【お知らせ】展覧会の内容を動画にてご紹介しております!

皆様こんにちは。

現在、当館は「美人画ラプソディ―近代の女性表現―妖しく・愛しく・美しく」と題し、近代の日本画家たちによる多様な女性像をご覧いただく展覧会を開催しております。

 

4月初旬より休館しておりました当館も、皆様のご協力をいただきながらではございますが、5月19日から再開することとなりました。

↓ご来館にあたってのご注意は以下をご覧ください。

http://www.umam.jp/

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現在の会場風景。近代の画家たちの個性あふれる女性表現をお楽しみいただける展覧会です。

 

美術館は開館しておりますが、ご自宅でも展覧会をお楽しみいただけるよう、会場風景や作品の解説を動画にてお届けいたします。

 

下記URLからご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=t55WW3l0GzU

 

展覧会場の雰囲気を少しでも感じていただければ幸いです。

森下麻衣子

第17回 香水散歩 読書推進期間 ポール・ポワレ

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(重い本の包みを持って歩いたグラース国際香水博物館付近の通り)

こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。「香水散歩」開始以来の変化のときが訪れました。これまで、ヨーロッパや日本の町を旅しながら香りに関して思うところや最新情報をお届けしてまいりましたが、世界的な新型コロナウィルスの蔓延により、その「旅」ができない状況になりました。

けれども、表題に掲げた「散歩」までできなくなったわけではありません。物理的に体を使った散歩はできないまでも、精神における散歩はこれまで通り続けられるのではないでしょうか。そのような思いを強めてくれるのが、読書や、DVD及びネットから配信される映画や音楽の鑑賞です。それらによって、私たちはあらゆる時代のあらゆる場所へ思いを馳せることができます。それは、美術館の所蔵作品についての知識を深めてくれたり、また美術館の所蔵品となる以前にその作品がどのような人物たちとともにあったかを伝えてくれたりします。

しかもそれらは、またいつか自由に出歩けるようになったら、この作品を見に行こう、この香りを嗅ぎに行こうという未来への希望を抱かせてくれるのです。世界は広く、素晴らしい宝物や尊い存在に満ちている―—そのように私が思わずにはいられなくなった書籍や映画を、この機会にご紹介していきたいと思います。

Pauke Poiret

「ポール・ポワレ クチュリエ・パフューマー」展図録 グラース国際香水博物館、2013年

今回ご紹介するのは、第6回と第7回「香水散歩」でもお馴染みの南フランスのグラース国際香水博物館で開催された、2013年の夏の展覧会の図録です。本書は、この博物館を訪問した際、ミュージアムショップで購入した大量の本のうちの一冊です。その日私は購入した本を1回では持ち帰れずに、ふうふう言いながらホテルと博物館を2往復することとなりました。なぜそんなにも大量に買ってしまったかというと、まもなくミュージアムショップの書籍コーナーを模様替えするとのことで、書籍の在庫セールをしていたのです!

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いずれの書籍も、他の都市やインターネットではなかなか見つけられない貴重なものばかり。これも何かのご縁と自分に言い聞かせて、気になるものはすべて買ってしまいました。大量のまとめ買いの常として、じっくりとそのすべてに目を通すことはなかなか叶いませんでしたが、外出が制限されたこの特別な大型連休期間のおかげで、ようやくそれができました。

本書は、20世紀前半に活躍したフランスのファッション・デザイナー、ポール・ポワレの香水分野における仕事を網羅的に紹介しています。世界の香水の一大産地、否、香水産業の首都たる威信をかけて、グラースの地で開かれる展覧会の図録に相応しく、ポワレの香水を様々な角度から取り上げた論文が豊富な資料と共に多数収録されています。驚いたことに論文執筆者の中には、「香水散歩」でも何度も取り上げている今日を代表する調香師ジャン=クロード・エレナも含まれています。そのため、今まで不明瞭であったところや、あまり語られることのなかった部分も明らかにしてくれる、大変充実した構成の一冊です。また、ポワレの革新性を伝えるために、ポワレ登場以前の香水産業の歴史が詳述されている点も、私としては嬉しいところです。

さて、ときに「革命児」とも呼ばれるポワレの革新性とはどのようなものであったのでしょうか。せっかくですから、海の見える杜美術館の所蔵作品とともにそれをお伝えしたいと思います。なにしろ、当館にはポワレが手掛けた香水分野の作品がいくつも所蔵されているのですから!

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ジョルジュ・ルパップ(1887-1971)《ロジーヌ社》1911年、リトグラフ、海の見える杜美術館所蔵

ポワレの革命児ぶりを余すことなく伝えるのは、まずはこちらの作品でしょう。画面下部のフランス語は「ロジーヌ社」と書かれています。本作品は、イラストレーターのジョルジュ・ルパップの筆による、1911年にポワレが立ち上げた香水製造会社、ロジーヌ社のリトグラフです。シャネルしかり、ディオールしかり、服飾メゾンが香水を発表するという、現在ではごく当たり前のことも、当時にあってはまだ珍しいことでした。そのような中、ポワレは自分のドレスの仕上げには香水が欠かせないと、香水分野に積極的に乗り出して大成功をおさめたのです。

彼を成功に導いた要因の一つは、イメージ戦略ともいえる様々な試みです。ポワレは、贅を尽くした美しいドレスを提供するだけではなく、そのイメージを人々の心に深く刻ませようと努めました。そこで彼はとりわけ広報部門を重視します。そのために、様々な分野のアーティストたちを協力者として採用したのです。とりわけイラストレーターは重要な役割を担いました。ポワレのドレスを纏う女性たちのファッション・イラストを一冊の冊子にまとめて顧客たちに配ったのです。カタログの配布も、今日では名だたるメゾンで頻繁に行われていることですが、ポワレはその元祖であったと言われています。

このイラストを描いたルパップも、ポワレのイメージ戦略の重要な協力者の一人でした。ルパップは、ポワレのドレスを纏って、こんな夜会に出てみたい、こんな風にテニスをしてみたい等、具体性を持った夢を抱かせるイラストを次々と描きました。それらに加えて、自らの感情に忠実な女性の姿態――例えば、「倦怠」を主題に、物憂げにのびをする女性等――を描くことで、見る人の精神の奥深くにまで巧みに訴えました。彼のドレスを纏えば、自らの欲望や感情をより露わにできる新時代の自由な女性になれるのではないかと夢見させたのです。

さて次は、描かれた女性の装いを見てみましょう。ポワレは第10回「香水散歩」で登場したマリアーノ・フォルチュニとほぼ同時期に、女性のドレスのシルエットを激変させた一人です。それまでコルセットで締め付けられていた女性のウエストは、胸の下からゆったりとしたドレープが広がる彼のドレスによって解放されました。それには、フランス革命直後からナポレオン1世誕生までの間に流行した、ディレクトワール・スタイル〔新古典主義様式、1795-1803〕に着想を得たと言われています。なるほど本作品でも、ハイウエストですね。

さらに詳しく装いを見てみましょう。羽根飾りのついたターバンやハーレム・パンツ等の東洋の影響が色濃く出ていますが、これもまたポワレの仕事を特徴づけるものでした。これにはあるイメージソースがありました。それは、このリトグラフが世に出る1年前、パリではセルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュス〔ロシアバレエ団〕による演目「シェエラザード」が上演され、パリの人々を熱狂させていました。ほどなくして「シェエラザード」という名のナイトクラブが開店するほどの人気ぶりであったといわれています。

『千夜一夜物語』に想を得たこのバレエの舞台は、東洋の国ペルシアの王宮にあるハーレムでした。ポワレは、すかさずそのイメージを活かしたドレスを制作します。本作品の女性も、ハーレムに住まうオダリスク(女奴隷)とみなされています。描かれた場所が東洋であることは、部屋の設えからもわかります。彼女は西洋の生活では基本となる椅子には座らずに、色とりどりのたくさんのクッションに囲まれているのですから。

しかしここで一つの疑問が浮かびます。王の寵愛をもってしか生きられない女奴隷のオダリスクを、パリ上流階級の女性たちが憧れの対象としてみなしていたのでしょうか? どうやらそのようなわけではないようです。バレエ・リュスの演目「シェエラザード」に登場するオダリスクや王の妻は、19世紀にドラクロワやアングルが描いたハーレムの女性たちとは異なる性質を持っていました。20世紀の彼女たちは、男性の絶対支配に従うだけの女性ではもはやありませんでした。その姿が、当時のパリの上流階級の女性たちの目には、斬新で進歩的で魅力的なものに映ったようです。

ポワレが東洋のイメージを活用したのは、ドレスや広報物に留まりませんでした。彼は、この東洋的なドレスを人々に着せて、大祝宴を開きました。その祝宴の名は「千二夜物語」(洒落ていますね!)。 その際、彼は庭に、香水を振りまいて、魅惑的な匂いがたちこめる場を作り出しました。使用された香水は、「ニュイ・ペルザン」、フランス語で「ペルシアの夜」と名付けられた香りです。加えて帰り際には、招待客にこの香水瓶をお土産として渡しました。香水瓶の蓋をそっと開ければ、いつでも香りとともに、パーティの楽しかった時間が蘇ってくるのです。これほど深い印象を、しかも長く抱かせることはないでしょう。

このたった一枚のリトグラフは、彼のドレスも、彼を取り巻く芸術の協力者たちの顔ぶれも、独創的なパーティの演出や香水も、また当時のパリの流行をも物語ってくれるものなのですね。

最後にここでちょっとマメ知識です。ポワレの香水の会社名はなぜ他の服飾メゾンのようにブランド名ではないのでしょうか? 彼の香水会社名の「ロジーヌ」は、フランスの女性の名前ですが、これはポワレの長女の名前が冠せられています。拙宅の近所にもお嬢様の名がつけられたカフェやギャラリーがあり、その名がオーナーたちの子煩悩ぶりを伝えていて微笑ましくなりますが、ポワレもどうやらそのタイプだったようですね!

ロジーヌ社の香水瓶の制作を担っていたマルティーヌ工房やコラン工房のことは、いつかまたこちらでご紹介したいと思います。

岡村嘉子(クリザンテーム)

◇ 今月の香水瓶 ◇

バレエ「シェエラザード」の上演と同年にポワレが発表した香水「アラジン」が入れられた香水瓶です。本作品はマリオ・シモンとポワレによって1919年にデザインされました。この香水瓶からも、東洋への傾倒ぶりが見てとれますね。

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ポール・ポワレ(ロジーヌ社)香水瓶《アラジン》

デザイン:マリオ・シモンおよびポール・ポワレ、1919年、金属に銀メッキ、茶色パチネ、ベークライト、海の見える杜美術館所蔵

作品紹介 《厳島八景画巻》より「大元桜花」

お花見のシーズンは過ぎましたが、前回の小野小町の衣の文様に続き、しつこく桜の話をさせてください。今回は、昨年開催した「厳島に遊ぶ—描かれた魅惑の聖地」展(11月23日〜12月29日)で展示した《厳島八景画巻》から、宮島の大元神社に咲く桜を描いた「大元桜花」の場面をご紹介します。

 

厳島の景観の見所ベスト8を選んだ「厳島八景」をご存知でしょうか。正徳4年(1717)、厳島の光明院の僧、恕信の依頼によって、京都の公家、冷泉為綱が八景を選定します。中国の景勝地、瀟湘八景に倣って選ばれた厳島の名勝は、「厳島明燈」「大元桜花」「瀧宮水蛍」「鑑池秋月」「谷原麋鹿」「御笠濱鋪雪」「有浦客船」「弥山神鴉」の8つ。それぞれに和歌、漢詩などの詩歌と挿絵を添えて、元文4年(1739)に版本『厳島八景』(全3冊)が刊行されています。

『厳島八景』 3冊のうち上、題字と題目 海の見える杜美術館蔵

『厳島八景』 3冊のうち上、題字と題目 海の見える杜美術館蔵

さて、この「厳島八景」の成立に関わった公家のひとりに、風早公長がいます。公長は冷泉為綱に八景の題の選定を依頼し、また、版本『厳島八景』(上冊)に、「有浦客船」の和歌、「八景和歌跋」、「八景詩跋」を寄せています。

ここでご紹介する《厳島八景画巻》は、この風早家ゆかりの作例です。版本上冊にある八景の和歌と挿絵、「八景和歌跋」から成り、その後に風早公長の孫、公雄の明和5年(1768)の署名、また、それに続いて明和7年に画工に写させた旨の奥書があります。おそらく公雄による明和5年の原本を、誰かが明和7年に写させたのだと思うのですが、残念ながらそれが誰なのかは分かりません。詳細は不明ながら、江戸時代の宮島と京都の公家文化の交流の一端を示す興味深い資料です。

《厳島八景画巻》 全1巻 奥書 海の見える杜美術館蔵

《厳島八景画巻》 全1巻 奥書 海の見える杜美術館蔵

さて、前置きが長くなりましたが、あとはのんびり「大元桜花」の場面で一足遅いお花見を...。

《厳島八景画巻》 全1巻 「大元桜花」 海の見える杜美術館蔵

《厳島八景画巻》 全1巻 「大元桜花」 海の見える杜美術館蔵

穏やかな海浜に面して鳥居があり、少し奥まって社が描かれます。春霞のかかる山容を背景に、木々と桜の花に囲まれてたたずむ大元神社の静謐な趣は、嚴島神社の壮麗な社殿とはまた違った感動を誘います。現在も大元神社を訪れると、このひっそりとした聖域の空気が、当時と変わらず漂っているように感じられます。

《厳島八景画巻》 「大元桜花」部分

《厳島八景画巻》 「大元桜花」部分

《厳島八景図巻》はページ数の都合で展覧会ブックレットに掲載できなかったこともあり、何かの機会にご紹介したいと思っていました。「厳島に遊ぶ」展は寒さが深まる中で展示の準備をしていたので、春はことさら待ち遠しく、桜の季節がきたら「大元桜花」をぜひ訪れてみたいと思っていたのです。しかし、残念ながら今年は新型コロナウイルスの影響で叶いませんでした。そんな今年の桜への未練も含めて、この機に一部をご覧頂きました。

来年は穏やかな春が訪れるよう願うばかりです。

 

谷川ゆき

 

江戸から明治にかけての首都の風景の変化 ①「日本橋」

現在、海の見える杜美術館では、6月20日(土)より始まる、「Edo⇔Tokyo –版画首都百景–」展の準備中です。本展では、当館の所蔵品の中から、江戸時代後期に風景画の名手とうたわれた初代広重、明治初期に開化絵を多く手がけた三代広重(1842-1894)、師・清親が始めた光線画を引継ぎ明治初期の東京の姿を情緒的に描いた井上安治(1864-1889)などの作品を紹介し、当時の絵師が捉えた、江戸から明治にかけて変化していく街の様相を見ていきます。

今回からシリーズとして、出品作品の中から、江戸・東京の名所風景を一部紹介し、江戸から明治にかけて首都の風景がどのように変化したのかについて見ていきたいと思います。

1回目は、東京を代表する名所である「日本橋」を紹介します。

江戸幕府が開かれた慶長八年(1603)に初めて架けられた日本橋は、五街道の起点として発展しました。橋の周辺には魚市場が形成され、江戸の人々の食を支えていました。経済の中心であった日本橋は、江戸でも一番の賑わいを見せていました。

日本橋

上は現在の日本橋です。1911年(明治44)に架けられた石造アーチ橋で国の重要文化財に指定されています。日本橋は、焼失などで過去19回も改架されており、石造となった今の橋は20代目になります。残念ながら、橋の上には首都高速道路が走っており、往時のような存在感は薄れてしまっていますが、橋の周辺には、日本でも有数のビジネス街が形成されており経済の中心地としての面子は保ち続けています。

では、江戸時代の日本橋がどうようなものであったのか、当時の浮世絵を見ていきましょう。

日本橋魚市の図

歌川広重「日本橋魚市之図」(《東都名所》のうち)

天保3年(1832)頃の日本橋の様子です。中央には日本橋が描かれ、画面手前には店舗が建ち並びます。橋の上や通りは人であふれかえり、活気に溢れています。日本橋をよく見ると、橋が弓なりになっていることが分かります。江戸時代の日本橋はこの絵のように中央が高く盛り上がった反橋でした。

続いて明治時代初期の日本橋を見ていきましょう。

日本橋《東京真画名所図解》

「日本橋」(《東京真画名所図解》のうち)

明治前期(1881年~89年頃)の日本橋の夕景です。画面の左側には赤レンガの倉庫が建ち並び、川には渡し舟の他に大型の荷舟が描かれます。日本橋に目を移すとそれまでの反橋ではなく、平らな橋に変わっていることがわかります。この橋は、1872年(明治5)、最後に木造で架けられた19代目で、橋から平らな橋に変わった理由は、急速に普及してきた人力車や馬車などの通行に対応するためといわれています。

このように江戸を代表する名所であった日本橋も、文明開化の影響を強く受け、大きくその風景が様変わりしていたことが分かります。

「Edo⇔Tokyo」展では、これら江戸から明治にかけての首都の風景を写した版画を展示します。本ブログでも出品作品のもとに展覧会の紹介を今後もしていく予定です。どうぞお楽しみください。

大内直輝

第16回 香水散歩 フランス・リヨン
コンフリュアンス美物館 後編

アール・デコ様式のリヨン、クロワ=ルース劇場(アール・デコ様式のクロワ=ルース劇場、リヨン)

こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。前回の香水散歩で、リヨンのコンフリュアンス美術館前編を取り上げたのは3月初旬のこと。この約1か月のうちに、新型コロナウィルスの世界的な蔓延によって、世界各地の、とりわけフランスの状況は著しく様変わりいたしました。外出禁止を求める大統領令が発せられ、通りに響くにぎやかな街の声をもはや聞くことはできません。私の大切な友人の家族もこのウィルスに感染しています。そのような状況から、前編とともに用意していた後編をそのまま発信する前に、ひと言添えさせて頂きたく存じます。

後編を改めて読み返してみると、わずか数か月前にリヨンで経験したことのすべてが、手の届かない遠い過去の物語のように感じ、いいようのない喪失感に襲われます。しかしながら、その一方で、希望さえ捨てずに正しくなすべきことをしていれば、いつかきっと、そう遠くない未来に、あのリヨンの活気ある姿が戻ってくると信じています。教育担当者が見守る中、好奇心溢れる子供たちでにぎわう美術館展示室、肩を寄せ合って座るような超満員の劇場、「ビズ」と呼ばれる互いの頬を寄せ合う挨拶、抱擁や握手、心から余裕のある微笑み、そのような人と人の触れ合いが、そこかしこに見受けられるリヨンの日常が戻るその日を夢見ながら、後編を発信させて頂きます。

***

さて、コンフリュアンス美術館には4つの常設展示室がありますが、そのいずれにおいても、この世界の多様性に目を見張らずにはいられない、充実した展示となっています。なかでも最後の展示室、「永遠」展示室は、この美術館の姿勢が端的に表れているように感じました。

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「あの世のヴィジョン」なる副題のついた「永遠」展示室は、死んだらどうなるのかな?という、誰しも一度は抱くであろう素朴な疑問がテーマのひとつとなっています。

ここでは、アメリカ先住民の楯やペルーの女性ミイラ、アフリカのガボンの仮面や、穏やかな顔をしたクメールの17世紀の涅槃像等を通じて、様々な文化圏における死のとらえ方が紹介されています。古代エジプトのコーナーでは、棺に入ったトバスティスのミイラや、死者の臓器を入れるのに使われたカノポス容器やお化粧セットをはじめ、極めて珍しいエジプト先史時代ナガダ期のミイラも展示されていました。当時のミイラづくりには、香料の使用が考えられているので、「香りとあらば世界中のどこへでも!」の私としては食い入るようにして見てしまいました。

こうして展示を辿るに従い、それまで漠然と抱いていた「死」の忌むべきイメージが徐々に払しょくされていくから不思議です。

さらにこの展示室が印象深いのは、過去の遺物の展示だけでは終わらないところです。展示室の片隅に設置された視聴覚コーナーでは、現代社会における死について、今日の医師や弁護士、哲学者の見地を知ることができます。この展示からは、過去の事物を見つめるのは、単に過ぎ去った時代についての物知り博士やある専門分野のマニアを量産させるためではなく(それもとても大事ですが!)、あくまでも現代の様々な問題の解決の糸口を見つけるためであるという美術館の姿勢が伝わってまいります。つまり、見つめているのは、過去ではなく現在、あるいはその先の未来なのです。そう考えると、コープ・ヒンメルブラウの設計による、あの極めて未来的な造形の美術館建築にも、妙に合点がいくのです。

IMG_4589(近未来を彷彿させる「脱構築」空間。美術館上階の空中回廊。コープ・ヒンメルブラウ設計)

おそらくこの姿勢は、コンフリュアンス美術館の所蔵品の一部を蒐集した、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した実業家、エミール・ギメ(Emile Guimet 1836-1918)の考え方を継承したものと思われます。ギメは、第13回「香水散歩」でIMG_4474(頂相〔禅僧の肖像のこと〕や甲冑等が並ぶ日本展示コーナー)

さて、話をギメに戻しますと、リヨンとパリの2つのギメ美術館は、ある共通したギメの願いが込められたものでした。それは、非西洋の文物、とりわけ宗教に関する文物を一堂に集め、系統立てて陳列し、世界各地に存在する、叡知のつまった様々な考え方を多くの人に知らしめて、西洋で生じている社会問題の解決の手立てにしたいというものでした。つまり、彼が宗教に注目したのは、信仰のためではなく、世界各地の宗教が有する哲学にこそ関心があったからなのです。

古今東西の文化を、コンフリュアンス(合流、あるいは結集)させて、よりよい未来を作り出そうとするコンフリュアンス美術館の理念は、約150年も前からこの地に根付いていたのですね。

ところで、ギメはリヨンでもう一つの重要な試みをしています。それは、美術館に併設した東洋語学校の設立です。彼は、文物の紹介だけではなく、語学学習や人とのつながりを通じて、異文化間の相互理解が進むことを願いました。ときは1870年代後半、既にフランスには日本語の語学学校がありましたし、日本でもフランス語が学ばれていました。しかしながらそれは、いくつかの例外はあるにしても――特にフランス人の学ぶ日本語講座に関しては――、実地で使用されている言語との差が大いにあるものでした。彼はそのことを1876年の来日時、フランス人通訳者と日本人通訳者をともない、日本横断の旅路を辿るなかで知ることとなります。そこで彼は帰国後に、日本人通訳の青年たちを留学生兼語学教師としてリヨンに招き、日仏交流の懸け橋としたのです。

後の時代に多大なる影響を与えることとなったギメの数々の試みをつぶさに見ていくと、彼にとって、たった一度の日本旅行がどれほど大きなものであったのかと思い至ります。彼が日本にやってきた1876年(明治9年)当時は、急進的な廃仏毀釈はおさまっていたものの、江戸時代までの従来の価値観に基づく生活と、開国や大政奉還を経て誕生した明治政府のもと、近代化の相貌がそこかしこで混在する時代でした。例えばギメは、来日前に親しんでいた「江戸」という町の名すら跡形もなく消えて、「東京」という名にすり替わっていたことがすぐに理解できずに、当惑しています。

彼は帰国後、この激動の最中にある日本で目にしたものや耳にしたこと、それについて思うところを克明に記し、日本旅行記として出版しました。この著作は、今日に至るまで幾たびも復刊や翻訳がなされ、世界の多くの人々に親しまれています。

ギメ表紙書斎 書見台2(ともにエミール・ギメ『明治日本散策 東京・日光』初版。Emile Guimet, Promenades japonaises Tokio-Nikko, Editions G・Charpantier,1880.Coll.Yoshiko Okamura、 岡村嘉子蔵)

ところで、この著作が時代を超えて読み継がれているその理由のひとつは、なんといっても、ギメの深い見識と寛容な人柄を通じて活写される、明治初期の日本の市井の生活が、唯一無二のものであるからでしょう。とりわけ、所々に小気味よい語り口調を交えながら、ユーモアたっぷりに自分の失敗談や町の人々の様子、風俗を伝える記述には、父なる経営者として労働者や農民たちとも親しく交わったと伝えられる彼の気さくな人柄がよく表れています。身分や人種、文化を分け隔てせずに、温かいまなざしを等しく向けた彼の姿勢には、植民地政策が進められていた彼の生きた時代にあって、一服の清涼剤のようにも感じるのです。IMG_4601 copie(美術館内ブックストアにも、復刻版〔Editions A Proposア・プロポ社、2018年〕がしっかり揃っていました。が、しかし! 『吸血鬼』のお隣とは……!いやはや。)

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さて、リヨンの中洲の最南端にあるコンフリュアンス美術館を後にし、その夜私は、中州を北上して、町全体を見下ろす高い丘の上にあるクロワ=ルース劇場へと急ぎました。それは、長年の友人である演出家ロラン・フレシュレLaurent Fréchuretの新作、レイ・ブラッドベリ『火星年代記』を原作とした「マルシアン・マルシエンヌ〔火星の男・火星の女の意味〕」の舞台を観るためです。タイトルからもお分かり頂ける通り、テーマは宇宙、しかも近未来です。リヨンでは、とうとう未来旅行までしてしまったのです!

80279698_2470086879933685_6053949333642936320_n(© Cyrille Cauvet. MARTIEN MARTIENNE d’après Ray Bradbury, mise en scène par Laurent Fréchuret, avec Claudine Charreyre,Mychel Lecoq. ロラン・フレシュレ演出『火星の男、火星の女』クロワ=ルース劇場、リヨン)

古代エジプト時代から近未来までも、日本や宇宙の文化も、旧情も新たな出会いも、そのすべてが小さな町の中にぎゅっと詰まっているリヨンがさらに愛おしく特別な町となりました。

岡村嘉子(クリザンテーム)

Remerciements 本記事執筆にあたり、画像等を提供頂きました演出家ロラン・フレシュレに心より御礼申し上げます。Je tiens à exprimer mes remerciements à Laurent Fréchuret, Metteur en scène qui est permis de réaliser cet article.

◇ 今月の香水瓶 ◇

フランス語で火星人の別名は「緑色の小さな人 le petit homme vert」。ロラン・フレシュレの舞台を観た後にそれを思うと、ルネ・ラリックが電線を保護する絶縁体から着想を得てデザインしたこの小さな香水瓶ですら、はるか遠い火星を想起させるから不思議です!FWC006ウォルト社、香水瓶《さよならは言わずに》デザイン:ルネ・ラリック、1929年3月29日、緑色ガラス、海の見える杜美術館蔵。WORTH,SANS ADIEU FLACON Design by René LALIQUE – 1929 March 29 ,Green glass, Umi-Mori Art Museum

 

第15回 香水散歩 フランス・リヨン
コンフリュアンス美物館 前編

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こんにちは、特任学芸員のクリザンテームこと岡村嘉子です。

今回は、大好きな町の一つ、フランス第2の都市、リヨンから美術館情報をお届けします。

リヨンといえば、ある方は美食の町とおっしゃるでしょうし、またある方は映画の町とご主張なさるでしょう、はたまたある方は遺跡の町、あるいは絹織物の町、レジスタンスの町、丘の町……と様々な分野における町の魅力を、愛しみを込めて語る方々に行き当たるようなフランスの古都です。

ちなみに、食いしん坊の私はリヨンと聞くだけで、あるサンドイッチの味が真っ先に浮かびます。初めてリヨンを訪れた折のある夜、日中の疲労からレストランへ行けずに、小さな通りの何の変哲もないパン屋さんでたまたま購入したフォアグラのサンドイッチ。上質なフォアグラにベビーリーフ、ほんの少しの甘酸っぱいジャム、そして香ばしいパンが生み出す、あまりの美味に「さすが美食の町よ……」と独りごちたものでした。

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さてさて、食欲が満たされたら、次は知識欲! リヨンでは右を見ても左を見ても、好奇心が刺激される事物に溢れています。なにしろ、フランス五大河川のひとつのローヌ川に加えて、ソーヌ川という二つの川が交わるこの地は、古代ガリア=ローマ時代から今日まで、交通の要衝として異文化が交わり栄えてきました。そのため、各時代の遺物がそこかしこに見出されるのです。しかもそれらが単なる観光名所になるわけではなく、現在の人々の暮らしの中に生き続けている――これが、リヨンの最大の魅力かもしれません。

先人や異文化を尊ぶ心の表れでしょうか、町の人々も概して穏やかで、リヨンに来るとなぜかホッとしてしまうのです。

そのようなリヨンの特長を存分に感じられる場所として、2014年にリヨンの新開発地区コンフリュアンス地区に開館した、コンフリュアンス美術館を今回はご紹介いたします。

「コンフリュアンス」という日本では全く馴染みのないこの言葉が、実は美術館のことも、リヨンのことも言い得て妙なのです。この語は、「合流」や「結集」等の意味を持つフランス語です。リヨンの地図を見ると、美術館は、二本の川に挟まれた中洲地帯の南端にある川の合流地点に位置しているのがわかります。まさにコンフリュアンス!

こちらです!→IMG_5980[11835]

ローヌ川、ソーヌ川という二つの文化圏が交わる立地そのものが、他者の存在があってこそ成り立つ出合いや交流、それにより生ずる新たな知見という美術館のコンセプトである「コンフリュアンス」を象徴しているのですね!

では、一体どのような作品が「合流」しているのでしょうか。早速見てまいりましょう。

この美術館を訪れて、おそらく誰しも最初に驚くのが、大変斬新な建築です。訪問時はあいにくの篠突く雨であったため、その全体像を示す外観写真がなくて恐れ入りますが、このエントランスの写真から、その姿をなんとなくお察し頂けたら幸いです。

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この建築を手がけたのは、そのデザインのユニークさで新作を発表する度に話題となるオーストリアの建築家集団、コープ・ヒンメルブラウ(数年前、東京のICCインターコミュニケーション・センターでの展覧会も評判を呼びましたね)です。この美術館も、SF映画に出てくるような、とでも申しましょうか、壁がどのようにつながっているのか、そもそも重力が一体どうなっているのか、私の理解力ではひたすら摩訶不思議な脱構築主義の空間が広がっているのですが、ガラスの壁に覆われた館内は、空中を散策しているかのようでつい胸が躍ってしまいました。

また現代建築で名を馳せる世界の数多の文化施設に比べて、動線が非常にコンパクトであることも嬉しい驚きでした。施設内で、無用に歩かずに済むのは、作品鑑賞の集中に重要なのですよね(そもそも建物ではなく展示作品を見に来ていますので!)。フランスの地方都市において、もっとも来館者が多い美術館のひとつというのも頷けます。

さて、コンフリュアンス美術館のコレクション内容は、自然科学や文化人類学に関するものです。つまり、そこには恐竜の骨もあれば織機や炊飯器も含まれるという、人間や地球に関するあらゆる物です。はてさてそれらをどのようにまとめて見せているのでしょうか?――数あるこの分野の美術館の中でも、コンフリュアンスが特別なのは、そのユニークな展示方法にあります。IMG_4396

《自動織機》1907年、Atelier Diederichs製。私は、機械もさることながら、布地の柄や光沢に、つい目が釘付けでした♡。

《自動織機》1907年、Atelier Diederichs製。私は、機械もさることながら、布地の柄や光沢に、つい目が釘付けでした♡。

各展示室では、時代や地域ごとの整然とした分類はなされずに、おおまかともいえるような4つの大きなテーマに沿う作品が集められています。この「おおまかな」とは、決して大雑把という意味ではありません。むしろ、「壮大な」と形容した方がよろしいかもしれません。なにぶんにも広範囲の大きなテーマなればこそ、該当作品は無数となりますが、その中からテーマを際立たせる最適な作品を選んで展示を構成するのは、まさに学芸員(もしくは監修者)の腕の見せどころです。またそのためには、圧倒的な所蔵作品数なくして実現はいたしません。それらが見事に成功しているのが、この美術館なのです。

「起源」展示室

「起源」展示室

公式資料によると、美術館の所蔵作品数はなんと約220万点――その膨大さは、ルーヴル美術館では約38万点と聞けばお分かり頂けることでしょう。この約220万点とは、17世紀から21世紀までの約500年という長い時間をかけて、主にこの地で蒐集されてきたものの集大成なのです。そのうち厳選された約3000点が「起源」「(生物の)種」「社会」「永遠」という4つのテーマに分けられて、常時展示されています。

(続く)

後編では、各展示室の様子や、この美術館所蔵作品の一端を担うエミール・ギメのコレクションについて、さらに美術館訪問の夜に遭遇した「コンフリュアンス」な時空間についてお伝えします。乞うご期待!

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

◇ 今月の香水瓶 ◇

クリスタルの輝きが美しい未来的なデザインの香水瓶。コンフリュアンス美術館の脱建築主義建築を彷彿とさせます!

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香水瓶《火打石》、サンルイ社、デザイン:セルジュ・マンソー1994年、海の見える杜美術館所蔵

 

第14回 香水散歩 パリ グラン・パレ
トゥールーズ=ロートレック展

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こんにちは、特任学芸員のクリザンテームこと岡村嘉子です。

明けましておめでとうございます。皆様、穏やかな御年始をお過ごしでしょうか。

本年の香水散歩の第一回目となる今回も、パリの最新情報をお届けいたします!

クリザンテームは先日、年金改革に伴う大規模ストライキによる交通機関の閉鎖に見舞われながらも、心待ちにしていた「アンリ・ドゥ・トゥールーズ=ロートレック展」を見にグラン・パレへ行ってまいりました。

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なにしろパリ市内は、東京の山手線内より少し大きい程度の面積ですので、たとえ地下鉄やバスが止まっても、いくつかの主要な美術館は歩いて回ることも可能です。とはいえ真冬のグラン・パレ周辺の散策は油断が禁物。ご覧の画像の通り、セーヌ川沿いにある施設ですから、川を渡る風のおかげで、それはそれは寒さが体に堪えるのです……(涙)!  ですので、ベレー帽をしっかりと被り、コートの下の防寒対策も万全にして、美術館へと向かいました。

ところで、なぜゆえ数ある展覧会の中から、トゥールーズ=ロートレック展なのでしょう? それはトゥールーズ=ロートレックの作品が、香りの歴史の転換期の様子を鮮明に伝えてくれるからなのです。

彼の生きた19世紀には、古代に始まる人間の香りの歴史において、従来の状況を一変させる、とても大きな出来事が起こりました。それは合成香料の発明です。

合成香料の誕生以前の香料は、限られた土地の特定の時期に、ごくわずかな量しか採取できないものでした。しかもその質は、気象状況等によって常に変化しました。ところが合成香料が発明されるやいなや、はるか遠方へ出かける必要もなく、化学の実験室で、一年中いつでも、天然の香りに似た香りをいくらでも作り出せるようになったのです。このような一大発見に加えて、手作業から機械生産へと製造工程の急速な近代化により増産が可能となり、19世紀の香水産業はかつてないほど興隆するようになっていくのです。

もちろん、合成香料が即座に人々に受け入れられたわけではありません。香りを必需品としたような当時の上流階級のレディたちは、代々伝わる「よき趣味」に反することはいたしません。あくまでも奥ゆかしさが尊ばれていたため、彼女たちは控えめであっさりとした天然の花の香りを好んだのです。

そのようなこともあり、実際に合成香料が多くの香水に調合されるようになるのは、発明からしばし時を経た1880年代のこと。それはまさにトゥールーズ=ロートレックがパリで活躍し始める時代なのです。

天然から人工へ―――当時の香料の変化と歩を同じくするように、絵画にも変化が訪れました。外光派や印象派が描いた自然光の注ぐ昼の世界から、オペラ座やダンス・ホールなど人工照明の下の夜の世界がトゥールーズ=ロートレックやドガらによって数多く描かれるようになるのです。

まさに近代の申し子のようなトゥールーズ=ロートレックの代表作が一堂に会するという、なんと27年ぶりとなる大回顧展ですから、交通機関の不便さがあっても、あきらめるわけにはいかなかったのです。

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では早速、展覧会を見てまいりましょう。

会場に入ると、シュザンヌ・ヴァラドン等、トゥールーズ=ロートレックの恋人兼モデルや、歌手イヴェット・ギルベール、当時の文学界、パリの歓楽など、全225点の傑作が、彼の画業を知るための12のテーマごとに展示されています。

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友人に風景画の制作をすすめられても、トゥールーズ=ロートレックは、人間こそ描かなくてはならない主題であると主張したといわれています。こうして彼は、36年という短くも充実した生涯を通じて人物像を描き続けたのです。

その人物像は、アカデミスムの絵画のような聖書や神話に基づく人物ではなく、彼と同時代を生きた都市生活における人間たちの活気ある姿でした。ですから展示室を巡っていると、まるで19世紀末のパリにタイムスリップした気分になるのです(展示構成も、当時の映像や、音源などを流し、その気分に浸らしてくれる工夫が随所になされています!)

彼の作品の登場人物たちのなかでも、私にとってとりわけ印象深かったのが、同じ時代を生きたあらゆる階層の女性たちの姿でした。つまり、控えめな香りを手袋や扇にしたためるような「よき趣味」を身に着けた女性たちも、大胆な香りを肌に直接付けるような、いわゆる「よき趣味」を知らぬ女性たちも、あえて「よき趣味」を無視して自由を求めた女性たちの姿も、彼の筆は克明に描き出しているのです。

例えば、こちらです。IMG_4255

パリの片隅で絵画モデルや洗濯女をしながら自活する女性たちが描かれています。

いずれの作品にも、女性が日常生活の中で見せる何気ない姿が表現されていますが、構図の斬新さもさることながら、自らの人生を懸命に生きる女性へのトゥールーズ=ロートレックの愛情ある眼差しがそこにあるように思えて、いつまでも作品を見ていたい気持ちになりました。

しかも不思議なことにその眼差しは、娼婦たちを描いた作品にも、母親である伯爵夫人を描いた作品にも、当時の前衛芸術家のサロンの女主人を描いた作品にも共通して感じられたのです。

トゥールーズ=ロートレックは、南フランスの約1000年の伝統を持つ伯爵家の長男でありながら、パリの大歓楽街モンマルトルに居を据えて、娼婦たちや女優たちと親しく交わりました。陽気で機知に富み、気前が良くて紳士的な振る舞いをする彼は、何処へ行っても人気者であったといわれています。それらの友愛に満ちた交友体験が彼を、あらゆる階層の女性たちを分け隔てなく身近な存在として描ける稀有な画家へとしたのかもしれませんね。

トゥールーズ=ロートレックの絵画からは、自然の花々の香りも、人工的に作られたムスクやヴァニラなどの強い香りも、また洗濯石鹸の香りも漂ってくるようで、真冬の昼下がり、展覧会会場で香水散歩を存分に楽しみました。

 

岡村嘉子 (クリザンテーム)

 

♢ 今月の香水瓶 ♢

サーカスを愛したトゥールーズ=ロートレックと同時代のフランスでつくられた香水瓶です。アルルカン

《香水瓶》フランス、1900年頃、水晶、ダイヤモンド、ルビー、エメラルド、サファイヤ、銀、七宝、海の見える杜美術館所蔵

「厳島に遊ぶ」展 会期最後の週末です!

2019年もあと数日ですね。そして「厳島に遊ぶ」展もあと2日を残すのみとなりました。

 

展覧会の第2章では、印刷物に描かれた厳島を紹介しています。江戸時代は庶民が旅を楽しめるようになった時代。旅行ブームの中で全国各地の名所を紹介する名所記や図会が刊行されます。これらはいわば現代のガイドブックです。

厳島に特化した名所図会の決定版と言えるのが、『芸州厳島図会』(5巻全10冊)。15年もの年月をかけて天保13(1842)年に完成しました。豊富かつ多様な挿絵が魅力で、往時の厳島の様子を現代の我々に生き生きと伝えてくれます。

大鳥居の図

岡田清編、山野峻峯斎画 『芸州厳島図会』より、大鳥居の図

内容も多岐にわたり、嚴島神社をはじめとする名所の紹介にとどまらず、島に暮らす人々の様子や、四季折々の行事、嚴島神社に伝来する宝物などについて詳細な図とともに記されています。

さて、ここではこの『厳島図会』のひとつの図と、歌川広重の浮世絵の関わりをご紹介します。

歌川広重 《六十余州名所図会 芸州 厳島祭礼之図》

上にあげた作品は、歌川広重の六十余州名所図会のうち、「安芸 厳島祭礼之図」。嚴島神社の重要な祭礼のひとつ、管絃祭のクライマックス—夜半に船が地御前より還幸し、まさに大鳥居にさしかかろうとする華やかな場面—を描いたものです。厳島の管絃祭はよく知られていたようで、全国の地誌などに挿絵つきで取り上げられています。

さて、広重は旅をよくした浮世絵師として知られます。ですのでこの一枚も広重が実際に宮島に来て管絃祭を見物した風景を描いたものと思いたいのですが、残念ながら必ずしもそうではなさそうです。この広重の一枚と、『芸州厳島図会』の一図を比べてみると・・・。広重の管絃祭の船の姿は、『厳島図会』のそれをほぼコピーしたものであることがわかります。展覧会会場ではこのふたつを並べて展示してあります。ぜひ比べてみてください。

管絃祭の船が還幸する様子

管絃祭の船が還幸する様子

それにしてもさすがは広重。『厳島図会』のオリジナルの船と大鳥居を大胆にトリミングして、夜の空と海を背景に際立たせた構図が見事です。

 

前回のブログでご紹介したような屏風の大画面の迫力と、今回ご紹介した、小さいけれどたくさんの情報と当時の人々の厳島への想いが詰まった版本たち。いずれも魅力的です。どうぞお見逃しなく!

 

谷川ゆき

「厳島に遊ぶ」展(〜12月29日)のみどころ 名所風俗図屏風

あっという間に会期を残すところ1週間ほどとなってしまいました。

今回の展覧会の見所は、なんといっても大画面に厳島を描いた屏風です。全部で9点。そのうち江戸時代に描かれた厳島の名所風俗図屏風6点が展覧会最初の見所になっています。

古くから信仰を集めた厳島ですが、意外なことに国宝の《一遍聖絵》など一部の例をのぞき、厳島や嚴島神社を描いた中世に遡る作例はそう多くありません。盛んに描かれるようになったのは江戸時代初期のこと。しかし、ひとたび描かれるようになると、厳島は名所風俗図屏風として人気の画題となります。

名所風俗図屏風とは、京都以外の、吉野や天橋立、和歌浦などの地方名所を組合せ、有名な寺社などを中心とした名所の景観と、そこに遊ぶ人々の様子を描いた絵画のことで、江戸時代初期に流行しました。名所風俗図屏風の中でも厳島を描いた作例は群を抜いて多く、現在では60点以上が知られています。

その中でも最も古い時期に制作されたもののひとつ、と考えられるのが、展覧会の最初に展示してある《吉野厳島図屏風》です。

《吉野厳島図屏風》 6曲1双 のうち、左隻の厳島図 江戸時代・17世紀 海の見える杜美術館

《吉野厳島図屏風》 6曲1双 のうち、左隻の厳島図 江戸時代・17世紀 海の見える杜美術館

この吉野と厳島の組合せからは、厳島が屏風に描かれる様になったきっかけは豊臣秀吉の周辺にあったことが推理できるのですが、そのあたりの詳しい説明はぜひ展示会場の解説パネルで!

大きな画面に、嚴島神社の社殿を中心に描かれた厳島はたいへん迫力があります。金雲と濃彩の絵の具の色があいまって、華やかで非日常的な聖地の様子が表されています。弥山や嚴島神社がどのように描かれているか観察したり、今は失われてしまったお堂の姿を探したり、楽しみ方は色々です。宮島をよくご存知の方は、描かれた場所が現在のどの場所に相当するのか考えるのも楽しいはずです。私がお勧めしたいのは、厳島を往来する人々の楽しそうな様子をひとりひとり観察すること。特に《吉野厳島図屏風》は、近世初期風俗画のある種享楽的な雰囲気を残し、人々の華やかな衣や髪形、喧嘩したり宴に興じたりする活力ある描写に見応えがあります。

《吉野厳島図屏風》部分 嚴島神社の舞台では毛氈をひいて宴会をする寛いだ男達の姿が。社殿の横では海水浴に興じる人々も・・・。

《吉野厳島図屏風》部分 嚴島神社の舞台では毛氈をひいて宴会をする寛いだ男達の姿が。社殿の横では海水浴に興じる人々も・・・。

ぜひ細部までじっくりご覧頂きたい!ということで、受付で単眼鏡の貸出を行っています。ぜひご活用ください。

また、展示室には部分を拡大したパネルをご用意しました。リンク先にあげたのはその一枚。《吉野厳島図屏風》の厳島図のうち、東町の商店の賑わいを描いた部分を拡大しました。床屋や足袋屋、扇屋や反物屋など、店主とお客との活気あふれるやりとりが魅力的に描かれています。

海杜テラスから見る宮島は今日も見事な姿です。展覧会の前後に宮島を訪れて、江戸と現代の違いを探って頂くのも楽しいと思います。

 

谷川ゆき

 

第13回 香水散歩 パリ16区
国立ギメ東洋美術館

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こんにちは、特任学芸員のクリザンテームです。

この秋の初めにパリで行われた、いくつかの興味深い展覧会のなかから、今回は世界屈指の東洋美術館として知られるパリの国立ギメ東洋美術館での東海道展を取り上げたいと思います。

ポスター

パリにいながら、わざわざ日本関連の展覧会? と訝られる方もあることでしょう。しかし、明治初期に廃仏毀釈が行われた日本では、明治維新以前の日本の名品が海外に残されていることが少なくありません。例えば、ギメ美術館には奈良・法隆寺の金堂にあった勢至菩薩像が所蔵されていますが、その日本コレクションの基礎となったのも、明治9年に宗教調査のために来日した実業家エミール・ギメが、日本滞在中に購入し、フランスに持ち帰ったものでした。

そのギメ美術館で、今年没後100年を迎えたフランスの医師・作家・中国学者のヴィクトル・セガレンが旧蔵した東海道に関する錦絵の画帳が公開されると聞き、早速足を運びました。なんでもその画帳がこのほどギメ美術館所蔵となったので、そのお披露目展とのことです。

20世紀初頭、セガレンは10年余り中国に滞在し、医療活動とともに、現地に取材した文学作品を執筆しました。したがって、中国に精通した人物として知られていますが、日本文化を愛する側面はほとんど知られていなかったため、日本関連の旧蔵品がいかなるものかと興味が湧きました。

では早速、企画展示室へと向かいましょう。

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こちらは新古典主義様式で建てられた美術館の端正な円形エントランスホール。列柱の間にある企画展の幟(最近はバナーと呼ぶらしいですね!)に展覧会への期待が高まります!

展示室に入ると、目に飛び込んでくるのは、東海道を中心とした大きな地図。IMG_2676

傍らの解説文には、江戸時代において東海道が、幕府のおかれた江戸と天皇のすまいである京都を結ぶ海沿いの街道であったことや、全部で5つある街道のなかでも最も重要な大動脈であったことなどが、わかりやすく紹介されています。皆、ご熱心に読んでいらっしゃいますね。

展示作品は、セガレン旧蔵品のほかに、歌川広重の代表作《東海道五十三次》や↓IMG_2707ブログ

 

江戸後期から明治にかけて活躍した絵師、歌川貞秀の4巻からなる鳥瞰図による東海道五十三次も出品されています↓。

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さてさて、東海道のいわば“スタンダード”をしっかり押さえたところで、ではお目当ての新所蔵品であるセガレン旧蔵の東海道に関する作品を見てまいりましょう。

展示室の大きな壁に沿うように広げられた、全166枚の錦絵による東海道五十三次の情景。目を凝らしてみると、なんとそれは通称《御上洛東海道》として知られる《東海道名所風景》ではないですか! それはつまり幕末の1863年2月、開国の意を天皇に言上するために、十四代将軍徳川家茂が行列を引き連れて上洛する様子を錦絵で描いた作品です。東海道五十三次のほとんどすべての風景の中に、将軍の行列が描き込まれているのはそのためです。

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ちなみに将軍が上洛するのは、三代将軍徳川家光以来229年ぶりのことであり、これは歴史的な出来事であったのです。そこで多数の絵師たちが協力して、その様子をあたかもルポルタージュのように描き出しました。

もちろん、名所絵としての面白味もふんだんにあります。ですから順を追っていくと、各地の様子に、すっかり旅心が刺激されてしまうのです。

なんといっても、将軍一行の行く先々での活気がなんとも魅力的! 歴史を左右する大事な使命を持った旅が中心主題であるにもかかわらず、描かれている人物たち――やんごとなき人々も、また市井の人々も皆――の表情が概しておおらかで楽し気なのです。

『東海道 浪花享保山』《東海道名所風景》1863年、国立ギメ東洋美術館蔵

『東海道 浪花享保山』《東海道名所風景》1863年、国立ギメ東洋美術館蔵

さらに、歌川広重、歌川国定、月岡芳年、河鍋暁斎等、名だたる15名もの絵師が手分けして名所を担当しているので、一枚ごとに対象のとらえ方や表現方法が異なり、その多様性が見る者を飽きさせません。

セガレンも日本の海沿いの旅路を空想しながら、ひとつの物語を編むかのように錦絵を見ていたのかもしれませんね。この画帳を彼がいつどこで入手したのか正確には判明していません。しかしジャポニスムがヨーロッパを席巻した時代の貴重な証左のひとつであるといえるでしょう。

さて、ギメ美術館を訪れたら常設展示室も見逃すわけにはいきません。ガンダーラ美術、シルクロード美術、中国美術、韓国美術、インド美術等、様々な東洋美術を満喫することができます。なかでも今回、クリザンテームが真っ先に向かったのは、日本美術コレクション室です。

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というのも、そこには江戸後期の香道のお道具が展示されていたからです。

作者不詳《源氏香之図》江戸後期(1603-1868)国立ギメ東洋美術館蔵

作者不詳《源氏香之図》江戸後期(1603-1868)国立ギメ東洋美術館蔵

香道には、天然香木の香りを聞いて〔動詞は嗅ぐの代わりに聞くを使います〕鑑賞する聞香と、その香りが何かを当てる遊びの組香がありますが、展示作品《源氏香之図》は組香の種類の一つである源氏香において、香元が焚いた香りを客が答える際に参照する、いわば香りの名称早見表です。源氏香で用いられる香りには、源氏物語を構成する52の巻名〔桐壺と夢浮橋の2巻は除かれています〕が付されているので、香りの名称として巻名を紙にしたためるのです。

心を静めて繊細な香りを感じ取り、その名称を当てる雅な遊び……考えてみれば前回ご紹介したパリ香水大博物館の香り当てっこゲーム椅子も、発想は同じことですね!

覚えていらっしゃいますか? こちらです↓

香水

時代が異なるとはいえ、同じ発想の遊びにおける日本とフランスの文化の違いをひしひしと感じさせますね。

 

この《源氏香之図》がギメ美術館のコレクションに加えられたのは、今から100年以上も前のことです。日本から遠く離れた地で、日本の香りの文化にまなざしを向けていた存在があったかと思うと、ことさら嬉しくなるのは私だけでしょうか。

 

クリザンテーム(岡村嘉子)

 

◇ 今月の香水瓶 ◇

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ゲラン社、香水瓶《トルチュ》1904年、透明クリスタル、海の見える杜美術館蔵

国立ギメ東洋美術館に《源氏香之図》が所蔵された頃にフランスでつくられた香水瓶。《トルチュ》とは、フランス語の亀の意味。亀の形をしていることに気づくと、妙に可愛らしく見えてくるから不思議です!

このなかには、今日もなおファンの多い香水「シャンゼリゼ」がおさめられています。クリザンテームの世代にとってこの香水は、香水のイメージキャラクターをつとめたソフィー・マルソーと結びついています。懐かしい!