うみもり香水瓶コレクション 28  食材をモティーフにした香水瓶

こんにちは。前回は「チューリップに蝶」と「サクランボに鳥」が表現された作品をご紹介しましたが、今回は「エンドウマメに小鳥」が組み合わされた作品等をご紹介します。こちらは、ただいま企画展示室で行われている、飲食をテーマにした展覧会「美酒佳肴 ――絵で味わう美きもの――」に合わせて、香水瓶展示室に陳列している作品です。

 正直なところ、本作品は展示室で陳列する際に、いささか苦労します。というのも、形状がエンドウマメそっくりに作られているため、そもそも直立する形をしていないからです。そのため、裏側からしっかりと支える専用の台などを駆使して陳列しています。しかし、この香水瓶らしからぬ形状ゆえに、遊び心が刺激され、愛着が湧く作品といえます。可愛い上に、機知に富んでいて楽しいのです!

 例えば、下部に顕著に見られる、丸い膨らみ。表面のこの凹凸は、いかにも莢のなかに丸くふっくらとしたマメがあるかのような、巧みな表現です。

↑ この部分です!©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 しかも、ただ単に実物に似せるのではなく、エンドウマメの愛らしい花を描き、周囲を丹念に彫った金で縁取るという、優美で気品ある仕上げがなされています。さらに栓には、純白の小鳥を配して、「マメをついばむ鳥」という物語性まで付け加えられています。

 この小鳥は、イギリスの名窯、チェルシー磁器工房が手掛けています。つまり本作品の洗練された愛らしさは、金細工、エナメル〔七宝〕細工、磁器という構成要素全てにおける、卓越した質によるところも大きいのです。

 また主題が、フランスで「緑色のきれいな真珠」とも称されるエンドウマメであることも、本作品が品格を感じさせる理由でしょう。かのルイ14世(1638-1715)は、エンドウマメを愛し、このマメの流行を引き起こしました。当時は、料理はもちろんのこと、ドレスなどの衣服にエンドウマメの図柄が用いられました。従って、18世紀半ばにイギリスで製作された本作品は、おそらくこの流行の影響を受けていると思われます。

 エンドウマメの歴史は古く、すでに1万年前から存在していたともいわれています。少なくとも古代エジプトや古代ギリシャには、食用とされた記録があり、世界最古の農作物のひとつと考えられています。中世まではエンドウマメを乾燥させて食べていましたが、以後は様々な状態で使われるようになったことで、世界各地の美味しい料理の食材となっています。思いつくままに挙げてみても、ポタージュにサラダにお肉料理の付け合わせに、あるいは中華料理にも欠かせない存在ですね。

 日本ならではのエンドウマメの使い方といえば、甘党の私としては、うぐいす餡や甘納豆が真っ先に浮かびます。日本における本格的なエンドウマメの栽培は、明治以降のようですが、既に9~10世紀には遣唐使によって中国から伝わったことがわかっています。

 このようにエンドウマメが古今東西で愛されているのは、やはり風味豊かでとろけるような味ゆえのことでしょう。エンドウマメ特有の味のまろやかさを、本作品は繊細な色彩と流麗な花模様、そして精緻な金細工によって余すところなく表現しています。

 さて香水瓶展示室では、松かさをかたどったこちらの作品も展示しています👇

 アール・ヌーヴォーを代表する芸術家であり宝飾品製造者のリュシアン・ガイヤール(Lucien Gaillard 1861-1942)が手掛けた作品です。栓にはプレス成形した松かさが、曇りガラスの瓶にはガラスと茶色パチネで立体感を出した松かさの帯飾りが施されています。詩情をたたえた美しさとでもいうのでしょうか、この静かな佇まいに、いつもはっと息をのみます。

 ところで、古代の香りについて調べる際に、私は古代ギリシャの名著、ディオスコリデス(Pedanius Dioscorides)の『薬物誌』をしばしば紐解きます。1世紀に書かれた本書には、松かさについても詳しい記述があります。それによると、きれいにした松かさを食べたり、干しブドウ酒とキュウリの種とともに服用したりすると、膀胱や腎臓の周囲の疝痛を和らげる、とか、新鮮な松かさを丸ごと粉砕して干しブドウ酒で煮たものを毎日同量摂取すると、慢性の咳に効果がある等々、様々な効能が記されています。

 ただいくら効き目があるとはいえ、今の時代に、洗った松かさをバリバリと召し上がられる方(想像するだけで、ちょっとおののきます)は稀有と存じます。しかし、松かさのなかの松の実でしたら、はるかに身近な存在ですね。ジェノヴェーゼに錦松梅にと、洋の東西を問わず数々の料理で日頃口にする食材です。ディオスコリデスはこの松の実に関しても、体を温める作用や、咳や胸部の疾患への効能を詳述しています。

 本作品は、食欲すらも一瞬忘れそうな静謐な香水瓶ではありますが、滋味深い松の実の造形ゆえに、飲食がテーマとなればやはり欠かすことのできない作品です。

岡村嘉子(特任学芸員)

追記:今回のエンドウマメに関する記述には、フランスの友人で文化ジャーナリストのジャン=リュック・トゥラ=ブレイス(Jean-Luc Toula-Breysse)の著作、Les nouilles coréennes se coupent aux ciseaux : Miscellanées gourmandes et voyageuses を参照しました。本書には、丁寧で読みやすい日本語訳も出版されています 👇

Photo ©Yoshiko Okamura

 「エンドウ」や「塩」をはじめとする、本書に収録された食材の特徴や調理法、使われ方や逸話は、世界の歴史や多様な文化についての理解を深めてくれるものです。博覧強記のジャン=リュックでなければ決して完成しえなかった大著です。

邦訳:ジャン=リュック・トゥラ=ブレイス『イラストで見る 世界の食材文化誌百科』土居佳代子訳、原書房、2019年12月。

原書:Jean-Luc Toula-Breysse, Les nouilles coréennes se coupent aux ciseaux : Miscellanées gourmandes et voyageuses, Arthaud, Paris, 2017.

うみもり香水瓶コレクション27   香水瓶の花鳥表現

《セント・ボトル》イギリス、チェルシー、1758年頃、軟質磁器、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1758, Soft paste porcelain, gilt metal, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 歌川広重 《牡丹に蝶》横大判、天保3-4年 (1832-33)頃、丸屋甚八、海の見える杜美術館 

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画 」と題した、当館が所蔵する近世から近代にかけての花鳥版画を集めた展覧会を開催しています。それに合わせて、香水瓶展示室でも花鳥表現による香水瓶を展示しています。

 例えば、企画展出品作の歌川広重《牡丹に蝶》にならって、「チューリップに蝶」と称したくなる上の画像の作品。こちらは、18世紀半ばのイギリス、チェルシー磁器工房による作品です。ヨーロッパでは、こうした花に誘われた蝶の表現が、香りの優雅さを造形で伝えるために使われました。たしかに本作品も、磁器の鮮やかな色調もあいまって、気品ある瑞々しい花の香りが漂ってくるかのような作品です。

 ところで、抽象表現、具象表現、細密表現等々、世には様々な表現がありますが、この「花鳥表現」に私は、理屈抜きでとても惹かれます。静かな展示室でその表現に行き合うと、動植物のかすかな息遣いをふいに耳にした気がして、立ち止まらずにはいられません。そしてしばし作品を見つめていると、自分自身の呼吸も穏やかに整っていくのを感じます。それゆえ、私にとっては平穏さをもっとも味わえる表現の一つです。

 そのため、この度、香水瓶と花鳥版画を組み合わせることを(香水瓶展示室のある1階と企画展示室の2-3階と、展示室自体は離れていますが)、個人的に非常に楽しんでいます! とりわけ当館は、浮世絵における花鳥画のジャンルを確立した歌川広重の国内最大規模の花鳥版画コレクションを有します。ですので、いわば傑作ぞろいの展示室となっているため、好奇心が刺激され、日欧の花鳥表現をあれこれ比較してみたくなるのです。

 冒頭の「チューリップに蝶」に限らず、もともと自然に基づくテーマを好むイギリスでは、香水瓶にも多くの花鳥表現が見られます。とくに18世紀は、動植物をかたどった繊細な色調の磁器製香水瓶が、盛んに製造されました。

 こちらの作品は、桜の木の上でサクランボをついばむ鳥を表現したチェルシー磁器工房のセント・ボトルです。

《セント・ボトル》イギリス、チェルシー、1755-58年、軟質磁器、金、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, 1755-58, Soft paste porcelain, gold, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 しかしながら、どうしても気になってしまうのは、この鳥の種類です。オウムに似た色鮮やかな尾長の鳥で、南国を思わせますね。体長もかなりありそうです。一体、どのような鳥なのでしょう?

 多くの国民が春の風物詩として桜を愛するこの日本では、町でも野でも山でも、至る所で桜を目にする機会に恵まれます。当館の庭にも、全国から移植された10種類以上の桜の木があり、日ごろから馴染み深い樹木といえばやはり桜が真っ先に浮かびます。これほど桜に親しみながらも、私はいまだかつて、桜の木にこのような南国風の大きな鳥が憩っているのを目にしたことはありません。本作品の制作地イギリスも、日本より北に位置しますので、同様と思います。つまり、改めてじっくりと見てみると、桜と鳥のこの組み合わせは、とても奇異なのです! そして、ここにこそ、日本の花鳥版画における表現との違いがあるといえるでしょう。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima  思いのほか、食いしん坊です(笑)。

 江戸時代中期以降の日本の花鳥版画は、八代将軍徳川吉宗が推奨した本草学や、博物学の成果を取り入れながら発展しました。ゆえに、丹念な自然観察に基づく表現が多く見られます。それに対し、ヨーロッパの18世紀の磁器の花鳥表現には、写生を逸脱した、幻想的な表現がしばしば登場します。もちろん、イギリスが属するヨーロッパには、古代ギリシャに始まる博物学の伝統がありますので、その正確な自然観察が、とくにルネサンス以降の芸樹作品に大いに活かされてきました。しかし、こと磁器の図柄、とりわけ18世紀のものとなると、そこにあえて幻想的なアレンジをすることが好まれたのです。以前このブログで取り上げたマイセン磁器の図柄に、なんとも奇想天外な想像上の生き物が描かれていたことと同じですね。現実世界ではお目にかかれない動植物やその組み合わせによって、異国情緒あふれる想像上の楽園が表現されているのです。従って本作品は、そのような当時の人々の夢見た世界を今に伝える《セント・ボトル》です。

 では最後に、現代の花鳥表現をご紹介いたします。今回出品したのは、ラリック社の2003年の限定エディションの香水瓶です。

ラリック社、香水瓶《バタフライ》2003年限定エディション、2003年、透明クリスタル、海の見える杜美術館 LALIQUE, BUTTERFLY FLACON, France, 2003,Transparent crystal , Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 本作品では、2匹の蝶が、ダリアの花の蜜を吸う様子がかたどられています。本作品が見事なのは、本体のクリスタルの透明部分と半透明部分を交差させることで、ダリアの花のボリューム感や立体感を強調している点です。しかも本作品では、クリスタルから透ける香水が、あたかも蝶が懸命に吸う芳醇な密そのもののように見える機知に富んだデザインとなっています。

 ぜひ企画展と合わせて、香水瓶の様々な花鳥表現もお楽しみくださいませ。

 ところで本展示に先立って、新たに収蔵された香水瓶の写真撮影を行いました。撮影をご担当下さったのは、前回同様、東京のエス・アンド・ティ・フォト S&T PHOTOの大塚敏幸氏と尾見重治氏です。

 香水瓶は立体物ですので、ちょっとした角度やライティングで作品の表情が一変します。多種多様な道具を駆使しながら、作品の質がもっともよく表れた瞬間を絶妙に捉えて、次々と写真に収めていかれる様に、ひたすら感服いたしました!

両氏による写真に支えられて、今後も香水瓶の魅力をお伝えしていきたいと思います。

岡村嘉子(特任学芸員)

展覧会情報: 百花百鳥 うみもり・うるわしの花鳥版画 

[会期]2024年6月1日(土)〜2024年7月15日(月・祝) [開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで) [休館日]月曜日(ただし7月15日(月・祝)は開館)

うみもり香水瓶コレクション26 ブシュロン社の香水瓶

こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」と題した、近代京都画壇を代表する日本画家、竹内栖鳳の回顧展を開催しています。そこで香水瓶展示室でも、企画展関連作品を展示しています。こちらの作品です👇

ブシュロン社《香水瓶》フランス、1890-1900年、ダイヤモンド、金、エナメル、海の見える杜美術館 BOUCHERON, PERFUME FLACON, France, C.1890-1900, Diamonds, gold, enamel, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

当館の香水瓶コレクションの内容が、西洋と古代オリエントの容器を中心としたものであることをご存知の方々には、日本画壇の巨匠と当館の香水瓶の関連に首を傾げられる方もおいでになるかもしれません。しかし、栖鳳の画業の軌跡を既にお知りの方は、「ああ、あの体験が」とピンとひらめくものがあるのではないでしょうか。

それは栖鳳の名が、師の幸野楳嶺より与えられた号である「棲鳳」から「栖鳳」へと改められた時期の、あの西欧体験のことです。

ときは1900年、パリ。そこでは、過去の万国博覧会の入場者数を上回る4800万人を記録するほど、人気を博した万博が行われていました。この万博時には、各国パヴィリオン等のある万博会場に加えて、動く歩道や地下鉄など、当時の最先端の技術が会場の内外に登場しました。それは1900年という19世紀最後の年として過去100年を回顧しつつ新たな世紀を展望するという、まさに世紀転換期に相応しい大博覧会であったのです。そのため、その様子をひと目見ようと、ロンドン留学の途上にあった夏目漱石や、スペインのピカソがパリへ見物に訪れていたことも知られています。彼らの日記を調査したピカソの研究者によると、なんでもこの二人は同日に会場を訪れていたとか。ごった返す観客のなか、二人はすれ違っていたのかもしれませんね。

さて、竹内栖鳳のような日本人画家にとっても、1900年パリ万博は非常に大きな出来事でした。なぜなら、それまでの万博とは異なり、彼らの作品が美術館を舞台として、諸外国の美術とともに、純正美術として展示されたからです。それ以前は、たとえ絵画や彫刻が万博に出品された場合にも、磁器や漆器等の工芸品ともに陳列されたために、工芸品の一部として理解されてしまうこともありました。そのことは、19世紀半ば以降――とりわけフランスの場合は1890年代からようやく――装飾美術の地位を見直す動きが起きたとはいえ、17世紀の美術アカデミーの創設以来、「大芸術」とみなされた絵画、彫刻、建築に対し、「小芸術」と位置付けられた装飾美術という序列が歴然と存在してきた西洋と対峙するには、いささか不名誉なことでもあったのです。こうした状況を打開しようと、日本側は1900年パリ万博の事務官長を務めた林忠正や、帝室博物館が中心となって、万博での美術作品展示や日本美術史に関する書籍の出版等を1900年万博に際して行いました。彼らは日本にも西洋の美術史に匹敵する美術史が存在することを世界に知らしめることに尽力したのです。

日本の美術界にとって記念すべきこの万博に合わせて、栖鳳も現地を視察しています。栖鳳は万博会場のあるパリはもちろん、8か国の主要都市を巡り精力的に西洋の画風を研究、吸収しました。この約半年余りの欧州視察旅行の体験が、その後の制作に与えた影響については、今回の「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」展において、豊富な資料とともに詳しく紹介されています。とりわけ、彼が展覧会に出品した唯一の油彩画《スエズ景色》(前期展示)や、ローマの遺跡を題材とした《羅馬之馬》(前期展示)は、この機会にぜひご覧頂きたい作品です。

香水瓶展示室でも、栖鳳に転機をもたらしたこの欧州体験に焦点を当てて、同時期のフランスの香水瓶を関連作品として選びました。そのようなわけで、冒頭のブシュロン社の香水瓶なのです。

さて19世紀を通じフランスでは、香水メーカーから購入した香りを、持ち主が思い思いの容器に詰め替えるのが習わしでした。そのため、持ち主の要望に応えようと、宝石細工師や金銀細工師や高級宝飾師は、煌びやかな容器を競うようにして作り出しました。フランスの高級宝飾メーカー、ブシュロン社が手掛けた本作品も、そうした時代を今に伝えるひとつです。今日のブシュロン社は、パリのヴァンドーム広場に居並ぶ5大ジュエラー、いわゆる「グラン・サンク」のひとつとして、またグラン・サンクのうち最も早い時期の1893年にこの広場に店を構えたことで知られています。本作品は、まさに同社がパレ・ロワイヤルからヴァンドーム広場26番地へ店舗を移転させた時代に制作されたものです。

本作品で使われた技法を見てみましょう。ここでは、非常に手間のかかるエナメル細工「プリカジュール」による赤と青の幾何学模様が、瓶全体に施されています。

このエナメル細工の素晴らしさを、最も実感できるのは、香水瓶の蓋を開けたときです。下の画像をぜひご覧ください👇 

 ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

このように蓋を大きく開けますと、まるでステンドグラスのような装飾が現れます。そのため私は、本作品に触れる度に息を呑まずにはいられません。プリカジュールは、裏から光を当てたときにこそ、美しさが最も際立つのです。かつての持ち主は、馥郁とした香りを放たせる直前に、目からも優雅さを堪能していたのですね。

さらにここでは、壮麗さを高めるかのように、ローズカットのダイヤモンドが瓶の開閉部にあしらわれています。この透き通るような輝きの帯も、19世紀後半に目覚ましい発展を遂げたブシュロン社らしいデザインですね。フレデリック・ブシュロン(1830-1902)が1848年に設立した同社は、1867年のパリ万博で銅賞を受賞した後、1878年のパリ万博にはダイヤモンドとサファイアのネックレスで金賞を、1889年パリ万博には、留め金を使わない斬新なデザインのダイヤモンドのネックレスをはじめ高い技術でグランプリを受賞しました。こうした経歴が物語る通り、同社の見事なジュエリーは発表毎に国内外の多くの人々を虜にしていました。

またダイヤモンド自体に関して言えば、19世紀後半のパリの宝飾品を特徴づけるものでもあります。それには、1871年に南アフリカのケープタウンでダイヤモンド鉱山が発見されたことにより、価格が下落してパリの市場に出回るようになり、ダイヤモンドを配した数多くの宝飾品が制作されるようになったという背景があるのです。

ところで、本作品の制作時期には、フレデリック・ブシュロンが手掛けた見逃せない事業がありました。彼は、それ以前にもブシュロンの工房にて多くの創作デザイナーを育て活躍の場を提供してきましたが、1893年には私財を投じて有望な創作デザイナーに留学奨学金を授与する奨励協会をも設立しました。本作品のように、プリカジュールを効果的に用いて、蓋を開けると小さなステンドグラスのバラ窓がお目見えするという心憎いデザインが生み出された裏には、創業者による教育への尽力があったのですね。

さてブシュロン社ですが、1988年からは香水そのものも取り扱っています。そのなかには本年2024年に誕生20周年となった同社を代表するジュエリー・シリーズ「キャトル」の名を冠した香水もあります。

2015年春に発売された香水「キャトル」は、爽やかさとほんの少しの甘さを兼ね備えた軽やかな香りが気に入って私もすぐに使い始めました。その矢先にパリの町中で3回ほど、それぞれ見知らぬマダム二人とムッシューひとりに「この香りは、あなたにとってもお似合い!」「この新しい香りは、一体どちらのかしら? とても素敵!」と唐突にご感想をお聞かせ頂きました(フランスだと、こうした唐突なご感想によく遭遇します)。それ以来、すっかり気を良くしまして(笑)、もう何年も春夏に愛用しています。

空き瓶も保管しています。期間限定コフレのボックスの図柄はヴァンドーム広場の鳥瞰図。

キャトルをつけた私にお声がけ下さった方々の物腰や、そのときのあたりの喧騒や乾いた空気、そして晴れた日の陽気な雰囲気等々がキャトルをひと吹きすると脳裏に浮かぶように、香りは様々な記憶――時とともにぼやけたり、忘却の彼方に消えたりしたはずの記憶――を、瞬時に鮮やかに蘇らせてくれます。新緑のなか、花々が咲き誇るこれからの季節に、種々の香りを存分に感じつつ、心楽しい時間を数多く過ごしていきたいものです。

岡村嘉子(特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション 25  古代エジプトの開口の儀式セット

こんにちは。各地から桜の開花の便りが届き始めた今日この頃、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

海の見える杜美術館の香水瓶展示室は、いつご来館頂いても香りの歴史が俯瞰できるように、古代エジプトから現代までの様々な香りの容器を多数、年代順に陳列しています。

香水瓶展示室の古代エジプト時代のケース

この春、当館所蔵の最古の作品を収めた古代エジプト時代のケースに、新収蔵品の《開口の儀式セット》が加わりましたので、この機会にご紹介いたします!

こちらの作品です👇

《開口の儀式セット》エジプト、古王国時代(第5-6王朝、紀元前2500-2200年)石灰岩、アラバスター、珪岩アルトン・エドワード・ミルズ(1882-1970)旧蔵、海の見える杜美術館蔵。RITUAL SET for the Opening of the Mouth, Egypt, OLD KINGDOM, 5TH-6TH DYNASTY, C. 2500-2200 B.C. Alabaster, limestone, quartzite, Provenance: Alton Edward MILLS collection, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 石灰岩のプレートの上に、儀式で用いられる道具が整然と収められています。それにしても、このタイトル。「開口の儀式」のセットとは、なにやら謎めいていませんか。この儀式は、口に対してだけではなく、目にも行われたために、しばしば「開口・開眼の儀式」と呼ばれています。では一体、誰もしくは何の目や口を開ける儀式だったのでしょうか?――それは死者であり、より詳しく言うとミイラにされた死者、またときに死者を模した彫像でした。つまり開口の儀式とは、死者の埋葬前に行われる葬祭にまつわる儀式のひとつだったのですね。そのなかでもとくに重視された儀式であったと言われています。そのようなわけで、本作品も古王国時代第5―6王朝と推定される墓から発見されたものです。

 興味深いことに、古代エジプトでは、適切な手順を踏んでこの儀式を行えば、たとえ死後であっても現世と同様に食事をし、話し、見て聞くことができると考えられていました。要は、閉じていた口や目がぱっちり開いて、耳や鼻も機能し、命の再生が可能となるとされたのです。ですので、誰かが亡くなるとその子孫は、それを実現させようと、死者に対して「開口の儀式」を神官たちとともに行いました。

この儀式の始まりは古く、かつ長く行われたものでした。少なくとも先王朝時代のナガダ期(紀元前3800-3100年頃)には既に行われ、プトレマイオス朝時代(紀元前332-30年頃)まで続けられたと推測されています。その間、ゆうに約3000年間も行われた可能性があるのですね。このことからも、いかにエジプト人にとって、欠くべからざる儀式であったかがわかります! ナガダ期の文書がのこされていないために、詳細は不明であるものの、先端が魚の尻尾の形をした当時の儀式用ナイフが、儀式の痕跡としてあります。

本作品の制作時期は、先王朝時代に次ぐ古王国時代。この時代には文書において儀式についての言及が見られます。第4王朝のクフ王の時代の文書『開口についての小冊子』には、ミイラではなく死者の彫像に対して行われたと書かれていますし、第5王朝に建造された最古のピラミッドとして名高い、かのサッカラのウナス王のピラミッド(第5王朝)にも、玄室の壁面に書かれたピラミッド・テキストにこの儀式が言及されています。ただ残念なのは、当時の言及は、続く中王国時代のコフィン・テキストにおける言及と同様に、いずれも部分的であるため、儀式の全体像を把握することが困難です。そのため、本作品の制作時期における開口の儀式について知ろうとしても、後世の研究者たちが、新王国時代の文書と図像をもとに推測したものの域を出ないのが現状です。

 さて、香りの歴史を考える上で、この儀式が見逃せないのは、様々な香りが用いられた儀式であったからです。以前のブログ(第18回 香水散歩)で、ミイラづくりには香りが不可欠であったとご紹介しましたが、香りの使用に長けたエジプト人は、完成したミイラや、死者の彫像、さらにはそれに捧げる供物に対しても香りを使っていました。

開口の儀式は、清めや、生贄や開口・開眼の道具の提示、そして献酒をはじめとする全75の段階で構成されています。その各段階をひとつずつ丁寧に辿っていきますと、要所要所で香りが重要な役割を担っていたことがわかります。

例えば、死者の彫像やミイラを開口する下準備としてなされる清めでは、様々な種類の水で清められた後に、セム神官〔葬祭を司る神官〕が玉状にしたテレバントの樹液を持ち、彫像やミイラの周りを4周します。ここではテレバントの香りを彫像やミイラに提示することが、さらなる清めとなったのです。また下準備の仕上げには別の香りが焚かれて、彫像やミイラに香り付けがなされました。

 儀式の各段階には、上エジプトと下エジプトそれぞれに向けた儀式がありました。そのうち下エジプトのための儀式では、甘い香りの樹脂を燻蒸した煙が使われました。それは、香煙で頭部を包むとエネルギーが得られると考えられていたからです。

 またミイラや彫像に香りを直接塗ることも重視されました。セム神官は香油や香膏の塗布を行いました。この儀式の最中には、セム神官とは別の神官たちが、セム神官の行為の効果を高めるための朗誦を行っていたと考えられています。面白いことにその朗唱の文句には、眼や顔に美顔料が塗られたという言及もあります。命の再生を願う開口の儀式であるだけに、目や口、鼻、耳など感覚が集中する顔への働きかけが大切だったのですね。

ちなみに、ここで使われた香料は、現在判明しているだけでも、古王国時代には7種類、新王国時代以降には10種類もあったとされています。ただし各成分の詳細は判明していません。というのも、たとえ同じ香りの成分であっても、当時は儀式に応じて名称を変化させていたために、今日では使用香料の特定が難しいのです。しかもこの段階に関する画像も存在しておらず、いまだ謎に包まれた部分も多くあります。

 儀式では他にも、アムシールという長い柄のついた香炉を手に、ミイラや死者の彫像の周りを巡りながら香をくゆらせたり、供物等に香りを付けたりと、命を再生させるために、香りが様々に用いられました。発掘調査と考古学研究が進んで、いつの日か、この儀式で使用された香りがより詳しく判明することを願わずにはいられません。

 さて本作品に話を戻しますと、サイズは23×15.8㎝と意外と小さいものです。いわばミニチュアサイズですね。ミイラや彫像の口や目を開くために使われた儀式用ナイフも全長約14㎝で、思いのほか細いものです。

この儀式用ナイフですが、下の画像でわかる通り、魚の尻尾の形をした先端が、全く鋭利ではありません👇。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

それは、ナイフとはいえ、この儀式においては実際に刃で口や目に切り込みを入れていたわけではなかったからです。余談ですが、私はこの事実を知って、非常に安堵しました! というのも、ミイラとなった死者の開口や開眼に使われたナイフと聞いて、外科手術でメスが使われる場面を即座に想像し、恐怖で震えていたもので(笑)。儀式では、この魚の尻尾の形のナイフ〔ペシュ=ケシュ・ナイフ〕の他にも手斧なども使われましたが、もちろん血が滴るようなことは行われず、単にそれらをミイラや彫像に提示したり、それらでミイラの目や口に触れたり――きっと優しく撫でる感じでしょう……そうであって欲しいです!!――していたようです。

最後にナイフの両脇に置かれた清めと塗布の容器をよく見てみますと、あらあら不思議。容器は、単に容器の形をしているだけで、水や香膏を入れる穴がほとんどありません! この画像のような、上部にごく浅いくぼみがあるだけです。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

これは、これらの道具が開口の儀式の象徴的役割を果たしているにすぎなかったからです。実際には別途用意された水差しや香炉やカップ等で、清めや香油等の塗布がなされたと考えられています。このミニチュアサイズの開口の儀式セットと形状が酷似したものは、ニューヨークのメトロポリタン美術館(古王国時代第5-6王朝のもの)やロンドンの大英博物館(第6王朝のもの)にも所蔵されています。ですので、当館所蔵の作品との比較なども今後行っていきたいと思っています。

さて、当館の《開口の儀式セット》は、スイスで暮らしたイギリス人で、著名なエジプト美術コレクターのアルトン・エドワード・ミルズ氏(1882-1970)の旧蔵品です。彼は20代のときに木綿会社の仕事をきっかけにエジプトに移住して以来、エジプト学に魅せられ、エジプト美術の一大コレクションを築いた人物でした。

当館の庭いっぱいに桜が咲き誇り、自然の旺盛な生命力を実感できるこの季節、ぜひ香水瓶展示室にて、命の再生への願いを香りに込めた古代エジプト人に思いを馳せて頂けたら幸いです。

岡村嘉子(特任学芸員)

うみもり香水瓶コレクション 24 イギリスの巡礼用水筒型セント・ボトル

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、「芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー」と題した、旅をテーマとする前近代から近代にかけての日本絵画の展覧会を開催しています。

 この展覧会にちなんで、香水瓶展示室では、旅に関する香水瓶を数点ご紹介しています。例えば、こちらの17世紀イギリスの銀製のセント・ボトルです👇

《セント・ボトル》イギリス、1660-70 年頃、銀、海の見える杜美術館 SCENT BOTTLE, England, C.1660-70 , silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 皆様は、この器形をご覧になられて何をご連想なさるでしょうか? 一見したところでは、今が旬の洋ナシのようですね。たしかに洋ナシ型は、17世紀、18世紀に数多く使われた器形でもあります。ですが、より厳密にいうと、本作品の器形は、巡礼者が聖地へ赴く際に携えた水筒という、比較的珍しい形をしています。そして、この形と図柄の調和こそが、本作品の価値を高める重要な要素なのです。ですので、この機会に詳しくご紹介いたします!

 瓶を覆う唐草模様にしばし目を凝らしていると、思いがけないところから、二つの像が浮かび上がってまいります。ひとつは、ギリシャ神話の風神の主、アイオロスです。こちらの部分ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 風を自在に操るこの神は、ここでも目を見開き、頬を膨らませて、お得意の風を力強く吹かせているのがわかります。なにしろアイオロスは、西風のゼピュロスや北風のボレアース等の風の神々の頂点に君臨する風神の主です。アイオロスをして吹き飛ばせないものなどありません。

 そしてもうひとつの像は、このアイオロスに比べると、打って変わってほんわか、のほほ~んとした印象なのですが……👇。宗教画などに登場する愛らしい小さな天使です。アンディ・ウォーホルが商業デザイナー時代に描いた気ままな天使たちを彷彿させる線描ですね。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 唐草模様の間に、あまり目立たない形で刻まれたこの2つの像には、どのような意味が込められているのでしょうか。それには、時代背景が深く関係していると先行研究において指摘されています。

 この香水瓶の制作時期と重なる1665年のイギリスでは、ロンドンで腺ペストが猛威をふるっていました。いわゆる「ロンドンの大疫病」の名で知られる、イギリス最後の腺ペストの流行です。それは住民の2割以上の死者を出し、一時は多くの王侯貴族や市民たちがロンドンから避難するほどの規模でした。

 この疫病流行に際し1665年のロンドンに流布した広告は、香りの歴史からすると、とても興味深いものです。というのもそこでは、腺ペストから身を守る方法として、芳香酢の蒸気やローズ水やその他の香料の噴出が推奨されているのです。実際に、この広告以外の資料においても、感染拡大の結果として、大量の芳香酢で体をマッサージしたり、室内に漂わせたり、街路に撒かれたりしたことがわかっています。

 以前、フランスの例として、18世紀のガラス製携帯用香水瓶においても見ましたが、当時のヨーロッパでは、迫りくるペストの瘴気から身を守るために、香料がいかに必要とされていたかがわかりますね。

 以上のような時代背景を踏まえて、本作品を再度見てみますと、アイオロスの姿には、勢いのある神聖な風で瘴気を遠ざけたいとの願いがうかがえます。また葉叢に戯れる無邪気な天使の姿は、香りに満ちた自然が人間にもたらす恩恵を謳うかのようではないでしょうか。そして、巡礼時の水筒を模した器形には、ペストが様々に変異しながら周期的に流行するイギリスから、遠く離れた聖地への思いが込められているように思えるのです。

 感染症流行下に、かつて誰かが胸に描いた、追憶の、もしくは想像上の巡礼の旅。コロナ前に本作品を見ていたときには真に感知しえなかったその切実さを、今になって感じています。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima I学芸員撮影。

 本作品は、現在の展示ケースの中で、同時代のドイツやオランダのポマンダーやヴェネツィアのラッティモ・ガラスの香水瓶、フランスのルイ14世の弟のオルレアン公フィリップ1世お抱えのガラスの名匠、ベルナール・ペロ作の人面をかたどった香水瓶という海杜コレクションきっての傑作とともに公開されています。ぜひ17世紀のヨーロッパ各国が誇った高い技術と、地方色豊かなデザインや素材をお楽しみくださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

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企画展示室情報:芸術家たちのセンチメンタル・ジャーニー

[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)

[休館日]月曜日(ただし9月18日(祝)、10月9日(祝)は開館)、9月19日(火)、10月10日(火)

[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料

*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

[タクシー来館特典]タクシーでご来館の方、タクシー1台につき1名入館無料

*当館ご入場の際に当日のタクシー領収書を受付にご提示ください。

[主催]海の見える杜美術館

[後援]広島県教育委員会、廿日市市教育委員会

うみもり香水瓶コレクション23  マイセン製の香水瓶 2

 こんにちは。今回の「うみもり香水瓶コレクション」は、前回に引き続き、当館企画展示室の「蘇州版画の光芒 ―国際都市に華ひらいた民衆芸術ー」展に合わせて、マイセン磁器工房の香水瓶を取り上げます。本作品は、香水瓶展示室にて8月13日まで展示しています。こちらの作品です👇

《香水瓶》ドイツ、マイセン1725-28年硬質磁器、銀に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUME FLACON, Germany Meissen, 1725-1728, Hard paste porcelain, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 一見すると、前回ご紹介した作品と見分けがつかないかもしれません。2点を並べてみると……👇

《香水瓶》ドイツ、マイセン1725-28年硬質磁器、銀に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUME FLACON, Germany Meissen, 1725-1728, Hard paste porcelain, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 ほう、やはり似ていますね。この2点は、ともに天才絵付師ヨハン・グレゴリウス・ヘロルトが手掛けた時期にあたる作品です。それゆえ、両作品では、彼が編みだした色鮮やかな絵付けの技術がいかんなく発揮されていて、それが見る者の目に真っ先に飛び込んでくるため、どうしても印象が似てしまいます。さらに、側面の怪人面の有無といった多少の差異はあるものの、全体の器形や、金属部分の使い方、図柄の余白となる白磁の効果的な見せ方もよく似ています。サイズ(高さ)も1㎝しか違いません。

 では一体、何がもっとも異なるのでしょう?

 それは、図柄の内容です。前回の香水瓶が、ヘンテコな生き物が空に舞う、幻想的な東洋風景であったのに対して、今回の香水瓶は、現実的な西洋の風景が描かれているのです。

 図柄を拡大して見ると……

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 晴れ晴れとした空の下に繰り広げられる、とある港の活気あふれる岸壁の光景が活写されています。

 水上の幾隻もの船の往来、そしてそれを見守る紳士たち――彼らの後ろ姿からは、船の到着を今か今かと待ち構える様子がよく伝わってきます。その傍らでは、顔見知りにでも行合ったのか、朗らかに言葉を交わす人々が見受けられます。そのまた傍らでは、荷を一心に運ぶ人夫も瓶の右端にいますね。

 反対の面も見てみると……

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 こちらの様子は、なにやら忙しそうです! 岸壁に置かれた荷の数も増えていますし、悠長に遠い水上を眺める人の姿も、もはやありません。きっと船が接岸したのでしょう。そのため、荷物をせっせと運ぶ人々やそれを指示する人、さらに荷の確認を終えて談笑する人々の姿が見られます。つぶさに見ていると、あたかも当時の記録映像でも見ているかのようです。あともう少し耳を澄ませば、運搬人の掛け声や貿易商人たちの話し声、汽笛や波の音まで聞こえてきそうなほど。私はこのようなときにこそ、ヘロルトの卓越した描画技術を実感いたします。10㎝にも満たない小瓶に、あまりにもリアルに描かれた港の様子。これは幻想的な東洋風景を見るのとは一味違った知的好奇心を満たしてくれるのではないでしょうか。

 港の風景は、初期の磁器製の香水瓶にしばしば描かれた図柄でした。この図柄が瓶の全面に配された本作品は、磁器が、何世紀もの間、はるか中国や日本からの希少な輸入品であった歴史的事実を思い起こさせてくれるものです。つまり、図柄が幻想的であろうとも、また現実的であろうとも、初期の磁器には常に東洋の存在がどこかにあるのですね。

 面白いことに、企画展示室の「蘇州版画展」には、本作品とほぼ同時代に制作された、東洋の港町の姿を伝える作品が複数出品されています。例えば、18世紀の中国最大の経済都市であった蘇州の都市景観図《姑蘇閶門図》と《三百六十行図》です。《姑蘇閶門図》は、展覧会チラシにも使われている作品ですね。これらの作品には、市中を水路が巡り、船が行き交うこの町の、大運河に接する城門付近の様子が描かれています。

左:《姑蘇閶門図》清時代、雍正12年/1734年、紙本、木版、濃淡墨摺筆彩、海の見える杜美術館。The Changmen Gate of Suzhou,1732, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima. 右:《三百六十行図》清時代、雍正12年/1734年、紙本、木版、濃淡墨摺筆彩、海の見える杜美術館。All Walks of Life, 1732, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima.

 この東洋の港湾都市も、とても賑わっていますね。さきほどの西洋の港の風景とは違って、こちらは町を一望するように俯瞰した視点で描かれているので、岸壁やその周囲の様子がなおさら克明に伝わってきます。ここで用いられている線遠近法や陰影法については、キリスト教宣教師を介して伝えられた西洋画の影響が、先行研究にて指摘されています。前回ご紹介した当館で5月に催した記念講演会においても、そのことについての最新の研究結果が、当館の青木学芸員をはじめ、複数の研究者により発表されておりましたので、私はいずれも興味深く拝聴いたしました。

 なんといっても、1730年前後に制作された西洋の磁器には東洋の、そして東洋の版画においては西洋の存在が感じられるのは、とても面白いことですね。交易や布教活動による人の往来が、文化へもたらす影響の大きさがよくわかります。

 ところで、マイセン磁器工房の香水瓶は、香水瓶の歴史も塗りかえることになりました。それ以前の、鉱物や陶器、金属、ガラスといった素材から、マイセン磁器の誕生以後は、磁器が各地で相次いで用いられるようになったのです。その伝播力は甚大で、しまいには18世紀の香水瓶を象徴する素材となりました。

 以上、2回に渡って、マイセン磁器工房の香水瓶を取り上げました。その歴史的価値や魅力の一端をお伝えできましたら幸いです。絵付けの素晴らしさに限っては、どれほど言葉を尽くしても表しづらいものです。ぜひこの機会に実物を展示室にてご覧くださいませ。

岡村嘉子(特任学芸員)

◇企画展示室情報:蘇州版画の光芒―国際都市に華ひらいた民衆芸術― – 広島 海の見える杜美術館 (umam.jp)

[会期](前期)2023年3月11日(土)〜2023年5月6日(土)
    (後期)2023年6月 3日(土)~2023年8月13日(日)
     ※前期と後期でメイン会場の作品はすべて入れ替わります
[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)
[休館日]月曜日(但し7/ 13(月)は祝日開館)、 7/14(火)
[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料
*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

うみもり香水瓶コレクション22  マイセン製の香水瓶 1

 こんにちは。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、当館所蔵の約3000点の中国版画の中から厳選された約300点を公開する「蘇州版画の光芒 ―国際都市に華ひらいた民衆芸術ー」展が開催中です。17世紀から18世紀に、中国の港町、蘇州でつくられた版画の魅力をたっぷりとご紹介しています。

 この展覧会にちなんで、香水瓶展示室では、蘇州版画と同時代にヨーロッパの王侯貴族が夢見た東洋として、マイセン磁器工房の香水瓶2点を展示しています。今回はそのうち1点をご紹介いたします。

こちらです👇

《香水瓶》ドイツ、マイセン1725-28年硬質磁器、銀に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUME FLACON, Germany Meissen, 1725-1728, Hard paste porcelain, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

セーヴルやロイヤル・ウースター、ロイヤル・クラウン・ダービー、KPMベルリン等、ヨーロッパの名だたる磁器工房のなかでも、マイセンが特別な地位を誇る理由をご存知でしょうか? それは、このマイセンこそが、ヨーロッパの地では不可能とされてきた磁器の製造を初めて成功させたからです。

 マイセンで磁器が誕生するまで、磁器は何世紀にもわたり、遠い東洋からもたらされる舶来品でした。なにしろヨーロッパでは、純白で艶があり、薄く硬い性質を持つ磁器の製法が解明されていなかったので、輸入品を待つばかりだったのです。とはいえ、ひとたび異国の希少で美しい産物を知れば、それを自国で真似して作ってみようと人は思うもの。そのようなわけで、輸入に頼る一方で、東洋磁器と同じく硬質の磁器を作る試みは、常に続けられていました。

 例えば、極東貿易を通じて他のヨーロッパ人に先駆けて、東洋磁器を知ったヴェネツィア人です。彼らは早くも16世紀には製造に挑んでいます。その他にも、フィレンツェの大公フランチェスコ・ディ・メディチが同様の試みをしていました。17世紀半ばには、イギリスのロンドンや、フランスのルーアンやサン・クルー、オランダのデルフトで、やはり探究が続けられていたのです。

 ところで、今も西洋の城館を訪れると、東洋磁器の飾られた部屋である「磁器の間」にしばしば遭遇します。磁器が壁一面にところ狭しと飾られたり、天井高のある部屋の上方まで備え付けてあったりするのを目にする度に、「地震が滅多に生じない国々はいいなぁ……」とつい真っ先に思ってしまうのですが、活断層上に生きる極東人としてのこうした極めて個人的な感想はひとまず脇に置いておきましょう。というのも、見る者を凌駕するかのような、圧倒的な陳列法から感ずべきことといえば、東洋磁器がかつて流行した趣味であったことと同時に、権力や富の象徴でもあったということだからです。

 実際、東洋の白磁は「白い黄金」と呼ばれるほど、非常に高価なものでした。それにもかかわらず、王侯貴族たちは、上記の理由もあって中国磁器や日本の古伊万里をこぞって求めたのです。なかでも、国の財政が傾くほど、東洋磁器に夢中になったのがザクセン選帝侯国のアウグスト強王です。その総数は、なんと約25000点!といわれています。ただし彼は、収集と陳列に終始する人物ではありませんでした。彼は、収集した磁器をもとに、錬金術師らに製法の開発に取り組ませます。そして5年もの歳月を費やした試行錯誤の末、1709年にとうとう磁器製造を実現させたのです。

 では、そのような苦心の末の奇跡の磁器を、とくとご覧くださいませ。本作品の図柄部分を拡大してみると……。

 長衣をゆったりとまとった人物が、東洋風の日傘をかざす御付きと、苦力(クーりー)〔中国の下層の人夫〕の麦藁帽子を被った人物に伴われて、のんびりと散策をしていますね。

 裏面を見てみると……👇

 こちらでは同じ人物が席について、お茶を味わっています。その傍らには、香が焚かれています。とても優雅なひとときが両面に描かれていますね。

 本作品のような中国趣味の図柄は、初期のマイセン磁器の特徴です。これは極東文化を愛したアウグスト強王の好みを反映したものでもありますが、それと同時に、当時のヨーロッパの上流階級における中国趣味の流行を物語るものです。まさに蘇州版画が、ヨーロッパに普及していたのもこの時代です。興味深いことに蘇州版画も、前述の「磁器の間」のように、壁一面を彩る室内装飾として使われていたことがわかっています。そのことについては、当館で5月に2日間にわたって開催された世界4か国、11名の中国版画研究者による3か国語の記念講演会においても、蘇州版画を室内装飾に使ったオーストリアの宮殿についての調査が詳しく紹介されていました。それは香水瓶の歴史を考える上で示唆に富むものでしたので、私は講演にすっかり釘づけになってしまいました。

 さて本作品に話を戻しましょう。この色鮮やかな図柄にご注目ください! 東洋の私たちにすれば、白地の磁器に繊細かつ色鮮やかな図柄が描かれていることには、何の不思議も感じませんが、当時の西洋にしてみれば、非常に画期的なことでした。なにぶんにも、磁器の製造まではようやく至ったものの、その先にある磁器用絵具がまだ十分になかった時代です。その状況を見事に解決したのが、マイセンを牽引した天才絵付師として歴史に名を残したヨハン・グレゴリウス・ヘロルトです。彼の天才のほどがうかがえるのが、本作品で使われているような、磁器専用の絵の具を開発したことです。

 実は、当時のヨーロッパにおいて、東洋の磁器のなかで最も洗練されており、高価であったのは、中国磁器よりも、日本の柿右衛門であったと考えられています。膨大な柿右衛門のコレクションがご自慢であったアウグスト強王は、柿右衛門の磁器が有するくっきりと鮮やかな色の再現を、ヘロルトに求めました。そこでヘロルトは、マイセンの前任者たちの試行錯誤を引き継ぎ、実験に実験を重ね、16色もの絵の具を作り出しました。驚くことに、このとき開発された絵具が、今日に至るまで、大きな改良もなくマイセンで秘伝として存在しています。

 ヘロルトの類まれな才能のもう一つは、絵付けです。彼は、千種類以上の中国趣味の図案を考案し、それを磁器の上で緻密に描き出しました。施された金彩から、ヘロルトが手掛けた時期のものと考えられる本作品からも、彼が得意とした描写や色の素晴らしさが十分に伺えます。

 最後に、本作品で私が以前から気になっている表現をご紹介いたします。

 人物像のはるか頭上、香水瓶の蓋付近に描かれた、こちらの表現です👇

大きさからいえば鳥のはずですが、描写からすると、どのように見ても虫しか思い浮かびません……。このヘンテコな生き物こそ、ヘロルトの絵付けの特徴でもあります。東洋の風景が主題とはいっても、それはあくまでも想像上の風景です。そのようなわけで、このような奇妙で、空想豊かな生き物や植物が、図柄には頻繁に登場するのです。

 この一風変わった風景を見ていると、まだ東洋と西洋の間に大きな隔たりがあった時代に、小さな磁器や一枚の版画を介して、未知の国への憧れを募らせていた人々のことが、思い浮かびます。いまやZoom等によって世界各地の研究者と一つの講演会を催せる時代になりましたが、そこでもお互いを結んでいるのは、やはり一枚の版画であり、一つの磁器である――このように思い至るとき、私は美術作品の持つ力を実感するのです。

岡村嘉子

■企画展示情報:蘇州版画の光芒―国際都市に華ひらいた民衆芸術― – 広島 海の見える杜美術館 (umam.jp)

[会期](前期)2023年3月11日(土)〜2023年5月6日(土)
    (後期)2023年6月 3日(土)~2023年8月13日(日)
     ※前期と後期でメイン会場の作品はすべて入れ替わります
[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)
[休館日]月曜日(但し7/ 13(月)は祝日開館)、 7/14(火)
[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料
*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。

第20回香水散歩 パリ装飾美術館 エルザ・スキャパレリ展

スキャパレリ展へと導く階段。岡村嘉子撮影、2022年。

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。今回は久々に海を越えた香水散歩をいたしました。日本からパリへの夜間飛行は、ロシア上空を避けてタジキスタンあたりを通過していくと思いきや、飛行中にふと目覚めて現在地を確認すると、なんとグリーンランド上空。思いもよらぬ東回りの航路の果てに辿り着いた約1年ぶりのパリで、真っ先に足を運んだのは、パリ装飾美術館でのエルザ・スキャパレリ(1890-1973)の大回顧展「ショッキング! エルザ・スキャパレリの超現実主義世界」です。

一時はシャネルと人気を二分した、ファッション・デザイナーのスキャパレリは、香水においても画期的な作品を生み出しました。その代表作の多くが海杜にも所蔵されているため、既にブログで度々ご紹介してまいりましたが、それでもなお、再びスキャパレリをテーマに取り上げなくてはならないほどに、パリ装飾美術館での展覧会は素晴らしいものでした。

この展覧会では、彼女を象徴する色のショッキング・ピンクのように、遊び心に溢れ、エネルギッシュで大胆な彼女のデザインが、所狭しと展示されていました。その数、約520点! それには服はもちろんのこと、小物類やデザイン画、室内装飾、香水瓶と彼女の偉業を語るには欠かせない作品が詰まっています。しかも、ドレスひとつをとっても、小さなボタンにまで、彼女の革新的精神が込められているので、大変見応えのある展覧会だったのです。

 展覧会は8つのテーマで構成されていましたが、今回はそのうち、特に印象深かった3つのテーマについて取り上げたいと思います。

 ひとつ目は、コレクションのデザイン画をテーマにした展示です。床から天井までの壁だけでは足らずに、床にまでびっしりと埋め尽くされた、デザイン画の複製展示です。こちらです👇

目を凝らしていくと、複製の中に、オリジナルのデザイン画も含まれていまので、宝探しのような気分を味わえるのですが、この展示で最も忘れがたい展示は、何よりもこちらの手袋の展示です!!☟

スリラー映画よろしく、壁から手袋を着けた腕がニョキニョキ、ぬうっ、だらーんっと突き出ているのです。しかも画像の通り、手先の動きがやけに表情豊かです。

横から見ると、このような感じです☟

さらに、展示されている手袋も、スキャパレリのデザインを特徴づける、奇抜さ満載!「ガオー!!」👇

かつて手袋は香りを沁み込まして使用されていたので、香水史において手袋は重要な存在です(それについては、このブログ〔第7回香水散歩〕でも以前、ご紹介しましたね!)。そのようなわけで、これまでにも数々の手袋の展示を各地で私は見て参りましたが、今回のような、つい顔が綻びてしまうほど、面白い展示は初めてです!

紳士からの視線を意識して、か弱いふりをしたり、はたまた取り澄ましたりするだけの女性ではもはやない、狂乱の時代1920年代を経験した新たな時代のおおらかでユーモア溢れる女性像が、小物においても表現されているのですね。スキャパレリの主な顧客であった上流階級の女性たちが率先して、優雅さの質を変えていったことがよく伝わる展示でした。

 印象に残る2番目のテーマは、「綺羅星のごとく居並ぶ前衛芸術家たち」です。展示室全体で、最も広い空間を占めていたのがこのテーマでした。例えば、うみもり香水瓶コレクションで取り上げた《太陽王》〔うみもり香水瓶コレクション21〕をデザインした、サルヴァドール・ダリにあてられた大きな展示室は、共同制作の服飾やオブジェだけでなく、写真をはじめ二人の深い信頼関係を伝える数多くの資料が展示されていて、見応えがありました。《太陽王》とはこちらの左の画像ですね👇

左:スキャパレリ社《太陽王》1946年頃透明クリスタル、金、エナメル デザイン:サルヴァドール・ダリ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, LE ROY SOLEIL – 1946, Design by Salvator DALI, Made by Baccarat ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

右:スキャパレリ社 、香水瓶《ショッキング》デザイン:レオノール・フィニおよびピエール・カマン、1937年、透明ガラス、彩色ガラス、海の見える杜美術館SCHIAPARELLI, SHOCKING FLACON Design by Leonor FINI and Pierre CAMIN  -1937, Transparent glass , color glass, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima

他にも上の右の画像の香水瓶《ショッキング》〔うみもり香水瓶コレクション13〕をデザインしたレオノール・フィニによる絵画や、ジャン・コクトーのデッサンを転写した上着や、彫刻家アルベルト・ジャコメッティによるデザインのボタンが使用されたシックなツーピース等、スキャパレリとのコラボの事実が既によく知られている芸術家から、さほど知られていない芸術家まで、様々な顔ぶれが登場するので、歩を進める度に胸が躍らずにはいられませんでした。さすが20年ぶりの大回顧展だけあって、前回の展覧会では紹介されていなかった新たな事実が、数多く提示されています!

印象深い3つ目のテーマである「パリ・ヴァンドーム広場のブティック」も、同時代の芸術家たちに関します。1935年にオープンしたヴァンドーム広場のブティックの内装の再現展示では、ジャン=ミシェル・フランクやジャコメッティ、ラウル・デュフィなど多くの芸術家の仕事を見出すことができました。

ところでジャン=ミシェル・フランク(1895-1941)は、アール・デコ期に高級素材を用いたシンプルな家具を制作し、上流階級の間で人気を博しながら、20世紀前半を生きたユダヤ人ゆえに(彼はあのアンネ・フランクのいとこに当たります)時代に翻弄され、活動期間が短く終わってしまったため、同時代の他のデザイナーに比べると、あいにくいまだ知名度に劣るかもしれません。しかし彼の名は、ジャコメッティ研究(ちなみに私の修論のテーマはジャコメッティでした)のなかでは、度々登場する名でもあります。二人の接点は、ジャコメッティがシュルレアリスム・グループから離れて、戦後のいわゆるジャコメッティ・スタイルを生み出すための独自の探究をしている期間に生じました。ジャコメッティは生活のために、家具デザイナーだった弟ディエゴとともにフランクに協力して、室内装飾のデザイン・制作を手掛けていたのです。今回のスキャパレリ展では、まさにジャコメッティの探究期間の仕事を見る貴重な機会であったことも、真っ先にこの展覧会へ足を運んだ理由のひとつでした。

この展覧会では、フランクがブティックの地階に設けた、「鳥かご」ならぬ巨大な「香水かご」も再現されていました。

当時、金彩された竹と金属でできた「香水かご」のなかに収められたのは、香水と化粧品。記録写真によると、香水かごの片側は、広場に面した大きな窓の側に設けられているので、ショウ・ウィンドウの機能も備えていたことがわかります。再現展示では残念なことに、かごの上部が省略されていますが、実際は、鳥かごを模して、吊り下げ用の把手がついていたので、当時はさらに魅力的であったと想像されます。

香水かごを背後にして据えられた展示台の上には、ドーム型のケースに入った色とりどりの香水瓶がずらりと陳列されています。とくにこの展示台の周囲は、来館者が途切れることはありませんでした👇

それはきっと一つ一つの香水瓶の形の楽しさが、人を惹きつけるからでしょう。なにしろスキャパレリの香水瓶といえば、このようなデザインが目白押しなのですから。👇

左:スキャパレリ社《スリーピング》1938年透明クリスタル、赤色クリスタル、金 デザイン:フェルナン・ゲリ=コラ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, SLEEPING– 1938, Design by Fernand GUERY- COLAS, Made by Baccarat ©Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 
右:スキャパレリ社《スポーツ》1952年、緑色ガラス、金、エナメル  製造:サン=ゴバン・デジョンケール社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, SPORT – 1952, Made by Saint-Gobain Desjonquère © Umi-Mori Art Museum, Hiroshima 

 スキャパレリ以後の香水瓶の変遷を見ても、スキャパレリほどの奇抜なアイデアに溢れ、それと一体化した機知に富む香水名を持ち、それでいながら高級素材によって上質さや優雅さを保っている香水瓶は、なかなか見当たりません。そのような意味で、スキャパレリ自身が、香水史において燦然と輝く大きな星の一つであったことを、この展覧会で改めて認識させられます。彼女の活動拠点であったパリならではの充実した回顧展を見て、香水散歩の楽しさを再確認いたしました。

岡村嘉子

うみもり香水瓶コレクション21 スキャパレリ社《太陽王》

こんにちは。今回のうみもり香水瓶コレクションは、ただいま香水瓶展示室に広告とともに出品しているスキャパレリ社の《太陽王》です。
スキャパレリ社創設者のファッション・デザイナー、エルザ・スキャパレリ(1880-1973)については、以前、このブログで同社の《ショッキング》をご紹介したときにも触れましたが、彼女は学識豊かな家庭環境で育ち、その深い教養に裏打ちされた奇想天外な発想で、当時の上流階級の女性たちがこぞって求めた、新しい女性像を提示するドレスやオブジェを作り出しました。
ファッション界で燦然と輝いたスキャパレリと、似たような個性を持つ芸術家の名を挙げるならば、それは今回の香水瓶をデザインしたサルヴァドール・ダリ(1904-1989)ではないでしょうか。彼もまたヨーロッパ伝統の教養深さを身に着けた上で、斬新奇抜な作品を次々と生み出し、時代の寵児となりました。

スキャパレリ社《太陽王》1946年頃、透明クリスタル、金、エナメル デザイン:サルヴァドール・ダリ 製造:バカラ社、海の見える杜美術館蔵。SCHIAPARELLI, LE ROY SOLEIL – 1946, Design by Salvator DALI, Made by Baccarat ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 そのダリとスキャパレリの共同制作ですから、平凡であるはずがありません。ルイ14世をテーマとしたこの香水瓶は、ギリシャ神話に登場する芸術の神アポロンに自らをなぞった王にちなんで太陽王が表現されています。香水瓶の栓がその顔になっているのですが、拡大してよく見てみると……!

顔のパーツがすべて飛翔する鳥で構成されています! ダブルイメージを自在に操ったダリの絵画を思わせる表現ですね。
しかもこうして出来上がった表情は、威厳と自信に満ちた王の表情というよりも、なんだかどことなく困惑したような……といいますか、ちょっと情けないくらいのもの(正直に言ってしまって、ごめんなさい!)になっているように見えるのは私だけでしょうか。ともにパリで才能を開花させたイタリア人のスキャパレリと、スペイン人のダリは、絶対王政の頂点に君臨した過去のフランス王に対して、ピリッと辛辣なユーモアを込めて表現しているのかもしれませんね。

さて、本作品に先立つ1937年にも二人の共同制作が行われ、そこで奇妙奇天烈な帽子やドレスが生まれたことは、以前ご紹介いたしました通りです。今回の作品は、いわばその続編なのですが、この10年足らずの間に、戦争という大きな出来事がダリの制作に影を落としたことは、香水瓶の意義を考える上で重要と思えます。
まず1939年、ダリは妻ガラとともに戦況の激しくなったパリを離れ、翌年、アメリカへ移住しました。ほどなくして1941年にニューヨーク近代美術館で同じスペイン出身の画家ジョアン・ミロとともに回顧展が催され評価をされたものの、時代はあくまでも第二次世界大戦中です。加えてアメリカでは、彼らのようなシュルレアリスムの作品を理解する人々はごく一部に限られていました。そのためダリは、望むような生活を続けるのに、経済的な問題を抱えることになります。そしてひとつの解決策として、自らもその一員であった社交界の人々から注文された肖像画を、この時期は数多く描きました。
また戦争は、ダリにとっては何よりも精神的な負担が大きく、彼の絵画はその影響が色濃く出ることとなりました。例えば、この時代の代表作である、荒野に苦し気な巨大な顔が出現する《戦争の顔》(1940-41年、ボイマンス=ヒューニンゲンゲン美術館、ロッテルダム)や《夜のメカラグモ……希望!》(1940年、サルヴァドール・ダリ美術館、セント・ピーターズバーグ)を見ていると、それはダリ一人が感じた不安ではなく、同時代に生きた無数の人々が感じていた行き場のない不安が、画布から一気に押し寄せてくるように感じられます。幼少期から感受性が人一倍強かったダリが、実際の戦火から遠く離れたニューヨークの社交界にあっても、どれほどの精神的負担を感じていたかが、うかがい知れるのです。

スキャパレリ社《太陽王》と同じ頃、ダリはあのアルフレッド・ヒッチコック監督とも共同制作を行っています。映画『白い恐怖』のなかで、グレゴリー・ペック演じる記憶を失った男性主人公の夢のシーンのイメージ画を制作しています。そしてこれがまた、非常に恐ろしい場面なのです。否、全編を通じて、ヒッチコックらしい手に汗握る恐怖を充分味わわされる映画なのですが、この映画でのそれは、戦時中のダリの絵画と共通する、抑圧された環境下での不安が引き起こす恐怖なのです。その上、グレゴリー・ペックが、『ローマの休日』の快活な新聞記者とは全くの別人となって、苦悩の末の諦念に達した『渚にて』における原子力潜水艦の艦長のときのように、ここでも重く苦しい胸の内を見事に演じているおかげで、ダリが作り出した夢の場面に私はすっかり釘づけになってしまいました。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum, Hiroshima
現在の香水瓶展示室。ダリのデザイン画をもとに、マルセル・ヴェルテスが制作したポスターとともに12月25日まで展示しています。写真はI学芸員撮影。

さて以上のような、スキャパレリとの前回の共同制作から今回の《太陽王》までのダリの作品を踏まえて、本作品を改めて見てみると、意外なほどの明るさに驚かされます。香水瓶の胴体部分は、そのまま太陽王の胴体となっていますが、バカラ社製クリスタルの透き通った表面には、打ち寄せる無数の波形が刻まれています。これは、波間から現れるまばゆい太陽の光が表現されているのです。しかし、この清々しいまでの明るさは一体何を意味するのでしょうか?
本作品は、前述のようにルイ14世の治世へのオマージュとして制作されたと、これまでの香水瓶研究やスキャパレリ研究では解釈されているのですが、ダリ研究においては、第二次世界大戦におけるフランス解放を記念して制作されたとする説もあります。私としては、後者の説にも頷くところが多く、看過できません。
移住を余儀なくされるほど、身の置き場のない不安に苛まれる戦時を経て、ようやく迎えた終戦。このような環境の変化が、ダリの繊細な心にもたらした作用を、この香水瓶は雄弁に語っているように思えるのです。ダリが再びヨーロッパに帰国するのは、この2年後の1948年のことです。

岡村嘉子

うみもり香水瓶コレクション20 18世紀のガラスの香水瓶

 こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、日本絵画に描かれた、古今の楽しい集いの様子を展覧する「賑わい語り戯れる」展が開催中です。お祭りや参詣など、ハレの日を祝う町のざわめきが聞こえてくる屏風や、宴席や行楽の楽しさが伝わる絵巻、ごく限られた親しい者同士で心置きなく過ごすひとときが刻まれた歌麿の肉筆画、さらには、集いの余韻を味わわせてくれる宴席での寄せ書きなど、集いの機会がもたらす至福のひとときが、展示室いっぱいに紹介されています。

 私も、コロナ禍において人との接触が制限されたときに、もっとも恋しくなったのは、懐かしい人々の顔と、まさにこの展示室に漂う集いの雰囲気でした。そこで、香水瓶展示室でも、企画展のテーマに沿う関連作品をいくつか出品しました。

 例えば、社交にいそしむ18世紀のフランス貴族に愛用された、こちらの3色のガラスの香水瓶です!

左手前から中央奥へ:《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃すべて海の見える杜美術館蔵。写真はI学芸員撮影。©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 ヴェルサイユ宮殿を現在の絢爛豪華な姿へと変えたルイ14世の治世末期に始まり、フランス革命によりブルボン王朝の栄華が終焉を迎えるルイ16世の治世に終わる、貴族文化がもっとも爛熟した18世紀。当時は、貴族たちが着飾って集い憩う様々な催しが頻繁に行われていました。

 そのなかにあって、ヨーロッパ中から「よき香りのする宮廷」と呼ばれたのは、ルイ15世の宮廷です。ちなみに、先王のルイ14世も香水を愛しましたが、その強い愛ゆえに使いすぎてしまい、彼の晩年にあたる18世紀初頭には、天然の花以外の香りは、体が受け付けなくなってしまったと伝えられています。彼の時代の香りはムスクやアンバーなど動物成分の入ったものでしたので、彼のように四六時中、いたるところで漂わせていたならば、しかもそこに集う皆が香りを纏い、それらが交じり合っていたならば……、おお、さもありなん、と思わずにはいられません。

 ルイ15世の宮廷に話を戻しますと、彼と宮廷人もルイ14世と同様に、香水をこよなく愛していたので、空間に香が立ち込める燻蒸やポプリを使い、香りのなかで生活しました。そして、これまたルイ14世と同じく、ルイ15世は日々の身繕いや装いにも香りをふんだんに使いました。彼は芳香水や芳香酢などで体をマッサージし、香料を入れて入浴し、肌着や衣服、ハンカチや手袋、扇子などの小物類に至るまで、香りをしたためました。ただし、この時代には香りの主流が、軽めのフローラル・ノートへと変わっていたおかげもあったでしょう。ルイ15世は先王とは異なって、晩年まで香りに囲まれて暮らすことができたのです。

 ところで、彼らがこれほどまでに香りに執心していたのは、なにも、単なる趣味の問題だけではありませんでした。というのも、当時の香りは、新型コロナウィルス蔓延を経験した私たちであれば他人事とは思えない、ある伝染病が生んだ衛生観念と深く結びついていたからです。そう、それはペストです。この伝染病の流行は、16世紀の蔓延以来、この18世紀半ばまで断続的に各地で生じては人々を苦しめていました。発生当初は要因がわからなかったものの、医学の発展によって、この時代になると、吸い込んだ空気と、風呂と身繕いに使われる水がペストを引き起こすと考えられるようになりました。特に空気は、悪臭が瘴気を運ぶとみなされたため、兎にも角にも香りのよい空気を吸うことが、解決策とされたのです。このように、良い香りを嗅ぎさえすれば、体内バランスが良好に保たれると広く考えられていたからこそ、王侯貴族がこぞって香りを求めていたのですね。

 今日であれば、「どうかその前に換気を……」とひとこと言いたくなりますが、空気を一変させるためには、換気よりも、良い香りの空気で空間を満たすことが当時は推奨されていたのです。

 さて、いつでもどこでも香りとともにありたいと願う王侯貴族に応えたのが、今回ご紹介する香水瓶です。これは、外出時に使う香水瓶として、流行したものでした。王侯貴族の狩猟は、社交上の大切なレジャーですが、そのような集いの場面にも使われたとされています。香りは、社会的地位の高さを表すものでもあったので、自分が何者かであるかを語らずとも他者に理解させるためにも、重要であったのです。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃ルビーガラス、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1740, Ruby glass, gilt metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 香水瓶のフォルムを見ると、胴体部分が平たく、装飾もあっさりとしています。これはポケットに忍ばせられるように、過度な装飾が廃されているのです。まさに機能美が追求されているのですね。

 しかし時代の趣味の信条はあくまでも、華美であること✨。そこで、単なる簡素な香水瓶にならぬよう、豪華さがガラスの色合いにて追求されました。上の画像の作品には、なかでも最高級とされたルビー・レッドが使われています。この色は、金粉を含むことでようやく生み出される色であり、最も希少価値のあるものでした。

 では、他の色はいかがだったのでしょう? 例えば、こちらの青色です。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃、青色ガラス、金、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1730, blue glass, gold, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 青色も、重要視された色の一つです。これは、青という色が、神から王権を授けられたフランス王を象徴する特別な色であったからです。そういえば、数々の絵画に描かれた、大聖堂での戴冠式で王が纏うのも、青い衣ですね!

 ではこちらの作品のような緑色はいかがでしょう?

《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃、緑色ガラス、銀、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Germany C.1730, green glass, silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

  この緑色は、酸化ウランと銅を加えることで生まれた色です。この色は、前述の2色に比べると豪華さが劣ります。

しかし、本作品の価値は、色よりもその彫金の見事さにあるのです。その部分を拡大してみると、、、👇

 香水瓶の口部分に施された、この非常に繊細な彫りは、本作品を手がけた金銀細工工房の卓越した技術を十分に伝えるものです。しかも、栓のモチーフとなっているのは、なんと仏陀! おりしも当時は、中国趣味が流行していたことを考えますと、この持ち主の部屋には、美しい東洋磁器も多数飾られていたのかしらと、持ち主のインテリアまで、あれこれ想像が掻き立てられます。

 約60年ぶりに生じた1720年のマルセイユの大ペストや1722年の再拡大のように、忘れた頃に断続的に到来する感染症。色とりどりのガラスの香水瓶は、感染症の脅威を経験したからこそ、予防効果を期待して香りを用い、美しく装って、人々との交流を大切にした昔日の人々の存在を教えてくれます。それは、約300年後にパンデミックを経験した私たちにとって、尊い遺産のひとつではないでしょうか。

岡村嘉子 (特任学芸員)