うみもり香水瓶コレクション1
ファベルジェ社《香水瓶》

こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。今後、うみもりブログで、当館の香水瓶コレクションのなかでも選りすぐりの作品を紹介してまいります! 第1回目の作品は、こちらです 👇ファベルジェ 1890

(ファベルジェ社《香水瓶》ロシア、サンクトペテルブルク、1890年頃、水晶、ダイヤモンド、ルビー、ムーンストーン、金、七宝、ロシア皇太子ゲオルギー・アレクサンドロヴィッチおよびギリシャ国王ゲオルギオス1世旧蔵、海の見える杜美術館所蔵。 PERFUME FLACON, FABERGE, C. 1890 ,Gold, rock crystal, diamonds, rubies, moonstone, enamel, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima)

 

写真から、水晶の輝きを際立たせる繊細な文様が伝わりますでしょうか? いかにもやんごとなき所有者を想像させるこの壮麗な香水瓶は、世紀転換期に生きたギリシャ国王、ゲオルギオス1世の旧蔵品です。2007年までギリシャ王家の驚異の部屋に収められ、代々受け継がれた後に、当館に収蔵されました。

ゲオルギオス1世の名は、近代オリンピック揺籃期の文献に多く登場します。近代オリンピックの歴史は、1890年代にフランスのクーベルタン男爵が、古代オリンピックの再興を提唱したことに始まるとされていますが、その栄えある第1回目の地として選ばれたのが、ギリシャのアテネでした。

しかし、わずか2年しかなかった準備期間で、開催資金を調達するのは至難の業でした。それを解決したのが、ときのギリシャ国王、ゲオルギオス1世であったのです。ギリシャ国王となる以前、デンマーク王子であった彼は、王太子コンスタンティノスとともに、各国の王室に呼びかけて、資金提供者を集め、開催を実現させました。

本作品は、そのゲオルギオス1世が、故郷のデンマーク王室を通じ、ロシア皇帝ニコライ2世の弟である皇太子より相続した香水瓶です。ロシアの高級宝飾ブランド、ファベルジェ社の工房長ペルチンが手がけたもので、煌く宝石があしらわれた栓や、アラベスク文様が緻密に彫られた水晶の本体に、その熟練の技術が認められます。18世紀の装飾様式を持つ表現が、家族の歴史を物語るかのような格調高い香水瓶となっています。

ただ今、香水瓶展示室では、本作品を含むオリンピックにちなんだ作品を展示しています。はるかギリシャのエーゲ海を思わせる、穏やかな夏の海を臨む翠緑の杜の美術館で、本作品をぜひご堪能くださいませ。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

香水瓶展示室と東京オリンピック・パラリンピック

香水瓶展示室では、8月23日まで オリンピック・パラリンピック企画 のコーナーが設けられています。

香水瓶とオリンピックにはどのような関係があるのでしょうか。
コーナーの展示解説からここに紹介いたします。

20200800 (1)

古代オリンピック

前8 世紀に始まる古代オリンピックは、ギリシャのオリンピアにあるゼウス神域で行われた、4 年に一度の競技祭でした。当時、都市国家間での戦争がありましたが、競技祭開催に先立ち、開催の都市国家の使者がギリシャ全土の諸国を周って、休戦を告げました。
また古代オリンピックは、単なる競技会ではなく、宗教的な祭事でもありました。全能の神ゼウスへの儀式も行われ、競技者は神域に入る前に身を清め、ゼウス像に不正を行わないことを誓いました。
このような背景を持つオリンピックは、戦争を中断して参加することから「聖なる休戦」と呼ばれました。この平和のおかげで競技者や観戦者は、オリンピアに無事に旅することができたのです。
海の見える杜美術館は、レスリング等の運動に励んだギリシャの若者たちが、筋肉を和らげ、肌を守るために身体に塗った香油用の容器《アリュバロス》をはじめ、古代のスポーツの在り様を今に伝える作品を所蔵しています。

《アリュバロス》 ギリシャ、ロドス島? 前6 世紀初め テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》
ギリシャ、ロドス島?
前6 世紀初め
テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》 ギリシャ、ロドス島 前6 世紀 テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》
ギリシャ、ロドス島
前6 世紀
テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》 ギリシャ、コリントス 前6 世紀 テラコッタ

《アリュバロス》
ギリシャ、コリントス
前6 世紀
テラコッタ

《アリュバロス》 ギリシャ、コリントス 前6 世紀-前5 世紀初め テラコッタ、黒釉彩色

《アリュバロス》
ギリシャ、コリントス
前6 世紀-前5 世紀初め
テラコッタ、黒釉彩色

近代オリンピック

近代オリンピックの第1回アテネ大会開催(1896 年4 月)に尽力した、ギリシャ国王ゲオルギオス1世が所蔵した2 点のファベルジェ社の香水瓶を展示いたします。
ゲオルギオス1 世は、平和を願う近代オリンピックの提唱者、クーベルタン男爵の考えに共鳴し、西暦393 年以来、1500 年途切れていたオリンピックを再興させようと、開催国の国王として多大なる支援をしました。
当時、ギリシャ政府も、また国際オリンピック委員会も財政難に直面し、大会開催のための資金繰りに難航していましたが、デンマーク王室出身のギリシャ国王ゲオルギオス1 世とその子息、王太子コンスタンティノスが各国の王室に呼びかけて資金提供者を集め、開催が実現したといわれています。
海の見える杜美術館には、ゲオルギオス1 世が所有し、その後2007 年までギリシャ王室に代々伝えられてきた2 点の香水瓶が所蔵されています。

ファベルジェ社 《香水瓶》 ロシア、サンクトペテルブルク 1890 年頃 水晶、ダイヤモンド、ルビー ムーンストーン、金、七宝

ファベルジェ社
《香水瓶》
ロシア、サンクトペテルブルク
1890 年頃
水晶、ダイヤモンド、ルビー
ムーンストーン、金、七宝

ファベルジェ社 《香水瓶》 ロシア、サンクトペテルブルク 1895-1900 年頃 水晶、サファイヤ、金

ファベルジェ社
《香水瓶》
ロシア、サンクトペテルブルク
1895-1900 年頃
水晶、サファイヤ、金

ゲオルギオス1 世(1845-1913 年、在位1863-1913 年)と19 世紀のギリシャ

長らくオスマン帝国の支配下にあったギリシャが、1833 年に独立を果たすまでの険しい道のりは、フランス・ロマン主義を代表する画家、ウジェーヌ・ドラクロワの傑作《キオス島の虐殺》(1824 年)に端的に表れています。独立戦争の後、ヨーロッパ列強諸国の支援を得て、ギリシャは君主制の独立国となりました。その初代国王としてドイツ南部のヴィッテルスバッハ家の国王オソン1 世が就任しましたが、彼はギリシャの習慣に同化せず、また数々の行いから国民の信が得られずに、ほどなくして退位
します。紆余曲折の末、新国王として白羽の矢が立てられたのが、当時17 歳のデンマーク王室の王子ヴィルヘルムでした。1863 年、ギリシャ人の王、ゲオルギオス1 世として即位した彼は、デンマーク国教の福音ルーテル教会からギリシャ正教会へと改宗し、ギリシャの近代化や領地の拡大に着手しました。そのような中で、近代オリンピックの第1 回アテネ大会が開催されたのです。
やがてゲオルギオス1 世の領地拡大路線は、周辺諸国から反感を招くこととなります。オリンピックの翌年にはオスマン帝国との希土戦争が勃発し敗戦し、1913 年、第一次バルカン戦争の最中、テッサロニキにて暗殺されました。

ヨーロッパの王室は、婚姻を通じて、各国が密接に結びついています。例えばゲオルギオス1 世も、ロシアの最後の皇帝ニコライ2 世の母方(デンマーク王室)の伯父にあたります。作品番号35 は、ニコライ2 世の弟ゲオルギー・アレクサンドロヴィッチ皇太子がロシアのファベルジェ社で購入したものです。夭逝した彼に代わり、ゲオルギオス1 世へと受け継がれ、ギリシャ王室で長く所有されることとなりました。

展覧会企画/構成:岡村嘉子、今城誥禧
展覧会解説:岡村嘉子

うみひこ

美術館から眺める夜景

展示替などで夜遅くなった時、美術館から眺める光景に癒されることがあります。

20200608宮島夜景 (12)-2
広島の街の光に囲まれる黄金山

20200608宮島夜景 (10)-2
夜も眠らない大竹方面の工場群

20200608宮島夜景 (15)-2
宮島口駅周辺と宮島

20200721宮島夜景 (8)
そして厳島神社

厳島神社の大鳥居は修復中なので網に囲まれていますが、夜はシルエットが浮かび上がっています。

うみひこ

竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い 4

竹内栖鳳展示室では、「EDO↔TOKYO 版画江戸百景」の期間中(6/20 – 8/23)、

「竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い」という企画展を行っています。

当館が所蔵する竹内栖鳳の作品や栖鳳が収集した写真資料を通じて、作画における栖鳳の写真の用い方について探るとともに、福田平八郎や川端龍子をはじめ多くの画家に作画の参考となる写真を提供した写真家、岡本東洋の活動の一端を紹介するものです。

ブログでは、この企画展を4回に分けて紹介していて、今回は最終回となります。

それでは、竹内栖鳳×岡本東洋 日本画と写真の出会い4 「画家が参考にした岡本東洋の写真」(後編)です。

竹内栖鳳

竹内栖鳳

岡本東洋

岡本東洋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

略年表 ―栖鳳と東洋と画家の写真利用を中心として―

1839年(天保10)ダゲレオタイプの写真が発明される。
1853年(嘉永6)アドルフ ブラウン『装飾のための花の習作集成』刊行。
1860年(万延元)頃~上野彦馬ら写真館を開く。島霞谷ら写真利用して油絵を描く。
1864年(元治元)竹内栖鳳、京都の料亭「亀政」で生まれる。
1872年(明治5)壬申検査(古社時の宝物調査が行われ、多数の文化財が撮影される)
1887年(明治20)マイブリッジ『動物の運動―電動写真による動物の運動の連続形態の研究』刊行。
1888年(明治21)写真フィルム、ロールフィルム登場。浅井忠、市販の写真を参考に《春畝》(明治美術会第一回出品。重要文化財 東京国立博物館蔵)制作。
1891年(明治24)岡本東洋、京都のゆのし屋の次男として誕生。
1892
年(明治25)竹内栖鳳、《猫児負暄》に写真利用。京都市美術工芸品展出品。
1897年(明治30)~ 川井写真館、『動物写真帖』『植物写真帖』発刊。
1901年(明治34)竹内栖鳳、写真を参考に《スエズ景色》(関西美術会第1回展)制作。
1903年(明治36)竹内栖鳳、写真を参考に《羅馬之図》( 第5回内国勧業博覧会)制作。
1909年(明治42)竹内栖鳳、舞子を撮影。《アレ夕立に》(第三回文展出品、髙島屋史料館蔵)制作。藤田徳太郎『百花写真帖』石敢堂 刊行。
1917年(大正6)岡本東洋、このころゆのし屋を継ぐ。京都の風景など撮影開始。
1921年(大正10)写真雑誌『ライト』刊行。岡本東洋参画。
1924年(大正13)竹内栖鳳、猫撮影。《班猫》(淡交会第一回展出品 山種美術館蔵 重要文化財)制作。「京都写真連盟」結成 岡本東洋参加
1925年(大正14)岡本東洋、ゆのし屋をたたんで写真家として独立か。「光画研究所」設立。
1927年(昭和2)岡本東洋、中京区釜座から左京区下鴨へ転居。写真家として本格的に始動か。竹内栖鳳、このころから岡本東洋に撮影を依頼。
1928年(昭和3)岡本東洋、京都市より昭和天皇の御大典の儀の撮影依頼される。
1930年(昭和5)岡本東洋、『花鳥写真図鑑』平凡社 発刊。
1933年(昭和8)岡本東洋、『東洋花鳥写真集』芸艸堂 発刊。
1936年(昭和11)岡本東洋、『美術写真大成』平凡社 発刊。
1940年(昭和15)岡本東洋、「京都写真文化協会」設立。市観光課協賛で撮影会や展覧会開催。写真集『京都』発刊。
1942年(昭和17)竹内栖鳳没。
1967年(昭和42)岡本東洋『京都を観る』粟谷真美館 発刊。
1968年(昭和43)岡本東洋没。

画家が写真を利用する歴史はほぼ写真の発生と同時に始まります。そもそもダゲレオタイプの発明者L.J.M.ダゲール(1787-1851)は画家でしたし、日本でも最初期の写真家の下岡蓮杖(1823-1914)や清水東谷(1841-1907)は狩野派の絵師、島霞谷(1827-1870)は椿椿山の画塾 琢華堂の出身といわれています。岡本東洋も17歳の時に洋画家鹿子木孟郎に弟子入りを志願しています(断られましたが・・・)。

このように画家と写真家の親和性はよく、画家が資料として利用するための写真集も早くから発刊されていました。1897年(明治30)には東京の川井景一が「動物写真帖」を発刊し、その緒言の冒頭に「一、本帖は画家および彫刻家の資料に供せんがために著わせしもの」(適宜現代仮名遣いに改めた)とうたっています。東洋も「画家そのほか約250人の”お得意”」に写真を提供(夕刊京都1968年(昭和43)1月21日)し、1930年(昭和5)にそれらの写真の一部をまとめて出版しました。「花鳥写真図鑑1」(平凡社1930)の序に「画材たらしむべく花鳥の生態を撮影(中略)幸い画伯諸先輩の垂教鞭撻によって、これまで撮影し得た花鳥写真を、今度、図鑑として広く公表する機運に遭遇しました」(適宜現代仮名遣いに改めた)と東洋は記しています。

展覧会場では、『東洋花鳥写真集』(芸艸堂1933)の「桜」と「鹿」から各6点展示しています。

東洋花鳥写真集 (2)東洋花鳥写真集 (4)東洋花鳥写真集 (6)東洋花鳥写真集 (8)東洋花鳥写真集 (11)東洋花鳥写真集 (13)東洋花鳥写真集 (20)東洋花鳥写真集 (22)東洋花鳥写真集 (24)東洋花鳥写真集 (26)東洋花鳥写真集 (28)東洋花鳥写真集 (30)

岡本東洋は、動植物の写真集を美術家向けに刊行しました。代表的なものとして『花鳥写真図鑑』(平凡社1930)、『東洋花鳥写真集』(芸艸堂1933)、『美術写真大成』(平凡社1936)が挙げられますが、中でも『東洋花鳥写真集』は全75集、計1500点の写真が掲載された大部のもので、画家が使用しやすいように製本せずに、印刷した写真を封筒に入れて刊行するという工夫も凝らされ、川端龍子(1885-1966)をはじめとした多くの画家たちから送られた賛辞がこの写真集に記されています。

次に『花鳥写真図鑑』や『東洋花鳥写真集』に掲載されている写真です。展示会場では以下の12点を展示しています。これらは写真評論家の福島辰夫(1928-2017)氏が1986年(昭和61)に一括して入手したものの一部ですが、東洋の手元から、いつ、どのように頒布されたかについては分かっていません。

岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0021岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0032岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0078岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0104岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0157岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0208岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0230岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0339岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0354岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0380岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0419岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0431

東洋が自分の写真を評して「私共が見る眼そのままの姿に自然を見て、そして写したものが私の写真であります」(「美術写真大成」平凡社月報第1号『私の写真』(1))と語っているように、写真の機能による作為を極力排して自然のままに切り取られた写真となっています。

東洋についてのまとまった研究は中川馨「動物・植物写真と日本近代絵画」(思文閣出版2012)の中に記されていて、この原稿を書くにあたっても随分参考にさせていただきました。しかし活動歴、出品歴、受賞歴ほか現段階では分からないことが多く、岡本東洋という写真家についてはまだ研究の端緒にあるといえます。先日ご遺族から遺作や日記等を見せていただいたのですが、写真に施されたソラリゼーションや染色の技術はとても高度でしたし、撮影や現像に関する技術技法が記されたノートには興味深いテーマが詳細に記されていて目を見張るものでした。今後の研究進展が俟たれます。

出品作品の紹介は以上です。いずれも一般的にはなかなか直接目にすることのできない作品ばかりですので、この機会にぜひご覧ください。

青木隆幸

竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い 3

竹内栖鳳展示室では、「EDO↔TOKYO 版画江戸百景」の期間中(6/20 – 8/23)、

「竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い」という企画展を行っています。

当館が所蔵する竹内栖鳳の作品や栖鳳が収集した写真資料を通じて、作画における栖鳳の写真の用い方について探るとともに、福田平八郎や川端龍子をはじめ多くの画家に作画の参考となる写真を提供した写真家、岡本東洋の活動の一端を紹介するものです。

ブログでは、この企画展を3回に分けて紹介することにしていましたが、3回目の「画家が参考にした岡本東洋の写真」も長くなりましたので前後編に分けて、合計4回の連載にいたします。

 

それでは、竹内栖鳳×岡本東洋 日本画と写真の出会い3 「画家が参考にした岡本東洋の写真」(前編)です。

竹内栖鳳

竹内栖鳳

岡本東洋

岡本東洋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岡本東洋は1891年(明治24)、京都市に生まれました。本名貞太郎。子供のころから絵を描くのが好きで、17歳の時に洋画家鹿子木孟郎に弟子入りを志願したのですが断られ、家業のゆのし屋に勤めることになりました。

1916年(大正5)に父と兄を相次いで亡くして家業を継ぎ、そのころから写真の技術を独学で習得して京都の名所の撮影をするようになりました。そして1925年(大正14)頃、家業をたたみ、写真家として独立しました。

国際写真サロンなどで入賞を重ね、全関西写真連盟の委員ほか写真関係の役職を歴任する一方で、栖鳳や大観はじめ数多くの画家の要望を受けて絵画制作のための資料写真を提供するほか、『美術写真大成』など、画家や彫刻家に向けて作画の資料となる写真集を出版しました。これら東洋の活動は、荒木十畝、川端龍子をはじめ多くの画家から高く評価されました。また、京都の名所の写真集を数々出版し、京都の観光振興にも貢献しました。1968年(昭和43)京都にて没(※)。

 

竹内栖鳳と岡本東洋

栖鳳と東洋の最初の出会いはっきりとしませんが、東洋が京都で写真家として独立した1925年(大正14)頃から栖鳳が没する1942年(昭和17)までの約20年間、直接的な交流はほとんどなかったものの、写真の撮影依頼と納品の関係は脈々と続いていたようです。東洋は「竹内栖鳳氏には(写真を)六、七千枚くらいおさめた」と言っていたそうですし、昭和17年に栖鳳が亡くなったときに栖鳳の執事は「20年来使いの人ばかりと対応して写真を取り次いでおりました」と東洋に言ったそうです。(夕刊京都1968年1月21日)

当館が所蔵する竹内栖鳳家旧蔵資料の中には膨大な写真があり、その中には岡本東洋撮影の写真が大量に含まれているようです。「富士五景」(No.8)、「鶴六種」(No.9)などのように、岡本東洋の名前入りの封筒
岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年岡本東洋〈鶴六種〉の内

 

 

 

 

 

 

 

に収められているものもありますし、東洋のいう「六、七千枚」にはなりませんが、撮影された内容や台紙の類似性などから、東洋撮影と思われる写真が数百枚あります。(それらの写真には東洋撮影の記録がなく、また、東洋の写真であることを示す「しだれ柳に蹴鞠」のエンボス印も捺されていないのであくまで推定です)
エンボス印

 

 

「しだれ柳に蹴鞠」のエンボス印

 

それではこのたびの出品作品の中から栖鳳旧蔵の東洋の写真をご紹介いたします。(No. )は出品番号です。

 

以下 岡本東洋《富士五景》1938年(昭和13)(No.8)より

岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年 (1)岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年 (4)岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年 (3)岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年 (5)岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年 (2)岡本東洋<富士五景>の内 写真の裏それぞれの写真の裏には撮影地が記されています

 

 

 

 

 

 

以下岡本東洋《鶴六種》(No.9)より

岡本東洋〈鶴六種〉の内 (1)岡本東洋〈鶴六種〉の内 (6)岡本東洋〈鶴六種〉の内 (4)岡本東洋〈鶴六種〉の内 (5)岡本東洋〈鶴六種〉の内 (3)岡本東洋〈鶴六種〉の内 (2)

「画家が参考にした岡本東洋の写真」(前編)はこれで終わりです。

栖鳳もこれらの写真を見ながら作画の検討をしたのだと思うと、実感もひとしおです。

ぜひ実物の写真をご覧にいらしてください。

皆様のご来館をお待ちいたしております。

青木隆幸

※没年の記録は文献によって1968年(昭和43)と1969年(昭和44)の2種類ありますが、ご遺族にご確認いただいた過去帳の記載、昭和43年10月22日没を採りました。

「Edo⇔Tokyo」展紹介ブログ② 江戸から明治にかけての首都の風景の変化 第2回「駿河町」

現在、海の見える杜美術館では、6月20日(土)より「Edo⇔Tokyo –版画首都百景–」展を開催中です。本展では、当館の所蔵品の中から、江戸時代後期に風景画の名手とうたわれた初代広重、明治初期に開化絵を多く手がけた三代広重(1842-1894)、師・清親が始めた光線画を引継ぎ明治初期の東京の姿を情緒的に描いた井上安治(1864-1889)などの作品を紹介し、当時の絵師が捉えた、江戸から明治にかけて変化していく街の様相を見ていきます。

本ブログでは、出品作品の中から、江戸・東京の名所風景の一部を見ていき、江戸から明治にかけて首都の風景がどのように変化したのかについて紹介しています。

前回の内容は↓に載っています。

江戸から明治にかけての首都の風景の変化 ①「日本橋」

2回目は、江戸を代表する経済の中心地であった「駿河町」を紹介します。

現在は駿河町という地名は残っておらず、日本橋室町が当時の駿河町にあたります。江戸の経済の中心として栄えましたが、地名が変わった今でも多くの商業施設が建ち並び商業の中心としての役割を担っています。

現在の日本橋室町
↑現在の室町周辺の写真。三越百貨店(右)やコレド室町(左)など大型商業施設が林立しています。

駿河町の地名の由来は、この場所から南西の方角を望むと正面に江戸城を、その背景に富士山(駿河国)を眺望できたことにあります。ここから眺める富士山は江戸一と言われており、江戸の名所としてその風景は浮世絵の題材として良く描かれました。

では、駿河町を題材にした江戸と明治の作品を見ていき、それぞれ描かれているものにどのような違いがあるか見ていきましょう。

歌川広重《東都名所 駿河町之図》 天保14-弘化4年(1843-1847)UMAM 海の見える杜美術館
歌川広重 「駿河町の図」(《東都名所》のうち) 海の見える杜美術館蔵

駿河町の様子を描いた天保3年(1832)頃の浮世絵です。通りの両側には三井呉服店(丸に井桁三文字)ののれんがかかった店舗が建ち並び、正面には富士山の姿が見えます。武士や旅人、天秤棒を担いだ振売(商人)など様々な人が行き交い、賑わいを見せています。正面の奥には富士山がその手前には小さく江戸城が描かれています。富士山は駿河町のみならず江戸のランドマークとして多くの浮世絵に登場します。

続いて明治時代の駿河町です。

井上安治《東京真画名所図解》「駿河町夜景」 明治14-22年(1881-1889)UMAM 海の見える杜美術館
井上安治「駿河町夜景」(《東京真画名所図解》) 海の見える杜美術館蔵

こちらは1877年(明治10)前後の駿河町の夜景を描いた作品です。向かって左側の建物は越後屋、右の建物は資生堂薬舗、奥のシルエットの建物が三井組本店(後の三井銀行)です。画面中央を見ると文明開化の象徴であるガス灯の姿が見え、その周りには馬車と人力車が描かれます。馬車や人力車は明治時代になり普及した乗り物で、馬車・人力車専用の道もありました。
この作品では、広重の作品では存在感を放っていた富士山が描かれません。その代りに画面の奥には、1874年(明治7)に竣工した擬洋風建築・三井組本店が描かれ、シルエットのみの姿ですが、存在感があります。この建物は、当時の開化絵にも取り上げられていることから、文明開化の象徴的な建造物として注目を浴びていたのでしょう。江戸から明治へと移り変わる中で、富士山以外にも、文明開化の代表的な産物である洋風建築が新たに駿河町のランドマークとして登場したことが分かります。

「Edo⇔Tokyo」展では、これら江戸から明治にかけての首都の風景を写した版画を展示します。本ブログでも隔週で、展覧会出品作品の中から、作品紹介を行っていきたいと思います。

大内直輝

竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い 2

竹内栖鳳展示室では、「EDO↔TOKYO 版画江戸百景」の期間中(6/20 – 8/23)、

「竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い」という企画展を行っています。

当館が所蔵する竹内栖鳳の作品や栖鳳が収集した写真資料を通じて、作画における栖鳳の写真の用い方について探るとともに、福田平八郎や川端龍子をはじめ多くの画家に作画の参考となる写真を提供した写真家、岡本東洋の活動の一端を紹介するものです。

ブログでは、この企画展を「竹内栖鳳と写真」(前編・後編)と「画家が参考にした岡本東洋の写真」の3回に分けて紹介しています。

竹内栖鳳(1864-1942)は、岡本東洋と出会う前、画家として活動を始めた当初から、写真を積極的に用いていました。栖鳳が残した写真帳には、実作品の参考にしたことが一目でわかる写真や、写真の上に直接筆で描き足して作画の構想を練っているもの、あるいは動くモデルを撮影して一瞬の動きを写真に捉えたものなどがあります。また、鳥、滝、鹿などテーマ別に広範囲に独自の写真資料集を作成しています。

それでは、竹内栖鳳×岡本東洋 日本画と写真の出会い2 「竹内栖鳳と写真」(後編)です。

《アレ夕立に》(1909年 髙島屋史料館蔵)制作のために撮影した写真とスケッチです。舞妓に舞を舞わせて実際の動きの瞬間を写真に収めると同時に、スケッチも行っています。うなじの部分や髪形も必要に応じて撮影とスケッチを重ねて行っています。

また、この写真帳にはほかに、舞妓、芸妓、美人の写真や絵画 浮世絵など、美人画を描くための資料が幅広く集められています。スケッチ、写真、関係資料、それぞれの特性を生かして活用し、根気強く制作に取り組んだことがわかります。

《栖鳳アルバム》 (1)《栖鳳アルバム》 (2)出品番号7 《栖鳳アルバム》 1909年(明治42)頃 見開き1ページだけ展示

栖鳳アルバム (7)

栖鳳アルバム (1)

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

栖鳳アルバム (8)

 

 

 

 

出品番号8 《写生帖》竹内栖鳳 1909年(明治42)頃

アレ夕立に

 

 

 

 

 

 

《アレ夕立に》竹内栖鳳 1909年(明治42) 髙島屋資料館蔵
(展覧会場では複製を展示しています)

三毛猫の毛と鼻の横の特徴的な模様から、《班猫(はんびょう)》(1924年 山種美術館蔵)のモデルの猫と思われる写真です。猫と出会った時の状況を栖鳳はこう述べています。「あの猫が寝ていた。・・私はその場に踏ン立ってスケッチを始めた。・・核心までその猫がつかめていないように思われ・・京都へ連れて帰り、日夜座右に遊歩させてあの作品を作った」(文藝春秋1933年8月「涼台小話」)。猫は作品を仕上げると間もなく行方不明になったそうなので、この写真は猫の生態を観察している期間に、その一環として撮影したものと思われます。

斑猫モデル猫 (2)

 

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

斑猫モデル猫 (3)

 

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

斑猫モデル猫 (4)

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

斑猫モデル猫 (1)

 

 

 

 

 

出品番号9 《栖鳳写真資料》1924年(大正13)頃

竹内栖鳳 班猫(重要文化財) 山種美術館蔵
《班猫》竹内栖鳳 1924年(大正13)  山種美術館蔵
(展示会場では複製を展示しています)

栖鳳は1900年(明治33)の洋行中に数多くの写真を入手し、帰国後にその時の写真を利用して、ここに紹介する《スエズ景色》のほか、《和蘭春光・伊太利秋色》(個人蔵)など数々の作品を制作しました。市販の写真ときわめて似通った構図の作品の存在は、実際は見ていない風景を写真から想像を膨らませて絵に仕上げた手法を思わせます。

また、写真のセピア色にも影響を受け、セピア色でライオンを描き発表、これまで墨で描いた想像上の獅子しか知らなかった人たちを驚かせ、栖鳳のライオンは金獅子ともてはやされました。

竹内栖鳳写真資料 (2)

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

竹内栖鳳写真資料 (4)

 

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

竹内栖鳳写真資料 (3)

 

 

 

 

出品番号10 栖鳳写真資料 1900年(明治33)頃

羅馬之図 海の見える杜美術館
右隻

羅馬之図 左隻 海の見える杜美術館

左隻

《羅馬之図》竹内栖鳳 1903年(明治36)
展示会場では複製を展示しています

竹内栖鳳写真資料 (1)

竹内栖鳳写真資料 (6)竹内栖鳳写真資料 (5)

 

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

 

 

 

 

出品番号11 栖鳳写真資料   1900年(明治33)頃

スエズ景色 海の見える杜美術館

《スエズ景色》竹内栖鳳  1901年(明治34)
展示会場では複製を展示しています

栖鳳は当時最高級品として名高かかったアメリカのイーストマン製グラフレックスという相当重いカメラを2台も持参して、1920,21年(大正9,10)の2度にわたって中国を旅しました。スケッチとともに膨大な写真を撮影して帰朝し、《南支風色》(1926年、前田育徳会蔵)などの名品を生み出しました。取材旅行から14年を経た1935年(昭和10)にはその時撮影した写真を利用して《支那風光図会》12点を発表しました。
写真を見直して10年以上前の体験を絵にしています。

以下カラーは、《支那風光図絵》12枚のうち   竹内栖鳳 木版多色摺 1935年(昭和10)
(展示会場では実物は1点だけ展示しています)

以下モノクロは、栖鳳写真資料より 1920-21年(大正9-10)
(展示会場では実物は1点だけ展示しています)

支那風光図絵006中国旅行 支那風光図絵写真 (1)

 

 

 

 

出品番号13

支那風光図絵007中国旅行 支那風光図絵写真 (2)

 

 

 

 

 

出品番号12

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

支那風光図絵008中国旅行 支那風光図絵写真 (3)

 

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

 

 

 

 

 

 

展示会場では複製を展示

中国旅行 支那風光図絵写真 (4)

 

 

 

 

中国でスケッチをする竹内栖鳳
(中央の白いマントの人物)
展示会場では複製を展示

 

「竹内栖鳳と写真」(後編)はこれで終わりです。。

栖鳳もこれらの写真を見ながら作画の検討をしたのだと思うと、実感もひとしおです。

ぜひ実物の写真をご覧にいらしてください。

皆様のご来館をお待ちいたしております。

青木隆幸