小松均の風景画2点 「小松均 自然を愛した画仙のまなざし」展

小松均(1902〜1989)は、山形に生まれ、後に京都に出て土田麦僊の門下生となって活躍した日本画家です。京都・大原で自給自足の生活をしながら作画活動を続け、世俗とは無縁の暮らしぶりを続けたことから、「大原の画仙」とも呼ばれます。その生誕120年を記念して、当館が所蔵する小松作品をご紹介する展覧会「小松均 自然を愛した画仙のまなざし」を開催しています。

早いもので小松均展、開館から2週間が経ちました。今回のブログでは展覧会のみどころのひとつ、昭和10年代に制作された2つの風景画の大作をご紹介します。

小松の代表作といえば、昭和40年代、60歳代以降にてがけた故郷の最上川や、終生の住まいとして愛した大原の景色、雄大な富士山の景観を描いた大作の風景画が良く知られます。いずれも時に土俗的と表現される力強い独特の墨線を執拗に重ねて、自然の真の姿を写し取ろうとしたものです。当館の所蔵する小松の風景画2点は、その独自の風景画にいたる以前、昭和15年(1940)、38歳の時に伊豆下田の風景を描いたもの。この時期小松は南画家たちとの交流の中で墨を用いた風景画への傾倒を示し始めており、いわば小松の画業の転換期に制作された貴重な作例です。

昭和14年秋、最初の絵の師・岡村葵園が亡くなります。その東京での葬儀の帰途でしょうか、小松は伊豆下田をスケッチ旅行して廻り、その雄大な風景に魅せられます。何度か訪ねて作画し、乾坤社第2回展に「伊豆二題」として出品したのがこの2点です。

小松均《石廊崎画巻》

《石廊崎》伊豆半島の南端、太平洋を一望する石廊崎岬の景色を描く作品。紅葉を豊かな彩色で描き出した画巻の末尾には、石廊埼灯台の姿も。

1989-034小松均《伊豆岩山図》

《伊豆岩山風景》墨一色で、岩山に漂う湿潤な空気を描き出す。視界を白く霞ませる激しい雨が上がり、黒々とした岩山がその姿を現す様が見事です。

どちらも縦65センチ、長さは8 メートルを越える圧巻の画面。色をつかって雄大な広がりを見せる伊豆の海と岬を描いた《石廊崎》と、対して墨一色で湿潤な空気の中に聳える岩山を描いた《伊豆岩山風景》。伊豆の自然が持つ異なった表情の描き分けが見事です。

今回は両作とも大きく開いて、ほぼ全画面ご覧頂けるよう展示しました。写真は《伊豆岩山風景》です。

1階のエントランスには《石廊崎》を壁面に拡大してあります。

冒頭の虹が美しいです。

1階ギャラリー 虹

 

ところで両作とも、画中には山道を行く人の姿が小さく描き込まれています。

伊豆岩山 人

この人はどこを歩いているのでしょう?ぜひ会場で探してみてください。

 

谷川ゆき

うみもり香水瓶コレクション6 ポマンダー

明けましておめでとうございます

本年も美術館展示室、そしてブログ等で、香水瓶の奥深い世界をご紹介したいと願っています。引き続きどうぞよろしくお願い申し上げます。

さて、今回の香水瓶は、香り豊かな実り多い一年になることを願って、「香気のリンゴ」なる別名を持つ、果実や球の形をした香料容器「ポマンダー」をご紹介いたします。

こちらの作品です👇

 Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 海の見える杜美術館

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
海の見える杜美術館

《ポマンダー》 ドイツ、1630年頃、銀、銀に金メッキ、海の見える杜美術館所蔵 Pomander, Germany, C.1630, Silver, gilt silver, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

ポマンダーの始まりは、本作品が製作されるよりずっと以前の、中世にさかのぼります。当時も、現在の新型コロナウィルスの流行のように、数々の疫病が発生し、人々はその解決策を探し求めていました。そのようななか、重要な役割を担ったのが、香りでした。もともと香りは、古代より治療にも使われてまいりましたが、中世以降、疫病流行時には、人々は片時も肌身離さず、持ち歩くようになりました。それは力強い香りが、疫病と、疫病の原因となる瘴気(しょうき、悪い空気)から身を守ってくれると考えられたからです。大半のポマンダーの上部にリングが付けられているのは、そこに鎖を通し、常に携帯していたためなのですね。

やがてルネサンス期以降も、疫病は相変わらず人々を苦しめたため、ポマンダーの需要も衰えることなく続き、18世紀半ばまで製造されました。特権階級は趣向を凝らした金銀細工や七宝などの細工が施されたポマンダーを、そうでない者は革あるいはごくありふれた金属でできたポマンダーを愛用しました。

本作品は、16世紀や17世紀に王侯貴族や高位聖職者のあいだで使われた典型的なポマンダーのひとつです。

表面には当時の富の象徴であった花であるチューリップと、貴族がたしなんだハヤブサ狩りを想起させる鳥が彫られています。表面の金細工もさることながら、ぜひお目に掛けたいのは、その内部です。

オレンジの実の形をした本体部分の上部の蓋をくるくると回しますと、なんとオレンジの実をくし形に切ったような6つの部分が現れます。実は、私はこの瞬間が大好きです。まるで手の中におさめた小さな蕾の花弁が、ほろほろとほどけていくかのように、みるみるうちに6等分に開かれていく仕掛けが、なんとも可憐なのです! しかもこの黄金色!! 外側の銀色からは思いもよらなかった光輝く金色の登場に、目の前に明るい世界が瞬く間に開けた気になってしまうほどです。いやはや、本作品は、知らぬ間にこわばった人間の心をほどけさせる、なんとまあ心憎い仕掛けに満ちた容器であることよ…..と感心してしまいます。まさに疫病流行時に求めらるる容器なり、と膝を打たずにはいられません。

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 海の見える杜美術館所蔵

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
海の見える杜美術館

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 海の見える杜美術館所蔵

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
海の見える杜美術館

この6つに分かれたひとつひとつに、固形香料が詰められています。シナモン、ナツメグ、ローズマリー、バラなど、おさめられた香りが特定できるのは、スライド式になった各部分の蓋に、その名がしっかりと記されているおかげです。

ポマンダーに使用される香りの種類は、16世紀以降、豊かさを増していきますが、それは大航海時代、ヨーロッパに豊富にもたらされた異国の香りを今に伝えてくれます。

さて、次の画像もぜひこの機会にお目にかけたい細部である、容器の土台部分です。土台を再びくるくると回して、本体から取り外してみると、なんとその先には、香料を取り出すための至極小さなさじが付いているではありませんか! こちらです👇。

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima 海の見える杜美術館所蔵

Umi-Mori Art Museum,Hiroshima
海の見える杜美術館

本作品は閉じた状態でも、わずか5.5㎝の高さほどしかありませんので、内部の小さな香料入れに直接指を入れるのは至難の業です(第一、衛生的でもエレガントでもありませんよね)。それゆえ、このような小さじが備わっているのですね。これまた見事な細やかさです。

迫りくる疫病から身を守りたいという人々の願いは、何世紀にもわたって、数多のポマンダーを生み出しました。新型コロナウィルス流行以来、ポマンダーを見ておりますと、かつての人々の思いが、より切実に感じられ、ポマンダーへの興味が尽きません。現在、海の見える杜美術館は冬季休館中ですが、春の開館時には、本作品と、17世紀末にオランダで製作された七宝細工のポマンダーを香水瓶展示室にて展示する予定です。

皆さまがお健やかに一年をお過ごしくださいますよう願いつつ……

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

 

 

「歌仙をえがく—歌・神・人の物語—」展 浮世絵と歌仙

「歌仙をえがく」展も会期を残すところ1週間ほどとなりました。

王朝の雅を伝える存在として和歌とともにしばしば絵に描かれてきた歌仙たち。その存在は、江戸時代も中期以降になると、絵入り版本の流通とともに庶民の教養としても浸透していきます。また歌仙や彼らの詠んだ和歌は浮世絵の主題ともなり、しばしば「見立て」の手法で、当世の美人や役者にそのイメージが投影されていきます。

今回の展覧会では、三代歌川豊国(国貞)による《見立三十六歌撰之内》を36枚まとめてご覧いただけます。展覧会後半の見所です。
この作品は、役者見立絵です。歌仙の名とその和歌が色紙形の中に書かれ、劇中の登場人物の名が役者の似顔絵に添えられます。登場人物と、歌意や歌のモチーフ、あるいはそれを詠んだ歌仙の境遇などの間に連想されることを読み解き、描かれている人物が登場するのはどの演目か、さらに、似顔からどの役者であるのかを当てることが、この作品を見る際の楽しみ方だったようです。

凡河内躬恒

歌川国貞(三代豊国)《見立三十六歌撰之内》「凡河内躬恒」嘉永5年(1852) 海の見える杜美術館

謎解きはなかなか難しく、よほどの歌舞伎通で、かつ和歌や歌仙に明るくなければできなさそう。会場には柿本人麻呂などほんの数人分ですが、謎解きの解説のパネルをつけました。江戸の芝居愛好者の教養をぜひ追体験してみてください。浮世絵自体も力強く、見応えがあります。

 

YouTubeに画像をゆっくりご覧頂ける動画にしてアップしました。ぜひお楽しみください。

https://www.youtube.com/channel/UCyOWfAm66u_WefHCAvhlPkA

 

谷川ゆき

うみもり香水瓶コレクション3
キャロン社「シャントクレール」のための
香水瓶

こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。空に浮かぶ雲の形や風の匂い、虫の音が変化し、日一日と秋らしくなるのを感じると、私はこれから出合う芸術への期待で胸が高鳴ります。秋の夜長の友として、どのような文学を今宵は選びましょうか――。おりしも、現在当館では、日本の古典文学を彩る歌仙たちの肖像を描いた歌仙絵の展覧会「歌仙をえがく―歌・神・人の物語」展が開催中です。

そこで今回のうみもり香水瓶コレクションは、芸術の秋に相応しい文学にちなんだ香水瓶をご紹介いたします。 こちらです👇シャントクレール

香水瓶《標石》キャロン社「シャントクレール」1906年、透明ガラス

デザイン:アンリ・アム及びフェリシ・ベルゴー 1906年、海の見える杜美術館所蔵

CARON, CHANTECLER -1906, PERFUME BOTTLE, Transparent glass, Design by Henri HAMM and Félicie BERGAUD-1906, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima

 

1906年発売のキャロン社の香水「シャントクレール」のためにデザインされた本作品は、一見するとごくありふれた香水瓶ですが、ぜひ金色のラベル部分にご注目ください。雄鶏が刻まれていますね。

 

PCA001(ラベル部分)

このモデルとなったのは、フランス中世文学作品のひとつ『狐物語』に登場する、狡賢いキツネに一矢報いた雄鶏シャントクレールです。内容が滑稽味溢れるものであったことも影響したのでしょうか、『狐物語』は、フランスはもとよりヨーロッパ諸国にも写本によって広く親しまれました。その影響は大きく、18世紀末には、ゲーテがこの物語集から着想を得た『ライネケ狐』を執筆したほどです。

ところで、シャントクレールという名前には、フランス語で、澄んだ声で(クレール)歌う(シャント)という意味が隠されています。それは、歌によって夜明けを知らせる鳥である鶏のイメージと重なります。香水瓶に祝祭のように明るく華やかなイメージを求めたデザイナーのフェリシ・ベルゴーにとって、まさにぴったりのイメージソースであったといえるでしょう。

また、この香水瓶の発売と前後して、『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者、エドモン・ロスタンも雄鶏が活躍する戯曲『シャントクレール』を執筆し、パリでの上演で好評を博していたことも見逃せません。

雄鶏は、フランスの国鳥でもあります。香水瓶の発表当時、ドイツと緊張関係にあったフランスの人々は、高らかに歌う国鳥をモティーフにした本作品や文学によって、愛国心を募らせたのかもしれませんね。

はるか中世の写本の世界についても、18世紀末のドイツ文学についても、20世紀初頭のヨーロッパの情勢についても、おおいに物語ってくれる香水瓶です。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

 

「Edo⇔Tokyo」展紹介ブログ③ 江戸の桜の名所

海の見える杜美術館では、8月23日(日)まで「Edo⇔Tokyo ―版画首都百景―」を開催しています。

展覧会の紹介と過去のブログは、

http://www.umam.jp/blog/?p=9873

http://www.umam.jp/blog/?p=10128

に掲載してあります。

今回は、江戸の桜の名所について、出品作品を見ながら紹介します。

現代と同じく、江戸時代でも桜の花見は庶民の娯楽の一つであり、浮世絵にも花見の名所はよく描かれました。桜は江戸各地で楽しめましたが、まとまった状態で見られる花見の名所は限られていました。

江戸で最初に花見の名所が出来たのは、3代将軍徳川家光(1604-1651)の治世の頃になります。家光の命で上野寛永寺(現在の台東区)の初代住職・天海(1536?-1643)が吉野山の桜を境内に植樹し、娯楽の少なかった江戸庶民のために花見の場を作ったのがはじまりです。

歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)
歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)

満開の桜が咲き誇っています。

その後4代将軍家綱(1641-1680)の時代、寛文年間(1661-1673)頃から御殿山(現在の品川区)にも桜の植樹が始まります。8代将軍吉宗(1684-1751)の時代には、600本の桜が植樹されました。御殿山の桜は高台にあり、江戸湾を望みながら桜を楽しむことができる場所でした。

歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)

江戸湾が一望できます。宴会を楽しむ人の姿も見えます。

しかし、江戸の市中から御殿山までは2里(約8km)ほどあり、庶民が気軽に花見を楽しめる場所ではありませんでした。そのため、吉宗の治世まで庶民が気軽に桜を楽しめる場所は、寛永寺ぐらいで花見の時期には風紀が乱れるほどの人が集まりました。

吉宗の時代には、享保の改革の一環として、庶民の娯楽の場を増やすために、さらに2つの桜の名所が整備されます。

1つは隅田川の土手です。4代将軍家綱の時代に、常陸国(現在の茨城県)の桜川から桜を移植したのが、隅田川の桜の始まりとされています。その後、享保2年(1717)、100本の桜が、享保11年(1726)植樹され、花見の場として本格的に整備されます。特に隅田川を上流から見て左側(墨田区側)は「墨堤」と呼ばれ、江戸屈指の花見の名所として定着していきました。

歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)

三囲神社の鳥居越しに隅田川沿いの桜を眺めます。

もう一つは王子の飛鳥山(現在の北区)です。王子の地名は、紀州熊野の熊野権現(若一熊野神社)を勧進したことが由来とされ、紀州藩出身の吉宗はこの地に目を付け、整備を試みました。飛鳥山には元文2年(1737)に1270本ものソメイヨシノの苗木が植えられ、吉宗自ら当地に赴き宴会の席を催し、新たな花見の場としてアピールしたといわれています。当時主要な桜の名所であった寛永寺は、規制が厳しく、宴会や夜桜は禁止されていたため、江戸庶民は飛鳥山に集うようになったといいます。

歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)

たくさんの桜の花が咲き誇り奥には富士山の姿も見えます。左に描かれる石碑は「飛鳥山碑」と呼ばれ、元文2年(1737)に建てられました。飛鳥山の由来や桜が植えられた経緯が書かれています。

最後に少し変わった桜の名所・吉原を紹介します。

江戸幕府公認の遊郭として元和3年(1617)に誕生した吉原は、明暦3年(1657)の明暦の大火を機に、葦屋町(現在の日本橋)から浅草寺裏の日本堤に移転します。以後、江戸庶民のあこがれ、そして文化の発信地として繁栄します。

その吉原にも花見の季節になると満開の桜が咲き誇りました。しかし、この桜は元々植えられていたものではなく、毎年三月朔日になると他の場所から桜樹を運んできて植えたものです。その数は千本にも及んだそうです。

歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)
歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)

色とりどりに着飾った花魁と夜桜がとてもきれいな一枚。

そして、花が散ると桜の樹は抜かれ、また桜の季節になると植えられました。

以上が江戸の代表的な桜の名所です。海を一望しながら桜を楽しめた御殿山は黒船来航後、台場を築くため崩され埋め立てられてしまったため、現在では見ることができません。しかし、御殿山と吉原を除いた寛永寺、墨堤、飛鳥山は今でも花見の名所として健在で、桜の季節になると多くの人が集まります。

今年の桜の季節は過ぎてしまいましたが、また花見の時期になったら、江戸に思いをはせながら、桜を愛でてはいかがでしょうか?

大内直輝

【お知らせ】展覧会の内容を動画にてご紹介しております!

皆様こんにちは。

現在、当館は「美人画ラプソディ―近代の女性表現―妖しく・愛しく・美しく」と題し、近代の日本画家たちによる多様な女性像をご覧いただく展覧会を開催しております。

 

4月初旬より休館しておりました当館も、皆様のご協力をいただきながらではございますが、5月19日から再開することとなりました。

↓ご来館にあたってのご注意は以下をご覧ください。

http://www.umam.jp/

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現在の会場風景。近代の画家たちの個性あふれる女性表現をお楽しみいただける展覧会です。

 

美術館は開館しておりますが、ご自宅でも展覧会をお楽しみいただけるよう、会場風景や作品の解説を動画にてお届けいたします。

 

下記URLからご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=t55WW3l0GzU

 

展覧会場の雰囲気を少しでも感じていただければ幸いです。

森下麻衣子

作品紹介 《厳島八景画巻》より「大元桜花」

お花見のシーズンは過ぎましたが、前回の小野小町の衣の文様に続き、しつこく桜の話をさせてください。今回は、昨年開催した「厳島に遊ぶ—描かれた魅惑の聖地」展(11月23日〜12月29日)で展示した《厳島八景画巻》から、宮島の大元神社に咲く桜を描いた「大元桜花」の場面をご紹介します。

 

厳島の景観の見所ベスト8を選んだ「厳島八景」をご存知でしょうか。正徳4年(1717)、厳島の光明院の僧、恕信の依頼によって、京都の公家、冷泉為綱が八景を選定します。中国の景勝地、瀟湘八景に倣って選ばれた厳島の名勝は、「厳島明燈」「大元桜花」「瀧宮水蛍」「鑑池秋月」「谷原麋鹿」「御笠濱鋪雪」「有浦客船」「弥山神鴉」の8つ。それぞれに和歌、漢詩などの詩歌と挿絵を添えて、元文4年(1739)に版本『厳島八景』(全3冊)が刊行されています。

『厳島八景』 3冊のうち上、題字と題目 海の見える杜美術館蔵

『厳島八景』 3冊のうち上、題字と題目 海の見える杜美術館蔵

さて、この「厳島八景」の成立に関わった公家のひとりに、風早公長がいます。公長は冷泉為綱に八景の題の選定を依頼し、また、版本『厳島八景』(上冊)に、「有浦客船」の和歌、「八景和歌跋」、「八景詩跋」を寄せています。

ここでご紹介する《厳島八景画巻》は、この風早家ゆかりの作例です。版本上冊にある八景の和歌と挿絵、「八景和歌跋」から成り、その後に風早公長の孫、公雄の明和5年(1768)の署名、また、それに続いて明和7年に画工に写させた旨の奥書があります。おそらく公雄による明和5年の原本を、誰かが明和7年に写させたのだと思うのですが、残念ながらそれが誰なのかは分かりません。詳細は不明ながら、江戸時代の宮島と京都の公家文化の交流の一端を示す興味深い資料です。

《厳島八景画巻》 全1巻 奥書 海の見える杜美術館蔵

《厳島八景画巻》 全1巻 奥書 海の見える杜美術館蔵

さて、前置きが長くなりましたが、あとはのんびり「大元桜花」の場面で一足遅いお花見を...。

《厳島八景画巻》 全1巻 「大元桜花」 海の見える杜美術館蔵

《厳島八景画巻》 全1巻 「大元桜花」 海の見える杜美術館蔵

穏やかな海浜に面して鳥居があり、少し奥まって社が描かれます。春霞のかかる山容を背景に、木々と桜の花に囲まれてたたずむ大元神社の静謐な趣は、嚴島神社の壮麗な社殿とはまた違った感動を誘います。現在も大元神社を訪れると、このひっそりとした聖域の空気が、当時と変わらず漂っているように感じられます。

《厳島八景画巻》 「大元桜花」部分

《厳島八景画巻》 「大元桜花」部分

《厳島八景図巻》はページ数の都合で展覧会ブックレットに掲載できなかったこともあり、何かの機会にご紹介したいと思っていました。「厳島に遊ぶ」展は寒さが深まる中で展示の準備をしていたので、春はことさら待ち遠しく、桜の季節がきたら「大元桜花」をぜひ訪れてみたいと思っていたのです。しかし、残念ながら今年は新型コロナウイルスの影響で叶いませんでした。そんな今年の桜への未練も含めて、この機に一部をご覧頂きました。

来年は穏やかな春が訪れるよう願うばかりです。

 

谷川ゆき

 

第16回 香水散歩 フランス・リヨン
コンフリュアンス美物館 後編

アール・デコ様式のリヨン、クロワ=ルース劇場(アール・デコ様式のクロワ=ルース劇場、リヨン)

こんにちは、特任学芸員の岡村嘉子です。前回の香水散歩で、リヨンのコンフリュアンス美術館前編を取り上げたのは3月初旬のこと。この約1か月のうちに、新型コロナウィルスの世界的な蔓延によって、世界各地の、とりわけフランスの状況は著しく様変わりいたしました。外出禁止を求める大統領令が発せられ、通りに響くにぎやかな街の声をもはや聞くことはできません。私の大切な友人の家族もこのウィルスに感染しています。そのような状況から、前編とともに用意していた後編をそのまま発信する前に、ひと言添えさせて頂きたく存じます。

後編を改めて読み返してみると、わずか数か月前にリヨンで経験したことのすべてが、手の届かない遠い過去の物語のように感じ、いいようのない喪失感に襲われます。しかしながら、その一方で、希望さえ捨てずに正しくなすべきことをしていれば、いつかきっと、そう遠くない未来に、あのリヨンの活気ある姿が戻ってくると信じています。教育担当者が見守る中、好奇心溢れる子供たちでにぎわう美術館展示室、肩を寄せ合って座るような超満員の劇場、「ビズ」と呼ばれる互いの頬を寄せ合う挨拶、抱擁や握手、心から余裕のある微笑み、そのような人と人の触れ合いが、そこかしこに見受けられるリヨンの日常が戻るその日を夢見ながら、後編を発信させて頂きます。

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さて、コンフリュアンス美術館には4つの常設展示室がありますが、そのいずれにおいても、この世界の多様性に目を見張らずにはいられない、充実した展示となっています。なかでも最後の展示室、「永遠」展示室は、この美術館の姿勢が端的に表れているように感じました。

IMG_4576 copie

「あの世のヴィジョン」なる副題のついた「永遠」展示室は、死んだらどうなるのかな?という、誰しも一度は抱くであろう素朴な疑問がテーマのひとつとなっています。

ここでは、アメリカ先住民の楯やペルーの女性ミイラ、アフリカのガボンの仮面や、穏やかな顔をしたクメールの17世紀の涅槃像等を通じて、様々な文化圏における死のとらえ方が紹介されています。古代エジプトのコーナーでは、棺に入ったトバスティスのミイラや、死者の臓器を入れるのに使われたカノポス容器やお化粧セットをはじめ、極めて珍しいエジプト先史時代ナガダ期のミイラも展示されていました。当時のミイラづくりには、香料の使用が考えられているので、「香りとあらば世界中のどこへでも!」の私としては食い入るようにして見てしまいました。

こうして展示を辿るに従い、それまで漠然と抱いていた「死」の忌むべきイメージが徐々に払しょくされていくから不思議です。

さらにこの展示室が印象深いのは、過去の遺物の展示だけでは終わらないところです。展示室の片隅に設置された視聴覚コーナーでは、現代社会における死について、今日の医師や弁護士、哲学者の見地を知ることができます。この展示からは、過去の事物を見つめるのは、単に過ぎ去った時代についての物知り博士やある専門分野のマニアを量産させるためではなく(それもとても大事ですが!)、あくまでも現代の様々な問題の解決の糸口を見つけるためであるという美術館の姿勢が伝わってまいります。つまり、見つめているのは、過去ではなく現在、あるいはその先の未来なのです。そう考えると、コープ・ヒンメルブラウの設計による、あの極めて未来的な造形の美術館建築にも、妙に合点がいくのです。

IMG_4589(近未来を彷彿させる「脱構築」空間。美術館上階の空中回廊。コープ・ヒンメルブラウ設計)

おそらくこの姿勢は、コンフリュアンス美術館の所蔵品の一部を蒐集した、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した実業家、エミール・ギメ(Emile Guimet 1836-1918)の考え方を継承したものと思われます。ギメは、第13回「香水散歩」でパリの国立ギメ東洋美術館を取り上げた際にも登場しましたね。リヨン出身の彼は、東洋、中東、エジプト美術の大コレクターでもあり、大旅行家でもありました。現在パリにある国立ギメ東洋美術館は、彼が旅先で求めたものやその後フランスで購入したもの等、膨大な作品を国家に寄贈して創設されたものです。あまり知られていないことですが、実はパリでの美術館創設の数年前にも、彼はヨーロッパ以外の文物を展示する美術館をこのリヨンで創設していました。しかし当時この地では、彼が望むようには理解者に恵まれなかったため、早々にそれを閉館し、新たにパリに美術館を設立したのです。こうして彼のコレクションはパリへと移管されたのですが、20世紀になると、ここリヨンに自然科学や民族学を専門とするリヨン美術館が開館する運びとなり、ギメのコレクションも一部所蔵されることになりました。さらに時代が下り、そのリヨン美術館が再編されて、現在のコンフリュアンス美術館となったのです。IMG_4474(頂相〔禅僧の肖像のこと〕や甲冑等が並ぶ日本展示コーナー)

さて、話をギメに戻しますと、リヨンとパリの2つのギメ美術館は、ある共通したギメの願いが込められたものでした。それは、非西洋の文物、とりわけ宗教に関する文物を一堂に集め、系統立てて陳列し、世界各地に存在する、叡知のつまった様々な考え方を多くの人に知らしめて、西洋で生じている社会問題の解決の手立てにしたいというものでした。つまり、彼が宗教に注目したのは、信仰のためではなく、世界各地の宗教が有する哲学にこそ関心があったからなのです。

古今東西の文化を、コンフリュアンス(合流、あるいは結集)させて、よりよい未来を作り出そうとするコンフリュアンス美術館の理念は、約150年も前からこの地に根付いていたのですね。

ところで、ギメはリヨンでもう一つの重要な試みをしています。それは、美術館に併設した東洋語学校の設立です。彼は、文物の紹介だけではなく、語学学習や人とのつながりを通じて、異文化間の相互理解が進むことを願いました。ときは1870年代後半、既にフランスには日本語の語学学校がありましたし、日本でもフランス語が学ばれていました。しかしながらそれは、いくつかの例外はあるにしても――特にフランス人の学ぶ日本語講座に関しては――、実地で使用されている言語との差が大いにあるものでした。彼はそのことを1876年の来日時、フランス人通訳者と日本人通訳者をともない、日本横断の旅路を辿るなかで知ることとなります。そこで彼は帰国後に、日本人通訳の青年たちを留学生兼語学教師としてリヨンに招き、日仏交流の懸け橋としたのです。

後の時代に多大なる影響を与えることとなったギメの数々の試みをつぶさに見ていくと、彼にとって、たった一度の日本旅行がどれほど大きなものであったのかと思い至ります。彼が日本にやってきた1876年(明治9年)当時は、急進的な廃仏毀釈はおさまっていたものの、江戸時代までの従来の価値観に基づく生活と、開国や大政奉還を経て誕生した明治政府のもと、近代化の相貌がそこかしこで混在する時代でした。例えばギメは、来日前に親しんでいた「江戸」という町の名すら跡形もなく消えて、「東京」という名にすり替わっていたことがすぐに理解できずに、当惑しています。

彼は帰国後、この激動の最中にある日本で目にしたものや耳にしたこと、それについて思うところを克明に記し、日本旅行記として出版しました。この著作は、今日に至るまで幾たびも復刊や翻訳がなされ、世界の多くの人々に親しまれています。

ギメ表紙書斎 書見台2(ともにエミール・ギメ『明治日本散策 東京・日光』初版。Emile Guimet, Promenades japonaises Tokio-Nikko, Editions G・Charpantier,1880.Coll.Yoshiko Okamura、 岡村嘉子蔵)

ところで、この著作が時代を超えて読み継がれているその理由のひとつは、なんといっても、ギメの深い見識と寛容な人柄を通じて活写される、明治初期の日本の市井の生活が、唯一無二のものであるからでしょう。とりわけ、所々に小気味よい語り口調を交えながら、ユーモアたっぷりに自分の失敗談や町の人々の様子、風俗を伝える記述には、父なる経営者として労働者や農民たちとも親しく交わったと伝えられる彼の気さくな人柄がよく表れています。身分や人種、文化を分け隔てせずに、温かいまなざしを等しく向けた彼の姿勢には、植民地政策が進められていた彼の生きた時代にあって、一服の清涼剤のようにも感じるのです。IMG_4601 copie(美術館内ブックストアにも、復刻版〔Editions A Proposア・プロポ社、2018年〕がしっかり揃っていました。が、しかし! 『吸血鬼』のお隣とは……!いやはや。)

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さて、リヨンの中洲の最南端にあるコンフリュアンス美術館を後にし、その夜私は、中州を北上して、町全体を見下ろす高い丘の上にあるクロワ=ルース劇場へと急ぎました。それは、長年の友人である演出家ロラン・フレシュレLaurent Fréchuretの新作、レイ・ブラッドベリ『火星年代記』を原作とした「マルシアン・マルシエンヌ〔火星の男・火星の女の意味〕」の舞台を観るためです。タイトルからもお分かり頂ける通り、テーマは宇宙、しかも近未来です。リヨンでは、とうとう未来旅行までしてしまったのです!

80279698_2470086879933685_6053949333642936320_n(© Cyrille Cauvet. MARTIEN MARTIENNE d’après Ray Bradbury, mise en scène par Laurent Fréchuret, avec Claudine Charreyre,Mychel Lecoq. ロラン・フレシュレ演出『火星の男、火星の女』クロワ=ルース劇場、リヨン)

古代エジプト時代から近未来までも、日本や宇宙の文化も、旧情も新たな出会いも、そのすべてが小さな町の中にぎゅっと詰まっているリヨンがさらに愛おしく特別な町となりました。

岡村嘉子(クリザンテーム)

Remerciements 本記事執筆にあたり、画像等を提供頂きました演出家ロラン・フレシュレに心より御礼申し上げます。Je tiens à exprimer mes remerciements à Laurent Fréchuret, Metteur en scène qui est permis de réaliser cet article.

◇ 今月の香水瓶 ◇

フランス語で火星人の別名は「緑色の小さな人 le petit homme vert」。ロラン・フレシュレの舞台を観た後にそれを思うと、ルネ・ラリックが電線を保護する絶縁体から着想を得てデザインしたこの小さな香水瓶ですら、はるか遠い火星を想起させるから不思議です!FWC006ウォルト社、香水瓶《さよならは言わずに》デザイン:ルネ・ラリック、1929年3月29日、緑色ガラス、海の見える杜美術館蔵。WORTH,SANS ADIEU FLACON Design by René LALIQUE – 1929 March 29 ,Green glass, Umi-Mori Art Museum

 

第15回 香水散歩 フランス・リヨン
コンフリュアンス美物館 前編

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こんにちは、特任学芸員のクリザンテームこと岡村嘉子です。

今回は、大好きな町の一つ、フランス第2の都市、リヨンから美術館情報をお届けします。

リヨンといえば、ある方は美食の町とおっしゃるでしょうし、またある方は映画の町とご主張なさるでしょう、はたまたある方は遺跡の町、あるいは絹織物の町、レジスタンスの町、丘の町……と様々な分野における町の魅力を、愛しみを込めて語る方々に行き当たるようなフランスの古都です。

ちなみに、食いしん坊の私はリヨンと聞くだけで、あるサンドイッチの味が真っ先に浮かびます。初めてリヨンを訪れた折のある夜、日中の疲労からレストランへ行けずに、小さな通りの何の変哲もないパン屋さんでたまたま購入したフォアグラのサンドイッチ。上質なフォアグラにベビーリーフ、ほんの少しの甘酸っぱいジャム、そして香ばしいパンが生み出す、あまりの美味に「さすが美食の町よ……」と独りごちたものでした。

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さてさて、食欲が満たされたら、次は知識欲! リヨンでは右を見ても左を見ても、好奇心が刺激される事物に溢れています。なにしろ、フランス五大河川のひとつのローヌ川に加えて、ソーヌ川という二つの川が交わるこの地は、古代ガリア=ローマ時代から今日まで、交通の要衝として異文化が交わり栄えてきました。そのため、各時代の遺物がそこかしこに見出されるのです。しかもそれらが単なる観光名所になるわけではなく、現在の人々の暮らしの中に生き続けている――これが、リヨンの最大の魅力かもしれません。

先人や異文化を尊ぶ心の表れでしょうか、町の人々も概して穏やかで、リヨンに来るとなぜかホッとしてしまうのです。

そのようなリヨンの特長を存分に感じられる場所として、2014年にリヨンの新開発地区コンフリュアンス地区に開館した、コンフリュアンス美術館を今回はご紹介いたします。

「コンフリュアンス」という日本では全く馴染みのないこの言葉が、実は美術館のことも、リヨンのことも言い得て妙なのです。この語は、「合流」や「結集」等の意味を持つフランス語です。リヨンの地図を見ると、美術館は、二本の川に挟まれた中洲地帯の南端にある川の合流地点に位置しているのがわかります。まさにコンフリュアンス!

こちらです!→IMG_5980[11835]

ローヌ川、ソーヌ川という二つの文化圏が交わる立地そのものが、他者の存在があってこそ成り立つ出合いや交流、それにより生ずる新たな知見という美術館のコンセプトである「コンフリュアンス」を象徴しているのですね!

では、一体どのような作品が「合流」しているのでしょうか。早速見てまいりましょう。

この美術館を訪れて、おそらく誰しも最初に驚くのが、大変斬新な建築です。訪問時はあいにくの篠突く雨であったため、その全体像を示す外観写真がなくて恐れ入りますが、このエントランスの写真から、その姿をなんとなくお察し頂けたら幸いです。

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この建築を手がけたのは、そのデザインのユニークさで新作を発表する度に話題となるオーストリアの建築家集団、コープ・ヒンメルブラウ(数年前、東京のICCインターコミュニケーション・センターでの展覧会も評判を呼びましたね)です。この美術館も、SF映画に出てくるような、とでも申しましょうか、壁がどのようにつながっているのか、そもそも重力が一体どうなっているのか、私の理解力ではひたすら摩訶不思議な脱構築主義の空間が広がっているのですが、ガラスの壁に覆われた館内は、空中を散策しているかのようでつい胸が躍ってしまいました。

また現代建築で名を馳せる世界の数多の文化施設に比べて、動線が非常にコンパクトであることも嬉しい驚きでした。施設内で、無用に歩かずに済むのは、作品鑑賞の集中に重要なのですよね(そもそも建物ではなく展示作品を見に来ていますので!)。フランスの地方都市において、もっとも来館者が多い美術館のひとつというのも頷けます。

さて、コンフリュアンス美術館のコレクション内容は、自然科学や文化人類学に関するものです。つまり、そこには恐竜の骨もあれば織機や炊飯器も含まれるという、人間や地球に関するあらゆる物です。はてさてそれらをどのようにまとめて見せているのでしょうか?――数あるこの分野の美術館の中でも、コンフリュアンスが特別なのは、そのユニークな展示方法にあります。IMG_4396

《自動織機》1907年、Atelier Diederichs製。私は、機械もさることながら、布地の柄や光沢に、つい目が釘付けでした♡。

《自動織機》1907年、Atelier Diederichs製。私は、機械もさることながら、布地の柄や光沢に、つい目が釘付けでした♡。

各展示室では、時代や地域ごとの整然とした分類はなされずに、おおまかともいえるような4つの大きなテーマに沿う作品が集められています。この「おおまかな」とは、決して大雑把という意味ではありません。むしろ、「壮大な」と形容した方がよろしいかもしれません。なにぶんにも広範囲の大きなテーマなればこそ、該当作品は無数となりますが、その中からテーマを際立たせる最適な作品を選んで展示を構成するのは、まさに学芸員(もしくは監修者)の腕の見せどころです。またそのためには、圧倒的な所蔵作品数なくして実現はいたしません。それらが見事に成功しているのが、この美術館なのです。

「起源」展示室

「起源」展示室

公式資料によると、美術館の所蔵作品数はなんと約220万点――その膨大さは、ルーヴル美術館では約38万点と聞けばお分かり頂けることでしょう。この約220万点とは、17世紀から21世紀までの約500年という長い時間をかけて、主にこの地で蒐集されてきたものの集大成なのです。そのうち厳選された約3000点が「起源」「(生物の)種」「社会」「永遠」という4つのテーマに分けられて、常時展示されています。

(続く)

後編では、各展示室の様子や、この美術館所蔵作品の一端を担うエミール・ギメのコレクションについて、さらに美術館訪問の夜に遭遇した「コンフリュアンス」な時空間についてお伝えします。乞うご期待!

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

◇ 今月の香水瓶 ◇

クリスタルの輝きが美しい未来的なデザインの香水瓶。コンフリュアンス美術館の脱建築主義建築を彷彿とさせます!

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香水瓶《火打石》、サンルイ社、デザイン:セルジュ・マンソー1994年、海の見える杜美術館所蔵