ウリカエデの種


ウリカエデの種と翼が赤く色づいています。

20140622ウリカエデ の種 (3)
黄色く色づく秋の落葉も楽しみですが、この時期の赤と緑のコントラストも眼に鮮やかです。

20140622ウリカエデ の種 (2)
しばらくすると、翼をつけた種子が舞い降ります。

はらりと落ちてひとつ舞う姿。
風吹いて花吹雪のように乱舞する姿。
今年もその瞬間に恵まれて、目にしたいものです。

 

もりひこ

一生一硯

竹内栖鳳が生涯を通じて大切に使っていた硯です。 20140621一生一硯 (8)

栖鳳は、修業時代からおよそ50年も使い続けたこの硯が命尽きて割れたとき、「一生一硯」と名付けました。(手前から1/3ぐらいの場所に横に入っている線が割れた跡です) 現在は当館で大切に保管しています。今年11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品予定です。 この硯は今から70年前、「竹内栖鳳遺作展」(1943年(昭和18)1月23日から1月29日 東京日本橋三越5階西館)に出品されました。 その時の解説紙が残されています。

20140621一生一硯 (1)

「 解説 一生一硯 栖鳳の父政七の家業は料亭なり。亀政という。明治10年、栖鳳14歳のころとか、この料亭亀政の一包手、包技こそ優れたれ、酔興蕩逸の癖ありて、政七より借財ありしまゝ杳として消息を絶ちけるが、数年後のある夜、一硯を携え(て)※瓢来し、栖鳳が筆墨の道に精進せる由仄聞せる旨を語り、塵舗に拾いし貧硯なれど、お使い下されとておき去りぬ。 素より政七父子も聊かも珍重の意なく、幸に未だ初学にて、用具不揃いの折柄、当座の具にと備えしが、磨る墨との調和まことに快適、加うるに溌墨清艶にて、家運の伸展に連れ、他に幾多の金池龍淵を試みしかど、この硯に及ぶものなく、画屋随一の名硯となる。 されど後日、従婢硯洗の折、板上に在るを見るに、真二つに割れてあれば驚愕、急遽家長の面前へ運びけるが、毫も粗忽の跡なく、寂焉枯木の倒れしに似たり。依って栖鳳は破硯を掌上に撫し、愁傷歎嗟、具に過去を想うて一生一硯と銘す。包手の携え来たりしより50年の忠勤なり。作品の大半この硯より生る。 ―竹内逸記- 」 ※文中の(て)は解説紙にはなく「竹内栖鳳遺作展集」掲載時に補われた文字。   以下にその展覧会の関係資料を掲載します。 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)

20140621一生一硯 (12) 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)

20140621一生一硯 (10)「一生一硯」掲載ページ   20140621一生一硯 (7) 「竹内栖鳳遺作展覧会目録」20140621一生一硯 (6)「竹内家出品」硯の部分   一生一硯収納箱 20140621一生一硯 (9) 「先考栖鳳先生用具 一生一硯 於東山々下遺邸 逸」

この収納箱は、「竹内栖鳳遺作展覧会」に出品する際に作られたと思われます。 箱書は竹内逸。   以上は当館収蔵の史料・資料です。 これら史料類も11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品を予定しています。 この硯が展示された1943年(昭和18)ごろは、美術関係出版物の統廃合が進められ、紙の配給が厳しさを増し、なおかつ情報統制によって正しい記録が残されにくくなっている時代なので、いろいろと分からないことがたくさんあります。

 

追記:2014年8月14日

「一生一硯」  竹内栖鳳

「77歳になって何か俳句でもできないものかと思ってるのだが、どうもうまい具合に出てこない。実はちょっと見当をつけてるのがあるにはあるのだが、まだまとまらない。それは、15・6のころからほとんど一生使っていた硯があって、10年ばかり前に割れて使えなくなったが、それでも60年を一生と見て、一生一硯というような文句が俳句にならないものかと思っているのだ。 私の家は料理屋だったのだが、相当はやってたので婚礼とか祭りとかいうと手が足りなくなる。そんな時に雇う一人の料理人がいて、なかなかの手利きで間に合っていたが、少し金使いが荒いのか始終貧乏で、よく父のところに金を借りに来ていた。それがあるとき、あまりたびたび無心に来るのがきずつなかったのか、硯を一面持ってきた。さあ私の15・6のころだったと思うが、ちょうど絵の稽古を始めたころだったので、いつの間にか持ち出して使ったのが、もっと絵が上手になったら上等のを買おうと思いながら、とうとうその硯で通してしまったようなわけだ。 その間ちょいちょいほかの硯を使わないでもなかったが、どうも慣れたののほうが合い口がいい。屏風など描くときには随分墨がいるので、墨池の大きなので磨ったらよさそうだのに、やはりその慣れた小さな硯で磨って、なくなるとまた磨るという風に、その硯に愛着していた。 その後、墨色だとか用墨だとかいうようなことを考えるようになって、他にいくつか硯も買わされたが、たくさんあってもどうも使い慣れないのには手が出ない。先年支那に行った時にもかなたこなたで探したが、口上ばかりでどうも講釈ほどのものに当たらなかった。彫り物などは良くても使い勝手がよくない。 その硯には眼があって、黒石だから端渓ではないだろうと思っていたが、これは水岩で一番いいのだという事で他のは硬すぎてよくないのだそうだ。それが今から10年ほど以前だが、真二つに割れてしまった。別にそう手荒にしたわけでもなく、板の上においた拍子に割れた。何かのはずみだったのだろう。まるで切れ物で切ったように割れてるその調子が、瓦かなんぞのような感じで、ちっとも硬い感じがしない石だった。赤い筋が入っていて何でも唐代の紅絲硯というのだという事だった。今もなお名残が残っている。あの硯を頼りに一生過ごしたという気がする。」 『塔影』16巻11号所収、塔影社、昭和15年11月、頁3~4 (転載にあたり文字を適宜あらためました)

さち

青木隆幸

「生誕150年記念 竹内栖鳳」特設ページはこちら

ナンテンの花

20140621ナンテンの花 (1)

つぼみをつつむ真っ白なガク片が、はらっと落ちて、中から黄色い花が登場します。

20140621ナンテンの花 (3)

 

撮影をしていると、カッコウやウグイスの美しい声が聞こえてきました。
人は喉の調子を整えるのに、ナンテンの実のエキスを利用したりしますが、鳥の澄みわたる鳴き声は、好んで食べるナンテンの実に関係があるのでしょうか・・・。

 

もりひこ

 

 

タマムシ発見

美術館に行く途中、「杜の遊歩道」の道の上でタマムシを発見しました。
この時期ということは、成虫になったばかりでしょうか。
20140620コガネムシ発見
なにかと戦って、疲れ果てた様子でした。背中が少しへこんでいます。
すくいあげて道から山中へ離すと、わずかに飛んで地面に着地しました。
がんばれタマムシ。

もりひこ

クリの花

6月に海杜を訪れると、あちらこちらの木の上の方に、白いフサフサをつけたクリの木が見えます。

20140620クリの花 (2)
奥の建物が海杜 右側の高い木がクリの木です。

若山牧水の歌が思わず頭をよぎります。
―水無月の 山越え来ればをちこちの 木の間に白く 栗の咲く見ゆ―

木の根元に立つと、大きく張った枝が日差しを柔らかくして包み込んでくれました。
やはり頭によぎるのは童謡唱歌「大きなクリの木の下で」です。
20140620クリの花 (3)

詩を広げると童謡のおおらかな世界にひきこまれました。
―大きな栗の木の下で 大きな夢を 大きく育てましょう 大きな栗の木の下で―
「大きな栗の木の下で」3番 作詞者不詳 訳詞 阪田寛夫。

遥か高みに見える花には近づけませんでしたので、落ちた花穂を撮影しました。
20140620クリの花 (4)
これは雄花です。この花穂の根元にあった雌花が木に残っていて今からイガが出てやがてあの栗の実になるはずです。

 

もりひこ

ナツメの花

美術館の入り口でいつもあいさつを交わすナツメの木。

20140620ナツメの花 (2)

近寄って見ると、葉っぱの付け根にたくさんの花を咲かせていました。

20140620ナツメの花 (1)
20140620ナツメの花

そういえばこんな歌がありましたね。

・あの子はだあれ だれでしょね なんなんなつめの 花の下
お人形さんと 遊んでる かわいい美代ちゃんじゃ ないでしょか

(作詞 細川雄太朗  作曲 海沼実  「あの子はたあれ」 1番の歌詞)

 

美術館入り口のナツメの木には被爆という戦争体験がありますが、この歌は戦時下という状況によって詩が変えられたという戦争経験があります。

“キングレコードでレコード化の際に、ディレクターの柳井尭夫が「戦時下に『泣く子』とはけしからん。『あの子』にしては?」と改作を申し出、そのほかの部分に至るまで、大幅な改作が行なわれました。” この改作のいきさつは、海沼実(實の孫)著『童謡 心に残る歌とその時代』(NHK出版、平成15年発行)に紹介してあります。さらに、柳井は以前に『仲よし小道』(三苫やすし作詞・河村光陽作曲)をヒットさせていたことから、縁起を担いで、原詩第一節の「ミーちゃん」(原詩の表記はミーチャン)を「みよちゃん」に変えました。第二節の「ユーちゃん」(原詩の表記はユーチャン)も、海沼と柳井にとって共通の友人で戦死した「内田憲二=けんちゃん」に変えます。<ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』による>

 

もりひこ

オカトラノオ

藪の中からオカトラノオが顔をのぞかせていました。
20140618オカトラノオ (1)

「岡虎の尾」という勇ましい名前ですが、花穂は小さな猫のしっぽぐらいの大きさです。
20140618オカトラノオ (2)

花は根元のほうから咲きはじめ、次第に開花が先端のほうへと移ります。
20140618オカトラノオ (3)

風に揺れている姿が猫じゃらしのようでした。

 

 

もりひこ

ヨウシュヤマゴボウ

ついこのあいだ地面から小さな芽が出たと思ったら、あっという間に1~2メートルの高さに成長して群れていました。

20140617ヨウシュヤマゴボウ (3)

枝の先には花穂がついています。

20140617ヨウシュヤマゴボウ (1)

20140617ヨウシュヤマゴボウ (2)

毒性があるので食べる事は出来ませんが、やがてブルーベリーのような黒く柔らかい実になります。
その果汁は美しい赤紫色をしているので昔は万年筆などのインクに用いられていたようで、英名は inkberryといいます。

 

もりひこ

竹内禎子独唱会

当館の所蔵する竹内栖鳳資料の中の一枚です。
舞台左袖に「ソプラノ独唱 竹内・・・」の文字をかろうじて読む事が出来ました。

20140618竹内禎子独唱会

竹内栖鳳の家系で声楽にかかわる人物に、栖鳳の長男、逸三の妻「竹内禎子」がいます。

日本の洋楽、特に京都における声楽にとって重要な人物です。同志社女子大学ホームページや京都混声合唱団ホームページでその活動の一部を確認する事が出来ます。

「竹内禎子」の舞台で「独唱」と名の付く催事は、1930年(昭和5)11月10日または19日に京都市公会堂(岡崎公会堂)で行われた「竹内禎子夫人帰朝独唱会」が確認されましたので、この写真はその時のものの可能性があるのですが、当時の京都市公会堂の舞台写真との照合など基本調査がまだ終わっていないので確定ではありません。

ところで、京都混声合唱団のホームページには、1925(大正14)年に産声をあげた創立時の中心メンバーは「稲畑登美子、吉田恒三、柳兼子、近藤義次、竹内禎子、上村いさを(けい)、加藤榮(千恵)ほか」とあります。
稲畑登美子女史は、1877年(明治10)にフランスのリヨンに留学した稲畑産業株式会社創業者、稲畑勝太郎の妻です。竹内栖鳳が1900年(明治33)にリヨンに立ち寄るに際して交信はなかったのでしょうか。

その京都混声合唱団を後援する「京都音楽協会」顧問には、竹内栖鳳と山元春挙が名前を連ねていますが、京都の音楽界にどのようなかかわりを持っていたのでしょうか。

この一枚の写真が、いろいろなことに示唆を与えてくれました。

 

調査の過程で得た文献を1つ紹介します。
⦅ ⦆はさちによる注です。

「京都音楽史」編纂主任 吉田恒三 発行所 京都音楽協会  昭和17年6月28日発行

⦅p315~⦆
昭和3年 京都混声合唱団発表会に対する後援

この合唱団ははじめ同声会京都支部の会員が創意成立したもので柳兼子、竹内禎子など熱心なる支持者であった、その後会員も次第に多くなった、第一回の発表は昭和2年11月19日同志社チャペルであったのでこれは第二回で、本会(京都音楽協会)はこれを講演したのである。

曲目
1、       カヴァレリア ルスティカナ開幕の合唱       マスカニ作
2、 (イ)       逝ける女                                          ベンネケ
(ロ)  夜                                                     シューベルト
3、 (イ)       送別の歌                                          信時 潔
(ロ)  母の心                                              ブルッフ
4、 (イ)  帰雁                                                 ハウプトマン
(ロ)  鶯                                                     メンデルスゾーン
5、ドンファン                                                            モーツァルト
(二重唱  近藤義次 竹内禎子)
6、山の乙女の踊り(イゴル公より)                         ボロディン作
7、森の讃歌                                                               ブルッフ作
8、真の幸福への讃歌                                                 ヘンデル作
(二重唱  竹内禎子 柳兼子)
9、主よ御恵を 栄光神にあれ(第12彌撒⦅ミサ⦆)曲)           モーツァルト

⦅p334~⦆
竹内禎子夫人帰朝独唱会 11月19日⦅ママ⦆於市公会堂
同夫人はさきに夫君逸三氏と共に欧米に遊び永くフランスに滞留声楽研究を重ねてこのほど帰朝、その第一声を同志社合唱団主催のもとに発足せらるるので本会はこれを後援した、ピアノはニコルスカヤ嬢であった。

曲目
第1部
1、       独唱
イ、楽園の美しき三羽烏(民謡)                          ラヴェル
ロ、ニコレット(民謡)                                   ラヴェル
ハ、歌を唄ひし追憶                                          アーン
ニ、風景                                                            アーン
ホ、五月                                                            アーン
2、   イ、マダム・バターフライより                   プッチニ
静かなる海に
ロ、ポエムより                                            プッチニ
人は私をミミと呼ぶ

第2部
1、       ピアノ・ソロ
イ、ガボットとヴァリエーション                         ラムデュ
ロ、円舞曲 第15番                                            ブラームス
ハ、スタッカー練習曲                                          ルビンシュタイン
2、独唱
イ、何処へ                                                        シューベルト
ロ、モムースのアリア                                       バッハ
ハ、すみれ                                                        スカラッティ
3、 イ、白銀の指輪                                                 シャミナード
ロ、歌劇 ヘロデ王より                                   マスネ
サロメの嘆き

京都楽団年表⦅ページ表記なし 竹内関係抜き書き⦆
大正6年11月                   ペツォルド夫人独演会  竹内夫人助奏
Agrand Benefit Concert. Petzold
主、三一教会
YMCA(三條基督教青年会館)

大正10年12月7日          ペツォルド夫人、竹内禎子夫人音楽大演奏会
YMCA(三條基督教青年会館)

大正11年4月21日          ショルツ氏・竹内夫人音楽演奏会
市公会堂

大正14年5月24日          ウエラ・オース嬢 竹内禎子夫人演奏会
鯖戸英郎氏 主、音楽同志会
市公会堂

大正15年6月4日            オルガン独奏会 竹内禎子女史助演
同志社

大正15年6月19日          セリスト・ストゥーピン氏演奏会 竹内禎子氏助演
市公会堂

昭和5年11月10日⦅ママ⦆              竹内禎子女史独唱会

⦅注意:本文と年表とで独唱会の日付が異なる⦆

さち

青木隆幸
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