うみもり香水瓶コレクション 24 イギリスの巡礼用水筒型セント・ボトル

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」と題した、旅をテーマとする前近代から近代にかけての日本絵画の展覧会を開催しています。

 この展覧会にちなんで、香水瓶展示室では、旅に関する香水瓶を数点ご紹介しています。例えば、こちらの17世紀イギリスの銀製のセント・ボトルです👇

《セント・ボトル》イギリス、1660-70 年頃、銀、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1660-70 , silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 皆様は、この器形をご覧になられて何をご連想なさるでしょうか? 一見したところでは、今が旬の洋ナシのようですね。たしかに洋ナシ型は、17世紀、18世紀に数多く使われた器形でもあります。ですが、より厳密にいうと、本作品の器形は、巡礼者が聖地へ赴く際に携えた水筒という、比較的珍しい形をしています。そして、この形と図柄の調和こそが、本作品の価値を高める重要な要素なのです。ですので、この機会に詳しくご紹介いたします!

 瓶を覆う唐草模様にしばし目を凝らしていると、思いがけないところから、二つの像が浮かび上がってまいります。ひとつは、ギリシャ神話の風神の主、アイオロスです。こちらの部分ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 風を自在に操るこの神は、ここでも目を見開き、頬を膨らませて、お得意の風を力強く吹かせているのがわかります。なにしろアイオロスは、西風のゼピュロスや北風のボレアース等の風の神々の頂点に君臨する風神の主です。アイオロスをして吹き飛ばせないものなどありません。

 そしてもうひとつの像は、このアイオロスに比べると、打って変わってほんわか、のほほ~んとした印象なのですが……👇。宗教画などに登場する愛らしい小さな天使です。アンディ・ウォーホルが商業デザイナー時代に描いた気ままな天使たちを彷彿させる線描ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 唐草模様の間に、あまり目立たない形で刻まれたこの2つの像には、どのような意味が込められているのでしょうか。それには、時代背景が深く関係していると先行研究において指摘されています。

 この香水瓶の制作時期と重なる1665年のイギリスでは、ロンドンで腺ペストが猛威をふるっていました。いわゆる「ロンドンの大疫病」の名で知られる、イギリス最後の腺ペストの流行です。それは住民の2割以上の死者を出し、一時は多くの王侯貴族や市民たちがロンドンから避難するほどの規模でした。

 この疫病流行に際し1665年のロンドンに流布した広告は、香りの歴史からすると、とても興味深いものです。というのもそこでは、腺ペストから身を守る方法として、芳香酢の蒸気やローズ水やその他の香料の噴出が推奨されているのです。実際に、この広告以外の資料においても、感染拡大の結果として、大量の芳香酢で体をマッサージしたり、室内に漂わせたり、街路に撒かれたりしたことがわかっています。

 以前、フランスの例として、18世紀のガラス製携帯用香水瓶においても見ましたが、当時のヨーロッパでは、迫りくるペストの瘴気から身を守るために、香料がいかに必要とされていたかがわかりますね。

 以上のような時代背景を踏まえて、本作品を再度見てみますと、アイオロスの姿には、勢いのある神聖な風で瘴気を遠ざけたいとの願いがうかがえます。また葉叢に戯れる無邪気な天使の姿は、香りに満ちた自然が人間にもたらす恩恵を謳うかのようではないでしょうか。そして、巡礼時の水筒を模した器形には、ペストが様々に変異しながら周期的に流行するイギリスから、遠く離れた聖地への思いが込められているように思えるのです。

 感染症流行下に、かつて誰かが胸に描いた、追憶の、もしくは想像上の巡礼の旅。コロナ前に本作品を見ていたときには真に感知しえなかったその切実さを、今になって感じています。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima I学芸員撮影。

 本作品は、現在の展示ケースの中で、同時代のドイツやオランダのポマンダーやヴェネツィアのラッティモ・ガラスの香水瓶、フランスのルイ14世の弟のオルレアン公フィリップ1世お抱えのガラスの名匠、ベルナール・ペロ作の人面をかたどった香水瓶という海杜コレクションきっての傑作とともに公開されています。ぜひ17世紀のヨーロッパ各国が誇った高い技術と、地方色豊かなデザインや素材をお楽しみくださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

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企画展示室情報:芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー

[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)

[休館日]月曜日(ただし9月18日(祝)、10月9日(祝)は開館)、9月19日(火)、10月10日(火)

[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料

*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

[タクシー来館特典]タクシーでご来館の方、タクシー1台につき1名入館無料

*当館ご入場の際に当日のタクシー領収書を受付にご提示ください。

[主催]海の見える杜美術館

[後援]広島県教育委員会、廿日市市教育委員会

「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展、後期展示開催中です

10月に入ってようやく涼しくなり、杜の遊歩道の木々も少しずつ色づいてきました。

秋といえば行楽のシーズン、紅葉狩りや秋の味覚を味わいにお出かけになる方も多いのではないでしょうか。

今年のように猛暑が続くとなかなか四季を感じることが難しくなってしまいますが、四季のある日本では、古来より、季節や時の移ろいが多くの芸術作品で表現されてきました。絵画作品にも、春といえば梅や桜、夏は涼が感じられる滝や川の流れ、秋は鮮やかに色づいた紅葉、冬は雪を頂いた山といった季節を表すモチーフが数多く見うけられます。

現在開催中の「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展でも、秋を感じられる作品がいくつか展示されています。

今回はその中でも、本展覧会が初公開となる《西行物語絵巻》をご紹介します。

《西行物語絵巻》は平安時代末期の著名な歌人、西行(1118-1190)の和歌やエピソードをまとめた『西行物語』(13世紀中頃成立)を絵巻に仕立てたものです。《西行物語絵巻》は3系統に大別できますが、本作品は明応9年(1500)に原本が制作されたとされる采女本(うねめぼん)の系統に連なる江戸時代の作品です。

采女本には各地の名所歌枕の景色とそれらを連想させる景物が主として描かれており、西行の行状だけでなく、古来より詠み継がれてきた歌枕への関心が見てとれます。

西行に関する物語は謡曲『西行桜』『遊行桜』『江口』の題材にもなり、江戸時代には多くの采女本系《西行物語絵巻》が作られました。

各地の名所歌枕に西行にまつわるエピソードが残っていることからも、旅に出かけることが困難であった時代に歌枕を訪ね歩く西行は、歌詠みたちだけでなく多くの人々の憧れだったことがうかがえます。

《西行物語絵巻》(部分・猿沢池)2巻のうち巻下、江戸時代

こちらは、奈良の興福寺に参詣した西行が猿沢池のほとりで、この池にかつて身を投げた采女(うねめ、奈良時代の天皇に仕えた女官)の悲恋を思い出し和歌を詠んだ場面です。

水辺には笠を被った旅姿の西行が風に吹かれながらたたずんでいます。

画面手前には鮮やかに色づいた紅葉の木、向こう側にはきょろりとした目元が愛らしい鹿が5頭描かれています。

鹿の毛並みは丁寧に描かれ、紅葉の葉はその色づきの移ろいを朱線の濃淡や色の塗り方をかえて表現されており、絵師の細やかな気配りが感じられます。

実は、詞書にも、西行がこの場面で詠んだ歌にも、鹿や紅葉という文言はありません。

藤原氏の氏神である春日神の使いである鹿は、神仏習合思想のもと、同じく藤原氏の氏寺である興福寺、そして奈良を表すモチーフとして本作品には描かれています。

また、繁殖期の秋に鳴く牡鹿は、恋しい人を想う恋心とともに万葉集の時代から歌に詠まれ、秋を示すモチーフとして表現されてきました。当初は萩などの秋草とともに歌に詠まれることが多かった鹿は、時代が下がるにつれて、同じく秋を示す紅葉との取り合わせが定着し、本作品でも紅葉が描き添えられているのではないかと考えられます。

本作品の実直な筆遣いによる薄墨の線や、さっと刷かれた淡い色彩による空間や山水の表現には、平明ながらも西行の和歌が持つもの悲しさがよく表れており、しみじみとした味わいがあります。

西行の和歌とともにご鑑賞いただければと思います。

《西行物語絵巻》(部分・伊勢)2巻のうち巻下、江戸時代

この他にも、小松均《石廊崎》や池田遙邨《佐夜中山之富嶽》《深耶馬渓》《ぐるりとまはって枯山》など、秋の訪れを感じさせてくれる作品をご覧いただけます。

「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展は10月22日(日)までです。

うみもりテラスからの日本三景・安芸の宮島の眺めとともに、美術館での紅葉狩りをぜひお楽しみください。

芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー、開催中です

現在、海の見える杜美術館では「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展を開催しています。

本展は、古来より芸術家たちのインスピレーションの源であった「旅」に注目します。彼らは各地の名所旧跡を旅して様々な風物に接し、旅先での体験を自身の作品制作に活かしてきました。その様相を当館のコレクションでたどっていきます。

今回は江戸時代の巻子作品、与謝蕪村の《奥の細道画巻》をご紹介します。

俳聖・松尾芭蕉(1644~1694)の名著、俳諧紀行文『おくのほそ道』を、絵師であり俳諧師でもある与謝蕪村(1716~1784)が全文を巻子に書き写し、いくつかの場面に絵をつけるという趣向の作品です。

蕪村といえば、京都を代表する絵師の一人であり、また俳諧の宗匠としてもよく知られた存在です。絵と俳諧の両方を極めて、両者を融合させた「俳画芸術」を完成させたことが知られています。

本作が作られたのは安永7年(1778)頃ですが、この時期(18世紀後半頃)は、俳句を詠む俳諧師たちの間で、芭蕉の俳諧芸術を復興させようという運動が大いに盛り上がっている時期でした。蕪村も俳諧宗匠として蕉風復興運動を積極的に盛り上げていて、奥の細道をテーマにした制作もその一環といえます。

当館所蔵作品の他に、京都国立博物館に2点、逸翁美術館に1点、同様の巻子が現存しており、山形県美術館には屏風形式の作品も伝わっています。蕪村自身が「是等は最早愚老生涯の大業」と自負しており、芭蕉を顕彰する大仕事だという意欲がうかがえます。


与謝蕪村《奥の細道画巻》(部分・那須野)
1巻 江戸時代、安永7年(1778)(会期中巻替あり・前期)

さて、こちらは巻子の前半部分、江戸を出発した芭蕉と曾良が、那須野(現在の栃木県北部)にある黒羽というところを訪れた場面です。二人がある村で馬を借りたところ、村の幼い子供たちが二人、馬のあとをついてきたそうです。

なんとも愛らしい様子の二人は兄妹のように見えます。
何かの遊びの途中だったのか、棒きれを持った少年と、その後ろを一生懸命追いかける少女。
少女は「かさね」という名前でした。
名前までもが可憐な彼女の様子を感慨深く思い、曾良が有名な句を詠んでいます。

かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名(な)成(なる)べし 
(かさねとはとても可愛らしい名前だが、花に例えるなら花びらを八重に重ねた八重撫子だろう)

蕪村は本作の制作にあたり、このエピソードを『おくのほそ道』に取り上げた芭蕉の感動を最大限に汲み取って、幼い子供たちの可愛らしい無邪気な様子を丁寧に描いています。芭蕉が残した名文学を、いかに解釈して、詩と書と画で表現するか。俳画芸術の完成者として知られた蕪村の力量が光ります。

《奥の細道画巻》は全長18メートルを超える長大な巻子で、残念ながら当館展示室のケース内では全てを一度に展示することができません。(一番長いケースで14メートルはあるのですが、それでも足りません)
そのため、会期中に巻替えを行い、9月24日(日)までは画巻の前半部分、9月26日(火)からは後半部分をご覧いただけます。

ぜひ巻頭から巻末までお見逃しなくご覧ください。

うみもり香水瓶コレクション23  マイセン製の香水瓶 2

 こんにちは。今回の「うみもり香水瓶コレクション」は、前回に引き続き、当館企画展示室の「蘇州版画の光芒 ―国際都市に華ひらいた民衆芸術ー」展に合わせて、マイセン磁器工房の香水瓶を取り上げます。本作品は、香水瓶展示室にて8月13日まで展示しています。こちらの作品です👇

《香水瓶》ドイツ、マイセン1725-28年硬質磁器、銀に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUME FLACON, Germany Meissen, 1725-1728, Hard paste porcelain, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 一見すると、前回ご紹介した作品と見分けがつかないかもしれません。2点を並べてみると……👇

《香水瓶》ドイツ、マイセン1725-28年硬質磁器、銀に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUME FLACON, Germany Meissen, 1725-1728, Hard paste porcelain, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 ほう、やはり似ていますね。この2点は、ともに天才絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトが手掛けた時期にあたる作品です。それゆえ、両作品では、彼が編みだした色鮮やかな絵付けの技術がいかんなく発揮されていて、それが見る者の目に真っ先に飛び込んでくるため、どうしても印象が似てしまいます。さらに、側面の怪人面の有無といった多少の差異はあるものの、全体の器形や、金属部分の使い方、図柄の余白となる白磁の効果的な見せ方もよく似ています。サイズ(高さ)も1㎝しか違いません。

 では一体、何がもっとも異なるのでしょう?

 それは、図柄の内容です。前回の香水瓶が、ヘンテコな生き物が空に舞う、幻想的な東洋風景であったのに対して、今回の香水瓶は、現実的な西洋の風景が描かれているのです。

 図柄を拡大して見ると……

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 晴れ晴れとした空の下に繰り広げられる、とある港の活気あふれる岸壁の光景が活写されています。

 水上の幾隻もの船の往来、そしてそれを見守る紳士たち――彼らの後ろ姿からは、船の到着を今か今かと待ち構える様子がよく伝わってきます。その傍らでは、顔見知りにでも行合ったのか、朗らかに言葉を交わす人々が見受けられます。そのまた傍らでは、荷を一心に運ぶ人夫も瓶の右端にいますね。

 反対の面も見てみると……

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 こちらの様子は、なにやら忙しそうです! 岸壁に置かれた荷の数も増えていますし、悠長に遠い水上を眺める人の姿も、もはやありません。きっと船が接岸したのでしょう。そのため、荷物をせっせと運ぶ人々やそれを指示する人、さらに荷の確認を終えて談笑する人々の姿が見られます。つぶさに見ていると、あたかも当時の記録映像でも見ているかのようです。あともう少し耳を澄ませば、運搬人の掛け声や貿易商人たちの話し声、汽笛や波の音まで聞こえてきそうなほど。私はこのようなときにこそ、ヘロルトの卓越した描画技術を実感いたします。10㎝にも満たない小瓶に、あまりにもリアルに描かれた港の様子。これは幻想的な東洋風景を見るのとは一味違った知的好奇心を満たしてくれるのではないでしょうか。

 港の風景は、初期の磁器製の香水瓶にしばしば描かれた図柄でした。この図柄が瓶の全面に配された本作品は、磁器が、何世紀もの間、はるか中国や日本からの希少な輸入品であった歴史的事実を思い起こさせてくれるものです。つまり、図柄が幻想的であろうとも、また現実的であろうとも、初期の磁器には常に東洋の存在がどこかにあるのですね。

 面白いことに、企画展示室の「蘇州版画展」には、本作品とほぼ同時代に制作された、東洋の港町の姿を伝える作品が複数出品されています。例えば、18世紀の中国最大の経済都市であった蘇州の都市景観図《姑蘇閶門図》と《三百六十行図》です。《姑蘇閶門図》は、展覧会チラシにも使われている作品ですね。これらの作品には、市中を水路が巡り、船が行き交うこの町の、大運河に接する城門付近の様子が描かれています。

左:《姑蘇閶門図》清時代、雍正12年/1734年、紙本、木版、濃淡墨摺筆彩、海の見える杜美術館。The Changmen Gate of Suzhou,1732, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima. 右:《三百六十行図》清時代、雍正12年/1734年、紙本、木版、濃淡墨摺筆彩、海の見える杜美術館。All Walks of Life, 1732, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima.

 この東洋の港湾都市も、とても賑わっていますね。さきほどの西洋の港の風景とは違って、こちらは町を一望するように俯瞰した視点で描かれているので、岸壁やその周囲の様子がなおさら克明に伝わってきます。ここで用いられている線遠近法や陰影法については、キリスト教宣教師を介して伝えられた西洋画の影響が、先行研究にて指摘されています。前回ご紹介した当館で5月に催した記念講演会においても、そのことについての最新の研究結果が、当館の青木学芸員をはじめ、複数の研究者により発表されておりましたので、私はいずれも興味深く拝聴いたしました。

 なんといっても、1730年前後に制作された西洋の磁器には東洋の、そして東洋の版画においては西洋の存在が感じられるのは、とても面白いことですね。交易や布教活動による人の往来が、文化へもたらす影響の大きさがよくわかります。

 ところで、マイセン磁器工房の香水瓶は、香水瓶の歴史も塗りかえることになりました。それ以前の、鉱物や陶器、金属、ガラスといった素材から、マイセン磁器の誕生以後は、磁器が各地で相次いで用いられるようになったのです。その伝播力は甚大で、しまいには18世紀の香水瓶を象徴する素材となりました。

 以上、2回に渡って、マイセン磁器工房の香水瓶を取り上げました。その歴史的価値や魅力の一端をお伝えできましたら幸いです。絵付けの素晴らしさに限っては、どれほど言葉を尽くしても表しづらいものです。ぜひこの機会に実物を展示室にてご覧くださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

◇企画展示室情報:蘇州版画の光芒―国際都市に華ひらいた民衆芸術― – 広島 海の見える杜美術館 (umam.jp)

[会期](前期)2023年3月11日(土)〜2023年5月6日(土)
    (後期)2023年6月 3日(土)~2023年8月13日(日)
     ※前期と後期でメイン会場の作品はすべて入れ替わります
[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)
[休館日]月曜日(但し7/ 13(月)は祝日開館)、 7/14(火)
[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料
*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

うみもり香水瓶コレクション22  マイセン製の香水瓶 1

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、当館所蔵の約3000点の中国版画の中から厳選された約300点を公開する「蘇州版画の光芒 ―国際都市に華ひらいた民衆芸術ー」展が開催中です。17世紀から18世紀に、中国の港町、蘇州でつくられた版画の魅力をたっぷりとご紹介しています。

 この展覧会にちなんで、香水瓶展示室では、蘇州版画と同時代にヨーロッパの王侯貴族が夢見た東洋として、マイセン磁器工房の香水瓶2点を展示しています。今回はそのうち1点をご紹介いたします。

こちらです👇

《香水瓶》ドイツ、マイセン1725-28年硬質磁器、銀に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUME FLACON, Germany Meissen, 1725-1728, Hard paste porcelain, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

セーヴルやロイヤル・ウースター、ロイヤル・クラウン・ダービー、KPMベルリン等、ヨーロッパの名だたる磁器工房のなかでも、マイセンが特別な地位を誇る理由をご存知でしょうか? それは、このマイセンこそが、ヨーロッパの地では不可能とされてきた磁器の製造を初めて成功させたからです。

 マイセンで磁器が誕生するまで、磁器は何世紀にもわたり、遠い東洋からもたらされる舶来品でした。なにしろヨーロッパでは、純白で艶があり、薄く硬い性質を持つ磁器の製法が解明されていなかったので、輸入品を待つばかりだったのです。とはいえ、ひとたび異国の希少で美しい産物を知れば、それを自国で真似して作ってみようと人は思うもの。そのようなわけで、輸入に頼る一方で、東洋磁器と同じく硬質の磁器を作る試みは、常に続けられていました。

 例えば、極東貿易を通じて他のヨーロッパ人に先駆けて、東洋磁器を知ったヴェネツィア人です。彼らは早くも16世紀には製造に挑んでいます。その他にも、フィレンツェの大公フランチェスコ・ディ・メディチが同様の試みをしていました。17世紀半ばには、イギリスのロンドンや、フランスのルーアンやサン・クルー、オランダのデルフトで、やはり探究が続けられていたのです。

 ところで、今も西洋の城館を訪れると、東洋磁器の飾られた部屋である「磁器の間」にしばしば遭遇します。磁器が壁一面にところ狭しと飾られたり、天井高のある部屋の上方まで備え付けてあったりするのを目にする度に、「地震が滅多に生じない国々はいいなぁ……」とつい真っ先に思ってしまうのですが、活断層上に生きる極東人としてのこうした極めて個人的な感想はひとまず脇に置いておきましょう。というのも、見る者を凌駕するかのような、圧倒的な陳列法から感ずべきことといえば、東洋磁器がかつて流行した趣味であったことと同時に、権力や富の象徴でもあったということだからです。

 実際、東洋の白磁は「白い黄金」と呼ばれるほど、非常に高価なものでした。それにもかかわらず、王侯貴族たちは、上記の理由もあって中国磁器や日本の古伊万里をこぞって求めたのです。なかでも、国の財政が傾くほど、東洋磁器に夢中になったのがザクセン選帝侯国のアウグスト強王です。その総数は、なんと約25000点!といわれています。ただし彼は、収集と陳列に終始する人物ではありませんでした。彼は、収集した磁器をもとに、錬金術師らに製法の開発に取り組ませます。そして5年もの歳月を費やした試行錯誤の末、1709年にとうとう磁器製造を実現させたのです。

 では、そのような苦心の末の奇跡の磁器を、とくとご覧くださいませ。本作品の図柄部分を拡大してみると……。

 長衣をゆったりとまとった人物が、東洋風の日傘をかざす御付きと、苦力(クーりー)〔中国の下層の人夫〕の麦藁帽子を被った人物に伴われて、のんびりと散策をしていますね。

 裏面を見てみると……👇

 こちらでは同じ人物が席について、お茶を味わっています。その傍らには、香が焚かれています。とても優雅なひとときが両面に描かれていますね。

 本作品のような中国趣味の図柄は、初期のマイセン磁器の特徴です。これは極東文化を愛したアウグスト強王の好みを反映したものでもありますが、それと同時に、当時のヨーロッパの上流階級における中国趣味の流行を物語るものです。まさに蘇州版画が、ヨーロッパに普及していたのもこの時代です。興味深いことに蘇州版画も、前述の「磁器の間」のように、壁一面を彩る室内装飾として使われていたことがわかっています。そのことについては、当館で5月に2日間にわたって開催された世界4か国、11名の中国版画研究者による3か国語の記念講演会においても、蘇州版画を室内装飾に使ったオーストリアの宮殿についての調査が詳しく紹介されていました。それは香水瓶の歴史を考える上で示唆に富むものでしたので、私は講演にすっかり釘づけになってしまいました。

 さて本作品に話を戻しましょう。この色鮮やかな図柄にご注目ください! 東洋の私たちにすれば、白地の磁器に繊細かつ色鮮やかな図柄が描かれていることには、何の不思議も感じませんが、当時の西洋にしてみれば、非常に画期的なことでした。なにぶんにも、磁器の製造まではようやく至ったものの、その先にある磁器用絵具がまだ十分になかった時代です。その状況を見事に解決したのが、マイセンを牽引した天才絵付師として歴史に名を残したヨハン・グレゴリウス・ヘロルトです。彼の天才のほどがうかがえるのが、本作品で使われているような、磁器専用の絵の具を開発したことです。

 実は、当時のヨーロッパにおいて、東洋の磁器のなかで最も洗練されており、高価であったのは、中国磁器よりも、日本の柿右衛門であったと考えられています。膨大な柿右衛門のコレクションがご自慢であったアウグスト強王は、柿右衛門の磁器が有するくっきりと鮮やかな色の再現を、ヘロルトに求めました。そこでヘロルトは、マイセンの前任者たちの試行錯誤を引き継ぎ、実験に実験を重ね、16色もの絵の具を作り出しました。驚くことに、このとき開発された絵具が、今日に至るまで、大きな改良もなくマイセンで秘伝として存在しています。

 ヘロルトの類まれな才能のもう一つは、絵付けです。彼は、千種類以上の中国趣味の図案を考案し、それを磁器の上で緻密に描き出しました。施された金彩から、ヘロルトが手掛けた時期のものと考えられる本作品からも、彼が得意とした描写や色の素晴らしさが十分に伺えます。

 最後に、本作品で私が以前から気になっている表現をご紹介いたします。

 人物像のはるか頭上、香水瓶の蓋付近に描かれた、こちらの表現です👇

大きさからいえば鳥のはずですが、描写からすると、どのように見ても虫しか思い浮かびません……。このヘンテコな生き物こそ、ヘロルトの絵付けの特徴でもあります。東洋の風景が主題とはいっても、それはあくまでも想像上の風景です。そのようなわけで、このような奇妙で、空想豊かな生き物や植物が、図柄には頻繁に登場するのです。

 この一風変わった風景を見ていると、まだ東洋と西洋の間に大きな隔たりがあった時代に、小さな磁器や一枚の版画を介して、未知の国への憧れを募らせていた人々のことが、思い浮かびます。いまやZoom等によって世界各地の研究者と一つの講演会を催せる時代になりましたが、そこでもお互いを結んでいるのは、やはり一枚の版画であり、一つの磁器である――このように思い至るとき、私は美術作品の持つ力を実感するのです。

岡村嘉子

■企画展示情報:蘇州版画の光芒―国際都市に華ひらいた民衆芸術― – 広島 海の見える杜美術館 (umam.jp)

[会期](前期)2023年3月11日(土)〜2023年5月6日(土)
    (後期)2023年6月 3日(土)~2023年8月13日(日)
     ※前期と後期でメイン会場の作品はすべて入れ替わります
[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)
[休館日]月曜日(但し7/ 13(月)は祝日開館)、 7/14(火)
[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料
*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

うみもり香水瓶コレクション21 スキャパレリ社《太陽王》

こんにちは。今回のうみもり香水瓶コレクションは、ただいま香水瓶展示室に広告とともに出品しているスキャパレリ社の《太陽王》です。
スキャパレリ社創設者のファッション・デザイナー、エルザ・スキャパレリ(1880-1973)については、以前、このブログで同社の《ショッキング》をご紹介したときにも触れましたが、彼女は学識豊かな家庭環境で育ち、その深い教養に裏打ちされた奇想天外な発想で、当時の上流階級の女性たちがこぞって求めた、新しい女性像を提示するドレスやオブジェを作り出しました。
ファッション界で燦然と輝いたスキャパレリと、似たような個性を持つ芸術家の名を挙げるならば、それは今回の香水瓶をデザインしたサルヴァドール・ダリ(1904-1989)ではないでしょうか。彼もまたヨーロッパ伝統の教養深さを身に着けた上で、斬新奇抜な作品を次々と生み出し、時代の寵児となりました。

スキャパレリ社《太陽王》1946年頃、透明クリスタル、金、エナメル デザイン:サルヴァドール・ダリ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, LE ROY SOLEIL – 1946, Design by Salvator DALI, Made by Baccarat ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 そのダリとスキャパレリの共同制作ですから、平凡であるはずがありません。ルイ14世をテーマとしたこの香水瓶は、ギリシャ神話に登場する芸術の神アポロンに自らをなぞった王にちなんで太陽王が表現されています。香水瓶の栓がその顔になっているのですが、拡大してよく見てみると……!

顔のパーツがすべて飛翔する鳥で構成されています! ダブルイメージを自在に操ったダリの絵画を思わせる表現ですね。
しかもこうして出来上がった表情は、威厳と自信に満ちた王の表情というよりも、なんだかどことなく困惑したような……といいますか、ちょっと情けないくらいのもの(正直に言ってしまって、ごめんなさい!)になっているように見えるのは私だけでしょうか。ともにパリで才能を開花させたイタリア人のスキャパレリと、スペイン人のダリは、絶対王政の頂点に君臨した過去のフランス王に対して、ピリッと辛辣なユーモアを込めて表現しているのかもしれませんね。

さて、本作品に先立つ1937年にも二人の共同制作が行われ、そこで奇妙奇天烈な帽子やドレスが生まれたことは、以前ご紹介いたしました通りです。今回の作品は、いわばその続編なのですが、この10年足らずの間に、戦争という大きな出来事がダリの制作に影を落としたことは、香水瓶の意義を考える上で重要と思えます。
まず1939年、ダリは妻ガラとともに戦況の激しくなったパリを離れ、翌年、アメリカへ移住しました。ほどなくして1941年にニューヨーク近代美術館で同じスペイン出身の画家ジョアン・ミロとともに回顧展が催され評価をされたものの、時代はあくまでも第二次世界大戦中です。加えてアメリカでは、彼らのようなシュルレアリスムの作品を理解する人々はごく一部に限られていました。そのためダリは、望むような生活を続けるのに、経済的な問題を抱えることになります。そしてひとつの解決策として、自らもその一員であった社交界の人々から注文された肖像画を、この時期は数多く描きました。
また戦争は、ダリにとっては何よりも精神的な負担が大きく、彼の絵画はその影響が色濃く出ることとなりました。例えば、この時代の代表作である、荒野に苦し気な巨大な顔が出現する《戦争の顔》(1940-41年、ボイマンス=ヒューニンゲンゲン美術館、ロッテルダム)や《夜のメカラグモ……希望!》(1940年、サルヴァドール・ダリ美術館、セント・ピーターズバーグ)を見ていると、それはダリ一人が感じた不安ではなく、同時代に生きた無数の人々が感じていた行き場のない不安が、画布から一気に押し寄せてくるように感じられます。幼少期から感受性が人一倍強かったダリが、実際の戦火から遠く離れたニューヨークの社交界にあっても、どれほどの精神的負担を感じていたかが、うかがい知れるのです。

スキャパレリ社《太陽王》と同じ頃、ダリはあのアルフレッド・ヒッチコック監督とも共同制作を行っています。映画『白い恐怖』のなかで、グレゴリー・ペック演じる記憶を失った男性主人公の夢のシーンのイメージ画を制作しています。そしてこれがまた、非常に恐ろしい場面なのです。否、全編を通じて、ヒッチコックらしい手に汗握る恐怖を充分味わわされる映画なのですが、この映画でのそれは、戦時中のダリの絵画と共通する、抑圧された環境下での不安が引き起こす恐怖なのです。その上、グレゴリー・ペックが、『ローマの休日』の快活な新聞記者とは全くの別人となって、苦悩の末の諦念に達した『渚にて』における原子力潜水艦の艦長のときのように、ここでも重く苦しい胸の内を見事に演じているおかげで、ダリが作り出した夢の場面に私はすっかり釘づけになってしまいました。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima
現在の香水瓶展示室。ダリのデザイン画をもとに、マルセル・ヴェルテスが制作したポスターとともに12月25日まで展示しています。写真はI学芸員撮影。

さて以上のような、スキャパレリとの前回の共同制作から今回の《太陽王》までのダリの作品を踏まえて、本作品を改めて見てみると、意外なほどの明るさに驚かされます。香水瓶の胴体部分は、そのまま太陽王の胴体となっていますが、バカラ社製クリスタルの透き通った表面には、打ち寄せる無数の波形が刻まれています。これは、波間から現れるまばゆい太陽の光が表現されているのです。しかし、この清々しいまでの明るさは一体何を意味するのでしょうか?
本作品は、前述のようにルイ14世の治世へのオマージュとして制作されたと、これまでの香水瓶研究やスキャパレリ研究では解釈されているのですが、ダリ研究においては、第二次世界大戦におけるフランス解放を記念して制作されたとする説もあります。私としては、後者の説にも頷くところが多く、看過できません。
移住を余儀なくされるほど、身の置き場のない不安に苛まれる戦時を経て、ようやく迎えた終戦。このような環境の変化が、ダリの繊細な心にもたらした作用を、この香水瓶は雄弁に語っているように思えるのです。ダリが再びヨーロッパに帰国するのは、この2年後の1948年のことです。

岡村嘉子

引札―新年を寿ぐ吉祥のちらし―Part Ⅱ 開催中です

ご無沙汰しております。この間、学生時代の後輩に会った際、「最近あまりブログを書いていないのではないか?」と指摘されました。反省しきりです。

11月3日より、展覧会「引札―新年を寿ぐ吉祥のちらし―PartⅡ」が開催中です。当館の引札は昨年の展覧会でもご紹介したのですが、まだまだご紹介しきれなかった作品もあり、今年も開催となりました。

引札は、明治から大正にかけて隆盛した、広告のための印刷物で、商店が年末年始にお得意様に配布したものを、特に「正月用引札」と言っています。年末年始にふさわしく、おめでたいモチーフが画面に描かれています。当時の幸せを呼び込むと考えられたもの、あるいは人々の幸せのありかたがそこにあると言えるでしょう。

前回同様、今回も「かわいい」「おもしろい」という声を来館の皆様からいただいておりますが、意外な作品が好評で、担当としても驚いております。

田口 年信《大黒 家族 お金 床の間》1899年(明治32)頃

掛け軸に描かれた大黒が持つ打出の小槌から、お金がどんどん湧いてきています。真ん中の男性はそれを三方で受け、右側のお嬢さんはこぼれたお金をかき集めています。

ここに表されているのは、「お金があったらいいな~」という素直な気持ちではないでしょうか。

美術館では多くの場合、画家の誰かが作った立派な芸術を鑑賞して、なにを表現しているのかを読み取る、というなかなか大変な作業をしてしまいがちですが(それは私に限ったことではないでしょう)これら引札を見てまず受け取るのは、「長寿!富!商売繁盛!家庭円満最高!」という、非常に簡単なメッセ―ジです。

こうした絵画は共感できる部分も多いですし、この率直さがいっそ気持ちよいということで、美術に親しんだ人にとっても新鮮に思えて好評なのかもしれませんね。

《七福神 飛行機 気球 富士》明治時代末~大正時代初期

宝船に乗ってやってくる姿が定番の七福神も、引札の世界ではお札の羽の飛行機でやってきます。率直に、神様が富(それも紙幣というかたちで)をもたらしてくれることを願っている絵です。

ちなみに今回、すべての作品に解説がついているわけではありませんが、作品の情報を書いたキャプションにちょっとした一言を添えています。何かを解説していると思いきや、私の感想がほとんどです。ぜひ見てみてくださいね。

《瓶酒 グラス 恵比寿 大黒》1907年(明治40)頃

全部こんなギラギラした欲望を描いた絵画なの、疲れるわと思われるかもしれませんが、こんなチルい絵画も展示しております。こちらはスタッフに好評の作品です。恵比寿さんたちがお酒を手にしながら談笑しています。こんな時間を明治の人たちも持っていたんでしょうか。

展覧会は12月25日までです。引札の世界をぜひのぞいていただければ幸いです。

森下麻衣子

うみもり香水瓶コレクション20 18世紀のガラスの香水瓶

 こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、日本絵画に描かれた、古今の楽しい集いの様子を展覧する「賑わい語り戯れる」展が開催中です。お祭りや参詣など、ハレの日を祝う町のざわめきが聞こえてくる屏風や、宴席や行楽の楽しさが伝わる絵巻、ごく限られた親しい者同士で心置きなく過ごすひとときが刻まれた歌麿の肉筆画、さらには、集いの余韻を味わわせてくれる宴席での寄せ書きなど、集いの機会がもたらす至福のひとときが、展示室いっぱいに紹介されています。

 私も、コロナ禍において人との接触が制限されたときに、もっとも恋しくなったのは、懐かしい人々の顔と、まさにこの展示室に漂う集いの雰囲気でした。そこで、香水瓶展示室でも、企画展のテーマに沿う関連作品をいくつか出品しました。

 例えば、社交にいそしむ18世紀のフランス貴族に愛用された、こちらの3色のガラスの香水瓶です!

左手前から中央奥へ:《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃すべて海の見える杜美術館蔵。写真はI学芸員撮影。©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 ヴェルサイユ宮殿を現在の絢爛豪華な姿へと変えたルイ14世の治世末期に始まり、フランス革命によりブルボン王朝の栄華が終焉を迎えるルイ16世の治世に終わる、貴族文化がもっとも爛熟した18世紀。当時は、貴族たちが着飾って集い憩う様々な催しが頻繁に行われていました。

 そのなかにあって、ヨーロッパ中から「よき香りのする宮廷」と呼ばれたのは、ルイ15世の宮廷です。ちなみに、先王のルイ14世も香水を愛しましたが、その強い愛ゆえに使いすぎてしまい、彼の晩年にあたる18世紀初頭には、天然の花以外の香りは、体が受け付けなくなってしまったと伝えられています。彼の時代の香りはムスクやアンバーなど動物成分の入ったものでしたので、彼のように四六時中、いたるところで漂わせていたならば、しかもそこに集う皆が香りを纏い、それらが交じり合っていたならば……、おお、さもありなん、と思わずにはいられません。

 ルイ15世の宮廷に話を戻しますと、彼と宮廷人もルイ14世と同様に、香水をこよなく愛していたので、空間に香が立ち込める燻蒸やポプリを使い、香りのなかで生活しました。そして、これまたルイ14世と同じく、ルイ15世は日々の身繕いや装いにも香りをふんだんに使いました。彼は芳香水や芳香酢などで体をマッサージし、香料を入れて入浴し、肌着や衣服、ハンカチや手袋、扇子などの小物類に至るまで、香りをしたためました。ただし、この時代には香りの主流が、軽めのフローラル・ノートへと変わっていたおかげもあったでしょう。ルイ15世は先王とは異なって、晩年まで香りに囲まれて暮らすことができたのです。

 ところで、彼らがこれほどまでに香りに執心していたのは、なにも、単なる趣味の問題だけではありませんでした。というのも、当時の香りは、新型コロナウィルス蔓延を経験した私たちであれば他人事とは思えない、ある伝染病が生んだ衛生観念と深く結びついていたからです。そう、それはペストです。この伝染病の流行は、16世紀の蔓延以来、この18世紀半ばまで断続的に各地で生じては人々を苦しめていました。発生当初は要因がわからなかったものの、医学の発展によって、この時代になると、吸い込んだ空気と、風呂と身繕いに使われる水がペストを引き起こすと考えられるようになりました。特に空気は、悪臭が瘴気を運ぶとみなされたため、兎にも角にも香りのよい空気を吸うことが、解決策とされたのです。このように、良い香りを嗅ぎさえすれば、体内バランスが良好に保たれると広く考えられていたからこそ、王侯貴族がこぞって香りを求めていたのですね。

 今日であれば、「どうかその前に換気を……」とひとこと言いたくなりますが、空気を一変させるためには、換気よりも、良い香りの空気で空間を満たすことが当時は推奨されていたのです。

 さて、いつでもどこでも香りとともにありたいと願う王侯貴族に応えたのが、今回ご紹介する香水瓶です。これは、外出時に使う香水瓶として、流行したものでした。王侯貴族の狩猟は、社交上の大切なレジャーですが、そのような集いの場面にも使われたとされています。香りは、社会的地位の高さを表すものでもあったので、自分が何者かであるかを語らずとも他者に理解させるためにも、重要であったのです。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃ルビーガラス、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1740, Ruby glass, gilt metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 香水瓶のフォルムを見ると、胴体部分が平たく、装飾もあっさりとしています。これはポケットに忍ばせられるように、過度な装飾が廃されているのです。まさに機能美が追求されているのですね。

 しかし時代の趣味の信条はあくまでも、華美であること✨。そこで、単なる簡素な香水瓶にならぬよう、豪華さがガラスの色合いにて追求されました。上の画像の作品には、なかでも最高級とされたルビー・レッドが使われています。この色は、金粉を含むことでようやく生み出される色であり、最も希少価値のあるものでした。

 では、他の色はいかがだったのでしょう? 例えば、こちらの青色です。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃、青色ガラス、金、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1730, blue glass, gold, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 青色も、重要視された色の一つです。これは、青という色が、神から王権を授けられたフランス王を象徴する特別な色であったからです。そういえば、数々の絵画に描かれた、大聖堂での戴冠式で王が纏うのも、青い衣ですね!

 ではこちらの作品のような緑色はいかがでしょう?

《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃、緑色ガラス、銀、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Germany C.1730, green glass, silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

  この緑色は、酸化ウランと銅を加えることで生まれた色です。この色は、前述の2色に比べると豪華さが劣ります。

しかし、本作品の価値は、色よりもその彫金の見事さにあるのです。その部分を拡大してみると、、、👇

 香水瓶の口部分に施された、この非常に繊細な彫りは、本作品を手がけた金銀細工工房の卓越した技術を十分に伝えるものです。しかも、栓のモチーフとなっているのは、なんと仏陀! おりしも当時は、中国趣味が流行していたことを考えますと、この持ち主の部屋には、美しい東洋磁器も多数飾られていたのかしらと、持ち主のインテリアまで、あれこれ想像が掻き立てられます。

 約60年ぶりに生じた1720年のマルセイユの大ペストや1722年の再拡大のように、忘れた頃に断続的に到来する感染症。色とりどりのガラスの香水瓶は、感染症の脅威を経験したからこそ、予防効果を期待して香りを用い、美しく装って、人々との交流を大切にした昔日の人々の存在を教えてくれます。それは、約300年後にパンデミックを経験した私たちにとって、尊い遺産のひとつではないでしょうか。

岡村嘉子 (特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション19 動物主題の香水瓶 2

 こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。前回に引き続き今回も、当館企画展示室で開催中の「美術の森の動物たち 近代日本画の動物表現」展にちなみ、愛らしい動物をかたどった、とっておきの香水瓶の数々をご紹介いたします!

 前回は、フランスの老舗香水製造会社ドルセー社とクリスタル・メーカー、バカラ社の渾身の作たる、1910年代の香水「トゥジュール・フィデール」の香水瓶をご紹介しました。当館の所蔵作品には、忠犬パグ公とつい呼びたくなる、この愛らしい小型犬パグを主題とした香水瓶が他にもあり、なかでも18世紀のイギリスの磁器製香水瓶は必見なのです。新旧並べてみると……

左:《パグ》イギリス、セント・ジェイムズ、1750-1755年、海の見える杜美術館©海の見える杜美術館、CARLIN, England Saint James, Ca.1750-1755, enamel,or, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima右:ドルセー社、ケース付き香水瓶《イヌ》、香水:トゥジュール・フィデール、デザイン:ジョルジュ・デュレーム、1912年頃、透明クリスタル、灰色パチネ、製造:バカラ社、海の見える杜美術館, D’ORSAY, CHIEN FLACON WITH ITS CASE Design by Georges Deraisme-C.1912, Transparent crystal,grey patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 おお、同じポーズです! パグが体現する忠誠心や愛くるしさを表現するには、王道のポーズなのですね。

 さて、磁器製のパグ犬の香水瓶を見ると、柔らかそうな毛並みが、ベージュ色のグラデーションで見事に再現されています。この繊細さや色調は、当時のイギリスが採用した軟質磁器の特徴のひとつです。

 磁器製造に関して、ヨーロッパの他国に後れをとっていたイギリスが、最初の陶磁器窯を誕生させたのは、1743年頃のこと。ロンドンのチェルシー窯でした。そして、2番目に登場したボウ窯が、1748年に磁器の成分配合を開発すると、いくつもの新たな陶磁器窯がそれに続きました。本作品を製造したセント・ジェイムズ窯もその一つです。本作品の制作年を見てみますと、1750-1755年です。つまり、ボウ窯の開発から、わずか2年後なのです。当時のイギリスでの磁器興隆の勢いが、よくうかがえますね。

 セント・ジェイムズ窯が製造したパグの香水瓶は、人気が高く、またこの窯が1760年に活動を止めたこともあって作品数が少ないため、数多くの模造品が出回っています。その点でも、ぜひ展示室で実物が放つ完成度をご覧頂きたい作品です。

 さて、動物といえば、夏の庭に棲息する昆虫類も忘れられない存在ですね。続いては、この夏の香水瓶展示室に並ぶ、昆虫をモティーフとする2点の香水瓶をご紹介します。

ロジェ・ガレ社 香水瓶《シガリア》、デザイン:ルネ・ラリック、1910年、透明ガラス、エナメル彩、茶色パチネ、製造:ルネ・ラリック社、海の見える杜美術館, ROGER&GALLET, CIGALIA FLACON WITH ITS CASE Design by René Lalique 1910, Transparent glass, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 まずは、きっと皆様がその声を日々耳にしておられるであろうセミです。日本の夏の風物詩であるセミは、フランス南部、プロヴァンス地方の代表的な生き物でもあり、幸運の象徴として古くから親しまれています。

目を閉じて、日本のセミの鳴き声を想像すると、決まって、夏の蒸し暑さ(ときに茹だるような……)も一緒に思い起こされるのは、きっと私だけではないでしょう。ところがフランスで耳にしたセミの鳴き声となると、心地よい暖かさと乾いた空気が思い出されるのです。そのような違いがあるなかで、ヴァカンスをこよなく愛するフランスの人々にとってのセミは、夏のひたすら楽しい思い出とともにあるものなのです。

ルネ・ラリックは、その明るく穏やかなイメージを、瓶の四隅で4匹のセミが羽を広げて休む香水瓶に込めました。彼がデザインした、木製の専用箱も、ぜひご覧くださいませ。

昆虫主題の2点目は、テントウムシです。

デピノワ・エ・フィス社 香水瓶《テントウムシ》、デザイン:モーリス・デピノワ、1918年、透明ガラス、エナメル彩、茶色パチネ、製造:デピノワ・エ・フィス社、1918年頃、海の見える杜美術館, DEPINOIX&FILS COCCINELLES FLACON WITH ITS CASE Design by Maurice DEPINOIX 1918, Transparent glass, enamel,Brown patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 テントウムシは、太陽に向かって羽ばたくことから、洋の東西を問わず、様々な幸運のイメージと結びついています。本作品では、すらりとした瓶によって、羽を広げたテントウムシが天高く力いっぱいに飛んでいく様子が強調されています。瓶の持ち主が、新たな挑戦をする際のお守りになってくれそうな香水瓶ですね。

 動物たちが、活発に活動する夏。美術館の庭園と展示室で、生を謳歌する愛すべき小さな生き物たちの様子をお楽しみくださいませ。

岡村嘉子

うみもり香水瓶コレクション18 動物主題の香水瓶1

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では「美術の森の動物たち 近代日本画の動物表現」展が開催中です。展示室に揃った表情豊かな動物たちに刺激を受けて、このブログでも愛らしい動物をかたどった当館所蔵のとっておきの香水瓶を、数回にわたってご紹介いたします!

まずは、企画展のチラシにも登場する、私たちの生活にとても身近な犬と猫から見ていきましょう。

 犬をテーマとした香水瓶として、真っ先に思い浮かぶのは、フランスの老舗香水製造会社ドルセー社の、こちらの香水瓶ではないでしょうか。

ドルセー社、ケース付き香水瓶《イヌ》、香水:トゥジュール・フィデール、デザイン:ジョルジュ・デュレーム、1912年頃、透明クリスタル、灰色パチネ、製造:バカラ社、海の見える杜美術館, D’ORSAY,CHIEN FLACON WITH ITS CASEDesign by Georges Deraisme-C.1912, Transparent crystal,grey patina, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 クッションの上におとなしくちょこんと座り、つぶらな瞳で飼い主を見つめる、この愛らしい小型犬パグの香水瓶です。クッションを琥珀色に染める香水の名は、「トゥジュール・フィデール」。つまり「いつも忠実な」という意味のフランス語です。この名を知ると、日本では涙なしでは語れない忠犬ハチ公の姿とこのパグが重なってしまって、さらに忘れがたくなりますね。なにしろハチ公は、飼い主の死後、10年もその帰りを駅で待ってくれていたのですよ……(涙)。その忠誠たるやいかに!

 さて、かようにも香水名と形態がぴったりと合った香水瓶も、意外と珍しいものです。このデザインを手がけたのは、ルネ・ラリックのある時期の右腕としても知られる、ジョルジュ・ドゥレーム(1859-1932)という、アール・ヌーヴォー様式の宝飾品を得意とした彫金師でした。彼は、1890年から約20年間にわたり、ルネ・ラリックの工房の彫金師長として、約20名もの弟子をまとめながら、ラリックの構想通りの作品を次々と製作しました。ドゥレームの類まれな技術の高さは、当時の高名な宝飾家アンリ・ヴェヴェールからも「たがねの達人」と称されたほどです。

 ドゥレームは、1908年に自身のブティックをパリの一等地ロワイヤル通りに構えると、それまでのアール・ヌーヴォー様式から、よりシンプルな、ほとんどアール・デコに近いデザインを先駆的に行うようになりました。本作品は、そのような最中の1912年頃の作品です。そのためでしょうか、装飾を廃した正四角形の本体だけではなく、香水瓶のケースにもその形状や図柄に、アール・デコの兆しをみることができます。こちらです👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

 本作品は、パグが単に可愛らしいだけではなく、アール・ヌーヴォーからアール・デコへの早い時期での移行が見られる、フランスのデザイン史上、意義深い作品なのですね。

ところで、この香水瓶は、製造を担ったバカラ社にとっても、新境地を開いた作品でした。というのも、この作品以前のバカラ社は、「ザ・瓶!」といった感の、ワインを入れる小型カラフのような古典的形状の香水瓶を製造し続けていました。例えばこの作品です👇

L.T.ピヴェール社《香水瓶 カラフォン》デザイン:バカラ社 1908年、製造:バカラ社 1912年、透明クリスタル、金属に金メッキ、海の見える杜美術館、L.T.PIVER, CARAFON FLACON WITH ITS CASE – Design by Les Cristalleries de BACCARAT – 1908, Transparent crystal, gilt metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

しかし、ひとたびこの「トゥジュール・フィデール」で、遊び心に溢れた香水瓶を製造すると、その後に手掛けるデザインを一新させたのです。「トゥジュール・フィデール」以後のバカラ社製香水瓶には、ゲラン社の名香「シャンゼリゼ」を収めた亀甲型の香水瓶や、「シャリマー」のコウモリ型香水瓶など、透明クリスタルの特長を活かした個性的な香水瓶デザインに、枚挙にいとまがありません。その始まりが、このドルセー社のパグだったのです。

 さて、次は19世紀末のイギリスで作られた猫の香水瓶を見てみましょう。こちらも前述の犬と同様、香水瓶の栓部分にその姿があります。

《指輪付きセント・ボトル》イギリス、1890 年頃、白色ガラス、金、ターコイズ、海の見える杜美術館、SCENT BOTTLE WITH RING -C.1890 White glass, gold,turquoises, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※夏期展示出品作品。

精巧な彫金細工が施された栓の頂きに鎮座する金色に輝く猫。さきほどの忠犬パグ公とはうって変わって、眼前の獲物をじっと見つめ、今にも捕らえようとしている緊張感みなぎる姿です。それは、盛り上がった背中や眼差しだけではなく、尻尾やピンと立てた耳によく表れているとの、大の猫好きの友人の言葉を聞いて、ジョルジュ・デュレームと同時代の、イギリスの金銀細工師の観察眼と卓越した技術力を私は再認識しました。

さて、本作品は、2本のチェーンの先の指輪も目をひくことでしょう。写真では少し分かりづらいのですが、ターコイズが等間隔に嵌め込まれた上品な指輪が付いています。このような指輪付き香水瓶は、しばしば夜会の折に使用されたものです。

19世紀のレディたちは、夜会で失神を起こすことが度々ありました。その原因は、ドレスの下に着用したコルセット。ウェストをより細く見せるために行った締め付けが、強すぎたためです。補正下着のおかげで気を失うとは、現代からすれば、愉快な失敗談のひとつのようですが、か弱いことも女性の美徳とされた時代には、失神もまたレディらしい行為のひとつでした。そのため、多くの女性たちはコルセットを着用し続け、体調不良を起こし続けたのです。

さて、失神時に活躍したのが、気付け薬です。レディたちは、それを小瓶に詰めて、来たるべき失神のために肌身離さず持ち歩きました。

ところで、当時の気付け薬には香りがついていました。良い香りを嗅いで意識を取り戻したのです。そのため、名だたる香水製造会社が気付け薬をこぞって製造していました。例えば、このブログで度々登場する、ゲラン社やウビガン社ピヴェール社も、19世紀末まで気付け薬を販売していたことは、あまり知られていないことかもしれません。

当時の気付け薬は、購入後に、持ち主が思い思いの容器に詰め替えるのが習わしでしたので、高い技術を誇る金銀細工師や宝石細工師や、高級宝飾品会社が美しい容器を生み出したのです。本作品も、そのようなひとつです。

小指の爪にも満たないほどの極めてこの小さな猫は、素敵な宵を過ごすためのお守りのような、秘密の同伴者であったのかもしれません。かつての持ち主は、このエレガントな容器を指に巻き付けながら、優雅なドレスを纏って、夜会をさぞかし楽しんだことでしょう。

岡村嘉子(特任学芸員)

追記:今回ご紹介した犬と猫の香水瓶は、2022年8月28日まで、香水瓶展示室の夏期展示に出品しています。ぜひ実物を展示室にてご覧くださいませ。