街道が好きです - 道標(畑口橋交差点)

ずっと気になっている道標が、

20170222 街道が好きです - 道標(畑口橋交差点) (8)
海の見える杜美術館の近くの畑口橋交差点にあります。

20170222 街道が好きです - 道標(畑口橋交差点) (1)
風化しているので、ふだんは字が見えませんが、

20170222 街道が好きです - 道標(畑口橋交差点) (4)
今日この瞬間、日差しの具合でくっきりと見えました。

20170222 街道が好きです - 道標(畑口橋交差点) (5)
コレヨリ 右ハ石州 左ハ九州

20170222 街道が好きです - 道標(畑口橋交差点) (3)
道路側から見た正面は、「南無阿弥陀仏 右石州 左ハ九州」と読むことができそうです。

いつ建てられたのかは分かりませんが、石の風化の度合い、そして彫られた文字の書体や崩し方にいろいろな種類がある事、彫の具合や傷み方に違いが認められることなどを考えると、ずっと昔に作られて、年を経るにしたがって彫り直され、彫り加えられるなどしてきた道標のよう思われます。また、石が据えられた場所も変わっているようです。なぜなら、道路から見た裏側には「左ハ九州」と記されているのですが、現在の場所では正しくは九州は右側だからです。

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もりひこ

蘇州版画 西洋劇場図

2016年11月1日から12月10日まで、中国江蘇省蘇州市の蘇州美術館で開催された「蘇州桃花塢木版年画特展」に《西洋劇場図》が出品されていました。

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(5)

西洋劇場図 『支那古版画図録』美術研究所編 美術懇話会 1932年 図27

その昔、黒田源次氏、岡田伊三次郎氏らが協力して収集し、そして矢代幸雄氏らの尽力を経て、現在の東京文化財研究所の前身、美術研究所の開所記念展覧会「故岡田伊三次郎氏蒐集支那版画(姑蘇板)陳列」(1931(昭和6)年11月1~3日)で展観された作品です。1932(昭和7)年3月に刊行された美術研究所編輯美術研究資料第一輯 支那古版画図録 図版27番に掲載されています。

この書籍はコロタイプ印刷なので、近頃よく見る印刷のような網点がなく、とても細かいところまで良く見えます。ですからルーペを使って何度も何度もそれこそ穴が開くほど繰り返し見てきました。なぜなら、西洋の遠近法、陰影法が建築物などをはじめ、ここまで正確に用いられている、そしてなにより人物の顔、肉体などが西洋人そのものに表現されている、現段階では唯一無二ともいえる作品だからです。また、中国人が西洋的な版画を制作したときに賛に記すことが多い「倣西洋画筆法」などと書かれていないことを併せて考えたときに、これまで論じられることのなかった、西洋人が蘇州版画の作画に直接かかわった可能性をも感じさせられる作品だったからです。(『支那古版画図録』では「ヴェネチア派の劇プルチネラに関する書籍の挿絵を模したもの」と指摘している)

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(2)建築

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(4)

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(3)

この作品以降、中国風に変化した数々の作品が生み出されていきます。

20161221中国版画 西洋劇場図 UMAM(5)20161221中国版画 阿房宮図UMAM (1)
西洋劇場図        阿房宮図(海の見える杜美術館蔵)

《西洋劇場図》は現在、縁あって遼寧省博物館の所蔵品となっています。歴史に埋もれていた作品が公開されて、本当に良かったと思います。

なお、コレクター岡田伊三次郎氏について、あまり知られていませんが、氏の中国版画収集の経緯などが、三隅貞吉「岡田伊三次郎さんを偲ぶ2」(『日本美術工芸』245号、1959年2月)に記録されています。そのなかで岡田氏は「私は、自分の趣味の赴くままに、あれこれと色々のものを蒐集して来たが、結局は支那の古版画を集めにこの世に出て来たようなものだった」と述懐していたことが記されています。氏の尽力に敬意を表します。

さち

青木隆幸

関連記事:中国版画(蘇州版画)とグスタフ・クリムト

街道が好きです - 道路開通記念碑

2016年10月17日のブログに記した、「道路開通記念碑」についてです。
ウィキペディアの「広島県道30号廿日市佐伯線」に登場していました。

「中世以来、津和野街道として発展。宮内村で西国街道から分岐して汐見坂峠(現在の明石峠)を越えて津田、友田、六日市を経て石州津和野の城下に至る。江戸時代には津和野藩主の参勤交代ルートであり、脇街道として整備された。
1891年(明治24年)- 津和野街道が県道として改修される。このときの記念碑が廿日市市宮内の御手洗川べりに残っている」

20161110 街道が好きです - 道路開通記念碑 (1)

ここに記されている記念碑が、この「道路開通記念碑」です。せっかくなので、記念碑に彫られた文字をおこすことにしました。年月を経て読みづらい字は前後の文面から判断して読んだ個所もあります。気になるところは写真と見比べてください。写真をクリックすると拡大画面になります。

20161110 街道が好きです - 道路開通記念碑 (2)


安藝國佐伯郡宮内村廣裹六里戸数五百人口貳阡四百其土
鹵砂肥饒其俗知方好義盖距廣島縣治西方凡四里達于石州
津和埜之要衝而與防州山代本郷路相通地方物産之出輸咸
由此通路以是人馬往來毎加頻数而路極険隘行路太苦明治
十五年村人相議略加修築稍得通車馬費用不支而中止以其
功不全屢毀傷人畜有志者謂運輸不便則産業不興殖産之本
在道路開通一人倡之衆僉和之廿一年九月請于宮以脩道之
事官使技師測地理自砂原至三和村畍中間経折出領及佛坂
而迂回于明石鑿塩見坂之險迂除曲折斫險爲痍填濕闢窄以
便於車馬運輸以廿三年十二月起工翌年七月告功竣其総費
金九千七百七拾八圓餘其三分二乃縣税支出之其他於村内
及郡中各町村醵出之其開鑿里数二里十四町廿四間此諸舊(彫は萑に旧)
道延長凡二十六町其新要地者七町二畝二歩毀家屋者八戸
於是乎畏途相夷無後危險災害之患行旅運搬共蒙幸福者其
幾許乎可謂事業一時而功名千古矣頃者村人相共謂立石録
姓名以不托之屬余作文以記之余嘉昭代之美擧叙其繄繫其
銘曰 變難成易 因民之義 公道如砥 就地之利
・・・・・・乃幸乃慶 險夷異地 厥力厥德 豈可不記
・・明治二十七年九月之吉日
・・・・平安 東海道人棉引泰撰文   小田甚作書之

20161110 街道が好きです - 道路開通記念碑 (3)


功勞者
イロハ順
西村七右衛門 堀内綱次郎 横山直助 吉岡峯次郎 高橋嘉六 高見峯吉 田中文作 田村榮之介 武田敏惠 大田和一郎 小田貫一 小田孫七 小倉大兵衛 福永喜三郎 藤岡利兵衛 河野直太朗 惠木保太郎 遠藤代次郎 柴田千太郎 正田榮人 瀬田德次郎 杉山重四郎 住田久藏 住田史郎 鈴木重老

側面
昭和十一年三月建之宮内村

備考

※「自砂原至三和村」
砂原は広島県廿日市市宮内砂原のことで、現在も地名として残っています。この石碑が立っている場所です。 三和村は、明治22年(1889年)、峠村、渡瀬村、松ヶ原村の三村が合併して発足し、昭和4年(1929年)友原村と合併して友和村となりその名称は使われなくなりました。(「佐伯郡」ウィキペディア)

※「開鑿里数二里十四町廿四間」
二里 7654.5m 十四町 1527.3m 二十四間 43.6m = 9,225.4m
旧砂原村のこの石碑が立っている場所から9.2キロ行くと廿日市市立友和小学校の前につきました。

※「平安 東海道人棉引泰」
綿引東海(1837-1915)
幕末明治の漢学者。天保8年(1837)常陸生。名は泰、字は天行、通称は泰助、東海と号す。原伍軒の門に学び、明治3年弘道館訓導を経て宮内省に出仕。大正4年没、年79.著書『烈士詩伝』『疑獄録』等がある。大正4年(1915)歿、79才(『日本人名大辞典』復刻版第一刷、平凡社、1979年)

※「小田 貫一」
1856年生まれ。安芸国佐伯郡宮内村(現廿日市市)出身。広島県会議員を経て宮内村村長、第2回衆議院議員総選挙に立憲政友会からの推薦を受けて当選(以後6回当選)。広島市長(第六代)。1909年没。(「小田貫一」ウィキペディア)

 

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街道が好きです - 里程標

私が通勤に使っている道の、電柱の陰に隠れた「里程標」が気になっています。

20161017 街道が好きです - 里程標 (4)
赤い矢印の先の石柱です

この通りの道幅は、大体4.5m、「里程標」の場所ほかところどころ約6m、写真のようにデコボコした形状になっています。江戸時代、西国街道に定められた二間半(約4.5m)の道幅が保たれているので、もしかしたらと思い江戸時代の古地図を参照してみると、西国街道はもう少し南側を走っていて、この道は当時もバイパスのような役割を果たしていたように見えました。

里程標」の歴史は、明治20年代の宮内村県道改修工事(『廿日市町史 資料編Ⅴ』廿日市町1983)や、約400m東に建つ「道路開通記念碑」(明治27年記)などとあわせて考えてみる必要がありそうです。

里程標」の下は地中に埋もれて読めない字がありますが、今から125年前、1891年に建立されたことは、わかりました。

20161017 街道が好きです - 里程標 (1)
右:明治廿四年五月建之 宮内

20161017 街道が好きです - 里程標 (2)
正面:距 廿日市里程標 壹

20161017 街道が好きです - 里程標 (3)
左:距 廣島里程元標 四里拾七丁廿四間(約17.6km)

ちなみに、廣島里程元標のあった場所(原爆ドームの近くです)から、現在の宮島街道を通ってここまでの距離は、google map の計測では16.5kmでした。

この里程標」は、宮内交番の横の川沿いの道を西におよそ800m進んだところに建っています。

大野村⇔宮内村
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もりひこ

 

海の上から訪ねる世界遺産・厳島神社、原爆ドーム

台風の到来が予想された日、世界遺産・厳島神社と原爆ドームを、船に乗って訪れました。

廿日市 大野桟橋

宮島の鳥居の前で海上から厳島神社参拝

宮島3号桟橋にて下船

宮島3号桟橋から乗船

瀬戸内海と太田川を遊覧

原爆ドームすぐ横の もとやす桟橋にて下船

原爆ドーム、折り鶴タワーへ

雨や台風の予報を裏切り、屋形船のような小さな船もまったく揺れず、快適快適。さすが瀬戸内海! 宮島についたころには雨も上り、原爆ドームへ向かう海面は鏡のように光っていました。

20160910 海の上から世界遺産・厳島神社、原爆ドームを訪れました 0

それぞれの船にはスタッフによる小粋な観光案内もついていて、厳島神社の鳥居の前では、真下まで船が接近して、海上からの参拝時間もちゃんととってくれます。こちらの映像をご覧ください。すごいでしょ。この小旅行の船は特別にチャーターしなくても、定期航路なのでご興味のある方はぜひ以下のホームページを確認してみてください。

宮島行大鳥居遊覧航路
ひろしま世界遺産航路

なお、大野桟橋は広島東洋カープ屋内総合練習場・大野寮に隣接しています。この日は優勝へ向けてマジック4。船を待つあいだ、選手たちの気合に満ちた声があたりに大きく響きわたっていました。

20160910 海の上から世界遺産・厳島神社、原爆ドームを訪れました

もりひこ

 

宮島の夕景

2016年4月1日夕

2016年4月1日夕


陽が西に深く傾いたとき 厳島神社の朱の鳥居は神々しく輝きを放ちます
心に響く情景です
この瞬間に立ち会えたことに深い喜びを覚えます

写真をクリックすると大きくなります
もう一度クリックするとさらに大きくなります

もりひこ

鍵がない鞄(カバン)

海の見える杜美術館の収蔵庫に 錠をあける鍵がない鞄(カバン)がありました
20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (1)
一体いつの時代の鞄でしょうか
鍵穴をよく観察してみると
20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (2)
簡単な構造です 何とかなりそうです

元の金具を傷めない柔らかさがあって
でも回すと錠を外すことができる堅さもある
20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (3)
折れた傘を修理する金具を鍵の素材に選びました

20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (4)
ニッパーとやすりを使って

20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (5)
こんな感じに出来あがりました

20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (6)
差しこんで

20160223 合鍵(あいかぎ)を作りました (7)
一回転まわすと・・・  カチャ・・・

20160223 旅行用化粧香水瓶
きれいなガラスの小瓶が収納されていました

20160223 旅行用化粧香水瓶 (2)
旅行用に何かを入れるための鞄のようですね

展示公開が待ち遠しいです

うみひこ

 

愛すべき名機たち

開館以来、平面の作品は、すべて自分たちで撮影しています。
図録やポスター、チラシの原稿となる写真も含めてすべてです。
そこでは、海杜の大切なスタッフとして、フィルムカメラが活躍してきました。

時代の流れと共に、フィルムの生産が次々と終わりを迎え、今ではデジタル撮影が主流となりました。

決してオーバーな数字ではなく、あわせて何十万カットも撮影してきたアナログの名機たちが、しばし休息の時をむかえたようです。


左から
ニコンF2   フィルムサイズ35ミリ
マミヤRB  フィルムサイズ6×7センチ
トヨビュー  フィルムサイズ4×5インチ
ジナー    フィルムサイズ8×10インチ

これまで撮影した画像は、高精細デジタル化を行い、今後も大切に使用します。
そしてすべてのフィルムは、美術品の大切な記録として、将来にわたって保存されます。

カメラの皆さん、
長いあいだ、本当にありがとうございました。

うみひこ