竹内栖鳳展 引き続き好評開催中です

展示替えも終わり、《羅馬之図》にかわり《獅子図》(1901~02年、東京富士美術館蔵)が展示中です。栖鳳が、1900年の渡欧の際にヨーロッパの動物園で実物のライオンを初めて

目にし熱心に観察した、という話はよく知られるところです。こちらの作品もゆったりと歩むライオンを驚くべき迫真性で描き出しています。この絵の前に立つと、描いた栖鳳の気持ちもさることながら、当時これらを見た日本の人々はどんなリアクションをしたのだろう…考えてしまいます。

そして、5月から展示している《絵になる最初》(1913年、京都市美術館 重要文化財)も是非この機会にゆっくりとご覧ください。人体をリアルに表現するためにヌードモデルを用いて写生をしていたにも関わらず、結果的に人体をほぼ隠した作品を描いたというところに栖鳳の潔さ、天才的なセンスを感じます。

今回の展覧会はどの章も担当から見てもそれぞれにいい作品、興味深い作品が展示していると思っていますが、担当として思い入れがあるのが最後の展示室の第6章「栖鳳余録」で、下絵などの資料、栖鳳が集めた写真、絵葉書、師である幸野楳嶺から受け継いだ絵画のお手本など、様々なものを詰め込んでいます。これらは、竹内栖鳳が旧蔵していたものが当館に入り、以降、保管、整理、公開してきたものです。

今回は、栖鳳が若い頃に受賞した賞状やメダルなども少しだけ展示しました。結構な数が残っており、若い頃の賞状をずっと持っていたんだな、と少し意外な気がしました。ご来館の方からも「こんなのあったの?」というお声をいただいております。

栖鳳が長く愛用していたという硯もここに展示。このちいさな硯から数々の名品が生まれたと思うと感慨深いですね。

また今回は芸艸堂から出版された《栖鳳逸品集》の一部を展示しています。

これは1937年4月から翌年12月までの第1期と、1940年1月から1942年6月までの第2期とわかれて頒布された、大変豪華な版画集でした。この画集は、芸艸堂が出してきた画集と比較しても桁違いの質・量・価格だったとのことです。絵柄によって木版印刷、コロタイプ印刷+木版印刷、原色版印刷、と印刷方法を変えて作られました。芸艸堂の高い印刷技術と、栖鳳の晩年においてもなお旺盛な創作意欲が見て取れる作品です。

図録には、芸艸堂様のご厚意で、全66枚の版画を掲載することができました。是非手にとって見ていただきたいと思います。

こちらも同じく芸艸堂から明治時代に出版された『棲鳳画譜』、『栖鳳画譜』です。当館の収蔵品が掲載されています。

天才画家・栖鳳の歩み、そして知られざる一面を作品と資料でご紹介するんだ、といきまいていた担当者ですが、「知らないことたくさんあるな…」と思わされる竹内栖鳳の世界です。展覧会もあと数日ですが、私ももう一度ゆっくり展示を見てみようと思っています。

                                 森下麻衣子

うみもり香水瓶コレクション26 ブシュロン社の香水瓶

こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」と題した、近代京都画壇を代表する日本画家、竹内栖鳳の回顧展を開催しています。そこで香水瓶展示室でも、企画展関連作品を展示しています。こちらの作品です👇

ブシュロン社《香水瓶》フランス、1890-1900年、ダイヤモンド、金、エナメル、海の見える杜美術館 BOUCHERON, PERFUME FLACON, France, C.1890-1900, Diamonds, gold, enamel, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

当館の香水瓶コレクションの内容が、西洋と古代オリエントの容器を中心としたものであることをご存知の方々には、日本画壇の巨匠と当館の香水瓶の関連に首を傾げられる方もおいでになるかもしれません。しかし、栖鳳の画業の軌跡を既にお知りの方は、「ああ、あの体験が」とピンとひらめくものがあるのではないでしょうか。

それは栖鳳の名が、師の幸野楳嶺より与えられた号である「棲鳳」から「栖鳳」へと改められた時期の、あの西欧体験のことです。

ときは1900年、パリ。そこでは、過去の万国博覧会の入場者数を上回る4800万人を記録するほど、人気を博した万博が行われていました。この万博時には、各国パヴィリオン等のある万博会場に加えて、動く歩道や地下鉄など、当時の最先端の技術が会場の内外に登場しました。それは1900年という19世紀最後の年として過去100年を回顧しつつ新たな世紀を展望するという、まさに世紀転換期に相応しい大博覧会であったのです。そのため、その様子をひと目見ようと、ロンドン留学の途上にあった夏目漱石や、スペインのピカソがパリへ見物に訪れていたことも知られています。彼らの日記を調査したピカソの研究者によると、なんでもこの二人は同日に会場を訪れていたとか。ごった返す観客のなか、二人はすれ違っていたのかもしれませんね。

さて、竹内栖鳳のような日本人画家にとっても、1900年パリ万博は非常に大きな出来事でした。なぜなら、それまでの万博とは異なり、彼らの作品が美術館を舞台として、諸外国の美術とともに、純正美術として展示されたからです。それ以前は、たとえ絵画や彫刻が万博に出品された場合にも、磁器や漆器等の工芸品ともに陳列されたために、工芸品の一部として理解されてしまうこともありました。そのことは、19世紀半ば以降――とりわけフランスの場合は1890年代からようやく――装飾美術の地位を見直す動きが起きたとはいえ、17世紀の美術アカデミーの創設以来、「大芸術」とみなされた絵画、彫刻、建築に対し、「小芸術」と位置付けられた装飾美術という序列が歴然と存在してきた西洋と対峙するには、いささか不名誉なことでもあったのです。こうした状況を打開しようと、日本側は1900年パリ万博の事務官長を務めた林忠正や、帝室博物館が中心となって、万博での美術作品展示や日本美術史に関する書籍の出版等を1900年万博に際して行いました。彼らは日本にも西洋の美術史に匹敵する美術史が存在することを世界に知らしめることに尽力したのです。

日本の美術界にとって記念すべきこの万博に合わせて、栖鳳も現地を視察しています。栖鳳は万博会場のあるパリはもちろん、8か国の主要都市を巡り精力的に西洋の画風を研究、吸収しました。この約半年余りの欧州視察旅行の体験が、その後の制作に与えた影響については、今回の「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」展において、豊富な資料とともに詳しく紹介されています。とりわけ、彼が展覧会に出品した唯一の油彩画《スエズ景色》(前期展示)や、ローマの遺跡を題材とした《羅馬之馬》(前期展示)は、この機会にぜひご覧頂きたい作品です。

香水瓶展示室でも、栖鳳に転機をもたらしたこの欧州体験に焦点を当てて、同時期のフランスの香水瓶を関連作品として選びました。そのようなわけで、冒頭のブシュロン社の香水瓶なのです。

さて19世紀を通じフランスでは、香水メーカーから購入した香りを、持ち主が思い思いの容器に詰め替えるのが習わしでした。そのため、持ち主の要望に応えようと、宝石細工師や金銀細工師や高級宝飾師は、煌びやかな容器を競うようにして作り出しました。フランスの高級宝飾メーカー、ブシュロン社が手掛けた本作品も、そうした時代を今に伝えるひとつです。今日のブシュロン社は、パリのヴァンドーム広場に居並ぶ5大ジュエラー、いわゆる「グラン・サンク」のひとつとして、またグラン・サンクのうち最も早い時期の1893年にこの広場に店を構えたことで知られています。本作品は、まさに同社がパレ・ロワイヤルからヴァンドーム広場26番地へ店舗を移転させた時代に制作されたものです。

本作品で使われた技法を見てみましょう。ここでは、非常に手間のかかるエナメル細工「プリカジュール」による赤と青の幾何学模様が、瓶全体に施されています。

このエナメル細工の素晴らしさを、最も実感できるのは、香水瓶の蓋を開けたときです。下の画像をぜひご覧ください👇 

 ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

このように蓋を大きく開けますと、まるでステンドグラスのような装飾が現れます。そのため私は、本作品に触れる度に息を呑まずにはいられません。プリカジュールは、裏から光を当てたときにこそ、美しさが最も際立つのです。かつての持ち主は、馥郁とした香りを放たせる直前に、目からも優雅さを堪能していたのですね。

さらにここでは、壮麗さを高めるかのように、ローズカットのダイヤモンドが瓶の開閉部にあしらわれています。この透き通るような輝きの帯も、19世紀後半に目覚ましい発展を遂げたブシュロン社らしいデザインですね。フレデリック・ブシュロン(1830-1902)が1848年に設立した同社は、1867年のパリ万博で銅賞を受賞した後、1878年のパリ万博にはダイヤモンドとサファイアのネックレスで金賞を、1889年パリ万博には、留め金を使わない斬新なデザインのダイヤモンドのネックレスをはじめ高い技術でグランプリを受賞しました。こうした経歴が物語る通り、同社の見事なジュエリーは発表毎に国内外の多くの人々を虜にしていました。

またダイヤモンド自体に関して言えば、19世紀後半のパリの宝飾品を特徴づけるものでもあります。それには、1871年に南アフリカのケープタウンでダイヤモンド鉱山が発見されたことにより、価格が下落してパリの市場に出回るようになり、ダイヤモンドを配した数多くの宝飾品が制作されるようになったという背景があるのです。

ところで、本作品の制作時期には、フレデリック・ブシュロンが手掛けた見逃せない事業がありました。彼は、それ以前にもブシュロンの工房にて多くの創作デザイナーを育て活躍の場を提供してきましたが、1893年には私財を投じて有望な創作デザイナーに留学奨学金を授与する奨励協会をも設立しました。本作品のように、プリカジュールを効果的に用いて、蓋を開けると小さなステンドグラスのバラ窓がお目見えするという心憎いデザインが生み出された裏には、創業者による教育への尽力があったのですね。

さてブシュロン社ですが、1988年からは香水そのものも取り扱っています。そのなかには本年2024年に誕生20周年となった同社を代表するジュエリー・シリーズ「キャトル」の名を冠した香水もあります。

2015年春に発売された香水「キャトル」は、爽やかさとほんの少しの甘さを兼ね備えた軽やかな香りが気に入って私もすぐに使い始めたところ、パリの町中で3回ほど、それぞれ見知らぬマダム二人とムッシューひとりに「この香りは、あなたにとってもお似合い!」「この新しい香りは、一体どちらのかしら? とても素敵!」と唐突にご感想をお聞かせ頂きました(フランスだと、こうした唐突なご感想によく遭遇します)。それ以来、すっかり気を良くしまして(笑)、もう何年も春夏に愛用しています。

空き瓶も保管しています。期間限定コフレのボックスの図柄はヴァンドーム広場の鳥瞰図。

キャトルをつけた私にお声がけ下さった方々の物腰や、そのときのあたりの喧騒や乾いた空気、そして晴れた日の陽気な雰囲気等々がキャトルをひと吹きすると脳裏に浮かぶように、香りは様々な記憶――時とともにぼやけたり、忘却の彼方に消えたりしたはずの記憶――を、瞬時に鮮やかに蘇らせてくれます。新緑のなか、花々が咲き誇るこれからの季節に、いつの日かタイムスリップに誘ってくれる香りを存分に感じつつ、心楽しい時間を数多く過ごしていきたいものです。

岡村嘉子(特任学芸員)