新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳

1933(昭和8)年5月、新渡戸稲造が京都に竹内栖鳳と佐伯理一郎を訪ね、瓢亭で会食した時の記念写真です。

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (7)後方左から佐伯、新渡戸、栖鳳

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳

この3人はとても仲が良く、特に新渡戸は、著書で竹内栖鳳について章を割いて思い出を語っているほどです。-参考資料①

この写真について、会食を企画した新渡戸稲造の当時の状況から考えてみます。
1932(昭和7)年2月4日、講演先の四国松山で「我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」と発言したことが日本中で非難され、その2か月後に満州事変を起こした日本の国際社会孤立を防ぐためアメリカにわたって日本の立場を訴えるものの理解を得られず、翌1933年(昭和8年)3月27日、ついに日本は国際連盟脱退を表明。この写真はその2か月後の失意のどん底のなかで栖鳳を訪ね、いろいろな相談をしたときに撮影されたものです。-参考資料②

新渡戸は同年10月15日、日本代表団団長として出席した、カナダで開かれた太平洋問題調査会議を終えた直後にその地で帰らぬ人となりました。本能的に自分の余命を感じて長年交流を温めてきた京都の友を訪問し、この世の記念に写真に納まったのではないかと思えてなりません。

これらの写真は京都市丸太町寺町のサン写真館に依頼して作成されました。記念としてそれぞれの手元へ配られたようです。-参考資料③

以下 当館所蔵写真帳2点

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (4)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (5)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (6)

 

 

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (1)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (2)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (3)

 

参考資料

①新渡戸稲造著『偉人群像』(実業之日本社, 1931)頁363~ 文字は適宜当用漢字にあらためた。

第31章  竹内栖鳳画伯  神韻縹渺たる画人

明治40年ごろであった。わが輩が高等学校に奉職しているころ、毎日昼食を職員と共にする間、雑多な問題が話題に上がった中、最もしばしば話題となったのは絵画のことであった。

教授の中にはその道に通じた人が多かったのと、また解らぬ者さえ名画をほしい一念から、絵と画家がしばしば論ぜられた。

わが輩は絵画も解らず、また美術家の中には、殆ど知己なるものが皆無であったため、何事も事珍しく聞いておったが、ある日2,3人のいうことに、画家中ではおそらく人物としては、栖鳳の上に位するものがなかろう、と、この一言がわが輩の耳に異様に響いた。

何故なれば田舎武士に生まれたわが輩には、殊に生家では父親は美術に趣味もあったが、寧ろ実務の方に興味があって、祖父は殆どヤンキー的(ママ)な実際家であり、そのまた親たる曾祖父は軍学者であった関係上、絵画などは単なる慰み物で、これを商売にする絵描きの如きは、人物としては、コンマ以下の如く思い倣しておった。

しかしのみならず、美術家と称する人の風采を見ても、だらしなく締りなき態度であったから、栖鳳氏が高潔なる士であるとの言葉を聞いて急に日本絵画に注意を払う気分になった。展覧会でもあれば、従来全然怠っている審美的観賞を発揚せんとの心がけさえ起った。

その後数年ならずして京都に滞在中、友人の佐伯理一郎氏に竹内栖鳳という人は、京都の画家だそうだが、画家に似合わない人物と聞いたが「君知っているか」と、尋ねた所、同氏は殆ど極端なる言葉をつらねて栖鳳氏の技術と、人格を賞め讃えた。

その翌日であったと思うが、佐伯君が同伴して栖鳳氏を訪れた。一見して同氏の非凡なることを認めることが出来る。その非凡とは芸術に関することではなく(この点はわが輩にはわからぬから)、彼の容貌り(ママ)物のいい方、風采、すべて彼の性質を現す事柄がわが輩に異様な印象を与えた。

彼の言の如き頗る謙遜で、京都式に穏やかにしかも内容のある一言一句にさすが、名人の名を博するだけある。

 

②柴崎由紀著『新渡戸稲造ものがたり』((株)銀の鈴社, 2012)頁208

「これから日本を、美術と文学を通じて外国に紹介しなければならない。そのためには、竹内画伯に聞いておかねばならないことがたくさんある」と何度も繰り返し、3人での会食を楽しみました。もしかしたら、政治的な交渉にすでに限界を感じ、日本の文化を通じて、日本の真価を世界に認めてもらおうと考えていたのかもしれません。

 

③左から佐伯、新渡戸、竹内の写真は、同志社大学同志社社史資料センターにも保存されていることが『新渡戸稲造ものがたり』に紹介されています。

さち

青木隆幸

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一生一硯

竹内栖鳳が生涯を通じて大切に使っていた硯です。 20140621一生一硯 (8)

栖鳳は、修業時代からおよそ50年も使い続けたこの硯が命尽きて割れたとき、「一生一硯」と名付けました。(手前から1/3ぐらいの場所に横に入っている線が割れた跡です) 現在は当館で大切に保管しています。今年11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品予定です。 この硯は今から70年前、「竹内栖鳳遺作展」(1943年(昭和18)1月23日から1月29日 東京日本橋三越5階西館)に出品されました。 その時の解説紙が残されています。

20140621一生一硯 (1)

「 解説 一生一硯 栖鳳の父政七の家業は料亭なり。亀政という。明治10年、栖鳳14歳のころとか、この料亭亀政の一包手、包技こそ優れたれ、酔興蕩逸の癖ありて、政七より借財ありしまゝ杳として消息を絶ちけるが、数年後のある夜、一硯を携え(て)※瓢来し、栖鳳が筆墨の道に精進せる由仄聞せる旨を語り、塵舗に拾いし貧硯なれど、お使い下されとておき去りぬ。 素より政七父子も聊かも珍重の意なく、幸に未だ初学にて、用具不揃いの折柄、当座の具にと備えしが、磨る墨との調和まことに快適、加うるに溌墨清艶にて、家運の伸展に連れ、他に幾多の金池龍淵を試みしかど、この硯に及ぶものなく、画屋随一の名硯となる。 されど後日、従婢硯洗の折、板上に在るを見るに、真二つに割れてあれば驚愕、急遽家長の面前へ運びけるが、毫も粗忽の跡なく、寂焉枯木の倒れしに似たり。依って栖鳳は破硯を掌上に撫し、愁傷歎嗟、具に過去を想うて一生一硯と銘す。包手の携え来たりしより50年の忠勤なり。作品の大半この硯より生る。 ―竹内逸記- 」 ※文中の(て)は解説紙にはなく「竹内栖鳳遺作展集」掲載時に補われた文字。   以下にその展覧会の関係資料を掲載します。 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)

20140621一生一硯 (12) 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)

20140621一生一硯 (10)「一生一硯」掲載ページ   20140621一生一硯 (7) 「竹内栖鳳遺作展覧会目録」20140621一生一硯 (6)「竹内家出品」硯の部分   一生一硯収納箱 20140621一生一硯 (9) 「先考栖鳳先生用具 一生一硯 於東山々下遺邸 逸」

この収納箱は、「竹内栖鳳遺作展覧会」に出品する際に作られたと思われます。 箱書は竹内逸。   以上は当館収蔵の史料・資料です。 これら史料類も11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品を予定しています。 この硯が展示された1943年(昭和18)ごろは、美術関係出版物の統廃合が進められ、紙の配給が厳しさを増し、なおかつ情報統制によって正しい記録が残されにくくなっている時代なので、いろいろと分からないことがたくさんあります。

 

追記:2014年8月14日

「一生一硯」  竹内栖鳳

「77歳になって何か俳句でもできないものかと思ってるのだが、どうもうまい具合に出てこない。実はちょっと見当をつけてるのがあるにはあるのだが、まだまとまらない。それは、15・6のころからほとんど一生使っていた硯があって、10年ばかり前に割れて使えなくなったが、それでも60年を一生と見て、一生一硯というような文句が俳句にならないものかと思っているのだ。 私の家は料理屋だったのだが、相当はやってたので婚礼とか祭りとかいうと手が足りなくなる。そんな時に雇う一人の料理人がいて、なかなかの手利きで間に合っていたが、少し金使いが荒いのか始終貧乏で、よく父のところに金を借りに来ていた。それがあるとき、あまりたびたび無心に来るのがきずつなかったのか、硯を一面持ってきた。さあ私の15・6のころだったと思うが、ちょうど絵の稽古を始めたころだったので、いつの間にか持ち出して使ったのが、もっと絵が上手になったら上等のを買おうと思いながら、とうとうその硯で通してしまったようなわけだ。 その間ちょいちょいほかの硯を使わないでもなかったが、どうも慣れたののほうが合い口がいい。屏風など描くときには随分墨がいるので、墨池の大きなので磨ったらよさそうだのに、やはりその慣れた小さな硯で磨って、なくなるとまた磨るという風に、その硯に愛着していた。 その後、墨色だとか用墨だとかいうようなことを考えるようになって、他にいくつか硯も買わされたが、たくさんあってもどうも使い慣れないのには手が出ない。先年支那に行った時にもかなたこなたで探したが、口上ばかりでどうも講釈ほどのものに当たらなかった。彫り物などは良くても使い勝手がよくない。 その硯には眼があって、黒石だから端渓ではないだろうと思っていたが、これは水岩で一番いいのだという事で他のは硬すぎてよくないのだそうだ。それが今から10年ほど以前だが、真二つに割れてしまった。別にそう手荒にしたわけでもなく、板の上においた拍子に割れた。何かのはずみだったのだろう。まるで切れ物で切ったように割れてるその調子が、瓦かなんぞのような感じで、ちっとも硬い感じがしない石だった。赤い筋が入っていて何でも唐代の紅絲硯というのだという事だった。今もなお名残が残っている。あの硯を頼りに一生過ごしたという気がする。」 『塔影』16巻11号所収、塔影社、昭和15年11月、頁3~4 (転載にあたり文字を適宜あらためました)

さち

青木隆幸

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竹内禎子独唱会

当館の所蔵する竹内栖鳳資料の中の一枚です。
舞台左袖に「ソプラノ独唱 竹内・・・」の文字をかろうじて読む事が出来ました。

20140618竹内禎子独唱会

竹内栖鳳の家系で声楽にかかわる人物に、栖鳳の長男、逸三の妻「竹内禎子」がいます。

日本の洋楽、特に京都における声楽にとって重要な人物です。同志社女子大学ホームページや京都混声合唱団ホームページでその活動の一部を確認する事が出来ます。

「竹内禎子」の舞台で「独唱」と名の付く催事は、1930年(昭和5)11月10日または19日に京都市公会堂(岡崎公会堂)で行われた「竹内禎子夫人帰朝独唱会」が確認されましたので、この写真はその時のものの可能性があるのですが、当時の京都市公会堂の舞台写真との照合など基本調査がまだ終わっていないので確定ではありません。

ところで、京都混声合唱団のホームページには、1925(大正14)年に産声をあげた創立時の中心メンバーは「稲畑登美子、吉田恒三、柳兼子、近藤義次、竹内禎子、上村いさを(けい)、加藤榮(千恵)ほか」とあります。
稲畑登美子女史は、1877年(明治10)にフランスのリヨンに留学した稲畑産業株式会社創業者、稲畑勝太郎の妻です。竹内栖鳳が1900年(明治33)にリヨンに立ち寄るに際して交信はなかったのでしょうか。

その京都混声合唱団を後援する「京都音楽協会」顧問には、竹内栖鳳と山元春挙が名前を連ねていますが、京都の音楽界にどのようなかかわりを持っていたのでしょうか。

この一枚の写真が、いろいろなことに示唆を与えてくれました。

 

調査の過程で得た文献を1つ紹介します。
⦅ ⦆はさちによる注です。

「京都音楽史」編纂主任 吉田恒三 発行所 京都音楽協会  昭和17年6月28日発行

⦅p315~⦆
昭和3年 京都混声合唱団発表会に対する後援

この合唱団ははじめ同声会京都支部の会員が創意成立したもので柳兼子、竹内禎子など熱心なる支持者であった、その後会員も次第に多くなった、第一回の発表は昭和2年11月19日同志社チャペルであったのでこれは第二回で、本会(京都音楽協会)はこれを講演したのである。

曲目
1、       カヴァレリア ルスティカナ開幕の合唱       マスカニ作
2、 (イ)       逝ける女                                          ベンネケ
(ロ)  夜                                                     シューベルト
3、 (イ)       送別の歌                                          信時 潔
(ロ)  母の心                                              ブルッフ
4、 (イ)  帰雁                                                 ハウプトマン
(ロ)  鶯                                                     メンデルスゾーン
5、ドンファン                                                            モーツァルト
(二重唱  近藤義次 竹内禎子)
6、山の乙女の踊り(イゴル公より)                         ボロディン作
7、森の讃歌                                                               ブルッフ作
8、真の幸福への讃歌                                                 ヘンデル作
(二重唱  竹内禎子 柳兼子)
9、主よ御恵を 栄光神にあれ(第12彌撒⦅ミサ⦆)曲)           モーツァルト

⦅p334~⦆
竹内禎子夫人帰朝独唱会 11月19日⦅ママ⦆於市公会堂
同夫人はさきに夫君逸三氏と共に欧米に遊び永くフランスに滞留声楽研究を重ねてこのほど帰朝、その第一声を同志社合唱団主催のもとに発足せらるるので本会はこれを後援した、ピアノはニコルスカヤ嬢であった。

曲目
第1部
1、       独唱
イ、楽園の美しき三羽烏(民謡)                          ラヴェル
ロ、ニコレット(民謡)                                   ラヴェル
ハ、歌を唄ひし追憶                                          アーン
ニ、風景                                                            アーン
ホ、五月                                                            アーン
2、   イ、マダム・バターフライより                   プッチニ
静かなる海に
ロ、ポエムより                                            プッチニ
人は私をミミと呼ぶ

第2部
1、       ピアノ・ソロ
イ、ガボットとヴァリエーション                         ラムデュ
ロ、円舞曲 第15番                                            ブラームス
ハ、スタッカー練習曲                                          ルビンシュタイン
2、独唱
イ、何処へ                                                        シューベルト
ロ、モムースのアリア                                       バッハ
ハ、すみれ                                                        スカラッティ
3、 イ、白銀の指輪                                                 シャミナード
ロ、歌劇 ヘロデ王より                                   マスネ
サロメの嘆き

京都楽団年表⦅ページ表記なし 竹内関係抜き書き⦆
大正6年11月                   ペツォルド夫人独演会  竹内夫人助奏
Agrand Benefit Concert. Petzold
主、三一教会
YMCA(三條基督教青年会館)

大正10年12月7日          ペツォルド夫人、竹内禎子夫人音楽大演奏会
YMCA(三條基督教青年会館)

大正11年4月21日          ショルツ氏・竹内夫人音楽演奏会
市公会堂

大正14年5月24日          ウエラ・オース嬢 竹内禎子夫人演奏会
鯖戸英郎氏 主、音楽同志会
市公会堂

大正15年6月4日            オルガン独奏会 竹内禎子女史助演
同志社

大正15年6月19日          セリスト・ストゥーピン氏演奏会 竹内禎子氏助演
市公会堂

昭和5年11月10日⦅ママ⦆              竹内禎子女史独唱会

⦅注意:本文と年表とで独唱会の日付が異なる⦆

さち

青木隆幸
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クライスラーと栖鳳

今秋開催の竹内栖鳳展に向けて、収蔵している竹内栖鳳関係史料の整理調査を進めています。

20140609クライスラーと栖鳳 (1)

竹内栖鳳と一緒に写っているヴァイオリンを持つ男性は、世界的ヴァイオリニストであり作曲家のフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875 – 1962)です。

クライスラーは1923年(大正12)に来日し、5月1日から20日まで、東京帝国劇場での6日間連続公演から始まり、神戸、大阪、名古屋、京都でおのおの2回ずつ8公演、そしてもう一度東京地区にもどって東京1回、横浜1回そして東京1回、移動も含めた20日間で合計17公演というとんでもないスケジュールで演奏旅行を行いました。しかも合間に徳川頼定侯爵、西本願寺の大谷伯爵などの錚々たるメンバーによる晩餐会も入っているのです。そのような中、京都岡崎公会堂における5月14日、16日のどちらかの演奏会の後に、竹内栖鳳邸で夜9時半から朝3時まで行われたという歓迎の宴の際に撮影された写真のようです。

上の写真の右奥にかかっている烏の掛け軸は、京都国立近代美術館所蔵の「遅日」(大正7年)と思われます。昨年、東京国立近代美術館と京都市美術館で開催された竹内栖鳳展に出品されていたので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。

20140609クライスラーと栖鳳 (4)

調査の過程で得た3つの文献と余談を2つ紹介します。

なお、転載に際しては適宜当用漢字に直しました。( )内はさちによる注です。割愛箇所は・・・としました。

 

文献1 栖鳳邸での歓迎会の様子を、栖鳳の長男の竹内逸の文章より。
「栖鳳閑話」竹内逸著 昭和18年2月21日発行 改造社版  原文、大阪朝日新聞夕刊連載9編昭和11年9月稿

文献2 演奏会について、京都音楽協会の記録より。
「京都音楽史」昭和17年6月28日 京都音楽協会発行 編纂主任 吉田恒三

文献3 演奏会の記録について、フリッツ・クライスラーに直接取材して書かれた伝記より
「フリッツ・クライスラー」1975年12月20日発行 ルイス・P・ロックナー著 中村稔訳 第19章 東洋をかいまみる

 

文献1 p188~
「ところで、1923年に、名実ともに世界的楽人のクライスラーが日本へ演奏旅行に来た。そして京都での演奏会の夜、その演奏後ただちに楽器を提げたまま栖鳳を訪ねてきた。たぶんそれは9時半ごろだったろう。だからそれはクライスラーの50歳近く。栖鳳はちょうど60歳のころで、二人とも現在に比べてはるか元気であった。しかもかつてその時ほど異国人を相手として、相当内容のある談話の弾んだ(原文:機んだ)時もなかったろう。なぜなら、クライスラーが栖鳳の家を去ったのは午前3時だったし、その長時間、クライスラーが栖鳳の絵を見、栖鳳がクライスラーの演奏を聴いていた時間を除いて、ほとんど音楽や絵画について、お互いの意見を吐きあったからである。しかもクライスラーはよほど談話に身が入ったとみえ、肝心の名器を床の間へ置き忘れたまま帰ってしまった。だから10分もすると、またクライスラーは自動車で戻ってきたが、筆者が楽器を車の窓から差し入れると、「どうもありがとう。こんな失敗は生まれて初めてですよ」と、苦笑いしていた。
だが、残念ながら、筆者はその時の談話の内容をすっかり忘れてしまった。その時はよく覚えていたし、その直後手記でもしておけば、今の場合相当興味のある記録となったろうと思うが、何しろ楽人と画家とが勝手放題にしゃべる談話の通訳で、むしろその内容よりも、通訳の方に気を取られていた。
ただクライスラーは、いざ栖鳳の家を去ろうとする直前、どちらかといえば淋しい表情で、こんな風なことを言った。
「私から言わせると、画家は楽人よりはいいと思いますね。なぜかと言いますと、楽人の場合は、もしその夜すぐれた耳を持った人が聞きに来ていてくれない場合、楽人のその夜の努力は全く永久に無駄になってしまいます。しかし画家はその作品が残るのですから、たとえその生きている時代に社会から認められなくとも、将来を目標として自信のある、かつ自由な仕事ができます。
かくしてクライスラーは栖鳳の家を去ったのだが、栖鳳は台所の火鉢の前に座って、だれを目標とするわけではなく、そこに居並ぶ我々に対して、ぼんやりとこんなことを言っていた。
「なるほどな。私は今まで、自分の作品が将来も長く人目にさらされるということを忘れて仕事をしている場合が多かった。これはよく考えねばならん事だし、やはりあれだけの人になると、すべての話が本当の苦労からにじみ出てくるから偉いものや。やっぱり人間は本当に苦労をした人でなければダメかな」
しかもまたクライスラーは栖鳳に対して、こんなことを言い残している。
「このころでは私は一日に30分か1時間しか練習しません。その他の時間は心を養ったり、心で研究しています。たぶんあなたが2時間か3時間でできる作品のために、2日も3日もお考えになっている場合があるように…」

文献2 p264~
クライスラー独奏会
□大正12年5月14日、16日午後7時半
□岡崎公会堂
・・・
□当会(京都フィルハーモニー・ソサエティー)は此の至高芸術家を迎え二日にわたって大演奏会を催したが名流の家庭殆ど総動員の形で場内華やかに定刻前すでに満員になった、黒ビロードを背景に薄暗い光の下にクライスラー氏は伴奏者と共に潮のような拍手に迎えられてその姿を現した、健康そうな引き締まったあの体躯と澄み切った聡明なあの目とやや白くなった豊かな髪、ウィーンの芸術家的気稟がまず聴衆にいい感じを与えた。そして二時間にわたる演奏には幾度か嵐の如きアンコールが繰り返され千の聴衆は全くその神技に魅了された。
尚ソサエチー、音楽同好倶楽部有志者は南禅寺稲畑邸にクライスラーを迎えティーパーティーを催し広大な庭園を逍遥し写真を撮影、十分に歓を尽くした。

文献3
「(1923年)5月の最初の6日間、クライスラーは帝国劇場に連日出演した。」(p231)
「最終日の5月6日・・・終演後、徳川頼定侯爵夫妻がクライスラー夫妻の為ために晩餐会を催し、特別の来賓として久爾宮が臨席した。」(p232)
「横浜での演奏契約をすませたあと、神戸、大阪、名古屋、京都でおのおの二回ずつの演奏会を開いた。」(p233)
「京都にいるとき、・・・多くの画家に会い、彼らのスタジオに招かれた。彼らの中で最大の画家は栖鳳だった。彼は掛け軸に描いた自分の代表作のひとつをクライスラーに贈った。」(p235)
「クライスラー一行はもう一度東京地区にもどって、5月19日に横浜、5月18日と20日に東京で、お別れ演奏会を開いた。」(p236)

余談1 栖鳳の失敗
来日前に演奏会のため立ち寄った上海で、クライスラー夫妻はねずみにさんざんな目にあっていました。
「われわれのホテル住まいは必ずしも快適とはいえなかった。居間も食堂もねずみだらけだった。まったく不潔このうえなかった。クライスラー夫人が一番よわってしまい、せめて部屋で猫を飼わせてほしいと支配人に泣きついた・・・ホテルの人は猫を一匹連れて来てくれました。ところが半分野生の猫だったのです。夜、目をさますと、二つの眼がじっと私をにらんでいました。その猫はフリッツの胸に陣取っていたのです!」(文献3、p230)
ところがそれを知らない栖鳳は、得意のねずみの絵をクライスラーに贈ってしまったのです。
「夫妻がホテルに帰り、その(栖鳳の)贈物を広げて見て仰天した。チーズを齧っているねずみの絵ではないか。ねずみが大嫌いなハリエットはその絵をできるだけ手の届かぬ所へしまい込んでしまい、それがベルリンの家の壁に掛けられることはけっしてなかった。」(文献3、p235)

余談2 栖鳳と京都音楽界
栖鳳は、この演奏会の直後の大正12年6月、京都フィルハーモニー・ソサエティーをはじめとした諸団体を合同して設立された京都音楽協会の顧問を務めている。(文献2 、p277)

さち

青木隆幸

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松岡映丘から竹内栖鳳への手紙

竹内栖鳳展へ向けて、当館で保管している膨大な史料の海をかき分けていると、松岡映丘から竹内栖鳳にあてた手紙が出てきました。
20140519松岡映丘から竹内栖鳳への手紙

昭和5年(1930)にローマで行われた日本美術展の報告が書かれています。

日本美術の威信をかけて行われたこの展覧会のなかで、竹内栖鳳の作品がどのような役割を担っていたのかなど、色々なことを伝えてくれる貴重な一葉です。

なお、文中の「御作品」は竹内栖鳳の作品の事、「闘鶏」は現在「蹴合」 (大倉集古館蔵)と呼ばれている作品のことと思われます。


日本京都市御池油小路
竹内栖鳳様

益々御清康奉賀候 さて 当地に於ける展覧会は去る二十六日首相臨場のもとに盛大に開会せられ頗る好評に御座候
御作品闘鶏は第六室二間床にかけ 支那風景も招待日には特に中央室の床に陳列いたし候

四月三十日 ローマにて
松岡映丘


竹内栖鳳展へ向けて史料の整理を進めています。

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青木隆幸