中国版画(蘇州版画)とグスタフ・クリムト

グスタフ・クリムト(Gustav Klimt, 1862 – 1918)は晩年、肖像の背景にアジアからもたらされたと思われるモチーフを描いた独特の作品を制作しています。

・アデーレ・ブロッホ・バウアーの肖像(Bildnis der Adele Bloch-Bauer II 1912)
・エリザベート・バッホーヘンの肖像(Bildnis der Baroness Elisabeth Bachofen-Echt 1914-1916)
・ウォーリーの肖像 (Bildnis der Wally 1916)
・フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像(Bildnis der Friederike Maria Beer 1916)
などです。

このことを知ったとき、これらの背景の図像は中国版画(*)の中に見出せるのではないかと、とても気になりました。
*日本の浮世絵のように民間に広く売り出された版画で、その歴史は浮世絵よりも古いようです。いわゆる蘇州版画もこのなかに含まれます。

例えばフリーデリケ・マリア・ベーアの肖像(Bildnis der Friederike Maria Beer 1916)について、寄託先のテルアビブ美術館のウェブサイトには、絵の背景の戦闘シーンはクリムト所有の韓国の花瓶のモチーフからの引用と記されているのですが、私たちが収集している中国版画の図様にも似たモチーフを見ることができそうなのです。

Fredericke Maria Beer 1916《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》
Portrait of Friederike Maria Beer 168 x 130 cm Oil on canvas
Depository: Tel Aviv Museum of Art  Mizne-Blumenthal Collection

それでは背景に描かれたモチーフを、海の見える杜美術館所蔵の中国版画の中から探ってみましょう。この絵と同様に戦の群像を描いた作品を、時代順に見てみることにします。

まず、清代(1644-1912)はじめ頃の《薛仁貴私擺龍門陣図》や《水演図》です。
20160627 薛仁貴私擺龍門陣図 中国版画 蘇州版画 UMAM《薛仁貴私擺龍門陣図》
20160627 水演図 中国版画 蘇州版画 UMAM《水演図》

戦士が持つ盾に描かれた模様などに共通点があります。
 20160627 薛仁貴私擺龍門陣図 中国版画 蘇州版画  UMAM

しかし、クリムトの作品の右側ひげ面の男が京劇風に描かれていることに対して、この時代の中国版画には京劇風の人物が描かれない(*)ことを考えると、これらの作品が直接的なモチーフになったとはいえないようです。
*京劇は乾隆55年(1790)以降の成立といわれています。しかし京劇成立以前に行われていた地方演劇と中国版画の関係性の検証が課題として残されています

乾隆期(1736 – 1795)末ごろの作品と推定される《当陽救主》、そしてもう少しあとの時代に印刷された《李元覇鎚振四平山》《楊家将八虎闖幽州》をみてみましょう。

20160627 当陽救主 中国版画 蘇州版画 UMAM《当陽救主》双和
20160627 李元覇鎚振四平山 双和 中国版画 蘇州版画 UMAM《李元覇鎚振四平山》双和
20160627 楊家将八虎闖幽州 双和 中国版画 蘇州版画 UMAM《楊家将八虎闖幽州》双和

これらの作品には、《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》の背景といくつかの共通点を見出すことができます。例えば遠近感に乏しく平面的に描かれた群像表現や、ある程度様式化された姿、そして京劇風の表情や、左側白馬に騎乗している男が持つ先の丸い独特の武器(鎚)などです。

20160627 李元覇鎚振四平山(部分) 中国版画 蘇州版画 UMAM《李元覇鎚振四平山》(部分)

これらの版画は復刻され、長い間作られ続けました。クリムト(1862 – 1918)の生きた時代にも作られ続けていたようです。

例えば「双和」が制作した《楊家将八虎闖幽州》を「呉太元」が復刻しています。
20160627 楊家将八虎闖幽州 中国版画 蘇州版画 UMAM《楊家将八虎闖幽州》呉太元

さらに時代が下って、清代後期に制作された版画を見てみましょう。
その時々の戦争が版画になり、その過程で新たな表現も生まれています。

道光8年(1828)のジハンギール(張格爾)の乱を描いた《得勝封侯》は古い様式で描かれていますが、光緒26年(1900)の義和団の乱(庚子事変)を描いた《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図 光緒庚子孟秋》では臨場感ある報道的な絵に描かれました。
20160627 得勝封侯 道光9年1829 中国版画 蘇州版画 UMAM《得勝封侯》
20160627 天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵圖 光緒庚子孟秋1900年 中国版画 蘇州版画 UMAM《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図 光緒庚子孟秋》

ここまで、清代(1644-1912)中国に制作された、戦の群像表現のある版画を、駆け足で眺めてきました。
それでは改めて、グスタフ・クリムトが描いた《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》を見てみましょう。
Fredericke Maria Beer 1916
Portrait of Friederike Maria Beer 168 x 130 cm Oil on canvas
Depository: Tel Aviv Museum of Art  Mizne-Blumenthal Collection

清代(1644-1912)直後の1916年に制作された作品です。
フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像の後ろに、アジアの武人の群像が描かれています。その様式化された群像表現や一部見られる京劇風の表情などには、乾隆(1736–1795)末から道光(1821–1850)期に作られた中国版画に登場するモチーフとの共通性が見られるようです。
グスタフ・クリムト(1862 – 1918)が生きた時代、中国版画はヨーロッパにたくさん出回っていました。たとえば当館に一括で収集した義和団の乱(庚子事変 1900年)を描いた版画には、収集者の備考と思われる戦いの概要が、フランス語で記入されています。

20160627 天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵圖 中国版画 蘇州版画 UMAM《天津城埋伏地雷董軍門大勝西兵図》(部分)

今回の観察を通じて、中国版画とヨーロッパ美術の関係性に少し興味がそそられました。

さち

余談ですが、《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》は、グラモラレコードのCD アレクサンダー・ツェムリンスキー、カール・ゴルトマルク、ハンス・ガル「ピアノ三重奏曲集」のジャケットに使われています。
Alexander Zemlinsky, Carl Goldmark, Hans Gal  klaviertrios
Gramola Records 2012

関連記事:蘇州版画 西洋劇場図

天神の本地絵巻(パワーポイントで作った絵巻アニメ4/4)

絵巻は、1000年以上前から日本で愛されているエンターテイメントだと思います。

右から左にまいていくと、詞書と場面とが目くるめく世界を繰り広げてくれるのです。まるで映画を見ているようです。

近頃では、漫画の始まりだとかいろいろ言われることもあるようですが、昔の人がどんな風に絵巻を楽しんだのか、仮想体験できるかなと、ちょっとパワーポイントで作ってみました。

音声は左大臣光永さまに吹き込んでいただきました。原文のまま朗読の箇所もあるのですが、文章の意味が分からなくても、十分に内容が感じ取れる、そんな臨場感あふれるナレーションになっています。やはりプロの方はすごいですね。ありがとうございました。

天神の本地(てんじんのほんじ)
絵巻 一巻
室町時代後期 写
箱題「天神の本地」
Tenjin-no-honji
延喜帝の時、菅原大臣菅丞相是善の家に5,6歳の稚児が来て、父子となった。稚児は才学豊かに成長し菅原道真となり、帝の覚えもめでたかったが、菅原時平大臣の奸計により、道真は太宰府に流される。飛梅の奇跡(注)等の後、道真は天満大神となり、都において雷となって時平大臣を骨もみじんに消し去ってしまう。比叡山の法性房の努力により、菅丞相は天に登り神となった。
『天神縁起』と同内容であるが、細部は異なり、別の物語として扱われてきた作品。『天神縁起』には、古くからのさまざまな絵巻物が存在しているが、本物語にも諸本が多くあり、多くは絵入りで伝わる。また、それぞれの本を比較すると、少しずつ内容が異なり、いわゆる異本関係を形成している。本書は室町時代後期に作られた絵巻。絵が古雅な雰囲気で、いかにも御伽草子的な味わいでかわいらしい作品である。
注…菅原道真が太宰府に左遷されて家を出るとき、「東風吹かば匂いおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそ」と詠んだ梅の木が、あるじの配所である太宰府の庭に飛んで生え匂ったという故事に由来して今に伝えられている。
(「物語絵 ―奈良絵本と絵巻に見る古人のこころ―」展 図録解説より)

この動画は2013年の展覧会「信仰と美術Ⅰ」海の見える杜美術館展示会場で使用しました。

うみひこ

八幡宮縁起絵巻(パワーポイントで作った絵巻アニメ3/4)

絵巻は、1000年以上前から日本で愛されているエンターテイメントだと思います。

右から左にまいていくと、詞書と場面とが目くるめく世界を繰り広げてくれるのです。まるで映画を見ているようです。

近頃では、漫画の始まりだとかいろいろ言われることもあるようですが、昔の人がどんな風に絵巻を楽しんだのか、仮想体験できるかなと、ちょっとパワーポイントで作ってみました。

そしたら思いのほか楽しくて・・・。

八幡宮縁起(はちまんぐうえんぎ)
絵巻 一巻
大永七年(1527) 写
箱題「八幡大神宮縁起絵巻」
Hachimangu-engi
八幡大菩薩は、第15代応神天皇のことである。母である神功皇后が新羅などを討つために九州へ向かったとき、白髪の老翁があらわれ、皇后に付き従うことになる。皇后は、腹の中の皇子に帰朝するまで生まれぬように言い含め、新羅を討ち従えた後、筑前宇佐の宮で12月14日に誕生した。その後、応神天皇は、豊前国宇佐郡で出家し、そこを正覚寺といった。大菩薩の本地は自在王菩薩である。
 本図は八幡大菩薩の縁起絵巻である。類書に『神功皇后縁起』がある。鎌倉時代末期制作という絵巻や、室町時代制作という絵巻が複数現存している。本書は、片仮名交じりの古絵巻。本文には、罫線が引かれる。末尾に、「吉安」「大永七」と記される。また、「淡路島 浜天神宮旧蔵」と箱書きに見える。寺社の縁起絵巻には、年号や制作者が記されることが多い。
(「物語絵 ―奈良絵本と絵巻に見る古人のこころ―」展 図録解説より)

この動画は2013年の展覧会「信仰と美術Ⅰ」海の見える杜美術館展示会場で使用しました。

うみひこ

三井寺絵巻(パワーポイントで作った絵巻アニメ2/4)

絵巻は、1000年以上前から日本で愛されているエンターテイメントだと思います。

右から左にまいていくと、詞書と場面とが目くるめく世界を繰り広げてくれるのです。まるで映画を見ているようです。

近頃では、漫画の始まりだとかいろいろ言われることもあるようですが、昔の人がどんな風に絵巻を楽しんだのか、仮想体験できるかなと、ちょっとパワーポイントで作ってみました。

そしたら思いのほか楽しくて・・・。

三井寺(みいでら)
絵巻 一巻
室町時代末期 写
外題 三井寺
Miidera
 三井寺に住む僧が、どこからともなく来た稚児を連れて、名月の庭に出る。そこに物狂いの女が来て、藤原秀郷が運んできたという鐘を打とうとする。それを止めに入ると、その女は稚児の母であるとわかる。稚児は、人買い商人に連れられて、駿河の国清見が関からやって来たと打ち明け、母子は再会する。母は、子供が行方不明になったことから物狂いになったのであった。その後、一家は末繁昌したという。
 能『三井寺』を絵巻化した作品。能の詞章をほぼそのまま本文として写している。27の『松風村雨』も同じ系統の作品。能の作品が絵巻化される例はいくつかあり、その際、謡曲の詞章をそのまま本文として使うものと、詞章を物語化してしまうものとがある。物語化したものは、御伽草子としていちづけられるので、能は御伽草子成立の題材となることがわかる。本書の絵は、古雅な奈良絵本タイプで、美しく可愛らしい。
(「物語絵 ―奈良絵本と絵巻に見る古人のこころ―」展 図録解説より)

この動画は2013年の展覧会「信仰と美術Ⅰ」海の見える杜美術館展示会場で使用しました。

うみひこ

道成寺縁起絵巻(パワーポイントで作った絵巻アニメ1/4)

絵巻は、1000年以上前から日本で愛されているエンターテイメントだと思います。

右から左にまいていくと、詞書と場面とが目くるめく世界を繰り広げてくれるのです。まるで映画を見ているようです。

近頃では、漫画の始まりだとかいろいろ言われることもあるようですが、昔の人がどんな風に絵巻を楽しんだのか、仮想体験できるかなと、ちょっとパワーポイントで作ってみました。

そしたら思いのほか楽しくて・・・。

道成寺縁起(どうじょうじえんぎ)
絵巻 二巻
室町時代末期 写
箱書「行秀道成寺縁起」
Dojoji-engi
醍醐天皇の時、奥州から、見た目の美しい僧が、熊野参詣にやって来た。紀伊の国真砂に宿があり、亭主清沢の庄司のもとの女が、その僧を好きになる。女が僧を誘うが、僧は熊野から戻るときに会うと約束する。女は待ちこがれ、僧が下山すると、蛇身となって、僧を追いかける。日高郡の道成寺で、僧が助けを求めると、寺僧たちにより、大鐘の中に身を隠されるが、蛇身となった女は、火炎を吐いて鐘ごと燃やし、僧を焼き殺してしまう。
現代でも絵巻を使用して絵解きが行われている作品。能や歌舞伎にも多くの道成寺物があり、文学のみならず演劇にも影響が大きい。道成寺には、室町時代写の原本があり、その摸本で絵解きが行われてきた。道成寺本と本書は、字体まで似せて作られている。絵巻の場合、江戸時代中期まで、字体まで模写する行為はほとんど行われていないことから、本書はそれ以降の模写の可能性もある。
(「物語絵 ―奈良絵本と絵巻に見る古人のこころ―」展 図録解説より)

この動画は2013年の展覧会「信仰と美術Ⅰ」海の見える杜美術館展示会場で使用しました。

うみひこ

 

竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4

大正7年(1918)、黒田天外(譲)は、長らく秘蔵してきた栖鳳渡欧時の手紙を冊子に仕立て『西遊鴻爪帖』と名付けました。その跋文には、手紙の由来や新聞に掲載した経緯などのほか、長尾雨山に句を、内藤虎南に題箋を、竹内栖鳳に箱書きを書いてもらって、ついに「天下至宝」となったと認められています。

間もなく天外は亡くなり、遺言によって、この書簡集は南市田家へ分与されたようです。その後の事はつまびらかではありませんが、途中、林道具店の手を経るなどして、現在は海の見える杜美術館で「天下至宝」として、大切に保管されています。

外箱
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (4)

外箱に貼られた林道具店の紙
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (5)

中箱  箱書き 竹内栖鳳「西遊鴻爪帖」
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (6)

中箱蓋裏の栖鳳のサイン 「栖鳳題」
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (9)

中箱を保護する紙蓋の裏側
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (7)

20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (8)
「宗秀信士遺言により遺物として南市田家へ贈らる 大正八年十一月十五日」

黒田天外(譲)の生没年は寡聞にして特定できていなかったのですが、慶應2年(1866)生まれで記者を30年ほど勤めたとの伝聞や、大正7年夏を最後に活動記録が見当たらないこと、そしてこの一文などを鑑みて、天外は大正8年前半ごろ天寿を全うし、宗秀信士という戒名がつけられたと推察しました。

表紙  題箋 内藤虎南「西遊鴻爪帖」

句 長尾雨山「乾坤萬里眼」(杜甫「春日江村五首其一」)

跋 黒田天外(譲)

跋文の下書き
20160321 竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 4 (10)

 

竹内栖鳳《港頭春色図》にまつわる周辺を、史料整理の現場から紹介するこのシリーズは、これでひとまず終わりです。

さち

竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外の手紙×コレクター光村利藻 3

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (1)

竹内栖鳳《港頭春色図》明治38年(1905年) 42歳頃

《港頭春色図》に関する資料があと2つあります。

ひとつは、このシリーズのブログ1で紹介した、黒田天外宛の手紙に記された、香港の風景に感銘を受けて書いた文章「香港は中々の勝地、輻輳せる船舶支那船多く、其構造支那画に多く見る処、芥子園画伝にも有りそうなり。船夫は男女とも共同服装にして、中には老婆の子を背負いつゝ櫓を押し居候。大船には一家族住い居」です。まるでこの作品を説明しているかのようです。

もうひとつは、竹内栖鳳が収集した資料の中に保存されているこの写真です。

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (4)1892 Rayons du soir, port de Camaretde Cottet Charles

竹内栖鳳旧蔵資料より コッテ《カマレの港》(※)

集合する帆船や手漕ぎのボートほか、港の日常風景を絵画作品として成立させているところが目を引きます。

栖鳳は、ヨーロッパの絵画を徹底的に研究し、新たな領域の作品に仕上げただけではなく、特定の西洋画をリスペクトしたと思われる作品もたくさんあります。例えば、渡欧中に面会したフランスの画家ジャン=レオン・ジェローム(Jean-Léon Gérôme, 1824 – 1904)が20代前半に描いた《闘鶏》(Jóvenes griegos presenciando una pelea de gallos (Museo de Orsay, París, 1846.)と、竹内栖鳳の名作《蹴合》などです。ぜひ比較してみて下さい。

栖鳳は文字に残した感興は必ずと言っていいほど実現する作家です。そして光村利藻は画家に注文を付けずに好きな絵を思う存分に描かせてくれるコレクターです。栖鳳は、利藻から後世に残す絵を12点描くように依頼を受けたとき、つねづね、西洋画に対抗する東洋画を築きたいと言っていた、その心意気がふつふつとわき上がり、これまで蓄えた東洋美術に対する深い造形、中国の港の風景を初めて直接目にした時の震えるほどの感動、帆船を描いた西洋画に触れたときのひらめき、心に秘めていたいろいろなイメージを昇華させて生まれたのがこの作品なのだろうか、などと、想像をたくましくしてしまいます。(もちろん、この《港頭春色図》が光村利藻のコレクション《泊舟の図》と同定できていませんが・・・。)

竹内栖鳳《港頭春色図》(部分) 明治38年(1905年) 42歳頃

竹内栖鳳《港頭春色図》(部分) 明治38年(1905年) 42歳頃

 

 この絵には、じつに栖鳳らしい自在な工夫がいたるところにあります。パッと見たところでは船上生活を描いた単なる風俗画に見えますが、画中すべての人々に穏やかな空気を漂わせて、幸せな生活を願う中国の伝統的な画題『漁楽図』をふまえた吉祥画に仕立てています。奥の方はモノクロームに近くは色を入れて遠近感を出し、黒墨ではなくセピア色で線を引いてこれまでの日本画にはない暖かい画面にしています。大雑把に描きつつ構造やディティールの表現はじつに緻密で写実的です。密集する船に動きや静止を与えたのは、コッテ作《カマレの港》を参考にしているようです。(「表紙作品紹介」 季刊誌『プロムナード』海の見える杜美術館 2016年春号)

 

つづく

 


竹内栖鳳は無数の絵画資料を収集し、分類保管していた。そのうちの1枚。

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (5)1892 Rayons du soir, port de Camaretde Cottet Charles
台紙に張られた写真

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (6)
表には印「竹内図書」

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (7)
裏にはシール「No.189 絵」

20160303 竹内栖鳳《港頭春色図》黒田天外宛の手紙コレクター光村利藻 3 (3)
写真左下に「2324 Musee Du Luxembourg Le Port de Camaret. Cottet」。リュクサンブール美術館のコッテ作《カマレの港》と記されている。写真とネット上の画像を比較する限り、現在、オルセー美術館の公式ページに所蔵品として紹介されているCharles Cottet (1865-1925)《Rayons du soir, port de Camaretde》 1892 と同一のように思える。所蔵館には未確認。

 

さち

竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外の手紙×コレクター光村利藻 2

光村利藻(1877-1955 明治-昭和時代前期の実業家)という大コレクターをご存知でしょうか。竹内栖鳳の作品を600点以上収集していて、その中には、日本美術の中にローマの遺跡を出現させた記念碑的名作《羅馬古城図》(※1)や、当時の日本人が見たことのなかったライオンをリアルに描いて世間を大いに驚かせた《獅子図》(※2)を始め、《蕭条》(※3)、《平軍驚水禽図》(※4)など数々の名品が含まれていたことが伝記に記されています。(増尾信之『光村利藻伝』非売品 光村利之 1964)


20160302『光村利藻伝』243-244頁
『光村利藻伝』243-244頁

 

1906年頃、光村利藻は後世に名品を残すことを目的として、竹内栖鳳に12点の作品制作を依頼し、《盛夏午後の図》、《悲愁図》、《泊舟の図》、《山桜》、《獅子の図》の5点が制作されたところで、経済的な破たんにより、計画は頓挫しました。

20160302『光村利藻伝』242-243頁
『光村利藻伝』242-243頁

 

『光村利藻伝』に記された《泊舟の図》の項を読んだ時、思わず当館所蔵の《港頭春色図》を連想しました。「上海付近の河辺の風景で、大河に碇泊している大きな船のまわりにジャンクが密集している風景で、当時の ― 清朝末期の水辺のシナ人の生活状態を描いたもの。」この説明が当館の作品と符合するのです。

竹内栖鳳《港頭春色図》明治38年(1905年 42歳)頃

そして、制作時期や寸法を確認してみると、ほぼ重なることがわかります。

《泊舟の図》
制作時期:1906年頃(伝記制作時の記憶)
寸法:縦約6尺、幅2尺5寸

《港頭春色図》
制作時期:1905年頃(署名落款から推定)
寸法:縦152.8㎝、横71.6㎝
(縦6尺、横2尺5寸と言われる栖鳳作品の実寸はこのぐらいの寸法が多い)

なにより、《港頭春色図》以外に、これらの条件(1906年頃、縦6尺、幅2尺5寸の大きさで描かれた、上海付近の河辺の風景)にあてはまる栖鳳の作品を見たことがありません。

海の見える杜美術館が所蔵する《港頭春色図》は、光村利藻が収集した《泊舟の図》なのでしょうか。作品の他の情報を見てみましょう。

 

《港頭春色図》を入れている箱のふたには、竹内栖鳳直筆の箱書きがあります。

20160302竹内栖鳳 港頭春色図 箱書き (1)                        20160302竹内栖鳳 港頭春色図 箱書き (2)

作品の箱ふたの表   ふたの裏側
「港頭春色図」   「明治庚戌春三月栖鳳題于耕漁荘」

 

「明治庚戌春三月栖鳳題于耕漁荘」は、明治の庚戌の年、つまり1910年の春3月に、耕漁荘(栖鳳の家・アトリエ)にて、栖鳳が箱に題を書いたことを示しています。

この年は、奇しくも、経営に失敗した利藻が再起をかけて、小さな印刷所を立ち上げた1910年と一致します。『光村利藻伝』は、「利藻の経済的な危機を栖鳳は絵を描いて、金に替え援助したことも一再ならずあった」と言います。もしかしたら、利藻が作品を手放すときに、作品が少しでも高く売れるよう、栖鳳が箱書きを買って出て、「港頭春色図」と命名したのではないか、そんなことも考えることができます。それとも伝記に記された《泊舟の図》と海の見える杜美術館所蔵の《港頭春色図》は全く別物なのでしょうか。これらの関係をはっきりさせる資料はまだ見つかっていません。

つづく

※1 現在、海の見える杜美術館蔵 《羅馬之図》
※2 現在、この作品は未確認
※3 現在、京都国立近代美術館蔵 《蕭条》
※4 現在、東京国立博物館蔵 《富士川大勝図》

さち

竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 1

竹内栖鳳は、パリで開催されている万国博覧会を視察するために、1900年8月1日、神戸港から日本郵船若狭丸に乗船して渡欧しました(*)。9月17日にフランスのマルセイユ港に着くまでの約1か月半の船旅の途中、たくさんの手紙を日本の知人に送りました。

 

  • 黒田天外(譲)宛の手紙

そのなかの一つ、黒田天外(京都日出新聞記者)にあてた手紙に、このようなものがあります。

拝啓 いよいよ御清栄賀し奉り候 (中略) 香港までの事は申上べき事とては無し (中略) 香港は中々の勝地、輻輳せる船舶支那船多く、其構造支那画に多く見る処、芥子園画伝にも有りそうなり。船夫は男女とも共同服装にして、中には老婆の子を背負いつゝ櫓を押し居候。大船には一家族住い居、何事も便し居る様と来居候。洋画家小山正太郎氏も頻りに船の有様色どりなど称賛せり。(後略)
(釈文は筆者が適宜現代の文字、かなづかいに改めた)

 

その続きに、下船して歩き回った香港の様子、香港を出て2日目に遭遇した嵐のことなど書き記しています。

文末には詩を2首

(前略)
瑠璃盆に 銀象眼の浪模様 鉄の船こそ 我が住いなり
ばってらの 底すれすれに 月見かな
八月十四日
黒田天外大兄
若狭丸船中 竹内棲鳳
(釈文は筆者が適宜現代の文字、かなづかいに改めた)

そして別紙にスケッチを一つ付けました。

さて、8月14日に記したこの手紙がどういう経路をたどったかを追ってみましょう。
8月15日に封筒にいれたようです。表書きの自分の名前の後に日付が記されています。

その後の行方を、封筒の消印で追うと


翌8月16日、シンガポールのタンジョン・パガー(TANJONG PAGAR)郵便局で投函され、



同日午後1時45分、シンガポールの本局に届き、


8月23日、香港の郵便局を経由し、


8月31日、日本の神戸郵便局に届いています。

8月31日(金)、あるいは9月1日(土)には、宛先の
「大日本京都 三条通東洞院 日出新聞社 黒田天外」
に届いたはずです。

天外は、手紙の文面そのままに、日出新聞に掲載する事にして、すぐに原稿作成にとりかかりました。手紙に添えられたスケッチは、新聞用の版下にするために、栖鳳の高弟、西山翠嶂に臨模を依頼しました。

そして、9月4日(火)の日出新聞に掲載され、多くの人たちが、竹内棲鳳の渡欧中の生の声を知ることになりました。
当時の人は結構リアルタイムで栖鳳の見たものを共有できていたのですね。

20160301竹内栖鳳《港頭春色図》×黒田天外宛の手紙×コレクター光村利藻 1 (6)

日出新聞 明治33(1900)年9月4日

新聞の日付欄が空白になっているのは愛嬌ですね。発行日が4日であることは前後の新聞で確認しました。

* 丹波丸と記された文献もありますが、誤りです。丹波丸に乗船したのは帰国の時。

つづく

さち

(本稿に使用した史料はすべて、海の見える杜美術館所蔵)