竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い 3

竹内栖鳳展示室では、「EDO↔TOKYO 版画江戸百景」の期間中(6/20 – 8/23)、

「竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い」という企画展を行っています。

当館が所蔵する竹内栖鳳の作品や栖鳳が収集した写真資料を通じて、作画における栖鳳の写真の用い方について探るとともに、福田平八郎や川端龍子をはじめ多くの画家に作画の参考となる写真を提供した写真家、岡本東洋の活動の一端を紹介するものです。

ブログでは、この企画展を3回に分けて紹介することにしていましたが、3回目の「画家が参考にした岡本東洋の写真」も長くなりましたので前後編に分けて、合計4回の連載にいたします。

 

それでは、竹内栖鳳×岡本東洋 日本画と写真の出会い3 「画家が参考にした岡本東洋の写真」(前編)です。

竹内栖鳳

竹内栖鳳

岡本東洋

岡本東洋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岡本東洋は1891年(明治24)、京都市に生まれました。本名貞太郎。子供のころから絵を描くのが好きで、17歳の時に洋画家鹿子木孟郎に弟子入りを志願したのですが断られ、家業のゆのし屋に勤めることになりました。

1916年(大正5)に父と兄を相次いで亡くして家業を継ぎ、そのころから写真の技術を独学で習得して京都の名所の撮影をするようになりました。そして1925年(大正14)頃、家業をたたみ、写真家として独立しました。

国際写真サロンなどで入賞を重ね、全関西写真連盟の委員ほか写真関係の役職を歴任する一方で、栖鳳や大観はじめ数多くの画家の要望を受けて絵画制作のための資料写真を提供するほか、『美術写真大成』など、画家や彫刻家に向けて作画の資料となる写真集を出版しました。これら東洋の活動は、荒木十畝、川端龍子をはじめ多くの画家から高く評価されました。また、京都の名所の写真集を数々出版し、京都の観光振興にも貢献しました。1968年(昭和43)京都にて没(※)。

 

竹内栖鳳と岡本東洋

栖鳳と東洋の最初の出会いはっきりとしませんが、東洋が京都で写真家として独立した1925年(大正14)頃から栖鳳が没する1942年(昭和17)までの約20年間、直接的な交流はほとんどなかったものの、写真の撮影依頼と納品の関係は脈々と続いていたようです。東洋は「竹内栖鳳氏には(写真を)六、七千枚くらいおさめた」と言っていたそうですし、昭和17年に栖鳳が亡くなったときに栖鳳の執事は「20年来使いの人ばかりと対応して写真を取り次いでおりました」と東洋に言ったそうです。(夕刊京都1968年1月21日)

当館が所蔵する竹内栖鳳家旧蔵資料の中には膨大な写真があり、その中には岡本東洋撮影の写真が大量に含まれているようです。「富士五景」(No.8)、「鶴六種」(No.9)などのように、岡本東洋の名前入りの封筒
岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年岡本東洋〈鶴六種〉の内

 

 

 

 

 

 

 

に収められているものもありますし、東洋のいう「六、七千枚」にはなりませんが、撮影された内容や台紙の類似性などから、東洋撮影と思われる写真が数百枚あります。(それらの写真には東洋撮影の記録がなく、また、東洋の写真であることを示す「しだれ柳に蹴鞠」のエンボス印も捺されていないのであくまで推定です)
エンボス印

 

 

「しだれ柳に蹴鞠」のエンボス印

 

それではこのたびの出品作品の中から栖鳳旧蔵の東洋の写真をご紹介いたします。(No. )は出品番号です。

 

以下 岡本東洋《富士五景》1938年(昭和13)(No.8)より

岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年 (1)岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年 (4)岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年 (3)岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年 (5)岡本東洋<富士五景>の内 昭和13年 (2)岡本東洋<富士五景>の内 写真の裏それぞれの写真の裏には撮影地が記されています

 

 

 

 

 

 

以下岡本東洋《鶴六種》(No.9)より

岡本東洋〈鶴六種〉の内 (1)岡本東洋〈鶴六種〉の内 (6)岡本東洋〈鶴六種〉の内 (4)岡本東洋〈鶴六種〉の内 (5)岡本東洋〈鶴六種〉の内 (3)岡本東洋〈鶴六種〉の内 (2)

「画家が参考にした岡本東洋の写真」(前編)はこれで終わりです。

栖鳳もこれらの写真を見ながら作画の検討をしたのだと思うと、実感もひとしおです。

ぜひ実物の写真をご覧にいらしてください。

皆様のご来館をお待ちいたしております。

青木隆幸

※没年の記録は文献によって1968年(昭和43)と1969年(昭和44)の2種類ありますが、ご遺族にご確認いただいた過去帳の記載、昭和43年10月22日没を採りました。