第18回 香水散歩 特別展 ミイラ「永遠の命」を求めて展

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国立科学博物館、東京・上野

こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。ようやく緊急事態宣言が全国的に解除となり、各地の美術館も再開し始めましたね。今年はこれから、どのような展覧会鑑賞のご予定がおありでしょうか?なかにはおそらく、約1年半をかけて全国を巡回する話題の展覧会「ミイラ――永遠の命を求めて展」がそのご予定におありの方もおいでのことでしょう。そこで、いち早く国立科学博物館での東京展に足を運びましたので、今回はこの展覧会を取り上げたいと思います。

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ところで、ミイラ……実は香水の歴史に深い関心を抱くようになるまでは、率直に申しまして苦手でした。思い起こせば今から四半世紀前、実物との最初の遭遇は、期せずしてやってまいりました。

フランス・ノルマンディ地方の古都ルーアンを訪れたときのこと、この町を特徴づける半木骨造の建物で囲まれた、美しい中庭に行き当たりました。現在、美術学校となっているその場所は、その昔、ペストがこの町を襲った際に病院と納骨堂となったところです。1348年の大流行時には、なんと住民の4分の3もの人々が命を落としたといわれています。その歴史を雄弁に語るかのように、建物の柱には髑髏の彫刻が施され、ペスト患者や彼らの治療に懸命にあたった人々が心の慰めとしたような木立が中庭の中央にありました。

木々の葉を優しく震わす風のそよぎと鳥の歌声だけが響く、静寂に包まれた中庭に立って、建物をじっくり眺めていると、壁になにやら、茶色っぽいしわの寄った塊が埋め込まれています。「あら、これは何かしら?」と至近距離まで寄って見てはっと致しました。「こ、こ、これはきっと……ミイラァァッ!!」とわかるや否や、声にならない悲鳴を上げて、その場を一目散に立ち去ったのはいうまでもありません。

後で調べてみると、それはまさしく猫のミイラでした。当時、黒い猫は、悪魔の化身と考えられていたため、あの猫はペストをもたらす悪魔退散のための生贄であったといわれています。

なぜあのとき、ミイラは私に恐怖をもたらしたのでしょうか? 今にして思えば、それはミイラについて知識が乏しかったからだと思います。黒ずんで骨と皮になったり、しわくちゃになったりしている姿だけでも衝撃的ですのに、その上、生前の実体がまだ残っており、単なる物体になったわけではないかのようで――つまり、生とも死ともいえない状態を目の当たりにしたかのように思えて、ひたすら恐ろしかったのです。

その後、とりたててミイラを求めたわけでは決してないのですが(むしろ全く望んでいなかった)、様々な時代や地域のミイラを見る機会が多々ありました。ただし、それらはすべて博物館内の「ミイラ」展示室や「古代」展示室等でしたので、最初の遭遇とは異なり、心の準備をした上での対面でした。しかも、そこでの解説が、未知なるものへの私の恐怖を少しずつ取り去ってくれました。

香りに興味を持つようになると、むしろミイラが興味の対象へと変わるまでになりました。というのも、香りの歴史を紐解けば、古代では香りがミイラづくりに欠かせないものであったからです。例えば、エジプトのミイラといえば包帯でぐるぐる巻きにされた姿を思い浮かべる方もいらっしゃると思いますが、あの麻の布は、遺体に巻かれる前に、殺菌や防腐の効果がある芳香性の樹脂に浸したものであったので、よい香りがしたといわれています。また、遺体は放置しておくと、体内の水分によって腐敗が進み、ミイラにはなりません。そこでエジプト人たちは、内臓などを取り出しましたが、その空になった部分にも、樹液のしみ込んだ麻布を何枚も入れましたし、体腔にはハーブの入った袋を詰めました。さらに身体の皮膚にも香りの付いた軟膏などを塗ったといわれています。推論も含めて様々な研究結果を知るにつけ、では一体、エジプトのミイラにはどのような香りが使われたのかしら、ローリエかしら、ユーカリかしら、ユリかしら……、あるいはそもそもどうしてその香りが必要だったのかしら等々、興味が次々と湧いてくるのです。

そのような古代エジプトのミイラへの興味に応えてくれるだけではなく、世界のミイラへの関心をも大いに喚起してくれるのが、今回の「ミイラ」展です。個人的には「大ミイラ展」あるいは「深淵なるミイラの世界展」と呼びたいほど、最新の研究結果とともに、世界各地のミイラ43体が一堂に集められた大規模な展覧会です。

ミイラとひとことで言っても、時代や地域によってその様相や作られた背景が随分と異なります。なんといっても、ミイラにするつもりなど微塵もなかったにもかかわらず、乾燥や泥炭等といった自然環境のもたらす作用で心ならずもミイラになってしまった自然ミイラがある一方、古代エジプトのように複雑な手順を経てミイラとなった人工ミイラがあるのです。その多種多様なことといったら! もちろん私たちにとって馴染み深い(?)、日本のミイラも出品されています。

展覧会は、世界の地域ごとに「南北アメリカのミイラ」「古代エジプトのミイラ」「ヨーロッパのミイラ」「オセアニアと東アジアのミイラ」という4つのセクションから構成されています。

「南北アメリカ」は、世界最古の自然ミイラ(約1万年前、アメリカ合衆国ネバダ州)と人工ミイラ(約7000年前、チリ北部の都市アリカ近辺)を有する地域です。

展示室には、人工ミイラの創始者がエジプト人であるという通説を覆した、南米チリ北部のチンチョーロ族の人工ミイラより、紀元前3200年頃のミイラが展示されていました。顔の部分には目と口がくりぬかれたマスクが付けられているのですが、そのマスクが意外にも、なんとも可愛らしい! いうなれば日本の土面や埴輪を想起させるマスクです。見慣れるようになったエジプトのミイラだけではなく、世界各地の未知なるミイラ展ともなれば、再び恐ろしいミイラに遭遇してしまうのでは……!?という心によぎる一抹の不安を払拭してくれました。ちなみに身体は、内臓や筋肉を取り除いた後に、木材や葦の紐などで形を整え、灰のペーストで肉付けされてるのですが、その仕上がりが、これまた意外にもふっくらしていて、素朴なお人形のようです。表面が黒ずんでいるのも、誰かがこのお人形と遊び過ぎて、すっかり汚してしまったようでさえあります。おかげで、かなり安心させて頂きました。

そのほか、同セクションには、顔部分に刺繍のある袋状になったミイラ「ミイラ包み」(その刺繍も愛嬌たっぷりです!)など、豊かなミイラ文化を伝える品々が展示されています。

ミイラ包みはその愛くるしさゆえ、写真のようなぬいぐるみになってミュージアムショップに並んでいました。↓

IMG_5882ポーチもミイラファンには味わい深いものが……。こちらです ↓IMG_5883

さて、「古代エジプト」では、ミイラや棺はもちろん、小さなお守り類やミイラに添えられた装飾品、ヒエログリフの書かれた麻布などが出品されています。それらは、エジプトのミイラづくりが、エジプトの神話を基にして行われたことを伝えてくれます。エジプトを守る神が不滅であるように、その神の役割を引き継ぐ王、ファラオをはじめとするエジプトの人々が死してなお、生が永続するようにと願ったことが、展示品を通じてより身近に感じられることでしょう。

この展示室には、ミイラづくりに用いられた物質であるサフランや没薬(ミルラ)、瀝青、ナトロン等も出品されています。没薬(ミルラ)は、イエス・キリストが誕生した際に、東方三博士が献上した3つの品のひとつです。ミルラという香りが、異なる宗教において、聖なる存在に捧げられているのは、非常に興味深いですね。

「ミイラ展」は他にも、自然ミイラの一種の湿地遺体や、カナリア諸島原住民の人工ミイラや、聖人の遺体を聖遺物として珍重したキリスト教の信仰を伝える頭骨にユリ十字やバラなどの装飾を施したものや(以上すべて「ヨーロッパのミイラ」)、仏教思想に基づいて瞑想しながら死してミイラとなった日本の即身仏(「オセアニアと東アジアのミイラ」)などが詳しく紹介されています。

なかでももっとも驚かされたのは、江戸時代後期の本草学者が自らの研究成果を確かめるために、自らミイラとなったものでした。彼は後世、自分を掘り出すよう言葉を遺しました。そして約120年以上の時を経て掘り出されると、彼の研究が大成功したことが確認されたのです。展示室では、見事なミイラになったこの本草学者も展示されていますので、どうぞお見逃しなく! まさに探究心とチャレンジ精神の勝利ですね。

ところで、この展覧会を訪れたのは、新型コロナウィルスの流行が起こる前でした。それもあって、会場内はまさに密状態。いずれの展示室もケースの前には幾重にも列ができ、鑑賞者で埋め尽くされていました。そのお一人お一人が、それぞれ異なる関心から鑑賞なさっていたと思いますが、私にとっての展覧会の魅力は、フランスのリヨンにあるコンフリュアンス美術館の展示もしかり、またミイラというテーマもしかり、「死んだらどうなるのかな?」という誰しもが抱くであろう素朴な疑問に、真正面から向きあう先人について知ることができることです。その向き合い方は、科学的見地から探ったものや、宗教的課題としてそれを探究したものなど、実に様々。そのおかげで、あたかも知の殿堂のただなかに身を置いているかのような気分を味わいました。

機会に恵まれたら、これから行われる他の都市でも再度見てみたいと思っています。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

◇ 今月の香水瓶 ◇

こちらは古代エジプトにおいて死から再生へと導く儀式に用いられたとされるパレットです。7つあるくぼみの上部に書かれたヒエログリフは、それぞれ香り豊かな7つの聖油を表しています。文字とともにあることで、香りが永遠に存在し続けると当時は考えられていました。肉体も香りも束の間のものとはせずに、いかに永遠のものにするか――古代エジプト人たちの発想にはいつも驚かされます。

《7つの聖油パレット》エジプト、古王国時代(第6王朝、前2320-2150年)、アラバスター、海の見える杜美術館所蔵

《7つの聖油パレット》エジプト、古王国時代(第6王朝、前2320-2150年)、アラバスター、海の見える杜美術館所蔵

 

第17回 香水散歩 読書推進期間 ポール・ポワレ

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(重い本の包みを持って歩いたグラース国際香水博物館付近の通り)

こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。「香水散歩」開始以来の変化のときが訪れました。これまで、ヨーロッパや日本の町を旅しながら香りに関して思うところや最新情報をお届けしてまいりましたが、世界的な新型コロナウィルスの蔓延により、その「旅」ができない状況になりました。

けれども、表題に掲げた「散歩」までできなくなったわけではありません。物理的に体を使った散歩はできないまでも、精神における散歩はこれまで通り続けられるのではないでしょうか。そのような思いを強めてくれるのが、読書や、DVD及びネットから配信される映画や音楽の鑑賞です。それらによって、私たちはあらゆる時代のあらゆる場所へ思いを馳せることができます。それは、美術館の所蔵作品についての知識を深めてくれたり、また美術館の所蔵品となる以前にその作品がどのような人物たちとともにあったかを伝えてくれたりします。

しかもそれらは、またいつか自由に出歩けるようになったら、この作品を見に行こう、この香りを嗅ぎに行こうという未来への希望を抱かせてくれるのです。世界は広く、素晴らしい宝物や尊い存在に満ちている―—そのように私が思わずにはいられなくなった書籍や映画を、この機会にご紹介していきたいと思います。

Pauke Poiret

「ポール・ポワレ クチュリエ・パフューマー」展図録 グラース国際香水博物館、2013年

今回ご紹介するのは、第6回と第7回「香水散歩」でもお馴染みの南フランスのグラース国際香水博物館で開催された、2013年の夏の展覧会の図録です。本書は、この博物館を訪問した際、ミュージアムショップで購入した大量の本のうちの一冊です。その日私は購入した本を1回では持ち帰れずに、ふうふう言いながらホテルと博物館を2往復することとなりました。なぜそんなにも大量に買ってしまったかというと、まもなくミュージアムショップの書籍コーナーを模様替えするとのことで、書籍の在庫セールをしていたのです!

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いずれの書籍も、他の都市やインターネットではなかなか見つけられない貴重なものばかり。これも何かのご縁と自分に言い聞かせて、気になるものはすべて買ってしまいました。大量のまとめ買いの常として、じっくりとそのすべてに目を通すことはなかなか叶いませんでしたが、外出が制限されたこの特別な大型連休期間のおかげで、ようやくそれができました。

本書は、20世紀前半に活躍したフランスのファッション・デザイナー、ポール・ポワレの香水分野における仕事を網羅的に紹介しています。世界の香水の一大産地、否、香水産業の首都たる威信をかけて、グラースの地で開かれる展覧会の図録に相応しく、ポワレの香水を様々な角度から取り上げた論文が豊富な資料と共に多数収録されています。驚いたことに論文執筆者の中には、「香水散歩」でも何度も取り上げている今日を代表する調香師ジャン=クロード・エレナも含まれています。そのため、今まで不明瞭であったところや、あまり語られることのなかった部分も明らかにしてくれる、大変充実した構成の一冊です。また、ポワレの革新性を伝えるために、ポワレ登場以前の香水産業の歴史が詳述されている点も、私としては嬉しいところです。

さて、ときに「革命児」とも呼ばれるポワレの革新性とはどのようなものであったのでしょうか。せっかくですから、海の見える杜美術館の所蔵作品とともにそれをお伝えしたいと思います。なにしろ、当館にはポワレが手掛けた香水分野の作品がいくつも所蔵されているのですから!

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ジョルジュ・ルパップ(1887-1971)《ロジーヌ社》1911年、リトグラフ、海の見える杜美術館所蔵

ポワレの革命児ぶりを余すことなく伝えるのは、まずはこちらの作品でしょう。画面下部のフランス語は「ロジーヌ社」と書かれています。本作品は、イラストレーターのジョルジュ・ルパップの筆による、1911年にポワレが立ち上げた香水製造会社、ロジーヌ社のリトグラフです。シャネルしかり、ディオールしかり、服飾メゾンが香水を発表するという、現在ではごく当たり前のことも、当時にあってはまだ珍しいことでした。そのような中、ポワレは自分のドレスの仕上げには香水が欠かせないと、香水分野に積極的に乗り出して大成功をおさめたのです。

彼を成功に導いた要因の一つは、イメージ戦略ともいえる様々な試みです。ポワレは、贅を尽くした美しいドレスを提供するだけではなく、そのイメージを人々の心に深く刻ませようと努めました。そこで彼はとりわけ広報部門を重視します。そのために、様々な分野のアーティストたちを協力者として採用したのです。とりわけイラストレーターは重要な役割を担いました。ポワレのドレスを纏う女性たちのファッション・イラストを一冊の冊子にまとめて顧客たちに配ったのです。カタログの配布も、今日では名だたるメゾンで頻繁に行われていることですが、ポワレはその元祖であったと言われています。

このイラストを描いたルパップも、ポワレのイメージ戦略の重要な協力者の一人でした。ルパップは、ポワレのドレスを纏って、こんな夜会に出てみたい、こんな風にテニスをしてみたい等、具体性を持った夢を抱かせるイラストを次々と描きました。それらに加えて、自らの感情に忠実な女性の姿態――例えば、「倦怠」を主題に、物憂げにのびをする女性等――を描くことで、見る人の精神の奥深くにまで巧みに訴えました。彼のドレスを纏えば、自らの欲望や感情をより露わにできる新時代の自由な女性になれるのではないかと夢見させたのです。

さて次は、描かれた女性の装いを見てみましょう。ポワレは第10回「香水散歩」で登場したマリアーノ・フォルチュニとほぼ同時期に、女性のドレスのシルエットを激変させた一人です。それまでコルセットで締め付けられていた女性のウエストは、胸の下からゆったりとしたドレープが広がる彼のドレスによって解放されました。それには、フランス革命直後からナポレオン1世誕生までの間に流行した、ディレクトワール・スタイル〔新古典主義様式、1795-1803〕に着想を得たと言われています。なるほど本作品でも、ハイウエストですね。

さらに詳しく装いを見てみましょう。羽根飾りのついたターバンやハーレム・パンツ等の東洋の影響が色濃く出ていますが、これもまたポワレの仕事を特徴づけるものでした。これにはあるイメージソースがありました。それは、このリトグラフが世に出る1年前、パリではセルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュス〔ロシアバレエ団〕による演目「シェエラザード」が上演され、パリの人々を熱狂させていました。ほどなくして「シェエラザード」という名のナイトクラブが開店するほどの人気ぶりであったといわれています。

『千夜一夜物語』に想を得たこのバレエの舞台は、東洋の国ペルシアの王宮にあるハーレムでした。ポワレは、すかさずそのイメージを活かしたドレスを制作します。本作品の女性も、ハーレムに住まうオダリスク(女奴隷)とみなされています。描かれた場所が東洋であることは、部屋の設えからもわかります。彼女は西洋の生活では基本となる椅子には座らずに、色とりどりのたくさんのクッションに囲まれているのですから。

しかしここで一つの疑問が浮かびます。王の寵愛をもってしか生きられない女奴隷のオダリスクを、パリ上流階級の女性たちが憧れの対象としてみなしていたのでしょうか? どうやらそのようなわけではないようです。バレエ・リュスの演目「シェエラザード」に登場するオダリスクや王の妻は、19世紀にドラクロワやアングルが描いたハーレムの女性たちとは異なる性質を持っていました。20世紀の彼女たちは、男性の絶対支配に従うだけの女性ではもはやありませんでした。その姿が、当時のパリの上流階級の女性たちの目には、斬新で進歩的で魅力的なものに映ったようです。

ポワレが東洋のイメージを活用したのは、ドレスや広報物に留まりませんでした。彼は、この東洋的なドレスを人々に着せて、大祝宴を開きました。その祝宴の名は「千二夜物語」(洒落ていますね!)。 その際、彼は庭に、香水を振りまいて、魅惑的な匂いがたちこめる場を作り出しました。使用された香水は、「ニュイ・ペルザン」、フランス語で「ペルシアの夜」と名付けられた香りです。加えて帰り際には、招待客にこの香水瓶をお土産として渡しました。香水瓶の蓋をそっと開ければ、いつでも香りとともに、パーティの楽しかった時間が蘇ってくるのです。これほど深い印象を、しかも長く抱かせることはないでしょう。

このたった一枚のリトグラフは、彼のドレスも、彼を取り巻く芸術の協力者たちの顔ぶれも、独創的なパーティの演出や香水も、また当時のパリの流行をも物語ってくれるものなのですね。

最後にここでちょっとマメ知識です。ポワレの香水の会社名はなぜ他の服飾メゾンのようにブランド名ではないのでしょうか? 彼の香水会社名の「ロジーヌ」は、フランスの女性の名前ですが、これはポワレの長女の名前が冠せられています。拙宅の近所にもお嬢様の名がつけられたカフェやギャラリーがあり、その名がオーナーたちの子煩悩ぶりを伝えていて微笑ましくなりますが、ポワレもどうやらそのタイプだったようですね!

ロジーヌ社の香水瓶の制作を担っていたマルティーヌ工房やコラン工房のことは、いつかまたこちらでご紹介したいと思います。

岡村嘉子(クリザンテーム)

◇ 今月の香水瓶 ◇

バレエ「シェエラザード」の上演と同年にポワレが発表した香水「アラジン」が入れられた香水瓶です。本作品はマリオ・シモンとポワレによって1919年にデザインされました。この香水瓶からも、東洋への傾倒ぶりが見てとれますね。

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ポール・ポワレ(ロジーヌ社)香水瓶《アラジン》

デザイン:マリオ・シモンおよびポール・ポワレ、1919年、金属に銀メッキ、茶色パチネ、ベークライト、海の見える杜美術館所蔵