久しぶりの棚つくり

学芸の森下さんから久しぶりの依頼で、展示台を収納するための大きな棚を作ることになりました。

20171204棚づくり (4)

いつものように、無駄な部材は購入しない! 工事の時に使っていた棚を解体して、再利用です。

20171204棚づくり (1)

うみひこは ほとんどを丸のこで済ませてしまうのですが、きちんと臍をかみ合わせるのに、久しぶりに鑿を使いました。

20171204棚づくり (2)

根太を組んで、コンパネを貼って、最近は写真撮影の依頼が多かったので、ちょっと腕が落ち気味ですが・・・

20171204棚づくり (3)

あとはケガをしないように棚の周りを磨けば完成です。

開館に向けて、美術館は大片づけの毎日です。

うみひこ

 

 

香水瓶の至宝展 《香水セット》 フランス 1870年頃

「香水瓶の至宝 ~祈りとメッセージ~」展
2018年3月17日(土)から 開催です。
海の見える杜美術館の香水瓶コレクションから、選りすぐりの名品を展観いたします。香りと人類の歩んできた重厚かつきらびやかな歴史をご覧ください。

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うみひこ

 

歌川広重 東海道五十三次封筒

歌川広重の浮世絵の連作『東海道五十三次』は、制作当時からとても人気があり、世界的に有名ないわゆる保永堂版をはじめとして、たくさんのシリーズが作られました。その種類は30種類を超え、中にはいまだに全容が確認できない『東海道五十三次』もあります。三井高陽氏が「広重の絵封筒」(『浮世絵芸術』27号、1970年11月)のなかで、五十三次揃っていたかどうかわかりませんが、と断りつつ示された「五十三次 吉原」封筒もその一つでした。

三井高陽「広重の絵封筒」『浮世絵芸術』27号、1970年11月
「五十三次 吉原」
三井高陽「広重の絵封筒」『浮世絵芸術』27号、1970年11月より転載

当館に、歌川広重の東海道五十三次の封筒の貼交ぜ帖が所蔵されていて、この中に、三井高陽氏が示された「五十三次 吉原」が含まれていました。

貼交ぜ帖に添付されている封筒は順に次の通りです。(文末画像参照)

東海道五十三次封筒           一立齋 廣重筆
日本橋
品川
川崎
神奈川
程か谷
戸塚
藤澤
五十三次 封筒  立斎筆
平塚
大礒
小田原
箱根
三嶋
沼津

東海道五十三次 続画封筒 一立斎中はし□ぐ 丸喜軒□
吉原
蒲原
中居
興津
江尻
府中
鞠子
五十三次封筒 立斎筆
岡部
藤枝
嶋田
金谷
日阪
懸川
袋井
五十三次 封筒 立斎筆
見付
浜松
舞阪
荒井
白須賀
二川
吉田
五十三次続画封筒 廣重筆
御油
赤坂
藤川
岡崎
池鯉鮒
鳴海

桑名
四日市
石薬師
庄野
立斎筆 五十三次封筒 東海道
亀山

坂の下
土山
石部
水口
草津
大津

淀川

これで広重の東海道五十三次封筒の全容が明らかになったかと期待したのですが、東海道を描いた封筒が、はじめ7枚ずつなのに、最後は11枚、10枚と添付されていることや、水口宿、石部宿の順序が逆になっていることが気になります。この貼交ぜ帖は発行された当時の状況を正しく反映していない可能性があることを慎重に考慮しなくてはならないようです。

しかし、揃っているのかわからないとされていた歌川広重の東海道五十三次封筒について、いろいろなことが明らかになりました。東海道五十三次の封筒は間違いなく発行されていたという事実。表題と広重の落款が入った封筒を入れるための包みと思われるものが少なくとも7種類はあること。その包みの1枚に丸喜軒と記されていること。各地の名産名勝を縦長の画面に配していること。色彩を淡くおさえ、中央には宛名を書くための空間を配慮するほか、随所に封筒ならではの工夫を凝らしたデザインになっていること。そして落款の書体から制作が広重晩年の1853年頃と推定されることなどです。

以上のことから、歌川広重の東海道五十三次封筒は、1853年頃、丸喜軒という版元で、東海道の53宿と起点の日本橋、終点の京、そして淀川を加えた56枚が企画され、8枚セットにして7回(※1)に分けて順次販売、あるいは配布された(※2)のではないかと考えてみました。

さち

※1 ほかに封筒の包みがもう一つ存在していた場合は7枚セットにして8回になる
※2 先の「広重の絵封筒」のなかで、筆者の先祖の話として、財閥の三井家では昔、東京は榛原(はいばら)、京都は金光堂(きんかどう)というところで封筒を特別に誂えたことが記されており、私製の配布物の可能性を排除できない

 

海の見える杜美術館蔵 歌川広重 東海道五十三次封筒
歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (1) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (2) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (3) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (4) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (5) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (6) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (7) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (8) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (9) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (10) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (11) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (12) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (13) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (14) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (15) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (16) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (17) 歌川広重 東海道五十三次封筒 UMAM (18)

香水瓶の撮影をしました

リニューアルオープン記念展示「香水瓶の至宝 ~祈りとメッセージ~」開催に向けて、香水瓶の撮影をしました。

20171013香水瓶の撮影です

カメラマンは、エス・アンド・ティフォトの尾見 重治さんと大塚 敏幸さんです。

うみひこ もカメラマンとして美術品撮影をするのですが、立体物の経験は浅いので、香水瓶の撮影はいつもこのお二人にお願いをしています。すごくきれいに撮影してくれます。これから制作する図録『香水瓶の至宝』に写真が掲載されますのでご期待ください!(うみひこが撮影した香水瓶も少しだけ入ってます)

うみひこ

リニューアルオープン記念 企画展覧会情報

名  称:香水瓶の至宝 ~祈りとメッセージ~
期  間:2018年3月17日(土) ~ 7月8日(日)
休  館  日:月曜日 ※4/30(月祝)は開館
開館時間:10:00-17:00 (入館は16:30まで)
入  館  料:一般 \1,000 高•大学生 \500(要学生証提示) 中学生以下無料
※障がい者手帳などをお持ちの方は半額。介添えの方は1名無料。
20名以上の団体は各200円引き

20171013香水瓶UMAM

 

西南戦争錦絵「西南雲晴朝東風役者絵」

当館の主要コレクションの一つである西南戦争錦絵の中から、西南戦争に取材した歌舞伎の舞台を錦絵「西南雲晴朝東風役者絵」(おきげのくもはらうあさごちやくしゃえ)をご紹介します。

西南戦争は、明治10年(1877)年に起きた西郷隆盛を首領とした薩摩軍兵士(薩軍)と政府軍(官軍)との間の大規模な内乱で、日本最後の内戦と言われています。その戦況は、当時の絵入り新聞や錦絵を通してリアルタイムに庶民へと伝えられました。新聞や錦絵は戦況の速報だけでなく、西南戦争の登場人物にスポットを当てた記事なども取り扱ったため、西郷隆盛のみならず、薩軍の重要人物であった桐野利秋や篠原国幹、村田新八や池上四郎、官軍の野津道貫・鎮雄の野津兄弟などは知名度を上げ、庶民の人気を得ました。戦争が終結し、戦況の速報としての錦絵の役目は終わりましたが、錦絵の出版自体はそれ以降も続き、子供の教育用の玩具絵(おもちゃえ)や、今回ご紹介する歌舞伎の役者絵などが出版されました。

西南戦争は明治10年9月24日に西郷の自決で終戦となりましたが、年が明けるとすぐにそれを題材に歌舞伎がいくつか上演され、その中でも明治11年2月、東京・新富座の『西南雲晴朝東風』は最大のヒットになりました。この劇の作者は幕末から明治時代にかけて活躍した河竹黙阿弥で、当時出版された新聞や錦絵、関係者への取材をもとに制作され、全7幕16場が薩軍視点で構成されています。(1)

役者は九代目市川団十郎や五代目尾上菊五郎らが出演しました。「西南雲晴朝東風役者絵」は、この歌舞伎を錦絵にしたもので、当時の役者絵の名手・豊原国周とその弟子楊洲周延によって制作されました。

豊原国周筆「吉次越蓑原討死之図」 西南戦争錦絵 UMAM 海の見える杜美術館
豊原国周筆「吉次越蓑原討死之場」 大判錦絵三枚続 明治11(1878)年3月届出

上は『西南雲晴朝東風』第3幕の、西南戦争最大の激戦、田原坂・吉次峠の戦い(明治10年3月1日~3月31日)の「吉次越蓑原討死之場」です。この場面は劇中において最大の見せ場であり、砲撃の特殊効果に花火を、音響効果にラッパを用いて戦場の迫力を再現したことから大きな評判となりました。(2)

馬に乗り右手にサーベルを持った薩軍の蓑原国元が、敗走する味方を鼓舞しながら敵陣へと進みますが、官軍の流れ弾に当たり斃(たお)れます。銃弾を受けた簑原の胸からは血が流れ、傍らにいる薩軍の武上四郎は突然の出来事に驚いた様子です。画面右上の短冊から、簑原を五世尾上菊五郎が、武上を中村宗十郎が演じていたことがわかります。

蓑原国元、武上四郎は、それぞれ史実における篠原国幹、池上四郎のことですが、実名から微妙に改変されているのは、歌舞伎や人形浄瑠璃で実在する人物を扱うときは、時局に触れぬよう、名前や時代を変えてごまかしながら扱うのが通例とされていたためです。(3)

篠原国幹は薩軍の副司令格としてこの戦いに臨んでおり、その死は、西南戦争序盤においては最大のニュースでした。

豊原国周筆「日向西條陣営の場」 西南戦争錦絵 UMAM 海の見える杜美術館
豊原国周筆「日向西條陣営の場」 大判錦絵三枚続 明治11(1878)年届出

こちらは、第7幕の戦争終盤の薩軍本営の場面です。各地から召集された少年兵に対し市川団十郎扮する西條高盛(史実では西郷隆盛)が国に帰るように説得しますが、少年の一人が、両親のいない自分だけでも一緒に戦いたいと願い出て、その姿に皆が涙します。この場面は、『西南雲晴朝東風』終盤の泣かせどころとなっています。

史実では薩軍の兵の召集は、田原坂の戦いで敗れ、敗色が濃厚となって以降、子供から老人まで及ぶようになったといいますが、官軍の兵であった喜多平四郎の手記によると、少年を兵として招集したことを知った西郷隆盛は激怒したといいます。(4)

西南戦争錦絵は、その画題の多くが戦況の速報ですが、今回ご紹介した歌舞伎の役者絵のように娯楽としての側面を持っているものも少なくなく、広く大衆に受け入れられていました。今後も定期的に西南戦争錦絵について紹介していきたいと思います。

大内直輝

※西南戦争錦絵については現在鋭意研究中で美術館リニューアル後に展示する予定です。

(1)  埋忠美沙「西南戦争における報道メディアとしての歌舞伎 -日清戦争と対比して-」(『演劇学論集 日本演劇学会紀要 62集』収載) P.19-20 日本演劇学会 2016年
(2)  同前 P.24-28
(3)  大庭卓也・生住昌大『西南戦争 -報道とその広がり-』 P.69 久留米大学文学部 2014年
(4)  前掲「西南戦争における報道メディアとしての歌舞伎 -日清戦争と対比して-」 P20-22

西山翠嶂《女役者》その2

(1からの続き)

では、実際に私が見つけてきた資料等を見ていただきたいと思います。

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左が歴彩館にてコピーさせていただいた、高島屋『現代名家風俗画集』の翠嶂のページ。右が当館所蔵の《女役者》。

比較してみると本当によく似ているのですが、決定的に違うのが、背景の幕の紋、そして印章(落款、つまり署名のところに押されている印鑑)です。まったく別の作品です。お恥ずかしながら、最初この図録を手にしたときは完全に「おお一緒だ一緒だ」と思っており、「あれっ…え…うそ…違う…?」と気づくまでに3~4日かかりました。思い込みとはかように怖いものです。落丁に気づいたとき以上の驚きが私を包みました。こちらもお察しいただければ幸いです。

 

では当館の作品はニセモノなのか?という疑問がわいてきてしまいますが、近代の日本画の世界では展覧会に出したものを画家自身がコピーすることは結構多く見られます。例えば当館所蔵の北野恒富の《阿波踊り》、榊原紫峰の《獅子》なども展覧会に出したものを縮小して描いたものです。おそらく、求めに応じて描いたのでしょう。

 

驚愕の発見の日から自分を納得させること数ヶ月、先日また別の資料を手にすることができました。西山翠嶂が自ら3年かけて発行した『翠嶂作品集』(西山翠嶂著、瑠璃社、大正10(1921)年)です。

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左は、《翠嶂作品集》に収録されていた女役者(木版)です。こちらは幕の紋も印鑑の形もほぼ一致。色や紋の微妙な部分が違うのは、木版で完全なコピーではないことが原因です。違う紋を背負う2つの《女役者》が翠嶂の手によって描かれたことは間違いないと、資料でも証明されました。

この《翠嶂作品集》は、帝展出品作などの力作を収録していることから、こちらの《女役者》も、翠嶂にとってまずまずの自信作だったと見られます。なんとなく一安心。

 

さて、では、描かれた女役者とはいったい誰なのか。この疑問も現在まだ回答が出ておりません。はじめ私は、紋があるということは、特定の誰であるか当時見る人が見ればわかったのだろうと想像していました。しかし2作品でまったく紋を変えてしまったという事実がここで判明しました。誰であるのかは問題ではなかったということになるのでしょうか。もう少し、演劇史のほうを調べる必要があるかもしれません。

 

結局、わかったことは以下の2点。

1つめは、翠嶂は高島屋の展覧会に出品したものと、『翠嶂作品集』に掲載したもの、少なくとも2つの《女役者》を描いたということ。

そして2つめは、当館の作品は『翠嶂作品集』に掲載された《女役者》であること。

 

調べていくうちにかえって疑問点も増えました。でも研究や調査とは、きっとそんなもの。簡単にはいかないということを改めて思い知らされました。

 

このように学芸員の喜び悲しみを織り交ぜて調査中の翠嶂作品は、2018年の秋に西山翠嶂展の中でご紹介する予定です。ご興味を持っていただけますと大変うれしく存じます。

 

主要参考文献

高木多喜男「西山翠嶂の人と画業に関する基礎調査(年譜私案)」『京都文化博物館紀要 朱雀』第5集、1992年

『現代名家風俗画集』、高島屋飯田呉服貿易店 発行、1912年

西山翠嶂『翠嶂作品集』、瑠璃社 発行、1921年

『京都府百年の年表 8 美術工芸編』京都府立総合資料館 編、京都府 発行、1970年

※本記事での図版の掲載にあたり、京都府立京都学・歴彩館様と高島屋史料館様にご協力をいただきました。感謝申し上げます。

森下麻衣子

 

西山翠嶂《女役者》その1

今回は、当館所蔵の西山翠嶂作品《女役者》についてお話しいたします。しかしこれは皆様に作品解説をしようという記事ではございません。ただ、話を聞いていただきたい、そんな気持ちをつづってみました。長いです。

DSCN2455

大きな紋の入った幕の前に立つ女性。着崩した格子柄の着物、余裕のあるしぐさが非常にかっこいいですね。作者自身がつけた「女役者」というタイトルが示すとおり、おそらくこの人は女性の歌舞伎役者でしょう。現在、歌舞伎を演じるのは男性のみですが、江戸時代末から大正時代の頃にかけて、女性も演じており、彼女たちは女役者と呼ばれていたのです。女団州と呼ばれた市川粂八などが最も有名でしょうか。粂八は鏑木清方によって肖像が描かれていますので、ご存知の方も多いかもしれませんね。

さて、彼女が誰で、この絵がいつ頃描かれたものなのかを考える前に、作者についてお話しておきたいと思います。

描いた西山翠嶂(1879-1958)は、竹内栖鳳の高弟で、娘婿でもありました。一時期、洋画家 浅井忠にも師事し、人物デッサンを学びました。風景や動植物が多い栖鳳と違い、人物画の大作を多く描き、文展や帝展などに出品しています。大正から昭和にかけて重鎮として京都の画壇を支え、自身が主宰する画塾・青甲社からは、秋野不矩・上村松篁、中村大三郎ら重要な画家を輩出しています。

そんな翠嶂ですが、落款や印章などのデータの蓄積はまだ多くはなく、文展・帝展に出品した代表作以外は年代の特定などが難しいのが現状です。この絵について調べたいと思ったとき、どうすればいいのか。まずやはり先人の研究に頼るほかありません。

幸いにも、高木多喜夫氏が研究成果として「西山翠嶂の人と画業に関する基礎調査(年譜私案)」(『京都文化博物館研究紀要「朱雀」第5集』、1992年発行)を残されています。これは、図書や雑誌ほか膨大な資料を丹念に整理されたもので、私は翠嶂を調べる上でこれをいつも頼りにしています。その中に、見逃せない箇所がありました。

 

明治45(1912)年6月1日、(翠嶂)33歳 女役者 現代名家風俗画集(高島屋飯田橋呉服貿易店 明治45(1912)年6月5日)に掲載。京都高島屋呉服店の新築落成記念現代名家風俗画展に出品。出典『高島屋美術部五十年史』(掲載にあたり、年号の表記など適宜変えました)

 

これを見つけた私はひそかに大喜びしました。当館の《女役者》は高島屋の展覧会に出たものだと確信して…。作品の出品歴がわかると何がよいかといいますと、素性がわかるということももちろん、やはり展覧会に出すということはそれだけ力を入れて描いているという想像もできるわけで、その力作に画家がどのような苦心・工夫をしたのか、調べがいも出てくるのです。また別の本を参照すると、この展覧会には栖鳳の名画《アレ夕立に》も特別に陳列されていた、という興味深い事実もわかりました。

調べで「現代名家風俗画展」の明治45年当時の図録が図書館や資料館に残されているとわかってさらに有頂天になった私は、資料を保存している図書館に突撃しました。

とある図書館へ飛び込んでカウンターで恐る恐る「すいません、『現代名家風俗画集』を見せてください」とお願いし(貴重書なので開架ではないのですね)、司書の方から本を手渡され、私はドキドキしながら年月の蓄積を感じるその本のページを丁寧にめくりました。そして…

 

「あれ?ない…ないよ…?」

 

そう、あろうことか落丁です。それも翠嶂のページだけが。なんとも驚くことではありませんか。私の落胆をお察しいただければ幸いです。

そして次の機会を求めて待つこと数ヶ月。オープンしたての京都府立京都学・歴彩館にて、とうとう図録を手にすることができました。そして、確認することができたのです。

 

当館の《女役者》は高島屋呉服店現代名家風俗画展出品の《女役者》ではないということを…。

 

続きます。

森下麻衣子

二条城行幸図 (洛中洛外図) 屏風


二条城行幸図 屏風 右隻 UMAM右隻

二条城行幸図 屏風 左隻 UMAM左隻

寛永3年(1626年)の後水尾天皇の二条城行幸が描かれた、金色にきらめく豪華な屏風です。

屏風全体には、京都の町並みと周りの風景が描かれています。そしてその中段に一直線、左側の屏風には、二条城を出て後水尾天皇を迎えに御所をたずねる三代将軍家光の一行が、
二条城行幸図 屏風 左隻2

右側の屏風には、御所を出て二条城に向かう後水尾天皇一行が、二条城行幸図 屏風 右隻2 UMAM

見物する群衆や沿道警備の武士も一緒に臨場感豊かに描かれています。
二条城行幸図 屏風 左隻3 UMAM

おそらくこの屏風のどこかに登場していると思われる人物、土御門 泰重(つちみかど やすしげ)の日記に当時の様子を見てみましょう。

9月4日 晴れ 行幸の用意。身に付けるものや道具を点検した。今日太刀がとどいた。樋螺鈿蒔絵梨地(ひらでんまきえなしじ)だ。

9月5日 晴れ 中山元親(なかやまもとちか)のところへ行って場所を借りてきた。行幸を見物する人たちのためだ。夜になって雨が降り始めた。深夜には大雨になった。明日の行幸はどうなるのだろう。用意は大体終わった。夜12時頃就寝。20170601二条城行幸図 屏風 右隻3

9月6日 日の出前まで大雨だったが、晴れてよかった。先発隊が出た。その後に中宮(天皇の妃)が出発した。将軍が迎えに参内した。鳳輦(天皇が乗る駕籠)を紫宸殿の庇によせ、鳳輦にお移りになられた。華やかなる行幸、民衆が群れをなした。(適宜抜粋して現代語に訳した)
二条城行幸図 屏風 右隻4

実在の人物の日記を読んであらためて絵を眺めると、絵空事のようだった屏風絵が、記録映像のように現実感を伴って見えてきます。

この日の高揚した様子を再現するのに、画家が苦心したのは京都の市街や名所、1300人以上の人々を描き込む労力だけではありません。左側の屏風は堀川沿いを北に向かう行列を、
二条城行幸図 屏風 左隻4 UMAM

右側の屏風は堀川へ向けて西に向かう行列を描いていて、二条城行幸図 屏風 右隻5 UMAM

左右の屏風を直角になるように並べると、堀川の橋で曲がる列が立体的に正しく再現されるように工夫されているのです。二条城行幸図 屏風 一双

徳川家康が戦国時代に区切りを告げた後、二代将軍秀忠は娘の和子(まさこ)を後水尾天皇に入内させ、天皇家と姻戚関係になります。その後将軍職を家光に譲り穏便に世代交代を済ませ、次に天皇を徳川の城、二条城に招いて歓待したのです。天皇家と徳川家の和平を決定的に内外に示したこの二条城行幸によって、完全に戦国の世に終わりを告げることができたのかもしれません。そのような観点からは、この屏風はとても記念碑的な作品として輝いていますし、また、この屏風は藤堂家伝来と言われていて、徳川和子入内の立て役者であり、後水尾天皇を迎えるための二条城改修工事の基本設計を担当した藤堂高虎との関係性にも興味がつきません。

なお この原稿は当館の季刊誌『プロムナード』Vol.22 2017年夏号に掲載されています

さち

 

物語絵巻を文化遺産オンラインで公開しています

物語絵巻を文化遺産オンラインに登録したので、ぜひご覧ください。

以前ブログに公開した物語絵巻を採録しますので、こちらもご覧ください。

太い字をクリックするとブログのページが開きます。

動画の画面をクリックすると、絵が動き出します。

道成寺縁起絵巻(パワーポイントで作った絵巻アニメ1/4)

 

三井寺絵巻(パワーポイントで作った絵巻アニメ2/4) 

 

八幡宮縁起絵巻(パワーポイントで作った絵巻アニメ3/4)

 

天神の本地絵巻(パワーポイントで作った絵巻アニメ4/4)

 

うみひこ

蘇州版画 西洋劇場図

2016年11月1日から12月10日まで、中国江蘇省蘇州市の蘇州美術館で開催された「蘇州桃花塢木版年画特展」に《西洋劇場図》が出品されていました。

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(5)

西洋劇場図 『支那古版画図録』美術研究所編 美術懇話会 1932年 図27

その昔、黒田源次氏、岡田伊三次郎氏らが協力して収集し、そして矢代幸雄氏らの尽力を経て、現在の東京文化財研究所の前身、美術研究所の開所記念展覧会「故岡田伊三次郎氏蒐集支那版画(姑蘇板)陳列」(1931(昭和6)年11月1~3日)で展観された作品です。1932(昭和7)年3月に刊行された美術研究所編輯美術研究資料第一輯 支那古版画図録 図版27番に掲載されています。

この書籍はコロタイプ印刷なので、近頃よく見る印刷のような網点がなく、とても細かいところまで良く見えます。ですからルーペを使って何度も何度もそれこそ穴が開くほど繰り返し見てきました。なぜなら、西洋の遠近法、陰影法が建築物などをはじめ、ここまで正確に用いられている、そしてなにより人物の顔、肉体などが西洋人そのものに表現されている、現段階では唯一無二ともいえる作品だからです。また、中国人が西洋的な版画を制作したときに賛に記すことが多い「倣西洋画筆法」などと書かれていないことを併せて考えたときに、これまで論じられることのなかった、西洋人が蘇州版画の作画に直接かかわった可能性をも感じさせられる作品だったからです。(『支那古版画図録』では「ヴェネチア派の劇プルチネラに関する書籍の挿絵を模したもの」と指摘している)

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(2)建築

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(4)

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(3)

この作品以降、中国風に変化した数々の作品が生み出されていきます。

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(5)20161221中国版画 西湖風景図UMAM (1)
西洋劇場図        西湖風景図(海の見える杜美術館蔵)

《西洋劇場図》は現在、縁あって遼寧省博物館の所蔵品となっています。歴史に埋もれていた作品が公開されて、本当に良かったと思います。

なお、コレクター岡田伊三次郎氏について、あまり知られていませんが、氏の中国版画収集の経緯などが、三隅貞吉「岡田伊三次郎さんを偲ぶ2」(『日本美術工芸』245号、1959年2月)に記録されています。そのなかで岡田氏は「私は、自分の趣味の赴くままに、あれこれと色々のものを蒐集して来たが、結局は支那の古版画を集めにこの世に出て来たようなものだった」と述懐していたことが記されています。氏の尽力に敬意を表します。

さち

関連記事:中国版画(蘇州版画)とグスタフ・クリムト