引札 日の出と菊花を背景に立つ男女

2017-002-37 合名会社 清見屋商店

日の出と菊花を背景に一組の男女が肩を寄せ合って立っています。

日の出は、新年があかるく希望に満ちた年であることを示し、菊は延命長寿、無病息災を願う吉祥の花です。

右側の男性は宮内官(奏任官)の大礼服(※1)を着用しています。奏任官は「明治官制で、天皇が内閣総理大臣や主管大臣または宮内大臣の奏薦によって任ずる官」(※2)です。奏任官は官僚としての出世コースのひとつでもありました(※3)。この絵は出世を寿(ことほ)ぐものでもあるのでしょう。

引札  合名会社 清見屋商店 版元名 海の見える杜美術館

絵の左の余白に小さく「明治四十一年七月十日印刷仝年八月卅日発行印刷兼発行者大阪市東区備後町三丁目廿七番屋敷平民古島竹次郎」と書かれています。

これは引札の、印刷日・発行日・印刷兼発行者を表しています。古島竹次郎(古島印刷所)が明治41年7月10日に印刷し、同年8月30日に発行したものです(※4)。そして絵の左側に太々と「常州行方郡潮来町 合名会社 清見屋商店」と書かれているので、この引札は「清見屋商店」が明治41年の暮れに、お得意様に配って回った引札であることがわかります。「明治42年もまた清見屋商店をよろしくお願いします。」という挨拶の品でもあります。

引札には詳しい住所も事業内容が書かれていないので、「清見屋商店」がどこの何の店なのかわかりませんが、管見の限り明治時代から現在まで続く「清見屋」と呼ばれる老舗が潮来に2軒ありましたので、もしかしたら、こちらのお店の引札かもしれません。

1軒目は「清見屋洋品店」。明治時代から続くお店で、昔は呉服・自転車の部品・雑貨類を扱っていたようです。しかし当時の資料がないのでこの引札を配ったお店なのかはわかりません(※5)。
「自転車の部品」について少し補足しておきます。自転車は当初は輸入車が主流でした。高価な乗り物で、明治42年はイギリス製が120~200円、国産は50~150円で販売されていました(※6)。当時の巡査の初任給が約12円(※6)なので、1台の自転車の価格は巡査の年収にあたります。学費に例えるなら、早稲田大学・慶応大学の年間の学費が50円以下ですから、大学の学費およそ4年分(※7)に相当する価格です。自転車は今では考えられないほどの高級品でした。

もう1件は「株式会社セイミヤ」。明治20年創業。当初は半農半商で、商いは漬物商として冷蔵庫がない時代に保存のきく塩をしっかりした漬物を手広く販売していました。まだ盆暮れ集金の掛け売りが大勢の頃に、比較的早く現金掛け値なしの商売を始めた大店だったようです。スーパーマーケットとして事業拡大したのは戦後のこと。昔の資料がないのでこの引札が「株式会社セイミヤ」のものとは断定できませんでした(※9)。

この引札が、どこの店で配布されたものなのか、未だ見当つきませんが、少なくとも、清見屋洋品店様・株式会社セイミヤ様(順序不同)が100年以上もの昔から現在まで、地域を代表する企業としてご活躍しておられることがわかりました。

やはり引札は歴史に思いをはせることができる興味深いものです。

最後になりましたが、清見屋洋品店 元店主 須田素行様、株式会社セイミヤ 代表取締役社長 加藤勝正様(順序不同)には、ご多用のなか、会社の歴史について丁寧にご教示いただき、また、情報の掲載を快くご諒解いただきました。厚く御礼申し上げます。

海の見える杜美術館では、2021年11月27日から「引札」の展覧会を開催します(※10)。

ところで余談ですが、住所と社名の読みについて。
常州(常陸国 ひたちのくに)
行方郡(なめかたぐん)
潮来町(いたこまち)
清見屋(せいみや)
どうしてこのような読み方なのでしょうか。筆者にとってはいずれも一筋縄ではいかない読みばかりでした。

※1男性の服装は、風俗博物館のHPで日本服飾史の資料として挙げられている奏任文官大礼服と同じデザインです。ただ、そこでは帽子の飾毛は黒となっているので、この引札の男性が左手に持つ帽子の白い飾毛と色が合いません。しかし、杉野学園衣装博物館所蔵の大礼帽の解説には「明治時代 宮内官(奏任)大礼服に付属する帽子。山形で、駝鳥の羽根がたっぷりと付けられている。」として、白い羽がついている帽子が紹介されています。

※2 「日本国語大辞典」(縮刷版)第6巻 小学館 1982第1版第10刷 「奏任官」の項

※3 「東京帝大を卒業して奏任官になった者の割合の年次変化を見ると、1893-97(明治26-明治30)年にはほぼ全員であった」 E.H.キンモス『立身出世の社会史: サムライからサラリーマンへ』玉川大学出版部 1995 206頁

※4 ただしこれらの情報は絵の印刷に関するものであって、商店名の文字の部分の印刷についてはわかりません。全国各地の引札販売業者は9-10月頃、引札見本帳(商店の名前が印刷されていない絵だけの状態の引札が綴じられたもの)をもってまわり、新年に配る引札の注文を各商店から取ってきます。そして商店が指定した図柄の必要数を元売りの大きな印刷所から仕入れて、商店名はあとから地元の印刷所で印刷することもあったからです。

※5 清見屋洋品店(茨城県潮来市潮来922-1)元店主 須田素行氏にご教示賜りました。

※6 『値段の明治大正昭和風俗史』朝日新聞社 1981 「自転車」の項

※7 同「巡査の初任給」の項

※8 同「大学授業料」の項

※9 株式会社セイミヤ(茨城県潮来市潮来617)代表取締役社長 加藤勝正氏よりご教示賜りました。

※10
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

引札 門松の前をあるく母と子

引札は、江戸時代(1603-1868)から始まる、いわゆる広告のチラシです。

明治時代(1868-1912)から大正時代(1912-1926)のころは、新年を寿(ことほ)ぐ絵を描いた引札が、年末に大量に配られていました。

2016-010-21呉服店(縮小) 海の見える杜美術館

門松の前、晴れ着を着た親子連れが歩いています。そのにこやかな表情や子供たちの元気あふれるしぐさから、新年の高揚した気分が伝わってきます。

画面左上は、反物を巻くように画面が巻き下げられて、そこには繁盛している商店の様子が描かれています。

扇久呉服店 商店の繁栄 海の見える杜美術館

商店の看板には「勉強」の文字が見えるので、「お安うしまっせ」とか、「お、ねだん以上。」とか、いくつかの某有名店のキャッチフレーズが聞こえてきそうです。お得感満載の商店なのでしょう。すると手前を歩く女性が手にしているのはその商店で買った商品、そして子供が手にする風船は、そこでもらった景品なのかもしれません。

扇久呉服店 風船 海の見える杜美術館

この引札はいつごろ配られたものなのでしょうか。印刷の技法など勘案するに、おそらく明治末から大正初めの頃ではないかと、筆者は今のところ考えています。子供が持っている浮いた風船が時代に則しているか気になったのですが、岩手県立美術館所蔵の萬鐵五郎《風船をもつ女》1912~13(明治45~大正2)年に描かれた風船もしっかり浮いているので、とりあえず明治末から大正初めと考えても問題なしとして、この引札の正確な制作年代の特定は別の機会に譲りたいと思います。なおこの絵の作者は広瀬楓斎(春孝)。数多くの引札を手掛けている人気の作家です。

引札に書かれた文字は「呉服太物祝儀小袖商 並ニ 毛布洋傘るい 能登川 (山久印)扇久呉服店」。つまり、呉服ほかの織物から毛布・傘まで生活用品を手広く扱う、「扇久呉服店」の新年のあいさつのチラシということがわかります。

「能登川」というのは滋賀県にある店の所在をあらわしていますが、明治時代のはじめに伊庭村から分立した能登川村のことではありません。1889年(明治22年)に「能登川駅」が能登川村から約1km離れた五峰村と八幡村の境にできて後に、能登川村から離れていた駅周辺を指すようになった通称の「能登川」です(※1)。なお「扇久呉服店」の当時の行政区画上の住所は八幡村です。

「扇久呉服店」は5代目出路久右衛門が1897(明治30)年に「扇久呉服店」または「扇屋呉服店」として創業しました。昭和34年7代目の時に「有限会社 扇久」となり、平成26年に現当主、出路敏秀氏が8代目出路久右衛門を襲名され、今年創業124年を迎えています。(※2)

創業時の店の名前はまだ特定できていないのですが、明治45年の能登川列車時間表に記された名前は「(山久印) 扇屋呉服店」です(※3)。また、刊行年不明の双六には「(山久印) 扇屋呉服店 能登川 電話二番」と記されています。「扇屋呉服店」の時代に電話番号があったのなら、電話番号が記されていない「扇久呉服店」の引札は、「扇屋呉服店」の前の時代、つまり明治45年より前なのかなあ、と思ったりしますが、まだまだ詳細な検討が必要なので、年代特定はやはり別の機会にします。

20210519122531-0001

能登川駅前商店 商売繫栄双六

ところで、「能登川駅前商店 商売繫栄双六」の写真(※4)を見ると、「出し」が谷川新聞舗、そのあと1~34番までの各コマに料理屋・写真館・タクシー会社など店舗の紹介があり、そして中央に大きなコマで「上り」が扇屋呉服店になっています。能登川周辺の地は近江商人発祥の地のひとつであり、近代は紡績で栄えていたことが知られていますが、この双六からは、能登川駅前商店の繁栄ぶりがうかがえ、その中でも「扇屋呉服店」が商店街を代表する商店だのだろうと想像されます。その中でも「扇屋呉服店」が商店街を代表する商店だったのだろうと想像されます。また電話番号が2番というのもその推測を補強します。当時は電話番号1番は行政・電話局・郵便局など公的機関が優先的に使用しているようですからとることは困難です。電話番号2番ということは、民間の1番。この地域で特別な商店であったのではないでしょうか。

引札には歴史を読み解くヒントがちりばめられています。
当時の歴史に思いをはせていただけましたら幸いです。

海の見える杜美術館では、2021年11月27日から「引札」の展覧会を開催します(※5)。

 

最後になりましたが、扇久社長 出路敏秀氏には、ご多用のなか「扇久呉服店」について丁寧にご教示いただき、また、資料の掲載を快くご諒解いただきました。厚く御礼申し上げます。

 

※1 駅の名前がなぜ村の名前と一致しないのかなどの経緯は、東近江市能登川博物館からウェブで公開されている「ふるさと百科 能登川てんこもり」の「人とひと」の参照。

※2 「扇久呉服店」に関する資料の存在が確認できなかったため、8代目当主の出路敏秀氏がまとめてくださいました。貴重な資料なので記録として掲載いたします。

有限会社 扇久 〒521-1221 滋賀県東近江市垣見町1318

1897 明治30年     5代目出路久右衛門 襲名 現地にて呉服店創業 26歳
1936 昭和11年10月19日 6代目出路久右衛門 襲名
1959 昭和34年8月8日  7代目 出路 弘     有限会社 扇久 設立 社長就任
1987 昭和62年3月1日  8代目 出路 敏秀    有限会社 扇久 社長就任
2014 平成26年12月14日 8代目 出路久右衛門 襲名
2021 令和3年5月現在              社長 出路 敏秀 78歳

※3 東近江市文化スポーツ部 歴史文化振興課 『東近江市史 能登川の歴史』ダイジェスト版 88頁。

※4 出路敏秀氏提供。

※5
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

引札 空を飛ぶ七福神

引札は、江戸時代(1603-1868)から始まるいわゆる広告のチラシです。

明治時代(1868-1912)から大正時代(1912-1926)のころ、新年を寿(ことほ)ぐ絵を描いた引札が、年末に大量に配られていました。

引札 海の見える杜美術館 (1)

七福神が、空を飛ぶいろいろな乗り物に乗って、富士山を見晴るかす海岸の夜明けの空を舞っています。夜明け・富士山・七福神、いずれも新年を寿ぐ吉祥の題材ですし、空を飛ぶ飛行機・飛行船はまるで正月に高く揚がる凧のようでもあります。年の瀬にこの引札をもらった人は、新しい年を迎えるにあたって、とても希望に満ちた気持ちになったのではないでしょうか。そして家のどこかに飾ったかもしれません。

描かれている飛行機のモデルの1つとなったと思しき当時の飛行機は、たとえば1番手前の恵比寿大黒が搭乗しているのはブレリオ、その上の方、飛行船2つはさんで箱形の機体はアンリ・ファルマン、の面影が垣間見えます(※1)。

アンリ・ファルマン機 提供:所沢航空発祥記念館 (1)
アンリ・ファルマン機 提供:所沢航空発祥記念館

アンリ・ファルマン機 提供:所沢航空発祥記念館
アンリ・ファルマン機 提供:所沢航空発祥記念館

1910(明治43)年12月19日、日本人による動力付き飛行機でのフライト国内初成功が報じられました(※2)。そして翌1911(明治44)年には海外から多くの飛行家がやってきて全国各地で⾶⾏会が開催されるようになりました(※3)。志賀直哉は『暗夜行路』にこのころの飛行機の話題を取り入れ、石川啄木は死の前年にあたる1911(明治44)年6月27日、「飛行機」という詩をつくっています。(※4)

この引札には印刷した日付が入っていないので制作年ははっきりしません。しかしもらった人が喜んでくれることを期待して作られるものですから、描かれた飛行船や飛行機のモチーフと思われる機体が製造されていて、かつ飛行機熱が高まっていたころ、つまりこの引札は、明治末から大正初期に配られたものではないかと思います。

当時の新聞は今ほど各家庭まで届いていませんし、掲載された写真ははっきりしないモノクロでした。もちろんテレビもインターネットも無いわけですから、飛行機や飛行船についてのイメージは、引札に描かれた絵を見てはじめて知る人もいたことでしょう。引札は新しい時代の情報を人々に届けるメディアのような役割も果たしていたかもしれません。

そのような人々の興味を惹く絵を背景に黒々と書かれている文字は「太物類 洋反物 メリヤスシャツ ぱっち 足袋 京都市松原通麩屋町東入 商標武徳印 松永商鋪 電話下八五三番」。松永商鋪は、綿織物や麻織物、西洋の生地からメリヤスシャツ、ぱっち、足袋など、服に関する和洋いろいろな商品を取り扱っている店のようです。

電話番号は下853番。この3桁の番号は京都では昭和3年までしか使われていないので、この引札はそれ以前のものということは間違いありません。大正11年の電話番号簿にこのお店の番号が掲載されていました(※5)。
電話番号簿 大正11年 京都 表紙松永友三郎登録者は松永友三郎という名前になっています。それでは当時の人の気分になって、電話をかけてみましょう。

まず電話番号簿に記された「電話加入者心得」をしっかり読んでください。10頁です。

電話加入者心得「受話器を耳にあてますと交換手が「何番へ」と問いますから直ぐ相手の局名番号をはっきり告げてください。加入者の過失で相手の番号を間違えたときは有料になりますから前もってよくお調べ願います。」(適宜現代の言葉遣いに改めました)。よろしいですか、それでは「通話の注意」の図をよく見て、正しい姿勢でかけてください。

通話の注意

明治大正時代の引札を見て、当時の時代の雰囲気をお楽しみいただけましたら幸いです。

海の見える杜美術館では、2021年11月27日から「引札」の展覧会を開催します(※6)。

青木隆幸

※1 飛行機の同定について、所沢航空発祥記念館様より数々の示唆に富むご教示を賜りました。また、「アンリ・ファルマン機」の写真をご提供いただきました。厚く御礼申し上げます。所沢航空発祥記念館には様々な飛行機が展示されていて、飛行機の歴史を学ぶことができます。また現在(2021年)、所沢飛行場の空を初めて飛んだ飛行機「アンリ・ファルマン機」の特別公開がおこなわれています。詳しくは同館HPをご確認ください。

※2 「飛行界レコード成る」東京日日新聞(現毎日新聞) 1910年12月20日p.4

※3 「飛行自在」東京朝日新聞(現朝日新聞) 1911年4月3日 朝刊 p.5

※4 「第5回 ようこそ、空へ―日本人の初飛行から世界一周まで―」 国立国会図書館 ミニ電子展示「本の万華鏡」https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/5/index.html

※5 国立国会図書館蔵 インターネット公開(保護期間満了)    https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/909504

※6
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

うみもり香水瓶コレクション10 シャネル社《No.5》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。1925年の通称アール・デコ展を彩ったフランスの老舗香水メーカーの香水瓶を前回、前々回と取り上げましたが、今回は、ウビガン社の美しい香水瓶《ラグジュアリー》が、なぜ時代に逆行したデザインとみなされてしまったのかを、別の面から掘り下げたいと思います(この意地悪な見方、ちょっとしつこいですよね!)。再び登場! 👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ウビガン社、香水瓶《ラグジュアリー》1925年、透明クリスタル、金、デザイン:ジョルジュ・シュヴァリエ、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、HOUBIGANT, LUXUARY FLACON, Georges CHEVALIER -1925, Transparent crystal, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

その背景にあったのは、ずばり、香水分野における服飾メゾンの台頭です。近代以降の香水の歴史において、製造販売を担っていたのは香水製造会社でした。しかし20世紀に入ると、そこに服飾メゾンが参入するようになります。この流れを決定づけたのが、デザイナーのガブリエル・シャネルでした。実は、彼女の以前にも、ファッション・デザイナーが、ドレスに見合う香水を独自に製造し販売していました。それには例えば、香水散歩でも度々取り上げた、ポール・ポワレが挙げられます。彼は、シャネルに先立つこと10年前から、香水製造を手掛けていましたが、その際、自分のブランド名を香水には冠せずに、「ロジーヌ社」という別名の会社を設けて発表していました。こちら👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

左:ロジーヌ社(ポール・ポワレ)、《パウダー・ボックス》厚紙、布、絹、デザイン:コラン工房、1911年、海の見える杜美術館所蔵、POIRET,Parfum de ROSINE, POWDER BOX,design by Colin workshop, Card board, fabric, silk、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

右:ロジーヌ社(ポール・ポワレ)、アトマイザー《ポワレ》透明ガラス、エナメル彩、デザイン:マルティーヌ工房、1912年頃、製造:マルティーヌ工房、海の見える杜美術館所蔵、POIRET,Parfum de ROSINE, POIRET ATOMIZER, Design by Martine worlshop,Ca.1912, Transparent glass, enamel, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※このアトマイザーには1911年の香水「トゥットゥ・ラ・フォレ」が入れられました。

 

つまり、ポワレのドレスのための香水は、ポワレ社製ではなくロジーヌ社製なのです。現在からすると、「まあ、なんと紛らわしいことでしょう!」とひとこと言いたくなりますが、当時はそれほどまでに香水製造と服飾デザインが分けて考えられていたということでしょう。

けれどもシャネルは、そのような旧来の価値観にとらわれることはありませんでした。本業の服飾デザインにおいても、コルセットの要らないストンとした直線的シルエットを数多く採用したり、下着用とされていたジャージー素材をドレスに用いたりと、社会通念よりも、ドレスを着る人間の着心地そのものを重視し、女性の身体を窮屈にする過去の細々とした決まり事を、次々と取り払ってきた彼女には、服飾と香水のジャンル分けなど、そもそも大して意味をなさなかったのでしょう。こうして、服飾メゾンのシャネル社の香水は、シャネル社製という、今日ではごく当たり前となったファッションと香水の一体化を最初に行うことになったのです。

その記念すべき香水は、1921年に発表された、かの有名な《No.5》です。画像3

シャネル社、香水瓶《No.5》1921年、透明ガラス、リボン、デザイン:ガブリエル・シャネル、1920年(画像はジャック・エリュによる1970年)製造:ブロッス社、CHANEL, No.5 FLACON, Design by Gabrielle CHANEL-1920/New design by Jacques HELLEU-1970, Transparent glass, ribbon、

夏の庭園から着想を得たとされる香水は、自然の香りの表現のためには人工的に構成されるべきとする(これだけでも、当時はとても斬新な発想です!)シャネルの考えに基づき、合成香料の特質を熟知したロシア人調香師エルネスト・ボーが手がけました。3種類の合成香料と、非常に高価で貴重な南仏グラース産の最高品質のジャスミンやバラを惜しみなく大量に使い、80種類以上もの香料と混ぜ合わせて作られた香りは、シャネルがボーに注文した通り「女性の香りのする、女性のための香水」であると同時に、かつて誰も作り出したことのない革新的な香りでした。発表されるやいなや、人々を驚かせるだけではなく、大いに惹きつけ、大成功をおさめました。その魅力は、発表からちょうど100年を経た今日においても、世界中で愛され続けていることからも伺えますね。

この香水は、香水名が数字である点でも、前例を見ないものでした。それ以前の香水名は、花の香りを想起させるものや、詩情豊かな言葉が使われるのが常でしたが、シャネルが付けた名前は、なんと単に「No.5」のみ。それはボーによる試作品のうち5番目の香りをシャネルが選んだことや、彼女のラッキーナンバーに由来するのですが、シンプルさや単純化こそが、現代性の象徴として浸透し始めた当時においてすら、何人たりとも思いつかなかった、究極のシンプルさでした。

その究極のシンプルさは、シャネル自身がデザインを手がけた、一切の装飾のない香水瓶にも表れています。その着想源は、紳士用の旅行用洗面セットとも、ウィスキーのデカンタともいわれています。しかし私がもっとも驚いたのは、ボトルよりもラベルです。こちらです☛画像4

素気ないほどに、いかなる装飾もありません。シャネルの時代をしばし脇におき、シャネルより前時代、例えば19世紀後半から1910年代までの数々の香水瓶を思い出すと、当時は香水ごとにボトルのデザインを造り変えないことも多かったため、ボトル自体は、比較的シンプルなものが多く見られます。ただしその代わり、ラベルやケースには趣向が凝らされていました。例えばこちらはゲラン社の「ルール・ブルー」と「ミツコ」ですが、ともに同じ型の香水瓶に入れられていますね.。箱のデザインも凝っています👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

上:ゲラン社、香水瓶《ハート型栓香水瓶》香水「ルール・ブルー」1912年、透明クリスタル、デザイン:レイモン・ゲラン、1911年、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、CHANEL, No.5 FLACON, Design by Gabrielle CHANEL-1920/New design by Jacques HELLEU-1970, Transparent glass, ribbon、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 右:ゲラン社、香水瓶《ハート型栓香水瓶》香水「ミツコ」1916年、透明クリスタル、デザイン:レイモン・ゲラン、1911年、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、CHANEL, No.5 FLACON, Design by Gabrielle CHANEL-1920/New design by Jacques HELLEU-1970, Transparent glass, ribbon、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

そのような中、シャネルはラベルやケースさえも、この上なくシンプルにしてしまったのです。ケースはこちら👇

画像7

白い箱に黒のラインのみのという簡素さです。またそれは、香水瓶の素材においても同じことが言えます。

それ以前は、高級な香水がおさめられる場合には、下の画像のようなクリスタルか天然石が素材とされましたし、仮にガラスが用いられる際にも、ルネ・ラリック社のように、芸術性の高い特殊な加工が施されていると相場が決まっていました。しかしシャネルが選んだのは、何の変哲もない透明ガラスだったのです。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

L.T.ピヴェール社、香水瓶《カラフォン》1908年、透明クリスタル、金、デザイン・製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、PIVER,CARAFON FLACON, Cristalleries de Baccarat– 1908, Transparent crystal, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

香水瓶にまつわるあらゆる既成概念を取り払い、新たな時代を切り開いた《No.5》を前にすると、すべてにおいて大切なのは香水瓶ではなく、中身なのだという彼女の主張が聞こえてくるようです。それはファッションにおいて他者に与える印象だけではなく、纏う人本人が快適であることをも重視したデザイナーだからからこそ、辿り着いた考えであるでしょう。

さて、冒頭のウビガン社《ラグジュアリー》が発表されたのは、シャネルの《No.5》による大成功の後、4年も経てからのことです。高級素材と技術を駆使した香水瓶の見た目の《ラグジュアリー》さよりも、目に見えない香りという中身の《ラグジュアリー》さと、それを可視化する香水瓶のシンプルさを追求することに新たな価値を見出した人々の目に、ウビガン社の豪華絢爛な《ラグジュアリー》が、もはや時代遅れと映ってしまったのは、仕方のないことであったと思えるのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

うみもり香水瓶コレクション9 ウビガン社《ラグジュアリー》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。前回はL.T.ピヴェール社《黄金の夢》という、1925年、パリでの通称アール・デコ展に出品された、「これぞ時代の先端をゆくフランスのアール・デコ・デザイン!」といった感の香水瓶を取り上げましたが、今回は、同博覧会場にて、批評家たちから時代に逆行したデザインとみなされてしまった香水瓶をご紹介します。ちょっと意地悪な切り口ではありますが、第二次世界大戦前の時代の空気がより浮かび上がるかと思います。

こちらの香水瓶です👇

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ウビガン社、香水瓶《ラグジュアリー》1925年、透明クリスタル、金、デザイン:ジョルジュ・シュヴァリエ、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、HOUBIGANT, LUXUARY FLACON, Georges CHEVALIER -1925, Transparent crystal, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

発表された時代を考慮に入れず、作品だけを見れば、その名の通り、ラグジュアリーで素晴らしい香水瓶です。新古典主義のフォルムに、18世紀に王侯貴族のあいだで好まれた絵画の主題、雅宴画〔着飾った貴族階級の人物たちが戸外に集い戯れている情景〕を思わせる図柄が金彩で描かれています。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

それは、ルイ16世の治世下の1775年に設立されたウビガン社のルーツを示すもので、そこに老舗香水メーカーとしての自負が感じられます。実際、ウビガン社はそれを意識したからこそ、創業150周年にあたる年に開催される、フランスの香水産業の実力を国内外に知らしめる博覧会という大舞台に、本作を出品したと考えられています。しかしながらそれは、前述の通り、残念な結果に終わりました。

面白いことに、本作品を製造したメーカーは、バカラ社です。そう、L.T.ピヴェール社《黄金の夢》と同じです。しかも使われた素材も、透明クリスタルに金という同じ組み合わせなのです。要は、素材もそれを使った技術も同様に高いものでありながら、デザインによって評価の明暗を分けてしまったのです。並べてみると、スタイルの違いが顕著ですね。

左:L.T.ピヴェール社、香水瓶《黄金の夢》1924年、透明クリスタル、金、デザイン:ルイ・スー、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、PIVER,FLACON RÊVE D’OR, Louis SÜE – 1924, Transparent crystal, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ところで、ウビガン社の名誉のために付け加えると、ウビガン社はなにもこのような時代遅れの香水瓶ばかりを制作してきたわけではありませんでした。その証拠に、アール・デコ展では、フランスのアール・デコの旗手の一人、ルネ・ラリックにデザインを依頼した香水瓶《美しき季節》も出品しています。こちらです👇。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ウビガン社、香水瓶《美しき季節》1925年、透明ガラス、エナメル彩、デザイン:ルネ・ラリック、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、HOUBIGANT, FLACON LA BELLE SAISON, René LALIQUE – 1925 march 25, Transparent glass,enamel,Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

シンプルなスクエア型のフォルムの中央に、花の香りをうっとりと嗅ぐ女性像を配し、そこから放射状に無数の花が伸びていますね。四角形も放射状の線も、ともにアール・デコを特徴づけるものです。しかもウビガン社のルネ・ラリックによるスクエア型の香水瓶は1925年が初めてではなく、既に1919年の香水瓶でも採用されているのです。こちらです👇。

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ウビガン社、香水瓶《カレ》1919年、透明ガラス、デザイン:ルネ・ラリック、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、HOUBIGANT, FLACON LA BELLE SAISON, René LALIQUE -1919, Transparent glass, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

画像の通り、こちらの装飾はさらにあっさりとしており、新たな時代の到来を十分に感じさせるものになっています。

またウビガン社は、なによりも香水製造において、常に時代の革命児でありました。とりわけ1880年代に、合成香料を使った香水を初めて普及させたことは、特筆せねばなりません。19世紀半ばに誕生した合成香料は、それを使用するか否かが、当初は社会階級に拠ったことを、第14回香水散歩「パリ・グラン・パレ トゥールーズ=ロートレック展」でも言及しましたが、ウビガン社が香水「フジェール・ロワイヤル」を1884年に製造するまで、上流階級にとっては縁遠い存在でした。

当時の調香師ポール・パルケが付けた香水名の「フジェール」とは、フランス語でシダの意味です。シダの香りという、そもそも存在しない(シダは芳香性植物ではありません)がために、誰も嗅いだことがない香りを、パルケは「王の」や「豪華な」という意味の形容詞「ロワイヤル」とともに、香水名に冠したのです。これがもし、「ローズ・ロワイヤル」であれば、バラの天然香料と比較され、合成香料への先入観も相まって「偽物感満載!」「安っぽい」等の批評に甘んじることとなったでしょう。しかしウビガン社は、比較対象の存在しない植物を取り上げて、それらの批判を先に封じ込めてしまったのです。そのおかげでこの香水は成功をおさめることとなり、爾来、ウビガン社に続こうと、合成香料を用いた香水が高級香水製造各社から発売されるようになりました。香水の歴史を塗り替えたパルケ及び共同経営者アルフレット・ジャヴァルの見事な手腕に時を越えて賛辞をおくりたくなるのはきっと私だけではないでしょう。また、このような進取の気性に富む社風であったからこそ、フランス革命前の宮廷人たちに始まり、皇帝ナポレオン、皇妃ジョゼフィーヌ、英国ヴィクトリア女王、ロシア革命前日までのロシア皇帝家など、ときの為政者たちから絶大な信頼を勝ち得てきたのだと思います。

さて、話を今回の主役《ラグジュアリー》に戻しましょう。

セーヴル磁器製作所における軟質磁器と硬質磁器を思い出すまでもなく、ことに装飾美術の製作者は、革新的な作品を生み出す一方で、その需要がある限り、前時代に興隆した作品をも製作し続けるものです。従って、この香水瓶は、ウビガン社の顧客の中に、このクラシックなスタイルを好む者たちがいたことを物語っています。第一次世界大戦開戦直前から1920年代までの、イギリスのとある伯爵家の人々を描いた人気ドラマ「ダウントン・アビー」に登場する、ヴィクトリア時代の慣習の中に生きるおばあ様あたりは、新奇なアール・デコ・デザインには眉をしかめながらも、本作品には、あたかも懐かしい友を見出したかのように、目を輝かせそうではありませんか。そう考えるならば、香水瓶《ラグジュアリー》は、単に時代遅れの香水瓶として片づけられるものではなく、より重層的な1920年代のヨーロッパの相貌を今に伝えてくれるものなのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

小松均の風景画2点 「小松均 自然を愛した画仙のまなざし」展

小松均(1902〜1989)は、山形に生まれ、後に京都に出て土田麦僊の門下生となって活躍した日本画家です。京都・大原で自給自足の生活をしながら作画活動を続け、世俗とは無縁の暮らしぶりを続けたことから、「大原の画仙」とも呼ばれます。その生誕120年を記念して、当館が所蔵する小松作品をご紹介する展覧会「小松均 自然を愛した画仙のまなざし」を開催しています。

早いもので小松均展、開館から2週間が経ちました。今回のブログでは展覧会のみどころのひとつ、昭和10年代に制作された2つの風景画の大作をご紹介します。

小松の代表作といえば、昭和40年代、60歳代以降にてがけた故郷の最上川や、終生の住まいとして愛した大原の景色、雄大な富士山の景観を描いた大作の風景画が良く知られます。いずれも時に土俗的と表現される力強い独特の墨線を執拗に重ねて、自然の真の姿を写し取ろうとしたものです。当館の所蔵する小松の風景画2点は、その独自の風景画にいたる以前、昭和15年(1940)、38歳の時に伊豆下田の風景を描いたもの。この時期小松は南画家たちとの交流の中で墨を用いた風景画への傾倒を示し始めており、いわば小松の画業の転換期に制作された貴重な作例です。

昭和14年秋、最初の絵の師・岡村葵園が亡くなります。その東京での葬儀の帰途でしょうか、小松は伊豆下田をスケッチ旅行して廻り、その雄大な風景に魅せられます。何度か訪ねて作画し、乾坤社第2回展に「伊豆二題」として出品したのがこの2点です。

小松均《石廊崎画巻》

《石廊崎》伊豆半島の南端、太平洋を一望する石廊崎岬の景色を描く作品。紅葉を豊かな彩色で描き出した画巻の末尾には、石廊埼灯台の姿も。

1989-034小松均《伊豆岩山図》

《伊豆岩山風景》墨一色で、岩山に漂う湿潤な空気を描き出す。視界を白く霞ませる激しい雨が上がり、黒々とした岩山がその姿を現す様が見事です。

どちらも縦65センチ、長さは8 メートルを越える圧巻の画面。色をつかって雄大な広がりを見せる伊豆の海と岬を描いた《石廊崎》と、対して墨一色で湿潤な空気の中に聳える岩山を描いた《伊豆岩山風景》。伊豆の自然が持つ異なった表情の描き分けが見事です。

今回は両作とも大きく開いて、ほぼ全画面ご覧頂けるよう展示しました。写真は《伊豆岩山風景》です。

1階のエントランスには《石廊崎》を壁面に拡大してあります。

冒頭の虹が美しいです。

1階ギャラリー 虹

 

ところで両作とも、画中には山道を行く人の姿が小さく描き込まれています。

伊豆岩山 人

この人はどこを歩いているのでしょう?ぜひ会場で探してみてください。

 

谷川ゆき

二階堂美術館で竹内栖鳳の名品が公開中!

大分県の二階堂美術館で行われている『竹内栖鳳と京都画壇の画家たち』展には、竹内栖鳳の知られざる作品の数々が展示されています。。

その中に《瓜田・叢竹》六曲一双があります。

筆者は2018年「根津美術館紀要 『此君』 第10号  特集 光村コレクションの諸相」への寄稿(「光村利藻と竹内栖鳳―コレクターと画家の、ある交流の形―」)にあたり、本作品の所在を調べたのですが、つかめないままにいました。

明治の大コレクター光村利藻は、栖鳳が薄墨を何度も何度も塗り重ねて竹を描く様を不思議に見ていると、栖鳳から「これは普通の一筆に一気に描きあげた竹に比べると、手際が悪いように見えますが、画面からやや離れて熟視しますと、竹の幹のまるみが現われて絵に深みがでてきます」と説明を受け「やはり大家となる人は違うな」とつくづく感心したと述べています(増尾信之著『光村利藻伝』光村利之 1964 238頁)。なおその時に描いた絵は「六曲一双のその半双には竹林に雀の群れてさえずっている構図で、別の半双は、南京畑に何か一匹の小さな動物が畑を横切るという構図であった」(同237頁)と記録されているのです。その記録に対応する作品を探したのですが、1910年(明治43)に京都美術倶楽部で神戸某氏所蔵品として出品された屏風(明治43年4月4日「『神戸某氏所蔵品入札目録』 143番 栖鳳金地竹ニ雀 瓜ニ鼬屏風 一双」)の画像を見つけることができたものの、その実物の所在はわからないままでした。

竹内栖鳳 光村利藻

このような荒い画像では竹が「薄墨を何度も何度も塗り重ねて」描かれているのか、はっきりとはわかりません。

また、「大体南瓜畑は描き終わって、その小動物も地塗りをして、絵の具の乾くのを待っていた。栖鳳が絵を描いているあいだ、豆千代(栖鳳が絵を描いていた光村利藻の別荘に招かれていた芸妓)が後ろに座って団扇で風を送っていた。栖鳳は突然豆千代に「これは何に見えますか」と質問した。豆千代は、かたちは「いたち」に似ているが「いたち」は肉食動物だから畑は荒らさない、「貂」は南瓜や柿などを好むというし「南瓜に貂」という画題も見たことがある。「これは貂ではございませんでしょうか」と答えたところ、栖鳳が頻りに褒め上げた(同238頁)」という逸話が残っています。が、これについても何の小動物であるかを見極めることができなかったのです。

竹内栖鳳 瓜田(六曲一双)右-2 二階堂美術館蔵

竹内栖鳳 叢竹(六曲一双)左-2 二階堂美術館蔵

竹内栖鳳 《瓜田・叢竹》六曲一双 二階堂美術館蔵

このたび、二階堂美術館さまが当館のインスタグラムに「いいね」をしてくださったご縁で、筆者は二階堂美術館さまのインスタグラム、そしてホームページで本作品が公開されていることを知りご連絡差し上げたところ、館長代理 佐藤直司さま、学芸部長 古賀道夫さま、学芸員 工藤美貴代さまほかスタッフのみなさまにご対応いただき、ブログにカラーで写真を掲載させていただくことができました。ご多用のなか、ご配慮いただきましたことに厚く感謝申し上げます。

展覧会には《熱帯風光》二曲一隻ほか多くの名品が出品されているようです。

実は私もまだ訪問できていないのですが、この機会にぜひ実物を直接目にしたいものです。

コレクション展4
『竹内栖鳳と京都画壇の画家たち』
会 期 / 令和3年2月10日(水)~4月11日(日)
会 場 / 公益財団法人二階堂美術館
主 催 / 公益財団法人二階堂美術館
後 援 / 大分合同新聞社

青木隆幸

うみもり香水瓶コレクション8 黄金の夢

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。突然ですが皆様、毎晩、幸せな気持ちで眠りについていらっしゃいますか? 私は毎晩、本(たいてい推理小説)を読みつつ、数ページで寝落ちをし、気付くと朝という日々を過ごしています。そのような私には、使う機会も、また使われる機会もなかなかない言葉ですが、イタリア語を学び始めた頃に知って以来、憧れを抱き続けている、就寝前のある決まり文句があります。それは「ソンニ・ドォーロ(黄金の夢を)」です。「ブオナ・ノッテ(おやすみなさいませ)」の後に添えて使われる言葉ですが、一日の最後の瞬間が、にわかに優しい空気に包まれる素敵な言葉ですね。

この決まり文句への憧れは、《黄金の夢》と題されたL.T.ピヴェール社の香水瓶を目にしたことによってさらに強まりました。今回、うみもり香水瓶コレクションとしてご紹介する香水瓶です。こちらです👇

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館

L.T.ピヴェール社、香水瓶《黄金の夢》1924年、透明クリスタル、金、デザイン:ルイ・スー、製造:バカラ社、海の見える杜美術館所蔵、PIVER,FLACON RÊVE D’OR, Louis SÜE – 1924, Transparent crystal, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

いかがでしょう、あたかも黄金に輝く甘美な夢を見るための魔法の薬が入れられているように思われませんか? 美術館で目にする度に、いつか同じものを枕元にちょこんと置いておきたいなあと思う香水瓶です。

透明クリスタルと、その周囲を覆う丸みを帯びた金色装飾という、あっさりとしたデザインのなかに、可愛らしさやエレガンス、洗練といった要素が、この香水瓶には詰まっています。金色部分は、本作品を製造したバカラ社において、手作業で金彩が施されたもの。熟練の職人技が生み出す質の良さがあってこその、洗練やエレガンスであると再確認させられます。

この香水瓶には、「黄金の夢」という同名の香りのお粉用のパウダー・ボックスもあります。こちらです👇

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

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L.T.ピヴェール社、パウダー・ボックス《黄金の夢》、1925年、紙、ボール紙、デザイン:ルイ・スー、製造:バカラ社、海の見える杜美術館、PIVER,Powder box,1925, Paper, card board Design by Louis SÜE -1925, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

図案化された菊(フランス語でクリザンテームです!)のような花や字体が、アール・デコ様式においてしばしばみられる、明るく軽やかな雰囲気を醸し出していますね。アール・デコ様式のデザインは、いまや私たちの生活のいたるところに取り入れられているため、今日からすると、その新しさを感じにくくなっていますが、この香水瓶やパウダー・ボックスの発表時である1920年代半ばにおいては、新時代の到来を告げる非常に斬新なものでした。

第一次世界大戦前にアール・ヌーヴォーが席巻したパリでは、大戦直後から、それまでの植物を思わせる流麗な曲線に代わって、直線を多用した幾何学模様がより多く表現されるようになります。その範囲は絵画、ファッション、建築、さらに日用品にまで及びました。ル・コルビュジエが、歴史的な装飾や様式感情を排して、徹底した合理主義に基づいた建築を発表したのもこの頃のことです。そして、多分野にわたるデザインの革新が、世界的に知られる契機となったのは、後にアール・デコという造語のもととなる、1925年にパリで開催された通称、アール・デコ展(現代装飾美術・産業美術国際博覧会)です。

まさに今回の《黄金の夢》も、この博覧会に出品されました。展示場所となった、老舗香水メーカー、L.T.ピヴェール社の展示室の内装は、香水瓶のデザインをした装飾家で画家のルイ・スーが、自身の会社「フランス装飾社」の共同設立者のデザイナー、アンドレ・マールとともに手がけました。

こちらが当時の展示室の様子です。

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

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現代装飾美術・産業美術国際博覧会 L.T.ピヴェール社展示室、1925年、複製写真、海の見える杜博物館、PIVER STAND ART DECO EXHIBITION, 1925,Reprint photography, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

背もたれが特徴的な形の斬新なチェアセットの背後に、半円形の土台の陳列ケース、天井にはパウダー・ボックスで使われた菊を思わせる花びらの装飾が施されています。可愛らしい小部屋ですね。

ところで、アール・デコ展に足を運んだ1600万人にも上る来場者のなかには、朝香宮夫妻の姿もありました。帰国後、東京の白金台に、現在は東京都庭園美術館として公開されているアール・デコ様式の邸宅を建設したことは、きっとご存知の方も多いことでしょう。第3回第4回香水散歩でもご紹介した、旧朝香宮邸のアンリ・ラパン《香水塔》に代表される、フランス人装飾家たちの当時のデザインは、ル・コルビュジエほど厳格に装飾を否定するものではなく、むしろ歴史的な装飾を現代的に再解釈したものでした。そのため、《香水塔》にも、また香水瓶《黄金の夢》にも、ロココ様式を特徴づけた、くるんとした渦巻が効果的に配されています(アンリ・ラパン《香水塔》の画像はこちら)。

アール・デコ様式は、1920年代、30年代という世界恐慌を挟んで社会状況の異なる時代にまたがって流行し、また世界規模で展開されたため、ジグザグ模様や流線形、モノトーンやカラフルな色使い、高級素材から安価なものまで、各地の時代背景と結びついた様々な相貌が存在します。そのなかにあってL.T.ピヴェール《黄金の夢》は、第一次世界大戦とスペイン風邪の流行という困難極まる年月を乗り越えたフランスの人々のうちにあった、大戦前に親しんだ装飾のように優美かつ上質で、それに加えて明るい未来を感じさせる新奇なものを存分に味わんとする趣向を体現しています。コロナ禍にあると、辛苦を味わった約100年前の人々の《黄金の夢》が、より切実に感じられるように思います。せめて眠りにつくひと時くらいは、日中の緊張からすべて解かれて甘美な夢へと今宵は誘われますように……皆様にソンニ・ドォーロ!

岡村嘉子(クリザンテーム)

うみもり香水瓶コレクション7 蔵出しポマンダー

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。前回は、17世紀前半のドイツの《ポマンダー》をご紹介いたしましたが、当館は他にも多くのポマンダーを所蔵しています。

クリスマスのデコレーションにも使われる、オレンジにグローヴ等を刺した植物のポマンダーもそうであるように、香水瓶のポマンダーといえば、球形が広く知られていますね。たしかにポマンダーが使われ始めた当初は球形が主流でしたが、時代が下るにつれて、様々な形が登場しました。この機会にその多様性をお目に掛けたく、海杜蔵出しコレクションとして、今回は、とりわけちょっと面白い形のポマンダーをいくつかご紹介いたします!

1 洋ナシ型ポマンダー

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 海の見える杜美術館

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
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《ポマンダー》 ドイツ、アウグスブルグ、1700-1720年頃、銀、銀に金メッキ、七宝、海の見える杜美術館所蔵 Pomander, Germany, C.1700-1720, Silver, gilt silver, enamel, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

まず一つ目は、洋ナシ型ポマンダーです。前回ご紹介した同国のポマンダーと同様、香料が収められた内部には、まぶしいほどの金色が塗られています。

こちらです👇

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

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開いてわかる、この光! 疫病が流行するなかにあって、人間の健康を守る役割を担った香料の容器としては、十分な心理的効果(もう、見ただけで効きそう!)を与えてくれるように思います。

よく見ると、掌に収まる7センチ弱の洋ナシ型ポマンダーの両脇には、さらに小さな二つの洋ナシがぶら下がっています。これらは単なる装飾ではなく、本体同様、開閉可能で、小さなスポンジを収納するためのものであったと考えられています。

2 振り香炉型ポマンダー

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

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©海の見える杜美術館

《ポマンダー》 ドイツ、アウグスブルグ、1700-1720年頃、銀、銀に金メッキ、七宝、海の見える杜美術館所蔵 Pomander, Germany, C.1700-1720, Silver, gilt silver, enamel, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

さて、お次にご紹介するのは、振り香炉型です。キリスト教の聖堂での礼拝時に、祈りが天まで届くよう願って振られる香炉の形状は、疫病を遠ざけるために持ち歩かれるポマンダーに相応しい形ともいえますね。

表面の美しい編み目は、ヤナギの素材感を銀で表現したものです。17世紀と18世紀のドイツでは、このようなヤナギの籠編みを模した装飾が好まれました。この細工から、バスケット型とも命名したくもなります。しかも本作品は、ふっくらとした編み目はもちろん、鎖をつなぐ留め具部分にもヤナギの枝が精緻に表現されているため、当時の銀細工職人の技術の高さがうかがえます。

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館

本体の蓋部分を取り外すと、画像のように、円盤状の中蓋がさらに付いているのがわかります。二重の蓋でしっかり閉じられた中には、液体香料が入れられていました。実はこのことからも、ポマンダーが持つ歴史の一端を知ることができるのです。というのも、ポマンダーにおさめられる香料は、当初は固形、しかもアンバーグリスやムスクなどの気化しない香料でしたが、その後、香料を密閉できる容器が作られるようになったため揮発性の香料になり、やがては、液体まで入れられるようになったからです。つまり、容器の形状とその中身から、制作された時代がある程度わかるのですね。

台座部分も取り外せる仕組みになっており、何らかの小物――やはりスポンジでしょうか――をおさめることができます。

3 ひょうたんとバロック真珠の間型ポマンダー

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

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《ポマンダー》 オランダ、1690年頃、銀、七宝、海の見える杜美術館所蔵 Pomander, Netherlands, C.1690, Silver, enamel,Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ドイツのポマンダーが続きましたので、最後はオランダのポマンダーを。この形を表現するのに、適当な語が見つからないのですが、あえていえば、くびれのないひょうたんと、制作当時の時代である「バロック」という名称の由来となった、歪んだ真珠を合わせたような形と言えるでしょうか。

本作品でご注目頂きたいのは、形よりもむしろ、表面に大きく描かれたチューリップの図柄です。

16世紀後半に、オスマン帝国からヨーロッパにもたらされたチューリップは、たちまちヨーロッパ各地の王侯貴族の富の象徴となりました(前回のドイツのポマンダーも、チューリップが彫られていましたね!)。その高まる人気に応えようと、チューリップ栽培に適した広大な砂地を有するオランダは、球根栽培や品種改良に励みます。17世紀には、チューリップが国の主要な輸出品のひとつにまでなりました。現在でもオランダといえば、風車とチューリップが真っ先に思い浮かびますが、それは17世紀以来、人々に共有され続けたイメージだったのですね。

さて、当時のオランダといえば、鎖国中の日本とすら貿易を行う、世界一の海運国家、しかも主権が市民にある共和国でした。市民が比較的裕福な暮らしをしていたため、小口投資家も数多くいたのですが、彼らが財を投じたのが、なんとこのチューリップ。それは実物の取引ではなく、あくまでも書類上の先物取引の対象でした。なかでも最も高値が付けられたのが、はなびらに縦縞のような斑が入る「ブレイク」と呼ばれる品種です。そう、まさに、このポマンダーに描かれたチューリップなのです。

不動産バブル等、行き過ぎた投機は、やがて悲劇的な終わりを迎えるのが世の常とも言えますが、チューリップもやはり1637年に突然、暴落します。しかしながら、それらの世情とは無関係にして、チューリップという春を告げる可憐な花を愛好する者たちの心は変わらなかったことを、チューリップ・バブル崩壊の約50年後に制作された、このポマンダーは教えてくれます。

最後に、ポマンダー内部もぜひご覧ください☟

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館

©Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
©海の見える杜美術館

ポマンダーを開けると、七宝のつやつやとした鮮やかなブルーが目に飛び込んでまいります。それは、チューリップの故郷オスマン・トルコの文物や、オランダ東インド会社が活躍した数々の海を彷彿とさせ、当時のオランダに暮らす人々の航海や遠い国々へのひとかたならぬ思いをも伝えてくれるものなのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

うみもり香水瓶コレクション6 ポマンダー

明けましておめでとうございます

本年も美術館展示室、そしてブログ等で、香水瓶の奥深い世界をご紹介したいと願っています。引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、今回の香水瓶は、香り豊かな実り多い一年になることを願って、「香気のリンゴ」なる別名を持つ、果実や球の形をした香料容器「ポマンダー」をご紹介いたします。

こちらの作品です👇

 Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 海の見える杜美術館

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
海の見える杜美術館

《ポマンダー》 ドイツ、1630年頃、銀、銀に金メッキ、海の見える杜美術館所蔵 Pomander, Germany, C.1630, Silver, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ポマンダーの始まりは、本作品が製作されるよりずっと以前の、中世にさかのぼります。当時も、現在の新型コロナウィルスの流行のように、数々の疫病が発生し、人々はその解決策を探し求めていました。そのようななか、重要な役割を担ったのが、香りでした。もともと香りは、古代より治療にも使われてまいりましたが、中世以降、疫病流行時には、人々は片時も肌身離さず、持ち歩くようになりました。それは力強い香りが、疫病と、疫病の原因となる瘴気(しょうき、悪い空気)から身を守ってくれると考えられたからです。大半のポマンダーの上部にリングが付けられているのは、そこに鎖を通し、常に携帯していたためなのですね。

やがてルネサンス期以降も、疫病は相変わらず人々を苦しめたため、ポマンダーの需要も衰えることなく続き、18世紀半ばまで製造されました。特権階級は趣向を凝らした金銀細工や七宝などの細工が施されたポマンダーを、そうでない者は革あるいはごくありふれた金属でできたポマンダーを愛用しました。

本作品は、16世紀や17世紀に王侯貴族や高位聖職者のあいだで使われた典型的なポマンダーのひとつです。

表面には当時の富の象徴であった花であるチューリップと、貴族がたしなんだハヤブサ狩りを想起させる鳥が彫られています。表面の金細工もさることながら、ぜひお目に掛けたいのは、その内部です。

オレンジの実の形をした本体部分の上部の蓋をくるくると回しますと、なんとオレンジの実をくし形に切ったような6つの部分が現れます。実は、私はこの瞬間が大好きです。まるで手の中におさめた小さな蕾の花弁が、ほろほろとほどけていくかのように、みるみるうちに6等分に開かれていく仕掛けが、なんとも可憐なのです! しかもこの黄金色!! 外側の銀色からは思いもよらなかった光輝く金色の登場に、目の前に明るい世界が瞬く間に開けた気になってしまうほどです。いやはや、本作品は、知らぬ間にこわばった人間の心をほどけさせる、なんとまあ心憎い仕掛けに満ちた容器であることよ…..と感心してしまいます。まさに疫病流行時に求めらるる容器なり、と膝を打たずにはいられません。

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 海の見える杜美術館所蔵

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
海の見える杜美術館

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 海の見える杜美術館所蔵

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
海の見える杜美術館

この6つに分かれたひとつひとつに、固形香料が詰められています。シナモン、ナツメグ、ローズマリー、バラなど、おさめられた香りが特定できるのは、スライド式になった各部分の蓋に、その名がしっかりと記されているおかげです。

ポマンダーに使用される香りの種類は、16世紀以降、豊かさを増していきますが、それは大航海時代、ヨーロッパに豊富にもたらされた異国の香りを今に伝えてくれます。

さて、次の画像もぜひこの機会にお目にかけたい細部である、容器の土台部分です。土台を再びくるくると回して、本体から取り外してみると、なんとその先には、香料を取り出すための至極小さなさじが付いているではありませんか! こちらです👇。

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 海の見える杜美術館所蔵

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
海の見える杜美術館

本作品は閉じた状態でも、わずか5.5㎝の高さほどしかありませんので、内部の小さな香料入れに直接指を入れるのは至難の業です(第一、衛生的でもエレガントでもありませんよね)。それゆえ、このような小さじが備わっているのですね。これまた見事な細やかさです。

迫りくる疫病から身を守りたいという人々の願いは、何世紀にもわたって、数多のポマンダーを生み出しました。新型コロナウィルス流行以来、ポマンダーを見ておりますと、かつての人々の思いが、より切実に感じられ、ポマンダーへの興味が尽きません。現在、海の見える杜美術館は冬季休館中ですが、春の開館時には、本作品と、17世紀末にオランダで製作された七宝細工のポマンダーを香水瓶展示室にて展示する予定です。

皆さまがお健やかに一年をお過ごしくださいますよう願いつつ……

岡村嘉子(特任学芸員)