記念講演会「中国版画研究の現在」

5月27日(土)、5月28日(日)、「蘇州版画の光芒 国際都市に華ひらいた民衆芸術」展 記念講演会「中国版画研究の現在」をzoomで開催いたします。国内外10名の研究者による最新の研究が発表される予定です。参加ご希望の方はお名前と所属団体名を書いてprints@umam.jpまでお申し込みください。応募締め切りは5月20日(土)です。

さち

小林梨奈 アコーディオンコンサート!

4月2日にアコーディオン奏者の小林梨奈さんをお迎えして、コンサート
「アコーディオンの音色に乗って世界旅行」を開催いたします。
美術館のロビーに世界各地の名曲が響き渡ります。
14:00~ 15:00~ 各30分 2公演です。

開催中の展覧会は「蘇州版画の光芒 ―国際都市蘇州に華ひらいた民衆芸術-」です。
「蘇州版画」は世界の文化と交わることで豊かな表現を手に入れた芸術ですから、
このように世界の音楽が交差するコンサートとは、文化の国際交流という点において共通性があります。

小林梨奈さんの華麗な演奏、世界の音楽、そして多彩な文化に触れて心地よいひと時をお過ごしください。

#小林梨奈 #アコーディオン #ロビーコンサート #4月2日 #海の見える杜美術館

さち

『國華』1526号は 「特輯 海の見える杜美術館所蔵 蘇州版画」です!

2022年12月20日発売予定の『國華』第1526号は「特輯 海の見える杜美術館所蔵 蘇州版画」です。

この特集号は、上智大学名誉教授の小林宏光氏、元町田市立国際版画三美術館の河野実氏、大和文華館・あべのハルカス美術館の浅野秀剛氏、東京大学の板倉聖哲氏と当館の青木が中心となって発足、運営されてきた中国版画研究会の調査研究活動の成果の一つです。

詳しくは朝日新聞出版のHPをご覧ください。
朝日新聞出版 最新刊行物:雑誌:國華:國華 第1525号 第128編 第4冊 (asahi.com)

またもう一方の成果に2023年3月11日から開催される「蘇州版画の光芒 国際都市に華ひらいた民衆芸術」があります。

ぜひお越しください。

さち

『國華』 KOKKA
第1526号 第128編 第5冊
定価 7000円+税
2022年12月20日発売予定

特輯 海の見える杜美術館所蔵 蘇州版画

<論文>

蘇州版画研究の可能性 姑蘇呂雲臺、呂君翰発行の初期遺存作品から見えること
執筆=小林宏光(上智大学名誉教授)
<解説>

清 三百六十行図・姑蘇閶門図
執筆=小林宏光(上智大学名誉教授)
清 諸国進貢図
執筆=塚本麿充(東京大学)
清・管聯原画 阿房宮図
執筆=青木隆幸(海の見える杜美術館)
清 美人鸚哥図
執筆=青木隆幸(海の見える杜美術館)
清 瑶池献寿図
執筆=青木隆幸(海の見える杜美術館)
清・丁應宗原画 西湖十景図
執筆=板倉聖哲(東京大学)
清・達禮善原画 関夫子像
執筆=浅野秀剛(大和文華館)
清 万事吉兆図
執筆=田辺昌子(千葉市美術館)
<図版>

三百六十行図・姑蘇閶門図
[図版1・2カラー]
広島県 海の見える杜美術館
清・雍正12年(1734) 木版墨摺筆彩 掛幅 2幅
右幅:縦110・4㎝ 横56・0㎝  左幅:縦109.2㎝ 横56・1㎝
諸国進貢図
[図版3・カラー]
広島県 海の見える杜美術館
17世紀 木版多色摺 紙 1枚 縦37.0㎝ 横58.0㎝
管聯原画 阿房宮図
[図版4・カラー]
広島県 海の見える杜美術館
18世紀 木版墨摺 まくり 2枚 各縦60.0㎝ 横35・4㎝
美人鸚哥図
[図版5・カラー]
広島県 海の見える杜美術館
18世紀 木版墨摺筆彩 掛幅 1幅 縦108.2㎝ 横45・0㎝
瑶池献寿図
[図版6・カラー]
広島県 海の見える杜美術館
18世紀 木版墨摺筆彩 掛幅 1幅 縦84・1㎝ 横47・9㎝
丁應宗原画 西湖十景図
[図版7・カラー]
広島県 海の見える杜美術館
18世紀 木版墨摺筆彩 掛幅 1幅 縦106.8㎝ 横57・1㎝
達禮善原画 関夫子像
[図版8・カラー]
広島県 海の見える杜美術館
清・康熙43年(1704)款 石碑拓本 掛幅 1幅 縦109・4㎝ 横65・6㎝
万事吉兆図[図版9・カラー]
広島県 海の見える杜美術館
18世紀 木版墨摺筆彩 掛幅 1幅 縦90・1㎝ 横52・7㎝

國華編輯委員
主幹   佐野みどり
      河野 元昭
      小松 大秀
      島尾 新
      佐藤 康宏
      佐藤 道信
      大久保純一
      奥 健夫
      板倉 聖哲

顧問
      辻 惟雄
      小林 忠

発行
國華社
郵便番号 104-0045
東京都中央区築地 5-3-3 築地浜離宮ビル 3階
電話 03-5550-5015 or 03-5540-7650
ファクシミリ 03-5540-7651

二階堂美術館で竹内栖鳳の名品が公開中!

大分県の二階堂美術館で行われている『竹内栖鳳と京都画壇の画家たち』展には、竹内栖鳳の知られざる作品の数々が展示されています。。

その中に《瓜田・叢竹》六曲一双があります。

筆者は2018年「根津美術館紀要 『此君』 第10号  特集 光村コレクションの諸相」への寄稿(「光村利藻と竹内栖鳳―コレクターと画家の、ある交流の形―」)にあたり、本作品の所在を調べたのですが、つかめないままにいました。

明治の大コレクター光村利藻は、栖鳳が薄墨を何度も何度も塗り重ねて竹を描く様を不思議に見ていると、栖鳳から「これは普通の一筆に一気に描きあげた竹に比べると、手際が悪いように見えますが、画面からやや離れて熟視しますと、竹の幹のまるみが現われて絵に深みがでてきます」と説明を受け「やはり大家となる人は違うな」とつくづく感心したと述べています(増尾信之著『光村利藻伝』光村利之 1964 238頁)。なおその時に描いた絵は「六曲一双のその半双には竹林に雀の群れてさえずっている構図で、別の半双は、南京畑に何か一匹の小さな動物が畑を横切るという構図であった」(同237頁)と記録されているのです。その記録に対応する作品を探したのですが、1910年(明治43)に京都美術倶楽部で神戸某氏所蔵品として出品された屏風(明治43年4月4日「『神戸某氏所蔵品入札目録』 143番 栖鳳金地竹ニ雀 瓜ニ鼬屏風 一双」)の画像を見つけることができたものの、その実物の所在はわからないままでした。

竹内栖鳳 光村利藻

このような荒い画像では竹が「薄墨を何度も何度も塗り重ねて」描かれているのか、はっきりとはわかりません。

また、「大体南瓜畑は描き終わって、その小動物も地塗りをして、絵の具の乾くのを待っていた。栖鳳が絵を描いているあいだ、豆千代(栖鳳が絵を描いていた光村利藻の別荘に招かれていた芸妓)が後ろに座って団扇で風を送っていた。栖鳳は突然豆千代に「これは何に見えますか」と質問した。豆千代は、かたちは「いたち」に似ているが「いたち」は肉食動物だから畑は荒らさない、「貂」は南瓜や柿などを好むというし「南瓜に貂」という画題も見たことがある。「これは貂ではございませんでしょうか」と答えたところ、栖鳳が頻りに褒め上げた(同238頁)」という逸話が残っています。が、これについても何の小動物であるかを見極めることができなかったのです。

竹内栖鳳 瓜田(六曲一双)右-2 二階堂美術館蔵

竹内栖鳳 叢竹(六曲一双)左-2 二階堂美術館蔵

竹内栖鳳 《瓜田・叢竹》六曲一双 二階堂美術館蔵

このたび、二階堂美術館さまが当館のインスタグラムに「いいね」をしてくださったご縁で、筆者は二階堂美術館さまのインスタグラム、そしてホームページで本作品が公開されていることを知りご連絡差し上げたところ、館長代理 佐藤直司さま、学芸部長 古賀道夫さま、学芸員 工藤美貴代さまほかスタッフのみなさまにご対応いただき、ブログにカラーで写真を掲載させていただくことができました。ご多用のなか、ご配慮いただきましたことに厚く感謝申し上げます。

展覧会には《熱帯風光》二曲一隻ほか多くの名品が出品されているようです。

実は私もまだ訪問できていないのですが、この機会にぜひ実物を直接目にしたいものです。

コレクション展4
『竹内栖鳳と京都画壇の画家たち』
会 期 / 令和3年2月10日(水)~4月11日(日)
会 場 / 公益財団法人二階堂美術館
主 催 / 公益財団法人二階堂美術館
後 援 / 大分合同新聞社

青木隆幸

西郷隆盛、薩軍を連れて鹿児島へ

20180827 128 暴徒突出軍議図128.楊洲周延《暴徒突出軍議図》大判錦絵3枚続 1877年(明治10)

8月16日から17日にかけて開かれた薩軍の会議の様子が描かれています。しかし、すでに死亡した人物や、参加が疑問視される女性達、そしてボタンやキキョウなど花々が美しく描かれていることなどを見ると、史実を描くより軍議の様を劇的に美しく描くことに重点がおかれているようです。

この会議では、薩軍の今後について、官軍に降伏するか、決戦するか、あるいは鹿児島に戻るか、議論が紛糾してなかなか決まらず、最後はこれまで黙っていた西郷の発言によって、まずは可愛岳の政府軍を撃つことに決まったようです。

そして可愛岳を突破した西郷軍は、逡巡するも鹿児島に戻ることを決め、政府軍と戦いながら南進し、9月1日、ついに鹿児島に戻りました。

およそ140年前の今頃、西郷隆盛は、敗戦濃厚な軍隊を引き連れて、故郷に戻るべく日夜戦っていたのですね。

この作品は現在開催中の展覧会「西南戦争浮世絵 ―さようなら、西郷どん―」で展示しています。(10月14日まで)

※作品名に記された番号は、このたびの展覧会に合わせて発行された「資料集 西南戦争浮世絵」2018と連動しています。

さち

青木隆幸

(文章の翻刻)
猛勇天下に轟きし鹿
児しま県下の暴徒らも
いかでか官軍に敵すべき
根拠とせし都の城◌人
吉◌延岡をも攻をとさ
れ十重二十重にとり
囲まれ日向の山中ゝ村
にて西郷隆盛は桐野
利秋をはじめ部下の賊
魁をあつめ官軍の囲みを
破つて鹿児しまへ戻るべし
と地図を示して協議せり
篠田仙果(落款)

神奈川県立歴史博物館に行こう!

明治150年記念 真明解・明治美術/増殖するニューメディア
―神奈川県立博物館50年の精華―

20180825神奈川県立歴史博物館提供 (3)
展示室内は撮影禁止、データ提供神奈川県立歴史博物館

行ってきました。

なんという労作でしょうか。

“明治とは何か”、”美術とは何か”、表象的な美術品ではなく、明治という時代相の中から抽出した”美”の集積で観覧者に問いかけてきます。

また図録には、展覧会場では表現されていない青木茂氏へのインタビュー「木茂翁 かく語りき ―明治美術研究のこしかた-」が掲載されています。珠玉の一篇です。

20180825神奈川県立歴史博物館提供 (1)
展示室内は撮影禁止、データ提供神奈川県立歴史博物館

残念ながら私の筆力ではこの展覧会の魅力を表現することができませんが、美術の流れをわかりやすくなぞる展覧会を散見する昨今において、逆走する、あるいは挑戦的といえるような複層的なアプローチがされています。それでいて、独りよがりに陥らず、積み重ねられてきた先人の研究に対する敬畏の上に、担当学芸員の情熱を添えて、明治時代の人々を取り巻く美術の様相を見事に表現した、見ごたえある展覧会でした。

20180825神奈川県立歴史博物館提供 (2)
展示室内は撮影禁止、データ提供神奈川県立歴史博物館

担当学芸員の角田拓朗氏は、同展図録の総論「明治美術随想―共鳴・混交・離反―」の文末で語りかけます。「平成の終わりに、明治と、美術のこしかたと、モノづくりのこれからと、博物館の未来に思いを馳せてみてはいかがだろうか。」

わかった。そうしよう。

さち

 

西南戦争 女軍隊の活躍

女軍隊は史実としては確認できないのですが、西南戦争浮世絵には、女軍隊の活躍を描いたものが数多く存在し、そのうちの大部分は錦絵新聞として発行されています。

20180818 230 鹿児嶋征討紀聞
230.楊洲周延《鹿児嶋征討紀聞》大判錦絵3枚続 1887年(明治10)

20180818 228 薩州鹿児嶋征討記之内 賊徒之女隊勇戦之図
228.月岡芳年《薩州鹿児島征討記之内 賊徒之女隊勇戦之図》大判錦絵3枚続 1887年(明治10)

20180818 232 鹿児島戦争記聞
232.楊洲周延《鹿児嶋戦争記聞》大判錦絵3枚続 1887年(明治10)

230番(※)には、鹿児嶋の錦江湾で官軍の軍艦を攻撃する女性たちが描かれています。228番は桜吹雪の中で、232番はヤマツツジが咲き乱れる中で薩摩の女性兵士たちが薙刀を振るって官軍と戦っています。

現在開催中の展覧会「西南戦争浮世絵 ―さようなら、西郷どん―」で展示しています。(10月14日まで)

※番号は、このたびの展覧会に合わせて発行された「資料集 西南戦争浮世絵」2018と連動しています。

さち

西南戦争 官軍、降参を呼びかける

20180814西南戦争官軍広告 UMAM
「官軍に降参する者はころざず 明治十年六月 官軍先鋒本営」

6月1日、薩軍の本営がおかれた人吉が陥落しました。その後にまかれたビラのようです。

現在開催中の「西南戦争浮世絵 -さようなら、西郷どん-」に出品されています。およそ100点ある出品作品中、本作品(ビラ)は唯一、実際の戦争に利用されたリアルな歴史史料として異彩を放っています。

 

そして今、ウッドワン美術館で開催中の「アートの世界を探検しよう!~鑑賞入門第10弾~」にて、同館所蔵の高橋由一《官軍が火を人吉に放つ図》が展示されています。

20180814 高橋由一《官軍が火を人吉に放つ図》 (1)
高橋由一 《官軍が火を人吉に放つ図》 1877(明治10)年 油彩・カンヴァス ウッドワン美術館蔵

当館で展示している西南戦争浮世絵は、絵師が現地を見ずに想像で描いたものですが、この作品は、官軍が人吉に陣取る薩軍を追い込む場面を、実際に現地を取材したスケッチを元に描いたようです。このような絵はとても珍しいのではないでしょうか。ウッドワン美術館は当館から車でおよそ1時間、山深くとても涼しい場所にありますので、ぜひご一緒にお楽しみください。

さち

青木隆幸

7月31日の火星大接近と西郷星

7月31日、地球に火星が大接近します。

この稀な自然現象に際し、NHKの科学文化部より、1877年に火星が大接近したときの民衆の反応や、その火星が西郷星として描かれた浮世絵について取材を受けました。

西南戦争が戦われた1877年、火星は地球に大接近し、8月上旬から目立ちはじめ、最接近は9月3日、今年の大接近と近い距離5,630万kmまで近づき、光度-2.5等あまりに輝いたそうです。

同じころ、西郷は死を迎えようとしていました。九州各地を転戦したのち鹿児島に戻って城山に立てこもったのが9月1日、そして9月24日に死を迎えます。

火星の輝きと衰退のタイミングが、西南戦争の終焉、つまり西郷の死と関連付けられて考えられたのでしょうか、8月から10月にかけて、さまざまに西郷と火星の関係が報じられました。下の作品の文章の翻刻を参照してください。

7月31日(火)夜9時、NHK「ニュースウォッチ9」の番組の中で、火星大接近について特集が組まれ、当館所蔵の浮世絵が紹介されるかもしれません。まだ未定のようですが放映を楽しみにしたいと思います。(一応このような内容であれば、皆様に事前に紹介しても良いと許可を得ました)

なお、このたび紹介する西郷星に関係する浮世絵は、すべて現在行われている展覧会「西南戦争浮世絵 -さようなら、西郷どん-」(10月14日まで開催)にて公開しています。また、当館が所蔵する西南戦争関係の浮世絵約300点を収録した『資料集 西南戦争浮世絵』(海の見える杜美術館 2018)中にも、大きなカラー画像を掲載し、画中の文字も翻刻しています。

※(文章の翻刻)の中の「〳〵」は繰り返し記号「〱」のこと

20180828鹿児島征討記之内楊洲周延 UMAM
鹿児嶋征討記之内

鹿児嶋征討記之内
大判錦絵三枚続
楊洲斎周延(楊洲周延)画
彫工秀勝刻
筆者未詳
船津忠次郎出版
明治十年八月届出
右 三七・〇×二四・九センチ
中 三七・二×二四・九センチ
左 三七・二×二五・〇センチ

(文章の翻刻)
于時明治十年八月
初旬巽の方に当り金
色の星夜九時頃より出
現す往古より治乱の際
必す天変ありと然るに
今薩州鹿児島の賊
平定ならざるの時なれば
世上誰言ふとなく
此星をよび唱へて
西郷星いふ

 

20180828 奇星之実説 楊洲周延 UMAM
奇星之実説

奇星之実説 西郷隆盛
大判錦絵
楊洲斎周延(楊洲周延)画
彫秀勝刻
笠亭主人篠田仙果筆
松下平兵衛出版
明治十年八月三十日届出
三七・九×二五・五センチ

(文章の翻刻)
西郷隆盛

時に明治十年八月上旬より/東の方の空にあたり夜な〳〵/その色紅の如き大ひなる星出現/せり人々めづらしと云ほどに何者/か臆説をなして曰く薩賊の惣/長西郷吉之助が陸軍の官服/を着せし如くに見ゆるなどとあら/れぬ事どもを言ふらせり然るに/東京大学理学部の学士ピー。ウィ/ー。ウィーダル氏の説にいはく「そも/此星は火星といふて遊星なりされば/本年は火星が太陽と地球とに最とも/近く寄たれば大きくも見えまた赤き色/も増たるなり色の赤きは火星の証こなり既に/今より百五十年前この星現われたる時西洋に/ても新星なりと思ひ種々の説を立その/後七十九年目にあらわれし節も兵乱/のまさに起らんとする凶兆ならんなどゝ/風説せり〔世に此ほしを熒惑星とも云〕また/案ずるに此火星は二ヶ年五十日目ごとに大陽/に近づく事あれど地球は反つて大陽ともつとも/
遠くはなるゝ物なれば見へざる之より今より七十年の/後明治八十九年には本年の如く現はれべしと記られたり

笠亭主人篠田仙果録

20180828最期星 歌川芳虎 UMAM
最期星

【絵入新聞の投書】最期星
大判錦絵
永島孟斎(歌川芳虎)画
彫師未詳
筆者未詳
倉田太助出版
明治十年九月二十日届出
三七・一×二五・三センチ

(文章の翻刻)
再度鹿児島地方に金光を/現じて火星の様に暴星を/たくましう為共近きに/全く其光りを/失なひ山間/を夜這星と/なれは賊魁の/首を功星に/して/天道星の如く/大道へ/曝す/時は世の/中もブンド/
宵の明星と/なるべし

刀屋

このほしのおかけてはいとう以来ほとんと/はいふつと為ひきつてしまいこんだかたなも/いちじはねがはへてとんだやうすはありがたいか/二そく三文のやすねにはかんしん/しないて

かうしやくし
てんべんちいと/いつてなんねんにはこう/いふほしがでゝいくつきを/へてきへるといふとはしれては/いるものゝさいかうぼしと/なをつけたのはおもしろいて/わがしやちうにもこのほしの/ためにたすけられし/ものもなきにしも/あらずだ

小□□や
どうかこのほしがきへて/よのなかがおだやかに/したいものだしろものゝ/うれないにはまことに/きようしゆく

かしざしき
こんどのさはぎはさておいてこのはるの/
くしよの大ぢしんこのかたこないもさびしく/たちいきのかなはね□このあいだはねづみ/たいがきましたゆへすこしはいきをついたが/かごしまの大じけんよりがつたりおちで/大ふさぎのそゝだれなら/いゝがよだれでくまりました

20180828西郷星地落人民之口 UMAM
西郷星地落人民之口

西郷星地落人民之口
大判錦絵三枚続
早川松山画
彫師未詳
筆者未詳
門戸松蔵出版
明治十年十月三日届出
右 三六・九×二四・八センチ
中 三六・八×二五・四センチ
左 三六・九×二四・八センチ

(文章の翻刻)
楠正成星
「よくきけよ西郷吉之助御身は
わかいじぶんから 天朝をおもひ
忠義無二にてみなかんしんせぬ
ものなくことに正三位までにいたり
われ〳〵はじめよろこび 勤王一等
なりとおもひのほかこのたびの
ぼうきよはなにごとぞいくさは
われ〳〵よりかうはあれどぞくの
名義は万世までのこるはあゝ
□磨呂君かなしい〳〵

おいらん
「あゝいそが
しいこと〳〵一とばんに二十
人ぐらいのまはしちよつ巡査のり
御方なら日夜はおろかねるめも
ねずにおかねほしきにくがいもいとひま
せんしかしいくさがおさまれはみなはんが
おくにへおかへりなんすのでこゝろぼそい
いくさがどん〳〵あればいゝんでありんす

小ぞう
「いくさがもつとあればいゝ店はいそがしいし/ふくはどん〳〵みしんでしたてそのいそ/がしいまぎれにぜにをもらつて使の/たびにかひくひができるこんないゝ事は/あるまいがあゝ小ぞうみやうりが/つきたのかどうぞいくさの/あるやうにしておくれ

山師
「西郷さんもつとがまんしていくさを
やつてくださればいゝのにこゝが
かんじんさうばがさがると
たいへん〳〵しんだいかぎりを
してもいおかはりねへえゝえゝ
ざんねん〳〵

こんさい
「西郷大明神さい〳〵これほどのねかひし
ますいくさがながくだんなはうちじにを
なさったらかわいゝ男とそひ
ぶしをしてきたいおかねはもち
ろんそうなりますればかねの
とりいおっとわたしはうそつきで
とりいがありません
かねかしにでもなり
ませう

たんと諸々人
「このあいだうちのいそ
がしさおふくろも大きに
よろこんでいたがいくさより
おさまれば
だん〳〵
ひまに
なる
とかな
わぬもうすこし
どん〳〵やって
くだされば
いゝ
のに

はいたつ
「貴社なぞはせんそうからいそがしいこと〳〵/ぼくも月きうがましはいたつはほねが/をれるがいやもうかねがはいるのが/ うれしいなんでも新聞といふからめづらしく/づどんとめさきがかわらなければ/                          いかねへ

清正
「西郷がしろをかこんで
二十四度せめるしのは
らうぜうをしてふせ〳〵は谷君の
はたらきさすが陸軍少将たけ
又一つにはわがはいのきつきし
城はいかゞ西郷氏どうだ
子へえへん

けん下の百姓
「西郷が
わしらのけん下
へおしこんできて
でんぢでんはたはふみ
あらされうちは
やかれてしまひ
ほんにみづ
のみ百せうに
なってしまった
くやしい〳〵

ばゝあ
「おらがたったひとりのまごをかはいゝことゝ/たのしみにしているうちおかみから兵たいに/めされなきのなみだで出たがこんどの/いくさにしんでしまったこれも/
西郷のおかげであるくやしくって/ならぬあゝかなしや〳〵

半将門星
「あらうれしや〳〵よろこ
はしやおとにきこへし
西郷をとふ〳〵ぞくに
引ずりこみうち死を
させたうへからは
身どもゝぞくの名は
こうせいまで〳〵

商人
「わたくしどもはじめしよ商人は
西郷がとんだことをしだした
からあきなひはひまだし
ゆうづうはきかずいやはや
もうよわりきりました
このいくさがながくつゞい
てはひものになるところ
だつた

おつかあ
「ちやんやはやくこないか
西郷ぼしがおちた〳〵うちじにの
とき首がないといふはなしだが
そらの中は大へん〳〵からだが
かくれてくびばかり
みへる

紀友
「おれも九洲ではながく
たゝかひみづ仲はじめなやまし
名を万代にのこしたが
西郷氏にはとても
およ[ ]ん

しいれ画工
「ぼくなんぞはてん〳〵をいふが
人がかくものをもうてこんには
へいこう〳〵家内おほでは
あるしうまい酒一つぱい
のまこともならぬもう
てんぐもよそふえへん〳〵

ねこ
「わたいらもいくさからすこしも
おきやくはなしぜいはおさめ
なくってはならずおっかあ
には小ごとをきくし
こんなばか〳〵しい
事はない

大工
「おれなんざあせんそうこのかた
ひまなこと〳〵火事があつても
たれもふしんはせずいやもう
よわりきったぞぺらんめい

車ひき
「いやもうひまで
〳〵いくさ
からこまり
きる車のはだいはたまるし
おやかたにはせつかれ
がきにはなかれ
このとふり
やせたいま
〳〵しい

 

なお、お雇い外国人エドワード・S・モース(1838-1925)が西郷星(火星)に関する浮世絵が販売されていたときの様子を次のように日記に残している。(※)

一枚の絵は空にかかる星(遊星火星)を示し、その中心に西郷将軍がいる。将軍は反徒の大将であるが、日本人は皆彼を敬愛している。鹿児島が占領された後、彼並に他の士官達はハラキリをした。昨今、一方ならず光り輝く火星の中に、彼がいると信じる者も多い。

※エドワード・シルヴェスター・モース 石川欣一訳「日本その日その日」(科学知識普及会、一九二九年) なお、モースの日記の記述については、第二十回国際浮世絵学会春季大会(二〇一八年六月)研究発表「文化史的側面―西南戦争錦絵及び風刺画の多様性」にて発表者の高橋未来氏(立教大学大学院)が配布した資料から情報を得た。

さち

青木隆幸

 

竹内栖鳳 山本春挙 合作《薔薇と蝶》

明治34年(1901)6月4日、京都市勧業課長大沢芳太郎の家に勧業課書記の岩垣雄次郎、そして洋画家の伊藤快彦と桜井忠剛が集まり、京都大阪の洋画家が結集した団体「関西美術会」を組織することを決めました。それからわずか2週間足らずの6月16日、中沢岩太、大沢芳太郎、金子錦二、桜井忠剛、伊藤快彦、田村宗立、松本硯生、牧野克次、松原三五郎、岩垣雄次郎らが集まって発会式を行い(村上文芽「絵画振興史」『京都日出新聞』1919年8月22日)、この記念すべき発会式の余興としておこなわれた席上揮毫で、日本画家の竹内栖鳳と山本春挙が合作で油彩画の薔薇と蝶を描いて列席の洋画家を驚かせたそうです。(島田康寛「京都の日本画 近代の揺籃」 京都新聞社 1991)

当館には、竹内栖鳳と山本春挙が描いた薔薇と蝶の作品が保管されています。

本作品は油絵の具で描かれており、また裏面には、竹内栖鳳と山元春挙が伊藤快彦宅を訪問したときに描いたことが記されています。

「蝶 竹内栖鳳筆
バラ 山本春挙筆
合作 伊藤快彦宅来訪の砌」

なお、伊藤快彦の孫伊藤快忠氏に筆者が直接たずねたところ、裏面の字は伊藤快彦本人の筆によるもので間違いないとのことでした。

「伊藤快彦宅来訪の砌」は何を意味しているのでしょうか。本作は「席上揮毫」の時に描かれたものなのか、もう少し検討が必要かもしれません。

いずれにしても、日本画家竹内栖鳳と山本春挙は油彩画を熱心に研究していたことは間違いありません。竹内栖鳳は、この関西美術会第1回展覧会に油彩画《スエズ景色》を出品しています。

竹内栖鳳《スエズ景色》油彩画1901

ところで、栖鳳の師、幸野楳嶺もまた油彩画を描いていた記録を見ておきましょう。

美術評論家の豊田豊氏は竹内栖鳳の談話としてこのように記録しています。

「師幸野楳嶺が洋画に手を着けたことは事実であって、現にその洋画の遺品が嵯峨の楳嶺碑の建てられてある箇所に保置されていたのであるが、数年前の火災はその保存の堂を焼却し去り同時に楳嶺翁の希類の遺作品をも、一片の灰となって飛散させてしまった。その作品は西洋人の娘を描いた肖像画で、その顔の長い描き方に特徴が見出された。楳嶺翁をはじめ、幾多の日本画家が、当時の洋画熱に麻痺され、同時に生存のための余儀ない必然のために拙いパレットの技に焦ったことは、今から思えばかなり異変な現象であった。」(豊田豊「洋畫今昔記―明治、大正洋畫界異聞録―」『美之国』3巻6号1927年8月)―適宜常用漢字に改めました。

幕末から明治、欧化政策の只中に翻弄された画家たち。そして明治から大正、昭和へと、日本が国際社会の中で自歩を築き、東洋を主張する時代に生きた画家たち。それぞれが残した作品もさることながら、西洋画に対峙する姿勢にも興味がつきません。

そしてまた、知られざる画家の学習の軌跡からも目が離せません。幸野楳嶺が運営していた私塾の資料「倭 第十九号之内 第一号 寿像肖像類」には、このようなスケッチが遺されています。

海の見える杜美術館 幸野楳嶺資料 幸野私塾印 UMAM 

さち

青木隆幸