蘇州版画 西洋劇場図

2016年11月1日から12月10日まで、中国江蘇省蘇州市の蘇州美術館で開催された「蘇州桃花塢木版年画特展」に《西洋劇場図》が出品されていました。

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(5)

西洋劇場図 『支那古版画図録』美術研究所編 美術懇話会 1932年 図27

その昔、黒田源次氏、岡田伊三次郎氏らが協力して収集し、そして矢代幸雄氏らの尽力を経て、現在の東京文化財研究所の前身、美術研究所の開所記念展覧会「故岡田伊三次郎氏蒐集支那版画(姑蘇板)陳列」(1931(昭和6)年11月1~3日)で展観された作品です。1932(昭和7)年3月に刊行された美術研究所編輯美術研究資料第一輯 支那古版画図録 図版27番に掲載されています。

この書籍はコロタイプ印刷なので、近頃よく見る印刷のような網点がなく、とても細かいところまで良く見えます。ですからルーペを使って何度も何度もそれこそ穴が開くほど繰り返し見てきました。なぜなら、西洋の遠近法、陰影法が建築物などをはじめ、ここまで正確に用いられている、そしてなにより人物の顔、肉体などが西洋人そのものに表現されている、現段階では唯一無二ともいえる作品だからです。また、中国人が西洋的な版画を制作したときに賛に記すことが多い「倣西洋画筆法」などと書かれていないことを併せて考えたときに、これまで論じられることのなかった、西洋人が蘇州版画の作画に直接かかわった可能性をも感じさせられる作品だったからです。(『支那古版画図録』では「ヴェネチア派の劇プルチネラに関する書籍の挿絵を模したもの」と指摘している)

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(2)建築

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(4)

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(3)

この作品以降、中国風に変化した数々の作品が生み出されていきます。

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(5)20161221中国版画 西湖風景図UMAM (1)
西洋劇場図        西湖風景図(海の見える杜美術館蔵)

《西洋劇場図》は現在、縁あって遼寧省博物館の所蔵品となっています。歴史に埋もれていた作品が公開されて、本当に良かったと思います。

なお、コレクター岡田伊三次郎氏について、あまり知られていませんが、氏の中国版画収集の経緯などが、三隅貞吉「岡田伊三次郎さんを偲ぶ2」(『日本美術工芸』245号、1959年2月)に記録されています。そのなかで岡田氏は「私は、自分の趣味の赴くままに、あれこれと色々のものを蒐集して来たが、結局は支那の古版画を集めにこの世に出て来たようなものだった」と述懐していたことが記されています。氏の尽力に敬意を表します。

さち

関連記事:中国版画(蘇州版画)とグスタフ・クリムト

真田丸 大坂冬の陣図

海の見える杜美術館は、「大坂冬の陣」の布陣図を所蔵しています。

20161119大坂冬の陣図(仮称)UMAM (1)

大坂城の敷地の右下に四角く飛び出ているところに「さなたとり出」(真田砦)と書かれています。ここがあの真田丸なのでしょう。そのすぐ下には、「将軍様」と書かれ四角く囲まれた城があります。真田信繁(幸村)が徳川本隊の真正面に対峙しているのが分かります。

NHK大河ドラマ「真田丸」は冬の陣の真っただ中です。冬の陣に参加した武将たちが見たかもしれない布陣図を眺めながら、ぜひお楽しみください。

なお、《大坂冬の陣図》(仮称)は、いつ、だれが、何のために作ったのかわかっていません。
一枚刷りの冬の陣図は、ほかに《大坂城之図》(江戸東京博物館蔵)が知られていますが、比較すると、絵の感じも真田の軍勢の数も異なります。当館の《大坂冬の陣図》は冬の陣のその年に刊行された「大坂物かたり」(慶長19年(1614)成簣堂文庫蔵)の巻末に付された布陣図と、かなり似ています。

さち

 

「三井寺」絵巻との再びの出会い  小林健二

 

先日、久し振りに海の見える杜美術館に所蔵される「三井寺」絵巻を手にとって見る機会を得た。秋の名曲である能「三井寺」の物語を幅17、5センチ、長さ6メートルに描いた愛らしい小絵巻で、私が芸能の絵画化を研究するきっかけとなった作品である。

作られたのは室町末期であろうか。この時は豊臣秀吉が愛好したことによって、諸大名が能を稽古し自ら演じた、ちょっとした能ブームの時代であった。その隆盛を背景としてこの絵巻も作られたのであろう。

今回、ゆっくり拝見して、能のストーリーに忠実ながら、三井寺の月見の情景を膨らませたり、舞台では見られない主人公の悲しみや喜びが描かれていて、あらためて素晴らしい絵巻であることを確認した。この出会いの後で、同じような能を絵巻にしたものを探し求めたが、その例はきわめて少ない。

海の見える杜美術館にはこれも能の名曲「松風」を描いた「松風村雨」絵巻もある。これは絵本を絵巻に改装したものであるが、やはり貴重な作例で、こちらもじっくり見ることができた。至福の時間とはまさにこのことである。

現在、美術館は改装中であるが、リニューアルしたら絵巻・絵本の展示も予定されていると聞く。その時にはまた来よう。もちろんこれらの絵巻・絵本との再会を期して……

三井寺絵巻 UMAM三井寺

松風村雨 UMAM松風村雨


 

小林健二先生(国文学研究資料館 教授)と、ともに絵巻を見る時間は本当に楽しいひと時でした。当館が所蔵する「三井寺」絵巻や、「松風村雨」絵巻が、能を描いた作品としてどのように重要であるかも、丁寧に教えていただきました。先生の研究が発表になりましたら、改めて紹介したいと思います。

さち

古文書は 文字を読むのが大変です

時代の流れとともに変遷する、文字の形や言葉の持つ意味。そして筆者の特徴ある書体が、文書の読解をムツカシクさせます。

特にこの書状は、私にとって難解の作品でした。展覧会『日本の書芸美 名筆へのいざない』(海の見える杜美術館 2012年)開催時に、財津永次先生(当館顧問 当時)に助けていただいて判読した、思い出の作品です。

20160910  文字を読むのが大変でした 書状 「出度已来」 武野紹鴎 UMAM
武野紹鴎(1502 – 1555)
書状 「出度已来」
16世紀【室町時代】
13.8 × 39.7

LETTER   “SHUTTAKU-IRAI…”
TAKENO Jouou
16th century,  Muromachi Period

茶道は、茶祖珠光の創めた侘び茶を紹鴎が引き継ぎ、その門下の利休が大成しました。
この書状は「菊某」に宛て、普請中の茶友に建築の進捗工合などを気遣う内容で、利休の書状にも通じる書風が見られます。

–  (無)□儀候へ共御
–  座敷きのま々
–  令□申候以上
出度已来無音申候
依御手前御作事
出来候哉無御心元候
御用之儀候者可承候
然者□銀も未出来
□れ御口切十四日に候
其元御法事にて
御上奉待候猶以
面上可申入候恐惶
謹言

菊□□   紹鴎(花押)

文化遺産オンラインにて、作品を公開しています。
そのほかの書跡もどうぞお楽しみください。

さち

 

文化遺産オンラインに登録を始めました 赤松円心 (則村)

秘蔵スタッフNの協力を得て、文化遺産オンラインに、当館所蔵の作品の登録を始めました。

まずは『書』に関するものを入力したのですが、作品調査していたころを思い出しました。 当時とても興味深いと感じた作品を、ひとつご紹介いたします。

20160824 書下  宝寺僧衆中宛 元弘三年三月廿七日  「(伊)豆国」 赤松 円心 (則村) UMAM

赤松円心 (1277-1350) 書下   宝寺僧衆中宛 元弘三年三月廿七日 「(伊)豆国」 1333年【鎌倉時代】

[ ]豆国在庁高時法師一族
[ ]分之餘忝蔑如 朝威剰
[  ]震襟之間可加征伐之
旨円心依奉 勅責随西国打上
洛中之処山崎寶寺僧衆等
凝丹心致祈祷之由奉畢
可令存知之状 如件

元弘三年三月廿七日
沙弥(花押)
寶寺僧衆中

赤松円心 (則村)は、南北朝時代、武将後醍醐天皇の建武新政府に活躍ののち、足利尊氏がたに味方して赤松氏繁栄に尽くした人物です。

この書き下しは鎌倉幕府討幕、いわゆる元弘の乱の雌雄を決する重要な戦い、六波羅制圧に向かうまさにその時の物で、「北条高時を征伐する。祈祷を頼む」という内容であす。これまで円心が討幕の中心勢力と知られていましたが、本書き下しに「円心依奉 勅」とあり、円心が後醍醐天皇の命を受けて動いていることが明らかになっています。

『本物』が伝える迫力に、圧倒されたことを思い出しました。

文化遺産オンラインで、当館所蔵の作品を検索してみてください。

さち

 

 

中国版画(蘇州版画)とグスタフ・クリムト

グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862 – 1918)は晩年、肖像の背景にアジアからもたらされたと思われるモチーフを描いた独特の作品を制作しています。

・アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像(Bildnis der Adele Bloch-Bauer II 1912)
・エリザベート・バッホーヘンの肖像(Bildnis der Baroness Elisabeth Bachofen-Echt 1914-1916)
・ウォーリーの肖像 (Bildnis der Wally 1916)
・フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像(Bildnis der Friederike Maria Beer 1916)
などです。

このことを知ったとき、これらの背景の図像は中国版画(*)の中に見出せるのではないかと、とても気になりました。
*日本の浮世絵のように民間に広く売り出された版画で、その歴史は浮世絵よりも古いようです。いわゆる蘇州版画もこのなかに含まれます。

例えばフリーデリケ・マリア・ベーアの肖像(Bildnis der Friederike Maria Beer 1916)について、寄託先のテルアビブ美術館のウェブサイトには、絵の背景の戦闘シーンはクリムト所有の韓国の花瓶のモチーフからの引用と記されているのですが、私たちが収集している中国版画の図様にも似たモチーフを見ることができそうなのです。

Fredericke Maria Beer 1916《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》
Portrait of Friederike Maria Beer 168 x 130 cm Oil on canvas
Depository: Tel Aviv Museum of Art  Mizne-Blumenthal Collection

それでは背景に描かれたモチーフを、海の見える杜美術館所蔵の中国版画の中から探ってみましょう。この絵と同様に戦の群像を描いた作品を、時代順に見てみることにします。

まず、清代(1644-1912)はじめ頃の《薛仁貴私擺龍門陣図》や《水演図》です。
20160627 薛仁貴私擺龍門陣図 中国版画 蘇州版画 UMAM《薛仁貴私擺龍門陣図》
20160627 水演図 中国版画 蘇州版画 UMAM《水演図》

戦士が持つ盾に描かれた模様などに共通点があります。
 20160627 薛仁貴私擺龍門陣図 中国版画 蘇州版画  UMAM

しかし、クリムトの作品の右側ひげ面の男が京劇風に描かれていることに対して、この時代の中国版画には京劇風の人物が描かれない(*)ことを考えると、これらの作品が直接的なモチーフになったとはいえないようです。
*京劇は乾隆55年(1790)以降の成立といわれています。しかし京劇成立以前に行われていた地方演劇と中国版画の関係性の検証が課題として残されています

乾隆期(1736 – 1795)末ごろの作品と推定される《当陽救主》、そしてもう少しあとの時代に印刷された《李元覇鎚振四平山》《楊家将八虎闖幽州》をみてみましょう。

20160627 当陽救主 中国版画 蘇州版画 UMAM《当陽救主》双和
20160627 李元覇鎚振四平山 双和 中国版画 蘇州版画 UMAM《李元覇鎚振四平山》双和
20160627 楊家将八虎闖幽州 双和 中国版画 蘇州版画 UMAM《楊家将八虎闖幽州》双和

これらの作品には、《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》の背景といくつかの共通点を見出すことができます。例えば遠近感に乏しく平面的に描かれた群像表現や、ある程度様式化された姿、そして京劇風の表情や、左側白馬に騎乗している男が持つ先の丸い独特の武器(鎚)などです。

20160627 李元覇鎚振四平山(部分) 中国版画 蘇州版画 UMAM《李元覇鎚振四平山》(部分)

これらの版画は復刻され、長い間作られ続けました。クリムト(1862 – 1918)の生きた時代にも作られ続けていたようです。

例えば「双和」が制作した《楊家将八虎闖幽州》を「呉太元」が復刻しています。
20160627 楊家将八虎闖幽州 中国版画 蘇州版画 UMAM《楊家将八虎闖幽州》呉太元

さらに時代が下って、清代後期に制作された版画を見てみましょう。
その時々の戦争が版画になり、その過程で新たな表現も生まれています。

道光8年(1828)のジハンギール(張格爾)の乱を描いた《得勝封侯》は古い様式で描かれていますが、光緒26年(1900)の義和団の乱(庚子事変)を描いた《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図 光緒庚子孟秋》では臨場感ある報道的な絵に描かれました。
20160627 得勝封侯 道光9年1829 中国版画 蘇州版画 UMAM《得勝封侯》
20160627 天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵圖 光緒庚子孟秋1900年 中国版画 蘇州版画 UMAM《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図 光緒庚子孟秋》

ここまで、清代(1644-1912)中国に制作された、戦の群像表現のある版画を、駆け足で眺めてきました。
それでは改めて、グスタフ・クリムトが描いた《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》を見てみましょう。
Fredericke Maria Beer 1916
Portrait of Friederike Maria Beer 168 x 130 cm Oil on canvas
Depository: Tel Aviv Museum of Art  Mizne-Blumenthal Collection

清代(1644-1912)直後の1916年に制作された作品です。
フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像の後ろに、アジアの武人の群像が描かれています。その様式化された群像表現や一部見られる京劇風の表情などには、乾隆(1736–1795)末から道光(1821–1850)期に作られた中国版画に登場するモチーフとの共通性が見られるようです。
グスタフ・クリムト(1862 – 1918)が生きた時代、中国版画はヨーロッパにたくさん出回っていました。たとえば当館に一括で収集した義和団の乱(庚子事変 1900年)を描いた版画には、収集者の備考と思われる戦いの概要が、フランス語で記入されています。

20160627 天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵圖 中国版画 蘇州版画 UMAM《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図》(部分)

今回の観察を通じて、中国版画とヨーロッパ美術の関係性に少し興味がそそられました。

さち

余談ですが、《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》は、グラモラレコードのCD アレクサンダー・ツェムリンスキー、カール・ゴルトマルク、ハンス・ガル「ピアノ三重奏曲集」のジャケットに使われています。
Alexander Zemlinsky, Carl Goldmark, Hans Gal  klaviertrios
Gramola Records 2012

関連記事:蘇州版画 西洋劇場図

方言の研究 広島弁と新潟弁 ナ行の感声文末詞 

図書の整理をしていると、ガリ版刷りのレタリング書体が昔懐かしい、とても心惹かれる表紙が目につきました。タイトルは『方言の研究』第三号第一冊。1971年(昭和46)に新潟大学教育学部国語研究室内、新潟大学方言研究会から出版された個人論文集でした。俄然興味をそそられ、思わずページを捲ってしまいました。

20160604方言の研究 広島弁と新潟弁 ナ行の感声文末詞 (1)

丁寧にフィールド調査を行い、多くの言葉の事例を集め、詳細に分類検証されていました。

面白い・・・。

海の見える杜美術館が所在する広島の方言、広島弁文末の「の」のような事例が書かれていました。

和田初栄「新潟県北魚沼郡小出地方の文末詞 ―ナ行の感声文末詞について―」から、一部抜粋してみます。

20160604方言の研究 広島弁と新潟弁 ナ行の感声文末詞 (2)

二、ナ行の感声文末詞
(3)、「ノ(-)」

「ノ」はいろいろの文末詞と結合して用いられており、頻繁に、特色的に使われている文末詞であり、したがって意味も多様である。

1疑問の意を丁寧に表す
○ナニ ショッペーン クッタロ ノー。(どんな塩からいのを食べたんだろうね。)〈中・女→青・女〉
(中略)
2勧誘、依頼の意を丁寧に表す
○アシタ コン カ ノ(明日来ませんか。)〈中・女→青・女〉
(中略)
3感動、詠嘆を表す
(中略)
○イー ノー。(いいですねえ。)〈中・女→中・女〉
(中略)
4呼びかけの意を表す
(中略)
○ラーメン コー テー。 ノー。(ラーメン食べようよう。ねえ。)〈少・女→中・女〉
(中略)
5念を押す意を表す
○アコン ショト オンナジダ ゼ ノ。(あそこの衆と同じだね。) 〈老・女→中・女〉

「の」の使い方の分類を細かく上げた後、発音の仕方や使用方法もさらに例示して、言葉の品位の上下や、話者の間柄など細かく分析されていました。

以上は新潟県北魚沼郡小出地方の方言の研究ではありますが、冒頭に書きましたように広島でも語尾に「の」をよく聞きます。そのように思いをもちながら論文を読み進んでいると、ちゃんと記してありました。

三 おわりに
「ナ」は近畿四国の方言の特色的なものであり、「ネ」は関東系のものであるという。また「ノ」は中国地方にもいちじるしく存するらしい。

はい、「らしい」ではなく、間違いなく存しています。論文が記された1971年から45年たった今でも、中国地方の広島にはいちじるしく存しています。

言語学者の皆様の間ではきっと普通に行われている分類研究なのかもしれませんが、普段使いの何気ない言葉がこのように分析されると、改めて意識させられるものですね。今回は語尾「の」との新鮮な出会いとなり、これからも「の」を大切に意識していきたいと思いました。

さち

正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正14年 奈良帝室博物館

図書の整理をしていると、縦15センチ2ミリ、横10センチ7ミリ、厚さ3ミリほどの、小さな目録が目にとまりました。
20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館-2
表紙に、「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館」と、記されています。
20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (1)
これは、正倉院の繊維工芸品が史上初めて一般公開された※1展覧会の記念すべき目録です。
いまでは毎年20万人以上の動員を記録する「正倉院展」、その第1回展「正倉院御物特別拝観」奈良国立博物館1946年(昭和21)※2をさらに21年さかのぼる、1925年(大正14)に開催されているのですね※3

1914年(大正3)に奈良帝室博物館正倉院掛が開始し、100年たった今も終わらず継続している正倉院伝来品の整理、公開事業。
この目録を目にしたとき、関係の皆様が、史料を修復、保管、研究、公開という博物館の基本的な使命※4を100年変わらず守り続け、日本人のアイデンティティーそして文化経済価値をも高めて国際競争力の原動力となっていること、また、国際的な平和の礎となる多様な文化理解の一助となっていることを感じ、あらためて畏敬の念に打たれました。

ところで、うみもり所蔵の「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録」には、いろいろな鉛筆の書き込みのほか、以下のように赤字で修正が記され、慶應義塾大学様ご所蔵の「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録」※5では、すべて修正されています。

20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (2)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (3)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (4)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (5)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (6)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (7)20160523正倉院寳物古裂類臨時陳列目録 陳列期限大正十四年四月十五日ヨリ同年四月三十日マテ 奈良帝室博物館 (8)(写真はすべて うみもり所蔵本)

また、うみもり所蔵本には表紙に「正倉院掛」という奈良帝室博物館の一部署の印が押され、発行年など奥付がありませんが、慶應義塾図書館様の本にはきちんと奥付がついていて、受入時の日付「大正14年5月7日」と寄贈者名「奈良帝室博物館」が記された寄贈印が残されています。そのように見てくると、慶應義塾図書館様の本は完成した本で、うみもり所蔵本は奈良帝室博物館関係者旧蔵の校正用の本という事になるようにも考えられました。

しかし、まだよくわからないことがあります。
慶應義塾図書館様の本に貼られている正誤表の箇所が、うみもり所蔵本では間違っていないこと。
慶應義塾図書館様の本もうみもり所蔵本も、正誤表自体に間違いがあります。相当慌ただしく作ったのでしょうか。
慶應義塾図書館様の本の印刷発行日が、展覧会開催初日になっています。開催初日に刷り上がったのでしょうか。
いつか誰か研究してはっきりさせてくれることを願ってやみません。

さち

(1) 尾形充彦「正倉院の染織品の整理」『正倉院紀要』27号 宮内庁正倉院事務所 2005年3月
(2) 2016年の今年は10月下旬から第68回「正倉院展」が開催予定
(3) ウィキペディアの「正倉院」項、8正倉院展、には「染織品の展覧は、1924年(大正13年)4月に奈良帝室博物館で大規模な展示があり」とあるが「1925年(大正14年)」の誤りか
(4) 「正倉院御物棚別目録」帝室博物館1925年10月26日(国立国会図書館蔵) 凡例に「一 本目録は宝庫拝観者のために、大正13年11月現在をもって、各棚、箱、棚外に別ち、御物の品目を列記す。」と記されている
(5) 慶應義塾図書館様ご所蔵の「正倉院寳物古裂類臨時陳列目録」がgoogle booksで公開されている

竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4

大正7年(1918)、黒田天外(譲)は、長らく秘蔵してきた栖鳳渡欧時の手紙を冊子に仕立て『西遊鴻爪帖』と名付けました。その跋文には、手紙の由来や新聞に掲載した経緯などのほか、長尾雨山に句を、内藤虎南に題箋を、竹内栖鳳に箱書きを書いてもらって、ついに「天下至宝」となったと認められています。

間もなく天外は亡くなり、遺言によって、この書簡集は南市田家へ分与されたようです。その後の事はつまびらかではありませんが、途中、林道具店の手を経るなどして、現在は海の見える杜美術館で「天下至宝」として、大切に保管されています。

外箱
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (4)

外箱に貼られた林道具店の紙
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (5)

中箱  箱書き 竹内栖鳳「西遊鴻爪帖」
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (6)

中箱蓋裏の栖鳳のサイン 「栖鳳題」
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (9)

中箱を保護する紙蓋の裏側
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (7)

20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (8)
「宗秀信士遺言により遺物として南市田家へ贈らる 大正八年十一月十五日」

黒田天外(譲)の生没年は寡聞にして特定できていなかったのですが、慶應2年(1866)生まれで記者を30年ほど勤めたとの伝聞や、大正7年夏を最後に活動記録が見当たらないこと、そしてこの一文などを鑑みて、天外は大正8年前半ごろ天寿を全うし、宗秀信士という戒名がつけられたと推察しました。

表紙  題箋 内藤虎南「西遊鴻爪帖」

句 長尾雨山「乾坤萬里眼」(杜甫「春日江村五首其一」)

跋 黒田天外(譲)

跋文の下書き
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (10)

 

竹内栖鳳《港頭春色図》にまつわる周辺を、史料整理の現場から紹介するこのシリーズは、これでひとまず終わりです。

さち

竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外の手紙×コレクター光村利藻 3

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (1)

竹内栖鳳《港頭春色図》明治38年(1905年) 42歳頃

《港頭春色図》に関する資料があと2つあります。

ひとつは、このシリーズのブログ1で紹介した、黒田天外宛の手紙に記された、香港の風景に感銘を受けて書いた文章「香港は中々の勝地、輻輳せる船舶支那船多く、其構造支那画に多く見る処、芥子園画伝にも有りそうなり。船夫は男女とも共同服装にして、中には老婆の子を背負いつゝ櫓を押し居候。大船には一家族住い居」です。まるでこの作品を説明しているかのようです。

もうひとつは、竹内栖鳳が収集した資料の中に保存されているこの写真です。

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (4)1892 Rayons du soir, port de Camaretde Cottet Charles

竹内栖鳳旧蔵資料より コッテ《カマレの港》(※)

集合する帆船や手漕ぎのボートほか、港の日常風景を絵画作品として成立させているところが目を引きます。

栖鳳は、ヨーロッパの絵画を徹底的に研究し、新たな領域の作品に仕上げただけではなく、特定の西洋画をリスペクトしたと思われる作品もたくさんあります。例えば、渡欧中に面会したフランスの画家ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme, 1824 – 1904)が20代前半に描いた《闘鶏》(Jóvenes griegos presenciando una pelea de gallos (Museo de Orsay, París, 1846.)と、竹内栖鳳の名作《蹴合》などです。ぜひ比較してみて下さい。

栖鳳は文字に残した感興は必ずと言っていいほど実現する作家です。そして光村利藻は画家に注文を付けずに好きな絵を思う存分に描かせてくれるコレクターです。栖鳳は、利藻から後世に残す絵を12点描くように依頼を受けたとき、つねづね、西洋画に対抗する東洋画を築きたいと言っていた、その心意気がふつふつとわき上がり、これまで蓄えた東洋美術に対する深い造形、中国の港の風景を初めて直接目にした時の震えるほどの感動、帆船を描いた西洋画に触れたときのひらめき、心に秘めていたいろいろなイメージを昇華させて生まれたのがこの作品なのだろうか、などと、想像をたくましくしてしまいます。(もちろん、この《港頭春色図》が光村利藻のコレクション《泊舟の図》と同定できていませんが・・・。)

竹内栖鳳《港頭春色図》(部分) 明治38年(1905年) 42歳頃

竹内栖鳳《港頭春色図》(部分) 明治38年(1905年) 42歳頃

 

 この絵には、じつに栖鳳らしい自在な工夫がいたるところにあります。パッと見たところでは船上生活を描いた単なる風俗画に見えますが、画中すべての人々に穏やかな空気を漂わせて、幸せな生活を願う中国の伝統的な画題『漁楽図』をふまえた吉祥画に仕立てています。奥の方はモノクロームに近くは色を入れて遠近感を出し、黒墨ではなくセピア色で線を引いてこれまでの日本画にはない暖かい画面にしています。大雑把に描きつつ構造やディティールの表現はじつに緻密で写実的です。密集する船に動きや静止を与えたのは、コッテ作《カマレの港》を参考にしているようです。(「表紙作品紹介」 季刊誌『プロムナード』海の見える杜美術館 2016年春号)

 

つづく

 


竹内栖鳳は無数の絵画資料を収集し、分類保管していた。そのうちの1枚。

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (5)1892 Rayons du soir, port de Camaretde Cottet Charles
台紙に張られた写真

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (6)
表には印「竹内図書」

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (7)
裏にはシール「No.189 絵」

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (3)
写真左下に「2324 Musee Du Luxembourg Le Port de Camaret. Cottet」。リュクサンブール美術館のコッテ作《カマレの港》と記されている。写真とネット上の画像を比較する限り、現在、オルセー美術館の公式ページに所蔵品として紹介されているCharles Cottet (1865-1925)《Rayons du soir, port de Camaretde》 1892 と同一のように思える。所蔵館には未確認。

 

さち