竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外の手紙×コレクター光村利藻 2

光村利藻(1877-1955 明治-昭和時代前期の実業家)という大コレクターをご存知でしょうか。竹内栖鳳の作品を600点以上収集していて、その中には、日本美術の中にローマの遺跡を出現させた記念碑的名作《羅馬古城図》(※1)や、当時の日本人が見たことのなかったライオンをリアルに描いて世間を大いに驚かせた《獅子図》(※2)を始め、《蕭条》(※3)、《平軍驚水禽図》(※4)など数々の名品が含まれていたことが伝記に記されています。(増尾信之『光村利藻伝』非売品 光村利之 1964)


20160302『光村利藻伝』243-244頁
『光村利藻伝』243-244頁

 

1906年頃、光村利藻は後世に名品を残すことを目的として、竹内栖鳳に12点の作品制作を依頼し、《盛夏午後の図》、《悲愁図》、《泊舟の図》、《山桜》、《獅子の図》の5点が制作されたところで、経済的な破たんにより、計画は頓挫しました。

20160302『光村利藻伝』242-243頁
『光村利藻伝』242-243頁

 

『光村利藻伝』に記された《泊舟の図》の項を読んだ時、思わず当館所蔵の《港頭春色図》を連想しました。「上海付近の河辺の風景で、大河に碇泊している大きな船のまわりにジャンクが密集している風景で、当時の ― 清朝末期の水辺のシナ人の生活状態を描いたもの。」この説明が当館の作品と符合するのです。

竹内栖鳳《港頭春色図》明治38年(1905年 42歳)頃

そして、制作時期や寸法を確認してみると、ほぼ重なることがわかります。

《泊舟の図》
制作時期:1906年頃(伝記制作時の記憶)
寸法:縦約6尺、幅2尺5寸

《港頭春色図》
制作時期:1905年頃(署名落款から推定)
寸法:縦152.8㎝、横71.6㎝
(縦6尺、横2尺5寸と言われる栖鳳作品の実寸はこのぐらいの寸法が多い)

なにより、《港頭春色図》以外に、これらの条件(1906年頃、縦6尺、幅2尺5寸の大きさで描かれた、上海付近の河辺の風景)にあてはまる栖鳳の作品を見たことがありません。

海の見える杜美術館が所蔵する《港頭春色図》は、光村利藻が収集した《泊舟の図》なのでしょうか。作品の他の情報を見てみましょう。

 

《港頭春色図》を入れている箱のふたには、竹内栖鳳直筆の箱書きがあります。

20160302竹内栖鳳 港頭春色図 箱書き (1)                        20160302竹内栖鳳 港頭春色図 箱書き (2)

作品の箱ふたの表   ふたの裏側
「港頭春色図」   「明治庚戌春三月栖鳳題于耕漁荘」

 

「明治庚戌春三月栖鳳題于耕漁荘」は、明治の庚戌の年、つまり1910年の春3月に、耕漁荘(栖鳳の家・アトリエ)にて、栖鳳が箱に題を書いたことを示しています。

この年は、奇しくも、経営に失敗した利藻が再起をかけて、小さな印刷所を立ち上げた1910年と一致します。『光村利藻伝』は、「利藻の経済的な危機を栖鳳は絵を描いて、金に替え援助したことも一再ならずあった」と言います。もしかしたら、利藻が作品を手放すときに、作品が少しでも高く売れるよう、栖鳳が箱書きを買って出て、「港頭春色図」と命名したのではないか、そんなことも考えることができます。それとも伝記に記された《泊舟の図》と海の見える杜美術館所蔵の《港頭春色図》は全く別物なのでしょうか。これらの関係をはっきりさせる資料はまだ見つかっていません。

つづく

※1 現在、海の見える杜美術館蔵 《羅馬之図》
※2 現在、この作品は未確認
※3 現在、京都国立近代美術館蔵 《蕭条》
※4 現在、東京国立博物館蔵 《富士川大勝図》

さち

青木隆幸

竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 1

竹内栖鳳は、パリで開催されている万国博覧会を視察するために、1900年8月1日、神戸港から日本郵船若狭丸に乗船して渡欧しました(*)。9月17日にフランスのマルセイユ港に着くまでの約1か月半の船旅の途中、たくさんの手紙を日本の知人に送りました。

 

  • 黒田天外(譲)宛の手紙

そのなかの一つ、黒田天外(京都日出新聞記者)にあてた手紙に、このようなものがあります。

拝啓 いよいよ御清栄賀し奉り候 (中略) 香港までの事は申上べき事とては無し (中略) 香港は中々の勝地、輻輳せる船舶支那船多く、其構造支那画に多く見る処、芥子園画伝にも有りそうなり。船夫は男女とも共同服装にして、中には老婆の子を背負いつゝ櫓を押し居候。大船には一家族住い居、何事も便し居る様と来居候。洋画家小山正太郎氏も頻りに船の有様色どりなど称賛せり。(後略)
(釈文は筆者が適宜現代の文字、かなづかいに改めた)

 

その続きに、下船して歩き回った香港の様子、香港を出て2日目に遭遇した嵐のことなど書き記しています。

文末には詩を2首

(前略)
瑠璃盆に 銀象眼の浪模様 鉄の船こそ 我が住いなり
ばってらの 底すれすれに 月見かな
八月十四日
黒田天外大兄
若狭丸船中 竹内棲鳳
(釈文は筆者が適宜現代の文字、かなづかいに改めた)

そして別紙にスケッチを一つ付けました。

さて、8月14日に記したこの手紙がどういう経路をたどったかを追ってみましょう。
8月15日に封筒にいれたようです。表書きの自分の名前の後に日付が記されています。

その後の行方を、封筒の消印で追うと


翌8月16日、シンガポールのタンジョン・パガー(TANJONG PAGAR)郵便局で投函され、



同日午後1時45分、シンガポールの本局に届き、


8月23日、香港の郵便局を経由し、


8月31日、日本の神戸郵便局に届いています。

8月31日(金)、あるいは9月1日(土)には、宛先の
「大日本京都 三条通東洞院 日出新聞社 黒田天外」
に届いたはずです。

天外は、手紙の文面そのままに、日出新聞に掲載する事にして、すぐに原稿作成にとりかかりました。手紙に添えられたスケッチは、新聞用の版下にするために、栖鳳の高弟、西山翠嶂に臨模を依頼しました。

そして、9月4日(火)の日出新聞に掲載され、多くの人たちが、竹内棲鳳の渡欧中の生の声を知ることになりました。
当時の人は結構リアルタイムで栖鳳の見たものを共有できていたのですね。

20160301竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 1 (6)

日出新聞 明治33(1900)年9月4日

新聞の日付欄が空白になっているのは愛嬌ですね。発行日が4日であることは前後の新聞で確認しました。

* 丹波丸と記された文献もありますが、誤りです。丹波丸に乗船したのは帰国の時。

つづく

さち

青木隆幸

(本稿に使用した史料はすべて、海の見える杜美術館所蔵)

 

鍵がない鞄(カバン)

海の見える杜美術館の収蔵庫に 錠をあける鍵がない鞄(カバン)がありました
20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (1)
一体いつの時代の鞄でしょうか
鍵穴をよく観察してみると
20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (2)
簡単な構造です 何とかなりそうです

元の金具を傷めない柔らかさがあって
でも回すと錠を外すことができる堅さもある
20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (3)
折れた傘を修理する金具を鍵の素材に選びました

20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (4)
ニッパーとやすりを使って

20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (5)
こんな感じに出来あがりました

20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (6)
差しこんで

20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (7)
一回転まわすと・・・  カチャ・・・

20160223 旅行用化粧香水瓶
きれいなガラスの小瓶が収納されていました

20160223 旅行用化粧香水瓶 (2)
旅行用に何かを入れるための鞄のようですね

展示公開が待ち遠しいです

うみひこ