当館所蔵の《道成寺縁起絵巻》が紹介されました

和歌山県立博物館で11月26日まで開催されていた特別展「道成寺と日高川−道成寺縁起と流域の宗教文化−」展で、当館所蔵の《道成寺縁起絵巻》がパネル展示で紹介され、制作時期についての見解が示されましたのでご紹介いたします。

*展覧会については和歌山県立博物館のページを御覧ください。

http://www.hakubutu.wakayama-c.ed.jp/dojoji/frameset.htm

*見所を紹介した動画も。

https://www.youtube.com/watch?time_continue=82&v=lwMXhLu9jlQ

 

「道成寺と日高川」展の見所のひとつは、修理を終えた和歌山県・天音山道成寺所蔵《道成寺縁起》(2巻、重要文化財)の全巻全場面が公開されたことです。この絵巻は室町時代後期、16世紀に描かれたもので、下巻巻末には、室町将軍足利義昭(1537〜97)の花押と、天正元年(1573)に義昭がこの絵巻を拝見し「日本無双之縁起」と賞したことが書かれた紙が貼り継がれています。物語のあらすじは次のとおりです。

熊野参詣の美しい僧が、宿を借りた家の女に見初められるが、修行中の身であったので嘘をついて立ち去る。その嘘に気づいた女は僧を追い、怒りのあまり徐々に蛇(絵巻には龍の姿で描かれます)に姿を変えていく。恐れて逃げる僧は日高川を渡って道成寺の鐘に逃げ込むが、ついには鐘に巻き付いた蛇に鐘ごと焼き尽くされてしまう。道成寺の僧たちは二人の法華経供養を行い、女は忉利天、僧は兜率天へのぼった。

これと同様の物語は、古くは平安時代、11世紀の仏教説話集『本朝法華験記』に見られ、古くから親しまれた物語でした。後に安珍・清姫の物語として人々に知られ、道成寺縁起または日高川草紙の名で絵巻として制作されると同時に、能や歌舞伎など芸能の題材ともなりました。

 

今回展示された道成寺所蔵《道成寺縁起》では、美男の僧に恋をした女性が取り乱し、傷つき、怒り、みるみるうちに形相を変えて毒蛇となっていく様子が、横に長く展開する絵巻ならではの画面に巧みに表現されています。道成寺では現在にいたるまで、観衆の前で絵巻を繰り広げ、口頭で物語を語り、仏の教えを説く絵解きが行われています。また、この絵解きに使われた室町本のコピーが多数伝えられています(道成寺のホームページに、わかりやすく絵巻を拝見できる「絵とき体験ページ」がありますので、ぜひご覧になってみてください)。

 

さて、当館所蔵の《道成寺縁起絵巻》2巻(以下、海杜本と呼びます)は、実はこの室町時代の道成寺所蔵《道成寺縁起》(以下、室町本と呼びます)と構図、人物の顔の表現、また詞書の書体や字配りにいたるまで、実にそっくりなのです。では海杜本は室町本とどのような関係にあるのでしょうか?

頭を蛇と化し追う女と逃げる僧

頭を蛇と化し追う女と逃げる僧

図1 《道成寺縁起絵巻》上巻部分 海の見える杜美術館所蔵

海杜本の料紙(詞書や絵がかかれた紙)は茶色を帯びて古そうに見え、一見すると室町本とさほど変わらない時期に制作されたようにも思えます。しかしよく見ると、絵の具が剥がれた箇所や、紙の折れ目から白い色が覗きます。どうも、新しい白い紙に古色をつけるため着色したようなのです。紙の状態などからは、海杜本は江戸時代に、オリジナル(原本)である室町本の忠実なコピー(模本)として制作された、と推測できます。

まだ蛇と化す前、僧を訪ね歩く女。女性の着物の赤い色が剥落した部分に、下の白い紙の素地が見えます。

まだ蛇と化す前、僧を訪ね歩く女。女性の着物の赤い色が剥落した部分に、下の白い紙の素地が見えます。

図2 《道成寺縁起絵巻》上巻部分 海の見える杜美術館所蔵

炎を吐く蛇。炎のあたり、画面に横に走るシワの箇所に料紙の白い色が覗きます。

炎を吐く蛇。炎のあたり、画面に横に走るシワの箇所に料紙の白い色が覗きます。

図3 《道成寺縁起絵巻》下巻部分 海の見える杜美術館所蔵

 

しかし、室町本と構図や図様がそっくりな一方で、見比べてみると違いもあります。

主な違いは色の使い方です。例えば室町本上巻に描かれる熊野詣の人々は、参詣者らしく白装束に身を包みますが、海杜本では上衣が緑色だったり、あるいは女性の参詣者の衣の下から赤い下着が覗いたり、色とりどりです。例えば図2の左端の男性も、室町本では全身白装束です。このことは、海杜本が室町本を直接見て写したものではないことを示すのかもしれません。例えば、室町本の忠実な白描(着色していない絵画)の模本をさらにコピーしたもので、その際に色がわからなかったから適宜補った、というような可能性も考えられます。

また、室町本下巻末にある義昭の花押と、義昭が絵巻を拝見した奥書も海杜本には見られません。海杜本を写した人物が、これらを故意に写さなかったのでしょうか?しかし室町将軍が見たというような、絵巻の価値に関わる重要なポイントを果たして見逃すでしょうか? 海杜本には目立った痛みがないため、実際に絵解きに使われたものではないようです。ではどういう目的で、誰が、いつ写したものなのでしょうか?謎は深まるばかりです。

今回、これらの謎を説くヒントのひとつである制作年代の目処を、和歌山県立博物館の大河内智之学芸員が示してくださいました(「資料解説」和歌山県立博物館編『道成寺と日高川−道成寺縁起と流域の宗教文化−』、2017年)。大河内氏によれば、江戸時代も19世紀になると、道成寺縁起絵巻が江戸に取り寄せられることがあり、狩野晴川院養信ら狩野派の絵師が模写を行っています。江戸出開帳(寺院の宝物を他の地に運んで公開すること)も行われ、道成寺縁起絵巻の模写本流通の機会はそれなりにあったようで、海杜本も19世紀頃に写された模本の一例と考えられるとのことです。

 

江戸時代に写された海杜本は、その後明治から大正初期に活躍した政治家・歴史家・ジャーナリストであった、末松謙澄子爵(1855−1920)の所蔵となります。室町時代の人々が作った絵巻が、江戸時代に模写され、明治の子爵の手を経て、現代の我々がそれぞれの時代に思いを馳せる。絵巻の見事な絵や物語だけでなく、人の手によって伝えられる「物」として作品が帯びてきた歴史もまた興味深いものです。

*海杜本下巻を紹介した動画をご覧いただけます。

https://www.youtube.com/watch?v=wAVrwV4y22I

 

会期終わり間際にやっと展示を見に行きましたので、展覧会後のご紹介になってしまったことが残念です…。展示は終わってしまいましたが、詳細な解説と論稿、多数の図版が掲載された充実した図録が発行されています。ご興味ある方はぜひお手にとってみてください。

『道成寺と日高川』展覧会図録表紙

和歌山県立博物館編『道成寺と日高川−道成寺縁起と流域の宗教文化−』、2017年

谷川ゆき