引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 3(第4展示室)

展 覧 会 名 : 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
会   期 : 2021年11月27日(土)~12月26日(日)
会   場 : 海の見える杜美術館

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 2」から続く

第5章 新しい時代の風景を描く

昔ながらの吉祥の図様と並んで、新時代の流行も引札に取り入れられてきました。汽車や自動車、飛行機など、当時の人たちが初めて目にする新しい乗り物が行き交う風景や、郵便、電話といった新たな通信手段や、または西洋楽器を弾く、犬を飼う、列車で旅行するなどの最先端の生活文化が、活気ある様子で引札に描かれます。今のようにテレビもインターネットもない時代、とりわけ情報がいきわたりにくい地域で生活する人々にとって、引札は都市の流行を知るためのメディアでもありました。色鮮やかに描かれた目を驚かすような新時代の文化に人々は心躍らせたことでしょう。そしてそれは富や発展を感じさせるものでもあったことでしょう。
当時の人々が憧れた新時代の生活の様子をお楽しみください。

第4展示室1

第4展示室1

5-01 汽車 船 松 "あきなひ はんえい" 明治三十三年一九〇〇頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-01
汽車 船 松 “あきなひ はんえい”
明治三十三年一九〇〇頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-01 画面右奥の港の方からこちらに向かって勢いよく汽車が走ってきます。大量の荷物や人を輸送する近代の乗物は繁栄の象徴でもあったのでしょう。松の根元に立てられた行先標には「あきなひ(商い)」「はんえい(繁栄)」の文字があります。

5-02 女性 電車 市街風景 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-02
女性 電車 市街風景
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-02 明治二十八年、京都で日本初の電車が走り、その後、各都市に広まりました。この引札には電車の走る都会と、装った女性が描かれています。これを配布した木村商店の意図としては、都会に赴く際のよそ行きのおしゃれには当店の小間物を、といったところでしょうか。

5-03 自動車 飛行機 東宮御所 富士 色紙 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-03
自動車 飛行機 東宮御所 富士 色紙
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-03 富士山を背景に、東宮御所、気球、飛行機、自動車が描かれています。当時の多くの人々が憧れを抱いていたであろう、近代的な生活です。この引札が配られた姫路の人々の目にとっても、新年を寿ぐにふさわしい希望に満ちた光景に映ったことでしょう。

5-04 七福神 飛行機 日の出 富士 明治末~大正初期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-04
七福神 飛行機 日の出 富士
明治末~大正初期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-04 夜明けの富士を背景に、七福神が飛行機に乗って天高く舞い上っています。恵比寿大黒が搭乗しているのは、初めてドーバー海峡を横断した飛行機としても知られるブレリオ機、その上の箱形の機体は日本でも購入され初の試験飛行にも使われたアンリ・ファルマン機をモデルにしているようです。

5-05 幻灯機 母子 松梅 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-05
幻灯機 母子 松梅
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-05 明治二十年代に幻灯機、今でいうところのスライド映写機がブームになり、所有する家もあらわれました。このころは電球ではなくオイルランプで照らしていました。引札を配る際には白地の部分に字が入れられ、幻灯機に映る店の名前をみんなで見ているという場面になります。

5-06 電話 恵比寿大黒 "福人銀行…" 明治二十六年(一八九三)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-06
電話 恵比寿大黒 “福人銀行…”
明治二十六年(一八九三)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-06 この絵の電話機はガワ―ベル電話機といい、日本で使用された電話の中では最も古い型のひとつです。引札に書かれた通話内容を読んでみると、当時は「もしもし」ではなく「おいおい」「はいはい」と呼びかけていることがわかります。

5-07 電話 女性 恵比寿 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-07
電話 女性 恵比寿
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-07 明治時代は電話が各家庭まで普及していなかったので、郵便局に設けられた電話所で、呼び出してもらって通話をしていました。なお、この絵の電話機は明治二十九年に登場したデルビル磁石式壁掛電話機です。

5-08 往復葉書 郵便差出箱 民衆 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-08
往復葉書 郵便差出箱 民衆
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-08 郵便は新しい時代を象徴する制度のひとつでした。国民への普及は早く、また各商店にとっても荷物の発送など欠かすことのできないサービスとなりました。本作品のように、利便性を兼ねて郵便料金早見表の付いた引札がつくられました。

5-09 郵便局 郵便車両 郵便差出箱 "大勉強…" 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-09
郵便局 郵便車両 郵便差出箱 “大勉強…”
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-09 赤色に制定される明治四十一年まで、このような黒色のポストが使われていました。右側の赤色の車は小包郵便物配達用函車です。筆文字で、荷造り具一式を販売している中西幸次郎とあります。この絵にぴったりの商店ですね。

5-10 五十嵐 豊岳 新聞に乗って飛ぶ商人 汽車 船 日の出 "勉強家…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

5-10
五十嵐 豊岳
新聞に乗って飛ぶ商人 汽車 船 日の出 “勉強家…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

5-10 明治時代のはじめより、文明開化の流れに乗り、新聞が多数創刊されました。この引札では、店主と思しき人物が新聞に乗って飛んでいます。添えられた字は「勉強家の親玉」「新聞にのせて世界中広告」。絵は、これと同じ意味のことを表しているのでしょう。

5-11 女性 紙 筆 牡丹 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-11
女性 紙 筆 牡丹
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-11 「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」は江戸時代から使われている美人を形容する言葉です。大輪の牡丹と一緒に描かれた五人の美人は目に鮮やかな服をまとっています。左端の女性が筆を持っており、商店の名前を書き入れる係と見られます。このような引札はおそらく呉服店などに重宝されたことでしょう。

5-12 女性 バイオリン 楽譜 君が代 明治四十年(一九〇七)頃 平版(クロモ石版 石版転写) 古島竹次郎 版

5-12
女性 バイオリン 楽譜 君が代
明治四十年(一九〇七)頃
平版(クロモ石版 石版転写)
古島竹次郎 版

5-12 明治期は「ヴァイオリンを弾く女学生」がとても文化的でハイカラな存在としてとらえられていました。明治三十三年には国内で大量生産が始まりピアノほど高価でないため、ハイカラであると同時に、ピアノよりも親しみやすい楽器だったようです。

 

5-13 母子 犬 狆 明治末~大正 平版(クロモ石版 石版転写)

5-13
母子 犬 狆
明治末~大正
平版(クロモ石版 石版転写)

5-13 女性が子供を脇にして狆を抱いています。狆は江戸時代に将軍や大名や一部の裕福な商人が愛玩した超高級犬でした。明治時代も高級犬に違いはありませんが、もう少しハードルが下がり富裕層の間で流行しました。

5-14 結納品 女性 盃 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-14
結納品 女性 盃
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-14 江戸時代に公家や武家、裕福な商家が行っていた結納・結婚式が、明治時代になって庶民の間でも行われるようになりました。結納品の引札まで作られたということは、当時それだけ庶民に浸透したという証でもあるでしょう。

5-15 母子 旅客手荷物運搬人 駅 船  明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

5-15
母子 旅客手荷物運搬人 駅 船
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

5-15 美しく着飾った親子連れが駅構内を歩いています。この引札が配られたころは鉄道旅行が人気でした。赤い帽子をかぶって荷物を運ぶ青年は「赤帽」と呼ばれるポーターです。明治三十年から主要な駅の構内で営業しました。

5-16 金森 観陽 相撲 古今横綱一覧 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-16
金森 観陽
相撲 古今横綱一覧
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-16 相撲好きにはたまらない一枚だったでしょう。相撲の祖の戦いから、各力士の名取り組み、そして古今横綱一覧まで相撲尽くしになっています。なお、相撲は天下泰平・子孫繁栄などを願う神事と密接につながっています。

5-17 広瀬 春孝 子供 野球 競舟 桜 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

5-17
広瀬 春孝
子供 野球 競舟 桜
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

5-17 カッターレースや野球などのスポーツ競技が始まったのも明治時代です。新しいものは何でも次々と引札に描いていきました。新しい物事それこそが新年を寿ぐ題材でもあったのです。

5-18 日の出 船 鷹 "版権登録" 明治二十七年(一八九四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-18
日の出 船 鷹 “版権登録”
明治二十七年(一八九四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-18 日清戦争の時、日本海軍の旗艦・高千穂のマストに鷹が舞い降りたという逸話があります。この鷹は神武東征の際に現れた金鵄に見立てられ、様々な詩が詠まれました。戦争になると、戦勝を願って縁起を担ぐ引札が描かれました。

5-19 陸軍 隊列 旭日旗 軍旗 金鵄勲章 桜 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

5-19
陸軍 隊列 旭日旗 軍旗 金鵄勲章 桜
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

5-19 戦時中は士気を鼓舞するプロパガンダ的な要素が見られる引札が発行されました。この引札は糸屋が使用しています。糸を使った軍服が画面を埋め尽くしています。

第6章 描かれた商いの風景

引札には、農業・漁業などの産業や、また、米店・乾物店・酒店などの食料品店、呉服・履物などの衣料品店ほか、多種多様な店舗の様子が描かれています。いうまでもなく、これは引札を配っている店の仕事を見た人に覚えてもらうためであり、新年に配るにふさわしく、店は大いに繁盛し、来店客も幸せいっぱいな様子に描かれています。例えば足袋屋の引札では、足袋の製造から販売までおこなわれている店の様子がにぎにぎしく描かれています。この引札を買った足袋屋は余白に新年の挨拶と店の名前を太々と書いてなじみの顧客に渡したのです。
当時の商いの情景と余白に記された商店の情報を合わせてお楽しみください。

第4展示室2

第4展示室2

6-01 漁 一本釣 日の出 "鰹大漁之真景" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

6-01
漁 一本釣 日の出 “鰹大漁之真景”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

6-01 カツオの一本釣りの様子です。手前の船左側の漁師が鰹を寄せる小魚を撒き、その両隣で糸を垂らし、船中央には漁師が釣った鰹を抱いて、それを横の漁師がたらいに入れようと待ち構えています。細かくスケッチをしています。

6-02 米店 俵詰め 恵比寿 大黒 枡 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-02
米店 俵詰め 恵比寿 大黒 枡
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-02 掛かる小旗には「極上」「大勉強」「大安売」の文字。大量に積み上げられた米を次々と俵に詰めている米屋の光景は豪勢です。この引札を使ったのは各国(各地域)の白米を販売する大阪の(丸虎)上條西支店です。

6-03 青果 乾物店 野菜 恵比寿 大黒 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-03
青果 乾物店 野菜 恵比寿 大黒
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-03 「万青物乾物商」の暖簾がかかっています。描かれているのは野菜・果物・キノコ類です。大黒が抱えるのは豊作を暗示する二股大根。恵比寿は株(カブ)があがるようにと蕪(カブ)を高く捧げています。

6-04 乾物店 店内の様子 女性 恵比寿 卵 結納品 明治四十二年(一九〇九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島徳次郎 版

6-04
乾物店 店内の様子 女性 恵比寿 卵 結納品
明治四十二年(一九〇九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島徳次郎 版

6-04 乾物類と卵の組み合わせの引札が多いです。乾物店はおそらくこの頃は卵を一緒に販売していたのでしょう。左側に記された商店の紹介文を読んでみると、ここでは乾物以外に野菜果物(青物)や雑貨(荒物)や紙も販売しています。

6-05 酒造 七福神 唐子 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-05
酒造 七福神 唐子
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-05 七福神が酒を造っています。酒造りは、それぞれの酒蔵で秘伝ともいえる独特の製法で作られていましたが、明治政府は酒造検査制度を整備して、各製法をすべて検査して門外不出であった酒造法を明らかにしたそうです。

6-06 醤油 酢 塩 味噌 店内の様子 恵比寿 大黒ほか 明治三十五年一九〇二頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-06
醤油 酢 塩 味噌 店内の様子 恵比寿 大黒ほか
明治三十五年一九〇二頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-06 酢・醤油・味噌といった調味料を販売している店の様子です。樽や瓶に詰めて販売している様子が描かれています。ただし、これはあくまで絵空事ですのでご注意を。画面の左半分をしめるこんな大きな樽は店頭にはありません。

6-07 茶園 製茶 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-07
茶園 製茶
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-07 製茶の様子が描かれています。左上には茶摘みの場面が、右下には焙炉の上で茶葉を両手で交互にでんぐり返しながら揉む「でんぐり」と呼ばれる手揉みの製法が描かれています。手前左の甕には「玉露」の文字が見えます。

6-08 茶舗 店内の様子 女性 色紙 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-08
茶舗 店内の様子 女性 色紙
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-08 茶舗の店内が描かれています。棚の甕には茶の名前、若緑・相生・玉露・正喜撰・川柳が、袱紗をさばく女性の横の色紙には、「宇治は茶ところ 茶はこゝの店 のんで香もあるあじもある 利休」が添えられています。

6-09 菓子店 店の様子 菓子折を持つ女性 "砂糖菓子…" 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-09
菓子店 店の様子 菓子折を持つ女性 “砂糖菓子…”
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-09 明治時代になって外国のお菓子が売り出されました。暖簾に「和洋砂糖御菓子」と記されています。あとに続く「掛物」は砂糖掛け菓子の総称です。贈答品にはお菓子と印象付けるかのように女性が熨斗付きの菓子箱を持っています。

6-10 「一水」款 酪農 幼児 哺乳瓶 花 明治四十一年(一九〇八)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-10
「一水」款
酪農 幼児 哺乳瓶 花
明治四十一年(一九〇八)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-10 江戸時代まで乳製品はなじみのない食品でした。明治時代になって乳製品ガイドが徐々に出版されるようになり、牛乳は母乳の代用品や滋養品として普及するようになりました。牧場も増え、この絵のような哺乳瓶が製造されました。

6-11 肥料店  店頭 肥料 女性 米の収穫 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-11
肥料店 店頭 肥料 女性 米の収穫
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-11 江戸時代の日本の肥料は田畑の近隣でできる有機質肥料が中心でしたが、明治時代になって化学肥料が推奨され、各地に肥料を販売する店が出来ました。袋に見える硫曹は明治三十年から製造された過リン酸石灰肥料です。

6-12 薪炭店 店の様子 蔵 港 日の出 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-12
薪炭店 店の様子 蔵 港 日の出
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-12 薪炭店は今、キャンプブームもあって活気があるようですが、明治時代はそもそも生活に使うの主な燃料が薪と炭でしたので、薪炭店は地域になくてはならない大切な店でした。そしてこの絵にあるように馬は大切な運搬手段でした。

6-13 油店 店の様子 オイルランプ 女性 福助 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-13
油店 店の様子 オイルランプ 女性 福助
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-13 江戸時代の明かりは行灯や灯明でした。明治時代に石油ランプが急速に普及しました。明るさが十倍以上あったことや、灯油価格が菜種油の半値ということもあったようです。なお、一般家庭に電灯がともるのは明治末期です。

6-14 鍛冶屋 鍛冶の様子 耕作 大黒 鏡餅 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-14
鍛冶屋 鍛冶の様子 耕作 大黒 鏡餅
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-14 鍛冶屋を描いた引札は珍しく、あまり見られません。一番左の人物がふいごで火を強くし、その右の人物は金属を鍛錬しています。床には出来た農具が並べられ、右上に農具を使った仕事ぶりが描かれています。

6-15 諸金物 鍛冶 金物屋 店頭 "万金物商…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-15
諸金物 鍛冶 金物屋 店頭 “万金物商…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-15 右上には鍛冶の神事。中上の金物商の看板には「万金物商」。看板の通り描かれているのは思いつく限りの金物類です。この引札を配ったのは金物全般を取り扱う今北商店。どんな金物でも揃えますという意気込みが感じられます。

6-16 足袋屋 店内 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-16
足袋屋 店内
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-16 右下の職人が重ねた生地の上に型紙をおいて特殊な刃物で裁断し、その左側の職人は針で縫い合わせています。足袋の製造から販売まで賑わう様子が描かれています。相変わらず御引立てくださいとの言葉が添えられています。

6-17 履物屋 店の様子 女性 "流行履物商…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-17
履物屋 店の様子 女性 “流行履物商…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-17 暖簾には流行履物商の文字が染め抜かれていて、店内には草履、げた、鼻緒が店いっぱいに陳列されています。流行は履物商の引札によく使われる言葉です。「当世流行」(今のはやり)という言葉もよく使われていました。

6-18 栄松斎 中嶋政七 店頭風景 "万傘提灯仕入所…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

6-18
栄松斎
中嶋政七 店頭風景 “万傘提灯仕入所…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

6-18 建物中央入口の左の柱に郵便受箱がありますが、これは珍しいです。郵便受箱は昭和時代になって普及したとい言われています。路上に広げた傘には大と小の月の暦が記されています。現在使われているグレゴリオ暦が導入される前の和暦では、三十日ある月を大、二十九日の月を小として、カレンダーとしていました。

6-19 養蚕 蚕棚 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-19
養蚕 蚕棚
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-19 大河ドラマ『青天を衝け』でも紹介された通り、養蚕は当時の日本の重要な産業です。中央の女性は卵からかえった蚕を蚕卵紙から蚕座へ移しています。右側の蚕棚の上で蚕が育っています。引札を配ったのは「万糸物商 堀糸店」。

6-20 染屋 染と洗張の様子 女性 明治四十二年(一九〇九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-20
染屋 染と洗張の様子 女性
明治四十二年(一九〇九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-20 染・洗い・湯のし・洗張、染物所が請け負う各仕事の様子が描かれています。この引札を配布した万染物所 谷川亀太郎の店では印伴天・のれん・風呂敷・黒紋付などの染や洗張・ゆのし、その他いろいろ請け負ったようです。

6-21 広瀬 春孝 呉服店 反物 女性 "現金かけ値なし…" 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-21
広瀬 春孝
呉服店 反物 女性 “現金かけ値なし…”
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-21 反物を滝に見立てて店頭ディスプレイをしています。暖簾に書かれた字は「ごふく(呉服 絹織物) ふともの(太物 衣服にする布地) 唐端物(中国の布地)商」。柱には「現金かけ値なし正札付」と安売り低価販売をうたっています。

6-22 洗濯屋 店の様子 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-22
洗濯屋 店の様子
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-22 洋服が出回ると、洗濯サービスができました。この引札には「和洋せんだく(洗濯)所 並ニ悉皆湯のし(すべてアイロンかけ) 商号あらいや」とあります。「あらいや」では和服の洗張や湯のし、洋服の洗濯アイロンかけをしたようです。

6-23 尾竹 国一 小間物屋 店の様子 母子 "内外小間物商" 明治三十五年(一九〇二) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-23
尾竹 国一
小間物屋 店の様子 母子 “内外小間物商”
明治三十五年(一九〇二)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-23 小間物というジャンルの店がありました。日用品・化粧品などこまごましたものを売る店です。引札に描かれた品々、商店名に添えられた商品名「和洋小間物 洋傘類 化粧品 各種卸小売 各国時計 たばこ」のとおりです。

6-24 化粧品 手袋 女性 鏡 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)

6-24
化粧品 手袋 女性 鏡
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)

6-24 前の引札で紹介した小間物を、装う姿を紹介します。明治期は政府の西洋化推進の影響もあり、服装や化粧が洋風化し、香水も急速に普及したと言います。このように洋風の装いを描いた引札も洋装普及に貢献したかもしれません。

6-25 煙草店 店頭 看板 日の出 "天狗巻煙草…" 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

6-25
煙草店 店頭 看板 日の出 “天狗巻煙草…”
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

6-25 西洋化はタバコのような嗜好品にも及びました。看板にかかっているのは当時人気の銘柄です。右のカメヲはアメリカからの輸入品で、天狗巻煙草とヒーローは国産です。主な喫煙スタイルがキセルから西洋式の紙巻に変わりました。

6-26 茶店 店頭風景 桜 提灯 "祝繁栄 迎花客" 明治三十二年(一八九九) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

6-26
茶店 店頭風景 桜 提灯 “祝繁栄 迎花客”
明治三十二年(一八九九)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

6-26 茶店の机には酒と思しき瓶が並んでいます。店先の女性は花見客に向って手招きしています。店の行灯には「迎花客」の文字があります。花客とは、花見客のほかひいきの客、お得意様という意味もあります。茶店の引札も比較的珍しいものです。

第7章 不動の吉祥キャラクター

引札には七福神・福助・お多福を始めとした数々の福の神が描かれています。中でも恵比寿と大黒は圧倒的な人気を誇っていて、当館所蔵の引札のなかでは4枚に1枚は恵比寿か大黒がどこかに登場しています。気球に乗ったり、花見をしたり、時には帽子の上にチョンと乗っていたりと、まるで隠れキャラのような描かれ方まで。福の神はとにかく仲がよさそうに描かれていてほほえましく、明治時代も終わりごろになると、神様というより親しみやすいキャラクターとして描かれたようです。
人々に愛された福の神の姿をご覧ください。

第4展示室3

第4展示室3

7-01 「寳斎」款 恵比寿 大黒 盃 "春興福神□戯"  明治十四年(一八八一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 中村小兵衛 版

7-01
「寳斎」款
恵比寿 大黒 盃 “春興福神□戯”
明治十四年(一八八一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
中村小兵衛 版

7-01 まず恵比寿・大黒の見分け方を説明します。恵比寿は釣り竿・鯛・柏紋・頭に折烏帽子または手拭、大黒は大きな白い袋・打出の小槌・米俵・ネズミ・頭に頭巾。これらのいずれかの特徴を持っています。どうぞ見分けてみてください。

7-02 「寳斎」款 恵比寿 大黒 福禄寿 万歳 洋傘 "春遊三福神末広" 明治十四年(一八八一)頃 凸版(木版整版 多色摺) 中村小兵衛 版

7-02
「寳斎」款
恵比寿 大黒 福禄寿 万歳 洋傘 “春遊三福神末広”
明治十四年(一八八一)頃
凸版(木版整版 多色摺)
中村小兵衛 版

7-02 万歳は祝福芸のひとつで、正月に家々の座敷や玄関前で新年を寿ぐ祝言を述べ、小鼓を打ち舞を舞うものです。舞う福禄寿の後ろで恵比寿が傘をさしています。傘は下の方が開いているので末広がりで縁起が良いとされています。

7-03 太田 節次 恵比寿 大黒 お金 "宝福神 金 万 両"  明治二十四年(一八九一) 平版(砂目 石版転写 多色刷)・手彩色 太田節次 版

7-03
太田 節次
恵比寿 大黒 お金 “宝福神 金 万 両”
明治二十四年(一八九一)
平版(砂目 石版転写 多色刷)・手彩色
太田節次 版

7-03 釣竿を持ち鯛を抱える左の恵比寿は海の幸、米俵に座り打出の小槌振る大黒は山の幸を与えてくれる神様です。そのどちらにも恵まれ豊かになるようにと二人並んだ絵が喜ばれました。中央のネズミはお札の束を持っています。

7-04 恵比寿 大黒 三番叟 明治二十五年(一八九二) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-04
恵比寿 大黒 三番叟
明治二十五年(一八九二)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-04 三番叟は新年・新築・こけら落としなど事の初めに舞われます。諸説ありますが、鈴を振り大地を踏み鳴らすしぐさが、種をまき地を鎮めることに通じているとか。たしかにこの絵も鈴を振り地を踏み鎮めているのは地の神の大黒です。

7-05 恵比寿大黒 鼠 花車 金のなる木 明治二十七年(一八九四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-05
恵比寿大黒 鼠 花車 金のなる木
明治二十七年(一八九四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-05 明治二十年頃から、引札の印刷方法が凸版から平版に移行します。絵の表現も足元に影を描くなど西洋的な表現を取り入れたりしました。ただ、どんなに西洋の技術が導入されても恵比寿大黒はかわらず描き続けられました。

7-06 恵比寿 大黒 お金 金庫 明治二十九年(一八九六)頃 平版(木版 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

7-06
恵比寿 大黒 お金 金庫
明治二十九年(一八九六)頃
平版(木版 地紋フィルム 石版転写 多色刷)

7-06 恵比寿 大黒などの福の神は、江戸時代と変わらず描き続けられるのですが、一緒に描かれる物は時代に合わせて変化していきます。この引札ではこれまで描かれていた蔵が金庫に、小判がお札に変化しています。

7-07 尾竹 国一 恵比寿 大黒 気球 日の出 富士 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-07
尾竹 国一
恵比寿 大黒 気球 日の出 富士
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-07 気球は明治十年代に日本に登場し、明治二十三年にスペンサーが各地で興行した時はそのことが歌舞伎になるほど評判になりました。明治三十年代は気球からビラをまいたり垂れ幕を垂らしたり、都会で目にする機会が増えました。

7-08 尾竹 国一 小間物屋 傘 帽子 恵比寿 大黒 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-08
尾竹 国一
小間物屋 傘 帽子 恵比寿 大黒
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-08 シルクハットをかぶった大黒が掲げた手の先に赤白帽子を手にした恵比寿がいます。どちらも広告屋の姿のひとつです。このお店の宣伝をしているのですね。小さな気づきですが、傘の柄が十二支の寅・卯・辰・戌になっています。

7-09 尾形 国一 恵比寿 大黒 福助 揮毫 日の出 汽車 船 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-09
尾形 国一
恵比寿 大黒 福助 揮毫 日の出 汽車 船
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-09 広告屋と思われる人物の手の上に、硯を捧げ持つ大黒と、店の名前を揮毫しようと筆を構える恵比寿がいます。ここに記される店は商品をリーズナブルに提供してくれると、袖口にいる福助の扇子に記されています。

7-10 恵比寿 大黒 汽車 日の出 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-10
恵比寿 大黒 汽車 日の出
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-10 左側に店の名前や営業品目が書かれて引札は完成します。もしこの引札に店名が書かれていれば、恵比寿は筆を休めているのでちょうど書き終わったという演出になっていたことでしょう。それにしてもなんと自由で奇抜な絵でしょうか。打出の小槌の中から汽車が走り出てきています。

7-11 恵比寿 大黒 遊戯 子捕ろ子捕ろ "福来" 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-11
恵比寿 大黒 遊戯 子捕ろ子捕ろ “福来”
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-11 恵比寿と大黒が裾をたくし上げた振り袖姿の少女と子捕ろ子捕ろをしています。その遊びは連なった先頭の人が親となって、後ろに続く子を鬼から守るというものです。日本スポーツ協会の公式ホームページなどで紹介されています。

7-12 恵比寿 大黒 日の出 猪目 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

7-12
恵比寿 大黒 日の出 猪目
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

7-12 日の出を象徴するかのような赤い色。この形は何なのでしょうか。日本には古来からハートの形をした猪目という吉祥模様があります。心臓を表すハート形は明治時代からありますが、恋や愛を象徴するのは大正時代からのようです。

7-13 大黒 お金 大福帳 算盤 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷)・空押 古島竹次郎 版

7-13
大黒 お金 大福帳 算盤
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)・空押
古島竹次郎 版

7-13 左側に大福帳が描かれています。この表紙に太々と店の名前を書いて配ることになります。画面いっぱいに打出の小槌を持つ大黒と大福帳と算盤とお金を大きく描いて、すがすがしいまでに金儲けを願った引札です。

7-14 「如泉」款 恵比寿 福笹 日の出 "勉強の…繁栄" 明治三十七年(一九〇四)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-14
「如泉」款
恵比寿 福笹 日の出 “勉強の…繁栄”
明治三十七年(一九〇四)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-14 日の出を背景に恵比寿が福笹を担いでいます。この福笹は商人えびすともいわれる新春のえびす講(十日戎・廿日戎)で頒布された、縁起物を結び付けた竹の枝でしょう。色紙には「勉強の店に福来る」と記されています。

7-15 広瀬 春孝 七福神 お金 金採掘 "七福神 新機器ヲ以テ…" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-15
広瀬 春孝
七福神 お金 金採掘 “七福神 新機器ヲ以テ…”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-15 右上の文字は「七福神 新機器ヲ以テ 金礦採掘ス」七福神が最新鋭の機械を使って金を採掘しています。福禄寿は大きな機械を操作していて、弁財天は何やら火花を散らしています。恵比寿と大黒は利益の計算に大忙しです。

7-16 七福神 来迎 日の出 明治三十三年(一九〇〇)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-16
七福神 来迎 日の出
明治三十三年(一九〇〇)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-16 日の出を背に、七福神が金雲をたなびかせて天からやってきました。引札に七福神が描かれるときは、地上で働いていたり遊んでいたりと人間味豊かに描かれることが多いのですが、ここでは神聖が大切にされています。

7-17 見立七福神 観梅 "にこにこと…" 明治三十四年(一九〇一) 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-17
見立七福神 観梅 “にこにこと…”
明治三十四年(一九〇一)
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-17 右上の句は「にこ〳〵と 七福人の 梅見かな」。七福神に仮装して梅見を楽しんでいる人たちのようです。右側坊主頭で羽織に扇紋は布袋、その右の口ひげを蓄えた人は毘沙門天。一群の先頭の打出の小槌紋の人は大黒でしょう。

7-18 尾竹 国一 七福神 遊戯 恵比寿を驚かせる 屏風 明治三十四年(一九〇一)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-18
尾竹 国一
七福神 遊戯 恵比寿を驚かせる 屏風
明治三十四年(一九〇一)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-18 七福神はとにかく仲が良いようです。どの引札にも楽しく一緒に過ごす様子が描かれています。この引札には、恵比寿を驚かせようと屏風の隙間に隠れていたほかの六神が突然顔を出したところが描かれています。

7-19 列車のホーム 煙草売の恵比寿 七福神 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-19
列車のホーム 煙草売の恵比寿 七福神
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-19 恵比寿が列車のホームでタバコを売っています。帽子がちょっと折烏帽子っぽくなっています。お金を出そうとしているのは大黒、その後ろから毘沙門天が手を伸ばしています。網棚には布袋の扇や大黒の小槌が載っています。

7-20 七福神 観梅 明治四十年(一九〇七)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 古島竹次郎 版

7-20
七福神 観梅
明治四十年(一九〇七)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
古島竹次郎 版

7-20 洋装の七福神が歩いてきます。先頭のコート姿は柏紋が入っているので恵比寿です。その後ろの弁財天はファーマフラーを首に巻いて手はマフ。一番右の大黒天は英国から入った流行のチェック柄を身につけステッキを持っています。

7-21 広瀬 春孝 福助 モーニングコート "大勉強 広告" 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-21
広瀬 春孝
福助 モーニングコート “大勉強 広告”
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-21 髷を下ろして髪型を七三分けにし、和服を脱いでモーニングコートに身を包んだ五人の福助が並んでいます。最後尾には赤い旗が掲げられています。結構な迫力です。当時の人たちはこの絵をどのような感情で眺めたのでしょう。

7-22 小間物 象 福助 明治三十五年(一九〇二)頃 平版(木版 石版転写 多色刷) 野村富三郎 版

7-22
小間物 象 福助
明治三十五年(一九〇二)頃
平版(木版 石版転写 多色刷)
野村富三郎 版

7-22 幸運を招く福助が扇子を指し棒にして小間物を売り込んでいます。その後ろでは白象がスリッパをはいて帽子をかぶり懐中時計の首輪をつけて、長い鼻で上手に傘をさしてアコーディオンを弾いています。ものすごい迫力です。

7-23 お多福 枡 箕笊 "士農工商 み入よく…" 明治後期 平版(木版 石版転写 多色刷)

7-23
お多福 枡 箕笊 “士農工商 み入よく…”
明治後期
平版(木版 石版転写 多色刷)

7-23 右上に「士農工商 み入よく 福が入升」と書かれています。その文意の通り、竹で編んだ箕の中に、士農工商に関するいろいろな宝が沢山のお金と一緒によく入っています。升にはお多福が入っています。

7-24 広田 春盛 福助 お多福 扇 牡丹 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-24
広田 春盛
福助 お多福 扇 牡丹
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-24 福助とお多福の正体が誰なのか、はっきりとはわかりません。この絵はふくよかだったとされるお多福と、小柄だったと伝えられる福助をデフォルメして、楽しげな雰囲気で描いています。富貴と末広がりを象徴する牡丹と扇が添えられています。

7-25 三島 文顕 猩々 盃の船 甕 明治中期 凸版(木版整版 多色摺)

7-25
三島 文顕
猩々 盃の船 甕
明治中期
凸版(木版整版 多色摺)

7-25 猩々が登場する能は人気の演目です。素直な心を持ったお酒売が、猩々から酌めども尽きない酒の泉が湧く壷をもらって栄えるという祝言の趣きある話です。猩々はチャーミングな振る舞いも相まって愛されたキャラクターです。

展覧会出口

展覧会出口

「引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし 4(引札の豆知識ほか)」に続きます。

青木隆幸

うみもり香水瓶コレクション15 ランバン社《モリス広告塔》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。現在、海の見える杜美術館の香水瓶展示室では、企画展示室で開催中の、明治・大正・昭和時代のちらしを紹介する「引札-新年を寿ぐ吉祥のちらし―」展に合わせて、フランスの広告塔をかたどったランバン社《モリス広告塔》を展示しています。

「モリス広告塔」という名だけでは、いかなるものか想像しづらいものですが、画像を見れば一目瞭然、パリの街角でおなじみの、あの広告塔のことです!

こちらです👇

画像1

ランバン社、香水瓶《モリス広告塔》デザイン:ギョーム・ジレ、1950年頃(?)、陶器、紙、 海の見える杜美術館LANVIN, COLONNE MORRIS FLACON Design by Guillaume Gillet -C.1950? Earthenware,Paper, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

この「モリス広告塔」は、1868年に登場して以来、パリのあちらこちらの街頭に普及した、ポスターを掲示するための特別な円柱です。コンサートや演劇等の催しを道行く人に知らせるこの広告塔は、今日に至るまでパリジャンに愛され、この都市を象徴するオブジェのひとつとなっています。また異国から訪問する私のような者でも、パリの空港から市内に入り目的地へと着くまでのあいだ、車の窓からいくつもの広告塔を見るとはなしに見ていると、活気ある愛しのパリに再びやってきたのだという実感が次第にこみ上げてくるものです。モリス広告塔は、文化イベントの最新情報を提供する以上に、唯一無二のパリのエッセンスそのものを見る者に伝えてくれるのかもしれません。

ただ、あまりに町のあちこちにありすぎて、ついありがたみが薄れてしまい(モリス広告塔よ、ごめんなさい!)広告塔だけを撮影したことはないのですが、この度、実際の様子をお伝えしようと、過去の画像データから写真を探していると、偶然小さく写り込んだものを見つけました!こちらです👇

画像2岡村嘉子撮影、2009年

見つけるのは名作絵本『ウォーリーをさがせ!』並みに難易度が高いですが、おわかりになりましたか? 地下鉄入り口の美しい欄干とモザイクを撮影していたので、右奥にモリス広告塔があったとは我ながら気付かなかったのですが、奥へと延びる狭い通りの入り口右側に、しっかりとあるではないですか! 広告塔の拡大写真と、ランバン社の香水瓶を並べてみると……、

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

その類似がよくわかりますね!

ランバン社の本作品は、終戦後まもなくファッションデザイナー、ジャンヌ・ランバンによって発表されました。柱の表面には、「アルページュ」や「マイ・シン(私の罪)」など、2021年7月のブログでも取り上げた、戦前の明るい時代を彩った、ランバン社歴代の香水のポスターが貼られています。ジャンヌ・ランバン母子が描かれたランバン社のマークのポスターも中央にありますね。

ポスターの雨除けの役目を果たす上部のはりだし部分には、香水瓶に収められた男性用香水「オー・ド・ランバン」の文字が刻まれています。この香水もまた、1933年からあるものですが、香水瓶のデザインをパリの街角の象徴に一新することで、ユーモアに満ち活気あふれる戦後のパリを広く印象づけることとなったのです。

さて、この大胆なデザインの改変を行ったのは、後年、フランスの近代建築を代表する建築家として名を馳せたギョーム・ジレです。

私は、香水瓶をデザインするまでのジレの人生を思うと、この香水瓶が放つ、平穏で明るいパリの雰囲気にことのほか圧倒されます。というのも、そこにはパリからも親しい人々からも、そしてそれらが放つ香りからも遠く離れた地で、捕虜として過ごした暗い年月のなか、再会を強く夢見たものが投影されているように思えるからです。

ジレは、パリ近郊、フォンテーヌ=シャアリのジャックマール=アンドレ美術館の学芸員の父と、アカデミー・フランセーズ会員を代々輩出した家系出身の母のもと、常に芸術が身近にある家庭環境のなかで育ちました。そのため、長じた彼が芸術の道へ進んだのは当然のことであったでしょう。彼は国立エコール・デ・ボザールで絵画を学び、その一方で1937年、国家試験合格の建築家となると、同年に開催されたパリ万国博覧会でブラジルとウルグアイをはじめとするパヴィリオンの建設に参加します。このように若き芸術家として順風満帆に歩み始めるのですが、時代は刻一刻と避けがたい戦争の影が色濃くなっていく頃のこと。活躍の矢先の1939年に彼は動員され、翌1940年にはナンシーで捕らえられて、ドイツ軍の捕虜となってしまうのです。こうして1945年に解放されるまでの約5年間、彼はドイツで捕虜生活を送りました。

ジレは収容所での日々の中、画家・装飾家として自分の出来得る限りのことをしています。例えば、現在も収容所のあった地に残る、学生時代からの友人ルネ・クーロンとともに手掛けた、いわゆる「フランス人の礼拝堂」です。それは、収容所の質素な屋根裏の壁に「キリストの受難」や「ピエタ」等のキリスト教主題のフレスコ画を描いたものでした。同礼拝堂の壁には、クーロンによるフランスの聖人たちが描かれたフランスの地図もありました。明るい色合いで描かれた天使や聖人が見守るこのささやかな祈りの空間が、どれほど多くの捕虜たちの心を慰め、また故郷への思いを募らせたことでしょう。

そのような苦難の日々を経て、ようやく戻ったパリおよび、次いで滞在したローマにて、ジレはかつての日常を取り戻し、解放後の自由を謳歌します。

そのなかで、彼はジャンヌ・ランバンの娘であるポリニャック伯爵夫人と親しくなり、戦後のランバン社の香水の広告をいくつも手掛けています。そのいずれもがこの香水瓶同様、明るく楽しい雰囲気に満ちているのです。例えばこちらです👇

画像4

ランバン社 広告《ランバンの香水》デザイン:ギョーム・ジレ、1950年、印刷、 海の見える杜美術館 LANVIN, ADVERTISEMENT Design by Guillaume Gillet -C.1950 Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ランバン社の戦前のアール・デコ・デザインを知る者としては、香水名すら正面に明記されていない、1925年を代表する黒と金のシンプルかつ優美な球形香水瓶からの、サーカスの愉快な面々が体現する香水へのデザインの変化に驚きつつも、その大胆なユーモアについ笑みが浮かんでしまいます。なんといっても、名香「アルページュ」の名は、陽気なお猿さんが手にする日傘の柄として描かれていますし、これまた一時代を築いた「マイ・シン(私の罪)」は、なんとヒョウ柄パンツ姿にスキンヘッドのいかついレスラーの胸板に直接記されているのです!

左:ランバン社《球形香水瓶、マイ・シン(私の罪)》 デザイン:アルマン・ラトー(本体)ポール・イリーブ(イラスト部分)1925年、黒色ガラス、金、海の見える杜美術館LANVIN, BOULE FLACON, Design by Armand Rateau, Paul Iribe -1925, Black glass, gold、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima右:ランバン社 広告《ランバンの香水》部分、 LANVIN, ADVERTISEMENT  ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

戦争の苦難の年月の反動のように、そこかしこで笑みが生まれるこの雰囲気こそ、ジレに限らず彼と同時代の多くの人々の様々な思いや願いを代弁するものではないでしょうか。1950年前後のランバン社の香水瓶と広告は、心身に多くの傷を負いながらも、平穏な世界を目指して前へ進もうとする無数の人々の存在を克明に伝えてくれるものであると私には思えるのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

画像7

©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

「アルページュ」の日傘を持つお猿さんの顔にも笑みが!

 

「大坂屋清兵衛(大清)」の引札

羽前米沢粡町の大坂屋清兵衛の引札があります。
商っている商品は小間物と書籍のようです。

2021-003-16「萬小間物書肆舗(丸に太)羽前米澤粡町 大坂屋清兵衛」

明治時代の羽前米澤粡町(あらまち)は、現在の山形県米沢市中央3・4・5丁目の間の粡町通りを中心とした地域です。

中村清治編『粡町史』(粡町協和会 1942)には、粡町には1000年を超える歴史があり、米沢のなかで最も繁栄した商家町であったことが記されています。また、その町史には大坂屋清兵衛についての記述もあり、まず文化8年(1811)の地図の粡町上通り西側の清兵衛の表記、そして弘化3年(1847)、明治12年(1879)、昭和16年 (1931)の地図において、小間物屋の大坂屋清兵衛(中村清兵衛)から始まり、金物商 大清 中村清兵衛として同地で発展しながら敷地を拡大していることがわかります。また、明治11年(1878)に洋灯(ランプ)を始めて米沢に移入して販売した人物としても紹介されています。そのランプを一目見ようと近隣からたくさんの人たちが大坂屋清兵衛の店に集まったそうです。(同書114頁)

ここまでこの引札に記された「大坂屋清兵衛」のことを追ってまいりましたが、調べて見ましたら、山形県米沢市でNo1の配管資材、建設資材のプロショップとして現在も同地で株式会社 大清として営業されていることがわかりました。元禄元年(1688)創業以来、今年で実に333年になる老舗中の老舗です。

この引札は、今からおよそ140年前、小間物屋から次第に事業を拡大し、洋灯(ランプ)の販売を誰よりも先駆けて米沢で販売を始めたころ、年の瀬に配布して店の宣伝に努めたものです。その後も事業を伸張させ、現代まで続いていることに思いをいたすと、とても感慨深いものがあります。

恐れながら14代目当主 中村友彦氏にご連絡差し上げ、この引札が間違いなく同社配布のものであることをご確認いただき、また諸事ご教示いただきますとともに、諸資料のご提供と使用許可をいただきました。

現在は同地に大きなビルが建ち、中には資料室も設けられています。現社屋 資料室1 資料室2 資料室店舗復元1 明治史料1明治史料2

この引札は、今日から開催する以下の展覧会に出品いたします。
株式会社 大清の140年前のチラシをぜひ直接ご覧ください。

【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

 

 

ちなみに、この引札の1年違いの見本が残されています 。明治15年の略暦と見本番号と代金「ヌ印 壱円七十銭」が添えられているので、少し考えてみますと、明治15年の貨幣価値は、白米10キロ82銭 、日雇い労働者の日当22銭 ですから、仮に1円を現在の貨幣価値5,000~10,000円ぐらいとするなら、ここに記された価格は100枚当たりの金額なので1枚当たりおよそ85~170円ということになります。大阪屋清兵衛はこの引札の見本を見て、購入を決め、空欄に自分の店の名前を印刷してなじみのお客様に配布したのです。

引札明治15年

 

青木隆幸

うみもり香水瓶コレクション14 キャロン社《プール・ユンヌ・ファム》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。ご好評を頂いている秋季の企画展「美人画ラプソディ・アンコール――妖しく・愛しく・美しく」も、まもなく会期終了を迎えようとしています。前回のブログ「うみもり香水瓶コレクション」では、企画展のテーマのひとつ「女の装い プラス・マイナス」(女性が身繕いをしている姿やそれを解いた姿をとらえた作品群)にちなみまして、「番外編 フランス」と題し、スキャパレリ社《ショッキング》を取り上げました。今回はその続きで、この機会にぜひお目にかけたいキャロン社の香水瓶をご紹介いたします!

こちらの香水瓶です。👇

プール・ユンヌ・ファム

キャロン社 、香水瓶《プール・ユンヌ・ファム》デザイン:フレデリコ・レストレポ、2001年、透明クリスタル、リボン、製造:バカラ社 海の見える杜美術館CARON, POUR UNE FEMME WITH ITS CASE Design by Frederico RESTOREPO -2001, Transparent crystal, ribbon, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

今回も女性のボディをかたどった香水瓶です。前回の《ショッキング》と並べてみると、その相違がわかりますね!

左:スキャパレリ社 、香水瓶《ショッキング》デザイン:レオノール・フィニおよびピエール・カマン、1937年、透明ガラス、彩色ガラス、海の見える杜美術館RENE LALIQUE, SHOCKING FLACON Design by Leonor FINI and Pierre CAMIN  -1937, Transparent glass , color glass, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

スキャパレリ社《ショッキング》は、巻き尺が首にかけられた仕立て用ボディが表現されており、鮮やかな色合いと花々の装飾も相まって、華やいだ雰囲気に満ちています。この香水瓶からは「これからどんな素敵なドレスに仕上がるかしら?」と目を輝かせる女性の顔が浮かんでまいります。

一方、キャロン社《プール・ユンヌ・ファム》では、体型にぴったりと合ったドレスを纏い、三面鏡の前に立つ全身像が表現されています。ここでは、「今夜はどんな楽しいことがあるかしら?」という期待に胸をはずませつつも、決してそれだけではないように思えます。鏡の前では、パーティの装いの最終チェックを欠かさない女性の真剣かつ冷静なまなざしをも浮かんでくるのです。三面鏡を配した2001年の限定エディション用の専用ケースが、香水瓶単体では紡ぎ得なかった物語を語っているかのようです。

ところで、私はこの香水瓶を初めて目にした時に、思わずうなり、感嘆してしまいました。それはひとえに、香水瓶の構造に起因しています。香水瓶のキャップが、思いがけないところにあったのです。

皆様は、どちらにキャップがあるかおわかりになりますでしょうか? スキャパレリ社《ショッキング》とは反対に、ドレスの足元、つまり瓶の底に配されているのです。これは香水瓶の歴史において、大変珍しい形です。ここにはどのような意味が込められているのでしょうか?

プール・ユンヌ・ファム3

👆この部分です!©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

一般的に、レディの装いは常に何かを付け加えていくこととで完成します。ドレスを一枚纏えば、それに合う手袋やジュエリーを着け、場合によっては帽子やティアラ、髪飾りを頭部に頂きます。そして香水は装いの仕上げとして用いられてまいりました。こうして近代以降、ドレスと香水は切っても切り離せない関係にあったのですが、《プール・ユンヌ・ファム》ではそう単純な話ではないようです。なにしろ、香水を使えば使うほど、ドレスに見立てられた香水は減っていってしまうのですから! 大事なドレスは静かに足元の方へと次第に下がっていき、最終的にはすっかり脱げてしまうのです。

しかしそれは決して悲しいことではないでしょう。なぜならドレスを脱いで、生来の姿となった先にあるのは、ドレスが体現していた社会的役割や経歴――あるいはときに虚飾の混じる世界――から解き放たれて、ただ一個の、今を生きる裸の人間になることです。そのありのままの姿となった女性は、なんと気高く美しいのでしょう。

話を冒頭に戻しますと、前回と今回のテーマは「女性の装い プラス・マイナス」です。ドレスを纏い、鏡の中の自分を真剣に見つめていた女性は、装いを解いた自らの姿をも、勇気をもって冷静に直視し、受け入れることでしょう。マイナスがもたらす美が表現されたこの香水瓶に、私は21世紀の知性ある美しき女性像を見る思いがするのです。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

うみもり香水瓶コレクション13 スキャパレリ社《ショッキング》

こんにちは。特任学芸員の岡村嘉子です。金木犀が香り、すっかり秋らしくなってまいりましたね。皆様いかがお過ごしでしょうか。

現在、海の見える杜美術館では企画展「美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―」が行われています。明治以降の日本の画家たちが表現した様々な女性美を紹介する展覧会です。会場の出品作品は4つのテーマに分けられていますが、そのうちの一つ「第3章 女の装い プラス・マイナス」では、下の画像のような女性が身繕いをしている姿やそれを解いた姿をとらえた作品が展示されています。岡本神草が描いた女性のこの表情は全体の優しい色合いと黒髪に引き立てられて、はっとする美しさですね。

岡本神草《梳髪の女》後期

岡本神草《梳髪の女》大正15年(1926年)頃、©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ※『美人画ラプソディ・アンコール』展の展示期間後期(10月5日~)出品作品

そこで今回は、「女の装い プラス・マイナス番外編 フランス」として、ヨーロッパの香水瓶において同テーマに該当する作品をご紹介したいと思います。

まず一つ目は、服飾デザイナーのエルザ・スキャパレリが1937年に発表した《ショッキング》です。こちらです👇

画像1

スキャパレリ社 、香水瓶《ショッキング》デザイン:レオノール・フィニおよびピエール・カマン、1937年、透明ガラス、彩色ガラス、海の見える杜美術館SCHIAPARELLI, SHOCKING FLACON Design by Leonor FINI and Pierre CAMIN  -1937, Transparent glass , color glass, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima ©海の見える杜美術館、Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

美人画展に合わせたと申しながら、いきなり顔のない人体を登場させて驚かせてしまいますが、どうかお許しください! 目の覚めるように鮮やかなピンク「ショッキング・ピンク」の生みの親であり、「モード界のシュルレアリスト」「奇想天外志願者」とも称されたスキャパレリの香水瓶ですので、一筋縄ではいかないことをご諒承くださいませ。

しかし、顔のない人体とはいえ、肩にはなにやら可愛らしいお花もたくさんついていますし、決して不気味な印象は受けませんよね!? よく見ると、首には巻き尺が掛けられ、首の上には金色のヘッドキャップがついています。そう、こちらは洋装の仕立て用ボディ(トルソー、裁縫用マネキンともいいます)をかたどった香水瓶なのです。肩のお花は、お遊びのように添えられた装飾ですね。言葉通り、エレガントに華を添えています。

この香水瓶は、瓶本体だけでは完結しません。瓶に加えて、あたかも貴重品のように、ガラスのドームで覆う仕様になっています。ドームの縁には、花嫁が頂く伝統的な冠のレース模様が施されています。

画像2

それらを収めるケースも、まるでダイヤのブレスレットあたりが入っていそうなジュエリー・ケースを思わせるデザインです。もちろんこちらにも繊細なレース模様が転写されています。

この香水瓶のデザインを完成させたのは、シュルレアリスムの影響を受けた女性画家レオノール・フィニとガラス工芸作家のピエール・カマンです。夜の闇の中に浮かぶような、フィニの幻想的な絵画に比べると意外なほど、明るく華やいで開放的な印象を受けますが、それはデザインの注文主であるスキャパレリ自身の最初の構想を尊重したものであるからでしょう。

ジュエリーのような高級感とユーモアに満ちたこの香水瓶に入れられたのは、常識を打ち破る香水を誕生させたいというスキャパレリの希望通りに調合された、奇抜かつセンシュアルな独特な香り。当然のことながら、発表当時から、多くの人々をあっと驚かせ、斬新な香りに魅せられる人々が続出し、大成功をおさめました。

さて、ときには顧客を奪いあうほどに、同時代に活躍したシャネルとは長年のライバル関係にあったエルザ・スキャパレリですが、前者が男性的で直線的なシルエットによってミニマリズムを追求したことに対し、後者のスキャパレリは女性的な曲線を多用し、装飾を積極的に用いたという大きな違いがあります。

また、スキャパレリの特徴として特筆すべきなのは、同時代の芸術家たち、とりわけダダイストやシュルレアリストといった前衛芸術家たちと親しく交わり、しばしば彼らとコラボレーションをしながら、ドレスや靴や帽子が、そのまま芸術作品となるようなファッションを提案したことです。つまり、彼女はファッションに芸術を持ち込んだのです。

それは、リンチェイ・アカデミー図書館長を務める東洋学者の父を筆頭に、著名な天文学者やエジプト学者を輩出した学者一族と、ルネサンスの大パトロンであるメディチ家の末裔を母にして、現在はローマの国立古典絵画館となっているコルシーニ宮で生を受けたときから既に運命づけられていたのかもしれません。彼女の家庭環境は、第一級の学問と芸術が常に身近なところにあり、日々の装いとはそれらと分かちがたく結ばれていたのでしょう。

しかも1890年生まれの彼女が青年時代を迎える1900年代から1920年代にかけては、欧米各地で、前衛芸術が生まれた時期に当たります。スキャパレリは、イタリアを出て、結婚、出産、離婚を経験しながら、イギリス、ニューヨーク、パリで暮らすなかで、各地の最新のファッションと芸術家たちと知り合っていきました。なかでもサルヴァドール・ダリとは、その型破りな独創性を持つ個性同士で、気が合ったのでしょう。1935年にパリのヴァンドーム広場に新たなブティックに開店させた年に、同広場に面したホテル・ムーリスに住むダリと知り合うと、彼の絵画やデッサンを基にしたドレスや帽子を次々と作り、長きにわたって協力関係を築きました。例えば、逆さまにしたハイヒールの形の帽子や、前身ごろに引き出し型のポケットを多数つけて、チェストに見立てたジャケットなど、現在も語り草となるような、かつて誰も見たことのなかったデザインを生み出しています。

ところで、マドンナが監督をした映画『ウォリスとエドワード』においても、エドワード8世と結婚しウィンザー公爵夫人となるウォリス・シンプソンが、会食にてスキャパレリのドレスを話題にする場面がありましたが、スキャパレリのドレスは、洗練された上流階級の女性たちの間で人気を博し、とりわけ社交の折には欠かせないものとなっていました。それらに加えてマレーネ・ディートリッヒ、グレタ・ガルボ、アルレッティといった名だたる女優たちも、スクリーンの中だけでなく日常着として、スキャパレリの服を纏ったため、映画が全盛の時代において、無数の女性たちの憧れとなっていったのです。

実は、香水瓶《ショッキング》の仕立て用ボディも、スキャパレリの顧客であったアメリカの女優、メイ・ウェストの体型を再現したものと言われています。なんでも、ドレスの寸法のために来店する時間を惜しんだメイ・ウェストが、正確な寸法のボディを送ってよこしたものを模したとのこと。道理で、香水瓶のシルエットがグラマラスなはずですね!

それにしても、この仕立て用ボディからは、これから一体どのようなドレスが生まれるのでしょう? 本作品を見ていると、女性が新たな一着に出合うときの、期待に胸を膨らませた華やいだ気持ちまでも伝わってきます。

女性の美を最も輝かせるのは、ひょっとしたら流行のファッションそのものではなく、このような、一歩先の未来を夢見る、無邪気で明るい心なのかもしれませんね。スキャパレリの遊び心に満ちた香水瓶がもたらす心の作用をひしひしと感じつつ、今一度「美人画ラプソディ・アンコール」の展示作品とじっくりと見比べたいと思います。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―、好評開催中です

現在海の見える杜美術館では現在、「美人画ラプソディ・アンコール―妖しく・愛しく・美しく―」展を開催しております。

本展は、2020年春に開催した「美人画ラプソディ―近代の女性表現―妖しく・愛しく・美しく」のアンコール展です。昨年は、他館の所蔵品もお借りしての充実した展示だったのですが、新型コロナウィルス感染拡大防止のため会期のほとんどが休館となりました。今回は、昨年お借りした作品がない代わりに、当館の所蔵品を新たに加えての展示になっています。

 

その新たに加わった作品のひとつが、北野以悦(きたの・いえつ)の作品《舞妓》。

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北野以悦《舞妓》(前期展示)

乱れなく結い上げた髪と白いうなじのコントラストが美しい舞妓の姿です。第四章「少女と美人画」でご紹介しております。

 

描いたのは北野以悦(1902-1971)。北野、という苗字でピンとくる方もいらっしゃるかもしれませんが、大阪の美人画の名手・北野恒富の息子にあたる画家です。

幼い頃は北野恒富に絵画の基礎を習い、恒富の塾展・白耀社展にも出品。京都市立絵画専門学校別科を卒業したのち、竹内栖鳳の弟子で京都の画家である西山翠嶂に師事、帝展や新文展を舞台に活躍しました。当館の2018年の西山翠嶂展でも、門人の一人としてこの作品も展示したので、その時にご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね。

 

こうしたプロフィールから、大阪や京都を中心に活動していた画家だと思っていたのですが、実は、晩年は広島・尾道に住んでいたとのことです。1952年頃、同じ翠嶂門下の画家で親友の川上拙以の紹介で尾道に転居、生口島の耕三寺の仏像などの彩色、寺の門の修復、襖絵や扉絵などを手掛けました。尾道に住居兼アトリエを借り、そこが終の棲家となりました。耕三寺博物館は今でも、《琉歌》(第11回帝展)などをはじめ、以悦の作品や画稿をご所蔵とのことです(「特別展北野以悦・北野恒富・島成園―一族が描く美しき日本画―」展覧会図録、朝日町立ふるさと美術館発行、2017年)。

 

以悦が描いた作品の一点、《舞妓》は前期10月3日(日)までの展示となります。

 

10月5日からはそのほかにも展示の一部が入れ替えとなります。

後期の作品も、後日ご紹介させていただきます。

 

 

森下麻衣子

 

「山田勝二時計店(山田時計店)」の引札

山田勝二時計店

日の出を思わせる朱色の丸の上に1羽の鶴が佇んでいます。
横に添えられた短冊には「不相変御引立之程奉願上 鶴(花押)」。
まるでこの鶴が「今年も変わらずに御引立てください」と言っているようです。

鶴の目線の先には新年のあいさつ「謹賀新年」と、この引札を配布した商店の住所と名前「金澤市尾張町 山田勝二時計店」が記されています。ですので、なじみのお客様に新年のあいさつをしているのは山田勝二時計店、ということがわかります。

この引札はいつ頃配られたものでしょうか。山田勝二時計店は、明治5年創業の初代山田勝見時計店の2代目にあたります(※1)。明治30年「開業広告」と銘打って北国新聞に出した山田勝二時計店9月12日オープンの広告がある(※2)ので、この時から2代目である山田勝二時計店が始まったと思われます。また、この引札にはお店の電話番号が掲載されていません。山田勝二時計店は明治35年頃に電話番号を取得(※3)しています。ですからこの引札は、明治31年以降明治35年以前の正月に配布されたものと考えるのが妥当です。

この引札は何のために配られたのでしょうか、「謹賀新年」とあるだけで、詳しい住所や商品の宣伝文句などほかに何も書いていません。ですから、この時計店のことを全く知らない人にむけて宣伝のために配ったのではなく、なじみのお得意様にむけた新年の御挨拶のようです。

以上のことをまとめると、この引札は、明治31~35年(1898~1902)の正月に、金沢市尾張町の山田勝二時計店が、なじみのお客様に向けて、一年の御愛顧を願って配布したものと考えてよいのではないでしょうか。

このたびは、本引札の発行店である、石川県金沢市尾張町2-10-15 株式会社 山田時計店 社長 山田正雄様に数々のご教示を賜りました。山田時計店は明治5年に北陸初の時計店として開業し、今年創業150年目を迎えておられます。日本初の腕時計を製作した服部時計店(セイコーホールディングス株式会社)の創業は明治14年(1881)ですからそれより長い歴史を有し、セイコーのマスターショップとして強い信頼関係のもとに数量限定の入手困難な型の時計もそろうので、全国各地から問い合わせが途絶えません。また、この長い歴史を有するプライドなのでしょうか、山田時計店は年中無休・メカニック常駐で、修理については他店で断られたものでも問い合わせを受けるという姿勢を貫いておられます。

店舗の3階には「老舗時計資料館」としてゼンマイ仕掛けで動いていた時計や蓄音機に始まる歴代の商品を並べ、商いの足跡を展示しておられます。

この引札にいざなわれて、ぜひ一度金沢の山田時計店に足を運ぶ計画を立てて見られてはいかがでしょうか。

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は所蔵する2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆくものです。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

※1. 本引札が現山田時計店の物であることは、㈱山田時計店 社長 山田正雄様がご確認のうえ、以下のことをご教示くださいました。
・初代 山田勝見は、前田藩の下級武士で江戸時代の終わりとともに職を失い(当時20代半ば)、一念発起して長崎で時計の技術を習得し、明治5年に尾張町で店を開いた。
・正式に商売願いを出して認められたのは、明治7年。添付資料の通り。
商売願い
・山田勝二は勝見の長男(2代目)。

※2.
新聞広告明治30年(株)山田時計店提供 北國新聞 明治30年(1897)

※3. 引き札(株)山田時計店提供
この引札の通り、山田勝二時計店は電話番号「261」を取得しています。明治34年(1901)に金沢に電話が開設され、当初の加入者は183人(金沢市史編さん室編『金沢の百年 市史年表 明治編』金沢市 1965)だったので、電話番号200番台の取得は明治35年(1902)頃と考えられます。

 

 

「よしだや(吉田屋山王閣)」の引札

よしだや 吉田屋山王閣 引札

明治時代中頃のお正月、旅館がなじみのお客様に配った引札です。新年の御挨拶が書かれています。

「新年の御慶目出度申納候/先以舊年中は不一方御引立ニ預り/日々隆盛ニ趣き候段深く御禮申上候/猶時節柄御手軽を旨とし御待遇方/注意可仕候間本年も不相変御入湯の/節ハ御尊来の程只管奉希上候 謹言/一月元旦/加賀山代温泉場/よしだや事/吉田初次郎」

ざっくり現代風に改めますと「新年おめでとうございます。旧年中はお引き立て下さり大変ありがとうございました。日々隆盛にしておりますのは皆様のおかげとお礼申し上げます。時節柄お手軽にしておりますが丁寧な接遇につとめてまいりますので、本年も温泉にお越しの際は引き続き当旅館をご利用くださいませ。」といったところでしょう。 いつからこのように引札で新年のあいさつをするという習慣が始まったのかはっきりしないのですが、明治時代の旅館が配る引札には、このように挨拶文が書かれたものが多いです。年賀状の歴史とあわせて考えなくてはならないかもしれません。 ところで最後に記されている「よしだや」とは、今も続く名湯「吉田屋 山王閣」(石川県加賀市山代温泉13-1)の名前です。このたび吉田屋山王閣様には作品の確認などに懇切丁寧なご協力をいただきました。

明治32年10月30日北国新聞付録の番付「加越能三州宿屋料理屋投票得点数」を確認すると、山代温泉から得票順に「荒屋」「出藏屋」「蔵屋」「白銀屋」の名前を確認することができますが、そこに「よしだや」(吉田屋)の名前はありません。この頃は大きな旅館ではなかったのでしょう。吉田屋山王閣の御主人によりますと「よしだや」の古い記録は残っていないのではっきりしたことは言えないそうですが。吉田屋山王閣の前身と考えて良いだろうとのことでした。その後の経営努力で今日の隆盛を果たされたのだと思うと改めて歴史の重みを感じます。また吉田屋山王閣は「くらや」(蔵屋)の流れも受け継いでおられるとのことですので、この番付にある「蔵屋」の後継でもあるかもしれません。

ぜひ吉田屋山王閣様のホームページをご覧ください。源泉かけ流しの露天風呂・貸切風呂・内湯を擁し、歴史と現代性を兼ね備えた魅力的な温泉です。ご旅行の予定に組み込んでみてはいかがでしょうか。

そういえば、吉田屋の御主人からいろいろとご教示いただいた中で、当館にある山代温泉「でぐらや 伊豆蔵安平」の引札について興味深い示唆をいただきました。現在「でぐらや」という旅館はないのですが、昔「いづくら」という旅館があり、今も伊豆蔵さんという方はいらっしゃる。もしかしたら「でぐら=出蔵=いづくら=伊豆蔵」ではないか。とのことでした。 なるほど確かにそのような展開はありそうです。「でぐらや 伊豆蔵安平」の引札は先に上げた番付の「出藏屋」の引札なのかもしれません。下の「でぐらや 伊豆蔵安平」の引札3点を眺めてみてください。番付の上位に上るほどの隆盛を誇っていたせいか、印刷も凝った仕上げになっています。3枚3様、異なる技術で印刷されているのです。

でぐらや 引札2平版(木版 石版転写 多色刷)

でぐらや 引札1平版(木版 写真製版 石版転写 多色刷)

でぐらや 引札3平版(アルミ板 アルモ印刷)

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休  館  日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

 

「田川五三郎(たがわ龍泉閣)」の引札(続々)

田川旅館提供 明治28年-2
1.たがわ龍泉閣蔵

田川旅館提供 明治40年代-3
2.たがわ龍泉閣蔵

引札 鉱泉御宿 田川五三郎 海の見える杜美術館
3.海の見える杜美術館蔵

今回は、田川五三郎の引札を3枚並べて、特に文字の部分を比較して、語ってみたいと思います。

それではまず、以下に1.2.3番それぞれの引札の文字情報を書き出してみます。

添付情報
1. 明治28年略暦
2. 辰口鉱泉効能書
3. 辰口鉱泉効能書

住所・店名
1. 石川県能美郡辰口鉱泉所 御定宿(屋号紋-地紙にタ)田川五三郎
2. 石川県能美郡辰ノ口鉱泉所 鉱泉御宿(屋号紋-地紙にタ)田川五三郎
3. 石川県能美郡辰ノ口鉱泉所 鉱泉御宿(屋号紋-地紙にタ)田川五三郎

挨拶文(/は改行)
1. 恭奉賀新年/併而閣台之萬福を禱る/布説旧年中は毎々御愛顧を/蒙り奉源謝候尚本年も倍旧の/御引立を以て御入湯之節は不相替/御投宿之程伏て奉希上候 敬白
2.恭賀新年/併而御尊台之祈萬福/旧年中はご愛顧を蒙り難有奉源/謝候当本年も御入浴の節は不相替/御来宿之程奉希上候 敬白
3.恭賀新年/併而御尊台之祈萬福/旧年中はご愛顧を蒙り難有奉源/謝候当本年も御入浴の節は不相替/御来宿之程奉希上候 敬白

絵はそれぞれに異なるのですが、3点とも文章はとても似通っています。そして2と3は、文言、書体や行間、それから字の並び具合までまったく同じです。

田川旅館提供 明治40年代-部分2017-002-11部分
             2              3

ここで考えなければならないのは、このふたつは同じ版木を使用したものなのか、それともそっくりに彫りなおした版木を使用しているのか。ということです。これがはっきりすれば、引札の制作順序がわかります。

よく観察してみると、どちらも恭の字の4画目の右側が欠けています。新しく彫りなおすのならきちんと修正するでしょう。また、下の写真を見ればわかる通り、文字を彫るときに、文字の周りをしっかり深く彫るべきところを、浅く彫ってしまったために文字の周りに黒い色がついてしまっています。この黒色がほとんど同じ場所についています。これらから考えると、2,3ふたつの引札の文字は、彫りなおした版木ではなく、まったく同じ版木を使ったものといえるでしょう。そして、それぞれの版木の傷み具合を考えると、3の方が痛みが激しいので、3の方が2よりも1年後あるいは何年も後の引札の印刷に使われたと考えるのが妥当でしょう。

田川旅館提供 明治40年代-部分22017-002-11部分2
         2           3

それではこの3枚の引札から、田川五三郎の引札の使用の歴史について考えてみます。

宿屋の田川五三郎は、明治28年の正月には大切なお客様へ年始の御挨拶に引札を使っていました。

明治28年頃は暦(カレンダー)付の引札を配りましたが、いつの頃からかその添える情報は暦から別の物に替わり、明治40年頃には辰口鉱泉効能書を添付するようになりました。

絵柄は毎年新しいデザインに替えたようですが、宿屋の名前や住所、そして新年のご挨拶文が彫られた版木は何年も同じ物を使っていて、ひどく傷んだ時に新しく彫りなおし、同時に文章を当世風に改めたようです。

このような引札を用いた新年の御挨拶は、飛行船や飛行機が流行していた明治45年頃までは続けていたことが確認できます。

この後のことは判然としません。現たがわ龍泉閣様に確認しますと、古い資料はあまり残っていないそうです。

ただ言えることは、明治時代、新年を迎えるごとに引札をお得意様に配っていた鉱泉宿の田川五三郎は、幾つもの困難を乗り越えて1400年の歴史ある辰口鉱泉の源泉を守り継ぎ、今はたがわ龍泉閣として隆盛を極めているということです。

画像は使用許可期限のため削除いたしました。
北陸中日新聞社編『老舗のおかみ 金沢・加賀・能登』中日新聞社 2003北陸中日新聞提供
たがわ龍泉閣様ご提供

海の見える杜美術館では下の通り「引札」の展覧会を開催します。本展は、海の見える杜美術館所蔵の2000点を超える引札の中から約 150 点を選びだし、明治期の引札の魅力を紐解いてゆきます。目くるめく引札の世界をぜひお楽しみください。
【展覧会名】 引札 新年を寿ぐ吉祥のちらし
【会  期】 2021年11月27日(土)〜2021年12月26日(日)
【休 館 日】月曜日
【会  場】 海の見える杜美術館(広島県廿日市市大野亀ヶ岡10701)

青木隆幸

おめでたい魚たちの絵

海の見える杜美術館では、8月22日(日)まで「アート魚ッチング ―描かれた水の仲間たち―」を開催しています。

本展の第2章では、「福よコイ! めでたいお魚大集合」としておめでたい意味を持つ魚の絵画を紹介しています。

こちらは伝狩野休真の《滝登鯉》。

伝狩野休真《滝登鯉》 海の見える杜美術館

伝狩野休真《滝登鯉》 嘉永7年(1854)

一匹の鯉が今まさに急流の滝を登ろうとしている場面を描いています。この作品は、「黄河の上流にある龍門という急流を登り切った鯉は、竜に変じる」という中国の「登竜門」の故事にもとづいています。

現在でも成功や出世につながる難しい試験やコンテストのことを「登竜門」と言いますよね。日本で5月5日の端午の節句にあげる鯉のぼりもこの「登竜門」の故事にルーツがあるとされています。

江戸時代には、この絵のような立身出世への願いを込められた「鯉の滝登り」の図がよく作られました。

こちらは金太郎(坂田金時)が巨鯉を捕まえたという逸話をもとにした引札です。

《金太郎と鯉》

《金太郎と鯉》 大正時代

丈夫で健康な男児の象徴である金太郎もおめでたい図柄として好まれ、この鯉と金太郎の図も身体堅固、立身出世を願ってよく作られました。

日本でおめでたい魚として有名なものに鯛がいます。

鯛は、名前の響きが「めでたい」に通じることや身体の赤色が邪気を払うとされたこと、また七福神の恵比寿の持物であったことなどからおめでたい魚とされていました。

お正月に店の広告として配られる引札には、商売繁盛の神である恵比寿とともに鯛がよく登場します。

《恵比寿と大黒》 《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》

上:《恵比寿と大黒》 明治35年(1902)頃

下:《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》 明治40年(1907)頃

引札の恵比寿と鯛の図柄は、バリエーションに富んでおり見ていて飽きないです。

第2章の最後では、魚を題材にした中国のおめでたい現代年画も紹介しています。

こちらはその内、「金魚満堂」という図。

《金魚満堂》

《金魚満堂》 中国・1984年頃

金魚鉢の中を泳ぐ金魚を描いた作品です。

金魚は金玉(きんぎょく、黄金や玉(翡翠のこと)などの財宝)に通じ、それが部屋に満ちている(満堂)ことから、財力や経済的な豊かさを象徴したおめでたい絵となっています。

このように魚たちには様々なおめでたい意味がこめられ、絵画化されました。

今回の展示では、ブログで紹介している以外にもおめでたい魚たちの絵を紹介しています。会期も残り3週間を切りましたが、最後まで「アート魚ッチング」展をよろしくお願いいたします。

大内直輝