改修工事のため休館中

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海の見える杜美術館は、施設改修工事のため休館いたしております。
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開園時間:10:00~20:00
休  園  日:2月11日、5月7日、11月11日
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火気厳禁、動植物の採取、迷惑行為等。

西山翠嶂《女役者》その2

(1からの続き)

では、実際に私が見つけてきた資料等を見ていただきたいと思います。

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左が歴彩館にてコピーさせていただいた、高島屋『現代名家風俗画集』の翠嶂のページ。右が当館所蔵の《女役者》。

比較してみると本当によく似ているのですが、決定的に違うのが、背景の幕の紋、そして印章(落款、つまり署名のところに押されている印鑑)です。まったく別の作品です。お恥ずかしながら、最初この図録を手にしたときは完全に「おお一緒だ一緒だ」と思っており、「あれっ…え…うそ…違う…?」と気づくまでに3~4日かかりました。思い込みとはかように怖いものです。落丁に気づいたとき以上の驚きが私を包みました。こちらもお察しいただければ幸いです。

 

では当館の作品はニセモノなのか?という疑問がわいてきてしまいますが、近代の日本画の世界では展覧会に出したものを画家自身がコピーすることは結構多く見られます。例えば当館所蔵の北野恒富の《阿波踊り》、榊原紫峰の《獅子》なども展覧会に出したものを縮小して描いたものです。おそらく、求めに応じて描いたのでしょう。

 

驚愕の発見の日から自分を納得させること数ヶ月、先日また別の資料を手にすることができました。西山翠嶂が自ら3年かけて発行した『翠嶂作品集』(西山翠嶂著、瑠璃社、大正10(1921)年)です。

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左は、《翠嶂作品集》に収録されていた女役者(木版)です。こちらは幕の紋も印鑑の形もほぼ一致。色や紋の微妙な部分が違うのは、木版で完全なコピーではないことが原因です。違う紋を背負う2つの《女役者》が翠嶂の手によって描かれたことは間違いないと、資料でも証明されました。

この《翠嶂作品集》は、帝展出品作などの力作を収録していることから、こちらの《女役者》も、翠嶂にとってまずまずの自信作だったと見られます。なんとなく一安心。

 

さて、では、描かれた女役者とはいったい誰なのか。この疑問も現在まだ回答が出ておりません。はじめ私は、紋があるということは、特定の誰であるか当時見る人が見ればわかったのだろうと想像していました。しかし2作品でまったく紋を変えてしまったという事実がここで判明しました。誰であるのかは問題ではなかったということになるのでしょうか。もう少し、演劇史のほうを調べる必要があるかもしれません。

 

結局、わかったことは以下の2点。

1つめは、翠嶂は高島屋の展覧会に出品したものと、『翠嶂作品集』に掲載したもの、少なくとも2つの《女役者》を描いたということ。

そして2つめは、当館の作品は『翠嶂作品集』に掲載された《女役者》であること。

 

調べていくうちにかえって疑問点も増えました。でも研究や調査とは、きっとそんなもの。簡単にはいかないということを改めて思い知らされました。

 

このように学芸員の喜び悲しみを織り交ぜて調査中の翠嶂作品は、2018年の秋に西山翠嶂展の中でご紹介する予定です。ご興味を持っていただけますと大変うれしく存じます。

 

主要参考文献

高木多喜男「西山翠嶂の人と画業に関する基礎調査(年譜私案)」『京都文化博物館紀要 朱雀』第5集、1992年

『現代名家風俗画集』、高島屋飯田呉服貿易店 発行、1912年

西山翠嶂『翠嶂作品集』、瑠璃社 発行、1921年

『京都府百年の年表 8 美術工芸編』京都府立総合資料館 編、京都府 発行、1970年

※本記事での図版の掲載にあたり、京都府立京都学・歴彩館様と高島屋史料館様にご協力をいただきました。感謝申し上げます。

森下麻衣子

 

西山翠嶂《女役者》その1

今回は、当館所蔵の西山翠嶂作品《女役者》についてお話しいたします。しかしこれは皆様に作品解説をしようという記事ではございません。ただ、話を聞いていただきたい、そんな気持ちをつづってみました。長いです。

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大きな紋の入った幕の前に立つ女性。着崩した格子柄の着物、余裕のあるしぐさが非常にかっこいいですね。作者自身がつけた「女役者」というタイトルが示すとおり、おそらくこの人は女性の歌舞伎役者でしょう。現在、歌舞伎を演じるのは男性のみですが、江戸時代末から大正時代の頃にかけて、女性も演じており、彼女たちは女役者と呼ばれていたのです。女団州と呼ばれた市川粂八などが最も有名でしょうか。粂八は鏑木清方によって肖像が描かれていますので、ご存知の方も多いかもしれませんね。

さて、彼女が誰で、この絵がいつ頃描かれたものなのかを考える前に、作者についてお話しておきたいと思います。

描いた西山翠嶂(1879-1958)は、竹内栖鳳の高弟で、娘婿でもありました。一時期、洋画家 浅井忠にも師事し、人物デッサンを学びました。風景や動植物が多い栖鳳と違い、人物画の大作を多く描き、文展や帝展などに出品しています。大正から昭和にかけて重鎮として京都の画壇を支え、自身が主宰する画塾・青甲社からは、秋野不矩・上村松篁、中村大三郎ら重要な画家を輩出しています。

そんな翠嶂ですが、落款や印章などのデータの蓄積はまだ多くはなく、文展・帝展に出品した代表作以外は年代の特定などが難しいのが現状です。この絵について調べたいと思ったとき、どうすればいいのか。まずやはり先人の研究に頼るほかありません。

幸いにも、高木多喜夫氏が研究成果として「西山翠嶂の人と画業に関する基礎調査(年譜私案)」(『京都文化博物館研究紀要「朱雀」第5集』、1992年発行)を残されています。これは、図書や雑誌ほか膨大な資料を丹念に整理されたもので、私は翠嶂を調べる上でこれをいつも頼りにしています。その中に、見逃せない箇所がありました。

 

明治45(1912)年6月1日、(翠嶂)33歳 女役者 現代名家風俗画集(高島屋飯田橋呉服貿易店 明治45(1912)年6月5日)に掲載。京都高島屋呉服店の新築落成記念現代名家風俗画展に出品。出典『高島屋美術部五十年史』(掲載にあたり、年号の表記など適宜変えました)

 

これを見つけた私はひそかに大喜びしました。当館の《女役者》は高島屋の展覧会に出たものだと確信して…。作品の出品歴がわかると何がよいかといいますと、素性がわかるということももちろん、やはり展覧会に出すということはそれだけ力を入れて描いているという想像もできるわけで、その力作に画家がどのような苦心・工夫をしたのか、調べがいも出てくるのです。また別の本を参照すると、この展覧会には栖鳳の名画《アレ夕立に》も特別に陳列されていた、という興味深い事実もわかりました。

調べで「現代名家風俗画展」の明治45年当時の図録が図書館や資料館に残されているとわかってさらに有頂天になった私は、資料を保存している図書館に突撃しました。

とある図書館へ飛び込んでカウンターで恐る恐る「すいません、『現代名家風俗画集』を見せてください」とお願いし(貴重書なので開架ではないのですね)、司書の方から本を手渡され、私はドキドキしながら年月の蓄積を感じるその本のページを丁寧にめくりました。そして…

 

「あれ?ない…ないよ…?」

 

そう、あろうことか落丁です。それも翠嶂のページだけが。なんとも驚くことではありませんか。私の落胆をお察しいただければ幸いです。

そして次の機会を求めて待つこと数ヶ月。オープンしたての京都府立京都学・歴彩館にて、とうとう図録を手にすることができました。そして、確認することができたのです。

 

当館の《女役者》は高島屋呉服店現代名家風俗画展出品の《女役者》ではないということを…。

 

続きます。

森下麻衣子

夏の珍客

暑い日が続いています。皆様いかがお過ごしでしょうか。
いつもは植物がメインの遊歩道のご紹介ですが、今回のテーマは虫です。

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野生のミヤマクワガタがあらわれた!

 

学芸の本棚の上に乗せられたところ。もちろん事務所に単身で侵入してきたのではなく、遊歩道を歩いていた警備課の人が捕まえて自慢しに連れてきたのです。

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都会っ子学芸Tの手の上でなついている(ように見える)ミヤマクワガタ。

私も手に乗せさせてもらいました。かわいかったです。あまり触っていると情が移るのでほどほどにしましたが。
彼のおかげでひととき事務所が(というより学芸員数名が)活気づきました。
クワガタの前ではみんな心が少年少女に戻る。そう確信した、とある夏の日でした。

西南戦争錦絵「奇星之実説」

 

奇星之実説1
楊州齋周延「奇星之実説」
紙本木版多色刷 37.9×25.5cm 1877年(明治10)8月30日届

当館の主要なコレクションの一つである西南戦争錦絵は、西南戦争の最中にリアルタイムで出版された錦絵で、報道・芸術・娯楽の3つの面を併せ持ち、当時の大衆から熱狂的に受け入れられました。

今回は西南戦争錦絵の中から、西郷星(さいごうぼし)に関連した「奇星之実説」という作品をご紹介します。

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陸軍大将の官服を着た西郷隆盛が、威厳のある姿で画面に大きく描かれています。

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画面の左上、西郷の目線の先には夜空に煌々と輝く星が描かれています。

この星は当時庶民から“西郷星”と呼ばれて親しまれたものです。

1877(明治10)年の8月、西南戦争も佳境に入り官軍側の勝利がほぼ確実となった頃、東南の空に赤みを帯びた色で煌々と輝く星が現れます。当時の人々は、突如として現れた奇星の存在に大変驚いたといいます。

実は奇星の正体は、この年の8月から11月にかけて地球に大接近した火星だったのですが、当時の庶民は火星の存在など知る由もありませんでした。

やがて、遠眼鏡(とおめがね)でこの星を覗くと、星の中に官服姿の西郷さんが見えるという噂が流れ、この星は西郷星と呼ばれるようになりました。この噂は大坂日報(8月3日付)や東京繪入新聞(8月11日付)などの新聞にも載ったことから瞬く間に全国へ広まり、夜になると何人もの人が物干し台や戸外に出て、星の中に西郷さんの姿を一目見ようと夜空を仰いだそうです。そして庶民は夜空にこの星を見つけると、西南戦争で敗れた西郷さんの死を悼み、各々に願い事をたてたそうです。

また、この騒動に便乗し、西郷星関連の錦絵が何枚も制作されました。

現存する作例を見る限り、西郷星を題材とした錦絵は、星の中に官服姿で座る西郷とそれを仰ぎ見て願い事をたてる群衆、という構図のものがほとんどです。

俗称西郷星之図
© The Trustees of the British Museum
梅堂国政「鹿児島各県西南珍聞第七号 俗称西郷星之図」
紙本木版多色刷 1877年(明治10)8月23日届 大英博物館所蔵

しかし今回紹介する「奇星之実説」は、画面の大部分を官服姿の西郷に割き、星は画面の左上に小さく描かれるのみです。また、民衆の姿なども描かれていません。この「奇星之実説」は、タイトルでもわかる通り、西郷星の正体に焦点をあてたもので、西郷星関連の錦絵では一線を画した作品と考えられます。

錦絵の釈文中には、「奇星の正体は15~17年周期で地球に大接近する火星である」という当時の東京大学教授B・ウィ・ウィータル氏の論説が載っています。

ウィータル氏の発表によって奇星の正体は火星であると判明しましたが、それでも尚、多くの庶民はこの星を西郷星と信じてやまず、この星に願い事をたてたそうです。それだけ庶民が西郷さんの事を敬愛していたということでしょう。

さて15~17年周期で地球に大接近する火星ですが、次に大接近するのはなんと来年の7月だそうです。この時は距離にして5759万kmまで近づくと考えられています。140年前の火星の最接近時の距離が5630万kmであったことから、ほぼ同じ大きさで見えると思われます。次の火星の大接近時には、当時の庶民と同じように西郷さんに思いを馳せてみてはどうでしょうか。

大内直輝

※西南戦争錦絵については現在鋭意研究中で美術館リニューアル後に展示する予定です。