こんもりと茂る森のように見えるのはコノテガシワ。
無事に受粉した雌花が少しずつ実へと姿を変えていました。


もりひこ
桜の園の横に、アメリカノウゼンカズラの棚があります。

緑にひかる葉の中で、蔓先に咲く深紅の花が風に揺れていました。
大正時代の末期に日本へ渡来した植物だそうです。
もりひこ

ウリカエデの種と翼が赤く色づいています。

黄色く色づく秋の落葉も楽しみですが、この時期の赤と緑のコントラストも眼に鮮やかです。

しばらくすると、翼をつけた種子が舞い降ります。
はらりと落ちてひとつ舞う姿。
風吹いて花吹雪のように乱舞する姿。
今年もその瞬間に恵まれて、目にしたいものです。
もりひこ

ムラサキシキブといえば、季語を秋とさせるほどに印象的な紫色の実が記憶に強く刻まれていますが、優美な花も忘れるわけにはゆきません。

あちらこちらの茂みに自生しています。
もりひこ
栖鳳は、修業時代からおよそ50年も使い続けたこの硯が命尽きて割れたとき、「一生一硯」と名付けました。(手前から1/3ぐらいの場所に横に入っている線が割れた跡です) 現在は当館で大切に保管しています。今年11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品予定です。 この硯は今から70年前、「竹内栖鳳遺作展」(1943年(昭和18)1月23日から1月29日 東京日本橋三越5階西館)に出品されました。 その時の解説紙が残されています。
「 解説 一生一硯 栖鳳の父政七の家業は料亭なり。亀政という。明治10年、栖鳳14歳のころとか、この料亭亀政の一包手、包技こそ優れたれ、酔興蕩逸の癖ありて、政七より借財ありしまゝ杳として消息を絶ちけるが、数年後のある夜、一硯を携え(て)※瓢来し、栖鳳が筆墨の道に精進せる由仄聞せる旨を語り、塵舗に拾いし貧硯なれど、お使い下されとておき去りぬ。 素より政七父子も聊かも珍重の意なく、幸に未だ初学にて、用具不揃いの折柄、当座の具にと備えしが、磨る墨との調和まことに快適、加うるに溌墨清艶にて、家運の伸展に連れ、他に幾多の金池龍淵を試みしかど、この硯に及ぶものなく、画屋随一の名硯となる。 されど後日、従婢硯洗の折、板上に在るを見るに、真二つに割れてあれば驚愕、急遽家長の面前へ運びけるが、毫も粗忽の跡なく、寂焉枯木の倒れしに似たり。依って栖鳳は破硯を掌上に撫し、愁傷歎嗟、具に過去を想うて一生一硯と銘す。包手の携え来たりしより50年の忠勤なり。作品の大半この硯より生る。 ―竹内逸記- 」 ※文中の(て)は解説紙にはなく「竹内栖鳳遺作展集」掲載時に補われた文字。 以下にその展覧会の関係資料を掲載します。 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)
「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)
「一生一硯」掲載ページ
「竹内栖鳳遺作展覧会目録」
「竹内家出品」硯の部分 一生一硯収納箱
「先考栖鳳先生用具 一生一硯 於東山々下遺邸 逸」
この収納箱は、「竹内栖鳳遺作展覧会」に出品する際に作られたと思われます。 箱書は竹内逸。 以上は当館収蔵の史料・資料です。 これら史料類も11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品を予定しています。 この硯が展示された1943年(昭和18)ごろは、美術関係出版物の統廃合が進められ、紙の配給が厳しさを増し、なおかつ情報統制によって正しい記録が残されにくくなっている時代なので、いろいろと分からないことがたくさんあります。
追記:2014年8月14日
「一生一硯」 竹内栖鳳
「77歳になって何か俳句でもできないものかと思ってるのだが、どうもうまい具合に出てこない。実はちょっと見当をつけてるのがあるにはあるのだが、まだまとまらない。それは、15・6のころからほとんど一生使っていた硯があって、10年ばかり前に割れて使えなくなったが、それでも60年を一生と見て、一生一硯というような文句が俳句にならないものかと思っているのだ。 私の家は料理屋だったのだが、相当はやってたので婚礼とか祭りとかいうと手が足りなくなる。そんな時に雇う一人の料理人がいて、なかなかの手利きで間に合っていたが、少し金使いが荒いのか始終貧乏で、よく父のところに金を借りに来ていた。それがあるとき、あまりたびたび無心に来るのがきずつなかったのか、硯を一面持ってきた。さあ私の15・6のころだったと思うが、ちょうど絵の稽古を始めたころだったので、いつの間にか持ち出して使ったのが、もっと絵が上手になったら上等のを買おうと思いながら、とうとうその硯で通してしまったようなわけだ。 その間ちょいちょいほかの硯を使わないでもなかったが、どうも慣れたののほうが合い口がいい。屏風など描くときには随分墨がいるので、墨池の大きなので磨ったらよさそうだのに、やはりその慣れた小さな硯で磨って、なくなるとまた磨るという風に、その硯に愛着していた。 その後、墨色だとか用墨だとかいうようなことを考えるようになって、他にいくつか硯も買わされたが、たくさんあってもどうも使い慣れないのには手が出ない。先年支那に行った時にもかなたこなたで探したが、口上ばかりでどうも講釈ほどのものに当たらなかった。彫り物などは良くても使い勝手がよくない。 その硯には眼があって、黒石だから端渓ではないだろうと思っていたが、これは水岩で一番いいのだという事で他のは硬すぎてよくないのだそうだ。それが今から10年ほど以前だが、真二つに割れてしまった。別にそう手荒にしたわけでもなく、板の上においた拍子に割れた。何かのはずみだったのだろう。まるで切れ物で切ったように割れてるその調子が、瓦かなんぞのような感じで、ちっとも硬い感じがしない石だった。赤い筋が入っていて何でも唐代の紅絲硯というのだという事だった。今もなお名残が残っている。あの硯を頼りに一生過ごしたという気がする。」 『塔影』16巻11号所収、塔影社、昭和15年11月、頁3~4 (転載にあたり文字を適宜あらためました)
さち
青木隆幸
「生誕150年記念 竹内栖鳳」特設ページはこちら

つぼみをつつむ真っ白なガク片が、はらっと落ちて、中から黄色い花が登場します。

撮影をしていると、カッコウやウグイスの美しい声が聞こえてきました。
人は喉の調子を整えるのに、ナンテンの実のエキスを利用したりしますが、鳥の澄みわたる鳴き声は、好んで食べるナンテンの実に関係があるのでしょうか・・・。
もりひこ
美術館に行く途中、「杜の遊歩道」の道の上でタマムシを発見しました。
この時期ということは、成虫になったばかりでしょうか。

なにかと戦って、疲れ果てた様子でした。背中が少しへこんでいます。
すくいあげて道から山中へ離すと、わずかに飛んで地面に着地しました。
がんばれタマムシ。
もりひこ
6月に海杜を訪れると、あちらこちらの木の上の方に、白いフサフサをつけたクリの木が見えます。

奥の建物が海杜 右側の高い木がクリの木です。
若山牧水の歌が思わず頭をよぎります。
―水無月の 山越え来ればをちこちの 木の間に白く 栗の咲く見ゆ―
木の根元に立つと、大きく張った枝が日差しを柔らかくして包み込んでくれました。
やはり頭によぎるのは童謡唱歌「大きなクリの木の下で」です。

詩を広げると童謡のおおらかな世界にひきこまれました。
―大きな栗の木の下で 大きな夢を 大きく育てましょう 大きな栗の木の下で―
「大きな栗の木の下で」3番 作詞者不詳 訳詞 阪田寛夫。
遥か高みに見える花には近づけませんでしたので、落ちた花穂を撮影しました。

これは雄花です。この花穂の根元にあった雌花が木に残っていて今からイガが出てやがてあの栗の実になるはずです。
もりひこ
美術館の入り口でいつもあいさつを交わすナツメの木。

近寄って見ると、葉っぱの付け根にたくさんの花を咲かせていました。


そういえばこんな歌がありましたね。
・あの子はだあれ だれでしょね なんなんなつめの 花の下
お人形さんと 遊んでる かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか
(作詞 細川雄太朗 作曲 海沼実 「あの子はたあれ」 1番の歌詞)
美術館入り口のナツメの木には被爆という戦争体験がありますが、この歌は戦時下という状況によって詩が変えられたという戦争経験があります。
“キングレコードでレコード化の際に、ディレクターの柳井尭夫が「戦時下に『泣く子』とはけしからん。『あの子』にしては?」と改作を申し出、そのほかの部分に至るまで、大幅な改作が行なわれました。” この改作のいきさつは、海沼実(實の孫)著『童謡 心に残る歌とその時代』(NHK出版、平成15年発行)に紹介してあります。さらに、柳井は以前に『仲よし小道』(三苫やすし作詞・河村光陽作曲)をヒットさせていたことから、縁起を担いで、原詩第一節の「ミーちゃん」(原詩の表記はミーチャン)を「みよちゃん」に変えました。第二節の「ユーちゃん」(原詩の表記はユーチャン)も、海沼と柳井にとって共通の友人で戦死した「内田憲二=けんちゃん」に変えます。<ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』による>
もりひこ