「二十四孝図ーふしぎで過激な親孝行」展、後期展示のみどころ

二十四孝図展、後期展示開催中です。

二十四孝図展では、室町時代から桃山時代にかけての狩野派によって描かれた大画面の二十四孝図の優品をご覧いただけます。今回のブログでは、その中でも後期(4/8~5/6)より展示している福岡市博物館所蔵の狩野永徳《二十四孝図屏風》をご紹介したいと思います。

狩野永徳《二十四孝図屏風》六曲一双より右隻 室町時代 福岡市博物館蔵 展示期間4/8~5/6
狩野永徳《二十四孝図屏風》六曲一双より左隻 室町時代 福岡市博物館蔵 展示期間4/8~5/6

狩野派の4代目当主・狩野永徳(かのうえいとく、1543~90)による《二十四孝図屏風》六曲一双には、水墨技法によって描かれた連続する山水空間の中に、二十四孝の孝子たちが一扇ごとにそれぞれ配され、12の場面が表されています。

画面の上部にはそれぞれの孝子について詠まれた漢詩が色紙型に書き付けられ、貼られています。これらの漢詩は、当時二十四孝を日本で解釈し取り入れていく上で中心的存在であった、禅宗の高僧によるものです。これらの漢詩をまとめた詩文集から、本作はもともと二双の屏風で、24場面描かれていたと考えられています。

狩野派は室町時代に始まる絵師の一大流派で、足利将軍家や時の権力者、有力貴族や寺社からの依頼を受け、屏風絵や襖絵などの大画面から、絵巻物や扇面画などの小画面まで多くの作品を工房制作によって手がけました。狩野派は江戸時代以降も続き、徳川将軍家や大名の御用も務めています。

永徳は20代半ばから父・松栄(しょうえい、1519~92)とともに狩野派を(ひき)いて多くの画事を務めました。特に織田(おだ)信長(のぶなが)豊臣(とよとみ)(ひで)(よし)に仕え、安土(あづち)(じょう)大坂城(おおさかじょう)(じゅ)楽第などに桃山時代の主要な障壁画を次々と手掛け、天下人好みの豪壮華麗な作品を制作したことで知られています。

本作は画面上部の漢詩が詠まれた時期や永徳の画風の比較などから、永徳が20代半ば頃の作と考えられています。それはちょうど、狩野派内の大きな仕事を任され始めた頃と考えられます。樹木の枝や岩の表現や、水しぶきを上げる川の勢いを表した力強い筆遣いはエネルギッシュで、そこには永徳個人の若々しさもまた表れていると言えるでしょう。

狩野永徳《二十四孝図屏風》六曲一双のうち右隻部分     室町時代 福岡市博物館蔵 展示期間4/8~5/6
狩野永徳《二十四孝図屏風》六曲一双のうち左隻部分    
室町時代 福岡市博物館蔵 展示期間4/8~5/6

水墨表現ならではの、スピード感あふれる筆遣いと墨の濃淡による表現の妙を味わっていただきたい作品です。同じく水墨技法による、洛東遺芳館所蔵の父・松栄による《二十四孝図屏風》(後期は左隻のみ展示)と画風の違いを比較してご覧いただくと、よりお楽しみいただけると思います。この機会に是非ご覧ください。

二十四孝図展の開催期間中、JR阿品駅から当館への無料のシャトルバスを運行しています。お気軽にご利用ください。

中島紀子

うみもり香水瓶コレクション 30  ランバン社「金色のアルページュ」

こんにちは。現在、海の見える杜美術館では、「二十四孝図―ふしぎで過激な親孝行」展が開催されています。「二十四孝図」と聞くと、落語好きの方は古典の「二十四孝」が、歌舞伎や文楽ファンの方は八重垣姫の登場する「本朝廿四考」(香りが効果的に使われる演目でもあります)で語られる中国の故事が思い浮かぶかもしません。

【参考画像】:もったいなくて使いきれずにいる、拙宅の八重垣姫の切手シート。

既に日本の大衆文化において長く親しまれている「二十四孝」ですが、元来、中国をはじめ東アジアの儒教世界において重視された孝養を説く「孝子(こうし)説話」のなかから選ばれた24の物語のことを指します。本展はこの「二十四孝」が描かれた「二十四孝図」を題材とする狩野派を中心とした作品を一堂に会したものです。日本の二十四孝図の受容の実態と受容の在り方に着目した初めての展覧会とあって、開催前から各方面において話題となっていた展覧会でもあります。

そもそも「孝子説話」の孝子とは、親に考を尽くした人を指す中国の言葉です。したがって今回の展示作品にも、孝行息子、孝行娘の孝行ぶりが様々に描かれています。ただ、ひとことで「様々」とは言っても、その孝行ぶりたるや、想像をはるかに上回る、いわば予想の斜め上を行ってしまっているものばかり。副題「ふしぎで過激な親孝行」やコピー「孝行か、奇行か。」が表す通り、冬に生魚を食べたがる母のために、裸で凍った川に寝そべり氷を溶かして魚を捕まえるとか、貧しさから蚊帳が持てない親の安眠のために、裸になって代わりに蚊に刺されまくる等々、ときに体を張った相当エキセントリックな行動が盛りだくさんです。そのため、香水瓶展示室として関連作品を選定するのに苦慮いたしました。その結果、「二十四孝図」の孝行は、東アジア圏独特の表現としてひとまず脇におき、より広く「親子の表現」としてとらえることにいたしました。こうして選んだのが、冒頭の画像の作品です。以前、このブログでも一度取り上げましたランバン社の豪華版の香水瓶です。

本作の前面には、香水瓶の歴史上、最も有名な親子であるファッション・デザイナーのジャンヌ・ランバンとその娘が描かれています。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima

おりしも本年2025年は、ランバン社《球形香水瓶》が登場して100周年に当たります。前回のブログでは、ちょうど100年前の1925年に発表されたフランスのアール・デコの代表作として、そのデザインを中心にご紹介しました。今回はランバン親子の関係を物語る、本作に収められた香水について取り上げたいと思います。

あまり知られていないことですが、この《球形香水瓶》には、ひとつの香水のみが収められたわけではありません。ランバン社は1925年に製作された「マイ・シン」をはじめ、複数の香水をこの香水瓶に詰めました。この点が同じ時期の香水瓶であっても、香りと香水瓶のイメージが一体化したシャネル社の「No.5」やゲラン社の「シャリマー」と異なるところです。もちろん、《球形香水瓶》より以前にはメゾン共通の香水瓶デザインを採用する方が多かったので、その点において本作がとりたてて珍しいわけではありません。ただし共通デザインの場合には、表面に香水名が記されたラベルが付されます。しかしながら、シンプルさを極めたこの作品には、下の画像の通り、それが一切ないのです。ぜひそれを今回の出品作でもある「黒い球(ブールノワール)」と呼ばれる伝説的な黒いボトルにてご覧くださいませ。👇

この非常に洗練されたデザインは、実に学芸員泣かせです。表面から中身が判別しにくいデザインで、しかもそれが海杜コレクションのように複数ある場合は、展示や画像を扱う際や作品データの表記に細心の注意を払います。

では一体どこで中身を見分けるかといいますと、香水瓶の底に貼られた小さなラベルです。そこに香水名がこれまた小さく記されています。このことを美術館ではなく日常生活におきかえて考えてみると、私はあることが少々気にかかります。というのも、香水を纏う人はたいてい、複数の香水をシーンによって使い分けるもの。もしドレッサーにこの香水瓶をいくつか並べていたら(しかも私のように老眼が少々進んでいたら!)、一度くらいはうっかり中身を間違えてしまいそうです。

さて、様々な香水が詰められた《球形香水瓶》ですが、なかでも最も名高い香水は、1927年に発表された「アルページュ」でしょう。五大名香のひとつとして、時代を越えて愛されている香水です。この香水はもともと、香水瓶前面にイラストレーターのポール・イリーブが描いたランバンの娘マルグリット(後年マリー=ブランシュに改名)のために作られた香水でした。

ランバンにとってマルグリットは、つねに創造力の源泉たるミューズであり、同時に幸運の女神であり続けたといえます。帽子デザイナーであったランバンが高級婦人服の世界へと躍進したきっかけは、幼い娘のために作った、見事な仕立ての子供服でした。彼女が作る服は、まずマルグリットの友達の母親の間で評判となります。それが高級婦人服の注文へと繋がり、次第に顧客の幅を広げていきました。その様子がよくわかるのが、今回、香水瓶とともに展示をしているこちらのリトグラフです。👇

こちらは、当時の高級ファッション雑誌『ガゼット・デュ・ボン・トン』に掲載されたランバンのイヴニング・ドレスの一ページです。女性の美しさを引き立たせるエレガントでシックなドレスを纏ったマダムの横には、夜会の間に留守番をしていた愛らしい少女の姿が描かれています。ランバンは、こうして親子それぞれの年齢に相応しい、おしゃれで上質な服を提案していたのです。さらに彼女は紳士服も手掛けました。ランバンの躍進は目覚ましく、小説『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者エドモン・ロスタンや、ポール・ヴァレリー、ポール・クローデルらアカデミー会員の礼服も彼女が手掛けていたほど。その成功ぶりは、《球形香水瓶》を発表した1925年の時点で、8つのアトリエを持ち、800人以上の従業員を雇い、新作発表の際には300人のモデルを出演させたことにも表れています。その規模は、シャネルを凌ぐものであったといわれています。

そして1927年にランバンは、30歳を迎える娘のために香水を作ります。ランバン社は1923年から香水製造に着手し、有能な調香師を雇い、既に10点以上の香水を発表し、ヒット作も生み出していました。けれども、娘の記念の香水となると、その思い入れの強さが全く異なるものでした。彼女は調香師のポール・ヴァシェとランバン専属調香師アンドレ・フレイスの二人に、どれほど費用がかかろうとも、極上の香水を創り出してほしいと依頼します。こうしてフレイスは62種類もの最高品質の原料を用いて、「アルページュ」を誕生させました。

その香りの構成は、複雑かつ完璧なものでした。最初に知覚されるトップノートにネロリ、ベルガモット、そして1921年にシャネル社「No.5」で調香師エルネスト・ボーが大胆にも初めて大量に使った合成香料のアルデヒド、続いてミドル・ノートにローズ、イリス、ジャスミン、イランイラン、コリアンダー、クローヴ、ゼラニウム、スズラン、チュベローズ、最後のラスト・ノートはウッディで、ヴァニラ、スティラックス、パチュリ、ベチバー、サンダルウッドというように、ひとつの調和のなかに、肌の上で多種多様な芳香が立ち昇ってくるよう計算されています。このように様々な香料が調和し響きあう様を、音楽家として成長したマリー=ブランシュことマルグリットは、音楽用語アルペジオ(フランス語はアルページュ)に例えました。アルペジオは、和音を分散して連続的に演奏する方法のこと。それは例えば、モーリス・ラヴェルのピアノ曲「水の戯れ」における繊細で澄んだ水の動きを表現する際に使われている、あの弾き方です。

それにしても、言い得て妙とはまさにこのことです。まだ名付けられていない未知なる香りの複雑な構成を、アルペジオに例えたマルグリットの感性に感嘆するばかりです。彼女が例えた通りに香水名「アルページュ」がすぐさま決定したのにも頷けます。

その後1946年にジャンヌが79歳で世を去ると、マルグリットがランバン社の経営を引き継ぎました。戦後の彼女のランバン社への貢献を考えるときに思い浮かぶのは、以前このブログで取り上げた《モリス広告塔》(今回は展示しておりません)です。👇

パリの街頭にある、ポスターを掲示するための広告塔をかたどった香水瓶です。この香水瓶をデザインした建築家のギョーム・ジレは、戦時中、ドイツ軍の捕虜として過ごしました。その後無事に帰還し、自由を謳歌するなか、ポリニャック伯爵夫人となったマリー=ブランシュことマルグリットと親交します。それが縁となって、彼はランバン社のために広告をはじめとする数々の作品を制作しました。マルグリットは、ジレを採用することで、戦前のシンプルかつ優美なランバン社のイメージに、陽気さや解放感を加え、苦難の年月を乗り越え迎えた新時代に相応しいイメージを作り出すことに成功したのです。

香水瓶の《モリス広告塔》に貼られたポスターをよく見ると、《球形香水瓶》の前面を飾ったランバン親子のあのシルエットがあるのがわかります。この手を取り合う情愛あふれる親子の姿は、ランバン社の精神を表す商標としても今日まで長く親しまれています。今回の展示では、「アルページュ」のオーデコロンが詰められた透明ガラスの《球形香水瓶》も出品しています。「二十四考図」展と合わせて、香水瓶展示室にもぜひお運びくださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション 29  イギリスの牧歌的風景

こんにちは。現在、海の見える杜美術館では、「誘惑する風景 近代日本画探索」と題した、当館所蔵の風景画を一堂に会した近代日本画展を開催しています。それに合わせて、香水瓶展示室でも風景の描かれた香水瓶を展示しています。

例えば、バラの花束とともに、イギリスの田園風景が描かれた上画像の作品です。この風景部分をよく見てみますと……👇

青々と茂った大樹のそびえる田園で、牧人が家畜の群れを連れて歩いていく、のどかな情景が描かれています。反対側にも同様に、牧歌的な風景が👇。

 こちらは水の流れる草原で、牛や羊、そして牧人までもが憩っています。茜色に染まり始めた彼方の空や、牧人の後ろ姿からは、一日の仕事がまもなく終わろうとする、のんびりと穏やかな雰囲気がよく伝わってきます。

しかしながら、風景のこの素朴さとは対照的に、本作品全体のデザインは極めて典雅です。例えば、高貴な群青色の下地に描かれた白と金の模様、繊細な彫金がなされた金色に輝く金属部分、全体を覆う艶やかなエナメル。とりわけ、風景画や花束の図を縁取る窓の流麗な曲線ときたら! こうしたすべてが、宮殿や城館の華やかな室内装飾を彷彿させます。実際、本作品は室内の小型の円形テーブルの上に飾られて使われました。ロココ様式と新古典主義の混在した18世紀後半のお屋敷のインテリアに調和するように作られたものであったのです。

しかしなぜこの香りの容器は化粧台の上ではなく、小型円形テーブルの上におかれていたのでしょう? その理由は、本作品が単なる香水瓶ではなく、ボンボニエール〔菓子器〕を兼ねていたからです。往時には、本作品の上部には香水が、下部にはドロップが収められました。ですので、瓶中央の蓋を開けてドロップを、蓋の上部のキャップを開けて香水を楽しむことができたのです。と、言葉で説明しても、今一つわかりづらいと思いますので、一目瞭然たる画像をご覧くださいませ👇

こちらは、本作品と同じ構造をした1760年頃のイギリス、サウス・スタフォードシャー、ビルストンの作品です。こうした構造の容器が作られたのには、実は当時の衛生観念が深く関係しています。

18世紀は、王侯貴族や上流階級の間で衛生観念が変化し、発達した世紀でもあります。それ以前は、入浴によって伝染病に感染する疑いがあるとみなされていたため、湯あみは極力控えられていました。王は公共のサウナの閉鎖を命じ、教会も公序良俗ために入浴を禁じました。今日ではにわかに信じられないことですが、当時、風呂は体液の調子を乱すものとも、また湯あみで開いた毛穴から感染しやすくなるとも考えられていたのです。したがって、医者たちは頻繁に体を洗うことに反対していました。以前、このブログでも取り上げた1655年ロンドンの腺ペストや、フランスにおける最後のペストとされる1720年のマルセイユの大ペストなど、当時の感染症の猛威に鑑みますと、感染から少しでも逃れたいとの切実な思いがそうした考えを信じさせたことも頷けます。ただ興味深いことに、水自体は危険極まりないものとされた一方で、そこにひとたび香りを付け加えた芳香水となると、あらあら不思議、どうした訳か、むしろ身体を守ってくれるよい効果をもたらすものとされました。芳香が瘴気を遠ざけるという考えが、あらゆる場面に浸透していたのですね。ですので、小瓶に詰めた芳香水が水代わりとなって体を清めてくれるので、入浴して体を洗わないことが問題視されることは長らくありませんでした。

しかし、そのような考えが変化していくのが、まさに本作品が作られた18世紀です。17世紀末にはペストが収束していったイギリスでは、衛生を第一とする観念がフランスに先駆けて普及します。それにともない、入浴も見直されるようになりました。なんでもサウナ風呂まで登場し(もれなく毛穴が開いてしまいそうです!)、町中のあちこちにその施設が作られたといわれています。イギリスのこの影響を受けて、フランスもペストが落ち着いたルイ15世の治世下には、入浴をし体を洗う習慣が富裕層の間で復活しました。それでもまだ、お湯は警戒されていたため、当初は水風呂のみであったというのですから、入浴といえば、きれいさっぱり諸々洗い流して、温かいお風呂でほっと一息♨という私の想像とは、いささか異なるものであったようです。

翻って本作品は、衛生観念が口の中にも及んでいたことを教えてくれます。というのも、このボンボニエールに収められたのは、甘いお菓子としてのドロップではなく、あくまでも口腔衛生を保つための香り付きドロップであったことがわかっているからです。当時は、円卓に本作品のようなボンボニエールを飾ることが、エレガントなたしなみとされていました。

それにしても、一体どのような香りのついたドロップだったのでしょう――。たしかな資料がないために特定に至りませんが、あれこれ想像するのも楽しいものです。18世紀は香りの趣味にも大きな変化が起こった世紀だからです。

入浴習慣をやめていた時代に重用されたのは、体臭をごまかすための動物由来の強い香りでした。しかし18世紀には、それがより軽やかなフローラル・ノートへと変化します。さらに、非常に手間のかかっていたシトラス油の抽出にも、圧搾器という画期的な道具が考案されて、シトラス・ノートがオーデコロンにも使われるようになりました。つまり、18世紀は、むせるような香りから、優しく爽やかな香りへと移り変わっていった世紀なのです。

そして、より瑞々しい香りを存分に味わえる、のどかな自然のなかでの散策も流行しました。当時は、散策時に長く垂れたドレスの後裾が汚れないように、ポケットのなかから後裾を上げ下げできる、専用のドレスが登場したほどです。美しい野辺の風景や花々が両面に描かれた本作品も、そうした時代背景をよく表しています。

また、企画展「誘惑する風景 近代日本画探索」に合わせて、風景画という観点から本作品を見ると、興味深い時期の作品であることがわかります。

日本においては、中国より伝わった山水画が古くから数多く描かれてきたため、少々意外なことですが、フランスやイギリスにおいて自然を主題とした風景画が独立したジャンルとして確立されるのは、近代になってからです。それ以前は、主題ではなく背景として描かれるのみでした。もちろんオランダでは風景画が制作され人気を博していましたが、他の地域では歴史画〔キリスト教や神話が主題〕を頂点とする伝統的な絵画のヒエラルキーのなかにおいて、下位のジャンルとみなされていたのです。

しかし、本作品の制作された少し前にあたる1750年代後半のイギリスにおいて思想家のエドマンド・バークが『崇高と美の観念の起源』を著します。そこでは、自然が崇高なものとみなされました。それは、絵画の主題を考える上で、非常に新しい考え方でした。そして以後100年以上にわたって、自然のあるがままの姿を主題に据えた作品への関心が高まっていき、やがては19世紀のカンスタブルやターナーや、「牧歌的風景画」にも価値を認めたフランスのヴァランシエンヌや、コローといった風景画の巨匠たちに引き継がれていくのです。

本作品は、そうした風景画の黎明期の作品です。ぜひ企画展と合わせて、香水瓶展示室にて、イギリスの牧歌的風景もお楽しみくださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

■ 企画展示室情報: 誘惑する風景 ―近代日本画探索― – 広島 海の見える杜美術館 ■

[会期]2024年10月12日(土)〜12月8日(日)
[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)
[休館日]月曜日(但し10/ 14、11/4は開館)、 10/15(火)、11/5(火)
[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生無料
*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

[タクシー来館特典]タクシーでご来館の方、タクシー1台につき1名入館無料
*当館ご入場の際に当日のタクシー領収書を受付にご提示ください。

うみもり香水瓶コレクション 28  食材をモティーフにした香水瓶

こんにちは。前回は「チューリップに蝶」と「サクランボに鳥」が表現された作品をご紹介しましたが、今回は「エンドウマメに小鳥」が組み合わされた作品等をご紹介します。こちらは、ただいま企画展示室で行われている、飲食をテーマにした展覧会「美酒佳肴 ――絵で味わう美きもの――」に合わせて、香水瓶展示室に陳列している作品です。

 正直なところ、本作品は展示室で陳列する際に、いささか苦労します。というのも、形状がエンドウマメそっくりに作られているため、そもそも直立する形をしていないからです。そのため、裏側からしっかりと支える専用の台などを駆使して陳列しています。しかし、この香水瓶らしからぬ形状ゆえに、遊び心が刺激され、愛着が湧く作品といえます。可愛い上に、機知に富んでいて楽しいのです!

 例えば、下部に顕著に見られる、丸い膨らみ。表面のこの凹凸は、いかにも莢のなかに丸くふっくらとしたマメがあるかのような、巧みな表現です。

↑ この部分です!©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 しかも、ただ単に実物に似せるのではなく、エンドウマメの愛らしい花を描き、周囲を丹念に彫った金で縁取るという、優美で気品ある仕上げがなされています。さらに栓には、純白の小鳥を配して、「マメをついばむ鳥」という物語性まで付け加えられています。

 この小鳥は、イギリスの名窯、チェルシー磁器工房が手掛けています。つまり本作品の洗練された愛らしさは、金細工、エナメル〔七宝〕細工、磁器という構成要素全てにおける、卓越した質によるところも大きいのです。

 また主題が、フランスで「緑色のきれいな真珠」とも称されるエンドウマメであることも、本作品が品格を感じさせる理由でしょう。かのルイ14世(1638-1715)は、エンドウマメを愛し、このマメの流行を引き起こしました。当時は、料理はもちろんのこと、ドレスなどの衣服にエンドウマメの図柄が用いられました。従って、18世紀半ばにイギリスで製作された本作品は、おそらくこの流行の影響を受けていると思われます。

 エンドウマメの歴史は古く、すでに1万年前から存在していたともいわれています。少なくとも古代エジプトや古代ギリシャには、食用とされた記録があり、世界最古の農作物のひとつと考えられています。中世まではエンドウマメを乾燥させて食べていましたが、以後は様々な状態で使われるようになったことで、世界各地の美味しい料理の食材となっています。思いつくままに挙げてみても、ポタージュにサラダにお肉料理の付け合わせに、あるいは中華料理にも欠かせない存在ですね。

 日本ならではのエンドウマメの使い方といえば、甘党の私としては、うぐいす餡や甘納豆が真っ先に浮かびます。日本における本格的なエンドウマメの栽培は、明治以降のようですが、既に9~10世紀には遣唐使によって中国から伝わったことがわかっています。

 このようにエンドウマメが古今東西で愛されているのは、やはり風味豊かでとろけるような味ゆえのことでしょう。エンドウマメ特有の味のまろやかさを、本作品は繊細な色彩と流麗な花模様、そして精緻な金細工によって余すところなく表現しています。

 さて香水瓶展示室では、松かさをかたどったこちらの作品も展示しています👇

 アール・ヌーヴォーを代表する芸術家であり宝飾品製造者のリュシアン・ガイヤール(Lucien Gaillard 1861-1942)が手掛けた作品です。栓にはプレス成形した松かさが、曇りガラスの瓶にはガラスと茶色パチネで立体感を出した松かさの帯飾りが施されています。詩情をたたえた美しさとでもいうのでしょうか、この静かな佇まいに、いつもはっと息をのみます。

 ところで、古代の香りについて調べる際に、私は古代ギリシャの名著、ディオスコリデス(Pedanius Dioscorides)の『薬物誌』をしばしば紐解きます。1世紀に書かれた本書には、松かさについても詳しい記述があります。それによると、きれいにした松かさを食べたり、干しブドウ酒とキュウリの種とともに服用したりすると、膀胱や腎臓の周囲の疝痛を和らげる、とか、新鮮な松かさを丸ごと粉砕して干しブドウ酒で煮たものを毎日同量摂取すると、慢性の咳に効果がある等々、様々な効能が記されています。

 ただいくら効き目があるとはいえ、今の時代に、洗った松かさをバリバリと召し上がられる方(想像するだけで、ちょっとおののきます)は稀有と存じます。しかし、松かさのなかの松の実でしたら、はるかに身近な存在ですね。ジェノヴェーゼに錦松梅にと、洋の東西を問わず数々の料理で日頃口にする食材です。ディオスコリデスはこの松の実に関しても、体を温める作用や、咳や胸部の疾患への効能を詳述しています。

 本作品は、食欲すらも一瞬忘れそうな静謐な香水瓶ではありますが、滋味深い松の実の造形ゆえに、飲食がテーマとなればやはり欠かすことのできない作品です。

岡村嘉子(特任学芸員)

追記:今回のエンドウマメに関する記述には、フランスの友人で文化ジャーナリストのジャン=リュック・トゥラ=ブレイス(Jean-Luc Toula-Breysse)の著作、Les nouilles coréennes se coupent aux ciseaux : Miscellanées gourmandes et voyageuses を参照しました。本書には、丁寧で読みやすい日本語訳も出版されています 👇

Photo ©Yoshiko Okamura

 「エンドウ」や「塩」をはじめとする、本書に収録された食材の特徴や調理法、使われ方や逸話は、世界の歴史や多様な文化についての理解を深めてくれるものです。博覧強記のジャン=リュックでなければ決して完成しえなかった大著です。

邦訳:ジャン=リュック・トゥラ=ブレイス『イラストで見る 世界の食材文化誌百科』土居佳代子訳、原書房、2019年12月。

原書:Jean-Luc Toula-Breysse, Les nouilles coréennes se coupent aux ciseaux : Miscellanées gourmandes et voyageuses, Arthaud, Paris, 2017.

うみもり香水瓶コレクション27   香水瓶の花鳥表現

《セント・ボトル》イギリス、チェルシー、1758年頃、軟質磁器、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1758, Soft paste porcelain, gilt metal, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 歌川広重 《牡丹に蝶》横大判、天保3-4年 (1832-33)頃、丸屋甚八、海の見える杜美術館 

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画 」と題した、当館が所蔵する近世から近代にかけての花鳥版画を集めた展覧会を開催しています。それに合わせて、香水瓶展示室でも花鳥表現による香水瓶を展示しています。

 例えば、企画展出品作の歌川広重《牡丹に蝶》にならって、「チューリップに蝶」と称したくなる上の画像の作品。こちらは、18世紀半ばのイギリス、チェルシー磁器工房による作品です。ヨーロッパでは、こうした花に誘われた蝶の表現が、香りの優雅さを造形で伝えるために使われました。たしかに本作品も、磁器の鮮やかな色調もあいまって、気品ある瑞々しい花の香りが漂ってくるかのような作品です。

 ところで、抽象表現、具象表現、細密表現等々、世には様々な表現がありますが、この「花鳥表現」に私は、理屈抜きでとても惹かれます。静かな展示室でその表現に行き合うと、動植物のかすかな息遣いをふいに耳にした気がして、立ち止まらずにはいられません。そしてしばし作品を見つめていると、自分自身の呼吸も穏やかに整っていくのを感じます。それゆえ、私にとっては平穏さをもっとも味わえる表現の一つです。

 そのため、この度、香水瓶と花鳥版画を組み合わせることを(香水瓶展示室のある1階と企画展示室の2-3階と、展示室自体は離れていますが)、個人的に非常に楽しんでいます! とりわけ当館は、浮世絵における花鳥画のジャンルを確立した歌川広重の国内最大規模の花鳥版画コレクションを有します。ですので、いわば傑作ぞろいの展示室となっているため、好奇心が刺激され、日欧の花鳥表現をあれこれ比較してみたくなるのです。

 冒頭の「チューリップに蝶」に限らず、もともと自然に基づくテーマを好むイギリスでは、香水瓶にも多くの花鳥表現が見られます。とくに18世紀は、動植物をかたどった繊細な色調の磁器製香水瓶が、盛んに製造されました。

 こちらの作品は、桜の木の上でサクランボをついばむ鳥を表現したチェルシー磁器工房のセント・ボトルです。

《セント・ボトル》イギリス、チェルシー、1755-58年、軟質磁器、金、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, 1755-58, Soft paste porcelain, gold, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 しかしながら、どうしても気になってしまうのは、この鳥の種類です。オウムに似た色鮮やかな尾長の鳥で、南国を思わせますね。体長もかなりありそうです。一体、どのような鳥なのでしょう?

 多くの国民が春の風物詩として桜を愛するこの日本では、町でも野でも山でも、至る所で桜を目にする機会に恵まれます。当館の庭にも、全国から移植された10種類以上の桜の木があり、日ごろから馴染み深い樹木といえばやはり桜が真っ先に浮かびます。これほど桜に親しみながらも、私はいまだかつて、桜の木にこのような南国風の大きな鳥が憩っているのを目にしたことはありません。本作品の制作地イギリスも、日本より北に位置しますので、同様と思います。つまり、改めてじっくりと見てみると、桜と鳥のこの組み合わせは、とても奇異なのです! そして、ここにこそ、日本の花鳥版画における表現との違いがあるといえるでしょう。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima  思いのほか、食いしん坊です(笑)。

 江戸時代中期以降の日本の花鳥版画は、八代将軍徳川吉宗が推奨した本草学や、博物学の成果を取り入れながら発展しました。ゆえに、丹念な自然観察に基づく表現が多く見られます。それに対し、ヨーロッパの18世紀の磁器の花鳥表現には、写生を逸脱した、幻想的な表現がしばしば登場します。もちろん、イギリスが属するヨーロッパには、古代ギリシャに始まる博物学の伝統がありますので、その正確な自然観察が、とくにルネサンス以降の芸樹作品に大いに活かされてきました。しかし、こと磁器の図柄、とりわけ18世紀のものとなると、そこにあえて幻想的なアレンジをすることが好まれたのです。以前このブログで取り上げたマイセン磁器の図柄に、なんとも奇想天外な想像上の生き物が描かれていたことと同じですね。現実世界ではお目にかかれない動植物やその組み合わせによって、異国情緒あふれる想像上の楽園が表現されているのです。従って本作品は、そのような当時の人々の夢見た世界を今に伝える《セント・ボトル》です。

 では最後に、現代の花鳥表現をご紹介いたします。今回出品したのは、ラリック社の2003年の限定エディションの香水瓶です。

ラリック社、香水瓶《バタフライ》2003年限定エディション、2003年、透明クリスタル、海の見える杜美術館 LALIQUE, BUTTERFLY FLACON, France, 2003,Transparent crystal , Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 本作品では、2匹の蝶が、ダリアの花の蜜を吸う様子がかたどられています。本作品が見事なのは、本体のクリスタルの透明部分と半透明部分を交差させることで、ダリアの花のボリューム感や立体感を強調している点です。しかも本作品では、クリスタルから透ける香水が、あたかも蝶が懸命に吸う芳醇な密そのもののように見える機知に富んだデザインとなっています。

 ぜひ企画展と合わせて、香水瓶の様々な花鳥表現もお楽しみくださいませ。

 ところで本展示に先立って、新たに収蔵された香水瓶の写真撮影を行いました。撮影をご担当下さったのは、前回同様、東京のエス・アンド・ティ・フォト S&T PHOTOの大塚敏幸氏と尾見重治氏です。

 香水瓶は立体物ですので、ちょっとした角度やライティングで作品の表情が一変します。多種多様な道具を駆使しながら、作品の質がもっともよく表れた瞬間を絶妙に捉えて、次々と写真に収めていかれる様に、ひたすら感服いたしました!

両氏による写真に支えられて、今後も香水瓶の魅力をお伝えしていきたいと思います。

岡村嘉子(特任学芸員)

展覧会情報: 百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画 

[会期]2024年6月1日(土)〜2024年7月15日(月・祝) [開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで) [休館日]月曜日(ただし7月15日(月・祝)は開館)

うみもり香水瓶コレクション26 ブシュロン社の香水瓶

こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」と題した、近代京都画壇を代表する日本画家、竹内栖鳳の回顧展を開催しています。そこで香水瓶展示室でも、企画展関連作品を展示しています。こちらの作品です👇

ブシュロン社《香水瓶》フランス、1890-1900年、ダイヤモンド、金、エナメル、海の見える杜美術館 BOUCHERON, PERFUME FLACON, France, C.1890-1900, Diamonds, gold, enamel, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

当館の香水瓶コレクションの内容が、西洋と古代オリエントの容器を中心としたものであることをご存知の方々には、日本画壇の巨匠と当館の香水瓶の関連に首を傾げられる方もおいでになるかもしれません。しかし、栖鳳の画業の軌跡を既にお知りの方は、「ああ、あの体験が」とピンとひらめくものがあるのではないでしょうか。

それは栖鳳の名が、師の幸野楳嶺より与えられた号である「棲鳳」から「栖鳳」へと改められた時期の、あの西欧体験のことです。

ときは1900年、パリ。そこでは、過去の万国博覧会の入場者数を上回る4800万人を記録するほど、人気を博した万博が行われていました。この万博時には、各国パヴィリオン等のある万博会場に加えて、動く歩道や地下鉄など、当時の最先端の技術が会場の内外に登場しました。それは1900年という19世紀最後の年として過去100年を回顧しつつ新たな世紀を展望するという、まさに世紀転換期に相応しい大博覧会であったのです。そのため、その様子をひと目見ようと、ロンドン留学の途上にあった夏目漱石や、スペインのピカソがパリへ見物に訪れていたことも知られています。彼らの日記を調査したピカソの研究者によると、なんでもこの二人は同日に会場を訪れていたとか。ごった返す観客のなか、二人はすれ違っていたのかもしれませんね。

さて、竹内栖鳳のような日本人画家にとっても、1900年パリ万博は非常に大きな出来事でした。なぜなら、それまでの万博とは異なり、彼らの作品が美術館を舞台として、諸外国の美術とともに、純正美術として展示されたからです。それ以前は、たとえ絵画や彫刻が万博に出品された場合にも、磁器や漆器等の工芸品ともに陳列されたために、工芸品の一部として理解されてしまうこともありました。そのことは、19世紀半ば以降――とりわけフランスの場合は1890年代からようやく――装飾美術の地位を見直す動きが起きたとはいえ、17世紀の美術アカデミーの創設以来、「大芸術」とみなされた絵画、彫刻、建築に対し、「小芸術」と位置付けられた装飾美術という序列が歴然と存在してきた西洋と対峙するには、いささか不名誉なことでもあったのです。こうした状況を打開しようと、日本側は1900年パリ万博の事務官長を務めた林忠正や、帝室博物館が中心となって、万博での美術作品展示や日本美術史に関する書籍の出版等を1900年万博に際して行いました。彼らは日本にも西洋の美術史に匹敵する美術史が存在することを世界に知らしめることに尽力したのです。

日本の美術界にとって記念すべきこの万博に合わせて、栖鳳も現地を視察しています。栖鳳は万博会場のあるパリはもちろん、8か国の主要都市を巡り精力的に西洋の画風を研究、吸収しました。この約半年余りの欧州視察旅行の体験が、その後の制作に与えた影響については、今回の「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」展において、豊富な資料とともに詳しく紹介されています。とりわけ、彼が展覧会に出品した唯一の油彩画《スエズ景色》(前期展示)や、ローマの遺跡を題材とした《羅馬之馬》(前期展示)は、この機会にぜひご覧頂きたい作品です。

香水瓶展示室でも、栖鳳に転機をもたらしたこの欧州体験に焦点を当てて、同時期のフランスの香水瓶を関連作品として選びました。そのようなわけで、冒頭のブシュロン社の香水瓶なのです。

さて19世紀を通じフランスでは、香水メーカーから購入した香りを、持ち主が思い思いの容器に詰め替えるのが習わしでした。そのため、持ち主の要望に応えようと、宝石細工師や金銀細工師や高級宝飾師は、煌びやかな容器を競うようにして作り出しました。フランスの高級宝飾メーカー、ブシュロン社が手掛けた本作品も、そうした時代を今に伝えるひとつです。今日のブシュロン社は、パリのヴァンドーム広場に居並ぶ5大ジュエラー、いわゆる「グラン・サンク」のひとつとして、またグラン・サンクのうち最も早い時期の1893年にこの広場に店を構えたことで知られています。本作品は、まさに同社がパレ・ロワイヤルからヴァンドーム広場26番地へ店舗を移転させた時代に制作されたものです。

本作品で使われた技法を見てみましょう。ここでは、非常に手間のかかるエナメル細工「プリカジュール」による赤と青の幾何学模様が、瓶全体に施されています。

このエナメル細工の素晴らしさを、最も実感できるのは、香水瓶の蓋を開けたときです。下の画像をぜひご覧ください👇 

 ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

このように蓋を大きく開けますと、まるでステンドグラスのような装飾が現れます。そのため私は、本作品に触れる度に息を呑まずにはいられません。プリカジュールは、裏から光を当てたときにこそ、美しさが最も際立つのです。かつての持ち主は、馥郁とした香りを放たせる直前に、目からも優雅さを堪能していたのですね。

さらにここでは、壮麗さを高めるかのように、ローズカットのダイヤモンドが瓶の開閉部にあしらわれています。この透き通るような輝きの帯も、19世紀後半に目覚ましい発展を遂げたブシュロン社らしいデザインですね。フレデリック・ブシュロン(1830-1902)が1848年に設立した同社は、1867年のパリ万博で銅賞を受賞した後、1878年のパリ万博にはダイヤモンドとサファイアのネックレスで金賞を、1889年パリ万博には、留め金を使わない斬新なデザインのダイヤモンドのネックレスをはじめ高い技術でグランプリを受賞しました。こうした経歴が物語る通り、同社の見事なジュエリーは発表毎に国内外の多くの人々を虜にしていました。

またダイヤモンド自体に関して言えば、19世紀後半のパリの宝飾品を特徴づけるものでもあります。それには、1871年に南アフリカのケープタウンでダイヤモンド鉱山が発見されたことにより、価格が下落してパリの市場に出回るようになり、ダイヤモンドを配した数多くの宝飾品が制作されるようになったという背景があるのです。

ところで、本作品の制作時期には、フレデリック・ブシュロンが手掛けた見逃せない事業がありました。彼は、それ以前にもブシュロンの工房にて多くの創作デザイナーを育て活躍の場を提供してきましたが、1893年には私財を投じて有望な創作デザイナーに留学奨学金を授与する奨励協会をも設立しました。本作品のように、プリカジュールを効果的に用いて、蓋を開けると小さなステンドグラスのバラ窓がお目見えするという心憎いデザインが生み出された裏には、創業者による教育への尽力があったのですね。

さてブシュロン社ですが、1988年からは香水そのものも取り扱っています。そのなかには本年2024年に誕生20周年となった同社を代表するジュエリー・シリーズ「キャトル」の名を冠した香水もあります。

2015年春に発売された香水「キャトル」は、爽やかさとほんの少しの甘さを兼ね備えた軽やかな香りが気に入って私もすぐに使い始めました。その矢先にパリの町中で3回ほど、それぞれ見知らぬマダム二人とムッシューひとりに「この香りは、あなたにとってもお似合い!」「この新しい香りは、一体どちらのかしら? とても素敵!」と唐突にご感想をお聞かせ頂きました(フランスだと、こうした唐突なご感想によく遭遇します)。それ以来、すっかり気を良くしまして(笑)、もう何年も春夏に愛用しています。

空き瓶も保管しています。期間限定コフレのボックスの図柄はヴァンドーム広場の鳥瞰図。

キャトルをつけた私にお声がけ下さった方々の物腰や、そのときのあたりの喧騒や乾いた空気、そして晴れた日の陽気な雰囲気等々がキャトルをひと吹きすると脳裏に浮かぶように、香りは様々な記憶――時とともにぼやけたり、忘却の彼方に消えたりしたはずの記憶――を、瞬時に鮮やかに蘇らせてくれます。新緑のなか、花々が咲き誇るこれからの季節に、種々の香りを存分に感じつつ、心楽しい時間を数多く過ごしていきたいものです。

岡村嘉子(特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション 25  古代エジプトの開口の儀式セット

こんにちは。各地から桜の開花の便りが届き始めた今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

海の見える杜美術館の香水瓶展示室は、いつご来館頂いても香りの歴史が俯瞰できるように、古代エジプトから現代までの様々な香りの容器を多数、年代順に陳列しています。

香水瓶展示室の古代エジプト時代のケース

この春、当館所蔵の最古の作品を収めた古代エジプト時代のケースに、新収蔵品の《開口の儀式セット》が加わりましたので、この機会にご紹介いたします!

こちらの作品です👇

《開口の儀式セット》エジプト、古王国時代(第5-6王朝、紀元前2500-2200年)石灰岩、アラバスター、珪岩アルトン・エドワード・ミルズ(1882-1970)旧蔵、海の見える杜美術館蔵。RITUAL SET for the Opening of the Mouth, Egypt, OLD KINGDOM, 5TH-6TH DYNASTY, C. 2500-2200 B.C. Alabaster, limestone, quartzite, Provenance: Alton Edward MILLS collection, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 石灰岩のプレートの上に、儀式で用いられる道具が整然と収められています。それにしても、このタイトル。「開口の儀式」のセットとは、なにやら謎めいていませんか。この儀式は、口に対してだけではなく、目にも行われたために、しばしば「開口・開眼の儀式」と呼ばれています。では一体、誰もしくは何の目や口を開ける儀式だったのでしょうか?――それは死者であり、より詳しく言うとミイラにされた死者、またときに死者を模した彫像でした。つまり開口の儀式とは、死者の埋葬前に行われる葬祭にまつわる儀式のひとつだったのですね。そのなかでもとくに重視された儀式であったと言われています。そのようなわけで、本作品も古王国時代第5―6王朝と推定される墓から発見されたものです。

 興味深いことに、古代エジプトでは、適切な手順を踏んでこの儀式を行えば、たとえ死後であっても現世と同様に食事をし、話し、見て聞くことができると考えられていました。要は、閉じていた口や目がぱっちり開いて、耳や鼻も機能し、命の再生が可能となるとされたのです。ですので、誰かが亡くなるとその子孫は、それを実現させようと、死者に対して「開口の儀式」を神官たちとともに行いました。

この儀式の始まりは古く、かつ長く行われたものでした。少なくとも先王朝時代のナガダ期(紀元前3800-3100年頃)には既に行われ、プトレマイオス朝時代(紀元前332-30年頃)まで続けられたと推測されています。その間、ゆうに約3000年間も行われた可能性があるのですね。このことからも、いかにエジプト人にとって、欠くべからざる儀式であったかがわかります! ナガダ期の文書がのこされていないために、詳細は不明であるものの、先端が魚の尻尾の形をした当時の儀式用ナイフが、儀式の痕跡としてあります。

本作品の制作時期は、先王朝時代に次ぐ古王国時代。この時代には文書において儀式についての言及が見られます。第4王朝のクフ王の時代の文書『開口についての小冊子』には、ミイラではなく死者の彫像に対して行われたと書かれていますし、第5王朝に建造された最古のピラミッドとして名高い、かのサッカラのウナス王のピラミッド(第5王朝)にも、玄室の壁面に書かれたピラミッド・テキストにこの儀式が言及されています。ただ残念なのは、当時の言及は、続く中王国時代のコフィン・テキストにおける言及と同様に、いずれも部分的であるため、儀式の全体像を把握することが困難です。そのため、本作品の制作時期における開口の儀式について知ろうとしても、後世の研究者たちが、新王国時代の文書と図像をもとに推測したものの域を出ないのが現状です。

 さて、香りの歴史を考える上で、この儀式が見逃せないのは、様々な香りが用いられた儀式であったからです。以前のブログ(第18回 香水散歩)で、ミイラづくりには香りが不可欠であったとご紹介しましたが、香りの使用に長けたエジプト人は、完成したミイラや、死者の彫像、さらにはそれに捧げる供物に対しても香りを使っていました。

開口の儀式は、清めや、生贄や開口・開眼の道具の提示、そして献酒をはじめとする全75の段階で構成されています。その各段階をひとつずつ丁寧に辿っていきますと、要所要所で香りが重要な役割を担っていたことがわかります。

例えば、死者の彫像やミイラを開口する下準備としてなされる清めでは、様々な種類の水で清められた後に、セム神官〔葬祭を司る神官〕が玉状にしたテレバントの樹液を持ち、彫像やミイラの周りを4周します。ここではテレバントの香りを彫像やミイラに提示することが、さらなる清めとなったのです。また下準備の仕上げには別の香りが焚かれて、彫像やミイラに香り付けがなされました。

 儀式の各段階には、上エジプトと下エジプトそれぞれに向けた儀式がありました。そのうち下エジプトのための儀式では、甘い香りの樹脂を燻蒸した煙が使われました。それは、香煙で頭部を包むとエネルギーが得られると考えられていたからです。

 またミイラや彫像に香りを直接塗ることも重視されました。セム神官は香油や香膏の塗布を行いました。この儀式の最中には、セム神官とは別の神官たちが、セム神官の行為の効果を高めるための朗誦を行っていたと考えられています。面白いことにその朗唱の文句には、眼や顔に美顔料が塗られたという言及もあります。命の再生を願う開口の儀式であるだけに、目や口、鼻、耳など感覚が集中する顔への働きかけが大切だったのですね。

ちなみに、ここで使われた香料は、現在判明しているだけでも、古王国時代には7種類、新王国時代以降には10種類もあったとされています。ただし各成分の詳細は判明していません。というのも、たとえ同じ香りの成分であっても、当時は儀式に応じて名称を変化させていたために、今日では使用香料の特定が難しいのです。しかもこの段階に関する画像も存在しておらず、いまだ謎に包まれた部分も多くあります。

 儀式では他にも、アムシールという長い柄のついた香炉を手に、ミイラや死者の彫像の周りを巡りながら香をくゆらせたり、供物等に香りを付けたりと、命を再生させるために、香りが様々に用いられました。発掘調査と考古学研究が進んで、いつの日か、この儀式で使用された香りがより詳しく判明することを願わずにはいられません。

 さて本作品に話を戻しますと、サイズは23×15.8㎝と意外と小さいものです。いわばミニチュアサイズですね。ミイラや彫像の口や目を開くために使われた儀式用ナイフも全長約14㎝で、思いのほか細いものです。

この儀式用ナイフですが、下の画像でわかる通り、魚の尻尾の形をした先端が、全く鋭利ではありません👇。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

それは、ナイフとはいえ、この儀式においては実際に刃で口や目に切り込みを入れていたわけではなかったからです。余談ですが、私はこの事実を知って、非常に安堵しました! というのも、ミイラとなった死者の開口や開眼に使われたナイフと聞いて、外科手術でメスが使われる場面を即座に想像し、恐怖で震えていたもので(笑)。儀式では、この魚の尻尾の形のナイフ〔ペシュ=ケシュ・ナイフ〕の他にも手斧なども使われましたが、もちろん血が滴るようなことは行われず、単にそれらをミイラや彫像に提示したり、それらでミイラの目や口に触れたり――きっと優しく撫でる感じでしょう……そうであって欲しいです!!――していたようです。

最後にナイフの両脇に置かれた清めと塗布の容器をよく見てみますと、あらあら不思議。容器は、単に容器の形をしているだけで、水や香膏を入れる穴がほとんどありません! この画像のような、上部にごく浅いくぼみがあるだけです。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

これは、これらの道具が開口の儀式の象徴的役割を果たしているにすぎなかったからです。実際には別途用意された水差しや香炉やカップ等で、清めや香油等の塗布がなされたと考えられています。このミニチュアサイズの開口の儀式セットと形状が酷似したものは、ニューヨークのメトロポリタン美術館(古王国時代第5-6王朝のもの)やロンドンの大英博物館(第6王朝のもの)にも所蔵されています。ですので、当館所蔵の作品との比較なども今後行っていきたいと思っています。

さて、当館の《開口の儀式セット》は、スイスで暮らしたイギリス人で、著名なエジプト美術コレクターのアルトン・エドワード・ミルズ氏(1882-1970)の旧蔵品です。彼は20代のときに木綿会社の仕事をきっかけにエジプトに移住して以来、エジプト学に魅せられ、エジプト美術の一大コレクションを築いた人物でした。

当館の庭いっぱいに桜が咲き誇り、自然の旺盛な生命力を実感できるこの季節、ぜひ香水瓶展示室にて、命の再生への願いを香りに込めた古代エジプト人に思いを馳せて頂けたら幸いです。

岡村嘉子(特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション 24 イギリスの巡礼用水筒型セント・ボトル

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」と題した、旅をテーマとする前近代から近代にかけての日本絵画の展覧会を開催しています。

 この展覧会にちなんで、香水瓶展示室では、旅に関する香水瓶を数点ご紹介しています。例えば、こちらの17世紀イギリスの銀製のセント・ボトルです👇

《セント・ボトル》イギリス、1660-70 年頃、銀、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1660-70 , silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 皆様は、この器形をご覧になられて何をご連想なさるでしょうか? 一見したところでは、今が旬の洋ナシのようですね。たしかに洋ナシ型は、17世紀、18世紀に数多く使われた器形でもあります。ですが、より厳密にいうと、本作品の器形は、巡礼者が聖地へ赴く際に携えた水筒という、比較的珍しい形をしています。そして、この形と図柄の調和こそが、本作品の価値を高める重要な要素なのです。ですので、この機会に詳しくご紹介いたします!

 瓶を覆う唐草模様にしばし目を凝らしていると、思いがけないところから、二つの像が浮かび上がってまいります。ひとつは、ギリシャ神話の風神の主、アイオロスです。こちらの部分ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 風を自在に操るこの神は、ここでも目を見開き、頬を膨らませて、お得意の風を力強く吹かせているのがわかります。なにしろアイオロスは、西風のゼピュロスや北風のボレアース等の風の神々の頂点に君臨する風神の主です。アイオロスをして吹き飛ばせないものなどありません。

 そしてもうひとつの像は、このアイオロスに比べると、打って変わってほんわか、のほほ~んとした印象なのですが……👇。宗教画などに登場する愛らしい小さな天使です。アンディ・ウォーホルが商業デザイナー時代に描いた気ままな天使たちを彷彿させる線描ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 唐草模様の間に、あまり目立たない形で刻まれたこの2つの像には、どのような意味が込められているのでしょうか。それには、時代背景が深く関係していると先行研究において指摘されています。

 この香水瓶の制作時期と重なる1665年のイギリスでは、ロンドンで腺ペストが猛威をふるっていました。いわゆる「ロンドンの大疫病」の名で知られる、イギリス最後の腺ペストの流行です。それは住民の2割以上の死者を出し、一時は多くの王侯貴族や市民たちがロンドンから避難するほどの規模でした。

 この疫病流行に際し1665年のロンドンに流布した広告は、香りの歴史からすると、とても興味深いものです。というのもそこでは、腺ペストから身を守る方法として、芳香酢の蒸気やローズ水やその他の香料の噴出が推奨されているのです。実際に、この広告以外の資料においても、感染拡大の結果として、大量の芳香酢で体をマッサージしたり、室内に漂わせたり、街路に撒かれたりしたことがわかっています。

 以前、フランスの例として、18世紀のガラス製携帯用香水瓶においても見ましたが、当時のヨーロッパでは、迫りくるペストの瘴気から身を守るために、香料がいかに必要とされていたかがわかりますね。

 以上のような時代背景を踏まえて、本作品を再度見てみますと、アイオロスの姿には、勢いのある神聖な風で瘴気を遠ざけたいとの願いがうかがえます。また葉叢に戯れる無邪気な天使の姿は、香りに満ちた自然が人間にもたらす恩恵を謳うかのようではないでしょうか。そして、巡礼時の水筒を模した器形には、ペストが様々に変異しながら周期的に流行するイギリスから、遠く離れた聖地への思いが込められているように思えるのです。

 感染症流行下に、かつて誰かが胸に描いた、追憶の、もしくは想像上の巡礼の旅。コロナ前に本作品を見ていたときには真に感知しえなかったその切実さを、今になって感じています。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima I学芸員撮影。

 本作品は、現在の展示ケースの中で、同時代のドイツやオランダのポマンダーやヴェネツィアのラッティモ・ガラスの香水瓶、フランスのルイ14世の弟のオルレアン公フィリップ1世お抱えのガラスの名匠、ベルナール・ペロ作の人面をかたどった香水瓶という海杜コレクションきっての傑作とともに公開されています。ぜひ17世紀のヨーロッパ各国が誇った高い技術と、地方色豊かなデザインや素材をお楽しみくださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

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企画展示室情報:芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー

[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)

[休館日]月曜日(ただし9月18日(祝)、10月9日(祝)は開館)、9月19日(火)、10月10日(火)

[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料

*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

[タクシー来館特典]タクシーでご来館の方、タクシー1台につき1名入館無料

*当館ご入場の際に当日のタクシー領収書を受付にご提示ください。

[主催]海の見える杜美術館

[後援]広島県教育委員会、廿日市市教育委員会

「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展、後期展示開催中です

10月に入ってようやく涼しくなり、杜の遊歩道の木々も少しずつ色づいてきました。

秋といえば行楽のシーズン、紅葉狩りや秋の味覚を味わいにお出かけになる方も多いのではないでしょうか。

今年のように猛暑が続くとなかなか四季を感じることが難しくなってしまいますが、四季のある日本では、古来より、季節や時の移ろいが多くの芸術作品で表現されてきました。絵画作品にも、春といえば梅や桜、夏は涼が感じられる滝や川の流れ、秋は鮮やかに色づいた紅葉、冬は雪を頂いた山といった季節を表すモチーフが数多く見うけられます。

現在開催中の「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展でも、秋を感じられる作品がいくつか展示されています。

今回はその中でも、本展覧会が初公開となる《西行物語絵巻》をご紹介します。

《西行物語絵巻》は平安時代末期の著名な歌人、西行(1118-1190)の和歌やエピソードをまとめた『西行物語』(13世紀中頃成立)を絵巻に仕立てたものです。《西行物語絵巻》は3系統に大別できますが、本作品は明応9年(1500)に原本が制作されたとされる采女本(うねめぼん)の系統に連なる江戸時代の作品です。

采女本には各地の名所歌枕の景色とそれらを連想させる景物が主として描かれており、西行の行状だけでなく、古来より詠み継がれてきた歌枕への関心が見てとれます。

西行に関する物語は謡曲『西行桜』『遊行桜』『江口』の題材にもなり、江戸時代には多くの采女本系《西行物語絵巻》が作られました。

各地の名所歌枕に西行にまつわるエピソードが残っていることからも、旅に出かけることが困難であった時代に歌枕を訪ね歩く西行は、歌詠みたちだけでなく多くの人々の憧れだったことがうかがえます。

《西行物語絵巻》(部分・猿沢池)2巻のうち巻下、江戸時代

こちらは、奈良の興福寺に参詣した西行が猿沢池のほとりで、この池にかつて身を投げた采女(うねめ、奈良時代の天皇に仕えた女官)の悲恋を思い出し和歌を詠んだ場面です。

水辺には笠を被った旅姿の西行が風に吹かれながらたたずんでいます。

画面手前には鮮やかに色づいた紅葉の木、向こう側にはきょろりとした目元が愛らしい鹿が5頭描かれています。

鹿の毛並みは丁寧に描かれ、紅葉の葉はその色づきの移ろいを朱線の濃淡や色の塗り方をかえて表現されており、絵師の細やかな気配りが感じられます。

実は、詞書にも、西行がこの場面で詠んだ歌にも、鹿や紅葉という文言はありません。

藤原氏の氏神である春日神の使いである鹿は、神仏習合思想のもと、同じく藤原氏の氏寺である興福寺、そして奈良を表すモチーフとして本作品には描かれています。

また、繁殖期の秋に鳴く牡鹿は、恋しい人を想う恋心とともに万葉集の時代から歌に詠まれ、秋を示すモチーフとして表現されてきました。当初は萩などの秋草とともに歌に詠まれることが多かった鹿は、時代が下がるにつれて、同じく秋を示す紅葉との取り合わせが定着し、本作品でも紅葉が描き添えられているのではないかと考えられます。

本作品の実直な筆遣いによる薄墨の線や、さっと刷かれた淡い色彩による空間や山水の表現には、平明ながらも西行の和歌が持つもの悲しさがよく表れており、しみじみとした味わいがあります。

西行の和歌とともにご鑑賞いただければと思います。

《西行物語絵巻》(部分・伊勢)2巻のうち巻下、江戸時代

この他にも、小松均《石廊崎》や池田遙邨《佐夜中山之富嶽》《深耶馬渓》《ぐるりとまはって枯山》など、秋の訪れを感じさせてくれる作品をご覧いただけます。

「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展は10月22日(日)までです。

うみもりテラスからの日本三景・安芸の宮島の眺めとともに、美術館での紅葉狩りをぜひお楽しみください。

芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー、開催中です

現在、海の見える杜美術館では「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」展を開催しています。

本展は、古来より芸術家たちのインスピレーションの源であった「旅」に注目します。彼らは各地の名所旧跡を旅して様々な風物に接し、旅先での体験を自身の作品制作に活かしてきました。その様相を当館のコレクションでたどっていきます。

今回は江戸時代の巻子作品、与謝蕪村の《奥の細道画巻》をご紹介します。

俳聖・松尾芭蕉(1644~1694)の名著、俳諧紀行文『おくのほそ道』を、絵師であり俳諧師でもある与謝蕪村(1716~1784)が全文を巻子に書き写し、いくつかの場面に絵をつけるという趣向の作品です。

蕪村といえば、京都を代表する絵師の一人であり、また俳諧の宗匠としてもよく知られた存在です。絵と俳諧の両方を極めて、両者を融合させた「俳画芸術」を完成させたことが知られています。

本作が作られたのは安永7年(1778)頃ですが、この時期(18世紀後半頃)は、俳句を詠む俳諧師たちの間で、芭蕉の俳諧芸術を復興させようという運動が大いに盛り上がっている時期でした。蕪村も俳諧宗匠として蕉風復興運動を積極的に盛り上げていて、奥の細道をテーマにした制作もその一環といえます。

当館所蔵作品の他に、京都国立博物館に2点、逸翁美術館に1点、同様の巻子が現存しており、山形県美術館には屏風形式の作品も伝わっています。蕪村自身が「是等は最早愚老生涯の大業」と自負しており、芭蕉を顕彰する大仕事だという意欲がうかがえます。


与謝蕪村《奥の細道画巻》(部分・那須野)
1巻 江戸時代、安永7年(1778)(会期中巻替あり・前期)

さて、こちらは巻子の前半部分、江戸を出発した芭蕉と曾良が、那須野(現在の栃木県北部)にある黒羽というところを訪れた場面です。二人がある村で馬を借りたところ、村の幼い子供たちが二人、馬のあとをついてきたそうです。

なんとも愛らしい様子の二人は兄妹のように見えます。
何かの遊びの途中だったのか、棒きれを持った少年と、その後ろを一生懸命追いかける少女。
少女は「かさね」という名前でした。
名前までもが可憐な彼女の様子を感慨深く思い、曾良が有名な句を詠んでいます。

かさねとは八重撫子(やえなでしこ)の名(な)成(なる)べし 
(かさねとはとても可愛らしい名前だが、花に例えるなら花びらを八重に重ねた八重撫子だろう)

蕪村は本作の制作にあたり、このエピソードを『おくのほそ道』に取り上げた芭蕉の感動を最大限に汲み取って、幼い子供たちの可愛らしい無邪気な様子を丁寧に描いています。芭蕉が残した名文学を、いかに解釈して、詩と書と画で表現するか。俳画芸術の完成者として知られた蕪村の力量が光ります。

《奥の細道画巻》は全長18メートルを超える長大な巻子で、残念ながら当館展示室のケース内では全てを一度に展示することができません。(一番長いケースで14メートルはあるのですが、それでも足りません)
そのため、会期中に巻替えを行い、9月24日(日)までは画巻の前半部分、9月26日(火)からは後半部分をご覧いただけます。

ぜひ巻頭から巻末までお見逃しなくご覧ください。