うみもり香水瓶コレクション20 18世紀のガラスの香水瓶

 こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の企画展示室では、日本絵画に描かれた、古今の楽しい集いの様子を展覧する「賑わい語り戯れる」展が開催中です。お祭りや参詣など、ハレの日を祝う町のざわめきが聞こえてくる屏風や、宴席や行楽の楽しさが伝わる絵巻、ごく限られた親しい者同士で心置きなく過ごすひとときが刻まれた歌麿の肉筆画、さらには、集いの余韻を味わわせてくれる宴席での寄せ書きなど、集いの機会がもたらす至福のひとときが、展示室いっぱいに紹介されています。

 私も、コロナ禍において人との接触が制限されたときに、もっとも恋しくなったのは、懐かしい人々の顔と、まさにこの展示室に漂う集いの雰囲気でした。そこで、香水瓶展示室でも、企画展のテーマに沿う関連作品をいくつか出品しました。

 例えば、社交にいそしむ18世紀のフランス貴族に愛用された、こちらの3色のガラスの香水瓶です!

左手前から中央奥へ:《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃すべて海の見える杜美術館蔵。写真はI学芸員撮影。©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 

 ヴェルサイユ宮殿を現在の絢爛豪華な姿へと変えたルイ14世の治世末期に始まり、フランス革命によりブルボン王朝の栄華が終焉を迎えるルイ16世の治世に終わる、貴族文化がもっとも爛熟した18世紀。当時は、貴族たちが着飾って集い憩う様々な催しが頻繁に行われていました。

 そのなかにあって、ヨーロッパ中から「よき香りのする宮廷」と呼ばれたのは、ルイ15世の宮廷です。ちなみに、先王のルイ14世も香水を愛しましたが、その強い愛ゆえに使いすぎてしまい、彼の晩年にあたる18世紀初頭には、天然の花以外の香りは、体が受け付けなくなってしまったと伝えられています。彼の時代の香りはムスクやアンバーなど動物成分の入ったものでしたので、彼のように四六時中、いたるところで漂わせていたならば、しかもそこに集う皆が香りを纏い、それらが交じり合っていたならば……、おお、さもありなん、と思わずにはいられません。

 ルイ15世の宮廷に話を戻しますと、彼と宮廷人もルイ14世と同様に、香水をこよなく愛していたので、空間に香が立ち込める燻蒸やポプリを使い、香りのなかで生活しました。そして、これまたルイ14世と同じく、ルイ15世は日々の身繕いや装いにも香りをふんだんに使いました。彼は芳香水や芳香酢などで体をマッサージし、香料を入れて入浴し、肌着や衣服、ハンカチや手袋、扇子などの小物類に至るまで、香りをしたためました。ただし、この時代には香りの主流が、軽めのフローラル・ノートへと変わっていたおかげもあったでしょう。ルイ15世は先王とは異なって、晩年まで香りに囲まれて暮らすことができたのです。

 ところで、彼らがこれほどまでに香りに執心していたのは、なにも、単なる趣味の問題だけではありませんでした。というのも、当時の香りは、新型コロナウィルス蔓延を経験した私たちであれば他人事とは思えない、ある伝染病が生んだ衛生観念と深く結びついていたからです。そう、それはペストです。この伝染病の流行は、16世紀の蔓延以来、この18世紀半ばまで断続的に各地で生じては人々を苦しめていました。発生当初は要因がわからなかったものの、医学の発展によって、この時代になると、吸い込んだ空気と、風呂と身繕いに使われる水がペストを引き起こすと考えられるようになりました。特に空気は、悪臭が瘴気を運ぶとみなされたため、兎にも角にも香りのよい空気を吸うことが、解決策とされたのです。このように、良い香りを嗅ぎさえすれば、体内バランスが良好に保たれると広く考えられていたからこそ、王侯貴族がこぞって香りを求めていたのですね。

 今日であれば、「どうかその前に換気を……」とひとこと言いたくなりますが、空気を一変させるためには、換気よりも、良い香りの空気で空間を満たすことが当時は推奨されていたのです。

 さて、いつでもどこでも香りとともにありたいと願う王侯貴族に応えたのが、今回ご紹介する香水瓶です。これは、外出時に使う香水瓶として、流行したものでした。王侯貴族の狩猟は、社交上の大切なレジャーですが、そのような集いの場面にも使われたとされています。香りは、社会的地位の高さを表すものでもあったので、自分が何者かであるかを語らずとも他者に理解させるためにも、重要であったのです。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1740年頃ルビーガラス、金属に金メッキ、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1740, Ruby glass, gilt metal, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 香水瓶のフォルムを見ると、胴体部分が平たく、装飾もあっさりとしています。これはポケットに忍ばせられるように、過度な装飾が廃されているのです。まさに機能美が追求されているのですね。

 しかし時代の趣味の信条はあくまでも、華美であること✨。そこで、単なる簡素な香水瓶にならぬよう、豪華さがガラスの色合いにて追求されました。上の画像の作品には、なかでも最高級とされたルビー・レッドが使われています。この色は、金粉を含むことでようやく生み出される色であり、最も希少価値のあるものでした。

 では、他の色はいかがだったのでしょう? 例えば、こちらの青色です。

《香水瓶》フランスまたはボヘミア、金属部分はフランス、1730年頃、青色ガラス、金、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Bohemia-France for mount C.1730, blue glass, gold, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

 青色も、重要視された色の一つです。これは、青という色が、神から王権を授けられたフランス王を象徴する特別な色であったからです。そういえば、数々の絵画に描かれた、大聖堂での戴冠式で王が纏うのも、青い衣ですね!

 ではこちらの作品のような緑色はいかがでしょう?

《香水瓶》フランスまたはドイツ、1730年頃、緑色ガラス、銀、海の見える杜美術館 PERFUM FLACON France or Germany C.1730, green glass, silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

  この緑色は、酸化ウランと銅を加えることで生まれた色です。この色は、前述の2色に比べると豪華さが劣ります。

しかし、本作品の価値は、色よりもその彫金の見事さにあるのです。その部分を拡大してみると、、、👇

 香水瓶の口部分に施された、この非常に繊細な彫りは、本作品を手がけた金銀細工工房の卓越した技術を十分に伝えるものです。しかも、栓のモチーフとなっているのは、なんと仏陀! おりしも当時は、中国趣味が流行していたことを考えますと、この持ち主の部屋には、美しい東洋磁器も多数飾られていたのかしらと、持ち主のインテリアまで、あれこれ想像が掻き立てられます。

 約60年ぶりに生じた1720年のマルセイユの大ペストや1722年の再拡大のように、忘れた頃に断続的に到来する感染症。色とりどりのガラスの香水瓶は、感染症の脅威を経験したからこそ、予防効果を期待して香りを用い、美しく装って、人々との交流を大切にした昔日の人々の存在を教えてくれます。それは、約300年後にパンデミックを経験した私たちにとって、尊い遺産のひとつではないでしょうか。

岡村嘉子 (特任学芸員)

おめでたい魚たちの絵

海の見える杜美術館では、8月22日(日)まで「アート魚ッチング ―描かれた水の仲間たち―」を開催しています。

本展の第2章では、「福よコイ! めでたいお魚大集合」としておめでたい意味を持つ魚の絵画を紹介しています。

こちらは伝狩野休真の《滝登鯉》。

伝狩野休真《滝登鯉》 海の見える杜美術館

伝狩野休真《滝登鯉》 嘉永7年(1854)

一匹の鯉が今まさに急流の滝を登ろうとしている場面を描いています。この作品は、「黄河の上流にある龍門という急流を登り切った鯉は、竜に変じる」という中国の「登竜門」の故事にもとづいています。

現在でも成功や出世につながる難しい試験やコンテストのことを「登竜門」と言いますよね。日本で5月5日の端午の節句にあげる鯉のぼりもこの「登竜門」の故事にルーツがあるとされています。

江戸時代には、この絵のような立身出世への願いを込められた「鯉の滝登り」の図がよく作られました。

こちらは金太郎(坂田金時)が巨鯉を捕まえたという逸話をもとにした引札です。

《金太郎と鯉》

《金太郎と鯉》 大正時代

丈夫で健康な男児の象徴である金太郎もおめでたい図柄として好まれ、この鯉と金太郎の図も身体堅固、立身出世を願ってよく作られました。

日本でおめでたい魚として有名なものに鯛がいます。

鯛は、名前の響きが「めでたい」に通じることや身体の赤色が邪気を払うとされたこと、また七福神の恵比寿の持物であったことなどからおめでたい魚とされていました。

お正月に店の広告として配られる引札には、商売繁盛の神である恵比寿とともに鯛がよく登場します。

《恵比寿と大黒》 《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》

上:《恵比寿と大黒》 明治35年(1902)頃

下:《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》 明治40年(1907)頃

引札の恵比寿と鯛の図柄は、バリエーションに富んでおり見ていて飽きないです。

第2章の最後では、魚を題材にした中国のおめでたい現代年画も紹介しています。

こちらはその内、「金魚満堂」という図。

《金魚満堂》

《金魚満堂》 中国・1984年頃

金魚鉢の中を泳ぐ金魚を描いた作品です。

金魚は金玉(きんぎょく、黄金や玉(翡翠のこと)などの財宝)に通じ、それが部屋に満ちている(満堂)ことから、財力や経済的な豊かさを象徴したおめでたい絵となっています。

このように魚たちには様々なおめでたい意味がこめられ、絵画化されました。

今回の展示では、ブログで紹介している以外にもおめでたい魚たちの絵を紹介しています。会期も残り3週間を切りましたが、最後まで「アート魚ッチング」展をよろしくお願いいたします。

大内直輝

展覧会ブログ① 大野麥風の『大日本魚類画集』

海の見える杜美術館では、5月29日(土)から8月22日(日)まで「アート魚ッチング ―描かれた水の仲間たち―」展を開催しています(会期中展示替あり)。

 

この展覧会は、海の見える杜美術館が所蔵する、水の生き物を題材にした江戸時代から昭和時代までの絵画を展示し、美術の中で描かれてきた水の生き物を紹介する展覧会です。

 

今回の出品作品の中で目玉の一つは、展覧会の最後に紹介する『大日本魚類画集』です。

大野麥風『大日本魚類画集』「鯛」

大野麥風『大日本魚類画集』「鯛」 第1輯第1回 昭和12年(1937)8月

海中を悠々と泳ぐ3匹の鯛が、色鮮やかに活き活きと表現されています。まるで筆で描かれたようなこの作品、実は版画です。

 

この『大日本魚類画集』は、昭和12年(1937)~昭和19年(1944)にかけて全6輯(しゅう)72点が制作・出版された魚の版画集です。原画を担当したのは、「魚の画家」といわれた大野麥風で、彫師・摺師も当時一級の腕を持った人物が携わりました。

大野麥風『大日本魚類画集』「テナガエビ」解説

『大日本魚類画集』「テナガエビ」解説表紙

 

また、魚の版画以外にも「近代魚類分類学の父」と言われた東京帝国大学教授・田中茂穂と著名な釣り研究家・上田尚による魚の解説が付属していました。

大野麥風『大日本魚類画集』「カツオ」

大野麥風『大日本魚類画集』「カツオ」 第3輯第9回 昭和15年(1940)5月頃

 

この魚類画集は、「本邦初の魚類生態画」という謳い文句の通り、魚たちの泳ぐ姿やその生活環境までも丁寧に描写した作品です。麥風は、泳ぐ魚の姿を見るために、戦前はまだ珍しかった水族館に足を運びました。また、より正確な魚の色彩と生活環境を知るために潜水艦に乗り込み、実際に海の中を泳いでいる姿を観察したそうです。そのような熱意と努力のもとにうまれた本作は、まさしく「本邦初の魚類生態画」の名にふさわしいものとなっています。

大野麥風『大日本魚類画集』「フグ」

大野麥風『大日本魚類画集』「フグ」 第3輯第5回 昭和15年(1940)1月

 

こちらは可愛らしい「フグ」。本展のため製作したブックレットの表紙にもなっている作品です。

 

色彩のグラデーションも細かく丁寧につけられています。また、色の濃淡によって手前にいるフグと奥にいるフグを区別しています。

本物の魚に近い色鮮やかさや緻密さを実現するために、何度も摺りを重ね、麥風本人も彫師や摺師に対する注文を摺り見本に細かく書いたそうです。

実際に会場で目にすると、その色鮮やかさや緻密さがより伝わってきます。

 

今回の展覧会では、全6輯72点の内、当館で所蔵する1~4輯までの47点(3輯の1点欠)を紹介しています。当館で本作をま とめて公開する機会は、今回が初めてです。魚類をテーマにした版画の傑作、『大日本魚類画集』の魅力を味わっていただければと思います。

 

大内直輝

 

江戸から明治にかけての首都の風景の変化 ①「日本橋」

現在、海の見える杜美術館では、6月20日(土)より始まる、「Edo⇔Tokyo –版画首都百景–」展の準備中です。本展では、当館の所蔵品の中から、江戸時代後期に風景画の名手とうたわれた初代広重、明治初期に開化絵を多く手がけた三代広重(1842-1894)、師・清親が始めた光線画を引継ぎ明治初期の東京の姿を情緒的に描いた井上安治(1864-1889)などの作品を紹介し、当時の絵師が捉えた、江戸から明治にかけて変化していく街の様相を見ていきます。

今回からシリーズとして、出品作品の中から、江戸・東京の名所風景を一部紹介し、江戸から明治にかけて首都の風景がどのように変化したのかについて見ていきたいと思います。

1回目は、東京を代表する名所である「日本橋」を紹介します。

江戸幕府が開かれた慶長八年(1603)に初めて架けられた日本橋は、五街道の起点として発展しました。橋の周辺には魚市場が形成され、江戸の人々の食を支えていました。経済の中心であった日本橋は、江戸でも一番の賑わいを見せていました。

日本橋

上は現在の日本橋です。1911年(明治44)に架けられた石造アーチ橋で国の重要文化財に指定されています。日本橋は、焼失などで過去19回も改架されており、石造となった今の橋は20代目になります。残念ながら、橋の上には首都高速道路が走っており、往時のような存在感は薄れてしまっていますが、橋の周辺には、日本でも有数のビジネス街が形成されており経済の中心地としての面子は保ち続けています。

では、江戸時代の日本橋がどうようなものであったのか、当時の浮世絵を見ていきましょう。

日本橋魚市の図

歌川広重「日本橋魚市之図」(《東都名所》のうち)

天保3年(1832)頃の日本橋の様子です。中央には日本橋が描かれ、画面手前には店舗が建ち並びます。橋の上や通りは人であふれかえり、活気に溢れています。日本橋をよく見ると、橋が弓なりになっていることが分かります。江戸時代の日本橋はこの絵のように中央が高く盛り上がった反橋でした。

続いて明治時代初期の日本橋を見ていきましょう。

日本橋《東京真画名所図解》

「日本橋」(《東京真画名所図解》のうち)

明治前期(1881年~89年頃)の日本橋の夕景です。画面の左側には赤レンガの倉庫が建ち並び、川には渡し舟の他に大型の荷舟が描かれます。日本橋に目を移すとそれまでの反橋ではなく、平らな橋に変わっていることがわかります。この橋は、1872年(明治5)、最後に木造で架けられた19代目で、橋から平らな橋に変わった理由は、急速に普及してきた人力車や馬車などの通行に対応するためといわれています。

このように江戸を代表する名所であった日本橋も、文明開化の影響を強く受け、大きくその風景が様変わりしていたことが分かります。

「Edo⇔Tokyo」展では、これら江戸から明治にかけての首都の風景を写した版画を展示します。本ブログでも出品作品のもとに展覧会の紹介を今後もしていく予定です。どうぞお楽しみください。

大内直輝

中国版画研究会 中国版画国際シンポジウム

海の見える杜美術館で開催している中国版画研究会と中国版画国際シンポジウムについて、1月31日5時30分ごろ、NHKのニュース番組「シブ5時」で放映されました。

放送内容は以下のリンク先で見ることができます。

当館所蔵の中国版画についても紹介していただきました。

是非ご覧ください。

 

うみひこ

香水瓶の至宝展53 《香水瓶》 イギリス セント・ジェイムズ 1760年頃

リニューアルオープン記念特別展「香水瓶の至宝 ~祈りとメッセージ~」開催中

海の見える杜美術館の香水瓶コレクションから、選りすぐりの名品を展観いたします。香りと人類の歩んできた重厚かつきらびやかな歴史をご覧ください。

この香水瓶の、高さは7.6cm。素材は軟質磁器、金属に金メッキです。

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うみひこ

中国版画(蘇州版画)の素材分析

昨年の暮れに、中国版画(蘇州版画)の素材分析をしました。

20180105中国版画の素材分析 (7)

分析部屋の風景

調査を開始してはや3年、そろそろ成果を纏めなければならないのですが、その道のりは遠く長く、ゴールが霞んで見えます。

メンバーはこれまで通り、東京芸術大学 文化財保存学専攻のチーム 木島隆康教授、桐野文良教授、塚田全彦准教授、半田昌規非常勤講師、そしてあらたに加わった安田真実子助手です。

ことしはいよいよ中国版画の美術史的な研究会も開始いたします。本格的な中国版画展の開催に向けて、調査研究を積み重ねています。

20180105中国版画の素材分析 (3)

可視光、赤外線、紫外線撮影 左から安田先生、木島先生、半田先生

20180105中国版画の素材分析 (2)

複合エックス線装置 XRDF

20180105中国版画の素材分析 (1)

XRDFを操る桐野先生

20180105中国版画の素材分析 (5)

フーリエ変換式赤外分光分析機 FTIRを操る塚田先生

20180105中国版画の素材分析 (4)

蛍光エックス線分析装置 XRFで分析する左から安田先生、木島先生、桐野先生

20180105中国版画の素材分析 (6)

左から半田先生、塚田先生、木島先生、桐野先生、安田先生 撮影:うみひこ

うみひこ

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当館所蔵の《道成寺縁起絵巻》が紹介されました

和歌山県立博物館で11月26日まで開催されていた特別展「道成寺と日高川−道成寺縁起と流域の宗教文化−」展で、当館所蔵の《道成寺縁起絵巻》がパネル展示で紹介され、制作時期についての見解が示されましたのでご紹介いたします。

*展覧会については和歌山県立博物館のページを御覧ください。

http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/dojoji/frameset.htm

*見所を紹介した動画も。

https://www.youtube.com/watch?time_continue=82&v=lwMXhLu9jlQ

 

「道成寺と日高川」展の見所のひとつは、修理を終えた和歌山県・天音山道成寺所蔵《道成寺縁起》(2巻、重要文化財)の全巻全場面が公開されたことです。この絵巻は室町時代後期、16世紀に描かれたもので、下巻巻末には、室町将軍足利義昭(1537〜97)の花押と、天正元年(1573)に義昭がこの絵巻を拝見し「日本無双之縁起」と賞したことが書かれた紙が貼り継がれています。物語のあらすじは次のとおりです。

熊野参詣の美しい僧が、宿を借りた家の女に見初められるが、修行中の身であったので嘘をついて立ち去る。その嘘に気づいた女は僧を追い、怒りのあまり徐々に蛇(絵巻には龍の姿で描かれます)に姿を変えていく。恐れて逃げる僧は日高川を渡って道成寺の鐘に逃げ込むが、ついには鐘に巻き付いた蛇に鐘ごと焼き尽くされてしまう。道成寺の僧たちは二人の法華経供養を行い、女は忉利天、僧は兜率天へのぼった。

これと同様の物語は、古くは平安時代、11世紀の仏教説話集『本朝法華験記』に見られ、古くから親しまれた物語でした。後に安珍・清姫の物語として人々に知られ、道成寺縁起または日高川草紙の名で絵巻として制作されると同時に、能や歌舞伎など芸能の題材ともなりました。

 

今回展示された道成寺所蔵《道成寺縁起》では、美男の僧に恋をした女性が取り乱し、傷つき、怒り、みるみるうちに形相を変えて毒蛇となっていく様子が、横に長く展開する絵巻ならではの画面に巧みに表現されています。道成寺では現在にいたるまで、観衆の前で絵巻を繰り広げ、口頭で物語を語り、仏の教えを説く絵解きが行われています。また、この絵解きに使われた室町本のコピーが多数伝えられています(道成寺のホームページに、わかりやすく絵巻を拝見できる「絵とき体験ページ」がありますので、ぜひご覧になってみてください)。

 

さて、当館所蔵の《道成寺縁起絵巻》2巻(以下、海杜本と呼びます)は、実はこの室町時代の道成寺所蔵《道成寺縁起》(以下、室町本と呼びます)と構図、人物の顔の表現、また詞書の書体や字配りにいたるまで、実にそっくりなのです。では海杜本は室町本とどのような関係にあるのでしょうか?

頭を蛇と化し追う女と逃げる僧

頭を蛇と化し追う女と逃げる僧

図1 《道成寺縁起絵巻》上巻部分 海の見える杜美術館所蔵

海杜本の料紙(詞書や絵がかかれた紙)は茶色を帯びて古そうに見え、一見すると室町本とさほど変わらない時期に制作されたようにも思えます。しかしよく見ると、絵の具が剥がれた箇所や、紙の折れ目から白い色が覗きます。どうも、新しい白い紙に古色をつけるため着色したようなのです。紙の状態などからは、海杜本は江戸時代に、オリジナル(原本)である室町本の忠実なコピー(模本)として制作された、と推測できます。

まだ蛇と化す前、僧を訪ね歩く女。女性の着物の赤い色が剥落した部分に、下の白い紙の素地が見えます。

まだ蛇と化す前、僧を訪ね歩く女。女性の着物の赤い色が剥落した部分に、下の白い紙の素地が見えます。

図2 《道成寺縁起絵巻》上巻部分 海の見える杜美術館所蔵

炎を吐く蛇。炎のあたり、画面に横に走るシワの箇所に料紙の白い色が覗きます。

炎を吐く蛇。炎のあたり、画面に横に走るシワの箇所に料紙の白い色が覗きます。

図3 《道成寺縁起絵巻》下巻部分 海の見える杜美術館所蔵

 

しかし、室町本と構図や図様がそっくりな一方で、見比べてみると違いもあります。

主な違いは色の使い方です。例えば室町本上巻に描かれる熊野詣の人々は、参詣者らしく白装束に身を包みますが、海杜本では上衣が緑色だったり、あるいは女性の参詣者の衣の下から赤い下着が覗いたり、色とりどりです。例えば図2の左端の男性も、室町本では全身白装束です。このことは、海杜本が室町本を直接見て写したものではないことを示すのかもしれません。例えば、室町本の忠実な白描(着色していない絵画)の模本をさらにコピーしたもので、その際に色がわからなかったから適宜補った、というような可能性も考えられます。

また、室町本下巻末にある義昭の花押と、義昭が絵巻を拝見した奥書も海杜本には見られません。海杜本を写した人物が、これらを故意に写さなかったのでしょうか?しかし室町将軍が見たというような、絵巻の価値に関わる重要なポイントを果たして見逃すでしょうか? 海杜本には目立った痛みがないため、実際に絵解きに使われたものではないようです。ではどういう目的で、誰が、いつ写したものなのでしょうか?謎は深まるばかりです。

今回、これらの謎を説くヒントのひとつである制作年代の目処を、和歌山県立博物館の大河内智之学芸員が示してくださいました(「資料解説」和歌山県立博物館編『道成寺と日高川−道成寺縁起と流域の宗教文化−』、2017年)。大河内氏によれば、江戸時代も19世紀になると、道成寺縁起絵巻が江戸に取り寄せられることがあり、狩野晴川院養信ら狩野派の絵師が模写を行っています。江戸出開帳(寺院の宝物を他の地に運んで公開すること)も行われ、道成寺縁起絵巻の模写本流通の機会はそれなりにあったようで、海杜本も19世紀頃に写された模本の一例と考えられるとのことです。

 

江戸時代に写された海杜本は、その後明治から大正初期に活躍した政治家・歴史家・ジャーナリストであった、末松謙澄子爵(1855−1920)の所蔵となります。室町時代の人々が作った絵巻が、江戸時代に模写され、明治の子爵の手を経て、現代の我々がそれぞれの時代に思いを馳せる。絵巻の見事な絵や物語だけでなく、人の手によって伝えられる「物」として作品が帯びてきた歴史もまた興味深いものです。

*海杜本下巻を紹介した動画をご覧いただけます。

https://www.youtube.com/watch?v=wAVrwV4y22I

 

会期終わり間際にやっと展示を見に行きましたので、展覧会後のご紹介になってしまったことが残念です…。展示は終わってしまいましたが、詳細な解説と論稿、多数の図版が掲載された充実した図録が発行されています。ご興味ある方はぜひお手にとってみてください。

『道成寺と日高川』展覧会図録表紙

和歌山県立博物館編『道成寺と日高川−道成寺縁起と流域の宗教文化−』、2017年

谷川ゆき

香水瓶の至宝展 《香水セット》 フランス 1870年頃

「香水瓶の至宝 ~祈りとメッセージ~」展
2018年3月17日(土)から 開催です。
海の見える杜美術館の香水瓶コレクションから、選りすぐりの名品を展観いたします。香りと人類の歩んできた重厚かつきらびやかな歴史をご覧ください。

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うみひこ

 

西南戦争錦絵「西南雲晴朝東風役者絵」

当館の主要コレクションの一つである西南戦争錦絵の中から、西南戦争に取材した歌舞伎の舞台を錦絵「西南雲晴朝東風役者絵」(おきげのくもはらうあさごちやくしゃえ)をご紹介します。

西南戦争は、明治10年(1877)年に起きた西郷隆盛を首領とした薩摩軍兵士(薩軍)と政府軍(官軍)との間の大規模な内乱で、日本最後の内戦と言われています。その戦況は、当時の絵入り新聞や錦絵を通してリアルタイムに庶民へと伝えられました。新聞や錦絵は戦況の速報だけでなく、西南戦争の登場人物にスポットを当てた記事なども取り扱ったため、西郷隆盛のみならず、薩軍の重要人物であった桐野利秋や篠原国幹、村田新八や池上四郎、官軍の野津道貫・鎮雄の野津兄弟などは知名度を上げ、庶民の人気を得ました。戦争が終結し、戦況の速報としての錦絵の役目は終わりましたが、錦絵の出版自体はそれ以降も続き、子供の教育用の玩具絵(おもちゃえ)や、今回ご紹介する歌舞伎の役者絵などが出版されました。

西南戦争は明治10年9月24日に西郷の自決で終戦となりましたが、年が明けるとすぐにそれを題材に歌舞伎がいくつか上演され、その中でも明治11年2月、東京・新富座の『西南雲晴朝東風』は最大のヒットになりました。この劇の作者は幕末から明治時代にかけて活躍した河竹黙阿弥で、当時出版された新聞や錦絵、関係者への取材をもとに制作され、全7幕16場が薩軍視点で構成されています。(1)

役者は九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎らが出演しました。「西南雲晴朝東風役者絵」は、この歌舞伎を錦絵にしたもので、当時の役者絵の名手・豊原国周とその弟子楊洲周延によって制作されました。

豊原国周筆「吉次越蓑原討死之図」 西南戦争錦絵 UMAM 海の見える杜美術館
豊原国周筆「吉次越蓑原討死之場」 大判錦絵三枚続 明治11(1878)年3月届出

上は『西南雲晴朝東風』第3幕の、西南戦争最大の激戦、田原坂・吉次峠の戦い(明治10年3月1日~3月31日)の「吉次越蓑原討死之場」です。この場面は劇中において最大の見せ場であり、砲撃の特殊効果に花火を、音響効果にラッパを用いて戦場の迫力を再現したことから大きな評判となりました。(2)

馬に乗り右手にサーベルを持った薩軍の蓑原国元が、敗走する味方を鼓舞しながら敵陣へと進みますが、官軍の流れ弾に当たり斃(たお)れます。銃弾を受けた簑原の胸からは血が流れ、傍らにいる薩軍の武上四郎は突然の出来事に驚いた様子です。画面右上の短冊から、簑原を五世尾上菊五郎が、武上を中村宗十郎が演じていたことがわかります。

蓑原国元、武上四郎は、それぞれ史実における篠原国幹、池上四郎のことですが、実名から微妙に改変されているのは、歌舞伎や人形浄瑠璃で実在する人物を扱うときは、時局に触れぬよう、名前や時代を変えてごまかしながら扱うのが通例とされていたためです。(3)

篠原国幹は薩軍の副司令格としてこの戦いに臨んでおり、その死は、西南戦争序盤においては最大のニュースでした。

豊原国周筆「日向西條陣営の場」 西南戦争錦絵 UMAM 海の見える杜美術館
豊原国周筆「日向西條陣営の場」 大判錦絵三枚続 明治11(1878)年届出

こちらは、第7幕の戦争終盤の薩軍本営の場面です。各地から召集された少年兵に対し市川団十郎扮する西條高盛(史実では西郷隆盛)が国に帰るように説得しますが、少年の一人が、両親のいない自分だけでも一緒に戦いたいと願い出て、その姿に皆が涙します。この場面は、『西南雲晴朝東風』終盤の泣かせどころとなっています。

史実では薩軍の兵の召集は、田原坂の戦いで敗れ、敗色が濃厚となって以降、子供から老人まで及ぶようになったといいますが、官軍の兵であった喜多平四郎の手記によると、少年を兵として招集したことを知った西郷隆盛は激怒したといいます。(4)

西南戦争錦絵は、その画題の多くが戦況の速報ですが、今回ご紹介した歌舞伎の役者絵のように娯楽としての側面を持っているものも少なくなく、広く大衆に受け入れられていました。今後も定期的に西南戦争錦絵について紹介していきたいと思います。

大内直輝

※西南戦争錦絵については現在鋭意研究中で美術館リニューアル後に展示する予定です。

(1)  埋忠美沙「西南戦争における報道メディアとしての歌舞伎 -日清戦争と対比して-」(『演劇学論集 日本演劇学会紀要 62集』収載) P.19-20 日本演劇学会 2016年
(2)  同前 P.24-28
(3)  大庭卓也・生住昌大『西南戦争 -報道とその広がり-』 P.69 久留米大学文学部 2014年
(4)  前掲「西南戦争における報道メディアとしての歌舞伎 -日清戦争と対比して-」 P20-22