おめでたい魚たちの絵

海の見える杜美術館では、8月22日(日)まで「アート魚ッチング ―描かれた水の仲間たち―」を開催しています。

 

本展の第2章では、「福よコイ! めでたいお魚大集合」としておめでたい意味を持つ魚の絵画を紹介しています。

 

こちらは伝狩野休真の《滝登鯉》。

 

伝狩野休真《滝登鯉》 海の見える杜美術館

伝狩野休真《滝登鯉》 嘉永7年(1854)

 

一匹の鯉が今まさに急流の滝を登ろうとしている場面を描いています。この作品は、「黄河の上流にある龍門という急流を登り切った鯉は、竜に変じる」という中国の「登竜門」の故事にもとづいています。

 

現在でも成功や出世につながる難しい試験やコンテストのことを「登竜門」と言いますよね。日本で5月5日の端午の節句にあげる鯉のぼりもこの「登竜門」の故事にルーツがあるとされています。

 

江戸時代には、この絵のような立身出世への願いを込められた「鯉の滝登り」の図がよく作られました。

 

こちらは金太郎(坂田金時)が巨鯉を捕まえたという逸話をもとにした引札です。

 

《金太郎と鯉》

《金太郎と鯉》 大正時代

 

丈夫で健康な男児の象徴である金太郎もおめでたい図柄として好まれ、この鯉と金太郎の図も身体堅固、立身出世を願ってよく作られました。

 

日本でおめでたい魚として有名なものに鯛がいます。

 

鯛は、名前の響きが「めでたい」に通じることや身体の赤色が邪気を払うとされたこと、また七福神の恵比寿の持物であったことなどからおめでたい魚とされていました。

 

お正月に店の広告として配られる引札には、商売繁盛の神である恵比寿とともに鯛がよく登場します。

 

《恵比寿と大黒》 《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》

上:《恵比寿と大黒》 明治35年(1902)頃

下:《日の出 船上の恵比寿 美人と鯛》 明治40年(1907)頃

 

引札の恵比寿と鯛の図柄は、バリエーションに富んでおり見ていて飽きないです。

 

第2章の最後では、魚を題材にした中国のおめでたい現代年画も紹介しています。

 

こちらはその内、「金魚満堂」という図。

 

《金魚満堂》

《金魚満堂》 中国・1984年頃

 

金魚鉢の中を泳ぐ金魚を描いた作品です。

 

金魚は金玉(きんぎょく、黄金や玉(翡翠のこと)などの財宝)に通じ、それが部屋に満ちている(満堂)ことから、財力や経済的な豊かさを象徴したおめでたい絵となっています。

 

このように魚たちには様々なおめでたい意味がこめられ、絵画化されました。

 

今回の展示では、ブログで紹介している以外にもおめでたい魚たちの絵を紹介しています。会期も残り3週間を切りましたが、最後まで「アート魚ッチング」展をよろしくお願いいたします。

 

大内直輝

展覧会ブログ① 大野麥風の『大日本魚類画集』

海の見える杜美術館では、5月29日(土)から8月22日(日)まで「アート魚ッチング ―描かれた水の仲間たち―」展を開催しています(会期中展示替あり)。

 

この展覧会は、海の見える杜美術館が所蔵する、水の生き物を題材にした江戸時代から昭和時代までの絵画を展示し、美術の中で描かれてきた水の生き物を紹介する展覧会です。

 

今回の出品作品の中で目玉の一つは、展覧会の最後に紹介する『大日本魚類画集』です。

大野麥風『大日本魚類画集』「鯛」

大野麥風『大日本魚類画集』「鯛」 第1輯第1回 昭和12年(1937)8月

海中を悠々と泳ぐ3匹の鯛が、色鮮やかに活き活きと表現されています。まるで筆で描かれたようなこの作品、実は版画です。

 

この『大日本魚類画集』は、昭和12年(1937)~昭和19年(1944)にかけて全6輯(しゅう)72点が制作・出版された魚の版画集です。原画を担当したのは、「魚の画家」といわれた大野麥風で、彫師・摺師も当時一級の腕を持った人物が携わりました。

大野麥風『大日本魚類画集』「テナガエビ」解説

『大日本魚類画集』「テナガエビ」解説表紙

 

また、魚の版画以外にも「近代魚類分類学の父」と言われた東京帝国大学教授・田中茂穂と著名な釣り研究家・上田尚による魚の解説が付属していました。

大野麥風『大日本魚類画集』「カツオ」

大野麥風『大日本魚類画集』「カツオ」 第3輯第9回 昭和15年(1940)5月頃

 

この魚類画集は、「本邦初の魚類生態画」という謳い文句の通り、魚たちの泳ぐ姿やその生活環境までも丁寧に描写した作品です。麥風は、泳ぐ魚の姿を見るために、戦前はまだ珍しかった水族館に足を運びました。また、より正確な魚の色彩と生活環境を知るために潜水艦に乗り込み、実際に海の中を泳いでいる姿を観察したそうです。そのような熱意と努力のもとにうまれた本作は、まさしく「本邦初の魚類生態画」の名にふさわしいものとなっています。

大野麥風『大日本魚類画集』「フグ」

大野麥風『大日本魚類画集』「フグ」 第3輯第5回 昭和15年(1940)1月

 

こちらは可愛らしい「フグ」。本展のため製作したブックレットの表紙にもなっている作品です。

 

色彩のグラデーションも細かく丁寧につけられています。また、色の濃淡によって手前にいるフグと奥にいるフグを区別しています。

本物の魚に近い色鮮やかさや緻密さを実現するために、何度も摺りを重ね、麥風本人も彫師や摺師に対する注文を摺り見本に細かく書いたそうです。

実際に会場で目にすると、その色鮮やかさや緻密さがより伝わってきます。

 

今回の展覧会では、全6輯72点の内、当館で所蔵する1~4輯までの47点(3輯の1点欠)を紹介しています。当館で本作をま とめて公開する機会は、今回が初めてです。魚類をテーマにした版画の傑作、『大日本魚類画集』の魅力を味わっていただければと思います。

 

大内直輝

 

「Edo⇔Tokyo」展紹介ブログ④  広重の名所絵と版本

海の見える杜美術館では、明日8月23日(日)まで「Edo⇔Tokyo ―版画首都百景―」を開催しています。

展覧会の紹介と過去のブログは、
http://www.umam.jp/blog/?p=9873
http://www.umam.jp/blog/?p=10128
http://www.umam.jp/blog/?p=10182
に掲載してあります。

今回は本展でも多数展示している歌川広重の名所絵と当時流行した版本の関係について紹介します。

江戸時代後期、宿場や街道が整備され安全で長距離の移動が可能になると、庶民の間で旅ブームが起きます。そのような中で京都の名所を集めた『都名所図会』(秋里籬島編著、竹原春泉斎画、安永9年(1790))が刊行され、短期間で数千部が売れるベストセラーになりました。そのヒットを皮切りに次々と名所図会が刊行され、18世紀末から19世紀初めにかけて名所図会ブームが起こります。これに触発されて名所案内記や道中記、旅を題材にした狂歌本など、他の地誌類の版本の刊行も盛んに行われるようになりました。

版本の流行の背景には、旅ブームや本の内容の充実度以外に、浮世絵師によって緻密に描き出された挿絵の役割の大きさも指摘されています。

そして、浮世絵師達は名所絵を制作する際に、これらの版本の挿絵を種本として利用しました。特に名所図会の最高傑作といわれる『江戸名所図会』(斎藤月岑編著、長谷川雪旦画、天保5-7年(1834-1836))は多くの絵師が種本としました。

名所絵の名手であった広重もその一人で、彼は『江戸名所図会』の挿絵をもとにした名所絵をいくつか残しています。

その一つが、現在展示している作品番号16-1.《東都名所 道灌山虫聞之図》(天保10-13年(1839-1842))で、これは『江戸名所図会』巻之五「道灌山聴虫」に依拠しています。

『江戸名所図会』巻之五「道灌山聴虫」 国立国会図書館蔵
《東都名所 道灌山虫聞之図》
上:『江戸名所図会』巻之五「道灌山聴虫」 国立国会図書館蔵
下:《東都名所 道灌山虫聞之図》

手前の坂道を上る女性達や、右奥の筵に座って月見をする男性達、地平線にのぼる満月などその図様の多くが「道灌山聴虫」に倣っていることが分かります。
しかし、よく見ると手前の女性に比べて奥の男性が小さく描く、坂に松の木をもう一本描き加え、手前の松との大小比によって奥行きを表現するなど、画中の遠近感を高めていることが分かります。

このように、広重は版本を参考にしながらも、そこに独自の工夫を加えることによって、より実景に近いリアルな絵に仕上げていました。

展覧会もいよいよ明日で終わりです。まだまだ暑い日が続きますが、頑張っていきたいと思います。

大内直輝

「Edo⇔Tokyo」展紹介ブログ③ 江戸の桜の名所

海の見える杜美術館では、8月23日(日)まで「Edo⇔Tokyo ―版画首都百景―」を開催しています。

展覧会の紹介と過去のブログは、

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http://www.umam.jp/blog/?p=10128

に掲載してあります。

今回は、江戸の桜の名所について、出品作品を見ながら紹介します。

現代と同じく、江戸時代でも桜の花見は庶民の娯楽の一つであり、浮世絵にも花見の名所はよく描かれました。桜は江戸各地で楽しめましたが、まとまった状態で見られる花見の名所は限られていました。

江戸で最初に花見の名所が出来たのは、3代将軍徳川家光(1604-1651)の治世の頃になります。家光の命で上野寛永寺(現在の台東区)の初代住職・天海(1536?-1643)が吉野山の桜を境内に植樹し、娯楽の少なかった江戸庶民のために花見の場を作ったのがはじまりです。

歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)
歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)

満開の桜が咲き誇っています。

その後4代将軍家綱(1641-1680)の時代、寛文年間(1661-1673)頃から御殿山(現在の品川区)にも桜の植樹が始まります。8代将軍吉宗(1684-1751)の時代には、600本の桜が植樹されました。御殿山の桜は高台にあり、江戸湾を望みながら桜を楽しむことができる場所でした。

歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)

江戸湾が一望できます。宴会を楽しむ人の姿も見えます。

しかし、江戸の市中から御殿山までは2里(約8km)ほどあり、庶民が気軽に花見を楽しめる場所ではありませんでした。そのため、吉宗の治世まで庶民が気軽に桜を楽しめる場所は、寛永寺ぐらいで花見の時期には風紀が乱れるほどの人が集まりました。

吉宗の時代には、享保の改革の一環として、庶民の娯楽の場を増やすために、さらに2つの桜の名所が整備されます。

1つは隅田川の土手です。4代将軍家綱の時代に、常陸国(現在の茨城県)の桜川から桜を移植したのが、隅田川の桜の始まりとされています。その後、享保2年(1717)、100本の桜が、享保11年(1726)植樹され、花見の場として本格的に整備されます。特に隅田川を上流から見て左側(墨田区側)は「墨堤」と呼ばれ、江戸屈指の花見の名所として定着していきました。

歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)

三囲神社の鳥居越しに隅田川沿いの桜を眺めます。

もう一つは王子の飛鳥山(現在の北区)です。王子の地名は、紀州熊野の熊野権現(若一熊野神社)を勧進したことが由来とされ、紀州藩出身の吉宗はこの地に目を付け、整備を試みました。飛鳥山には元文2年(1737)に1270本ものソメイヨシノの苗木が植えられ、吉宗自ら当地に赴き宴会の席を催し、新たな花見の場としてアピールしたといわれています。当時主要な桜の名所であった寛永寺は、規制が厳しく、宴会や夜桜は禁止されていたため、江戸庶民は飛鳥山に集うようになったといいます。

歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)

たくさんの桜の花が咲き誇り奥には富士山の姿も見えます。左に描かれる石碑は「飛鳥山碑」と呼ばれ、元文2年(1737)に建てられました。飛鳥山の由来や桜が植えられた経緯が書かれています。

最後に少し変わった桜の名所・吉原を紹介します。

江戸幕府公認の遊郭として元和3年(1617)に誕生した吉原は、明暦3年(1657)の明暦の大火を機に、葦屋町(現在の日本橋)から浅草寺裏の日本堤に移転します。以後、江戸庶民のあこがれ、そして文化の発信地として繁栄します。

その吉原にも花見の季節になると満開の桜が咲き誇りました。しかし、この桜は元々植えられていたものではなく、毎年三月朔日になると他の場所から桜樹を運んできて植えたものです。その数は千本にも及んだそうです。

歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)
歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)

色とりどりに着飾った花魁と夜桜がとてもきれいな一枚。

そして、花が散ると桜の樹は抜かれ、また桜の季節になると植えられました。

以上が江戸の代表的な桜の名所です。海を一望しながら桜を楽しめた御殿山は黒船来航後、台場を築くため崩され埋め立てられてしまったため、現在では見ることができません。しかし、御殿山と吉原を除いた寛永寺、墨堤、飛鳥山は今でも花見の名所として健在で、桜の季節になると多くの人が集まります。

今年の桜の季節は過ぎてしまいましたが、また花見の時期になったら、江戸に思いをはせながら、桜を愛でてはいかがでしょうか?

大内直輝

「Edo⇔Tokyo」展紹介ブログ② 江戸から明治にかけての首都の風景の変化 第2回「駿河町」

 現在、海の見える杜美術館では、6月20日(土)より「Edo⇔Tokyo –版画首都百景–」展を開催中です。本展では、当館の所蔵品の中から、江戸時代後期に風景画の名手とうたわれた初代広重、明治初期に開化絵を多く手がけた三代広重(1842-1894)、師・清親が始めた光線画を引継ぎ明治初期の東京の姿を情緒的に描いた井上安治(1864-1889)などの作品を紹介し、当時の絵師が捉えた、江戸から明治にかけて変化していく街の様相を見ていきます。

 本ブログでは、出品作品の中から、江戸・東京の名所風景の一部を見ていき、江戸から明治にかけて首都の風景がどのように変化したのかについて紹介しています。

前回の内容は↓に載っています。
http://www.umam.jp/blog/?p=9873

 2回目は、江戸を代表する経済の中心地であった「駿河町」を紹介します。

 現在は駿河町という地名は残っておらず、日本橋室町が当時の駿河町にあたります。江戸の経済の中心として栄えましたが、地名が変わった今でも多くの商業施設が建ち並び商業の中心としての役割を担っています。

現在の日本橋室町
↑現在の室町周辺の写真。三越百貨店(右)やコレド室町(左)など大型商業施設が林立しています。

駿河町の地名の由来は、この場所から南西の方角を望むと正面に江戸城を、その背景に富士山(駿河国)を眺望できたことにあります。ここから眺める富士山は江戸一と言われており、江戸の名所としてその風景は浮世絵の題材として良く描かれました。

では、駿河町を題材にした江戸と明治の作品を見ていき、それぞれ描かれているものにどのような違いがあるか見ていきましょう。

歌川広重《東都名所 駿河町之図》 天保14-弘化4年(1843-1847)UMAM 海の見える杜美術館
歌川広重 「駿河町の図」(《東都名所》のうち) 海の見える杜美術館蔵

駿河町の様子を描いた天保3年(1832)頃の浮世絵です。通りの両側には三井呉服店(丸に井桁三文字)ののれんがかかった店舗が建ち並び、正面には富士山の姿が見えます。武士や旅人、天秤棒を担いだ振売(商人)など様々な人が行き交い、賑わいを見せています。正面の奥には富士山がその手前には小さく江戸城が描かれています。富士山は駿河町のみならず江戸のランドマークとして多くの浮世絵に登場します。

続いて明治時代の駿河町です。

井上安治《東京真画名所図解》「駿河町夜景」 明治14-22年(1881-1889)UMAM 海の見える杜美術館
井上安治「駿河町夜景」(《東京真画名所図解》) 海の見える杜美術館蔵

こちらは1877年(明治10)前後の駿河町の夜景を描いた作品です。向かって左側の建物は越後屋、右の建物は資生堂薬舗、奥のシルエットの建物が三井組本店(後の三井銀行)です。画面中央を見ると文明開化の象徴であるガス灯の姿が見え、その周りには馬車と人力車が描かれます。馬車や人力車は明治時代になり普及した乗り物で、馬車・人力車専用の道もありました。
 この作品では、広重の作品では存在感を放っていた富士山が描かれません。その代りに画面の奥には、1874年(明治7)に竣工した擬洋風建築・三井組本店が描かれ、シルエットのみの姿ですが、存在感があります。この建物は、当時の開化絵にも取り上げられていることから、文明開化の象徴的な建造物として注目を浴びていたのでしょう。江戸から明治へと移り変わる中で、富士山以外にも、文明開化の代表的な産物である洋風建築が新たに駿河町のランドマークとして登場したことが分かります。

 「Edo⇔Tokyo」展では、これら江戸から明治にかけての首都の風景を写した版画を展示します。本ブログでも隔週で、展覧会出品作品の中から、作品紹介を行っていきたいと思います。

大内直輝

江戸から明治にかけての首都の風景の変化 ①「日本橋」

現在、海の見える杜美術館では、6月20日(土)より始まる、「Edo⇔Tokyo –版画首都百景–」展の準備中です。本展では、当館の所蔵品の中から、江戸時代後期に風景画の名手とうたわれた初代広重、明治初期に開化絵を多く手がけた三代広重(1842-1894)、師・清親が始めた光線画を引継ぎ明治初期の東京の姿を情緒的に描いた井上安治(1864-1889)などの作品を紹介し、当時の絵師が捉えた、江戸から明治にかけて変化していく街の様相を見ていきます。

今回からシリーズとして、出品作品の中から、江戸・東京の名所風景を一部紹介し、江戸から明治にかけて首都の風景がどのように変化したのかについて見ていきたいと思います。

1回目は、東京を代表する名所である「日本橋」を紹介します。

江戸幕府が開かれた慶長八年(1603)に初めて架けられた日本橋は、五街道の起点として発展しました。橋の周辺には魚市場が形成され、江戸の人々の食を支えていました。経済の中心であった日本橋は、江戸でも一番の賑わいを見せていました。

日本橋

上は現在の日本橋です。1911年(明治44)に架けられた石造アーチ橋で国の重要文化財に指定されています。日本橋は、焼失などで過去19回も改架されており、石造となった今の橋は20代目になります。残念ながら、橋の上には首都高速道路が走っており、往時のような存在感は薄れてしまっていますが、橋の周辺には、日本でも有数のビジネス街が形成されており経済の中心地としての面子は保ち続けています。

では、江戸時代の日本橋がどうようなものであったのか、当時の浮世絵を見ていきましょう。

日本橋魚市の図

歌川広重「日本橋魚市之図」(《東都名所》のうち)

天保3年(1832)頃の日本橋の様子です。中央には日本橋が描かれ、画面手前には店舗が建ち並びます。橋の上や通りは人であふれかえり、活気に溢れています。日本橋をよく見ると、橋が弓なりになっていることが分かります。江戸時代の日本橋はこの絵のように中央が高く盛り上がった反橋でした。

続いて明治時代初期の日本橋を見ていきましょう。

日本橋《東京真画名所図解》

「日本橋」(《東京真画名所図解》のうち)

明治前期(1881年~89年頃)の日本橋の夕景です。画面の左側には赤レンガの倉庫が建ち並び、川には渡し舟の他に大型の荷舟が描かれます。日本橋に目を移すとそれまでの反橋ではなく、平らな橋に変わっていることがわかります。この橋は、1872年(明治5)、最後に木造で架けられた19代目で、橋から平らな橋に変わった理由は、急速に普及してきた人力車や馬車などの通行に対応するためといわれています。

このように江戸を代表する名所であった日本橋も、文明開化の影響を強く受け、大きくその風景が様変わりしていたことが分かります。

「Edo⇔Tokyo」展では、これら江戸から明治にかけての首都の風景を写した版画を展示します。本ブログでも出品作品のもとに展覧会の紹介を今後もしていく予定です。どうぞお楽しみください。

大内直輝

菅井汲展も残り1日です。

海の見える杜美術館では、7月21日(日)まで「生誕100年記念 菅井汲 —あくなき挑戦者—」展を開催しています。

 本展覧会は、パリを拠点に活動した日本人画家・菅井汲の版画作品にスポットをあて、同館所蔵のコレクション約100点を展示するものです。

菅井汲については当館のホームページの展覧会紹介ページをご覧ください。
http://www.umam.jp/exhibition20190525.html

菅井汲展の以前の紹介記事については以下をご覧ください。
http://www.umam.jp/blog/?p=9422

 菅井汲は—渡仏初期の日本的主題を取り入れた繊細なタッチの作品、1960年代の明快な色彩で幾何学的な形を描いたダイナミックな抽象作品、1970年代のほぼ円と直線のみで構成される規格化されたモチーフを主体にした作品、晩年の「S」字シリーズ−と作風を幾度も変えたことで知られています。

 その中でも、私が個人的に好きなのは1970年代の作品です。

菅井汲 group3 UMAM 海の見える杜美術館
菅井汲《GROUP 3》1980年 シルクスクリーン
 菅井の作風は1960年頃からがらりと変わり、幾何学的なフォルムの色鮮やかな作品を手がけるようになります。さらに1970年代になると色の数が限定され色彩がより鮮やかになり、フォルムに制限が加えられた図形的なモチーフで構成された作品を展開していきます。彼はコンパスや定規を使って正確に線や円を引き、モチーフの制作を行っていました。また、彼はより鮮やかな色あいを出すために、それまで主流としていたリトグラフからシルクスクリーンへと制作の技法を変えるなど工夫も試みました。
この時期の作品は、一見単純にも思われますが、道路標識を彷彿とさせるようなモチーフと色彩の鮮やかさは強く印象に残ります。菅井はこの時期のインタビュー記事で「屋外において、50メートル先から見てもパッとわかる作品を考えている」と答えていますが、彼が目指していたまさしくこのような作品だったのでしょう。

菅井汲展も残り1日となりました。菅井汲作品の魅力は、実際に目で見ないとわからないと思います。ぜひお楽しみいただければと思います。

大内直輝

菅井汲の版画

海の見える森美術館では、7月21日(日)まで「生誕100年記念 菅井汲 —あくなき挑戦者—」展を開催しています。

 本展覧会は、パリを拠点に活動した日本人画家・菅井汲の版画作品にスポットをあて、同館所蔵のコレクション約100点を展示するものです。今回は、それらを4つの時期—渡仏初期の日本的主題を取り入れた繊細なタッチの作品、1960年代の明快な色彩で幾何学的な形を描いたダイナミックな抽象作品、1970年代のほぼ円と直線のみで構成される規格化されたモチーフを主体にした作品、晩年の「S」字シリーズ−に分けて章を構成しています。

菅井汲については当館のホームページの展覧会紹介ページをご覧ください。
http://www.umam.jp/exhibition20190525.html

今回は菅井汲と版画のことについて紹介したいと思います。

 菅井汲は1952年の渡仏から1996年に亡くなるまで、大型の油彩やアクリル画に制作の主体を置いていましたが、その一方で数多くの版画作品を手がけていました。その数は400点以上に及び、版画は彼の画業を語る上で無視できないものとなっています。

 彼と版画の出会いは1955年のことで、当時契約していたクラヴァン画廊の勧めで《DIABLE ROUGE(赤い鬼)》という作品のリトグラフを制作したのが最初といわれています。その背景には、前年(1954年)に同画廊で開かれた個展が大きな反響を呼び、彼が忽ち売れっ子の画家となったことで、彼の作品に対する需要が高まり、供給が追いつかなくなったことがあったようです。

UMAM赤い鬼 海の見える杜美術館 
《DIABLE ROUGE(赤い鬼)》 1955年 リトグラフ

 そのようなきっかけで始めた版画ですが、結果的に彼は亡くなるまでの40年以上にわたりその制作に携わることとなりました。菅井は版画について「版画の魅力はスピード感である」と語っており、タブロー(絵画)や立体作品と違って気軽に制作に取りかかれ、自分の自由で無責任な思いつきを比較的短時間で実現できるものとして、版画の制作に力を注いでいました。彼は版画の個展を頻繁に行い、国際版画展にも何度も出品していました。そして彼の版画はそれらの国際展で受賞を重ねるなど高い評価を得ていました。需要を満たすための苦肉の策として制作を始めた版画ですが、菅井の考えをそのまま表現するには最も適したメディアであったのでしょう。

西南戦争浮世絵《隆盛冥府大改革》

海の見える杜美術館では、10月14日(日)まで「西南戦争浮世絵 -さようなら、西郷(せご)どん-」を開催しております。今回はその出品作品の中から、西郷隆盛が地獄で大暴れする《隆盛冥府大改革》という作品を紹介します。

《隆盛冥府大改革》 海の見える杜美術館 UMAM
鈴木年基画《隆盛冥府大改革》 大判錦絵三枚続 明治10年12月7日届出

画面の中央では、西郷が左手で鬼の首を掴み、右手で閻魔大王を殴り倒しています。その傍らでは桐野利秋が2体の鬼を締め上げています。また、画面の左奥に目を移すと、薩摩兵士たちが逃げ惑う鬼を追い回している様子が見えます。狼狽する閻魔大王らとは対照的に、西郷を始めとする薩摩軍は猛々しく描かれています。

詞書には、1877年9月24日の城山において、兵を集めた西郷が冥府へ攻め入り、閻魔大王を打ち倒し冥府の王になった旨が書かれています。この作品は、西南戦争終結から2か月余りを経て制作されましたが、詞書の内容が、実際に巷で流れた風説をもとに書かれているのか、制作者の想像で書かれているのかは不明です。西郷が生きている間に果たすことができなかった改革を、せめてあの世で果たさせてあげたいという世間の彼に対する同情が、この作品を生んだのかもしれません。

大内直輝

西南戦争の双六

海の見える杜美術館では、10月14日(日)まで展覧会「西南戦争浮世絵 ­さようなら、西郷(せご)どん­」を開催しております。今回はその出品作品の中から、西南戦争を題材とした絵双六(絵入りの双六)を紹介します。

2018-002-01-3 296 鹿児島鎮定双六 及び 封筒-1

歌川国貞(3代)画《鹿児嶋鎮定双六》 1877年(明治10)10月27日届出

 

江戸時代に子供の正月遊びとして普及し始めた絵双六は、明治時代になって玩具として本格的に定着し、様々な種類のものが世に出ました。

絵双六には、振り出しから上がりまで順々に進んでいく「回り双六(廻り双六)」と、各区画に移動先が示してあり、振ったさいの目によって絵の中を飛び移っていく「飛び双六」の2種類があります。今回紹介する《鹿児嶋鎮定双六》は、そのうち「飛び双六」にあたり、振り出しの「征韓論」から上がりの「天盃」まで西南戦争の下記の14の場面が描かれています。「征韓論」以外はすべて1877年(明治10)の出来事です。

 

征韓論…1873年(明治6)、西郷隆盛が政府の参議を辞職し、鹿児島へ帰るきっかけとなった論争。

弾薬… 薩摩が所有していた武器弾薬を、1月末から2月初頭にかけて官軍と旧薩摩藩 士が奪い合った事件(弾薬掠奪事件)。

軍議… 2月5日、西郷と薩摩兵士たちが、軍議を行い、全軍出兵して東京へ向かうことを決めた。

田原坂…3月4日から20日にかけて、熊本城を目指す薩軍と、城を守る官軍が田原坂で大激戦し官軍勝利した戦い。

女隊… 薩軍の女性が部隊を編成し、官軍相手に奮戦した(史実ではない)。

抜刀隊…士族で編成された政府の抜刀隊が、薩軍と戦闘した。彼らの中には薩摩出身者も多く参加していた。

朝男山…相撲取りの朝男山市五郎と弟子たちが、畳で銃弾を防いだ(史実ではない)。

高千穂…熊本を追われた薩軍は、高千穂の山の麓で官軍を食い止めた。

人吉… 薩軍は熊本から人吉に本営を移し、官軍は6月1日に人吉を攻め落とした。

佐土原…宮崎佐土原の島津啓次郎が薩軍佐土原隊を結成し奮戦した。7月31日に佐土

原は陥落した。

延岡… 8月14日、宮崎の延岡に集まった薩軍を官軍が総攻撃し、占領した。

降参… 8月16日、西郷は解軍の指令を出し、薩軍から降参する者が相次いだ。

城山… 9月1日、西郷は残りの兵と鹿児島の城山に入り、9月24日、官軍が総攻撃をかけ薩軍は全滅、西郷は切腹した。

天盃… 官軍の勝利に貢献した人が集められ、天皇から直接酒盃を賜った(史

実ではない)。

 

この中には「女隊」や「朝男山」など、史実とはみなされていないものも含まれますが、「征韓論」や「弾薬」、「田原坂」や「城山」など、西南戦争に関係する主要な出来事や激戦地が描かれ、この1枚を通して戦争の勃発から終焉までを辿ることができます。

当館所蔵の西南戦争の双六は本作のみですが、管見の限り、他にも楊洲周延画《鹿児島鎮静双録》(江戸東京博物館所蔵、明治10年届出)、月岡芳年画《鹿児嶋凱陣双六》(個人所蔵、明治10年12月17日届出)、月岡芳年画《鹿児島平定寿語禄》(個人所蔵、明治10年12月7日届出)の3点の存在を確認しています。これらはいずれも画題に、「鎮定」、「鎮静」、「凱陣」、「平定」とあり、天盃を頂戴する場面を上がりとしていることから、その制作には官軍の勝利を祝う意図が込められていたと考えられています(註1)。西南戦争を題材とした双六について、他にどのようなものがあるかは今後も探していきたいと思っています。

戦争が終わって間もない時期に、西南戦争が双六のような子供の遊び道具に取り入れられたことはとても興味深いです。

 

西南戦争浮世絵展では、展示室を出たところに、本作を使った双六コーナーが設けられています。

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「征韓論」から振り始め、「降参」もしくは「城山」を通って、そこから「天盃」で上がるのが通常ルートですが、序盤の「女隊」を通ると、最短3回で上がることができます。

鹿児嶋鎮定双六 海の見える杜美術館 UMAM - コピー (2)

当時の子供たちが夢中になった双六遊びを体験してみてはいかがでしょうか。

 

大内直輝

 

註1 大庭卓也・生住昌大「西南戦争-戦争と、その広がり-」 久留米大学文学部 2014年 67、68ページ