リニューアルオープン記念特別展「香水瓶の至宝 ~祈りとメッセージ~」開催中
海の見える杜美術館の香水瓶コレクションから、選りすぐりの名品を展観いたします。香りと人類の歩んできた重厚かつきらびやかな歴史をご覧ください。
この香水瓶の、高さは7.6cm。素材は軟質磁器、金属に金メッキです。
インスタグラムはこちら Instagram
ユーチューブはこちら YouTube
うみひこ
昨年の暮れに、中国版画(蘇州版画)の素材分析をしました。
調査を開始してはや3年、そろそろ成果を纏めなければならないのですが、その道のりは遠く長く、ゴールが霞んで見えます。
メンバーはこれまで通り、東京芸術大学 文化財保存学専攻のチーム 木島隆康教授、桐野文良教授、塚田全彦准教授、半田昌規非常勤講師、そしてあらたに加わった安田真実子助手です。
ことしはいよいよ中国版画の美術史的な研究会も開始いたします。本格的な中国版画展の開催に向けて、調査研究を積み重ねています。
うみひこ
インスタグラムはこちら Instagram
ユーチューブはこちら YouTube
新しくなったHPはこちら HomePage
「香水瓶の至宝 ~祈りとメッセージ~」展
2018年3月17日(土)から 開催です。
海の見える杜美術館の香水瓶コレクションから、選りすぐりの名品を展観いたします。香りと人類の歩んできた重厚かつきらびやかな歴史をご覧ください。
インスタグラムはこちら Instagram
ユーチューブはこちら YouTube
うみひこ
当館の主要コレクションの一つである西南戦争錦絵の中から、西南戦争に取材した歌舞伎の舞台を錦絵「西南雲晴朝東風役者絵」(おきげのくもはらうあさごちやくしゃえ)をご紹介します。
西南戦争は、明治10年(1877)年に起きた西郷隆盛を首領とした薩摩軍兵士(薩軍)と政府軍(官軍)との間の大規模な内乱で、日本最後の内戦と言われています。その戦況は、当時の絵入り新聞や錦絵を通してリアルタイムに庶民へと伝えられました。新聞や錦絵は戦況の速報だけでなく、西南戦争の登場人物にスポットを当てた記事なども取り扱ったため、西郷隆盛のみならず、薩軍の重要人物であった桐野利秋や篠原国幹、村田新八や池上四郎、官軍の野津道貫・鎮雄の野津兄弟などは知名度を上げ、庶民の人気を得ました。戦争が終結し、戦況の速報としての錦絵の役目は終わりましたが、錦絵の出版自体はそれ以降も続き、子供の教育用の玩具絵(おもちゃえ)や、今回ご紹介する歌舞伎の役者絵などが出版されました。
西南戦争は明治10年9月24日に西郷の自決で終戦となりましたが、年が明けるとすぐにそれを題材に歌舞伎がいくつか上演され、その中でも明治11年2月、東京・新富座の『西南雲晴朝東風』は最大のヒットになりました。この劇の作者は幕末から明治時代にかけて活躍した河竹黙阿弥で、当時出版された新聞や錦絵、関係者への取材をもとに制作され、全7幕16場が薩軍視点で構成されています。(1)
役者は九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎らが出演しました。「西南雲晴朝東風役者絵」は、この歌舞伎を錦絵にしたもので、当時の役者絵の名手・豊原国周とその弟子楊洲周延によって制作されました。

豊原国周筆「吉次越蓑原討死之場」 大判錦絵三枚続 明治11(1878)年3月届出
上は『西南雲晴朝東風』第3幕の、西南戦争最大の激戦、田原坂・吉次峠の戦い(明治10年3月1日~3月31日)の「吉次越蓑原討死之場」です。この場面は劇中において最大の見せ場であり、砲撃の特殊効果に花火を、音響効果にラッパを用いて戦場の迫力を再現したことから大きな評判となりました。(2)
馬に乗り右手にサーベルを持った薩軍の蓑原国元が、敗走する味方を鼓舞しながら敵陣へと進みますが、官軍の流れ弾に当たり斃(たお)れます。銃弾を受けた簑原の胸からは血が流れ、傍らにいる薩軍の武上四郎は突然の出来事に驚いた様子です。画面右上の短冊から、簑原を五世尾上菊五郎が、武上を中村宗十郎が演じていたことがわかります。
蓑原国元、武上四郎は、それぞれ史実における篠原国幹、池上四郎のことですが、実名から微妙に改変されているのは、歌舞伎や人形浄瑠璃で実在する人物を扱うときは、時局に触れぬよう、名前や時代を変えてごまかしながら扱うのが通例とされていたためです。(3)
篠原国幹は薩軍の副司令格としてこの戦いに臨んでおり、その死は、西南戦争序盤においては最大のニュースでした。

豊原国周筆「日向西條陣営の場」 大判錦絵三枚続 明治11(1878)年届出
こちらは、第7幕の戦争終盤の薩軍本営の場面です。各地から召集された少年兵に対し市川団十郎扮する西條高盛(史実では西郷隆盛)が国に帰るように説得しますが、少年の一人が、両親のいない自分だけでも一緒に戦いたいと願い出て、その姿に皆が涙します。この場面は、『西南雲晴朝東風』終盤の泣かせどころとなっています。
史実では薩軍の兵の召集は、田原坂の戦いで敗れ、敗色が濃厚となって以降、子供から老人まで及ぶようになったといいますが、官軍の兵であった喜多平四郎の手記によると、少年を兵として招集したことを知った西郷隆盛は激怒したといいます。(4)
西南戦争錦絵は、その画題の多くが戦況の速報ですが、今回ご紹介した歌舞伎の役者絵のように娯楽としての側面を持っているものも少なくなく、広く大衆に受け入れられていました。今後も定期的に西南戦争錦絵について紹介していきたいと思います。
大内直輝
※西南戦争錦絵については現在鋭意研究中で美術館リニューアル後に展示する予定です。
(1) 埋忠美沙「西南戦争における報道メディアとしての歌舞伎 -日清戦争と対比して-」(『演劇学論集 日本演劇学会紀要 62集』収載) P.19-20 日本演劇学会 2016年
(2) 同前 P.24-28
(3) 大庭卓也・生住昌大『西南戦争 -報道とその広がり-』 P.69 久留米大学文学部 2014年
(4) 前掲「西南戦争における報道メディアとしての歌舞伎 -日清戦争と対比して-」 P20-22
では、実際に私が見つけてきた資料等を見ていただきたいと思います。
左が歴彩館にてコピーさせていただいた、高島屋『現代名家風俗画集』の翠嶂のページ。右が当館所蔵の《女役者》。
比較してみると本当によく似ているのですが、決定的に違うのが、背景の幕の紋、そして印章(落款、つまり署名のところに押されている印鑑)です。まったく別の作品です。お恥ずかしながら、最初この図録を手にしたときは完全に「おお一緒だ一緒だ」と思っており、「あれっ…え…うそ…違う…?」と気づくまでに3~4日かかりました。思い込みとはかように怖いものです。落丁に気づいたとき以上の驚きが私を包みました。こちらもお察しいただければ幸いです。
では当館の作品はニセモノなのか?という疑問がわいてきてしまいますが、近代の日本画の世界では展覧会に出したものを画家自身がコピーすることは結構多く見られます。例えば当館所蔵の北野恒富の《阿波踊り》、榊原紫峰の《獅子》なども展覧会に出したものを縮小して描いたものです。おそらく、求めに応じて描いたのでしょう。
驚愕の発見の日から自分を納得させること数ヶ月、先日また別の資料を手にすることができました。西山翠嶂が自ら3年かけて発行した『翠嶂作品集』(西山翠嶂著、瑠璃社、大正10(1921)年)です。
左は、《翠嶂作品集》に収録されていた女役者(木版)です。こちらは幕の紋も印鑑の形もほぼ一致。色や紋の微妙な部分が違うのは、木版で完全なコピーではないことが原因です。違う紋を背負う2つの《女役者》が翠嶂の手によって描かれたことは間違いないと、資料でも証明されました。
この《翠嶂作品集》は、帝展出品作などの力作を収録していることから、こちらの《女役者》も、翠嶂にとってまずまずの自信作だったと見られます。なんとなく一安心。
さて、では、描かれた女役者とはいったい誰なのか。この疑問も現在まだ回答が出ておりません。はじめ私は、紋があるということは、特定の誰であるか当時見る人が見ればわかったのだろうと想像していました。しかし2作品でまったく紋を変えてしまったという事実がここで判明しました。誰であるのかは問題ではなかったということになるのでしょうか。もう少し、演劇史のほうを調べる必要があるかもしれません。
結局、わかったことは以下の2点。
1つめは、翠嶂は高島屋の展覧会に出品したものと、『翠嶂作品集』に掲載したもの、少なくとも2つの《女役者》を描いたということ。
そして2つめは、当館の作品は『翠嶂作品集』に掲載された《女役者》であること。
調べていくうちにかえって疑問点も増えました。でも研究や調査とは、きっとそんなもの。簡単にはいかないということを改めて思い知らされました。
このように学芸員の喜び悲しみを織り交ぜて調査中の翠嶂作品は、2018年の秋に西山翠嶂展の中でご紹介する予定です。ご興味を持っていただけますと大変うれしく存じます。
主要参考文献
高木多喜男「西山翠嶂の人と画業に関する基礎調査(年譜私案)」『京都文化博物館紀要 朱雀』第5集、1992年
『現代名家風俗画集』、高島屋飯田呉服貿易店 発行、1912年
西山翠嶂『翠嶂作品集』、瑠璃社 発行、1921年
『京都府百年の年表 8 美術工芸編』京都府立総合資料館 編、京都府 発行、1970年
※本記事での図版の掲載にあたり、京都府立京都学・歴彩館様と高島屋史料館様にご協力をいただきました。感謝申し上げます。
森下麻衣子
寛永3年(1626年)の後水尾天皇の二条城行幸が描かれた、金色にきらめく豪華な屏風です。
屏風全体には、京都の町並みと周りの風景が描かれています。そしてその中段に一直線、左側の屏風には、二条城を出て後水尾天皇を迎えに御所をたずねる三代将軍家光の一行が、

見物する群衆や沿道警備の武士も一緒に臨場感豊かに描かれています。

おそらくこの屏風のどこかに登場していると思われる人物、土御門 泰重(つちみかど やすしげ)の日記に当時の様子を見てみましょう。
9月4日 晴れ 行幸の用意。身に付けるものや道具を点検した。今日太刀がとどいた。樋螺鈿蒔絵梨地(ひらでんまきえなしじ)だ。
9月5日 晴れ 中山元親(なかやまもとちか)のところへ行って場所を借りてきた。行幸を見物する人たちのためだ。夜になって雨が降り始めた。深夜には大雨になった。明日の行幸はどうなるのだろう。用意は大体終わった。夜12時頃就寝。
9月6日 日の出前まで大雨だったが、晴れてよかった。先発隊が出た。その後に中宮(天皇の妃)が出発した。将軍が迎えに参内した。鳳輦(天皇が乗る駕籠)を紫宸殿の庇によせ、鳳輦にお移りになられた。華やかなる行幸、民衆が群れをなした。(適宜抜粋して現代語に訳した)

実在の人物の日記を読んであらためて絵を眺めると、絵空事のようだった屏風絵が、記録映像のように現実感を伴って見えてきます。
この日の高揚した様子を再現するのに、画家が苦心したのは京都の市街や名所、1300人以上の人々を描き込む労力だけではありません。左側の屏風は堀川沿いを北に向かう行列を、

左右の屏風を直角になるように並べると、堀川の橋で曲がる列が立体的に正しく再現されるように工夫されているのです。
徳川家康が戦国時代に区切りを告げた後、二代将軍秀忠は娘の和子(まさこ)を後水尾天皇に入内させ、天皇家と姻戚関係になります。その後将軍職を家光に譲り穏便に世代交代を済ませ、次に天皇を徳川の城、二条城に招いて歓待したのです。天皇家と徳川家の和平を決定的に内外に示したこの二条城行幸によって、完全に戦国の世に終わりを告げることができたのかもしれません。そのような観点からは、この屏風はとても記念碑的な作品として輝いていますし、また、この屏風は藤堂家伝来と言われていて、徳川和子入内の立て役者であり、後水尾天皇を迎えるための二条城改修工事の基本設計を担当した藤堂高虎との関係性にも興味がつきません。
なお この原稿は当館の季刊誌『プロムナード』Vol.22 2017年夏号に掲載されています
さち
青木隆幸
グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862 – 1918)は晩年、肖像の背景にアジアからもたらされたと思われるモチーフを描いた独特の作品を制作しています。
・アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像(Bildnis der Adele Bloch-Bauer II 1912)
・エリザベート・バッホーヘンの肖像(Bildnis der Baroness Elisabeth Bachofen-Echt 1914-1916)
・ウォーリーの肖像 (Bildnis der Wally 1916)
・フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像(Bildnis der Friederike Maria Beer 1916)
などです。
このことを知ったとき、これらの背景の図像は中国版画(*)の中に見出せるのではないかと、とても気になりました。
*日本の浮世絵のように民間に広く売り出された版画で、その歴史は浮世絵よりも古いようです。いわゆる蘇州版画もこのなかに含まれます。
例えばフリーデリケ・マリア・ベーアの肖像(Bildnis der Friederike Maria Beer 1916)について、寄託先のテルアビブ美術館のウェブサイトには、絵の背景の戦闘シーンはクリムト所有の韓国の花瓶のモチーフからの引用と記されているのですが、私たちが収集している中国版画の図様にも似たモチーフを見ることができそうなのです。
《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》
Portrait of Friederike Maria Beer 168 x 130 cm Oil on canvas
Depository: Tel Aviv Museum of Art Mizne-Blumenthal Collection
それでは背景に描かれたモチーフを、海の見える杜美術館所蔵の中国版画の中から探ってみましょう。この絵と同様に戦の群像を描いた作品を、時代順に見てみることにします。
まず、清代(1644-1912)はじめ頃の《薛仁貴私擺龍門陣図》や《水演図》です。
《薛仁貴私擺龍門陣図》
《水演図》
しかし、クリムトの作品の右側ひげ面の男が京劇風に描かれていることに対して、この時代の中国版画には京劇風の人物が描かれない(*)ことを考えると、これらの作品が直接的なモチーフになったとはいえないようです。
*京劇は乾隆55年(1790)以降の成立といわれています。しかし京劇成立以前に行われていた地方演劇と中国版画の関係性の検証が課題として残されています
乾隆期(1736 – 1795)末ごろの作品と推定される《当陽救主》、そしてもう少しあとの時代に印刷された《李元覇鎚振四平山》《楊家将八虎闖幽州》をみてみましょう。
《当陽救主》双和
《李元覇鎚振四平山》双和
《楊家将八虎闖幽州》双和
これらの作品には、《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》の背景といくつかの共通点を見出すことができます。例えば遠近感に乏しく平面的に描かれた群像表現や、ある程度様式化された姿、そして京劇風の表情や、左側白馬に騎乗している男が持つ先の丸い独特の武器(鎚)などです。
これらの版画は復刻され、長い間作られ続けました。クリムト(1862 – 1918)の生きた時代にも作られ続けていたようです。
例えば「双和」が制作した《楊家将八虎闖幽州》を「呉太元」が復刻しています。
《楊家将八虎闖幽州》呉太元
さらに時代が下って、清代後期に制作された版画を見てみましょう。
その時々の戦争が版画になり、その過程で新たな表現も生まれています。
道光8年(1828)のジハンギール(張格爾)の乱を描いた《得勝封侯》は古い様式で描かれていますが、光緒26年(1900)の義和団の乱(庚子事変)を描いた《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図 光緒庚子孟秋》では臨場感ある報道的な絵に描かれました。
《得勝封侯》
《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図 光緒庚子孟秋》
ここまで、清代(1644-1912)中国に制作された、戦の群像表現のある版画を、駆け足で眺めてきました。
それでは改めて、グスタフ・クリムトが描いた《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》を見てみましょう。

Portrait of Friederike Maria Beer 168 x 130 cm Oil on canvas
Depository: Tel Aviv Museum of Art Mizne-Blumenthal Collection
清代(1644-1912)直後の1916年に制作された作品です。
フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像の後ろに、アジアの武人の群像が描かれています。その様式化された群像表現や一部見られる京劇風の表情などには、乾隆(1736–1795)末から道光(1821–1850)期に作られた中国版画に登場するモチーフとの共通性が見られるようです。
グスタフ・クリムト(1862 – 1918)が生きた時代、中国版画はヨーロッパにたくさん出回っていました。たとえば当館に一括で収集した義和団の乱(庚子事変 1900年)を描いた版画には、収集者の備考と思われる戦いの概要が、フランス語で記入されています。
今回の観察を通じて、中国版画とヨーロッパ美術の関係性に少し興味がそそられました。
さち
青木隆幸
余談ですが、《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》は、グラモラレコードのCD アレクサンダー・ツェムリンスキー、カール・ゴルトマルク、ハンス・ガル「ピアノ三重奏曲集」のジャケットに使われています。
Alexander Zemlinsky, Carl Goldmark, Hans Gal klaviertrios
Gramola Records 2012
関連記事:蘇州版画 西洋劇場図
絵巻は、1000年以上前から日本で愛されているエンターテイメントだと思います。
右から左にまいていくと、詞書と場面とが目くるめく世界を繰り広げてくれるのです。まるで映画を見ているようです。
近頃では、漫画の始まりだとかいろいろ言われることもあるようですが、昔の人がどんな風に絵巻を楽しんだのか、仮想体験できるかなと、ちょっとパワーポイントで作ってみました。
音声は左大臣光永さまに吹き込んでいただきました。原文のまま朗読の箇所もあるのですが、文章の意味が分からなくても、十分に内容が感じ取れる、そんな臨場感あふれるナレーションになっています。やはりプロの方はすごいですね。ありがとうございました。
天神の本地(てんじんのほんじ)
絵巻 一巻
室町時代後期 写
箱題「天神の本地」
Tenjin-no-honji
延喜帝の時、菅原大臣菅丞相是善の家に5,6歳の稚児が来て、父子となった。稚児は才学豊かに成長し菅原道真となり、帝の覚えもめでたかったが、菅原時平大臣の奸計により、道真は太宰府に流される。飛梅の奇跡(注)等の後、道真は天満大神となり、都において雷となって時平大臣を骨もみじんに消し去ってしまう。比叡山の法性房の努力により、菅丞相は天に登り神となった。
『天神縁起』と同内容であるが、細部は異なり、別の物語として扱われてきた作品。『天神縁起』には、古くからのさまざまな絵巻物が存在しているが、本物語にも諸本が多くあり、多くは絵入りで伝わる。また、それぞれの本を比較すると、少しずつ内容が異なり、いわゆる異本関係を形成している。本書は室町時代後期に作られた絵巻。絵が古雅な雰囲気で、いかにも御伽草子的な味わいでかわいらしい作品である。
注…菅原道真が太宰府に左遷されて家を出るとき、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだ梅の木が、あるじの配所である太宰府の庭に飛んで生え匂ったという故事に由来して今に伝えられている。
(「物語絵 ―奈良絵本と絵巻に見る古人のこころ―」展 図録解説より)
この動画は2013年の展覧会「信仰と美術Ⅰ」海の見える杜美術館展示会場で使用しました。
うみひこ
絵巻は、1000年以上前から日本で愛されているエンターテイメントだと思います。
右から左にまいていくと、詞書と場面とが目くるめく世界を繰り広げてくれるのです。まるで映画を見ているようです。
近頃では、漫画の始まりだとかいろいろ言われることもあるようですが、昔の人がどんな風に絵巻を楽しんだのか、仮想体験できるかなと、ちょっとパワーポイントで作ってみました。
そしたら思いのほか楽しくて・・・。
八幡宮縁起(はちまんぐうえんぎ)
絵巻 一巻
大永七年(1527) 写
箱題「八幡大神宮縁起絵巻」
Hachimangu-engi
八幡大菩薩は、第15代応神天皇のことである。母である神功皇后が新羅などを討つために九州へ向かったとき、白髪の老翁があらわれ、皇后に付き従うことになる。皇后は、腹の中の皇子に帰朝するまで生まれぬように言い含め、新羅を討ち従えた後、筑前宇佐の宮で12月14日に誕生した。その後、応神天皇は、豊前国宇佐郡で出家し、そこを正覚寺といった。大菩薩の本地は自在王菩薩である。
本図は八幡大菩薩の縁起絵巻である。類書に『神功皇后縁起』がある。鎌倉時代末期制作という絵巻や、室町時代制作という絵巻が複数現存している。本書は、片仮名交じりの古絵巻。本文には、罫線が引かれる。末尾に、「吉安」「大永七」と記される。また、「淡路島 浜天神宮旧蔵」と箱書きに見える。寺社の縁起絵巻には、年号や制作者が記されることが多い。
(「物語絵 ―奈良絵本と絵巻に見る古人のこころ―」展 図録解説より)
この動画は2013年の展覧会「信仰と美術Ⅰ」海の見える杜美術館展示会場で使用しました。
うみひこ