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生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡

 2024年春、海の見える杜美術館では、「生誕160年 竹内栖鳳 天才の軌跡」を開催いたします。

 竹内栖鳳(1864~ 1942)は、明治から昭和の前期にかけて、長きにわたり近代京都画壇の中心的な画家として活躍し、近代の日本画に多大な影響を及ぼしました。若い頃より旧習を固守する京都の日本画を変えようと、意欲的に古典を研究し、流派の垣根を超え様々な描き方を学びました。1900年(明治33)、海を渡り西洋美術に触れて以降、西洋の写実を取り入れ、日本画に近代化をもたらします。77歳で没するまで、生涯を通じて新たな表現を模索し続け、意欲的に作品を制作しました。

 当館は、開館以来約40年の年月をかけ、竹内栖鳳に関連するコレクションを充実させてきました。その中で、竹内栖鳳が旧蔵していた資料をはじめ、イタリア・ローマの遺跡を見た感興をパノラマティックな大画面に表した《羅馬之図》や、栖鳳の画業の中でも珍しい油絵作品《スエズ景色》などを収蔵する機会に恵まれました。これまでも何度か展覧会でコレクションをご覧いただく機会を設け、2018年の当館のリニューアルオープン以降は、「竹内栖鳳展示室」にて作品と資料をご紹介してきましたが、当館の栖鳳コレクションを一挙にご覧いただく機会はおよそ10年ぶりとなります。今回は、他館の貴重なコレクションもお借りして、栖鳳の若年期から、晩年に至るまでのその創作の軌跡をご覧いただく展覧会となります。

 さらに、作品だけではなく、栖鳳の下絵などの資料や、旧蔵の品、親交のあった画家たちとの合作、彼が監修した版画作品などから、栖鳳の画家としての活動を多角的にご紹介いたします。

 徹底した写生により動植物の形や質感を把握し、卓越した筆の技で的確にそれを描写する栖鳳の作品の魅力を味わっていただくと共に、それらがどのように作られてきたのかをご覧いただければ幸いです。

 最後になりましたが、今回の展覧会に際し、貴重な作品をお貸しくださった各館、ご協力をくださった関係各位に、お礼を申し上げます。

チラシPDFダウンロードはこちら

【基本情報】

[会期]2024年3月16日(土)〜2024年5月12日(日)
[開館時間]10:00〜17:00(入館は16:30まで)
[休館日]月曜日(ただし4月29日(月・祝)、5月6日(月・祝)は開館)、4月30日(火)、5月7日(火)
[入館料]一般1,000円 高・大学生500円 中学生以下無料
*障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。*20名以上の団体は各200円引き。
[タクシー来館特典]タクシーでご来館の方、タクシー1台につき1名入館無料
*当館ご入場の際に当日のタクシー領収書を受付にご提示ください。
[主催]海の見える杜美術館
[後援]広島県教育委員会、廿日市市教育委員会


【イベント情報】

■記念講演会
日時: 2024年5月4日(土・祝)午後1時30分~(開場:午後1時)
会場: はつかいち文化ホール ウッドワンさくらぴあ小ホール
(広島県廿日市市下平良1‒11‒1)
講師: 廣田 孝(京都女子大学名誉教授)
講演内容:「京都における竹内栖鳳の明治20~40年代の活動」
参加費:無料

◆特別鑑賞会のおしらせ
講演会の終わりは午後3時30分を予定しております。
その後、展覧会観覧ご希望の方に、特別鑑賞会を行います。
講演会会場から海の見える杜美術館へのバス(帰りの便午後6時頃広電廿日市市役所前着)をご用意いたします。参加を希望される方は、講演会お申込みの際に参加希望の旨をご記入ください。

申し込み方法:往復ハガキまたはメールにてお申し込みください。
「栖鳳展講演会参加希望」(メールの場合件名として)とご記入の上、
①参加人数、②参加希望者全員の氏名、③代表者の住所、④代表者の電話番号、⑤特別鑑賞会に参加ご希望の方はその旨を明記し、4月25日(木)までにお申し込みください。
返信ハガキの宛先には、代表者の住所氏名をご記入ください。
当館より折り返しご連絡いたします。
なお、定員に達ししだい締切とさせていただきます。

ハガキ宛先:〒739-0481 広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701
海の見える杜美術館 栖鳳展講演会係宛
メール宛先:info@umam.jp

【お申込みいただいた方へ】

※往復ハガキにてお申し込みの方
講演会の詳細は、4月上旬から返送用ハガキでご案内いたしますので、今しばらくお待ちください。

※メールにてお申し込みの方
お申し込み後、受付確認のメールを返信いたします。
講演会の詳細は、4月上旬から改めてメールでご案内いたしますので、今しばらくお待ちください。

問い合わせ先:海の見える杜美術館 Tel.0829-56-3221


■当館学芸員によるギャラリートーク
日時: 2024年3月30日(土)、4月13日(土)、5月11日(土)
各日午後1時30分~
会場: 海の見える杜美術館 展示室
参加費:無料(ただし、入館料が必要です)*事前申し込み不要


【章立て・主な出品作品】

第1部 近代京都画壇の夜明けとともに

 栖鳳は幕末の1864年(元治元)、京都の二条城近くの料亭「亀政」の子として生まれました。店の客の友禅画家が見せた筆さばきに魅せられた幼い栖鳳は、次第に画家としての道を志すようになります。10代の半ばから絵の道に入り、四条派の画家・幸野楳嶺(1844~1895)に師事、「棲鳳」の画号を与えられました。

 栖鳳が画家としての歩みを始めた頃の京都の美術界は、明治という新しい時代の中で、土地に育まれた長い伝統を尊重しつつも変革の気運が高まり、ある種の熱を帯びていました。1886年(明治19)、アーネスト・フェノロサは京都で講演を行い、東京の画家たちの進歩に比べ、京都の画家たちは自分の流派や様式を守ることにこだわりすぎている、新時代にふさわしい日本画表現を目指すべきだと京都の画家たちを鼓舞しました。これに大いに刺激を受けたこともあってか、栖鳳は、様々な古画を研究・模写し、複数の流派の描き方を駆使した作品を発表します。そのような態度は時として「鵺派」(鵺は様々な動物の体が合わさった妖怪のこと)という批判も受けましたが、栖鳳は展覧会で受賞を重ね、当時の美術界で順調に実力と存在感を示していきます。

 明治の時代の熱の中で、京都の伝統を受け入れながら新しいものを作り出そうとした画家の熱意を、作品から感じ取っていただければ幸いです。

竹内栖鳳《観花》1898年(明治31) 海の見える杜美術館蔵 

竹内栖鳳《春秋屏風》1889年(明治22)頃 海の見える杜美術館蔵 

竹内栖鳳《雪中躁雀図》1899年(明治32)頃 海の見える杜美術館蔵 
竹内栖鳳《涼蔭放牧》1897年(明治30) 海の見える杜美術館蔵 

第2章 海を越えて見えたもの

 1900年(明治33)、栖鳳は農商務省と京都市の要請により、当時開催されていたパリ万国博覧会の視察のために渡欧します。神戸から香港、シンガポール、ペナン、スエズからポートサイド、マルセイユ、パリへ。そしてロンドン、ベルリン、ウィーン、ヴェネツィア、フィレンツェ、ローマ等を巡遊しました。この渡欧経験は、栖鳳の画業において非常に大きな転機となり、渡欧後、画号もそれまでの「棲鳳」から「栖鳳」へと改めます。

 栖鳳はその旅で、画家ラファエル・コランやジャン=レオン・ジェロームに会い、日本では見ることの叶わなかった風景や動物、特にライオンの実際の姿を目にし、ターナーやコローをはじめとする画家たちの作品に触れ感動を覚えました。西洋美術の神髄を写実にあるとして作品に反映させつつ、東洋絵画の持ち味である「写意」もより一層意識し自らの表現に活かすことになります。

 ここでは海を越えて目にした事物が主題の作品をご覧いただきます。これらの作品からは、栖鳳が西洋との出会いで得た新鮮な感動を感じ取れることでしょう。

竹内栖鳳《訓象》1905年(明治38)頃 海の見える杜美術館蔵 

竹内栖鳳《獅子》1901~02年(明治34~35)東京富士美術館蔵(展示期間:4月16日~5月12日)

竹内栖鳳《羅馬之図》1903年(明治36) 海の見える杜美術館蔵(展示期間:3月16日~4月14日) 

第3章 画壇の中枢へ

 渡欧から帰った栖鳳は、名実ともに京都画壇の中心的存在となっていきます。

 1907年(明治40)、全国的な規模の展覧会、文部省美術展覧会(通称文展)が開催されるようになると、既にその実力を認められていた栖鳳は審査員を務め、かつ、意欲的な作品を次々発表していきます。さらに京都市立絵画専門学校の教諭を務め、自身の画塾竹杖会では多くの弟子を育て、京都画壇全体の指導者、牽引者となりました。自分の絵画の価値を理解してくれる強力な支援者も得て、その創作は一層充実していきます。  栖鳳はここでも様々な描き方、様々な画題に取り組んでいます。《悲秋図》(No.3-10)、《邨はずれの月》(No.3 -18、展示期間4/16~5/12)などの風景画からは、広がりと奥行きのある空間や光や大気を、東洋に古くからある水墨表現を応用して表そうとしたことが見てとれます。渡欧という劇的な体験の後、西洋と東洋の芸術をより咀嚼し、己が描く日本画に活かそうとする姿勢がそこにあると言えるでしょう。

竹内栖鳳《雨》1911年(明治44)京都市美術館蔵 (展示期間:4月16日~5月12日)
竹内栖鳳《港頭春色図》1905年(明治38)頃 海の見える杜美術館蔵 
竹内栖鳳《郊村晩野図》1905年(明治38)頃 海の見える杜美術館蔵 
竹内栖鳳《悲秋図》1905年(明治38)頃 海の見える杜美術館蔵 

第4章 日本画の変革期の中で

 文展という舞台で画家たちがその芸術を競う中、1918年(大正7)、官展の審査に不信感をもった栖鳳の弟子・土田麦僊(1887~1936)や小野竹喬(1889~1979)らを中心とした若手画家が、自由な創作の発表の場を求め国画創作協会を結成、栖鳳もその顧問に就任します。栖鳳の変化を恐れない意欲的な創作への態度は、次世代にも受け継がれたのでしょう、弟子たちは個性豊かな創意あふれる作品を発表しました。それはまさに京都の日本画が新たな変革期を迎えたことを物語る出来事でした。

 そのように若い画家たちの庇護をし、活動を支えながら、自身もまた制作を見つめ直す機会を持とうとしたのか、1920年(大正9)とその翌年、栖鳳は中国を旅します。自分が学んできた日本画の、その本源は中国にあり、中国の絵画を生んだ自然風物、描かれている建物などを、画家として一度どうしても見てみなければならないと感じたのでした。

 明治末から大正にかけて、栖鳳は人物画にも挑戦しています。《絵になる最初》(No.4-5、展示期間5/1~5/12)などの、ヌードモデルのデッサンの際に着想を得た作品も、栖鳳のあくなき挑戦の現れと言えるでしょう。

【重要文化財】竹内栖鳳《絵になる最初》 1913年(大正2) 京都市美術館蔵 (展示期間:5月1日~5月12日)
竹内栖鳳《丘の花》1919年(大正8)頃 海の見える杜美術館蔵 
竹内栖鳳《麦秋》1926年(大正15)頃 海の見える杜美術館蔵(展示期間:4月16日~4月29日) 
竹内栖鳳《風濤》1918年(大正7)頃 海の見える杜美術館蔵 

第5章 自由なる境地へ

 昭和に入ってすぐ、栖鳳は茨城県の水郷・潮来を訪れます。栖鳳以外の人の目にはただの広い村としか思われないだろうその景色に栖鳳は中国・揚州の景色に似たものを見出し、歩いてスケッチを繰り返し、趣あふれる風景画として描いたのでした。潮来に限らず、この頃の栖鳳は特に人が目に留めないような景色、何げない身近な事物や生き物に画趣を見出し作品として残しています。そこには、伝統などに縛られず自由に新しい絵画の題材を求める姿勢が見られます。

 また大正の終わりから昭和にかけて、特に動物画の名品をいくつも残しています。精緻な筆致で動物の毛を描いた作品もある一方で、《若き家鴨》(No.5-14、展示期間4/16~5/12)や《雄風》(No.5-22、展示期間3/16~4/14)のように、線を省きできるだけ少ない筆で描いたものも目につきます。栖鳳の制作の基軸として徹底した写生がありますが、写生によって対象を理解しているからこそ、不要な線をそぎ落とすことができると言えます。 卓越した筆のはこびによる軽妙な味わいは、老境においてますます冴えを見せたといえるでしょう。

竹内栖鳳《臥虎》1927年(昭和2)頃 海の見える杜美術館蔵 
竹内栖鳳《小春》1927年(昭和2) 海の見える杜美術館蔵 

竹内栖鳳《若き家鴨》1937年(昭和12)京都国立近代美術館蔵(展示期間:4月16日~5月12日)

竹内栖鳳《潮来初夏》 1929年(昭和4)頃 海の見える杜美術館蔵 

竹内栖鳳《雄風》1940年(昭和15)京都市美術館蔵 (展示期間:3月16日~4月14日)

第6章 栖鳳余録

 栖鳳は常に京都画壇の中心で活躍し続けました。称賛と批判の中、歩み続けたその画業において、様々な逸話が残っています。ここでは、絵画資料や、作品の下絵作品の中でも特に栖鳳の人間関係をうかがわせるものをご覧いただきます。

 栖鳳は自分の制作のために絵葉書や写真、書籍を収集していたほか、師の幸野楳嶺から受け継いだ絵画資料を、生涯を通じて保管しており、それらが栖鳳の制作の着想源になったことが伺えます。また下絵類からは、栖鳳が細部の描写にいたるまで細かに気を配りながら構想を練っていたことが分かります。

 そして、師の幸野楳嶺や、画の道を支えてくれた姉の琴、娘たち、友人の寺崎広業(1866~1919)との交流は、栖鳳の言葉でも語られていますが、その思いは作品という形でも表れています。

 どれも天才画家・栖鳳の人間としての意外な一面を物語る、味わい深い作品や資料です。

竹内栖鳳《打掛》1919年(大正8) 海の見える杜美術館蔵

竹内栖鳳・寺崎広業《竹梅図》 竹梅:1910年(明治43)小禽:1932年(昭和7) 海の見える杜美術館蔵