《スエズ景色》は大谷光瑞が持っていた? 伝来に関する新たな知見

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竹内栖鳳《スエズ景色》(1901年 海の見える杜美術館蔵)

竹内栖鳳が描いた唯一の油絵《スエズ景色》については、11月5日のブログ記事で詳しくお伝えしました。この作品について、最近新知見が報告されました。

《スエズ景色》は、1901(明治34)年に開催された関西美術会第1回展に出品された後、このたびの展覧会まで、一般公開の記録が確認されていません。最初の展覧会に出品されてから、今回の展覧会に至るまでの113年の間、この絵はいったいどこにあったのでしょうか?

前の記事にも書いた通り、この絵のかつての所蔵者として挙がっているのは、柴田源七という人物です。柴田は、滋賀長浜の実業家で、芸術家のパトロンとしても名を馳せた人物です。彼が特に熱心に支援したのが栖鳳でした。

《スエズ景色》が柴田に所有されていたことの根拠は、1940(昭和15)年に柴田が記した「珍什の二作品」(『塔影』16巻11号)という文章によります。この文中で柴田は、自身が所有する栖鳳の作品の中でも特に珍しいものとして、この《スエズ景色》を挙げています。これにより、遅くとも1940年までには、柴田が本作を入手していたことが分かります。

また、本作に付属する箱蓋に書かれた由緒書きは、柴田によるものです。この由緒書きの年記は、本作が発表された翌年の1902年。おそらくこの時点でも、柴田が所有していた可能性が高いと考えられます。

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《スエズ景色》の箱蓋(海の見える杜美術館蔵)。「壬寅(1902年)秋日」の年記が見えます。

こうした事実より、展覧会出品直後から1940年に至るまでのおよそ40年間、この作品はずっと柴田の手許にあったものと考えられてきました。しかし、こうした推測の再考を迫る新たな情報が、このたび提示されました。京都にある龍谷ミュージアムで開催中の「二楽荘と大谷探検隊」展に出品されている写真絵はがきに、《スエズ景色》ととてもよく似た絵が写っているのです。

この絵はがきは、大谷光瑞が建てた別荘・二楽荘の一室「印度室」を写したものです。

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二楽荘「印度室」の写真絵はがき(1912〜13年 龍谷ミュージアム蔵)

この部屋の左側をよく見てください。壁にかかっている絵は、《スエズ景色》と似ています。

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二楽荘「印度室」の壁に掛かっている絵。《スエズ景色》と似ています。

この二楽荘を建てた大谷光瑞は、浄土真宗本願寺派第22代門主(教団の長)です。彼はヨーロッパ留学の経験もあり、教団の近代化に取り組んだ、開明的な人物として知られます。また「大谷探検隊」の名で知られる、中央アジアの調査隊を組織し、仏跡の発掘調査をするなど、様々な文化活動を行いました。

光瑞は1908年、六甲山麓に、彼が懇意にする建築家・伊東忠太が設計した壮麗な別荘を建設します。これが二楽荘です。この別荘は、光瑞が抱える多額の負債や教団内のトラブルがもとで大谷が失脚したため、落成からわずか6年後の1914年に閉鎖しています。今回話題になっている二楽荘を撮影した絵はがきは、1912〜13年に撮影されたことがわかっています。

洋の東西を問わず、宗教権力は芸術の有力なパトロンです。京都の大きな寺社は、近代に至るまで芸術家の庇護者として、絶大な影響力を有していました。栖鳳は、東本願寺との間に特に強い結びつきを持っていたことが知られています。1885(明治18)年、若き日の栖鳳は、師の幸野楳嶺とともに、東本願寺法主の大谷光勝に従い、信州から北越にかけての巡歴に同行しています。

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《北越探勝帖》(1886年 海の見える杜美術館)。栖鳳が大谷光勝に同行して北越を巡歴した際、各地の名勝を描いた画帖。

また後に栖鳳は、時の東本願寺法主大谷光演より、親鸞上人の650年遠忌にあたる1911年(明治44)に向けて整備が進められていた大師門堂の天井画制作の依頼もされています。この他、栖鳳が描いた数少ない人物画の代表作のひとつである《日稼》(1917年 個人蔵)は、東本願寺の庫裏(寺の台所)の様子を描いたものとされ、モデルとなった女性は信徒総代の娘であることが判明しています。

このように、栖鳳と東本願寺はつながりがあったことが指摘されていますが、仮に《スエズ景色》が光瑞の別荘にあったとするならば、栖鳳は光瑞が率いる西本願寺ともなんらかの関係のあった可能性が浮上してきます。

 

栖鳳と光瑞に個人的な関係があったのかどうかは、残された資料からは判然としません。しかし、栖鳳がパリ万博視察のため渡欧した時期、光瑞もヨーロッパに留学していたことからすれば、もしかしたら、現地で栖鳳と光瑞が対面するなどして、面識があったということも考えられます。

さて、果たしてこの写真に写っている絵は、栖鳳の描いた《スエズ景色》なのでしょうか? 本作を光瑞が所有していたと仮定すると、遅くとも1912〜13年までには柴田から光瑞へと所有が移り、更に遅くとも1940年までには、再び柴田の蔵に帰したということになります。しかし、この間の歴史の空白はあまりにも大きく、現時点では断定的な発言をすることはできません。ただし、《スエズ景色》の伝来に関して、今まで考えもしなかった角度からの光が当てられたことは間違いないでしょう。

《スエズ景色》は、当館にて12月14日まで展示されております。ご興味ある方はこちらと併せて、龍谷ミュージアムで11月30日まで開催されている「二楽荘と大谷探検隊」展も、ご覧になってください。

龍谷ミュージアム公式サイト:
http://museum.ryukoku.ac.jp

田中伝