新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳

1933(昭和8)年5月、新渡戸稲造が京都に竹内栖鳳と佐伯理一郎を訪ね、瓢亭で会食した時の記念写真です。

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (7)後方左から佐伯、新渡戸、栖鳳

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳

この3人はとても仲が良く、特に新渡戸は、著書で竹内栖鳳について章を割いて思い出を語っているほどです。-参考資料①

この写真について、会食を企画した新渡戸稲造の当時の状況から考えてみます。
1932(昭和7)年2月4日、講演先の四国松山で「我が国を滅ぼすのは共産党と軍閥である。そのどちらが怖いかと問われたら、今では軍閥と答えねばならない」と発言したことが日本中で非難され、その2か月後に満州事変を起こした日本の国際社会孤立を防ぐためアメリカにわたって日本の立場を訴えるものの理解を得られず、翌1933年(昭和8年)3月27日、ついに日本は国際連盟脱退を表明。この写真はその2か月後の失意のどん底のなかで栖鳳を訪ね、いろいろな相談をしたときに撮影されたものです。-参考資料②

新渡戸は同年10月15日、日本代表団団長として出席した、カナダで開かれた太平洋問題調査会議を終えた直後にその地で帰らぬ人となりました。本能的に自分の余命を感じて長年交流を温めてきた京都の友を訪問し、この世の記念に写真に納まったのではないかと思えてなりません。

これらの写真は京都市丸太町寺町のサン写真館に依頼して作成されました。記念としてそれぞれの手元へ配られたようです。-参考資料③

以下 当館所蔵写真帳2点

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (4)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (5)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (6)

 

 

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (1)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (2)

20140625新渡戸稲造 佐伯理一郎と竹内栖鳳 (3)

 

参考資料

①新渡戸稲造著『偉人群像』(実業之日本社, 1931)頁363~ 文字は適宜当用漢字にあらためた。

第31章  竹内栖鳳画伯  神韻縹渺たる画人

明治40年ごろであった。わが輩が高等学校に奉職しているころ、毎日昼食を職員と共にする間、雑多な問題が話題に上がった中、最もしばしば話題となったのは絵画のことであった。

教授の中にはその道に通じた人が多かったのと、また解らぬ者さえ名画をほしい一念から、絵と画家がしばしば論ぜられた。

わが輩は絵画も解らず、また美術家の中には、殆ど知己なるものが皆無であったため、何事も事珍しく聞いておったが、ある日2,3人のいうことに、画家中ではおそらく人物としては、栖鳳の上に位するものがなかろう、と、この一言がわが輩の耳に異様に響いた。

何故なれば田舎武士に生まれたわが輩には、殊に生家では父親は美術に趣味もあったが、寧ろ実務の方に興味があって、祖父は殆どヤンキー的(ママ)な実際家であり、そのまた親たる曾祖父は軍学者であった関係上、絵画などは単なる慰み物で、これを商売にする絵描きの如きは、人物としては、コンマ以下の如く思い倣しておった。

しかしのみならず、美術家と称する人の風采を見ても、だらしなく締りなき態度であったから、栖鳳氏が高潔なる士であるとの言葉を聞いて急に日本絵画に注意を払う気分になった。展覧会でもあれば、従来全然怠っている審美的観賞を発揚せんとの心がけさえ起った。

その後数年ならずして京都に滞在中、友人の佐伯理一郎氏に竹内栖鳳という人は、京都の画家だそうだが、画家に似合わない人物と聞いたが「君知っているか」と、尋ねた所、同氏は殆ど極端なる言葉をつらねて栖鳳氏の技術と、人格を賞め讃えた。

その翌日であったと思うが、佐伯君が同伴して栖鳳氏を訪れた。一見して同氏の非凡なることを認めることが出来る。その非凡とは芸術に関することではなく(この点はわが輩にはわからぬから)、彼の容貌り(ママ)物のいい方、風采、すべて彼の性質を現す事柄がわが輩に異様な印象を与えた。

彼の言の如き頗る謙遜で、京都式に穏やかにしかも内容のある一言一句にさすが、名人の名を博するだけある。

 

②柴崎由紀著『新渡戸稲造ものがたり』((株)銀の鈴社, 2012)頁208

「これから日本を、美術と文学を通じて外国に紹介しなければならない。そのためには、竹内画伯に聞いておかねばならないことがたくさんある」と何度も繰り返し、3人での会食を楽しみました。もしかしたら、政治的な交渉にすでに限界を感じ、日本の文化を通じて、日本の真価を世界に認めてもらおうと考えていたのかもしれません。

 

③左から佐伯、新渡戸、竹内の写真は、同志社大学同志社社史資料センターにも保存されていることが『新渡戸稲造ものがたり』に紹介されています。

さち

青木隆幸

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ネムノキの花

ネムノキの花が咲き始めました。
20140625ネムノキの花 (2)

たくさんのつぼみが、これからふわふわとしたピンクの花にかわります。
20140625ネムノキの花 (3)

美術館にあがる途中、杜の遊歩道内のレストラン、セイホウ・オンブラージュの手前に、大きなネムノキが生えています。
↓セイホウ・オンブラージュ
20140625ネムノキの花 (1)
ピンクの花がポツポツとついているのがネムノキです。
右側の下に流れる川に根をはり、ちょうど歩道の高さに枝を伸ばしているので、花を間近に楽しむ事が出来ます。

 

もりひこ

虹・リベンジ!

6月14日のブログで、虹が出たところを写真に撮ったけれど、肝心の虹がほとんど写っていないとダメ出しされた旨をご報告いたしました。 しかし梅雨のこの時季、チャンスはまた巡ってくるもので…。

20140624「虹・リベンジ」1

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ウリカエデの種


ウリカエデの種と翼が赤く色づいています。

20140622ウリカエデ の種 (3)
黄色く色づく秋の落葉も楽しみですが、この時期の赤と緑のコントラストも眼に鮮やかです。

20140622ウリカエデ の種 (2)
しばらくすると、翼をつけた種子が舞い降ります。

はらりと落ちてひとつ舞う姿。
風吹いて花吹雪のように乱舞する姿。
今年もその瞬間に恵まれて、目にしたいものです。

 

もりひこ

一生一硯

竹内栖鳳が生涯を通じて大切に使っていた硯です。 20140621一生一硯 (8)

栖鳳は、修業時代からおよそ50年も使い続けたこの硯が命尽きて割れたとき、「一生一硯」と名付けました。(手前から1/3ぐらいの場所に横に入っている線が割れた跡です) 現在は当館で大切に保管しています。今年11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品予定です。 この硯は今から70年前、「竹内栖鳳遺作展」(1943年(昭和18)1月23日から1月29日 東京日本橋三越5階西館)に出品されました。 その時の解説紙が残されています。

20140621一生一硯 (1)

「 解説 一生一硯 栖鳳の父政七の家業は料亭なり。亀政という。明治10年、栖鳳14歳のころとか、この料亭亀政の一包手、包技こそ優れたれ、酔興蕩逸の癖ありて、政七より借財ありしまゝ杳として消息を絶ちけるが、数年後のある夜、一硯を携え(て)※瓢来し、栖鳳が筆墨の道に精進せる由仄聞せる旨を語り、塵舗に拾いし貧硯なれど、お使い下されとておき去りぬ。 素より政七父子も聊かも珍重の意なく、幸に未だ初学にて、用具不揃いの折柄、当座の具にと備えしが、磨る墨との調和まことに快適、加うるに溌墨清艶にて、家運の伸展に連れ、他に幾多の金池龍淵を試みしかど、この硯に及ぶものなく、画屋随一の名硯となる。 されど後日、従婢硯洗の折、板上に在るを見るに、真二つに割れてあれば驚愕、急遽家長の面前へ運びけるが、毫も粗忽の跡なく、寂焉枯木の倒れしに似たり。依って栖鳳は破硯を掌上に撫し、愁傷歎嗟、具に過去を想うて一生一硯と銘す。包手の携え来たりしより50年の忠勤なり。作品の大半この硯より生る。 ―竹内逸記- 」 ※文中の(て)は解説紙にはなく「竹内栖鳳遺作展集」掲載時に補われた文字。   以下にその展覧会の関係資料を掲載します。 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)

20140621一生一硯 (12) 「竹内栖鳳遺作展集」(大雅堂 昭和18年12月20日発行本)

20140621一生一硯 (10)「一生一硯」掲載ページ   20140621一生一硯 (7) 「竹内栖鳳遺作展覧会目録」20140621一生一硯 (6)「竹内家出品」硯の部分   一生一硯収納箱 20140621一生一硯 (9) 「先考栖鳳先生用具 一生一硯 於東山々下遺邸 逸」

この収納箱は、「竹内栖鳳遺作展覧会」に出品する際に作られたと思われます。 箱書は竹内逸。   以上は当館収蔵の史料・資料です。 これら史料類も11月1日から開催する「生誕150年 竹内栖鳳展」に出品を予定しています。 この硯が展示された1943年(昭和18)ごろは、美術関係出版物の統廃合が進められ、紙の配給が厳しさを増し、なおかつ情報統制によって正しい記録が残されにくくなっている時代なので、いろいろと分からないことがたくさんあります。

 

追記:2014年8月14日

「一生一硯」  竹内栖鳳

「77歳になって何か俳句でもできないものかと思ってるのだが、どうもうまい具合に出てこない。実はちょっと見当をつけてるのがあるにはあるのだが、まだまとまらない。それは、15・6のころからほとんど一生使っていた硯があって、10年ばかり前に割れて使えなくなったが、それでも60年を一生と見て、一生一硯というような文句が俳句にならないものかと思っているのだ。 私の家は料理屋だったのだが、相当はやってたので婚礼とか祭りとかいうと手が足りなくなる。そんな時に雇う一人の料理人がいて、なかなかの手利きで間に合っていたが、少し金使いが荒いのか始終貧乏で、よく父のところに金を借りに来ていた。それがあるとき、あまりたびたび無心に来るのがきずつなかったのか、硯を一面持ってきた。さあ私の15・6のころだったと思うが、ちょうど絵の稽古を始めたころだったので、いつの間にか持ち出して使ったのが、もっと絵が上手になったら上等のを買おうと思いながら、とうとうその硯で通してしまったようなわけだ。 その間ちょいちょいほかの硯を使わないでもなかったが、どうも慣れたののほうが合い口がいい。屏風など描くときには随分墨がいるので、墨池の大きなので磨ったらよさそうだのに、やはりその慣れた小さな硯で磨って、なくなるとまた磨るという風に、その硯に愛着していた。 その後、墨色だとか用墨だとかいうようなことを考えるようになって、他にいくつか硯も買わされたが、たくさんあってもどうも使い慣れないのには手が出ない。先年支那に行った時にもかなたこなたで探したが、口上ばかりでどうも講釈ほどのものに当たらなかった。彫り物などは良くても使い勝手がよくない。 その硯には眼があって、黒石だから端渓ではないだろうと思っていたが、これは水岩で一番いいのだという事で他のは硬すぎてよくないのだそうだ。それが今から10年ほど以前だが、真二つに割れてしまった。別にそう手荒にしたわけでもなく、板の上においた拍子に割れた。何かのはずみだったのだろう。まるで切れ物で切ったように割れてるその調子が、瓦かなんぞのような感じで、ちっとも硬い感じがしない石だった。赤い筋が入っていて何でも唐代の紅絲硯というのだという事だった。今もなお名残が残っている。あの硯を頼りに一生過ごしたという気がする。」 『塔影』16巻11号所収、塔影社、昭和15年11月、頁3~4 (転載にあたり文字を適宜あらためました)

さち

青木隆幸

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ナンテンの花

20140621ナンテンの花 (1)

つぼみをつつむ真っ白なガク片が、はらっと落ちて、中から黄色い花が登場します。

20140621ナンテンの花 (3)

 

撮影をしていると、カッコウやウグイスの美しい声が聞こえてきました。
人は喉の調子を整えるのに、ナンテンの実のエキスを利用したりしますが、鳥の澄みわたる鳴き声は、好んで食べるナンテンの実に関係があるのでしょうか・・・。

 

もりひこ

 

 

タマムシ発見

美術館に行く途中、「杜の遊歩道」の道の上でタマムシを発見しました。
この時期ということは、成虫になったばかりでしょうか。
20140620コガネムシ発見
なにかと戦って、疲れ果てた様子でした。背中が少しへこんでいます。
すくいあげて道から山中へ離すと、わずかに飛んで地面に着地しました。
がんばれタマムシ。

もりひこ