその影響が色濃く出ることとなりました。例えば、この時代の代表作である、荒野に苦し気な巨大な顔が出現する《戦争の顔》(1940-41年、ボイマンス=ヒューニンゲンゲン美術館、ロッテルダム)や《夜のメカラグモ……希望!》(1940年、サルヴァドール・ダリ美術館、セント・ピーターズバーグ)を見ていると、それはダリ一人が感じた不安ではなく、同時代に生きた無数の人々が感じていた行き場のない不安が、画布から一気に押し寄せてくるように感じられます。幼少期から感受性が人一倍強かったダリが、実際の戦火から遠く離れたニューヨークの社交界にあっても、どれほどの精神的負担を感じていたかが、うかがい知れるのです。

スキャパレリ社《太陽王》と同じ頃、ダリはあのアルフレッド・ヒッチコック監督とも共同制作を行っています。映画『白い恐怖』のなかで、グレゴリー・ペック演じる記憶を失った男性主人公の夢のシーンのイメージ画を制作しています。そしてこれがまた、非常に恐ろしい場面なのです。否、全編を通じて、ヒッチコックらしい手に汗握る恐怖を充分味わわされる映画なのですが、この映画でのそれは、戦時中のダリの絵画と共通する、抑圧された環境下での不安が引き起こす恐怖なのです。その上、グレゴリー・ペックが、『ローマの休日』の快活な新聞記者とは全くの別人となって、苦悩の末の諦念に達した『渚にて』における原子力潜水艦の艦長のときのように、ここでも重く苦しい胸の内を見事に演じているおかげで、ダリが作り出した夢の場面に私はすっかり釘づけになってしまいました。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima
現在の香水瓶展示室。ダリのデザイン画をもとに、マルセル・ヴェルテスが制作したポスターとともに12月25日まで展示しています。写真はI学芸員撮影。

さて以上のような、スキャパレリとの前回の共同制作から今回の《太陽王》までのダリの作品を踏まえて、本作品を改めて見てみると、意外なほどの明るさに驚かされます。香水瓶の胴体部分は、そのまま太陽王の胴体となっていますが、バカラ社製クリスタルの透き通った表面には、打ち寄せる無数の波形が刻まれています。これは、波間から現れるまばゆい太陽の光が表現されているのです。しかし、この清々しいまでの明るさは一体何を意味するのでしょうか?
本作品は、前述のようにルイ14世の治世へのオマージュとして制作されたと、これまでの香水瓶研究やスキャパレリ研究では解釈されているのですが、ダリ研究においては、第二次世界大戦におけるフランス解放を記念して制作されたとする説もあります。私としては、後者の説にも頷くところが多く、看過できません。
移住を余儀なくされるほど、身の置き場のない不安に苛まれる戦時を経て、ようやく迎えた終戦。このような環境の変化が、ダリの繊細な心にもたらした作用を、この香水瓶は雄弁に語っているように思えるのです。ダリが再びヨーロッパに帰国するのは、この2年後の1948年のことです。

岡村嘉子

うみもり香水瓶コレクション20 18世紀のガラスの香水瓶

 こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、日本絵画に描かれた、古今の楽しい集いの様子を展覧する「賑わい語り戯れる」展が開催中です。お祭りや参詣など、ハレの日を祝う町のざわめきが聞こえてくる屏風や、宴席や行楽の楽しさが伝わる絵巻、ごく限られた親しい者同士で心置きなく過ごすひとときが刻まれた歌麿の肉筆画、さらには、集いの余韻を味わわせてくれる宴席での寄せ書きなど、集いの機会がもたらす至福のひとときが、展示室いっぱいに紹介されています。

 私も、コロナ禍において人との接触が制限されたときに、もっとも恋しくなったのは、懐かしい人々の顔と、まさにこの展示室に漂う集いの雰囲気でした。そこで、香水瓶展示室でも、企画展のテーマに沿う関連作品をいくつか出品しました。

 例えば、社交にいそしむ18世紀のフランス貴族に愛用された、こちらの3色のガラスの香水瓶です!

左手前から中央奥へ:《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃すべて海の見える杜美術館蔵。写真はI学芸員撮影。©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 ヴェルサイユ宮殿を現在の絢爛豪華な姿へと変えたルイ14世の治世末期に始まり、フランス革命によりブルボン王朝の栄華が終焉を迎えるルイ16世の治世に終わる、貴族文化がもっとも爛熟した18世紀。当時は、貴族たちが着飾って集い憩う様々な催しが頻繁に行われていました。

 そのなかにあって、ヨーロッパ中から「よき香りのする宮廷」と呼ばれたのは、ルイ15世の宮廷です。ちなみに、先王のルイ14世も香水を愛しましたが、その強い愛ゆえに使いすぎてしまい、彼の晩年にあたる18世紀初頭には、天然の花以外の香りは、体が受け付けなくなってしまったと伝えられています。彼の時代の香りはムスクやアンバーなど動物成分の入ったものでしたので、彼のように四六時中、いたるところで漂わせていたならば、しかもそこに集う皆が香りを纏い、それらが交じり合っていたならば……、おお、さもありなん、と思わずにはいられません。

 ルイ15世の宮廷に話を戻しますと、彼と宮廷人もルイ14世と同様に、香水をこよなく愛していたので、空間に香が立ち込める燻蒸やポプリを使い、香りのなかで生活しました。そして、これまたルイ14世と同じく、ルイ15世は日々の身繕いや装いにも香りをふんだんに使いました。彼は芳香水や芳香酢などで体をマッサージし、香料を入れて入浴し、肌着や衣服、ハンカチや手袋、扇子などの小物類に至るまで、香りをしたためました。ただし、この時代には香りの主流が、軽めのフローラル・ノートへと変わっていたおかげもあったでしょう。ルイ15世は先王とは異なって、晩年まで香りに囲まれて暮らすことができたのです。

 ところで、彼らがこれほどまでに香りに執心していたのは、なにも、単なる趣味の問題だけではありませんでした。というのも、当時の香りは、新型コロナウィルス蔓延を経験した私たちであれば他人事とは思えない、ある伝染病が生んだ衛生観念と深く結びついていたからです。そう、それはペストです。この伝染病の流行は、16世紀の蔓延以来、この18世紀半ばまで断続的に各地で生じては人々を苦しめていました。発生当初は要因がわからなかったものの、医学の発展によって、この時代になると、吸い込んだ空気と、風呂と身繕いに使われる水がペストを引き起こすと考えられるようになりました。特に空気は、悪臭が瘴気を運ぶとみなされたため、兎にも角にも香りのよい空気を吸うことが、解決策とされたのです。このように、良い香りを嗅ぎさえすれば、体内バランスが良好に保たれると広く考えられていたからこそ、王侯貴族がこぞって香りを求めていたのですね。

 今日であれば、「どうかその前に換気を……」とひとこと言いたくなりますが、空気を一変させるためには、換気よりも、良い香りの空気で空間を満たすことが当時は推奨されていたのです。

 さて、いつでもどこでも香りとともにありたいと願う王侯貴族に応えたのが、今回ご紹介する香水瓶です。これは、外出時に使う香水瓶として、流行したものでした。王侯貴族の狩猟は、社交上の大切なレジャーですが、そのような集いの場面にも使われたとされています。香りは、社会的地位の高さを表すものでもあったので、自分が何者かであるかを語らずとも他者に理解させるためにも、重要であったのです。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃ルビーガラス、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1740, Ruby glass, gilt metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 香水瓶のフォルムを見ると、胴体部分が平たく、装飾もあっさりとしています。これはポケットに忍ばせられるように、過度な装飾が廃されているのです。まさに機能美が追求されているのですね。

 しかし時代の趣味の信条はあくまでも、華美であること✨。そこで、単なる簡素な香水瓶にならぬよう、豪華さがガラスの色合いにて追求されました。上の画像の作品には、なかでも最高級とされたルビー・レッドが使われています。この色は、金粉を含むことでようやく生み出される色であり、最も希少価値のあるものでした。

 では、他の色はいかがだったのでしょう? 例えば、こちらの青色です。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃、青色ガラス、金、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1730, blue glass, gold, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 青色も、重要視された色の一つです。これは、青という色が、神から王権を授けられたフランス王を象徴する特別な色であったからです。そういえば、数々の絵画に描かれた、大聖堂での戴冠式で王が纏うのも、青い衣ですね!

 ではこちらの作品のような緑色はいかがでしょう?

《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃、緑色ガラス、銀、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Germany C.1730, green glass, silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

  この緑色は、酸化ウランと銅を加えることで生まれた色です。この色は、前述の2色に比べると豪華さが劣ります。

しかし、本作品の価値は、色よりもその彫金の見事さにあるのです。その部分を拡大してみると、、、👇

 香水瓶の口部分に施された、この非常に繊細な彫りは、本作品を手がけた金銀細工工房の卓越した技術を十分に伝えるものです。しかも、栓のモチーフとなっているのは、なんと仏陀! おりしも当時は、中国趣味が流行していたことを考えますと、この持ち主の部屋には、美しい東洋磁器も多数飾られていたのかしらと、持ち主のインテリアまで、あれこれ想像が掻き立てられます。

 約60年ぶりに生じた1720年のマルセイユの大ペストや1722年の再拡大のように、忘れた頃に断続的に到来する感染症。色とりどりのガラスの香水瓶は、感染症の脅威を経験したからこそ、予防効果を期待して香りを用い、美しく装って、人々との交流を大切にした昔日の人々の存在を教えてくれます。それは、約300年後にパンデミックを経験した私たちにとって、尊い遺産のひとつではないでしょうか。

岡村嘉子 (特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション19 動物主題の香水瓶 2

 こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。前回に引き続き今回も、当館企画展示室で開催中の「美術の森の動物たち 近代日本画の動物表現」展にちなみ、愛らしい動物をかたどった、とっておきの香水瓶の数々をご紹介いたします!

 前回は、フランスの老舗香水製造会社ドルセー社とクリスタル・メーカー、バカラ社の渾身の作たる、1910年代の香水「トゥジュール・フィデール」の香水瓶をご紹介しました。当館の所蔵作品には、忠犬パグ公とつい呼びたくなる、この愛らしい小型犬パグを主題とした香水瓶が他にもあり、なかでも18世紀のイギリスの磁器製香水瓶は必見なのです。新旧並べてみると……

左:《パグ》イギリス、セント・ジェイムズ、1750-1755年、海の見える杜美術館©海の見える杜美術館、CARLIN, England Saint James, Ca.1750-1755, enamel,or, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima右:ドルセー社、ケース付き香水瓶《イヌ》、香水:トゥジュール・フィデール、デザイン:ジョルジュ・デュレーム、1912年頃、透明クリスタル、灰色パチネ、製造:バカラ社、海の見える杜美術館, D’ORSAY, CHIEN FLACON WITH ITS CASE Design by Georges Deraisme-C.1912, Transparent crystal,grey patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 おお、同じポーズです! パグが体現する忠誠心や愛くるしさを表現するには、王道のポーズなのですね。

 さて、磁器製のパグ犬の香水瓶を見ると、柔らかそうな毛並みが、ベージュ色のグラデーションで見事に再現されています。この繊細さや色調は、当時のイギリスが採用した軟質磁器の特徴のひとつです。

 磁器製造に関して、ヨーロッパの他国に後れをとっていたイギリスが、最初の陶磁器窯を誕生させたのは、1743年頃のこと。ロンドンのチェルシー窯でした。そして、2番目に登場したボウ窯が、1748年に磁器の成分配合を開発すると、いくつもの新たな陶磁器窯がそれに続きました。本作品を製造したセント・ジェイムズ窯もその一つです。本作品の制作年を見てみますと、1750-1755年です。つまり、ボウ窯の開発から、わずか2年後なのです。当時のイギリスでの磁器興隆の勢いが、よくうかがえますね。

 セント・ジェイムズ窯が製造したパグの香水瓶は、人気が高く、またこの窯が1760年に活動を止めたこともあって作品数が少ないため、数多くの模造品が出回っています。その点でも、ぜひ展示室で実物が放つ完成度をご覧頂きたい作品です。

 さて、動物といえば、夏の庭に棲息する昆虫類も忘れられない存在ですね。続いては、この夏の香水瓶展示室に並ぶ、昆虫をモティーフとする2点の香水瓶をご紹介します。

ロジェ・ガレ社 香水瓶《シガリア》、デザイン:ルネ・ラリック、1910年、透明ガラス、エナメル彩、茶色パチネ、製造:ルネ・ラリック社、海の見える杜美術館, ROGER&GALLET, CIGALIA FLACON WITH ITS CASE Design by René Lalique 1910, Transparent glass, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 まずは、きっと皆様がその声を日々耳にしておられるであろうセミです。日本の夏の風物詩であるセミは、フランス南部、プロヴァンス地方の代表的な生き物でもあり、幸運の象徴として古くから親しまれています。

目を閉じて、日本のセミの鳴き声を想像すると、決まって、夏の蒸し暑さ(ときに茹だるような……)も一緒に思い起こされるのは、きっと私だけではないでしょう。ところがフランスで耳にしたセミの鳴き声となると、心地よい暖かさと乾いた空気が思い出されるのです。そのような違いがあるなかで、ヴァカンスをこよなく愛するフランスの人々にとってのセミは、夏のひたすら楽しい思い出とともにあるものなのです。

ルネ・ラリックは、その明るく穏やかなイメージを、瓶の四隅で4匹のセミが羽を広げて休む香水瓶に込めました。彼がデザインした、木製の専用箱も、ぜひご覧くださいませ。

昆虫主題の2点目は、テントウムシです。

デピノワ・エ・フィス社 香水瓶《テントウムシ》、デザイン:モーリス・デピノワ、1918年、透明ガラス、エナメル彩、茶色パチネ、製造:デピノワ・エ・フィス社、1918年頃、海の見える杜美術館, DEPINOIX&FILS COCCINELLES FLACON WITH ITS CASE Design by Maurice DEPINOIX 1918, Transparent glass, enamel,Brown patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 テントウムシは、太陽に向かって羽ばたくことから、洋の東西を問わず、様々な幸運のイメージと結びついています。本作品では、すらりとした瓶によって、羽を広げたテントウムシが天高く力いっぱいに飛んでいく様子が強調されています。瓶の持ち主が、新たな挑戦をする際のお守りになってくれそうな香水瓶ですね。

 動物たちが、活発に活動する夏。美術館の庭園と展示室で、生を謳歌する愛すべき小さな生き物たちの様子をお楽しみくださいませ。

岡村嘉子

うみもり香水瓶コレクション18 動物主題の香水瓶1

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では「美術の森の動物たち 近代日本画の動物表現」展が開催中です。展示室に揃った表情豊かな動物たちに刺激を受けて、このブログでも愛らしい動物をかたどった当館所蔵のとっておきの香水瓶を、数回にわたってご紹介いたします!

まずは、企画展のチラシにも登場する、私たちの生活にとても身近な犬と猫から見ていきましょう。

 犬をテーマとした香水瓶として、真っ先に思い浮かぶのは、フランスの老舗香水製造会社ドルセー社の、こちらの香水瓶ではないでしょうか。

ドルセー社、ケース付き香水瓶《イヌ》、香水:トゥジュール・フィデール、デザイン:ジョルジュ・デュレーム、1912年頃、透明クリスタル、灰色パチネ、製造:バカラ社、海の見える杜美術館, D’ORSAY,CHIEN FLACON WITH ITS CASEDesign by Georges Deraisme-C.1912, Transparent crystal,grey patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 クッションの上におとなしくちょこんと座り、つぶらな瞳で飼い主を見つめる、この愛らしい小型犬パグの香水瓶です。クッションを琥珀色に染める香水の名は、「トゥジュール・フィデール」。つまり「いつも忠実な」という意味のフランス語です。この名を知ると、日本では涙なしでは語れない忠犬ハチ公の姿とこのパグが重なってしまって、さらに忘れがたくなりますね。なにしろハチ公は、飼い主の死後、10年もその帰りを駅で待ってくれていたのですよ……(涙)。その忠誠たるやいかに!

 さて、かようにも香水名と形態がぴったりと合った香水瓶も、意外と珍しいものです。このデザインを手がけたのは、ルネ・ラリックのある時期の右腕としても知られる、ジョルジュ・ドゥレーム(1859-1932)という、アール・ヌーヴォー様式の宝飾品を得意とした彫金師でした。彼は、1890年から約20年間にわたり、ルネ・ラリックの工房の彫金師長として、約20名もの弟子をまとめながら、ラリックの構想通りの作品を次々と製作しました。ドゥレームの類まれな技術の高さは、当時の高名な宝飾家アンリ・ヴェヴェールからも「たがねの達人」と称されたほどです。

 ドゥレームは、1908年に自身のブティックをパリの一等地ロワイヤル通りに構えると、それまでのアール・ヌーヴォー様式から、よりシンプルな、ほとんどアール・デコに近いデザインを先駆的に行うようになりました。本作品は、そのような最中の1912年頃の作品です。そのためでしょうか、装飾を廃した正四角形の本体だけではなく、香水瓶のケースにもその形状や図柄に、アール・デコの兆しをみることができます。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 本作品は、パグが単に可愛らしいだけではなく、アール・ヌーヴォーからアール・デコへの早い時期での移行が見られる、フランスのデザイン史上、意義深い作品なのですね。

ところで、この香水瓶は、製造を担ったバカラ社にとっても、新境地を開いた作品でした。というのも、この作品以前のバカラ社は、「ザ・瓶!」といった感の、ワインを入れる小型カラフのような古典的形状の香水瓶を製造し続けていました。例えばこの作品です👇

L.T.ピヴェール社《香水瓶 カラフォン》デザイン:バカラ社 1908年、製造:バカラ社 1912年、透明クリスタル、金属に金メッキ、海の見える杜美術館、L.T.PIVER, CARAFON FLACON WITH ITS CASE – Design by Les Cristalleries de BACCARAT – 1908, Transparent crystal, gilt metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

しかし、ひとたびこの「トゥジュール・フィデール」で、遊び心に溢れた香水瓶を製造すると、その後に手掛けるデザインを一新させたのです。「トゥジュール・フィデール」以後のバカラ社製香水瓶には、ゲラン社の名香「シャンゼリゼ」を収めた亀甲型の香水瓶や、「シャリマー」のコウモリ型香水瓶など、透明クリスタルの特長を活かした個性的な香水瓶デザインに、枚挙にいとまがありません。その始まりが、このドルセー社のパグだったのです。

 さて、次は19世紀末のイギリスで作られた猫の香水瓶を見てみましょう。こちらも前述の犬と同様、香水瓶の栓部分にその姿があります。

《指輪付きセント・ボトル》イギリス、1890 年頃、白色ガラス、金、ターコイズ、海の見える杜美術館、SCENT BOTTLE WITH RING -C.1890 White glass, gold,turquoises, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

精巧な彫金細工が施された栓の頂きに鎮座する金色に輝く猫。さきほどの忠犬パグ公とはうって変わって、眼前の獲物をじっと見つめ、今にも捕らえようとしている緊張感みなぎる姿です。それは、盛り上がった背中や眼差しだけではなく、尻尾やピンと立てた耳によく表れているとの、大の猫好きの友人の言葉を聞いて、ジョルジュ・デュレームと同時代の、イギリスの金銀細工師の観察眼と卓越した技術力を私は再認識しました。

さて、本作品は、2本のチェーンの先の指輪も目をひくことでしょう。写真では少し分かりづらいのですが、ターコイズが等間隔に嵌め込まれた上品な指輪が付いています。このような指輪付き香水瓶は、しばしば夜会の折に使用されたものです。

19世紀のレディたちは、夜会で失神を起こすことが度々ありました。その原因は、ドレスの下に着用したコルセット。ウェストをより細く見せるために行った締め付けが、強すぎたためです。補正下着のおかげで気を失うとは、現代からすれば、愉快な失敗談のひとつのようですが、か弱いことも女性の美徳とされた時代には、失神もまたレディらしい行為のひとつでした。そのため、多くの女性たちはコルセットを着用し続け、体調不良を起こし続けたのです。

さて、失神時に活躍したのが、気付け薬です。レディたちは、それを小瓶に詰めて、来たるべき失神のために肌身離さず持ち歩きました。

ところで、当時の気付け薬には香りがついていました。良い香りを嗅いで意識を取り戻したのです。そのため、名だたる香水製造会社が気付け薬をこぞって製造していました。例えば、このブログで度々登場する、ゲラン社やウビガン社ピヴェール社も、19世紀末まで気付け薬を販売していたことは、あまり知られていないことかもしれません。

当時の気付け薬は、購入後に、持ち主が思い思いの容器に詰め替えるのが習わしでしたので、高い技術を誇る金銀細工師や宝石細工師や、高級宝飾品会社が美しい容器を生み出したのです。本作品も、そのようなひとつです。

小指の爪にも満たないほどの極めてこの小さな猫は、素敵な宵を過ごすためのお守りのような、秘密の同伴者であったのかもしれません。かつての持ち主は、このエレガントな容器を指に巻き付けながら、優雅なドレスを纏って、夜会をさぞかし楽しんだことでしょう。

岡村嘉子(特任学芸員)

追記:今回ご紹介した犬と猫の香水瓶は、2022年8月28日まで、香水瓶展示室の夏期展示に出品しています。ぜひ実物を展示室にてご覧くださいませ。

うみもり香水瓶コレクション17 《アリュバロス 兜を被った頭部》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、香水瓶展示室では、企画展示室で開催中の「平家物語絵 修羅と鎮魂の絵画」に合わせて、フロマン=ムーリス(帰属)《香水瓶》(うみもり香水瓶コレクション16)とともに、古の兵士つながりで、こちらの作品を公開しています👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

《アリュバロス 兜を被った頭部》ロドス島(?) ナウクラティス(?)、紀元前6世紀初頭、テラコッタ、彩色、海の見える杜美術館、ARYBALLOS TETE CASQUEE, – Greece,Rodhes(?),Naucratis(?),Early VIth century BC., Terracotta, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

こちらは、紀元前6世紀初頭にギリシャでつくられた香油入れです。

陶器の製造がさかんであった古代ギリシャには、様々な器の形が存在しました。その形それぞれに名称があり、本作品名に付された「アリュバロス」も、まさに器形を表す言葉です。この一言で、細い首を持った球形または球状の小瓶のことを表しています。

そういえば、以前、ブログの「香水散歩」でご紹介したオランダ・ライデン国立考古博物館 の古代ギリシャ展示室の作品や、それに合わせてお目に掛けた海杜所蔵の作品も、アリュバロスでしたね!

こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

《アリュバロス 兜を被った頭部》ギリシャ、コリントス、紀元前6世紀、テラコッタ、海の見える杜美術館 ARYBALLOS Greece,Corinth,VIth century BC., Terracotta, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 アリュバロスには、上の画像のように絵付けされたものが数多く存在する中で、今回の出品作は、まるで彫刻のように、兜をつけた青年の頭部がかたどられた珍しい形をしています。

 兜の額部分に施された繊細な植物文様の線刻に目を見張りますが、なによりも強い印象を残すのは、目を中心としたこの顔立ちです。そこには、つい「これぞギリシャ人!」と言いたくなるような要素が詰まっています。

例えば、まずはこの鼻。いわゆる「ギリシャ鼻」と呼ばれる、鼻梁の高さを誇る鼻は、額から鼻の先にかけて一直線に、次第に高くなっています。斜め横から見ると、鼻が直角三角形のようであることやその高さが顕著ですね!

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

そして、この美しい鼻よりもさらに印象的であるが、深く刻まれた大きな両目でしょう。このようなアーモンド形をした目は、当時のギリシャ彫刻の特徴でもありました。それゆえ本作品は、手のひらにちょこんと乗るほどの、7cmに満たない小さな容器でありながら、ギリシャ彫刻の美を味わわせてくれるのです。

ところで、本作品の製造地はエーゲ海のロドス島か、あるいは古代エジプトのギリシャ人都市ナウクラティスか、いまだ特定されていません。

ロドス島は、ギリシャ陶器の一大産地の一つであり、紀元前7世紀以来、数多くの香水瓶を製造しては、近隣諸国へ輸出していました。そのため、近東やエジプト等で見つかった香料入れにも、ロドス島で製造されたものが数多く含まれています。そのことから、ロドス島が製造地であることは十分考えられるでしょう。

では、ナウクラティスはいかがでしょうか。ナウクラティスは、紀元前7世紀以来、ナイル川のカノポス分流西岸にて栄えたギリシャ人交易都市です。この地もまた、窯業も盛んであったと考えられています。そのためでしょうか、この地に残るギリシャの神々を祀る神殿跡の付近では、多くの陶器が発見されています。

もし本作品がナウクラティスで製造されたとすると、ロドス島とは全く異なる想像を与えてくれるのが面白いところです。世界最古の歴史書である、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの著作『歴史』には、嵐で難破しナイル川デルタ付近に流れ着いたギリシャ人の海賊が、エジプト第26王朝のファラオ、プサムテク1世(治世:紀元前664-610年頃)を守るために、傭兵となって勝利に貢献したことが記されています。その報酬として、エジプトにギリシャ人のための土地が与えられたのをきっかけに、傭兵らの子孫の時代になっても、ファラオとの関係が続き、やがて他の地にも定住が許されるようになったとされています。ナウクラティスもそのひとつです。

そのような歴史を踏まえて、この作品の前に立つと、ナウクラティスに生きたギリシャ人の先祖である、古のギリシャ人傭兵の存在に思いを馳せずにいられません。

もしかしたら古代の人々のなかに、先祖を思う心を込めてこの形の香油入れを持った人がいたのでしょうか――はるか遠い古の出来事は、すべてが解明されていないからこそ、自由な想像の余地が残されているのです。

岡村嘉子(特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション16 フロマン=ムーリス(帰属)《香水瓶》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。海の見える杜美術館が収蔵する香水瓶の制作年代は、古代エジプトの先王朝時代に当たるナカダⅡ期(紀元前3700-3250年)から今日までの約5700年間に及びます。この悠久の歴史のなかで生まれた香水瓶を、一つ一つ調査するなかで、もっとも面白いことのひとつは、ある時代の人間が、はるか遠い祖先の時代の様式を再び採用していることです。つまり、いわゆるリヴァイバルですね。

リヴァイバルが起こった地域や時代は様々ですが、そこには、先人の知恵に学び、新たな活力にしようとする温故知新の意を見ることができます。

そこで今回は、そのような温故知新の香水瓶をご紹介いたします。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

フロマン=ムーリス(帰属)《香水瓶》1840年頃、透明クリスタル、銀、金属に銀メッキ、 海の見える杜美術館France, FROMENT MEURICE attribued to, PERFUME FLACON -C.1840 Transparent crystal, silver, silvered metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

1840年頃のフランスで制作されたこの香水瓶は、過去のいつの時代を主題としているかおわかりになりますか?

それを解くカギはいくつかありますが、最も分かりやすい部分は、香水瓶のボトル中央部分に添えられた人物像の服装でしょう。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

右の人物は、往年の大ヒット映画『おかしなおかしな訪問者』に登場する騎士のような、時代がかった甲冑を身に着けているのがわかります。左の人物はゆったりとしたドレスを纏っています。ただしこれだけでは、時代を断定しづらいので、同様に人物像が配された香水瓶の反対の面を見てみると……、

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

こちらはさきの女性の服装よりも、多くを語ってくれますね! 右の男性は、中世におけるステイタス・シンボルであったマントを纏っていますし、左の女性は、特徴のある帽子をかぶり、体の線を強調した、優美なプリーツのある丈長のドレスを着ています。その服装から、中世の人物が表されているのがわかります。実際、先行研究のなかでも、ここで表現されているのは、騎士と城主夫人と考えられているのです。

反対側の面です。 ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
反対側の面です。
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

また、この香水瓶の制作年代に鑑みても、中世の、とりわけゴシック時代に思いを馳せて制作されたものと推定できます。もともと、19世紀は世紀を通じて、過去の様式を次々と復活させる歴史主義が西欧を席巻した時代でもありました。そのため、ゴシック様式のみならず、古代ギリシャ・ローマの芸術を模した新古典主義もあれば、ロマネスク様式やルネサンス様式、さらにはバロック様式もあり、一見しただけでは一体いつの時代のものかわからないような紛らわしい(←正直な感想)建造物や装飾品、また絵画・彫刻が新たにつくられました。この現象の背景については、またの機会に詳述するとして、香水瓶の制作年である1840年頃のヨーロッパに注目すると、それはゴシック・リヴァイバルが興隆していた時期に当たるのです

例えば、火事で焼失したロンドンの国会議事堂の再建案が当初のルネサンス様式からゴシック様式に変更して再建されるのもこの時期のことですし、文学ではそれに先立つ前世紀後半から19世紀初頭にかけて、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』等のゴシック小説や、ゴシック様式の大聖堂の偉大さを説いたシャトーブリアンの『キリスト教精髄』など、枚挙にいとまがありません。

さらに、それらと平行して、パリのノートル・ダム大聖堂等、フランス有数の歴史的建造物の修復や調査が数多く行われ始めたことで、その力学的正しさが解明され、過去の遺物の再評価につながったことも見逃せない同時代の出来事でしょう。

岡村嘉子撮影、2019年8月

岡村嘉子撮影、2019年8月

ところで、当時の中世への関心の高まりを、2019年にパリ市立プティ・パレ美術館で開催された「ロマン主義時代のパリ、1815-1848年」展は、とてもよく伝えてくれるものでした。何人ものパリの友人から熱心に勧められて足を運んだのですが、数度の革命を経ながら、近代的なパリの礎が築かれていくこの時代に、パリジャンがある種の誇りや強い愛着を抱いていることを、改めて知ることとなりました。

岡村嘉子撮影、2019年8月

岡村嘉子撮影、2019年8月

会場内は、パリを散策するかのように、ルーヴルやカルティエ=ラタンなど、名所ごとに当時を再現した展示で構成されていました。そのなかでも15世紀のパリを舞台としたヴィクトル・ユゴーの『ノートルダム・ドゥ・パリ』(1831年)で始まるノートル・ダム大聖堂の展示室は、ゴシックの大聖堂の装飾を模した椅子や置時計、中世の甲冑姿のブロンズ像などが展示され、この時代における中世への熱をよく表したものでした。

この展示の意義深さは、ユゴーが小説の執筆に先立つ1825年から既に、革命等によって無残な姿となった歴史的建造物の崩壊を食い止めようと呼びかけていたことや、『カルメン』の著者、プロスペル・メリメのフランス歴史的記念物監督官としての歴史的建造物保護の活動を紹介したことでしょう。つまり、この時代の中世への熱は、単なる理想化された過去への憧れのみではなく、何もしなければ消え去ってしまう遺物を後世に残そうという使命感をも伴うものであったのです。温故知新は、古きものが現存してこそ叶うものです。新たなものを作り出すときの知恵の宝庫を自らの世代で失わせまじとした、当時の文学者たちの高邁な精神と行動に胸が熱くなります🔥。

実は、香水瓶の作者と考えられる人物も、時代を彩った文学者らと近しい関係にありました。現段階では断定に至っていないため、「帰属」と付していますが、フロマン=ムーリスとは、フランソワ=デジレ・フロマン=ムーリス(1801-1855)という、第1回ロンドン万国博覧会(1851年)をはじめ、数々の舞台で最高賞を受賞し、当時のヨーロッパ全域にその名をとどろかせた、金銀細工師・宝飾デザイナーです。彼が得意としたのは、まさに本作品のような中世趣味の作品でした。当時の知識人の関心にかなう主題に加えて、彫刻の修業もした彼の作品は、極めて精巧な彫がなされているため、バルザックやテオフィル・ゴーティエといった作家たちや王侯貴族が作品を求めました。

フロマン=ムーリスが個人のために手掛けた作品は現在、ルーヴル美術館やオルセー美術館、パリ市立バルザックの家等に収蔵されており、聖体顕示台や聖遺物箱など、教会のために制作した作品は、マドレーヌ寺院をはじめとする教会にそのまま保存されています。それらを見る度に、その技術の高さに圧倒されます。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

《セント・ボトル》18世紀、イギリス、陶器、海の見える杜美術館

ところで、この香水瓶の様式は、トルバドゥール様式ともいわれます。トルバドゥールとは、中世の騎士物語や恋愛詩、武勲詩を、楽器を奏でながら詠った吟遊詩人のこと。様式名は、彼らの調べで蘇る世界が表現されているがゆえのことでしょう。

現在、海の見える杜美術館は冬季休館中ですが、春の開館に向けて、相澤正彦氏を監修に迎えた企画展「平家物語絵展 修羅と鎮魂の絵画」の準備の真最中です。そのせいでしょうか、私には、トルバドゥールが琵琶法師に、中世の騎士や十字軍兵士が平家公達に重なってしまうのです。そのようなわけで、「平家物語絵」展開催期間中の香水瓶展示室では、今回の香水瓶や、トルバドゥールを連想させる音楽家をかたどった作品(上画像)等を出品する予定です。企画展に合わせて、ぜひ香水瓶展示室もご覧下さいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

 

うみもり香水瓶コレクション15 ランバン社《モリス広告塔》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の香水瓶展示室では、企画展示室で開催中の、明治・大正・昭和時代のちらしを紹介する「引札-新年を寿ぐ吉祥のちらし―」展に合わせて、フランスの広告塔をかたどったランバン社《モリス広告塔》を展示しています。

「モリス広告塔」という名だけでは、いかなるものか想像しづらいものですが、画像を見れば一目瞭然、パリの街角でおなじみの、あの広告塔のことです!

こちらです👇

画像1

ランバン社、香水瓶《モリス広告塔》デザイン:ギョーム・ジレ、1950年頃(?)、陶器、紙、 海の見える杜美術館LANVIN, COLONNE MORRIS FLACON Design by Guillaume Gillet -C.1950? Earthenware,Paper, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

この「モリス広告塔」は、1868年に登場して以来、パリのあちらこちらの街頭に普及した、ポスターを掲示するための特別な円柱です。コンサートや演劇等の催しを道行く人に知らせるこの広告塔は、今日に至るまでパリジャンに愛され、この都市を象徴するオブジェのひとつとなっています。また異国から訪問する私のような者でも、パリの空港から市内に入り目的地へと着くまでのあいだ、車の窓からいくつもの広告塔を見るとはなしに見ていると、活気ある愛しのパリに再びやってきたのだという実感が次第にこみ上げてくるものです。モリス広告塔は、文化イベントの最新情報を提供する以上に、唯一無二のパリのエッセンスそのものを見る者に伝えてくれるのかもしれません。

ただ、あまりに町のあちこちにありすぎて、ついありがたみが薄れてしまい(モリス広告塔よ、ごめんなさい!)広告塔だけを撮影したことはないのですが、この度、実際の様子をお伝えしようと、過去の画像データから写真を探していると、偶然小さく写り込んだものを見つけました!こちらです👇

画像2岡村嘉子撮影、2009年

見つけるのは名作絵本『ウォーリーをさがせ!』並みに難易度が高いですが、おわかりになりましたか? 地下鉄入り口の美しい欄干とモザイクを撮影していたので、右奥にモリス広告塔があったとは我ながら気付かなかったのですが、奥へと延びる狭い通りの入り口右側に、しっかりとあるではないですか! 広告塔の拡大写真と、ランバン社の香水瓶を並べてみると……、

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

その類似がよくわかりますね!

ランバン社の本作品は、終戦後まもなくファッションデザイナー、ジャンヌ・ランバンによって発表されました。柱の表面には、「アルページュ」や「マイ・シン(私の罪)」など、2021年7月のブログでも取り上げた、戦前の明るい時代を彩った、ランバン社歴代の香水のポスターが貼られています。ジャンヌ・ランバン母子が描かれたランバン社のマークのポスターも中央にありますね。

ポスターの雨除けの役目を果たす上部のはりだし部分には、香水瓶に収められた男性用香水「オー・ド・ランバン」の文字が刻まれています。この香水もまた、1933年からあるものですが、香水瓶のデザインをパリの街角の象徴に一新することで、ユーモアに満ち活気あふれる戦後のパリを広く印象づけることとなったのです。

さて、この大胆なデザインの改変を行ったのは、後年、フランスの近代建築を代表する建築家として名を馳せたギョーム・ジレです。

私は、香水瓶をデザインするまでのジレの人生を思うと、この香水瓶が放つ、平穏で明るいパリの雰囲気にことのほか圧倒されます。というのも、そこにはパリからも親しい人々からも、そしてそれらが放つ香りからも遠く離れた地で、捕虜として過ごした暗い年月のなか、再会を強く夢見たものが投影されているように思えるからです。

ジレは、パリ近郊、フォンテーヌ=シャアリのジャックマール=アンドレ美術館の学芸員の父と、アカデミー・フランセーズ会員を代々輩出した家系出身の母のもと、常に芸術が身近にある家庭環境のなかで育ちました。そのため、長じた彼が芸術の道へ進んだのは当然のことであったでしょう。彼は国立エコール・デ・ボザールで絵画を学び、その一方で1937年、国家試験合格の建築家となると、同年に開催されたパリ万国博覧会でブラジルとウルグアイをはじめとするパヴィリオンの建設に参加します。このように若き芸術家として順風満帆に歩み始めるのですが、時代は刻一刻と避けがたい戦争の影が色濃くなっていく頃のこと。活躍の矢先の1939年に彼は動員され、翌1940年にはナンシーで捕らえられて、ドイツ軍の捕虜となってしまうのです。こうして1945年に解放されるまでの約5年間、彼はドイツで捕虜生活を送りました。

ジレは収容所での日々の中、画家・装飾家として自分の出来得る限りのことをしています。例えば、現在も収容所のあった地に残る、学生時代からの友人ルネ・クーロンとともに手掛けた、いわゆる「フランス人の礼拝堂」です。それは、収容所の質素な屋根裏の壁に「キリストの受難」や「ピエタ」等のキリスト教主題のフレスコ画を描いたものでした。同礼拝堂の壁には、クーロンによるフランスの聖人たちが描かれたフランスの地図もありました。明るい色合いで描かれた天使や聖人が見守るこのささやかな祈りの空間が、どれほど多くの捕虜たちの心を慰め、また故郷への思いを募らせたことでしょう。

そのような苦難の日々を経て、ようやく戻ったパリおよび、次いで滞在したローマにて、ジレはかつての日常を取り戻し、解放後の自由を謳歌します。

そのなかで、彼はジャンヌ・ランバンの娘であるポリニャック伯爵夫人と親しくなり、戦後のランバン社の香水の広告をいくつも手掛けています。そのいずれもがこの香水瓶同様、明るく楽しい雰囲気に満ちているのです。例えばこちらです👇

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ランバン社 広告《ランバンの香水》デザイン:ギョーム・ジレ、1950年、印刷、 海の見える杜美術館 LANVIN, ADVERTISEMENT Design by Guillaume Gillet -C.1950 Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ランバン社の戦前のアール・デコ・デザインを知る者としては、香水名すら正面に明記されていない、1925年を代表する黒と金のシンプルかつ優美な球形香水瓶からの、サーカスの愉快な面々が体現する香水へのデザインの変化に驚きつつも、その大胆なユーモアについ笑みが浮かんでしまいます。なんといっても、名香「アルページュ」の名は、陽気なお猿さんが手にする日傘の柄として描かれていますし、これまた一時代を築いた「マイ・シン(私の罪)」は、なんとヒョウ柄パンツ姿にスキンヘッドのいかついレスラーの胸板に直接記されているのです!

左:ランバン社《球形香水瓶、マイ・シン(私の罪)》 デザイン:アルマン・ラトー(本体)ポール・イリーブ(イラスト部分)1925年、黒色ガラス、金、海の見える杜美術館LANVIN, BOULE FLACON, Design by Armand Rateau, Paul Iribe -1925, Black glass, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima右:ランバン社 広告《ランバンの香水》部分、 LANVIN, ADVERTISEMENT  ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

戦争の苦難の年月の反動のように、そこかしこで笑みが生まれるこの雰囲気こそ、ジレに限らず彼と同時代の多くの人々の様々な思いや願いを代弁するものではないでしょうか。1950年前後のランバン社の香水瓶と広告は、心身に多くの傷を負いながらも、平穏な世界を目指して前へ進もうとする無数の人々の存在を克明に伝えてくれるものであると私には思えるのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

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©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

「アルページュ」の日傘を持つお猿さんの顔にも笑みが!