「歌仙をえがく—歌・神・人の物語—」展 浮世絵と歌仙

「歌仙をえがく」展も会期を残すところ1週間ほどとなりました。

王朝の雅を伝える存在として和歌とともにしばしば絵に描かれてきた歌仙たち。その存在は、江戸時代も中期以降になると、絵入り版本の流通とともに庶民の教養としても浸透していきます。また歌仙や彼らの詠んだ和歌は浮世絵の主題ともなり、しばしば「見立て」の手法で、当世の美人や役者にそのイメージが投影されていきます。

今回の展覧会では、三代歌川豊国(国貞)による《見立三十六歌撰之内》を36枚まとめてご覧いただけます。展覧会後半の見所です。
この作品は、役者見立絵です。歌仙の名とその和歌が色紙形の中に書かれ、劇中の登場人物の名が役者の似顔絵に添えられます。登場人物と、歌意や歌のモチーフ、あるいはそれを詠んだ歌仙の境遇などの間に連想されることを読み解き、描かれている人物が登場するのはどの演目か、さらに、似顔からどの役者であるのかを当てることが、この作品を見る際の楽しみ方だったようです。

凡河内躬恒

歌川国貞(三代豊国)《見立三十六歌撰之内》「凡河内躬恒」嘉永5年(1852) 海の見える杜美術館

謎解きはなかなか難しく、よほどの歌舞伎通で、かつ和歌や歌仙に明るくなければできなさそう。会場には柿本人麻呂などほんの数人分ですが、謎解きの解説のパネルをつけました。江戸の芝居愛好者の教養をぜひ追体験してみてください。浮世絵自体も力強く、見応えがあります。

 

YouTubeに画像をゆっくりご覧頂ける動画にしてアップしました。ぜひお楽しみください。

https://www.youtube.com/channel/UCyOWfAm66u_WefHCAvhlPkA

 

谷川ゆき

うみもり香水瓶コレクション3
キャロン社「シャントクレール」のための
香水瓶

こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。空に浮かぶ雲の形や風の匂い、虫の音が変化し、日一日と秋らしくなるのを感じると、私はこれから出合う芸術への期待で胸が高鳴ります。秋の夜長の友として、どのような文学を今宵は選びましょうか――。おりしも、現在当館では、日本の古典文学を彩る歌仙たちの肖像を描いた歌仙絵の展覧会「歌仙をえがく―歌・神・人の物語」展が開催中です。

そこで今回のうみもり香水瓶コレクションは、芸術の秋に相応しい文学にちなんだ香水瓶をご紹介いたします。 こちらです👇シャントクレール

香水瓶《標石》キャロン社「シャントクレール」1906年、透明ガラス

デザイン:アンリ・アム及びフェリシ・ベルゴー 1906年、海の見える杜美術館所蔵

CARON, CHANTECLER -1906, PERFUME BOTTLE, Transparent glass, Design by Henri HAMM and Félicie BERGAUD-1906, Umi-Mori Art Museum, Hiroshima

 

1906年発売のキャロン社の香水「シャントクレール」のためにデザインされた本作品は、一見するとごくありふれた香水瓶ですが、ぜひ金色のラベル部分にご注目ください。雄鶏が刻まれていますね。

 

PCA001(ラベル部分)

このモデルとなったのは、フランス中世文学作品のひとつ『狐物語』に登場する、狡賢いキツネに一矢報いた雄鶏シャントクレールです。内容が滑稽味溢れるものであったことも影響したのでしょうか、『狐物語』は、フランスはもとよりヨーロッパ諸国にも写本によって広く親しまれました。その影響は大きく、18世紀末には、ゲーテがこの物語集から着想を得た『ライネケ狐』を執筆したほどです。

ところで、シャントクレールという名前には、フランス語で、澄んだ声で(クレール)歌う(シャント)という意味が隠されています。それは、歌によって夜明けを知らせる鳥である鶏のイメージと重なります。香水瓶に祝祭のように明るく華やかなイメージを求めたデザイナーのフェリシ・ベルゴーにとって、まさにぴったりのイメージソースであったといえるでしょう。

また、この香水瓶の発売と前後して、『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者、エドモン・ロスタンも雄鶏が活躍する戯曲『シャントクレール』を執筆し、パリでの上演で好評を博していたことも見逃せません。

雄鶏は、フランスの国鳥でもあります。香水瓶の発表当時、ドイツと緊張関係にあったフランスの人々は、高らかに歌う国鳥をモティーフにした本作品や文学によって、愛国心を募らせたのかもしれませんね。

はるか中世の写本の世界についても、18世紀末のドイツ文学についても、20世紀初頭のヨーロッパの情勢についても、おおいに物語ってくれる香水瓶です。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

 

「歌仙をえがく—歌・神・人の物語—」展がはじまりました

9月5日から「歌仙をえがく」展が始まりました。

「歌仙(かせん)」とはいささか耳慣れない言葉でしょうか。古来宮廷文化を支えた和歌は、そもそもは単なる文芸ではなく、神仏と人のコミュニケーションを司る神聖な役割をそなえたことばでした。そのような和歌に長けた歌人達は歌仙とよばれ、尊敬を集め、時に信仰の対象となりました。歌仙たちは平安の雅を伝える存在として、和歌とともにしばしば絵に描かれ、その肖像は「歌仙絵」と呼ばれます。

この展覧会では、海の見える杜美術館の所蔵品のなかから江戸時代の作例を中心に、絵に描かれた歌仙たちの姿をご紹介します。

今回、展覧会のポスターやチラシには、土佐光起が描いた《三十六歌仙画帖》をデザインしました。土佐光起(1617〜91)は、宮廷絵所預として活躍した江戸時代のやまと絵を代表する絵師のひとり。王朝の雅を伝える歌仙を描くにふさわしい絵師と言えるでしょう。

土佐光起《三十六歌仙画帖》のうち、「小野小町」江戸時代 海の見える杜美術館のコピー

土佐光起《三十六歌仙画帖》のうち、「小野小町」 江戸時代・17世紀 海の見える杜美術館

この図のように、歌仙の名前と和歌を書いた色紙と、歌仙の肖像が組み合わされています。

土佐光起《三十六歌仙画帖》0024 小野小町・絵

鮮やかな色彩と繊細な筆致が魅力です。

IMG_8820

会場にも同じ光起の作品を配しました。写真は1階エントランスの様子。

IMG_3651

1階の廊下には、みなさんもきっと名前や和歌を聞いたことがある有名な歌仙5名を選んで大きく引き延ばしました。柿本人麻呂、小野小町、在原業平、紀貫之、斎宮女御です。光起の作品自体は本当に小さいのですが、ここでは歌仙を1メートル以上の大きさに。細かい着物の模様や、繊細な線を間近にご覧いただけます。ぜひ会場でお楽しみください!

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向かい側にはやはり光起の《三十六歌仙画帖》を用いて、三十六歌仙(平安時代の貴族藤原公任が撰んだ歌の名手36人)の和歌と略歴を紹介するパネルを設けました。お気に入りの歌仙を見つけてみてください。

まだ日中は残暑が続きますが、朝や夕方は杜の遊歩道も歩きやすい季節になりました。海杜テラスから見る宮島は秋の空に映えて今日も見事です。初秋の一日、海の見える杜美術館で、平安の雅を伝える華やかな歌仙絵と、美しい自然を満喫する時間をぜひお楽しみください。

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「Edo⇔Tokyo」展紹介ブログ④  広重の名所絵と版本

海の見える杜美術館では、明日8月23日(日)まで「Edo⇔Tokyo ―版画首都百景―」を開催しています。

展覧会の紹介と過去のブログは、
http://www.umam.jp/blog/?p=9873
http://www.umam.jp/blog/?p=10128
http://www.umam.jp/blog/?p=10182
に掲載してあります。

今回は本展でも多数展示している歌川広重の名所絵と当時流行した版本の関係について紹介します。

江戸時代後期、宿場や街道が整備され安全で長距離の移動が可能になると、庶民の間で旅ブームが起きます。そのような中で京都の名所を集めた『都名所図会』(秋里籬島編著、竹原春泉斎画、安永9年(1790))が刊行され、短期間で数千部が売れるベストセラーになりました。そのヒットを皮切りに次々と名所図会が刊行され、18世紀末から19世紀初めにかけて名所図会ブームが起こります。これに触発されて名所案内記や道中記、旅を題材にした狂歌本など、他の地誌類の版本の刊行も盛んに行われるようになりました。

版本の流行の背景には、旅ブームや本の内容の充実度以外に、浮世絵師によって緻密に描き出された挿絵の役割の大きさも指摘されています。

そして、浮世絵師達は名所絵を制作する際に、これらの版本の挿絵を種本として利用しました。特に名所図会の最高傑作といわれる『江戸名所図会』(斎藤月岑編著、長谷川雪旦画、天保5-7年(1834-1836))は多くの絵師が種本としました。

名所絵の名手であった広重もその一人で、彼は『江戸名所図会』の挿絵をもとにした名所絵をいくつか残しています。

その一つが、現在展示している作品番号16-1.《東都名所 道灌山虫聞之図》(天保10-13年(1839-1842))で、これは『江戸名所図会』巻之五「道灌山聴虫」に依拠しています。

『江戸名所図会』巻之五「道灌山聴虫」 国立国会図書館蔵
《東都名所 道灌山虫聞之図》
上:『江戸名所図会』巻之五「道灌山聴虫」 国立国会図書館蔵
下:《東都名所 道灌山虫聞之図》

手前の坂道を上る女性達や、右奥の筵に座って月見をする男性達、地平線にのぼる満月などその図様の多くが「道灌山聴虫」に倣っていることが分かります。
しかし、よく見ると手前の女性に比べて奥の男性が小さく描く、坂に松の木をもう一本描き加え、手前の松との大小比によって奥行きを表現するなど、画中の遠近感を高めていることが分かります。

このように、広重は版本を参考にしながらも、そこに独自の工夫を加えることによって、より実景に近いリアルな絵に仕上げていました。

展覧会もいよいよ明日で終わりです。まだまだ暑い日が続きますが、頑張っていきたいと思います。

大内直輝

うみもり香水瓶コレクション2
ファベルジェ社《香水瓶》 モダン・デザインの逸品

こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。今回も、ぜひ皆様のお目にかけたい、当館の香水瓶コレクションの選りすぐりの作品を紹介いたします! 今回はこちらの作品です。
ファベルジェ 1895-1900
ファベルジェ社《香水瓶》
ロシア、サンクトペテルブルク、1895-1900年頃、水晶、サファイヤ、金、ギリシャ国王ゲオルギオス1世旧蔵 海の見える杜美術館所蔵。
FABERGE, PERFUME FLACON, C.1895 – 1900, Rock crystal, sapphire, gold, Propriety:King Georges I of the Hellenes, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima

本作品も、第1回に登場したファルベルジェ社の作品と同様、2007年までギリシャ王室にて代々引き継がれたゲオルギオス1世旧蔵の香水瓶です。前回の香水瓶とは対照的に、あっさりとした造形の本作品においても、ファベルジェ社らしい卓抜した技術による仕上げに、思わずため息が漏れてしまいます。
掌におさめると、ずっしりと重く硬さもあります。それは、ガラスでもクリスタルでもない、水晶ならではのもの。クリスタルや多様なガラス加工の香水瓶が既に普及していた時代を考えれば、それは特別なことでした。

1917年のロシア革命によりファベルジェ社の記録が一部失われたため、本作品の購入者はいまだ謎に包まれていますが、どなたかがゲオルギオス1世に贈った可能性が先行研究において指摘されています。
水晶に刻まれたなだらかな曲線は、そのまま金の栓にもつながり、頂点のサファイヤに達します。希少な天然物を用いて、色を極力排したシンプルな造形は、ほぼ同時期に興隆したウィーンのモダン・デザインをも連想させます。

時代の先端を行く、極上のシンプル・モダンを体現した香水瓶。一分の隙もない、完璧なフォルムを見ていると、この趣味の持ち主への興味が尽きません。

岡村嘉子

「Edo⇔Tokyo」展紹介ブログ③ 江戸の桜の名所

海の見える杜美術館では、8月23日(日)まで「Edo⇔Tokyo ―版画首都百景―」を開催しています。

展覧会の紹介と過去のブログは、

http://www.umam.jp/blog/?p=9873

http://www.umam.jp/blog/?p=10128

に掲載してあります。

今回は、江戸の桜の名所について、出品作品を見ながら紹介します。

現代と同じく、江戸時代でも桜の花見は庶民の娯楽の一つであり、浮世絵にも花見の名所はよく描かれました。桜は江戸各地で楽しめましたが、まとまった状態で見られる花見の名所は限られていました。

江戸で最初に花見の名所が出来たのは、3代将軍徳川家光(1604-1651)の治世の頃になります。家光の命で上野寛永寺(現在の台東区)の初代住職・天海(1536?-1643)が吉野山の桜を境内に植樹し、娯楽の少なかった江戸庶民のために花見の場を作ったのがはじまりです。

歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)
歌川広重《江都名所 上野東叡山》 天保10-13年(1839-1842)

満開の桜が咲き誇っています。

その後4代将軍家綱(1641-1680)の時代、寛文年間(1661-1673)頃から御殿山(現在の品川区)にも桜の植樹が始まります。8代将軍吉宗(1684-1751)の時代には、600本の桜が植樹されました。御殿山の桜は高台にあり、江戸湾を望みながら桜を楽しむことができる場所でした。

歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《江戸名所 御殿山花盛》 天保14-弘化4年(1843-1847)

江戸湾が一望できます。宴会を楽しむ人の姿も見えます。

しかし、江戸の市中から御殿山までは2里(約8km)ほどあり、庶民が気軽に花見を楽しめる場所ではありませんでした。そのため、吉宗の治世まで庶民が気軽に桜を楽しめる場所は、寛永寺ぐらいで花見の時期には風紀が乱れるほどの人が集まりました。

吉宗の時代には、享保の改革の一環として、庶民の娯楽の場を増やすために、さらに2つの桜の名所が整備されます。

1つは隅田川の土手です。4代将軍家綱の時代に、常陸国(現在の茨城県)の桜川から桜を移植したのが、隅田川の桜の始まりとされています。その後、享保2年(1717)、100本の桜が、享保11年(1726)植樹され、花見の場として本格的に整備されます。特に隅田川を上流から見て左側(墨田区側)は「墨堤」と呼ばれ、江戸屈指の花見の名所として定着していきました。

歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《東都名所 三囲堤待乳山遠景》 天保14-弘化4年(1843-1847)

三囲神社の鳥居越しに隅田川沿いの桜を眺めます。

もう一つは王子の飛鳥山(現在の北区)です。王子の地名は、紀州熊野の熊野権現(若一熊野神社)を勧進したことが由来とされ、紀州藩出身の吉宗はこの地に目を付け、整備を試みました。飛鳥山には元文2年(1737)に1270本ものソメイヨシノの苗木が植えられ、吉宗自ら当地に赴き宴会の席を催し、新たな花見の場としてアピールしたといわれています。当時主要な桜の名所であった寛永寺は、規制が厳しく、宴会や夜桜は禁止されていたため、江戸庶民は飛鳥山に集うようになったといいます。

歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)
歌川広重《東都名所 飛鳥山満花の図》 天保14-弘化4年(1843-1847)

たくさんの桜の花が咲き誇り奥には富士山の姿も見えます。左に描かれる石碑は「飛鳥山碑」と呼ばれ、元文2年(1737)に建てられました。飛鳥山の由来や桜が植えられた経緯が書かれています。

最後に少し変わった桜の名所・吉原を紹介します。

江戸幕府公認の遊郭として元和3年(1617)に誕生した吉原は、明暦3年(1657)の明暦の大火を機に、葦屋町(現在の日本橋)から浅草寺裏の日本堤に移転します。以後、江戸庶民のあこがれ、そして文化の発信地として繁栄します。

その吉原にも花見の季節になると満開の桜が咲き誇りました。しかし、この桜は元々植えられていたものではなく、毎年三月朔日になると他の場所から桜樹を運んできて植えたものです。その数は千本にも及んだそうです。

歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)
歌川広重《東都名所 吉原夜桜ノ図》 天保6-9年(1835-1838)

色とりどりに着飾った花魁と夜桜がとてもきれいな一枚。

そして、花が散ると桜の樹は抜かれ、また桜の季節になると植えられました。

以上が江戸の代表的な桜の名所です。海を一望しながら桜を楽しめた御殿山は黒船来航後、台場を築くため崩され埋め立てられてしまったため、現在では見ることができません。しかし、御殿山と吉原を除いた寛永寺、墨堤、飛鳥山は今でも花見の名所として健在で、桜の季節になると多くの人が集まります。

今年の桜の季節は過ぎてしまいましたが、また花見の時期になったら、江戸に思いをはせながら、桜を愛でてはいかがでしょうか?

大内直輝

うみもり香水瓶コレクション1
ファベルジェ社《香水瓶》

こんにちは。クリザンテームこと、特任学芸員の岡村嘉子です。今後、うみもりブログで、当館の香水瓶コレクションのなかでも選りすぐりの作品を紹介してまいります! 第1回目の作品は、こちらです 👇ファベルジェ 1890

(ファベルジェ社《香水瓶》ロシア、サンクトペテルブルク、1890年頃、水晶、ダイヤモンド、ルビー、ムーンストーン、金、七宝、ロシア皇太子ゲオルギー・アレクサンドロヴィッチおよびギリシャ国王ゲオルギオス1世旧蔵、海の見える杜美術館所蔵。 PERFUME FLACON, FABERGE, C. 1890 ,Gold, rock crystal, diamonds, rubies, moonstone, enamel, Umi-Mori Art Museum,Hiroshima)

 

写真から、水晶の輝きを際立たせる繊細な文様が伝わりますでしょうか? いかにもやんごとなき所有者を想像させるこの壮麗な香水瓶は、世紀転換期に生きたギリシャ国王、ゲオルギオス1世の旧蔵品です。2007年までギリシャ王家の驚異の部屋に収められ、代々受け継がれた後に、当館に収蔵されました。

ゲオルギオス1世の名は、近代オリンピック揺籃期の文献に多く登場します。近代オリンピックの歴史は、1890年代にフランスのクーベルタン男爵が、古代オリンピックの再興を提唱したことに始まるとされていますが、その栄えある第1回目の地として選ばれたのが、ギリシャのアテネでした。

しかし、わずか2年しかなかった準備期間で、開催資金を調達するのは至難の業でした。それを解決したのが、ときのギリシャ国王、ゲオルギオス1世であったのです。ギリシャ国王となる以前、デンマーク王子であった彼は、王太子コンスタンティノスとともに、各国の王室に呼びかけて、資金提供者を集め、開催を実現させました。

本作品は、そのゲオルギオス1世が、故郷のデンマーク王室を通じ、ロシア皇帝ニコライ2世の弟である皇太子より相続した香水瓶です。ロシアの高級宝飾ブランド、ファベルジェ社の工房長ペルチンが手がけたもので、煌く宝石があしらわれた栓や、アラベスク文様が緻密に彫られた水晶の本体に、その熟練の技術が認められます。18世紀の装飾様式を持つ表現が、家族の歴史を物語るかのような格調高い香水瓶となっています。

ただ今、香水瓶展示室では、本作品を含むオリンピックにちなんだ作品を展示しています。はるかギリシャのエーゲ海を思わせる、穏やかな夏の海を臨む翠緑の杜の美術館で、本作品をぜひご堪能くださいませ。

岡村嘉子(クリザンテーム)

 

香水瓶展示室と東京オリンピック・パラリンピック

香水瓶展示室では、8月23日まで オリンピック・パラリンピック企画 のコーナーが設けられています。

香水瓶とオリンピックにはどのような関係があるのでしょうか。
コーナーの展示解説からここに紹介いたします。

20200800 (1)

古代オリンピック

前8 世紀に始まる古代オリンピックは、ギリシャのオリンピアにあるゼウス神域で行われた、4 年に一度の競技祭でした。当時、都市国家間での戦争がありましたが、競技祭開催に先立ち、開催の都市国家の使者がギリシャ全土の諸国を周って、休戦を告げました。
また古代オリンピックは、単なる競技会ではなく、宗教的な祭事でもありました。全能の神ゼウスへの儀式も行われ、競技者は神域に入る前に身を清め、ゼウス像に不正を行わないことを誓いました。
このような背景を持つオリンピックは、戦争を中断して参加することから「聖なる休戦」と呼ばれました。この平和のおかげで競技者や観戦者は、オリンピアに無事に旅することができたのです。
海の見える杜美術館は、レスリング等の運動に励んだギリシャの若者たちが、筋肉を和らげ、肌を守るために身体に塗った香油用の容器《アリュバロス》をはじめ、古代のスポーツの在り様を今に伝える作品を所蔵しています。

《アリュバロス》 ギリシャ、ロドス島? 前6 世紀初め テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》
ギリシャ、ロドス島?
前6 世紀初め
テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》 ギリシャ、ロドス島 前6 世紀 テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》
ギリシャ、ロドス島
前6 世紀
テラコッタ、黒釉彩色、白彩色

《アリュバロス》 ギリシャ、コリントス 前6 世紀 テラコッタ

《アリュバロス》
ギリシャ、コリントス
前6 世紀
テラコッタ

《アリュバロス》 ギリシャ、コリントス 前6 世紀-前5 世紀初め テラコッタ、黒釉彩色

《アリュバロス》
ギリシャ、コリントス
前6 世紀-前5 世紀初め
テラコッタ、黒釉彩色

近代オリンピック

近代オリンピックの第1回アテネ大会開催(1896 年4 月)に尽力した、ギリシャ国王ゲオルギオス1世が所蔵した2 点のファベルジェ社の香水瓶を展示いたします。
ゲオルギオス1 世は、平和を願う近代オリンピックの提唱者、クーベルタン男爵の考えに共鳴し、西暦393 年以来、1500 年途切れていたオリンピックを再興させようと、開催国の国王として多大なる支援をしました。
当時、ギリシャ政府も、また国際オリンピック委員会も財政難に直面し、大会開催のための資金繰りに難航していましたが、デンマーク王室出身のギリシャ国王ゲオルギオス1 世とその子息、王太子コンスタンティノスが各国の王室に呼びかけて資金提供者を集め、開催が実現したといわれています。
海の見える杜美術館には、ゲオルギオス1 世が所有し、その後2007 年までギリシャ王室に代々伝えられてきた2 点の香水瓶が所蔵されています。

ファベルジェ社 《香水瓶》 ロシア、サンクトペテルブルク 1890 年頃 水晶、ダイヤモンド、ルビー ムーンストーン、金、七宝

ファベルジェ社
《香水瓶》
ロシア、サンクトペテルブルク
1890 年頃
水晶、ダイヤモンド、ルビー
ムーンストーン、金、七宝

ファベルジェ社 《香水瓶》 ロシア、サンクトペテルブルク 1895-1900 年頃 水晶、サファイヤ、金

ファベルジェ社
《香水瓶》
ロシア、サンクトペテルブルク
1895-1900 年頃
水晶、サファイヤ、金

ゲオルギオス1 世(1845-1913 年、在位1863-1913 年)と19 世紀のギリシャ

長らくオスマン帝国の支配下にあったギリシャが、1833 年に独立を果たすまでの険しい道のりは、フランス・ロマン主義を代表する画家、ウジェーヌ・ドラクロワの傑作《キオス島の虐殺》(1824 年)に端的に表れています。独立戦争の後、ヨーロッパ列強諸国の支援を得て、ギリシャは君主制の独立国となりました。その初代国王としてドイツ南部のヴィッテルスバッハ家の国王オソン1 世が就任しましたが、彼はギリシャの習慣に同化せず、また数々の行いから国民の信が得られずに、ほどなくして退位
します。紆余曲折の末、新国王として白羽の矢が立てられたのが、当時17 歳のデンマーク王室の王子ヴィルヘルムでした。1863 年、ギリシャ人の王、ゲオルギオス1 世として即位した彼は、デンマーク国教の福音ルーテル教会からギリシャ正教会へと改宗し、ギリシャの近代化や領地の拡大に着手しました。そのような中で、近代オリンピックの第1 回アテネ大会が開催されたのです。
やがてゲオルギオス1 世の領地拡大路線は、周辺諸国から反感を招くこととなります。オリンピックの翌年にはオスマン帝国との希土戦争が勃発し敗戦し、1913 年、第一次バルカン戦争の最中、テッサロニキにて暗殺されました。

ヨーロッパの王室は、婚姻を通じて、各国が密接に結びついています。例えばゲオルギオス1 世も、ロシアの最後の皇帝ニコライ2 世の母方(デンマーク王室)の伯父にあたります。作品番号35 は、ニコライ2 世の弟ゲオルギー・アレクサンドロヴィッチ皇太子がロシアのファベルジェ社で購入したものです。夭逝した彼に代わり、ゲオルギオス1 世へと受け継がれ、ギリシャ王室で長く所有されることとなりました。

展覧会企画/構成:岡村嘉子、今城誥禧
展覧会解説:岡村嘉子

うみひこ

美術館から眺める夜景

展示替などで夜遅くなった時、美術館から眺める光景に癒されることがあります。

20200608宮島夜景 (12)-2
広島の街の光に囲まれる黄金山

20200608宮島夜景 (10)-2
夜も眠らない大竹方面の工場群

20200608宮島夜景 (15)-2
宮島口駅周辺と宮島

20200721宮島夜景 (8)
そして厳島神社

厳島神社の大鳥居は修復中なので網に囲まれていますが、夜はシルエットが浮かび上がっています。

うみひこ

竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い 4

竹内栖鳳展示室では、「EDO↔TOKYO 版画江戸百景」の期間中(6/20 – 8/23)、

「竹内栖鳳 × 岡本東洋 日本画と写真の出会い」という企画展を行っています。

当館が所蔵する竹内栖鳳の作品や栖鳳が収集した写真資料を通じて、作画における栖鳳の写真の用い方について探るとともに、福田平八郎や川端龍子をはじめ多くの画家に作画の参考となる写真を提供した写真家、岡本東洋の活動の一端を紹介するものです。

ブログでは、この企画展を4回に分けて紹介していて、今回は最終回となります。

それでは、竹内栖鳳×岡本東洋 日本画と写真の出会い4 「画家が参考にした岡本東洋の写真」(後編)です。

竹内栖鳳

竹内栖鳳

岡本東洋

岡本東洋

 

 

 

 

 

 

 

 

 

略年表 ―栖鳳と東洋と画家の写真利用を中心として―

1839年(天保10)ダゲレオタイプの写真が発明される。
1853年(嘉永6)アドルフ ブラウン『装飾のための花の習作集成』刊行。
1860年(万延元)頃~上野彦馬ら写真館を開く。島霞谷ら写真利用して油絵を描く。
1864年(元治元)竹内栖鳳、京都の料亭「亀政」で生まれる。
1872年(明治5)壬申検査(古社時の宝物調査が行われ、多数の文化財が撮影される)
1887年(明治20)マイブリッジ『動物の運動―電動写真による動物の運動の連続形態の研究』刊行。
1888年(明治21)写真フィルム、ロールフィルム登場。浅井忠、市販の写真を参考に《春畝》(明治美術会第一回出品。重要文化財 東京国立博物館蔵)制作。
1891年(明治24)岡本東洋、京都のゆのし屋の次男として誕生。
1892
年(明治25)竹内栖鳳、《猫児負暄》に写真利用。京都市美術工芸品展出品。
1897年(明治30)~ 川井写真館、『動物写真帖』『植物写真帖』発刊。
1901年(明治34)竹内栖鳳、写真を参考に《スエズ景色》(関西美術会第1回展)制作。
1903年(明治36)竹内栖鳳、写真を参考に《羅馬之図》( 第5回内国勧業博覧会)制作。
1909年(明治42)竹内栖鳳、舞子を撮影。《アレ夕立に》(第三回文展出品、髙島屋史料館蔵)制作。藤田徳太郎『百花写真帖』石敢堂 刊行。
1917年(大正6)岡本東洋、このころゆのし屋を継ぐ。京都の風景など撮影開始。
1921年(大正10)写真雑誌『ライト』刊行。岡本東洋参画。
1924年(大正13)竹内栖鳳、猫撮影。《班猫》(淡交会第一回展出品 山種美術館蔵 重要文化財)制作。「京都写真連盟」結成 岡本東洋参加
1925年(大正14)岡本東洋、ゆのし屋をたたんで写真家として独立か。「光画研究所」設立。
1927年(昭和2)岡本東洋、中京区釜座から左京区下鴨へ転居。写真家として本格的に始動か。竹内栖鳳、このころから岡本東洋に撮影を依頼。
1928年(昭和3)岡本東洋、京都市より昭和天皇の御大典の儀の撮影依頼される。
1930年(昭和5)岡本東洋、『花鳥写真図鑑』平凡社 発刊。
1933年(昭和8)岡本東洋、『東洋花鳥写真集』芸艸堂 発刊。
1936年(昭和11)岡本東洋、『美術写真大成』平凡社 発刊。
1940年(昭和15)岡本東洋、「京都写真文化協会」設立。市観光課協賛で撮影会や展覧会開催。写真集『京都』発刊。
1942年(昭和17)竹内栖鳳没。
1967年(昭和42)岡本東洋『京都を観る』粟谷真美館 発刊。
1968年(昭和43)岡本東洋没。

画家が写真を利用する歴史はほぼ写真の発生と同時に始まります。そもそもダゲレオタイプの発明者L.J.M.ダゲール(1787-1851)は画家でしたし、日本でも最初期の写真家の下岡蓮杖(1823-1914)や清水東谷(1841-1907)は狩野派の絵師、島霞谷(1827-1870)は椿椿山の画塾 琢華堂の出身といわれています。岡本東洋も17歳の時に洋画家鹿子木孟郎に弟子入りを志願しています(断られましたが・・・)。

このように画家と写真家の親和性はよく、画家が資料として利用するための写真集も早くから発刊されていました。1897年(明治30)には東京の川井景一が「動物写真帖」を発刊し、その緒言の冒頭に「一、本帖は画家および彫刻家の資料に供せんがために著わせしもの」(適宜現代仮名遣いに改めた)とうたっています。東洋も「画家そのほか約250人の”お得意”」に写真を提供(夕刊京都1968年(昭和43)1月21日)し、1930年(昭和5)にそれらの写真の一部をまとめて出版しました。「花鳥写真図鑑1」(平凡社1930)の序に「画材たらしむべく花鳥の生態を撮影(中略)幸い画伯諸先輩の垂教鞭撻によって、これまで撮影し得た花鳥写真を、今度、図鑑として広く公表する機運に遭遇しました」(適宜現代仮名遣いに改めた)と東洋は記しています。

展覧会場では、『東洋花鳥写真集』(芸艸堂1933)の「桜」と「鹿」から各6点展示しています。

東洋花鳥写真集 (2)東洋花鳥写真集 (4)東洋花鳥写真集 (6)東洋花鳥写真集 (8)東洋花鳥写真集 (11)東洋花鳥写真集 (13)東洋花鳥写真集 (20)東洋花鳥写真集 (22)東洋花鳥写真集 (24)東洋花鳥写真集 (26)東洋花鳥写真集 (28)東洋花鳥写真集 (30)

岡本東洋は、動植物の写真集を美術家向けに刊行しました。代表的なものとして『花鳥写真図鑑』(平凡社1930)、『東洋花鳥写真集』(芸艸堂1933)、『美術写真大成』(平凡社1936)が挙げられますが、中でも『東洋花鳥写真集』は全75集、計1500点の写真が掲載された大部のもので、画家が使用しやすいように製本せずに、印刷した写真を封筒に入れて刊行するという工夫も凝らされ、川端龍子(1885-1966)をはじめとした多くの画家たちから送られた賛辞がこの写真集に記されています。

次に『花鳥写真図鑑』や『東洋花鳥写真集』に掲載されている写真です。展示会場では以下の12点を展示しています。これらは写真評論家の福島辰夫(1928-2017)氏が1986年(昭和61)に一括して入手したものの一部ですが、東洋の手元から、いつ、どのように頒布されたかについては分かっていません。

岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0021岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0032岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0078岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0104岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0157岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0208岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0230岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0339岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0354岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0380岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0419岡本東洋写真 福島辰夫旧蔵 jpegmedium_0431

東洋が自分の写真を評して「私共が見る眼そのままの姿に自然を見て、そして写したものが私の写真であります」(「美術写真大成」平凡社月報第1号『私の写真』(1))と語っているように、写真の機能による作為を極力排して自然のままに切り取られた写真となっています。

東洋についてのまとまった研究は中川馨「動物・植物写真と日本近代絵画」(思文閣出版2012)の中に記されていて、この原稿を書くにあたっても随分参考にさせていただきました。しかし活動歴、出品歴、受賞歴ほか現段階では分からないことが多く、岡本東洋という写真家についてはまだ研究の端緒にあるといえます。先日ご遺族から遺作や日記等を見せていただいたのですが、写真に施されたソラリゼーションや染色の技術はとても高度でしたし、撮影や現像に関する技術技法が記されたノートには興味深いテーマが詳細に記されていて目を見張るものでした。今後の研究進展が俟たれます。

出品作品の紹介は以上です。いずれも一般的にはなかなか直接目にすることのできない作品ばかりですので、この機会にぜひご覧ください。

青木隆幸