クライスラーと栖鳳

今秋開催の竹内栖鳳展に向けて、収蔵している竹内栖鳳関係史料の整理調査を進めています。

20140609クライスラーと栖鳳 (1)

竹内栖鳳と一緒に写っているヴァイオリンを持つ男性は、世界的ヴァイオリニストであり作曲家のフリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875 – 1962)です。

クライスラーは1923年(大正12)に来日し、5月1日から20日まで、東京帝国劇場での6日間連続公演から始まり、神戸、大阪、名古屋、京都でおのおの2回ずつ8公演、そしてもう一度東京地区にもどって東京1回、横浜1回そして東京1回、移動も含めた20日間で合計17公演というとんでもないスケジュールで演奏旅行を行いました。しかも合間に徳川頼定侯爵、西本願寺の大谷伯爵などの錚々たるメンバーによる晩餐会も入っているのです。そのような中、京都岡崎公会堂における5月14日、16日のどちらかの演奏会の後に、竹内栖鳳邸で夜9時半から朝3時まで行われたという歓迎の宴の際に撮影された写真のようです。

上の写真の右奥にかかっている烏の掛け軸は、京都国立近代美術館所蔵の「遅日」(大正7年)と思われます。昨年、東京国立近代美術館と京都市美術館で開催された竹内栖鳳展に出品されていたので、ご覧になられた方も多いのではないでしょうか。

20140609クライスラーと栖鳳 (4)

調査の過程で得た3つの文献と余談を2つ紹介します。

なお、転載に際しては適宜当用漢字に直しました。( )内はさちによる注です。割愛箇所は・・・としました。

 

文献1 栖鳳邸での歓迎会の様子を、栖鳳の長男の竹内逸の文章より。
「栖鳳閑話」竹内逸著 昭和18年2月21日発行 改造社版  原文、大阪朝日新聞夕刊連載9編昭和11年9月稿

文献2 演奏会について、京都音楽協会の記録より。
「京都音楽史」昭和17年6月28日 京都音楽協会発行 編纂主任 吉田恒三

文献3 演奏会の記録について、フリッツ・クライスラーに直接取材して書かれた伝記より
「フリッツ・クライスラー」1975年12月20日発行 ルイス・P・ロックナー著 中村稔訳 第19章 東洋をかいまみる

 

文献1 p188~
「ところで、1923年に、名実ともに世界的楽人のクライスラーが日本へ演奏旅行に来た。そして京都での演奏会の夜、その演奏後ただちに楽器を提げたまま栖鳳を訪ねてきた。たぶんそれは9時半ごろだったろう。だからそれはクライスラーの50歳近く。栖鳳はちょうど60歳のころで、二人とも現在に比べてはるか元気であった。しかもかつてその時ほど異国人を相手として、相当内容のある談話の弾んだ(原文:機んだ)時もなかったろう。なぜなら、クライスラーが栖鳳の家を去ったのは午前3時だったし、その長時間、クライスラーが栖鳳の絵を見、栖鳳がクライスラーの演奏を聴いていた時間を除いて、ほとんど音楽や絵画について、お互いの意見を吐きあったからである。しかもクライスラーはよほど談話に身が入ったとみえ、肝心の名器を床の間へ置き忘れたまま帰ってしまった。だから10分もすると、またクライスラーは自動車で戻ってきたが、筆者が楽器を車の窓から差し入れると、「どうもありがとう。こんな失敗は生まれて初めてですよ」と、苦笑いしていた。
だが、残念ながら、筆者はその時の談話の内容をすっかり忘れてしまった。その時はよく覚えていたし、その直後手記でもしておけば、今の場合相当興味のある記録となったろうと思うが、何しろ楽人と画家とが勝手放題にしゃべる談話の通訳で、むしろその内容よりも、通訳の方に気を取られていた。
ただクライスラーは、いざ栖鳳の家を去ろうとする直前、どちらかといえば淋しい表情で、こんな風なことを言った。
「私から言わせると、画家は楽人よりはいいと思いますね。なぜかと言いますと、楽人の場合は、もしその夜すぐれた耳を持った人が聞きに来ていてくれない場合、楽人のその夜の努力は全く永久に無駄になってしまいます。しかし画家はその作品が残るのですから、たとえその生きている時代に社会から認められなくとも、将来を目標として自信のある、かつ自由な仕事ができます。
かくしてクライスラーは栖鳳の家を去ったのだが、栖鳳は台所の火鉢の前に座って、だれを目標とするわけではなく、そこに居並ぶ我々に対して、ぼんやりとこんなことを言っていた。
「なるほどな。私は今まで、自分の作品が将来も長く人目にさらされるということを忘れて仕事をしている場合が多かった。これはよく考えねばならん事だし、やはりあれだけの人になると、すべての話が本当の苦労からにじみ出てくるから偉いものや。やっぱり人間は本当に苦労をした人でなければダメかな」
しかもまたクライスラーは栖鳳に対して、こんなことを言い残している。
「このころでは私は一日に30分か1時間しか練習しません。その他の時間は心を養ったり、心で研究しています。たぶんあなたが2時間か3時間でできる作品のために、2日も3日もお考えになっている場合があるように…」

文献2 p264~
クライスラー独奏会
□大正12年5月14日、16日午後7時半
□岡崎公会堂
・・・
□当会(京都フィルハーモニー・ソサエティー)は此の至高芸術家を迎え二日にわたって大演奏会を催したが名流の家庭殆ど総動員の形で場内華やかに定刻前すでに満員になった、黒ビロードを背景に薄暗い光の下にクライスラー氏は伴奏者と共に潮のような拍手に迎えられてその姿を現した、健康そうな引き締まったあの体躯と澄み切った聡明なあの目とやや白くなった豊かな髪、ウィーンの芸術家的気稟がまず聴衆にいい感じを与えた。そして二時間にわたる演奏には幾度か嵐の如きアンコールが繰り返され千の聴衆は全くその神技に魅了された。
尚ソサエチー、音楽同好倶楽部有志者は南禅寺稲畑邸にクライスラーを迎えティーパーティーを催し広大な庭園を逍遥し写真を撮影、十分に歓を尽くした。

文献3
「(1923年)5月の最初の6日間、クライスラーは帝国劇場に連日出演した。」(p231)
「最終日の5月6日・・・終演後、徳川頼定侯爵夫妻がクライスラー夫妻の為ために晩餐会を催し、特別の来賓として久爾宮が臨席した。」(p232)
「横浜での演奏契約をすませたあと、神戸、大阪、名古屋、京都でおのおの二回ずつの演奏会を開いた。」(p233)
「京都にいるとき、・・・多くの画家に会い、彼らのスタジオに招かれた。彼らの中で最大の画家は栖鳳だった。彼は掛け軸に描いた自分の代表作のひとつをクライスラーに贈った。」(p235)
「クライスラー一行はもう一度東京地区にもどって、5月19日に横浜、5月18日と20日に東京で、お別れ演奏会を開いた。」(p236)

余談1 栖鳳の失敗
来日前に演奏会のため立ち寄った上海で、クライスラー夫妻はねずみにさんざんな目にあっていました。
「われわれのホテル住まいは必ずしも快適とはいえなかった。居間も食堂もねずみだらけだった。まったく不潔このうえなかった。クライスラー夫人が一番よわってしまい、せめて部屋で猫を飼わせてほしいと支配人に泣きついた・・・ホテルの人は猫を一匹連れて来てくれました。ところが半分野生の猫だったのです。夜、目をさますと、二つの眼がじっと私をにらんでいました。その猫はフリッツの胸に陣取っていたのです!」(文献3、p230)
ところがそれを知らない栖鳳は、得意のねずみの絵をクライスラーに贈ってしまったのです。
「夫妻がホテルに帰り、その(栖鳳の)贈物を広げて見て仰天した。チーズを齧っているねずみの絵ではないか。ねずみが大嫌いなハリエットはその絵をできるだけ手の届かぬ所へしまい込んでしまい、それがベルリンの家の壁に掛けられることはけっしてなかった。」(文献3、p235)

余談2 栖鳳と京都音楽界
栖鳳は、この演奏会の直後の大正12年6月、京都フィルハーモニー・ソサエティーをはじめとした諸団体を合同して設立された京都音楽協会の顧問を務めている。(文献2 、p277)

さち

青木隆幸

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展覧会の一枚《鞍馬寺縁起絵模本》

6月7日より開催の次回展「信仰と美術Ⅱ 仏と神のすがた」には、日本各地に見られる信仰の様子を表した作品が数多く出品されます。
こうしたなかには、山岳信仰と関わりのある作品がいくつも見られます。

霊山(れいざん)と称される山岳の多くは、外来の宗教である仏教と、在地の神を崇拝する神道とが複雑に混じり合うことで、独自の宗教空間を形成していました。
本展覧会の前期に展示いたします《鞍馬寺縁起絵模本(くらまでらえんぎえもほん)》は、そうした山岳信仰の場のなかで生まれた作品です。

20140521 展覧会の一枚《鞍馬寺縁起絵模本》 (2)
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松岡映丘から竹内栖鳳への手紙

竹内栖鳳展へ向けて、当館で保管している膨大な史料の海をかき分けていると、松岡映丘から竹内栖鳳にあてた手紙が出てきました。
20140519松岡映丘から竹内栖鳳への手紙

昭和5年(1930)にローマで行われた日本美術展の報告が書かれています。

日本美術の威信をかけて行われたこの展覧会のなかで、竹内栖鳳の作品がどのような役割を担っていたのかなど、色々なことを伝えてくれる貴重な一葉です。

なお、文中の「御作品」は竹内栖鳳の作品の事、「闘鶏」は現在「蹴合」 (大倉集古館蔵)と呼ばれている作品のことと思われます。


日本京都市御池油小路
竹内栖鳳様

益々御清康奉賀候 さて 当地に於ける展覧会は去る二十六日首相臨場のもとに盛大に開会せられ頗る好評に御座候
御作品闘鶏は第六室二間床にかけ 支那風景も招待日には特に中央室の床に陳列いたし候

四月三十日 ローマにて
松岡映丘


竹内栖鳳展へ向けて史料の整理を進めています。

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青木隆幸

展覧会の一枚 《蘭亭曲水図》塩川文麟

だんだんと暖かくなってきましたね。

遊歩道では桃が花盛りとなってきましたが、美術館に展示してある作品にも、桃の花が咲いているものがあります。
《蘭亭曲水図(らんていきょくすいず)》がそれです。

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展覧会の一枚 《林和靖》植中直斎

201403植中直斎1

冬の終わりに咲く梅は、寒さに負けずに春の訪れを知らせる花として、古くから好まれてきました。

日本と中国には、梅の花にちなんだ有名人がそれぞれいます。

日本で梅といえば、天神さまの呼び名で知られる菅原道真です。
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伝 土佐光信《渡唐天神図》(部分)※今回の展覧会では展示されていません

上に挙げた天神さまは、梅を持っていますね。

この梅は「飛梅(とびうめ)」といい、道真が太宰府に左遷された時、彼を慕ってそのもとまで飛んでいった屋敷の梅だといわれています。
今でも天神さまをお祀りする天満宮が、梅の名所になっているのは、このためです。

そして、中国の梅にちなんだ有名人が、今回取り上げる林和靖(りんなせい)です。

林和靖は宋時代の詩人で、西暦967年に生まれ、1028年にこの世を去りました。

ちなみに「和靖」とは諡号(しごう)(死後に贈られる名)で、本名は林()といいます。

この林和靖さん、かなりの変わり者で、才能はあるのに仕官しようとせず、結婚せず、街で人と接することもなく、中国南部の名所である西湖(せいこ)のほとりの山奥にこもって暮らしていました。
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屋敷で本を片手にうたた寝しているのが、林和靖さんです。

今だとニートとか引きこもりとかいわれるような人ですが、そんな彼がこよなく好んだものが、梅と鶴です。
彼は、「梅が妻、鶴が子供」というほど梅と鶴を愛し、一緒に過ごしました。
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彼が妻と子供と呼んだ、梅と鶴が描かれています。

こうした逸話のために、後の時代では鶴と梅が、林和靖や、彼が暮らした西湖を象徴するものとなったのです。

彼が詠んだ中で最も有名なのが、梅をうたったこの2句です。

疎影横斜水清浅(梅の枝のまばらな影が 清く浅い水に斜めに横たわり)
暗香浮動月黄昏(梅の香りが どこからともなく漂い たそがれに月が浮かぶ)

かすかながらうっとりさせられる梅の花の香りを、見事に表現した句といえます。

ちなみに、今回展示される中にはもうひとつ、林和靖にちなんでいるのかもしれない作品があります。

それが金城一国斎(三代)の作った、《白梅・菊に蜂画硯箱》です。
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この硯箱に表された花、なんか変だと思いませんか?
梅は初春に咲く花ですが、一方秋の花の菊も咲いています。
同じ季節に咲くはずのないふたつの花が、なぜひとつに収まっているのでしょうか?

あくまで推測ですが、これも中国の詩人と関係あるのかもしれません。

中国では菊・蓮・梅・蘭の4種の花を、「四愛」と呼びます。

なぜ四愛というのかといえば、これらが中国の詩人に愛された花だからです。
梅は、先ほど述べたとおり林和靖に愛され、そして菊は、陶淵明という詩人に深く好まれた花でした。
もしかしたらこの硯箱の作者である金城一国斎は、梅と花を硯箱に表すことで、はるか昔にこれらの花を愛でた詩人たちに、オマージュを捧げたのかもしれません。
あるいは、この硯箱を使う人に、これで林和靖や陶淵明のようなすばらしい詩を書くように、と激励しているのかもしれませんね。

 

田中伝