栖鳳の絵、受け取りを拒否される!

UMI167
竹内栖鳳「猛虎図」1897(明治30) 海の見える杜美術館蔵

鋭い眼差しで前を見据える一頭の虎。毛を逆立て、牙をむき、前脚をあげ、今にも飛びかからんばかり。この作品を目にする人は、どのような困難があろうとも克服して良い結果がもたらされるという、吉祥画のようにも思えます。

作品を納める箱の裏に、牧野克次(註1)が1916年(大正5)に記した面白いエピソードが残されています。

20140812 栖鳳の絵、受け取りを拒否される! (2)20140812 栖鳳の絵、受け取りを拒否される! (3)
蓋表  蓋裏

そもそもこの絵は、濱尾新(註2)の文部大臣就任(1897年11月)を祝って、中澤岩太(註3)が濱尾に贈呈したものでした。ところが濱尾は一見して怒ってこう言ったのです。
「この虎の絵には尾が描かれていない。つまり私の仕事は首尾一貫しないとでもいうのか?!」
言いがかりをつけられた中澤は、この作品を巻いて持ち帰りました。
面目を失った中澤が、この絵の処遇を中川小十郎(註4)に相談したところ、中川が、自分はちょうど家を建てて絵が足りないところなので譲ってほしい、と持ちかけてきました。中澤は喜んでこの作品を譲りました。
その後のある日、中川が自分を尋ねてきた天龍寺管長の高木龍淵(註5)と歓談する中でたまたまこの話に及ぶと、龍淵は憤慨して、
「知識のないものはこの絵の意図するところがわからないのだ。仏典にもある『霊亀尾を曳く』の誡語を題して引導を与えてやる。霊亀は砂の上を歩いた足跡を消そうとして尾を動かす。だがこれによって尻尾の跡が上からついてしまうことを、わかっておらん。無尾はかえって有尾に勝っているという意味である。」
といい、この絵に賛を記したのです。

この「猛虎図」に関するエピソードは以上のとおりなのですが、この話をふまえると、とても興味深いことがわかってきます。実は栖鳳、この絵と良く似た「尻尾のある」虎の絵を描いているのです。この作品を「猛虎図」と比較すると、下の空間をやや広く取り、そこに尾を描いています。ただし画面からはみ出た虎の下半身を想像すると、尾は描かれるような場所にあるはずなく、取って付けたような印象があります。更にこの作品には、濱尾が文部大臣に就任した直前にあたる『丁酉(1897年)冬十月』の款記がわざわざ添えられているのです。もし

かすると、作品を突っ返された中澤が竹内栖鳳に相談し、尻尾のある作品を描いてもらって改めて濱尾に贈呈した、という、箱裏には語られることのなかった別のエピソードが、あったのかもしれません(原田平作『竹内栖鳳』光村推古書院 1981 図版番号13)。

 

(註1)牧野克次(1864-1942)
洋画家。明治34年、関西美術会の創立に参加。明治35年、京都高等工芸助教授。

(註2)濱尾新(1849-1925)
政治家。文部大臣、東京帝国大学総長、内大臣、貴族院議員、枢密院議長などを歴任。

(註3)中澤岩太(1858-1943)
帝国大学教授、京都帝大理工科大学初代学長、京都高等工芸(現京都工芸繊維大)校長などを歴任。

(註4)中川小十郎(1866-1944)
文部官僚。京都法政学校(現立命館大)を創設。西園寺首相秘書官、台湾銀行頭取、などを歴任。

(註5)高木龍淵(1842-1918)
臨済宗天龍寺派管長。神戸市に徳光院をひらく。室号を耕雲軒、晩年休耕と号する。

 

蓋表釈文
棲鳳猛虎図龍淵管長賛 天平牧野克題匧

蓋裏釈文
往年濱尾新氏ノ文部大臣ニ任セラルゝヤ 中澤岩太氏恭シク棲鳳筆猛虎図ヲ贈ル蓋曽約ヲ果ス也 濱尾氏一見悦ハズ且怒テ曰ク 此画虎尾ヲ欠ク 盖シ吾功業ノ首尾全ウセサルヲ諷スル者歟ト 巻テ之ヲ郤ク 中澤氏甚タ面目ヲ失シ悄然携帰テ之ヲ当時ノ大学書記官中川小十郎氏ニ告ゲ以テ画ノ処置ヲ謀ル 中川氏曰ク 予新ニ家ヲ構ヘ画幅ニ乏シ請之ヲ購ン 中澤氏大ニ喜ビ之ヲ与フ 是此幅也 某日天龍寺管長龍淵師中川氏ヲ訪ヒ 談偶及之 師大ニ罵テ曰ク無識ノ輩画意ヲ知ラズ 悤霊亀尾ヲ曳クノ誡語ヲ題シ引導ヲ与フ 霊亀尾ヲ曳クノ事 仏書ニ在リ 霊亀ナル者ハ沙上匍匐ノ足跡ヲ隠サント欲シ 歩々尾ヲ動カシテ之ヲ消ス 伺イ知ラン尾ヲ以テ地ヲ捺ルノ痕歴然タルコトヲ 無尾却テ有尾ニ勝ルノ意也  大正五年六月為中川先生識 天平牧野克
(釈文の旧字は適宜筆者が改めた)

さち

青木隆幸

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岡本東洋と竹内栖鳳  ― 写真の裏に記された撮影データ ―

岡本東洋(1891‐1969)は、昭和のはじめごろ京都を中心に活動した写真家で、横山大観や川合玉堂など数多くの画家に作画用の資料として写真を提供したことが知られています。(参考文献1)
竹内栖鳳とは、写真家として独立したかなり早い時期から栖鳳がこの世を去る直前まで間断なく交流が続いています。

竹内栖鳳は無類の調査好きで、描く対象は自らの目で観察するだけではなく、写真も駆使してその姿を細部まで把握しようとします。写真記録を依頼する岡本東洋へも、自らがスケッチを行うのと同じように、執拗な撮影、そして取材した日時や場所など撮影データの控えを求めていました。

ここに、竹内栖鳳家伝来の写真史料より、日頃紹介されることのない、写真を封入している袋や、写真の裏側を紹介いたします。撮影者、撮影場所、撮影日時が記録されていることをご確認ください。

20140806岡本東洋と竹内栖鳳    ― 写真の裏に記された撮影データ ― (2)

岡本東洋撮影 冨士五景の中の一枚       海の見える杜美術館蔵

20140806岡本東洋と竹内栖鳳    ― 写真の裏に記された撮影データ ― (3)

同写真の裏に書かれた撮影場所と日時        海の見える杜美術館蔵

20140806岡本東洋と竹内栖鳳    ― 写真の裏に記された撮影データ ― (1)

同写真が入っていた封筒                  海の見える杜美術館蔵

 

多くの画家の資料は散逸し、今となっては岡本東洋と画家との関係をはっきりと確認できるのは当館の収蔵する竹内栖鳳関係資料だけと言われています(参考文献2)。

参考文献
1、中川馨『動物・植物写真と日本近代絵画』思文閣出版、2012
2、中川馨『動物・植物写真と日本近代絵画』思文閣出版、2012、頁106

付記
当館所蔵の竹内栖鳳関係資料の多くは『資料集 竹内栖鳳のすべてVol.1~3』(王舍城美術寳物館、1987~89)、『館蔵選』(王舍城美術寳物館、1991)に掲載されています。(王舍城美術寳物館は当館の旧称です)

さち

青木隆幸

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栖鳳、歌舞伎役者になる!!

竹内栖鳳夫妻のコスプレ画像が残されています。

栖鳳は、ただ着替えて遊んだのではなく、役になり切ることが作画のヒントになるはずだからやってみようと思い立った、というのですが、いかがでしょうか。コスプレをした時の状況が京都日出新聞に掲載されていますので、その記事に写真をさし込んで紹介いたします。また、この写真を目にした田中日佐夫(1932 – 2009)氏の見解もあわせて紹介いたします。

 

栖鳳さんはこれまで「紙治」を二度ばかり描いたことがあったそうだ。しかしどうも自分の気に入った製作が出来ない。いっそ成駒屋(中村鴈治郎)がやるようにすっかり扮装をしたら紙治の気分になれるかもしれない。その気分が味わい得たら必ず会心の作物が出来なければならぬ、とかねがね一度は自分自身が紙治の扮装をして、あの近松の戯曲のように、はた成駒屋の舞台のような甘い、柔らかい、そして悲しく艶々しい雰囲気へ自分自身を心ゆくばかりひたしてみたいと期していたそうであった。今度の顔見世に成駒屋に逢うて、今年こそぜひとも実現させたいというから脂はすっかりのってしまい、それは面白いとここに相談は一決して22日にいよいよ栖鳳丈の初舞台と本決まりになったわけである。本宅の方では来訪の人が絶えないから、まだ披露はしてないが嵯峨の別荘霞中庵でコッソリと一日を思う存分面白く遊ぼうの計画、もとより粋画伯のこととて嫌がる奥さんをまあまあ一期の思い出にこそと、役を収めてしまう。「恥かしうて出来ませんと申しましたがどうあってもやれと言われましたのでとうとうこんなことになってしまいました」ときまり悪げの嬌態は一層若く美しくみられる。さあこう決まれば同じ事なら一役では物足りない。治兵衛と重次郎との栖鳳さんの注文、奥さんは申すまでもない小春と初菊、それも月並みの衣裳やかつらでは気に入らぬ。成駒屋のをそのまま使いたいとあって俄かに番頭の喜助ドンが大阪へ走って万端残らず取り揃えて帰るとかつらを合わすやら身に合して衣裳の縫い直し、おかげで成駒屋の床山と衣裳方は前晩は一睡もできない。当日は朝寝を以てなる成駒屋もここにレコードを破って8時に起きる。9時過ぎには福助と自動車で嵯峨野の別荘へ乗り込むという破天荒、お昼頃からそろそろ扮装にかかる。栖鳳さんの顔は成駒屋がつくる。奥さんの方は福助が、承って箱登羅が万事世話役

 

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かつらの髪を結い上げる竹内栖鳳と、わきに控える中村雁治郎 海の見える杜美術館蔵

という格で、床山や衣裳方は「えらい騒動だす」とあまりの大がかりな仕組みにたまげている。かつらから衣裳まで成駒屋のを身に合わせて直したもので出来上がるといつもの栖鳳さんではなくてやはり紙屋の治兵衛さんらしい。

 

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竹内栖鳳扮する「紙屋治兵衛」 海の見える杜美術館蔵

 

「頭は合したときは痛かったが今日は痛い事ありまへん、顔は少々引っ張ります」と含み綿をして言いにくそうだ。しばらくする と奥様の小春が出来た。かつら付きの良いお顔でまったくもってお美しい事だ。「先生、奥さんに惚れたらいきまへんぜ」と成駒屋がからかう。栖鳳さん嫌がって奥さんを見てニタリ。「今向うの煮売屋で・・・・・」と揚幕を見た形、「河庄方」と舞台を見やった形、奥さんはまず立見とあってバックの前へ立ったが「ちょっと褄の取りようを教えておくれやす」と愛嬌をまく、

 

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竹内栖鳳夫人 奈美扮する「紀の国屋小春」 海の見える杜美術館蔵

すかさず箱登羅が「出たての妓衆さんだから」と半畳を入れる。いろいろの型で一人一人の撮影がすむと、今度ははなれの茅屋で一緒の撮影、小春の長煙管の持ちように雁治郎も福助も余程工夫したがどうも気に入らぬ。座布団へかけておいてみたがまだ情景が調わない。とうとう横にして前へおくことになるとその次は尼ケ崎となる。準備のあいだ成駒屋の妻女お仙さん、梅玉夫婦、魁車、芝雀、長三郎、梅玉老の孫の牧治郎も加わって自動車で乗り込む。これより先に世話方格の先斗町山愛の女将をはじめ祇甲の美濃今からはおしげ、静子、染松等が繰込んでいることとてにわかに賑やかになる。重次郎は裃と鎧両方だ。「私は今度かつらを手に取って見ましたがなかなか美術的にできているのに感心しました。しかし舞台と違って、こうしてみると生え際が不自然ですな」前髪姿の栖鳳さんの声は莫迦に優しい。小春の時にしとやかに艶であった奥さんは初菊に至っていよいよ本役でゆかしい御姫様ぶりである。

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竹内栖鳳と奈美夫人扮する「重次郎」と「初菊」 海の見える杜美術館蔵

成駒屋のお仙さんがつくづくと眺めつつ「私も一ぺんこんなことして貰いとうおますな」とかたわらに立っている雁治郎に言う。御大黙って笑うていると芝雀が「違いないこうして写すとよろしな」とお仙さんのかたわらへ行って握り拳を頭の上へやって叩く真似をする。魁車や福助が賛成して大笑い。彩管とっては思うがままに描き出されるほどの栖鳳さんだけに、素人とはいいながら一度成駒屋が格好をしてみせるとすぐにお手本通りのスタイルが出来上がる、奥さんとてもなかなか器用なものでめっぽう形がよい。むしろ画伯以上のお手際であるのにはいずれも驚かされた。

 

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竹内栖鳳と奈美夫人扮する「重次郎」と「初菊」 海の見える杜美術館蔵

お仙さんや高砂家のお君さんは「私どもが扮装するのはいつでもできる仕事ですが、奥さんなどはホンマに一生一代どすな」と女は女連れ、話は弾む。「実は写真は皆さんがお越しになるまでに写してしまうつもりどしたが、時間が取れてえらいところを見られました。芝雀さんやらこんな姿をおめにかけるのはほんとに恥ずかしおすわ」と本役の京家を見やる。「イエどういたしまして、この肩から帯へかけてのやわらかみはどうしてもご婦人でないといけまへん。私どもはいくら気をつけてもやはりあきまへん」と魁車を見返る。

「ほんとに肩から胸、帯際へかけての線は女形ではとても駄目だす。さっき何ともなしに庭の飛び石の上に立ってござるのを横から拝見してつくづくやわらかい格好に感心してました。昔の女形やないと今のではあきまへんな」と芝雀へ渡す。「今の役者は何でもやりますさかい、自然あかんことになりますな」とはしなくも女形論というような話に実が入る。こんな風に別荘の一日はまことに賑やかに暮れて写真撮影の終わったのは6時ころであった。

「粋画伯の年忘」『京都日出新聞』、日出新聞社、大正5年12月24日
(平野重光編『栖鳳芸談』京都新聞社、1994年、頁327 – 330に再録)
転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。

 

 

栖鳳が歌舞伎の役どころに扮して写真をとり、それを大小いろいろに焼きつけたものを、今も方々で見る。そういうところから考えると、栖鳳自身相当の変身願望があった人なのではないかなどと思わざるをえないのだが、それはともかく、栖鳳という近代画人がいろいろな歌舞音曲のたぐいに親しみ、人並み以上にそれに打ち込んでいたことは、近代芸能誌の問題としても興味深い事であろう。そのことが栖鳳の絵画創造の上にどのように作用していたかということを論じることは至難きわまることであるが、もしかしたら、天才栖鳳の、激情を秘めてともすればバランスをくずしそうになる人格や意識の流れは、この遊芸などによってあやうくバランスをとりながら、ゆたかに余裕のある心の世界を保っていたのかもしれないともわたしは思うのである。

田中日佐夫『竹内栖鳳』、岩波書店、1988年、頁288

さち

青木隆幸

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展覧会の一枚 《許由巣父図》

20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(2)20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(1)

前期展示の終わりも間近に迫ってきました。
現在展示中の作品紹介として最後に取り上げるのは、
一見すると地味な、水墨の人物画です。

題名にある「許由巣父(きょゆう そうほ)」とは、
古代中国の伝説に登場する人物です。この作品では、
滝に手を当てているのが許由、牛を引いているのが巣父です。

20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(4)20140801展覧会の一枚《許由巣父図》(3)
右が許由、左が巣父です

この絵はなにを描いたものなのでしょうか?
許由は滝のそばでなにをしているのでしょうか?

この絵のもととなったのは、こんなお話です。

大昔、中国は堯(ぎょう)という君主が治めていました。ある時堯は、ひとりの賢人が世にあることを知ります。それが許由です。堯は、許由に天下を譲ろうとします。
しかし許由はそれを断り、山に隠棲してしまいます。あきらめきれない堯は、許由を再び呼んで、またも全国を治めるようにいいます。許由はこれに対し、汚い言葉を聞いてしまったといって、耳を洗ったのです。

さて、この様子を見たのが巣父です。彼は牛に水を飲ませようとしていましたが、上流で許由が耳を洗っているのを見かけます。巣父が許由になにをしているのかと問うと、許由は、汚れた言葉を耳にしたので、耳を洗っているのだと答えます。巣父はこれを聞いて、「そんな汚れた耳を洗った水を、私の牛に飲ませるわけにはいかないな」といって去ってしまいました。

この逸話に示される許由と巣父は、世俗の栄達に惑わされない高潔な人物の象徴として、日本においても『徒然草』や『太平記』などの文学作品に記され、画題としても好まれました。このような画題の絵は、為政者が自身を戒めるものとされました。こうしたジャンルを「鑑戒画(かんかいが)」といいます。

この《許由巣父図》のなかでも最も著名といえるのが、安土城の障壁画でしょう。織田信長の事蹟を記した『信長公記』によると、安土城天守閣の第四重の八畳敷の間には、「きょゆう耳をあらへば、そうほ牛を牽き帰る所」が描かれていたそうです。

この障壁画を描いたのは、安土桃山時代を代表する画家狩野永徳(かのうえいとく)です。残念ながらこの絵は安土城の落城とともに焼失してしまいましたが、永徳が描いた別の《許由巣父図》が現在、東京国立博物館に所蔵されています。本作の画風は永徳よりもやや下る時代に描かれたと判断されますが、その図様はともによく似ています。

本作は、どこかの大名が自身を戒めるという建前で描かせたのでしょう。ただし注文主の心の奥にはもしかすると、この絵の主題とは裏腹に、天下布武をとなえた信長に対する意識があったのかもしれません。

田中伝

ギャラリートークを開催いたしました!

7月19日土曜日、学芸員によるギャラリートークを開催いたしました。

直前に雷雨があったのでお集まりいただけるか不安だったのですが、雨もすぐ上がり、多くのお客様に参加していただくことができました。

20140719ギャラリートークを開催いたしました1
↑皆様、質問されたりメモを取られたり、とても熱心に聞いてくださいました。ありがとうございました!

20140719ギャラリートークを開催いたしました2
↑新兵器・タブレットを片手に、作品の細部を説明する学芸員の田中。

今回の展示は宗教美術、それも平安時代の装飾経や室町時代の神様や仏様の図像などの古いものが多いので、何が描かれているのか分からない、古い時代のことは難しくて少しハードルが高い…と感じられる方もおられるかもしれませんが、作品の背景にあった信仰や鑑賞ポイントなどの説明をお聞きになれば、きっとお楽しみいただけると思います。

本展のギャラリートークは、今後以下の通り開催いたします。
是非足をお運びください。

【当館学芸員によるギャラリートーク】
8月2日(土)、8月16日(土)、9月13日(土)、10月11日(土)
14:00から30分程度
会場:海の見える杜美術館展示室
定員:各回先着30名様
参加:無料(入館料別途必要)予約不要

皆様のご参加をお待ち申し上げます。

 

森下麻衣子

 

中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (1)
初代中村雁治郎(1860-1935、成駒屋)は、地方回りの下積みから花形役者に上りつめた歌舞伎役者で「わたしはこのごろ出世して、大金持ちに成駒屋」と戯れ唄になるほど、その人気は大変なものでした。

芸に対する姿勢は貪欲で、絶えず研究を怠らず、酒が飲めない鴈治郎が酒乱の役を務めることになったときは、酒好きの役者を自宅に招いて酒をたらふくふるまって、大暴れするさまを観察し、その姿を舞台で再現して喝采を浴びた有名な逸話も残っています。

芸の道に真摯に取り組む姿勢や、社会を巻き込む人気ぶりは、竹内栖鳳ととてもよく似ています。異なる世界で生きる二人が気のおけない付き合いをしていたのは、きっと心の奥深くまで通じ合うものがあったからではないでしょうか。

ここでは、雁治郎と栖鳳がたびたび繰り広げた大宴会に関する記録に、当館所蔵の写真を添えてその交流ぶりを感じていただきたいと思います。飾りつけに工夫を凝らした会場で、栖軍・雁軍に分かれて様々なゲームを行い、豪華賞品があたる大掛かりな遊びです。「代表者謝罪的余興演上の上ならば、再び競技賞品を戻す事を得」など、盛り上げるための様々な仕掛けもありました。

それでは、二人の粋な遊びっぷりをご覧ください。

 

(栖鳳が語る大宴会の思い出)

話は期せずして顔見世興行に入り、今は昔、栖鳳君の御池の画室で、興行後の余興が例年行われたことに及ぶ。(竹内栖鳳)君は言う。
そのころ、成駒屋は顔見世に出演すべく汽車に乗ると、まず胸を打つのは、当の興行よりは御池の余興には、何を演じようか、何か変わった趣向もがな、とその事にばかり思いふけったそうで、それほど、この余興には力を入れてくれました。
ある時のこと、二十四孝の狐火の所作を、人形で見せてくれましたが、なかなか堂に入ったものでした。それは雁治郎が役者になる前、はじめは人形使いになろうと稽古したことがあるそうで、あのくらいの人になると、何をしてもソツはありませぬ。
また、ある時幸四郎が「汐汲み」を舞ってくれましたが、これも見事でした。その外、様々の俳優が思い思いの趣向を凝らして余興をしてくれましたので、この会合は年一年盛んになり、窓から外へ桟敷までして、大入満員、それでも入りきれぬほどの盛会でしたが、何分にも電気がゴウゴウと音を立てて鳴りだし、危険この上もなく、もし火事でも出して、近所合壁へご迷惑をかけるようなことになってはと心配して、四・五年前から、フッツリやめました。(掲載文献1)

 

(栖鳳の弟子が語る大宴会の思い出)

山本(紅雲) 素人顔見世をやっていましたな。先生の一番広い画室で、顔見世興行が終わった翌日に、大阪の中村雁治郎さんの一党だけ呼んでみんな芝居するんです。長いこと続けてやっていましたな。
池田(遙邨) ええ。魁車優がお夏狂乱を踊ったのですが、あの目が醒めるような派手な舞台衣装はいまでも目に浮かぶようです。
山本 芝居が終わったあとの余興に、おもりをつけた風船をうちわであおいで飛ばして、鳥居をくぐらせ、景品の名をしるした紙に風船が落ちた人には栖鳳先生の絵があたるというお遊びもあったのです。(写真1)
池田 扇子を投げる『投扇遊び』もやりましたな。栖鳳先生はそういう遊びが好きでしたね。(写真2)   (掲載文献2)

 

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (7)
写真1 大正(1912‐1926)前期
風船を煽いで鳥居をくぐらせて、商品を当てるゲーム。

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (1)
写真2 第1回大会、明治36年(1903)頃
投扇興(とうせんきょう) 台にたてられた的に向かって扇を投げて、倒れた形で得点を競う。

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (1)-2
写真2(部分)
竹内栖鳳のドヤ顔

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (1)-3
写真2(部分)
柱にかかる、余興のルール
「・・・・・
一、競技中は座席を立去るべからず
一、栖軍競技に優勝し商品受領の場合、若し雁軍の代表者謝罪的余興演上の上ならば、再び競技賞品を戻す事を得」

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (3)
写真3 大正(1912‐1926)前期
だるま競争

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (5)
写真4 大正(1912‐1926)後期
パチンコゲーム

20140717中村雁治郎と竹内栖鳳の大宴会!!!1985-045-04-06-023-01 (2)
写真5 第1回大会、明治36年(1903)頃
ゲーム大会後の集合写真

掲載文献1
・「歳晩閑談(二) 竹内栖鳳画伯と語る」、『京都日出新聞』所収、日出新聞社、昭和4年12月20日
・平野重光編『栖鳳芸談』、京都新聞社、1994年、第9章「竹内栖鳳/芸事に遊ぶ」頁331
転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。

掲載文献2
「美を語る9竹内栖鳳、師・竹内栖鳳の魅力とその作品、鼎談 池田遙邨(日本画家) 山本紅雲(日本画家) 田中日佐夫(美術評論家)」『アート・トップ』No.96 12・1月号所収、芸術新聞社、1986年12月1日発行 頁69

 

11月1日から開催の「竹内栖鳳」展には、竹内栖鳳と中村雁治郎一派が合作した作品を展示します。その絵を見るときには、この心温まる交流があったことを思い出してください。

さち

青木隆幸

「生誕150年記念 竹内栖鳳」特設ページはこちら

竹内栖鳳展に向けて2

現在、11月1日から始まる竹内栖鳳展の展示案を考えている最中です。

以前のブログ記事(花と宴展プレ公開1 第一・二展示室花と宴展プレ公開2 第三・四展示室)でもご覧いただいたように、当館はいつも展示案を考える際に模型を使うのですが、栖鳳展のためにもりひこがさらに大きな模型を手作りしました!
この模型を囲みながら、どうやって作品を展示しようかとスタッフで話し合いをしています。

20140711竹内栖鳳展に向けて2 (2)

展示したい作品はたくさんあるけれど、見やすく安全に展示できなくてはなりません。何度も案を練り直しています。
もうここには展示できないのでは…と思えても、話し合いの中で、「壁を取り払えば大丈夫!」「ケースを作れば展示できる!」などなど、思いも寄らないアイデアが出てきます。
今後も検討を重ねて、栖鳳とその作品の魅力がいっぱい詰まった展示にしたいものです。

それにしてもこの模型よく出来ていますよ!実際の美術館の1/20の大きさです。

20140711竹内栖鳳展に向けて2 (1)
階段までバッチリ再現。

これに色を塗って、作品の模型を入れるのが楽しみです。雰囲気が出るように人間の模型も入れたらいいと思います。

森下麻衣子
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竹内栖鳳展チラシ発送

今年11月1日から開催する、生誕150年記念『竹内栖鳳』展のチラシが出来上がりました。

20140705竹内栖鳳展チラシ発送 (1)20140705竹内栖鳳展チラシ発送 (2)

ボランティアスタッフの力をおかりして、発送作業を行いました。

20140705竹内栖鳳展チラシ発送 (3)

一人でも多く、皆様のお手元に届くことを願っています。

 

竹内栖鳳は、近代日本を代表する画家のひとりです。

詳しくはこちらをご覧ください。
http://www.umam.jp/seiho/

うみひこ

展覧会の一枚 《妙法蓮華経 巻第五(鳥下絵装飾経)》 平安時代 11世紀

仏教の経典は「法身舎利(ほっしんしゃり)」と呼ばれることがあります。これは、経典は釈迦の教えを書き記したものであるから、舎利(釈迦の骨)にも等しい価値を持つものである、という意味です。
こうした考えにより、経典は仏そのものと同等の存在であると見なされ、崇拝の対象となりました。そして経典が崇拝の対象となるならば、経はそれにふさわしいかたちでなければならないということで、美しい意匠が施された写経が数多く制作されました。こうした経を、「装飾経」と呼び習わします。
とりわけ平安時代に天台宗により幅広い階層に広まった経典である『妙法蓮華経(法華経)』は、仏道にまつわる造形活動を「作善(さぜん)」、つまり仏教の善行のひとつとして説いていることから、時の貴族たちの間では、きらびやかに飾り立てられた『法華経』を作って供養することが、一種のステータスシンボルにもなっていました。
今回ご紹介する《妙法蓮華経 巻第五》は、こうした歴史的な背景のなかで作られた装飾経のひとつです。

MORM285

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栖鳳 荒れ狂う海をみる

UMI115
風濤(ふうとう) 1918(大正7)年ごろ 当館蔵

重い雲に閉ざされた空の下、壁のようにそそり立つ荒波の上を、一羽の鶴が烈風にひるまず翼をひろげて飛んでいます。

画面左下部には、大きく隆起する海面が垣間見せる深い青、わずかな陽光に透かされて輝く波の緑、そして波に巻き上げられる海砂を表す金を、うねる動きそのままにダイナミックな筆遣いで描き、そこに真っ白な絵具を散らして、そのもっとも印象的な瞬間を劇的にとどめています。一方、画面右半部に目を向けると、中央から放射線状に広がる波頂が崩れ落ちながら、この絵と対峙する鑑賞者の眼前へと迫り、まるでアニメーション映画が1コマずつそのすがたを変えていくような躍動感に満ちあふれています。部分的には意味を持たない色とかたちが、全体を通して見ると、ひとつの画面の中に静と動がせめぎ合い、またたく間にその姿を変える荒海を表現するのに欠くことのできない要素へと変貌しています。

このような、抽象的ともいえる細部描写を圧倒的なリアリズムへと昇華させる表現は、対象の本質をつかむため、飽くことなく観察し続けた者しか達成し得ない境地ではないでしょうか。栖鳳はことあるごとに観察を繰り返したはずです。

この作品を制作した13年ほど後の話ですが、竹内栖鳳が荒波を観察したときの逸話が残されています。

「(1931(昭和6)年ごろの)冬、沼津の海岸に四五日滞在していると、急に大しけが始まって、海岸はごうごうと怒涛が巻き崩れた。すると先生(栖鳳)はその怒涛を見るという。見ると言ったって、老人には無理な芸当で、念のため筆者(栖鳳の長男竹内逸)は海岸へ出てみたが、風は強く、寒さは激しく、砂は散り、しぶきが飛ぶ。だがどうしても父は海岸へ出るという。仕方ないから、父の体にドテラを着せ、頭から耳へずぼりと帽子をかぶせ、眼には水中眼鏡をかけ、口と鼻とは日本手拭で巻き、さらに合羽をどっさり買ってきて、頭から腰のあたりまで包み、それを両腕もろとも帯やひもでからめ上げてしまった。まあ案山子かミイラのような姿で、それを筆者と女中との二人で海岸へ押し出していった。だが困ったことには、あまりの強風で、老人は後ろへ倒れそうになる。そこで二人は支柱のように後ろから肩と腰とを押している。そうなればむしろ老人は平気だが、二人は防寒も防水も防砂もやっていない。しかもそれが10分か15分なら我慢するが、30分以上もじっと逆巻く怒涛を見ている・・・」

(竹内逸「湯河原対話」『栖鳳閑話』所収、改造社、1936年、頁63〜64。転載にあたり文字を適宜あらためました。( )はブログ執筆者による注記です。)

 

「風濤(ふうとう)」は、11月1日から開催の『生誕150年記念 竹内栖鳳』展に出品いたします。

さち

青木隆幸

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