竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4

大正7年(1918)、黒田天外(譲)は、長らく秘蔵してきた栖鳳渡欧時の手紙を冊子に仕立て『西遊鴻爪帖』と名付けました。その跋文には、手紙の由来や新聞に掲載した経緯などのほか、長尾雨山に句を、内藤虎南に題箋を、竹内栖鳳に箱書きを書いてもらって、ついに「天下至宝」となったと認められています。

間もなく天外は亡くなり、遺言によって、この書簡集は南市田家へ分与されたようです。その後の事はつまびらかではありませんが、途中、林道具店の手を経るなどして、現在は海の見える杜美術館で「天下至宝」として、大切に保管されています。

外箱
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (4)

外箱に貼られた林道具店の紙
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (5)

中箱  箱書き 竹内栖鳳「西遊鴻爪帖」
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (6)

中箱蓋裏の栖鳳のサイン 「栖鳳題」
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (9)

中箱を保護する紙蓋の裏側
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (7)

20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (8)
「宗秀信士遺言により遺物として南市田家へ贈らる 大正八年十一月十五日」

黒田天外(譲)の生没年は寡聞にして特定できていなかったのですが、慶應2年(1866)生まれで記者を30年ほど勤めたとの伝聞や、大正7年夏を最後に活動記録が見当たらないこと、そしてこの一文などを鑑みて、天外は大正8年前半ごろ天寿を全うし、宗秀信士という戒名がつけられたと推察しました。

表紙  題箋 内藤虎南「西遊鴻爪帖」

句 長尾雨山「乾坤萬里眼」(杜甫「春日江村五首其一」)

跋 黒田天外(譲)

跋文の下書き
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (10)

 

竹内栖鳳《港頭春色図》にまつわる周辺を、史料整理の現場から紹介するこのシリーズは、これでひとまず終わりです。

さち

青木隆幸

竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外の手紙×コレクター光村利藻 3

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (1)

竹内栖鳳《港頭春色図》明治38年(1905年) 42歳頃

《港頭春色図》に関する資料があと2つあります。

ひとつは、このシリーズのブログ1で紹介した、黒田天外宛の手紙に記された、香港の風景に感銘を受けて書いた文章「香港は中々の勝地、輻輳せる船舶支那船多く、其構造支那画に多く見る処、芥子園画伝にも有りそうなり。船夫は男女とも共同服装にして、中には老婆の子を背負いつゝ櫓を押し居候。大船には一家族住い居」です。まるでこの作品を説明しているかのようです。

もうひとつは、竹内栖鳳が収集した資料の中に保存されているこの写真です。

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (4)1892 Rayons du soir, port de Camaretde Cottet Charles

竹内栖鳳旧蔵資料より コッテ《カマレの港》(※)

集合する帆船や手漕ぎのボートほか、港の日常風景を絵画作品として成立させているところが目を引きます。

栖鳳は、ヨーロッパの絵画を徹底的に研究し、新たな領域の作品に仕上げただけではなく、特定の西洋画をリスペクトしたと思われる作品もたくさんあります。例えば、渡欧中に面会したフランスの画家ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme, 1824 – 1904)が20代前半に描いた《闘鶏》(Jóvenes griegos presenciando una pelea de gallos (Museo de Orsay, París, 1846.)と、竹内栖鳳の名作《蹴合》などです。ぜひ比較してみて下さい。

栖鳳は文字に残した感興は必ずと言っていいほど実現する作家です。そして光村利藻は画家に注文を付けずに好きな絵を思う存分に描かせてくれるコレクターです。栖鳳は、利藻から後世に残す絵を12点描くように依頼を受けたとき、つねづね、西洋画に対抗する東洋画を築きたいと言っていた、その心意気がふつふつとわき上がり、これまで蓄えた東洋美術に対する深い造形、中国の港の風景を初めて直接目にした時の震えるほどの感動、帆船を描いた西洋画に触れたときのひらめき、心に秘めていたいろいろなイメージを昇華させて生まれたのがこの作品なのだろうか、などと、想像をたくましくしてしまいます。(もちろん、この《港頭春色図》が光村利藻のコレクション《泊舟の図》と同定できていませんが・・・。)

竹内栖鳳《港頭春色図》(部分) 明治38年(1905年) 42歳頃

竹内栖鳳《港頭春色図》(部分) 明治38年(1905年) 42歳頃

 

 この絵には、じつに栖鳳らしい自在な工夫がいたるところにあります。パッと見たところでは船上生活を描いた単なる風俗画に見えますが、画中すべての人々に穏やかな空気を漂わせて、幸せな生活を願う中国の伝統的な画題『漁楽図』をふまえた吉祥画に仕立てています。奥の方はモノクロームに近くは色を入れて遠近感を出し、黒墨ではなくセピア色で線を引いてこれまでの日本画にはない暖かい画面にしています。大雑把に描きつつ構造やディティールの表現はじつに緻密で写実的です。密集する船に動きや静止を与えたのは、コッテ作《カマレの港》を参考にしているようです。(「表紙作品紹介」 季刊誌『プロムナード』海の見える杜美術館 2016年春号)

 

つづく

 


竹内栖鳳は無数の絵画資料を収集し、分類保管していた。そのうちの1枚。

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (5)1892 Rayons du soir, port de Camaretde Cottet Charles
台紙に張られた写真

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (6)
表には印「竹内図書」

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (7)
裏にはシール「No.189 絵」

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (3)
写真左下に「2324 Musee Du Luxembourg Le Port de Camaret. Cottet」。リュクサンブール美術館のコッテ作《カマレの港》と記されている。写真とネット上の画像を比較する限り、現在、オルセー美術館の公式ページに所蔵品として紹介されているCharles Cottet (1865-1925)《Rayons du soir, port de Camaretde》 1892 と同一のように思える。所蔵館には未確認。

 

さち

青木隆幸

竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外の手紙×コレクター光村利藻 2

光村利藻(1877-1955 明治-昭和時代前期の実業家)という大コレクターをご存知でしょうか。竹内栖鳳の作品を600点以上収集していて、その中には、日本美術の中にローマの遺跡を出現させた記念碑的名作《羅馬古城図》(※1)や、当時の日本人が見たことのなかったライオンをリアルに描いて世間を大いに驚かせた《獅子図》(※2)を始め、《蕭条》(※3)、《平軍驚水禽図》(※4)など数々の名品が含まれていたことが伝記に記されています。(増尾信之『光村利藻伝』非売品 光村利之 1964)


20160302『光村利藻伝』243-244頁
『光村利藻伝』243-244頁

 

1906年頃、光村利藻は後世に名品を残すことを目的として、竹内栖鳳に12点の作品制作を依頼し、《盛夏午後の図》、《悲愁図》、《泊舟の図》、《山桜》、《獅子の図》の5点が制作されたところで、経済的な破たんにより、計画は頓挫しました。

20160302『光村利藻伝』242-243頁
『光村利藻伝』242-243頁

 

『光村利藻伝』に記された《泊舟の図》の項を読んだ時、思わず当館所蔵の《港頭春色図》を連想しました。「上海付近の河辺の風景で、大河に碇泊している大きな船のまわりにジャンクが密集している風景で、当時の ― 清朝末期の水辺のシナ人の生活状態を描いたもの。」この説明が当館の作品と符合するのです。

竹内栖鳳《港頭春色図》明治38年(1905年 42歳)頃

そして、制作時期や寸法を確認してみると、ほぼ重なることがわかります。

《泊舟の図》
制作時期:1906年頃(伝記制作時の記憶)
寸法:縦約6尺、幅2尺5寸

《港頭春色図》
制作時期:1905年頃(署名落款から推定)
寸法:縦152.8㎝、横71.6㎝
(縦6尺、横2尺5寸と言われる栖鳳作品の実寸はこのぐらいの寸法が多い)

なにより、《港頭春色図》以外に、これらの条件(1906年頃、縦6尺、幅2尺5寸の大きさで描かれた、上海付近の河辺の風景)にあてはまる栖鳳の作品を見たことがありません。

海の見える杜美術館が所蔵する《港頭春色図》は、光村利藻が収集した《泊舟の図》なのでしょうか。作品の他の情報を見てみましょう。

 

《港頭春色図》を入れている箱のふたには、竹内栖鳳直筆の箱書きがあります。

20160302竹内栖鳳 港頭春色図 箱書き (1)                        20160302竹内栖鳳 港頭春色図 箱書き (2)

作品の箱ふたの表   ふたの裏側
「港頭春色図」   「明治庚戌春三月栖鳳題于耕漁荘」

 

「明治庚戌春三月栖鳳題于耕漁荘」は、明治の庚戌の年、つまり1910年の春3月に、耕漁荘(栖鳳の家・アトリエ)にて、栖鳳が箱に題を書いたことを示しています。

この年は、奇しくも、経営に失敗した利藻が再起をかけて、小さな印刷所を立ち上げた1910年と一致します。『光村利藻伝』は、「利藻の経済的な危機を栖鳳は絵を描いて、金に替え援助したことも一再ならずあった」と言います。もしかしたら、利藻が作品を手放すときに、作品が少しでも高く売れるよう、栖鳳が箱書きを買って出て、「港頭春色図」と命名したのではないか、そんなことも考えることができます。それとも伝記に記された《泊舟の図》と海の見える杜美術館所蔵の《港頭春色図》は全く別物なのでしょうか。これらの関係をはっきりさせる資料はまだ見つかっていません。

つづく

※1 現在、海の見える杜美術館蔵 《羅馬之図》
※2 現在、この作品は未確認
※3 現在、京都国立近代美術館蔵 《蕭条》
※4 現在、東京国立博物館蔵 《富士川大勝図》

さち

青木隆幸

竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 1

竹内栖鳳は、パリで開催されている万国博覧会を視察するために、1900年8月1日、神戸港から日本郵船若狭丸に乗船して渡欧しました(*)。9月17日にフランスのマルセイユ港に着くまでの約1か月半の船旅の途中、たくさんの手紙を日本の知人に送りました。

 

  • 黒田天外(譲)宛の手紙

そのなかの一つ、黒田天外(京都日出新聞記者)にあてた手紙に、このようなものがあります。

拝啓 いよいよ御清栄賀し奉り候 (中略) 香港までの事は申上べき事とては無し (中略) 香港は中々の勝地、輻輳せる船舶支那船多く、其構造支那画に多く見る処、芥子園画伝にも有りそうなり。船夫は男女とも共同服装にして、中には老婆の子を背負いつゝ櫓を押し居候。大船には一家族住い居、何事も便し居る様と来居候。洋画家小山正太郎氏も頻りに船の有様色どりなど称賛せり。(後略)
(釈文は筆者が適宜現代の文字、かなづかいに改めた)

 

その続きに、下船して歩き回った香港の様子、香港を出て2日目に遭遇した嵐のことなど書き記しています。

文末には詩を2首

(前略)
瑠璃盆に 銀象眼の浪模様 鉄の船こそ 我が住いなり
ばってらの 底すれすれに 月見かな
八月十四日
黒田天外大兄
若狭丸船中 竹内棲鳳
(釈文は筆者が適宜現代の文字、かなづかいに改めた)

そして別紙にスケッチを一つ付けました。

さて、8月14日に記したこの手紙がどういう経路をたどったかを追ってみましょう。
8月15日に封筒にいれたようです。表書きの自分の名前の後に日付が記されています。

その後の行方を、封筒の消印で追うと


翌8月16日、シンガポールのタンジョン・パガー(TANJONG PAGAR)郵便局で投函され、



同日午後1時45分、シンガポールの本局に届き、


8月23日、香港の郵便局を経由し、


8月31日、日本の神戸郵便局に届いています。

8月31日(金)、あるいは9月1日(土)には、宛先の
「大日本京都 三条通東洞院 日出新聞社 黒田天外」
に届いたはずです。

天外は、手紙の文面そのままに、日出新聞に掲載する事にして、すぐに原稿作成にとりかかりました。手紙に添えられたスケッチは、新聞用の版下にするために、栖鳳の高弟、西山翠嶂に臨模を依頼しました。

そして、9月4日(火)の日出新聞に掲載され、多くの人たちが、竹内棲鳳の渡欧中の生の声を知ることになりました。
当時の人は結構リアルタイムで栖鳳の見たものを共有できていたのですね。

20160301竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 1 (6)

日出新聞 明治33(1900)年9月4日

新聞の日付欄が空白になっているのは愛嬌ですね。発行日が4日であることは前後の新聞で確認しました。

* 丹波丸と記された文献もありますが、誤りです。丹波丸に乗船したのは帰国の時。

つづく

さち

青木隆幸

(本稿に使用した史料はすべて、海の見える杜美術館所蔵)

 

引札の技法はハイブリッド!

引札とは、無料で配られる広告、いわゆるチラシのことです。

多くは木版やリトグラフの技術を用いて印刷されているのですが、中にはエッチングや空摺りを織り交ぜているものもあります。

このたびは、私、さちの心に残ったおよそ100年前の引札の技術を、当館の所蔵品の中から少しご紹介いたします。

まずは、紙に凹凸をつける空摺りの技法が用いられた引札から。

横から光を当てると、このように模様が浮かび上がります。

1、白龍、酒樽、菊の花に注目 20151215引札の技法はハイブリッド? 雲に白龍 酒樽の列 菊花に杯 有功賞 商標 延年  酒類販売所  森野安次郎 空摺り

2、盛り上がる花びら
20151215引札の技法はハイブリッド? 流水 水辺の白菊と添え木  石油正種油商 かぜねつ病一切の妙薬 海内無双 橋本散 大阪和田政吉監製 代理店  二宮豊治 空摺り

3、ツルの羽の描写
20151215引札の技法はハイブリッド? 旭日 流水 梅花に双鶴と鶴の子1羽  酒塩醤油薪炭商 沢本商店 空摺り

4、鷹の全身、足先まで空摺り
20151215引札の技法はハイブリッド? 旭日 金雲 雪中松に温め鳥  米商  米卯事 三牧卯兵衛 空摺り

5、ウサギの毛並みが見事
20151215引札の技法はハイブリッド? 扁額  旭日 番の兎と3匹の子兎に藪柑子(十両)  和洋諸傘提灯商 並に 直し物仕候  いくよ 空摺り

 

ここから先は空摺り以外の工夫です。

6、髪は二種類の異なる黒インクで表現
20151215引札の技法はハイブリッド? 旭日 松竹梅に羽子板を持つ美人  万荒物砂糖掛物文具 履物塩魚乾物売薬  荒□商号 くすりや  中井商店-3

7、小さなドットでグラデーション
20151215引札の技法はハイブリッド? 陣営の恵比寿大黒 財宝積む馬をひく福助  呉服洋反物商  青砥仙太郎-3

8、一ミリの間に線が5本も!
20151215引札の技法はハイブリッド? 賞状柄  旭日 瑞雲 鶴亀 松   木綿商 諸太物仕入所 金巾染地類 各国縞絣類 染手拭風呂敷  安盛善兵衛-2

 

いかがでしょうか。

たかがチラシ、されどチラシ。

江戸時代の浮世絵版画から脈々とつながる心意気を感じます。

 

さち

青木隆幸

 

1、
20151215引札の技法はハイブリッド? 雲に白龍 酒樽の列 菊花に杯 有功賞 商標 延年  酒類販売所  森野安次郎
《雲に白龍 酒樽の列》26.4×37.1cm

読み:
(有功賞)商標 延年
酒類販売所
愛知郡字石橋
(角 吉)森野安次郎

 

2、
20151215引札の技法はハイブリッド? 流水 水辺の白菊と添え木  石油正種油商 かぜねつ病一切の妙薬 海内無双 橋本散 大阪和田政吉監製 代理店  二宮豊治
《流水 水辺の白菊と添え木》25.4×37.8 cm

読み:
石油正種油商
かぜねつ病一切の妙薬 海内無双 橋本散
大阪和田政吉監製
鳥取市若桜町 代理店 二宮豊治

 

3、
20151215引札の技法はハイブリッド? 旭日 流水 梅花に双鶴と鶴の子1羽  酒塩醤油薪炭商 沢本商店
《旭日 流水 梅花に双鶴と鶴の子1羽》26.0×37.3cm

読み:
酒塩醤油薪炭商
京都東山通新南
商號 鍵學 澤本商店

 

4、
20151215引札の技法はハイブリッド? 旭日 金雲 雪中松に温め鳥  米商  米卯事 三牧卯兵衛
《旭日 金雲 雪中松に温め鳥》25.5×36.3 cm

読み:
米商
京都市佛光寺通富小路東入
米卯事 三牧卯兵衛

 

5、
20151215引札の技法はハイブリッド? 扁額  旭日 番の兎と3匹の子兎に藪柑子(十両)  和洋諸傘提灯商 並に 直し物仕候  いくよ
《扁額 旭日 番の兎と3匹の子兎に藪柑子(十両)》25.8×37.3 cm

読み:
和洋諸傘提灯商
並ニ 直し物仕候
大阪市南區安堂寺橋西詰
いくよ(手提提灯 入)

 

6、
20151215引札の技法はハイブリッド? 旭日 松竹梅に羽子板を持つ美人  万荒物砂糖掛物文具 履物塩魚乾物売薬  荒□商号 くすりや  中井商店
《旭日 松竹梅に羽子板を持つ美人》25.8×37.7 cm

読み:
萬荒物砂糖掛物文具
履物塩魚乾物賣薬
荒□
商号 くすりや
(山 久)中井商店

 

7、
20151215引札の技法はハイブリッド? 陣営の恵比寿大黒 財宝積む馬をひく福助  呉服洋反物商  青砥仙太郎
《陣営の恵比寿大黒 財宝積む馬をひく福助》26.3×38.0 cm

読み:
呉服洋反物商
大原郡大東町
(入山 ア)青砥仙太郎

 

8、
20151215引札の技法はハイブリッド? 賞状柄  旭日 瑞雲 鶴亀 松   木綿商 諸太物仕入所 金巾染地類 各国縞絣類 染手拭風呂敷  安盛善兵衛
《賞状柄 旭日 瑞雲 鶴亀 松》23.5×32.1cm

読み:
木綿商
諸太物仕入所
金巾染地類
各國縞纃類
染手拭風呂敷
右之品直段出極相働調進仕候間
不限多少ニ御用向之程奉希上候也
京都あけず松原南へ入
(丸 安)安盛善兵衛

 

ホンモノ? ニセモノ?

海の見える杜美術館所蔵の引札(商店がお客様に配った広告)を整理していると、竹内栖鳳の落款のある作品を2点見つけました。

20151106ホンモノ ニセモノ 《龍虎図》
引札《龍虎図》

20151106ホンモノ ニセモノ 《旭日青竹清流に虎》
引札《旭日青竹清流に虎》

竹内栖鳳は、掛け軸や屏風といった日本画の型にこだわらず、いろいろな素材に絵を描いた人です。たとえば団扇絵もたくさん描いていますし、珍しいところでは、墨のデザインも手掛けているので、引札のデザインをしていたとしてもおかしくはありません。


竹内栖鳳『団扇画綴帖』より《青竹に烏瓜》 (海の見える杜美術館蔵)

20151106ホンモノ ニセモノ 竹内栖鳳 墨銘《ぬれからす》
竹内栖鳳 墨銘《ぬれからす》 鳩居堂製 (使用済み)(海の見える杜美術館蔵)

ですからほんの一瞬、新発見作品かと期待が膨らんだのですが、
一見して竹内栖鳳らしくありません。栖鳳は旧弊を打ち破って次々と新しい絵画表現に取り組んだ革新的な作家のはずなのに、これらの引札からは、何かの絵の手本を引き写したかのような旧態依然とした印象を強く受けるのです。

栖鳳の残された絵をいろいろ調べてみましたが、同じような作品は確認できませんでしたし、念のため栖鳳が若いころ勤めて刺繍画などを手掛けた高島屋に写真でも資料が残っていないかと廣田孝『高島屋「貿易部」美術染色作品の記録写真集 京都女子大学研究叢刊47』(京都女子大学2009年)をめくってみたりしたのですが、やはり似た絵を見つける事は出来ませんでした。

それでは真贋判定の基本、落款の書体や印章の形はどうでしょうか、

20151106ホンモノ ニセモノ 《龍虎図》-2
引札《龍虎図》(落款 印章)

20151106ホンモノ ニセモノ 《旭日青竹清流に虎》-2
引札《旭日青竹清流に虎》(落款 印章)

まず印章を見てみましょう。栖鳳が実際に使用していた400種類以上もの印の中から、下の2つがとても似ていることがわかりました。

20151106ホンモノ ニセモノ 芸猿図
《芸猿図》より(海の見える杜美術館蔵)

20151106ホンモノ ニセモノ  港頭春色
《港頭春色》より(海の見える杜美術館蔵)

とても似ています。しかし、いずれも細部が異なりますので、引札に使われた印は似せて作られもので、栖鳳が所有する印を使ってはいないことがわかります。

落款の書体はどうでしょうか。詳細な分析は割愛しますが、本人の筆跡とは感じが違います。特に《旭日青竹清流に虎》の鳳の字は、抑揚の弱い、栖鳳の特徴とは異なる書体になっています。

ひとつの参考として、似ている栖鳳の落款を提示しておきますので見比べてみてください。

20151106ホンモノ ニセモノ 烏鷺図 (2)左隻  20151106ホンモノ ニセモノ 烏鷺図 (1)右隻 《烏鷺図》屏風(海の見える杜美術館蔵)

制作年代から考えるとどうでしょうか。これらの引札には制作年代の根拠となる情報は残されていません。そこで唯一の手掛かりともいえる落款の特徴から推定すると、明治末から大正初めの1910年頃が考えられます。1900年のヨーロッパ周遊から帰国して《飼われたる猿と兎》(東京国立近代美術館蔵)をはじめとしたリアルな動物の描写で数々の名作を生み出している頃です。この時に栖鳳が古い時代を踏襲しただけのような絵を描いて引札にするとは考えにくいのではないでしょうか。

栖鳳が描いた虎の一例をご覧ください。緻密なスケッチを繰り返して生み出された作品からは、たたずまいから毛並みまで、動物の本質に迫ろうとする姿勢がひしひしと伝わってきます。


UMI60《臥虎》(部分)(海の見える杜美術館蔵)

以上のことをふまえると、これらの引札の絵を竹内栖鳳が描いたと断定するのは難しいと思います。

 

引札は、商店や商品の名前を印刷して、宣伝のために配られるものですから、現在目にするものの多くには、絵だけではなくいろいろな文字が印刷されています。

20151106ホンモノ ニセモノ 陶器商 桂田留三郎
陶器商 桂田留三郎(海の見える杜美術館蔵)

20151106ホンモノ ニセモノ 炭薪売捌問屋 国松松之助
炭薪売捌問屋 国松松之助(海の見える杜美術館蔵)

栖鳳の名前が記された2枚の引札には、文字が印刷されていませんし、裏には商品番号のようなものが捺印されているので、引札の商品見本、あるいは後から名前を入れる名入れ引札のようです。

20151106ホンモノ ニセモノ《龍虎図》裏      20151106ホンモノ ニセモノ 《旭日青竹清流に虎》裏
《龍虎図》(裏)   《旭日青竹清流に虎》(裏)

明治時代の終わり、あるいは大正時代の初めごろ、きっとこの引札に商店名を印刷してお得意様に配って回ったお店があったはずです。

そしてこの引札をもらった人は、好きなところに貼っては眺めて、栖鳳の絵を飾った気分になれたのかもしれません。

 

ちなみに、栖鳳は絵を複製することに積極的な人でしたから、本物の複製版画もあります。
ところがこだわり抜いて作った複製版画の中には、あまりに精巧で、美しすぎて、本物の“作品”として出回ってしまう事もあります。

20151106ホンモノ ニセモノ  《海の幸》
《海の幸》(海の見える杜美術館蔵)

これは複製版画です。
部分を拡大してみても、とても版画とは思えない美しさです。

20151106ホンモノ ニセモノ 《海の幸》部分
《海の幸》(部分)

 

さち

青木隆幸

竹内栖鳳没後73年 戦後70年

竹内栖鳳は1942(昭和17)年8月23日に没しました。

その後、時代は戦局悪化の一途をたどり、翌1943(昭和18)年には学徒出陣が始まります。

美術の世界も時局の流れに従い、同じく1943年に『日本美術及工芸統制協会』と『日本美術報国会』の二つの組織に集約されて、徹底的に管理されていきます。国家は、ナチスドイツの文化統制にならって、芸術を権力でねじ伏せ、隷属させるつもりだったのでしょうか。

海杜の所蔵する『日本美術及工芸統制協会』関係資料には、常軌を逸した美術界の生々しい記録が含まれています。単に美術史上の資料にとどまらず、この歴史を二度と繰り返してはならないと警鐘を発している史料でもあります。

 

所蔵史料より

20150830 竹内栖鳳没後73年 戦後70年 日本美術及工芸統制協会資料 (2)

1) 一八企局第三四三〇号

 

20150830 竹内栖鳳没後73年 戦後70年 日本美術及工芸統制協会資料 (1)

2) 美報美統会報

 

 

海杜の所蔵品を中心とした『生誕150年記念 竹内栖鳳』巡回展が、明日8月30日(日曜日)、いよいよ最終館の小杉放菴記念日光美術館で最終日を迎えます。一人でも多くの方がご来館され、美術の醍醐味を満喫していただいて、平和の再認識につながることを願ってやみません。

 

さち

青木隆幸

 

 

1)一八企局第三四三〇号

「一八企局第三四三〇号

昭和十八年十月十八日

商工省企業局長 豊田雅孝

 

社団法人日本美術及工芸統制協会

会長 吉野信次殿

 

日本美術及工芸統制協会支部結成に関する件

今般美術品及技術保存を要する工芸品に対する統制の完遂を期するため貴会支部設置方に関し別紙の通各地方長官宛通牒致候に付ては之が趣旨篤と御諒承の上支部結成に万全の措置相成度此段及通牒候也」

 

 

2)美報美統会報

「美報美統会報

創刊の辞

美報会長 横山大観

 

ここに『美報美統会報』第一号を発刊した 物みな挙げて戦争にささげられる秋 用紙の不充分なのは当然であって、むしろこれを発行し得たことは極みない皇恩の有難さを思はねばならない。思ふに会報は会員相互の親睦、連絡、報告の機関だけに止まらず広く大東亜戦下わが芸学人の活動を伝へて恥なく、これを後世に残して悔なき底の覚悟を以て運営されねばならない。形は小さくとも、そこに現下芸学人の雄渾な魂が溌剌と反映していなければならない、それにはまづ芸学人自体が全魂全霊を以て、各自の芸道に打込むべきである。わが前線勇猛の将兵は真に命を的に戦っている。我等芸学人も亦命がけでなければならない。いやしくも資材のふそくなどかこつべき秋ではない。かの宋の絵画は僅か色紙大の小幅でよく唐の眼の文化に対し高き心の文化を樹てたではないか、一本の筆、一丁の墨があれば紙障子を剥がしても、気韻生動の作は生まれようし鑿と槌があれば廃木に不朽の名品も刻まれよう。 (中略)

未曽有の国難に際会して、今こそ全生命力を傾けて己が本然の使命と戦ふ。真に日本的芸道の開拓につとめよう。それが芸学人の真の報国の大道である。会報の創刊を祝して所懐を述べる次第である。」

『美報美統会報』第一号所収、社団法人日本美術及工芸統制協会、昭和19年6月15日、頁1

 

(以上転載にあたり文字を適宜あらためました)

栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く

当館が所蔵する竹内栖鳳家伝来の資料の中には200枚以上の鹿の写真が含まれております。これらを参考にして、鹿の名作が生み出されたことは、以前から指摘されていました。

20140814栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く (2)

20140814栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く (1)

20140814栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く (3)

しかし、栖鳳が写真のみならず、更なる新技術も駆使して絵画制作にのぞんでいた可能性を示す資料が、最近発見されたのです。

栖鳳の作品には、「夏鹿」と題された作品が2点あります。ひとつは現在MOA美術館が所蔵しています。もうひとつの所在は残念ながら現在不明ですが、その画像は光村推古書院刊行『竹内栖鳳』(1981年)で確認できます(頁224〜226)。両作はほぼ同じ図様で、六曲一双屏風の右隻には緩やかな動きの鹿の群れが様々な姿態で描きわけられ、左隻には高く跳躍する鹿の一瞬の姿が描かれています。

右隻は、これまで語られてきたように、写真とスケッチを併用して、集まる鹿の様子を表情豊かにまとめ上げたと思われます。それは、残されている写真やスケッチ、大下絵からもうかがい知ることができます。

20140814栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く (4)

鹿の取材をする竹内栖鳳(左から2人目) と 写真家の岡本東洋(右端)

 

問題は、左隻に描かれた、高く跳躍している鹿の姿です。

私は、きっとどこかにこの姿に似た鹿の写真あるはずだと推測して探していたのですが、これに類するものは、1枚も出てきませんでした。しかしこうした資料の調査過程で、非常に興味深いものが見つかったのです。

20140814栖鳳、最新技術を駆使して新たな絵画世界を切り開く (5)

上に掲載したものは、鹿の写真を納める封筒です。この封筒には、「鹿 昭和八年十月二十八日 奈良ニ於撮影 三十三枚」と、撮影の日付、撮影地、枚数が記載されていますが、最後に「別ニ活動写真撮影」という文言が書かれています。つまり栖鳳は、写真だけでなく、活動写真、つまり動画も撮影していたのです。

今まで栖鳳の絵画制作を考える際には、写真資料との対照しか考えられていませんでした。しかし、左隻の鹿の姿は写真だけではなく、活動写真の存在をも含めて探索する必要があるのかもしれません。跳躍する鹿の一瞬の動きは、動画の方にこそ、その様子が収められていた可能性があるのではないでしょうか。
残念ながらこの活動写真は現在失われてしまっており、この推測を立証する手だてはありません。しかし、栖鳳が絵画制作において活動写真も用いていたことだけは、まぎれもない事実なのです。

ところで栖鳳はなぜこうした最新技術を積極的に取り入れたのでしょうか。
ひとつに、栖鳳の先達である京都の画家たちからの影響があったのかもしれません。栖鳳の師である幸野楳嶺や、久保田米僊といった画家たちはすでに絵画制作において写真を活用していました。また、更にその師にあたる江戸時代後期の画家円山応挙は、「眼鏡画」という、西洋絵画の線遠近法を取り入れた当時目新しかったジャンルに取り組んでいます。先師から脈々と引き継がれる進取の気鋭が、栖鳳にも受け継がれていたと考えるのはいたって自然です。活動写真という当時の最新技術によって写し出された映像を見て、その躍動感を絵画にどのように取り込もうかと興奮している栖鳳の姿が目に浮かぶようです。

「夏鹿」は、動画の出現によって新たに切り開かれた絵画表現を示す、先駆的な作品であるのかもしれません。今後の更なる研究が期待される、新たな資料の発見となりました。

さち

青木隆幸
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「一生一硯」新資料追記

2014年6月22日ブログ 「一生一硯」に、以下の資料を追記いたしました。

 

追記:2014年8月14日

「一生一硯」  竹内栖鳳

「77歳になって何か俳句でもできないものかと思ってるのだが、どうもうまい具合に出てこない。実はちょっと見当をつけてるのがあるにはあるのだが、まだまとまらない。それは、15・6のころからほとんど一生使っていた硯があって、10年ばかり前に割れて使えなくなったが、それでも60年を一生と見て、一生一硯というような文句が俳句にならないものかと思っているのだ。
私の家は料理屋だったのだが、相当はやってたので婚礼とか祭りとかいうと手が足りなくなる。そんな時に雇う一人の料理人がいて、なかなかの手利きで間に合っていたが、少し金使いが荒いのか始終貧乏で、よく父のところに金を借りに来ていた。それがあるとき、あまりたびたび無心に来るのがきずつなかったのか、硯を一面持ってきた。さあ私の15・6のころだったと思うが、ちょうど絵の稽古を始めたころだったので、いつの間にか持ち出して使ったのが、もっと絵が上手になったら上等のを買おうと思いながら、とうとうその硯で通してしまったようなわけだ。
その間ちょいちょいほかの硯を使わないでもなかったが、どうも慣れたののほうが合い口がいい。屏風など描くときには随分墨がいるので、墨池の大きなので磨ったらよさそうだのに、やはりその慣れた小さな硯で磨って、なくなるとまた磨るという風に、その硯に愛着していた。
その後、墨色だとか用墨だとかいうようなことを考えるようになって、他にいくつか硯も買わされたが、たくさんあってもどうも使い慣れないのには手が出ない。先年支那に行った時にもかなたこなたで探したが、口上ばかりでどうも講釈ほどのものに当たらなかった。彫り物などは良くても使い勝手がよくない。
その硯には眼があって、黒石だから端渓ではないだろうと思っていたが、これは水岩で一番いいのだという事で他のは硬すぎてよくないのだそうだ。それが今から10年ほど以前だが、真二つに割れてしまった。別にそう手荒にしたわけでもなく、板の上においた拍子に割れた。何かのはずみだったのだろう。まるで切れ物で切ったように割れてるその調子が、瓦かなんぞのような感じで、ちっとも硬い感じがしない石だった。赤い筋が入っていて何でも唐代の紅絲硯というのだという事だった。今もなお名残が残っている。あの硯を頼りに一生過ごしたという気がする。」

『塔影』16巻11号所収、塔影社、昭和15年11月、頁3~4
(転載にあたり文字を適宜あらためました)

さち

青木隆幸

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栖鳳の絵、受け取りを拒否される!

UMI167
竹内栖鳳「猛虎図」1897(明治30) 海の見える杜美術館蔵

鋭い眼差しで前を見据える一頭の虎。毛を逆立て、牙をむき、前脚をあげ、今にも飛びかからんばかり。この作品を目にする人は、どのような困難があろうとも克服して良い結果がもたらされるという、吉祥画のようにも思えます。

作品を納める箱の裏に、牧野克次(註1)が1916年(大正5)に記した面白いエピソードが残されています。

20140812 栖鳳の絵、受け取りを拒否される! (2)20140812 栖鳳の絵、受け取りを拒否される! (3)
蓋表  蓋裏

そもそもこの絵は、濱尾新(註2)の文部大臣就任(1897年11月)を祝って、中澤岩太(註3)が濱尾に贈呈したものでした。ところが濱尾は一見して怒ってこう言ったのです。
「この虎の絵には尾が描かれていない。つまり私の仕事は首尾一貫しないとでもいうのか?!」
言いがかりをつけられた中澤は、この作品を巻いて持ち帰りました。
面目を失った中澤が、この絵の処遇を中川小十郎(註4)に相談したところ、中川が、自分はちょうど家を建てて絵が足りないところなので譲ってほしい、と持ちかけてきました。中澤は喜んでこの作品を譲りました。
その後のある日、中川が自分を尋ねてきた天龍寺管長の高木龍淵(註5)と歓談する中でたまたまこの話に及ぶと、龍淵は憤慨して、
「知識のないものはこの絵の意図するところがわからないのだ。仏典にもある『霊亀尾を曳く』の誡語を題して引導を与えてやる。霊亀は砂の上を歩いた足跡を消そうとして尾を動かす。だがこれによって尻尾の跡が上からついてしまうことを、わかっておらん。無尾はかえって有尾に勝っているという意味である。」
といい、この絵に賛を記したのです。

この「猛虎図」に関するエピソードは以上のとおりなのですが、この話をふまえると、とても興味深いことがわかってきます。実は栖鳳、この絵と良く似た「尻尾のある」虎の絵を描いているのです。この作品を「猛虎図」と比較すると、下の空間をやや広く取り、そこに尾を描いています。ただし画面からはみ出た虎の下半身を想像すると、尾は描かれるような場所にあるはずなく、取って付けたような印象があります。更にこの作品には、濱尾が文部大臣に就任した直前にあたる『丁酉(1897年)冬十月』の款記がわざわざ添えられているのです。もし

かすると、作品を突っ返された中澤が竹内栖鳳に相談し、尻尾のある作品を描いてもらって改めて濱尾に贈呈した、という、箱裏には語られることのなかった別のエピソードが、あったのかもしれません(原田平作『竹内栖鳳』光村推古書院 1981 図版番号13)。

 

(註1)牧野克次(1864-1942)
洋画家。明治34年、関西美術会の創立に参加。明治35年、京都高等工芸助教授。

(註2)濱尾新(1849-1925)
政治家。文部大臣、東京帝国大学総長、内大臣、貴族院議員、枢密院議長などを歴任。

(註3)中澤岩太(1858-1943)
帝国大学教授、京都帝大理工科大学初代学長、京都高等工芸(現京都工芸繊維大)校長などを歴任。

(註4)中川小十郎(1866-1944)
文部官僚。京都法政学校(現立命館大)を創設。西園寺首相秘書官、台湾銀行頭取、などを歴任。

(註5)高木龍淵(1842-1918)
臨済宗天龍寺派管長。神戸市に徳光院をひらく。室号を耕雲軒、晩年休耕と号する。

 

蓋表釈文
棲鳳猛虎図龍淵管長賛 天平牧野克題匧

蓋裏釈文
往年濱尾新氏ノ文部大臣ニ任セラルゝヤ 中澤岩太氏恭シク棲鳳筆猛虎図ヲ贈ル蓋曽約ヲ果ス也 濱尾氏一見悦ハズ且怒テ曰ク 此画虎尾ヲ欠ク 盖シ吾功業ノ首尾全ウセサルヲ諷スル者歟ト 巻テ之ヲ郤ク 中澤氏甚タ面目ヲ失シ悄然携帰テ之ヲ当時ノ大学書記官中川小十郎氏ニ告ゲ以テ画ノ処置ヲ謀ル 中川氏曰ク 予新ニ家ヲ構ヘ画幅ニ乏シ請之ヲ購ン 中澤氏大ニ喜ビ之ヲ与フ 是此幅也 某日天龍寺管長龍淵師中川氏ヲ訪ヒ 談偶及之 師大ニ罵テ曰ク無識ノ輩画意ヲ知ラズ 悤霊亀尾ヲ曳クノ誡語ヲ題シ引導ヲ与フ 霊亀尾ヲ曳クノ事 仏書ニ在リ 霊亀ナル者ハ沙上匍匐ノ足跡ヲ隠サント欲シ 歩々尾ヲ動カシテ之ヲ消ス 伺イ知ラン尾ヲ以テ地ヲ捺ルノ痕歴然タルコトヲ 無尾却テ有尾ニ勝ルノ意也  大正五年六月為中川先生識 天平牧野克
(釈文の旧字は適宜筆者が改めた)

さち

青木隆幸

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